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日立製作所における自動車部品事業の歴史的発展過程

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1 はじめに 1.1 問題意識

 リーマンショック、EU 危機、円高、そし て東日本大震災と、日本経済は近年多くの困 難に直面している。それは、戦後長らく日本 経済をけん引してきた自動車産業も例外では ない。こうした危機に対応するための自動車 産業の共通した戦略は、大きく2つ挙げられ よう。1つは、ハイブリッドカーや電気自動 車などのエコカー戦略である。そしてもう1 つが、中国をはじめとする新興国市場の開拓 である。

 こうした共通性を持ちながらも、企業ごと に特徴もみられる。例えば、エコカー戦略を 見れば、日産自動車株式会社(以下、日産)

が早くから電気自動車の開発に取り組み、電 気自動車をエコカー戦略の本命としているの に対し、トヨタ自動車株式会社(以下、トヨタ)

はハイブリッドカーで先行しながらも、電気 自動車やダウサイジングエンジンの開発、あ るいは BMW との戦略的提携によるディー ゼルエンジン車の開発など、エコカーに関し ては全方位戦略をとっているという違いが見 て取れる

1

。また、新興国市場開拓に関しても、

日産が積極的に新興国市場に進出し、現地生 産を押し進めているのに対し、トヨタは、も ちろん新興国市場および現地生産を重視しつ つも、関東自動車工業株式会社を存続会社と し、セントラル自動車株式会社、トヨタ自動 車東北株式会社を吸収する形で、トヨタ自動 車東日本株式会社を設立するなど、国内生産 拠点強化を同時に図っているように見える。

 このような、日本自動車企業各社の具体的 対応の方向性は、直接的には各社の戦略に よって規定されるのであるが、戦略のみにす べてが帰せられるわけではない。各社が歴史 的に形成してきた経営管理体制の特徴が、各 社の戦略を規定している側面をとらえなけれ

日立製作所における自動車部品事業の歴史的発展過程

―自動車部品事業への参入から SAPS 導入まで―

The History of the Autoparts Enterprise in Hitachi, Ltd

牧   良 明

抄録

 本論文では、これまで研究対象として注目されてこなかった、日立製作所の自動車部品事業に着 目し、その歴史的発展過程を整理している。戦前から戦時期の自動車部品事業については、需要基 盤に関しては、自動車製造事業法許可会社 3 社への供給を行っていたこと、生産・開発基盤に関 しては、とりわけ日産との関係性が重要であったことを指摘した。こうした日産との関係性を前提 に、1970 年代に、日産と日立双方において、後補充生産システムの導入が図られ、日立においては、

SAPS という形で結実した。しかしながら、一方の日産においては、この取り組みは挫折すること となる。日産における後補充生産システムの挫折が、日立における自動車部品生産システムの発展 にどのような意味を持ったのか。この点は、今後の課題として残されている。

      

1 『日本経済新聞』2012 年 9 月 25 日付。

(2)

ばならない。

 日本企業の経営管理体制の中で、とりわけ 日本自動車企業の競争優位の源泉として注目 されてきたのが、トヨタによって戦後構築さ れたトヨタ生産システムであり、数多くの研 究がなされてきた。それは、「リーン生産シ ステム」と特徴づけられ、目指すべき生産シ ステムとして一般化された。これは、かんば んを利用した後補充生産システムであり、必 要なものを必要な時に必要なだけ生産するこ とによって、市場変動に適切に対応するとと もに、在庫を極小化することによって改善個 所を見つけ、常に生産システムの効率性を高 めることを特徴とした生産システムである。

また、その生産システムは「日本的生産シス テム」とも呼称され、日本企業に共通する 特徴的な生産システムであると議論されてき た。

 それに対して、日産は別のコンセプトの生 産システムを構築してきたとするのが、下川・

佐武編(2011)である。これは、「日本的も のづくりについては、TPS(トヨタ生産シス テム - 引用者注)が最も顕著な例として世界 的にも国内的にも称賛されているが、実はそ れはトヨタだけの専有物ではない」(ⅲ頁)

とし、日産における NPW(ニッサンプロダ クションウェイ)の実態と特徴、あるいはト ヨタ生産システムとの共通点や相違点の分析 を試みたものである

2

。こうした研究は、こ れまで日本企業を支えてきた「日本的」特徴 の把握の仕方に再考を迫ると同時に、今後の 日本企業の歩むべき方向性を考察する上でも 重要なものである。筆者の問題意識も、トヨ

タ以外の日本企業の生産システムを考察対象 とした上で、各社の生産システムの特徴を把 握し、改めて、 「日本的」特徴は何だったのか、

それは、今後のグローバル経済の中でどのよ うな強みと弱みを持つのか、を分析すること にある

3

1.2 課題設定

 ところで、日産は当初より、トヨタ生産シ ステムとは別のコンセプトで一貫して戦後の 生産システム構築を行ってきたわけではな い。下川・佐武編(2011)にもあるように、

