︹研究ノート︺
弘
前藩 の賞典 禄
につ
いて ( 上
)
本稿は明治二年(一八六九)十二月から翌三年六月にかけて行われた
弘前藩の賞典禄について、その対象者全員をリストアップすることによ
‑、掌典禄の実施規模と特色を解明し、あわせて広‑研究者の共有史料
とすることを目的とする。
さて、弘前藩の賞典禄を分析する前に'全国における賞典禄の実施概
況について言及しておきたい。周知の様に戊辰戟争が終結したのは明治
二年五月の箱館戟争終了によってであるが、その後勝利をおさめた新政
府が第一に着手すべき政策課題のひとつに論功行賞である賞典禄の給付
があった。その計画は戦争の帰趨が明らかとなった明治元年中より新政
府内で論議されていたが、この時点では相当に大規模な内容であ‑、例
えば維新に大功を残した三条実美・岩倉具視・薩摩藩・長州藩には十万
石を与え'大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・大村益次郎らには万石以
上を与え'長‑藩昇に列する、等々というものであった。ところがいま
だ財政基盤を確立できないでいた新政府にこれを実現するだけの余裕は
な‑'結局明治二年一月の朝議では賞典禄高の総計を百万石と決定し'
内八十万石は戟功賞典、残‑二十万石はペリ
ー
来航の嘉永六年(一八六≡)以来'国事に奔走した草葬の志士に対する復古賞典に 坂本弄夫
充てられることとされた。
こうして新政府は明治二年六月に戊辰戦争賞典を'九月に箱館賞典お
よび復古掌典を発表したが、その際'賞典禄の支給方式は封建的土地所
有制を強化しないように裏米(現米)・現金支給が原則とされた。実際
の支給高は裏米は総計九十万石余で、その内永世禄は約八一万石、その
他は終身禄や三力年限給付であった。また給付対象者は'諸侯が九一%
と圧倒的多数を占め、宮堂上や官軍上層部は少数に抑制された。そのた
め前述した官軍関係への賞典禄も大幅に後退Lt例えば西郷隆盛には二
〇〇〇石、大村益次郎には一五〇〇石が支給されたに過ぎなかった。さ
らに諸藩の藩士に対する賞典禄は藩主に給付された賞典禄から分与され
ることとされ、その分配方法は各藩に一任されたのである。維新戟争に
身を投じた諸士の功賞欲求はいうまでもな‑高かったと思われるが、諸
侯に与えられた掌典禄高は一概に低いものであ‑、とても諸士の要求に
応え得るものではなかった。その典型例が薩摩藩であった。薩摩藩では
約七〇〇〇名の将士が戊辰戦争へ出兵していたが、一部の者へ大禄を与
えることができなかったためt.ほぼ兵士にたいして均等に戟功禄が与え
られた。その結果、例えば当時単砲令官の任務にあった大山巌が得た賞
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典禄はわずかに裏米人石に過ぎず'これでは到底満足のい‑ものではな
かったであろう。同じ様なことは長州藩についても該当した。同藩の戟
力中核となったのは奇兵隊であったが'あまりに低い賞典禄のため'隊
員の中には自己の戟功を過大に主張して賞典禄の増額を藩に歎願する者
が絶えず'やがて奇兵隊は薄利秩序を乱すものとして弾圧され'深刻な(‑)藩内騒擾に発展していったのである。ともあれ'新政府の賞典禄下賜
の原則は第一には土地給付ではな‑裏米・現金給付で行うこと、第二に
はたとえ配給高が低‑とも'不満を高じさせることがないように'功績
のあった者には均等的に何らかの給付を行うことの二点に要約できよう。
ではこれに対して弘前藩の賞典禄支給の在‑方はどうであったのだろ
うか。前述したように藩士に対する給付は藩主が受けた賞典禄から分醍つぐあきらされる規定であったから、まず藩主津軽承昭が得た賞典禄をあげると'
明治二年六月二日に東北戟争に関わる戟功としてl万石が永世禄として
給与され'ついで同年九月十四日には箱館戟争の軍功としてl万石が1‑〜≡ヵ年限で下賜された。そして藩士たちへの賞典禄は東北戟争永世禄
一万石を二ツ半成(二五〇〇石)として'その中から分給されることと(3)なった。
藩士たちへの分配は明治二年十二月二十五日から二十九日にかけて城
内で行われたが'表にもあるように翌年二月と六月に再度調査の上'下
賜された例もあった。後者の場合は後日の調査でリストアップされた藩
士や'農民・町民・郷士・職人・町医などへの配給であるが'これは農
町民層にまで調査範囲を広げ'実際の戦闘に参加した者や出張兵員には
些少であろうとも慰労を与えるとの方針の表れである。加えてそれを実 施させた事情には明治二年の凶作と'同年六月から断行が開始された港
政改革による家禄削減があった。つまり'明治二年は冷害に陥‑'領内
平均損耗七四%にものぼった。藩ではこれに対して臨時の扶助米を配袷
していったが'戊辰戦争の戟費負担に苦しむ藩では十分な手当てをなす
ことができず'在方を中心とした貧農層は飢餓の危機に直面した
。
また'藩政改革は新政府が主導する藩治職制に対応するもので'大きなもので
は明治二年・同年十一月・翌三年六月の三次が行われ'そのつど新政府
からの強力な指導により'薄利の冗員削減と家禄削減が断行された。そ
の結果'最終的には軽禄の諸士の中には家計が困窮の極みに達する者ち(4)出現したのである。明治三年に行われた賞典禄下賜はこうした藩士・
農町民層の経済的逼迫を少しでも緩和しょうとする目的があったと思わ
れる。しかし'例えば箱館戦争に従軍した夫卒だけでも総数五二六一名(Lrl)と報告されてお‑'財政難に苦しむ藩はそれら全員の要求に応えられ
た訳ではなかった。それでも藩としては調査の可能なものは最大限賞輿
給付の対象としていったのである。
本稿に表としてまとめた素材史料は弘前市立図書館蔵人木橋文庫「弘
前藩記事」第四一巻
‑
第四五巻所収の「賞典調」である。これはすでに(6)筆者が翻刻Lt活字化しているが、全ての人員を表にまとめて利用の促に供したいと常々思っていた。小稿を機に表を掲載して総合的な考察
を試みたい。各表は項目毎にまとめたがその内訳は次の通‑である。
(表
‑
)隊長・軍監・参軍勲功調(明治二年十二月実施)(表2
)逸等功上功の部(右同)(表3
)中功・下功の部(右同)38
(表
4) 戟 死 質 功 の 部 (右 同 ) (表
5) 各 地 出 張 隊 員 慰 労 の 部 (右 同 ) (表
6) 戦 死 ・ 負 傷 者 手 当 て の 部 (右 同 ) (表
7) 蛸 壷 司 ・ 蛸 壷 方 ・ 営 造 方 ・ 器 械 方 ・ 礼 察 方 ・ 見 聞 方 の 部 (右
同)
(表 8 ) 重 臣 ・ 各 地 周 旋 方 ・ 輔 重 方 ・ 探 索 方 等 の 部 (右 同 ) (表 9 ) 副 長 ・ 参 軍 ・ 弾 薬 方 ・ 諸 職 人 ・ 雑 兵 ・ 医 師 等 慰 労 調 (明 治 一二 年
二 月 四 日 実 施 ) (表 10 ) 明 治 三 年 六 月 一 日 賞 典 ・ 慰 労 詞
各 表 に 記 載 し た 内 容 を 挙 げ る と 、 賞 典 禄 を 下 賜 さ れ た 者 の 氏 名 ・ 賞 輿
禄 の 種 類 (現 米 ・ 金 ・ 銀 ・ 銭 ・ 扶 持 ・ 物 品 ・ 昇 進 ・ 拝 謁 な ど ) と 、 現 米
に つ い て は 永 世 禄 、 戦 死 ・ 負 傷 の 別 や 賞 典 下 賜 の 主 な 戦 功 、 士 卒 や 庶 民 、
さ ら に 当 主 ・ 長 男 ・ 次 三 男 や 傍 系 親 族 の 別 な ど で あ る 。 ま た 、 役 職 も 記
載 し て お い た が 、 こ れ は 「賞 典 調 」 に 記 載 さ れ て い る も の で あ り 、 本 来
は 「分 限 帳 」 な ど に よ り 藩 庁 機 構 の 正 式 な 役 職 名 を 記 す べ き で あ ろ う 。
し か し 、 農 町 民 層 六 八
〇名 を 除 外 し て も 総 勢 一 八 五
〇名 に の ぼ る 士 卒 を
悉 皆 調 査 す る に は 膨 大 な 時 間 が 必 要 で あ り ' こ の 点 に つ い て は 後 日 の 課
題 と せ ざ る を 得 な か っ た 。
さ て 、 (衣 ‑ ) ‑ (表 10 ) を ま と め た も の が (弘 前 藩 賞 典 禄 一 覧 表 ) (以 下 ( 一 覧 表 ) と 略 記 ) で あ る が 、 こ れ を 見 る と 賞 典 禄 を 給 付 さ れ た