日 産 は、1970 年 代 に、APM(Action Plate Method)として、後補充生産システムの導 入を試みている。この導入に失敗したのちに、

日産は NPW という生産システムの構築を開 始するのである。失敗した理由の 1 つとして、

後補充生産システムの構築という生産ライン の大変革を行うことができず、社内での生産 APM 体制が敷かれないまま、サプライヤー への納入 APM 導入を行ったことが挙げられ る(下川・佐武編、2011、53 頁)。ここで、

大きな論点が浮かび上がってくる。日産社内 ですら構築されていなかったシステムを、な ぜサプライヤーは受け入れたのか、それを受 け入れることによって、サプライヤー内の生 産システムはどのように変化したのか、そし て、日産がふたたび方針転換を行った、即ち APM から NPW へと舵を切ったことが、サ プライヤーにどのような影響を与えたのか、

という論点である。換言すれば、1970 年代 から 80 年代にかけての日産の後補充生産シ        2 下川(2011)は、NPW の特徴をトヨタ生産システムとの比較で以下のようにまとめている。「トヨタ生産方式 のように、必要なものを必要なだけ必要なときに生産するために、後工程が前工程を引き取って、一個流しと後補 充を行うのでなく、見込み生産を行い、より緻密な生産計画と日程計画の下で、生産リードタイムの短縮と工程在 庫の最小化を計ろうとするものである」(181 〜 182 頁)。

3 同様の問題意識から、筆者は、牧(2008)(2009a)(2009b)において、創立から 1960 年ごろまでの本田技研

工業株式会社の大量生産体制構築過程の考察を行った。

(3)

ステムの導入と挫折、そして新たな生産シス テムの構築が、サプライヤーの生産システム および日産サプライヤーシステム全体にどの ような意味をもったのか、ということである。

 こうした論点にこたえるためには、日産 とサプライヤーとの関係を、日産における APM 導入以前から捉える必要がある。そこ で、本論文では、株式会社日立製作所(以下、

日立)の電装品を中心とした自動車部品事業 の歴史的発展過程を整理することを目的とす る。なお、分析対象とする期間は、日立が自 動車部品事業に参入した 1932 年から、日産 における APM 導入期である 1980 年代まで とし、日産における APM 導入の挫折以降の 考察は今後の課題とする。

 日立を分析対象として選択したのは下記の 理由からである

4

。まず、日立は日産サプラ イヤーシステムにおける重要なサプライヤー である。日立をはじめ、日立化成工業株式会 社、日立電線株式会社、日立金属株式会社 の日立御三家など、日立グループの企業が、

日産のサプライヤーで構成される日翔会に 名を連ねている(株式会社アイアールシー、

2008)。また、本論で述べるように、日立は 戦前から長期間、日産との取引を行っており、

日産サプライヤーシステムの歴史的展開をと らえる上でも重要なサプライヤーの 1 つであ る。一方で、日立は周知の通り、企業規模と してみれば日本を代表する大企業であり、い わゆる「日産傘下」の企業ではない。そのため、

企業規模や、資本・人的関係を媒介としたい わゆる「親子」関係といった、力関係とは相

対的に無関係であると考えられる。日産とい う納入相手の生産システムの変更が、サプラ イヤーの生産システムにどのような影響を与 えたのかを考察する上では、ひとまず、こう した力関係を考察の枠組みから外し、システ ム同士の相互作用という観点からとらえるこ とが重要であると考えられる。こうした意味 で、サプライヤーとしての主体的判断が相対 的に可能であると考えられる日立の分析は意 義があると考えられる

5

 なお、本論文において主に用いている資料 は、社史や雑誌などの公刊資料である。具体 的に生産・サプライヤーシステムを分析する ためには、ヒアリングや見学といった現地調 査が必要であることは言うまでもない。その 意味で、本論文で行っていることは、本格的 な分析に入る前の予備調査の域を超え出ては いない。しかしながら、本論文で検討しよう とする、日立の自動車部品事業は既存研究に おいてほとんど触れられておらず、基本的な 歴史すら押さえられていない。そのため、公 刊資料による歴史の叙述は、必要な研究の第 一歩であると考えている。

1.3 論文の構成

 本論文の構成は以下のとおりである。

 第 2 節では、日立における第二次世界大戦 前(以下、戦前)から第二次世界大戦時期(以 下、戦時期)の自動車部品事業の歴史につい て整理している。ここでは、日立が自動車事 業に参入した際の需要基盤と、とりわけ電装        4 ここで述べた理由のほかに、今後の日産あるいは日本自動車企業の製品戦略の重要な一角を占める自動車の電動 化の動きの中で、総合電機メーカーである日立の自動車事業を考察する意義は大きいものがあると考えられる。

5 ただし、筆者はサプライヤーシステムを論じるうえで、企業規模や資本・人的関係を基盤とした企業間の力関係 の考察が不必要であると考えているわけではない。実際に構築される生産・サプライヤーシステムは、ここで課題 としている生産システム間の相互作用と、力関係を含んだ企業間の相互作用との総合として実現するからである。

こうした意味で、日産と日立との企業間関係の考察や、日産と日立との関係が、サプライヤーシステム全体の中で

どのように位置づけられるのか、といった論点は今後の大きな課題である。

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表 1 戦時下における日産及びトヨタの自動車生産台数

日 産 トヨタ

乗用車 トラック・バス 乗用車 トラック・バス 合計

1935 2,631 1,169 3,800 0 20 20 3,820 1936 2,562 3,601 6,163 100 1,042 1,142 7,305 1937 4,068 6,159 10,227 577 3,436 4,013 14,240 1938 4,151 12,440 16,591 539 4,076 4,615 21,206 1939 1,370 16,411 17,781 107 11,874 11,981 29,762 1940 1,162 14,763 15,925 268 14,519 14,787 30,712 1941 1,587 18,101 19,688 208 14,403 14,611 34,299 1942 871 16,563 17,434 41 16,261 16,302 33,736 1943 566 10,187 10,753 53 9,774 9,827 20,580 1944 9 7,074 7,083 19 12,701 12,720 19,803 出所:『日産自動車社史(資料編)』48 頁、および『創造限りなく トヨタ自動車 50 年史・資料 集』97 頁より、筆者作成。

品開発にみられる日立と日産との関係性につ いて論じている。続く第 3 節では、第二次世 界大戦後(以下、戦後)の日立の自動車部品 事業、特に、日立における後補充生産システ ムの導入である SAPS(Sawa Action Plate System)についてその特徴と経緯について 論じている。最後の第 4 節で、全体をまとめ た上で、残された課題について論じる。

2 戦前・戦時期の自動車部品事業 2.1 自動三輪車用電装品事業

 日立の自動車部品事業への参入は、1932 年に、自動三輪車用電装品としてのアルミダ イキャスト製ハウジング生産に始まる

6

。こ れらは、発動機製造株式会社(製品名:ダイ ハツ)や日本内燃機製造株式会社(製品名:

くろがね)などに供給された(『多賀工場十 年史』59 頁)。日立にとっても新しい試みで

あった電装品生産は決して当初から容易に展 開したわけではなかった。1934 年 1 月時点 で、電装品の故障率は 10%であった。日立 は、故障が発生した際、それを自社に返品し てもらい、新品に取り換えると同時に、発生 した故障に関しての統計を丹念にとることに よって、故障の実態を把握し、改良していっ た。こうした努力の末、1936 年 12 月に、故 障率は 2%に低下している(『日立製作所史 1』119 頁)。同製品の生産量は、1939 年か ら 1944 年まで、2000 台弱で推移した(『多 賀工場十年史』62 頁)。

2.2 四輪自動車用電装品事業

2.2.1 四輪自動車用電装品の需要基盤

 四輪自動車用電装品は、1935 年に開発が 開始され、1936 年より試作が始められた。

開発当初は、アメリカのデルコレミー製製 品一式を購入して研究し、25 組

7

の電装部

       6 日立において電装品生産が開始されたのは日立山手工場であった。その後、1939 年 4 月に多賀工場に同部門は

移管された(『日立工場五十年史』354 頁)。

7 1 組は、ダイナモ、スターター、分配器、点火コイル各1台からなる(『多賀工場十年史』63 頁)。

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品を試作している。試作された見本を、日 産及び豊田自動織機株式会社(以下、トヨ タ)に送ったところ、両社との取引が開始 し、1939 年には、両社への電装部品の供給 によって、23,000 組以上の電装部品生産を 行うまでになった(『多賀工場十年史』61 頁)。

表 1 に示した通り、1939 年の両社の自動車 総生産台数が 29,762 台であることから、単 純計算で、両社が生産した自動車のうちの 77%以上に日立製の電装品が搭載されてい たこととなる。

 また、ヂーゼル自動車工業株式会社(以下、

ヂーゼル自工)向け電装品は、1939 年から 生産が開始された。当初は 1000 台程度の 生産量であったが、1943 年には最高の年産 3500 台に生産量を伸ばした

8

。表 2 にあるよ うに、1943 年のヂーゼル自工の生産台数は 5724 台であるから、こちらも、6 割以上のヂー ゼル自工社製自動車に日立製の電装品が搭載 されていたこととなる