者 の 総 数 は 二 五 三
〇名 (原 史 料 の 重 複 と 思 わ れ る 一 名 は 除 外 し た ) 、 給
付 件 数 二 六 四 一 件 に の ぼ る 。 こ の 内 、 圧 倒 的 な 多 数 を 占 め る の は 金 給 に
よ る も の で 、 銀 や 銭 (鳥 目 ) に よ る 支 給 を 含 め る と そ の 件 数 は 二 二 七 T ⁚ l 件 で 、 全 体 の 八 六 % に も な る 。 い ま 金 l
OO疋 を 金 一 歩 と 換 算 す る と 、
金 給 総 額 は 金 一 万 八 二 二 二 両 ・ 金 二 枚 ・ 銀 一 八
〇匁 ・ 銭 二 七 九 七 貰 六
〇文 目 と な る 。 そ し て 金 給 の 平 均 値 を 計 算 し て み る と ' 両 は 1 人 当 た ‑ 1
四 ・ 五 両 、 疋 は 二 二 七 両 、 銭 は 三 貰 八 四 七 文 目 で あ ‑ 、 疋 と 銭 で 支 給
さ れ た 者 は 概 ね 低 額 で 、 こ れ で は ま さ に 些 少 で 、 慰 労 金 程 度 の 意 味 以 上
を な さ な い 。 両 と な る と や や 増 額 す る も の の 、 そ れ も 長 期 の 戦 役 の 労 普
に 見 合 う も の で は な か っ た で あ ろ う 。 勿 論 こ う し た 値 は あ ‑ ま で 平 均 値
で あ り 、 特 に 両 の 部 門 で は 個 別 に は 金 二 歩 程 度 か ら 二 五
〇両 ま で 相 当 の
差 が あ り 、 前 線 で 指 揮 を と っ た 大 隊 長 や 司 令 士 な ど 、 上 級 士 族 ほ ど 給 付
額 は 高 く な っ て い る 。
次 に 票 米 (現 米 ) 給 付 は 二 四 四 件 (全 体 の 九 ・三 % ) ・ 五
〇二 五 俵 一
斗 四 升 (二
〇一〇・ 一 四 石 ) で あ り 、 そ の 内 永 世 禄 は 一 五 二 件 、 一 〇 七
〇
・ 八 石 と な っ て い る 。 こ れ も 各 表 を 子 細 に 見 る と 戟 死 の 代 償 と し て 藩
士 に 与 え ら れ た 永 世 禄 五
〇俵 か ら 、 郷 夫 と し て 戟 死 し た 農 民 に 対 す る 祭
米 五 俵 ま で 格 差 が あ る も の の 、 l 人 当 た り 平 均 は 八 ・ 二 四 石 で 、 こ れ も
金 給 と 同 様 に 微 々 た る 額 に と ど ま っ て い る 。 裏 米 給 付 の 理 由 は 戦 死 六 六
名 ・ 負 傷 九 六 名 と い う 犠 牲 に よ る 所 が 大 で あ る が 、 こ の 数 値 を 見 る 限 り
裏 米 給 付 も 十 分 に 将 士 の 賞 典 欲 求 に 応 じ て い な い こ と は 明 確 で あ ろ う 。
( 一 覧 表 ) で は 右 の 総 計 を 「士 族 当 主 」 (六 二 五 名 ) ・ 「士 族 長 男 」 ( 一
七 九 名 ) ・ 「士 族 庶 系 」 ( 二 八 二 名 、 次 三 男 や 叔 父 な ど の 傍 系 親 族 を こ
こ に ま と め た ) ・ 「卒 族 」 (三 四 二 名 ) ・ 「農 民 ・ 町 民 ・ 小 者 ・ 猟 師 ・
職 人 ・ 医 師 」 (六 八
〇名 ) ・ 「不 明 」 (五 二 二 名 ) に 分 類 し て い る が 、 こ
の 内 「不 明 」 と は 「賞 典 調 」 に た だ 「銃 隊 員 」 と か 「〜 (隊 長 名 ) 隊
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中 」 と あ る の み で 、 分 類 が 不 可 能 な も の で あ り ' 隊 長 名 や 戟 功 の 記 載 内
容 か ら 推 測 す れ ば 、 こ れ は 大 砲 隊 と し て 組 織 さ れ た 足 軽 砲 隊 ' お よ び 戊