9

表 2 戦時下ヂーゼル自工の生産台数

生産台数

1937 1,210 1938 1,655 1939 4,196 1940 7,148 1941 7,767 1942 5,639 1943 5,724 1944 2,845

出所:『いすゞ自動車 50 年史』461 頁。

 ところで、日立と日産との関係がきわめて 強いものであることは周知のことであろう。

日産コンツェルンにおける「機械工業部門の 中心企業」(佐藤、1981、136 頁)が日立と 日産であった。ここで両社の関係を一から整 理することはしないが、典型的にあらわすも のとして、表 3 を示しておきたい。日立の 重要株主として日産系各社が存在していたこ と、すなわち、日立が日産コンツェルン、あ るいはそれを通した日産自動車との強いつな がりがあったことが見てとれるであろう。こ うした関係の中、日産自動車の電装品を日立 が生産することは自然なことであったと言え よう。

       8 『多賀工場十年史』61、64 頁。

9 なお、ヂーゼル自工向け電装品生産は、1945 年以降中止された。

 このように、当初日立製作所は日産だけで はなく、トヨタやヂーゼル自工といった、自 動車製造事業法による許可会社のすべてと取 引を行い、電装部品を供給することによって 大量生産の需要的基盤を獲得したのである。

表 3 戦前における日立製作所の株主構成 期別 総株数

(千株)

総株主 数(名)

日産系各社持株 持株数(株) 持株率(%)

1936 年上期 900 3,346 399,680 44.4

1936 年下期 900 3,455 399,680 44.4

1937 年上期 2,358 9,783 817,003 34.6

1937 年下期 2,358 10,257 817,003 34.6

1938 年上期 2,358 11,540 816,843 34.6

1938 年下期 2,358 13,260 816,843 34.6

1939 年上期 4,000 16,949 1,380,464 34.6

1939 年下期 4,090 20,189 1,380,790 34.6

1940 年上期 4,090 20,407 1,274,890 30.9

1940 年下期 7,160 65,743 1,263,840 17.6

1941 年上期 7,160 66,915 1,344,450 18.7

1941 年下期 7,160 65,973 1,225,005 17.0

1942 年上期 7,160 64,659 1,326,155 18.5

1942 年下期 7,160 59,142 1,315,313 18.3

1943 年上期 7,160 58,993 1,325,198 18.5

1943 年下期 7,174 58,022 1,325,168 18.4

1944 年上期 14,000 59,550 2,650,267 18.9

1944 年下期 14,000 60,514 2,650,267 18.9

1945 年上期 14,000 59,607 2,650,267 18.9

出所:『日立製作所史 2』10 頁。

(6)

  ま た、 ヂ ー ゼ ル 自 工 も 日 立 と は 強 い 資 本 関 係 が あ っ た。 ヂ ー ゼ ル 自 工 の 前 身 で あ る 東 京 自 動 車 工 業 株 式 会 社( 以 下、 東 京 自 動 車 ) の 時 代 か ら、 日 立 は 大 株 主 で あ っ た の で あ る。 ま た、 ヂ ー ゼ ル 自 工 は、自動車製造事業法の許可会社となるにあ たって、将来、ディーゼル自動車製造に専念 することを当局から指示され、それを可能に するために、三菱重工業株式会社、池貝自動 車株式会社、川崎車両株式会社と並んで、日 立による支援が求められた

10

(『いすゞ自動 車史』69 頁)。さらに、日立も含む 4 社から 各 1 名ずつ、東京自動車の取締役に就任し、

これによって、人的にもヂーゼル自工は日立 との関係が強まったと言える。

 では、なぜ、トヨタはこの時期電装部品 に関して日立との取引を行うことになった のであろうか。トヨタにおける自動車生産 は、1933 年 9 月の取締役会において、自動 車製造をその事業に加えたことに端を発して いる。そして、1935 年 11 月にトラックの、

1936 年 7 月に乗用車の発表会を開催してい る。その際、豊田喜一郎は難問とされた電装 品に関しては、すべて外国品で賄うという方 針をとった(『デンソー 50 年史』29 頁)。ト ヨタにおける電装品開発は、1935 年に開始 されるものの、豊田喜一郎の方針は変わらず

「自信が付くまでは自動車の構成部品は自社 製品を使用せず、したがって電装品はしばら くの間輸入品で賄い、試作はそれからでよい」

(同上、30 頁)とされたため、電装品開発は それほど進展しなかった。

 事態が変わったのは、1936 年に自動車製 造事業法が制定され、トヨタがその第 1 号許 可会社に指定されたことである。周知の通り、

自動車製造事業法は、1933 年に国際連盟を 脱退し、1937 年に日中戦争、そして 1939 年

に第二世界大戦開戦という、戦争の時代に、

「兵器国産化の大前提にたって陸軍の要求す るトラックをつくる日本人の自動車メーカー を育成すること」(天谷、1982、46 頁)を目 的として制定された法律である。自動車製造 を行う企業を政府の許可制とし、さらに、そ の条件を「株主、取締役の半数以上、資本の 半額以上、議決権の過半数が帝国臣民または 帝国法令によって設立された法人に属する」

(同上、47 頁)こととすることによって、当 時、日本の自動車市場の大部分を占めていた GM、フォードをはじめとする海外資本を日 本市場から追い出し、日本メーカーを育成す ることが目的とされた。

 許可会社となったトヨタは、政府からの優 遇を受けると同時に、年間 3000 台以上の生 産体制を整えることを義務付けられた。その ため、月産で乗用車 500 台、トラック 1500 台の合計 2000 台の工場を建設する第一期計 画を策定したが、資金調達上の制約から、月 産 1500 台に縮小された(同上、48 〜 50 頁)。

また、1938 年以降、自動車部品の一切の輸 入が禁止されることとなった。これに対応す るため、トヨタは 1936 年の暮れにバラック 工場を建て、急いで電装品の試作を進めるこ とにした(『デンソー 50 年史』、30 頁)。し かしながら、既述の通り、電装品に関しては 輸入を中心とし、電装品開発にそれほど取組 んでいなかったトヨタが、当初の自動車生産 計画すら縮小せざるを得ない資金繰りの中 で、許可会社としての生産計画を充たすだけ の電装品を生産することはできなかった。

 そこで、電装品に関しては自社製品に頼る ことの不安から、自社生産による調達と、国 内の他社に試作品を発注し調達するという、

電装品調達の 2 社体制という新たな方針が出 された。この、国内他社として選ばれたのが        10 1931 年 3 月、商工省機械局長の招きによって、この 4 社による会議が開かれている。ここには、商工省課長お

よび陸軍中佐も同席していた(『いすゞ自動車 50 年史』73 頁)。

(7)

日立であった。トヨタにおいては 1936 年よ り試作が開始され、1937 年 4 月ごろに、よ うやく「どうやら電装品らしいものができあ がった」(同上)という状態にまで至った。

とはいえ、外観的にも日立製に劣っていたこ ともあり、組み付け用としては当初から日立 製品が使われる状態が続いた。

 このように、電装部品に関しては日立に依 存する状態が続いたのであるが、それが転換 する 2 つのきっかけがあった。1 つが、1937 年 12 月に起こった日立製電装部品の不具合 である。その際、トヨタは代替品として自社 製のものを使用したのであるが、大きな不具 合は生じなかった。これ以降、トヨタ車に自 社製電装品が正式に採用されるようになると いう変化があった(同上、31 頁)。ただし、

すでに述べたように、日立製電装品の生産量 は、日産・トヨタを含めて 1939 年までのび ていたことを考えると、その後も、トヨタ車 の電装品はその多くが日立製が使われていた ということになる。

 決定的な変化が起こったのは、1940 年に トヨタが発した外注部品内製切替命令であ る。豊田喜一郎は、自動車製造事業法によっ て得た寡占市場を背景に、創立時の銀行か らの 2000 万円の融資の償却という方針を出 した。これは、「下請・外注の系列化、規模 の経済に基づく合理化と高価格政策の二本柱 を中心とするものであった」(大場、1990、

151 頁)。そのうち、下請・外注の系列化と は、従来、1 台生産当たり 2300 円かかって いた外注費のうち、1000 円分を内製化する ことを目的としたものである。そして、この 内製化の計画から、関連会社の設立と下請・

外注の系列化を図り、それを基に、1940 年 に外注部品内製切替例が出されたのである。

ここで、自動車部品統制内規が策定され、内 製化される部品を、社内製品、準内製品、外 注部品に分類した。準内製品とは、トヨタ系 統の会社にて製造される部品のことである。

電装品は、この準内製品に指定された(同上、

151 〜 153 頁)。こうして、電装品の日立へ の発注は減らされることとなり、1941 年以 降、日立のトヨタ向け部品は生産されなく なったのである(『多賀工場十年史』61 頁)。

この影響で、1939 年に 22,000 組以上を生産 し、終戦以前でピークを迎えたのであるが、

1940 年には、19,000 組強に生産量が減少し ている(同上、63 頁)。

 その後、1942 年には生産組数 20,000 台を 超えるまで生産量は回復するものの、表 1 表 2 にあるように、1941 年をピークにその後 自動車生産量そのものが減少するなかで、日 立の電装品生産量も減少し、1944 年には約 13,000 組となり、終戦を迎えることとなっ た。