辰 戦 争 時 の 軍 制 改 革 で 生 ま れ た 「 二 等 銃 隊 」 (正 規 の 藩 兵 の 他 に ' 藩 士
の 子 弟 を 広 ‑ 銃 砲 隊 と し て 組 織 し た 戟 力 で ' 戦 後 も 「 四 等 銃 隊 」 ・ お お つ つL J]. 「煩 隊 の 」 名 で 藩 軍 事 力 と し て 残 さ れ た ) に 当 た る も の で あ ろ う 。 こ の
五 二 二 名 と い う 人 数 は 決 し て 無 視 で き る も の で は な い が ' 彼 ら に 与 え ら
れ た 賞 典 禄 の 平 均 は 金 三 ・ 七 三 両 ' 銭 三 ・ 一 五 貫 文 と 小 額 で ' 次 の 文 で
述 べ る 特 色 に 大 き な 影 響 を も た ら す も の で は な い の で ' 今 は こ れ を 留 保
し て 考 察 を 進 め る こ と と す る 。
( l 覧 表 ) の 他 の 五 項 目 に 分 類 し た 階 層 の 中 で 一 番 人 数 ・ 件 数 と も に
多 い の は 「農 町 民 」 層 で あ る が ' こ れ は 九 二 ・ 五 % が 金 給 に よ る も の で '
平 均 値 は 金 四 二 ハ 四 両 ' 銭 四 貫 一
〇文 自 余 で ' や は ‑ 低 額 で あ る 。 現 米
給 付 に し て も 同 様 で あ ‑ ' そ の 平 均 値 は 二 ・ 八 二 石 余 に 過 ぎ な い 。 彼 ら
は 各 地 の 戟 場 で 警 備 や 兵 端 作 業 ・ 負 傷 者 の 手 当 て と い っ た 任 務 に 従 事 さ
せ ら れ ' な か に は 戟 死 六 名 ' 負 傷 一 六 名 と の 犠 牲 を 出 し て い る が へ そ の
代 償 が 年 に 五 俵 の 祭 米 で は 到 底 命 の 代 価 と な ‑ え な か っ た の は い う ま で
も な い 。
こ の よ う な 硯 米 ・ 金 給 の 額 は 「卒 族 」 ・ 「士 族 庶 系 」 ・ 「士 族 長 男 」
層 と な る に つ れ て 増 加 傾 向 を 示 し て い る こ と が 判 明 す る 。 そ れ ぞ れ の 平
均 値 を 挙 げ る と 次 の よ う に な る 。 「卒 族 」 は 現 米 五 二 一四 石 ' 金 一 五 ・
一 両 ' 銭 三 貫 六 四 八 文 目 へ 「士 族 庶 系 」 は 現 米 七 ・
〇九 石 ' 金 一 八 ・ 二
両 ' 「士 族 長 男 」 は 現 米 五 ・ 八 七 石 ' 金 二 三 ・ 九 両 で あ る 。 こ の 三 者 は
前 述 し た よ う に 砲 銃 隊 ・ 二 等 銃 隊 と し て 戊 辰 戟 争 中 は 最 激 戦 地 に 派 遣 さ れ て い っ た が ' 特 に 士 族 長 男 や 庶 系 は 当 主 層 よ ‑ 年 齢 が 若 い た め 兵 員 素
材 と し て 優 れ て お ‑ ' 過 酷 な 戟 線 に も よ ‑ 耐 え ぬ い て い っ た 。 三 者 合 わ
せ て 戦 死 五 一 名 ・ 負 傷 五 九 名 と い う 数 字 は こ の 事 実 を 端 的 に 示 し て い る 。
し か し そ れ で も 現 米 給 付 は 五 石 台 〜 七 石 台 に と ど ま っ て い る の で あ る 0
た だ 現 米 支 給 額 が 低 い 理 由 は ' ま だ 家 督 を 継 ぐ 前 の 長 男 や 庶 系 や 軽 禄 の
卒 族 に 対 し て 高 禄 の 現 米 給 付 を 行 え ば 、 封 建 家 臣 団 と し て の 家 禄 体 制 に
不 均 衡 が 生 じ て し ま う と の 配 慮 が 働 い た た め で も あ ろ う 。 よ っ て 藩 は 彼
ら に は 金 給 に よ ‑ そ の 労 に 報 い よ う と し た の で あ る 。 さ ら に 金 給 と す れ