2.2.2 四輪自動車用電装品の生産・開発基盤

 次にこうした需要に対応した生産上の発展 を整理しておきたい。まず重要であったのが、

ベルトコンベヤ生産の採用である。日立は商 品部長をアメリカフォード工場に派遣してい る。1938 年に日本に帰ってきて後、電装部 品組立の流れ作業を始め、コンベヤ生産の導 入を行っている。同社社史によると、「コン ベヤ・システムを使ったのは電機製造ではこ れが初めてである」(『日立製作所史1』119 頁)という。

 もう 1 つ、戦時期の日立における生産部

面の発展として、日産との関係を捉えておく

必要がある。既述の通り、取引は継続的に行

われるのであるが、日立の戦時期の自動車事

業にとって、日産は、単なる取引相手以上の

意義をもっていた。それは、日産との技術会

議の開催である。日立と日産は、1940 年ご

ろから終戦にかけて、26 回の技術会議を行っ

ている

11

(『多賀工場十年史』60 頁)。『多賀

工場十年史』では、この会議の意義を、「日

立電装品が市場で成果を挙げた原動力は、製

(8)

作者側と使用者側とが真剣になって取組んだ この技術会議から生れたものである」 (60 頁)

と高く評価している。では、この会議ではど のような事が検討されたのであろうか。

 この点を示唆する資料として、ここでは 平木(1940)を使用する。この資料は、『日 本機械学會誌』第 43 巻第 275 号(1940 年)

に掲載された、平木健一氏(日立製作所多賀 工場勤務)の講演「自動車用電気部品に就て」

という題目の講演(1939 年 11 月 1 日)を収 録したものである。講演の基本的内容は、電 装部品の技術的解説であるが、その中で、 「3.

電気部品の特性とその進むべき道」として、

日本で電装品を開発・生産する上での特殊性 と課題について論じている。平木氏は、まず 当時の日本電装品の現状について以下のよう に述べている。「電気部品個々が持ってゐる その本来の性能に就ては敢て外国品に劣るも のとは思はないが、電気部品の最大の使命は それが自動車に取付けて使用されるときにそ の自動車をして最大の威力を発揮せしめるに あると考へる。―中略―この電気部品の性能 と自動車の要求と合致せしめるといふ一見何 でもない様な事が実際はなかなか難しいので あって、我々電気部品製作者としてこの点幾 多難問にぶつかってその解決に苦心している 現状である」(51 頁)。つまり、電装品単体 でみれば、欧米と比較してもそれほど劣らな いが、自動車全体とのすり合わせに困難を抱

えているというのである。では、その困難と は何であろうか。平木氏は、それを 2 つに 分けて述べている。1 つ目は、大量生産と標 準化の問題である。自動車は大量生産品であ り、当然、自動車に使われる電装品も大量生 産されなければならない。既述の通り、日立 においても電装品の大量生産のためにベルト コンベヤ生産が導入されていた。大量生産を 行うためには、標準化は欠かせない。しかし、

自動車の平均速度や始動回数、用途などの点 で、その使用方法は千差万別である。そこで、

「標準をどこに置くかといふことが大変問題 となって来る」(同上)のである。そして、2 つ目として、日本の特殊事情を挙げている。

先に、日本の電装品は単体として見れば、外 国品と比較してそれほど大きく劣っているの ではないと述べたが、あくまでもそれは模倣 品としての評価であるという。模倣品である 以上、それがいかに正確につくられたもので あったとしても、諸外国の使用条件に合った ものとなる。しかしながら、「その用いられ る自動車の使用状態は外国と我が国とでは甚 だしく違ふ」(52 頁)のである。その違いと して、平木氏は、道路整備の貧弱さ、湿気の 多さ、埃の多さを挙げている。こうした多く の違いが諸外国と日本とではある以上、電装 品も模倣の域をいち早く脱し、日本の特殊性 にあった電装品を開発しなければならないと 指摘している

12

       11 技術会議は、最初の 1 年間は毎月 1 回、その後、隔月となり、最後には 3 ヶ月に 1 回の開催となり、終戦まで に合計 26 回開催されたことが『多賀工場十年史』に記載されている。同資料では、開催した最初の年に関しての 記載がないが、上記の開催頻度を終戦から逆算することで、およそ 1940 年ごろに最初の会議が開催されたと想定 した。

12 同様の課題意識は、日産においても持たれていたようである。当時日産に勤務していた金澤修三氏は、自著の

中で以下のように述べている。「我國の自動車運輸に就ての事情は、諸外國のそれと比較して、その状況に著しい

相違がある。即ち、風土、氣候の相違、道路の状況は申すに及ばず、使用目的の相違による走行状況の差異等によ

り、一般自動車用部品、殊に電氣装置の各部品は性能上大いに影響を蒙る故、―中略―我國に於ても電氣装置の設

計、製作には前記の各影響に対応し、完全な機能を発揮し得る様な、所謂、日本的な性能を具備せる電氣部分品の

完成せられることを切に希望する次第である」(金澤、1940、3 頁)。

(9)

 すなわち、ここで平木氏は、まず、一般的 に自動車電装品の開発・生産は、大量生産を 行うための標準をどこに置くべきなのかとい う課題にこたえなければならず、さらに、そ の標準を外国製品の模倣によって設定するこ とは、諸外国と日本との使用条件の大きな違 いから困難である、という現状認識を示して いるのである。そして、この課題を克服する ために必要なこととして、自動車メーカーと の協力を挙げている。すなわち、こうした課 題を克服するためには、「机上の実験や計算 では到底出て来ないので、廣く車の使用状態 に就て観察測定を行ひ、その綜合的結果を 以ってしなければならない」(51 頁)のであ り、そのため、「電気部品の完成には車の製 作者、使用者の絶大なる協力を得なければな ら」(52 頁)ないのである。しかしながら、

当時の状況としてこうした協力が一般的に十 分に得られていないとして、「電気部品はと かく自動車の一附属品にすぎないといふ見地 からか、とかくその問題を後廻しにされがち である」(同上)と述べている。

 このように、電装品メーカーと自動車メー カーとの関係構築そのものが課題であると認 識されていた時代に、日立が日産との関係で 技術会議を開催したということは、きわめて 重要な意味があったといえるであろう。

3 戦後の自動車部品事業 3.1 佐和工場の設立

 敗戦後の混乱の中、日立は 1947 年に日産 のダットサン用として電装品生産を再開した

(『多賀工場十年史』36 頁)。当初、当時の経 済状況はもとより、戦争以来更新されなかっ た設備の老朽化や労働者の労働意欲の減退、

さらには 1949 年に始まった長期ストの影響 を大きく受けた。しかしながら、表 4 に示し

た日産における自動車生産台数の推移からみ てとれるように、戦後の日本自動車産業は、

1950 年の朝鮮戦争を一つのきっかけに回復 を見せ、その中で、電装品市場は順調な成長 を見せ始めた。

 このような自動車産業の戦後の回復、そし て 1960 年ごろからのモータリゼーションの 追い風を受け、電装品需要が好調ななか、自 動車機器専門工場としての佐和工場設立が計 画される。最初に新工場建設計画が示され たのは 1963 年であった。1964 年 2 月には、

自動車機器事業部が創設され、同年 5 月に、

第 1 期の工場建設として、気化器とダイカス ト用工場の工事に着手し、同年 12 月から両 工場の生産が開始している。その後、1965 年不況の影響で第 2 期以降の建設工事は延期 されたが、1966 年には第 2 期以降の建設工 事が開始され、1968 年 2 月に、佐和工場が 多賀工場から組織的に分離独立した(『佐和 工場十年の歩み』6 頁)。

 日本のモータリゼーションの幕開けという 社会的条件と、それに対応した自動車機器専 門工場である佐和工場の設立によって、日立 全体における電装品部門の位置づけは向上し た。 表 5 は 1965 年 を 100 と し た 時 の 1969 年の日立製作所品目別生産指数と、その生産 工場を示したものである。佐和工場における 生産品目が軒並み上位に位置していることが 分かる。

 こうした生産性向上は、需要のみならず、

工場内部の生産システム改善に支えられたも のであった。中央大学経済研究所編(1976)

は、「とくに佐和工場が組立生産の典型とも いうべき自動車部品工場であるところから、

生産の合理化、近代化も他の 8 工場に比較し

てより徹底しており、下請企業に対する外注

管理政策も親企業日産自動車の影響を受けて

最も近代的な方式が採用されている」(34 〜

35 頁)と評価している。即ち、 「カーメーカー

各社の競争が激化するにつれて納入価格の値

(10)