ば 永 世 禄 や 終 身 禄 と 異 な り ' 一 時 的 な 財 政 負 担 で 済 む と い う 利 点 も あ っ
た と 思 わ れ る 。
こ れ に 対 し て 「士 族 当 主 」 層 は 現 米 給 付 の 平 均 が 二 一 二 一四 石 と 増 加
し ' 金 給 は 一 六 両 弱 (両 の 部 と 疋 の 部 を 合 計 L t 件 数 で 平 均 化 し た 数
値 ) で あ ‑ ' 長 男 や 庶 系 と 比 較 し て 低 下 し て い る 。 つ ま ‑ こ の 事 実 に 賞
典 欲 求 の 中 核 が 永 世 禄 ・ 終 身 禄 獲 得 で あ っ た こ と が 現 れ て お ‑ ' 藩 は 一
家 を 代 表 す る 当 主 層 に 利 益 享 受 を 与 え て い っ た の で あ る 。 加 え て 永 世 禄
は 藩 治 職 制 に 伴 う 藩 政 改 革 で も 家 禄 削 減 の 対 象 外 と さ れ た L t 家 禄 に 上
乗 せ さ れ る 点 に お い て 後 の 秩 禄 処 分 に も 彼 ら の 利 益 と し て 作 用 し て い っ
た .。 し か し ' そ れ を 考 慮 し て も 当 主 層 の 永 世 禄 平 均 は 一
〇石 に 過 ぎ ず '
こ れ で は 全 国 的 動 向 と 同 じ よ う な 薄 禄 給 付 と か わ ‑ な い 。
以 上 ' 雑 駁 な が ら 弘 前 藩 の 賞 典 禄 給 付 の 特 色 を 整 理 す る と 次 の よ う に
な ろ う 。 第 一 に ' 給 付 は 永 世 禄 な ど の 現 米 給 付 は 極 力 抑 え ら れ ' 現 金 袷
付 が 圧 倒 的 多 数 に の は る こ と 。 特 に そ の 傾 向 は 当 然 農 民 ・ 町 民 二 牛 族 階
層 で 顕 著 で あ る こ と 。 第 二 に ' 給 付 対 象 は 調 査 の 及 ぶ 限 ‑ 拡 大 さ れ ' た
40
とえ低額であろうと'実際に戦功・功労があった者に対しては何らかの
素質が行われていることであり'これは将士の不満を高じさせないよう
にへ薄‑とも広い賞典下賜を行うとの方針の具体化である。第三は'裏
米給付は当主層に優先して与えられてお‑、それに対して長男・次三男
層は金給による素質が多数を占めていることである。ただ'これまで何
度も述べてきたように'賞典額は一概に低額であり'とても将士の欲求
を満たすものでなかったことは全国的傾向と同じであった。
各表を子細に分析すればさらに指摘できる事項があるだろうLへ各衣
および(一覧表)に不備や誤‑もあると思われるが'これらについては
今後のご指摘を頂ければ幸いである。 今後も諸史料を参照した上でより正確な賞典規模を解明してい‑必要
があろう。(4)明治二年‑三年の凶作と藩政改革については拙著「弘前藩の経済・
財政状況と賞典禄問題」(一九九〇年北方新社﹃弘前藩記事三.n
所収)を参照のことO
(5 )
﹃津軽承昭公伝﹄p
訓(6 )
拙編﹃弘前藩記事三﹄(一九九〇年北方新社)(7 )
﹃古事類苑・泉貨部﹄(昭和五九年吉川弘文館復刻版)による。(さかもと・ひさお青森県立五所川原工業高校教諭)(‑ )
以上へ全国の賞典禄の実態については下山三郎﹃近代天皇制研究序説﹄(一九七六年岩波書店)によった。
(2 )
﹃津軽承昭公伝﹄(昭和五一年歴史国書社復刻版)pE3およびp誹(3)﹃津軽承昭公伝﹄p
2‑6によれば「而シテ公ノ朝廷ヨリ賜ハリタル貴典禄一万石'此二ツ半成規石二千五百石ノ内'前書分与ノ永世終身両
賞典禄ヲ除算スル‑キハ'公ノ領受セラルベキ高ハ六百九十石五斗一
升ーナルモノナリ」と記載されている。また'同項では永世禄一五≡
八石二斗三升(一八四名)・終身禄二七一石二斗六升(九三名)・賞
金慰労金は一万三〇九三両(五八五名)としているが'これを検証し
た例はな‑、管見の限‑賞典禄の全貌が示されている史料も八木橋文
庫版「弘前藩記事」の「賞典調」以外には見当たらない。小稿で検証
した数値は﹃津軽承昭公伝﹄のものとは相当の相違を示しているが' 注