表 4 日産における自動車生産台数の推移

乗用車 トラック バス

普通車 小型車 普通車 小型車 大型 小型 合計

1946 5,846 560 6,406 6,406

1947 55 55 3,305 1,061 4,366 4,421

1948 246 246 5,821 2,329 8,150 71 71 8,467

1949 647 647 6,578 4,052 10,630 453 453 11,730

1950 865 865 6,832 4,240 11,072 521 521 12,458

1951 1,705 1,705 8,771 3,415 12,186 490 490 14,381

1952 2,376 2,376 7,224 3,687 10,911 675 675 13,962

1953 3,049 3,049 7,307 3,693 11,000 544 544 14,593

1954 4,650 4,650 9,976 4,714 14,690 483 483 19,823

1955 6,597 6,597 6,998 7,556 14,554 616 616 21,767

1956 12,965 12,965 9,006 11,000 20,006 541 541 33,512

1957 18,786 18,786 12,709 26,937 39,646 508 508 58,940

1958 16,878 16,878 7,089 30,323 37,412 550 550 54,840

1959 26,753 26,753 7,225 43,361 50,586 483 483 77,822

1960 55,049 55,049 10,209 49,488 59,697 719 719 115,465

1961 76,667 76,667 12,589 75,781 88,370 700 700 165,737

1962 89,003 89,003 14,207 108,578 122,785 470 470 212,258

1963 3,027 115,531 118,558 17,415 131,648 149,063 694 694 268,315

1964 3,126 165,548 168,674 16,935 161,886 178,821 742 742 348,237

1965 1,455 168,360 169,815 16,490 155,772 172,262 962 2,126 3,088 345,165

1966 1,215 230,293 231,508 18,672 218,120 236,792 259 3,039 3,298 471,598

1967 1,579 350,466 352,045 19,898 348,130 368,028 515 5,479 5,994 726,067

1968 982 570,632 571,614 20,136 380,407 400,543 453 7,224 7,677 979,834

1969 1,727 695,964 697,691 14,930 427,331 442,261 136 8,627 8,763 1,148,715

1970 22,498 876,510 899,008 13,095 451,850 464,945 138 9,931 10,069 1,374,022

1971 52,125 1,049,381 1,101,506 13,733 469,775 483,508 126 6,350 6,476 1,591,490

1972 78,992 1,273,259 1,352,251 11,869 491,727 503,596 20 8,377 8,397 1,864,244

1973 83,764 1,403,596 1,487,360 16,408 526,319 542,727 9,254 9,254 2,039,341

1974 78,003 1,177,666 1,255,669 18,887 525,329 544,216 9,151 9,151 1,809,036

1975 83,643 1,449,088 1,532,731 18,405 520,175 538,580 6,136 6,136 2,077,447

1976 104,898 1,505,421 1,610,319 32,245 653,973 686,218 7,166 7,166 2,303,703

1977 161,986 1,453,880 1,615,866 27,282 627,441 654,723 7,462 7,462 2,278,051

1978 144,311 1,588,821 1,733,132 32,237 615,842 648,079 11,387 11,387 2,392,598

出所:『日産自動車社史(資料編)』48 頁。

(11)

表 5 1969 年日立製作所品目別生産指数  1965 年= 100

順位 品目 指数 工場

1 カークーラー 1,308.4 佐和

2 ダイカスト 518.9 佐和、多賀

3 ジューサー 433.3 多賀

4 エスカレーター 380.6 水戸

5 配電制御板 318.4 国分

6 タービン発電機 285.5 日立、日立工業

7 蒸気タービン 273.1 日立

8 換気扇 268.0 多賀

9 気化器 248.4 佐和

10 エンジン発電機 239.0 日立

11 ダイナモ 237.3 佐和

12 扇風機 211.1 多賀

13 圧延機械 188.4 勝田

14 電気掃除機 184.6 多賀

15 スターター 177.5 佐和

16 鉄鋼用ロール 167.7 勝田

17 エレベーター 165.4 水戸

18 整流器 151.4 日立

19 工業計器 141.4 那珂

20 電気洗濯機 138.6 多賀

21 特殊電動機 136.0 多賀

22 電気測定器 135.7 多賀

23 遮断機 132.7 国分、国分工業

24 変圧器 128.7 国分

25 家庭用井戸ポンプ 128.3 多賀

26 水力タービン 120.3 日立

27 電気指示計器 117.4 那珂

28 水車発電機 101.8 日立

29 銑鉄鋳物 91.9 勝田、多賀、日本ゲージ

30 銅合金鋳物 84.1 勝田、多賀、日本ゲージ

31 産業用貨車 78.3 水戸

32 科学機械 58.5 日立

出所:中央大学経済研究所編、1976、26 頁。

(12)

引き要求は非常に強く、増産と合理化のため の努力を各方面にわたって行」(『多賀工場史  第 3 巻』225 頁)うなかで、多賀工場の電 装品部門及び佐和工場は日立全体の中でも高 水準の生産性向上を果たしたということであ

13

 この間の生産システム上の発展を社史に 沿って整理しておくと、まず技術的な側面で は、プレス、鋳造部門における冷間成形技術 の発達および鋳鉄材のアルミダイカスト化が 挙げられている。また、生産レイアウトも改 良され、機械加工工程から組立工程も含めて 直線的に配置され、流れ生産が徹底されるこ とによって、工程間運搬工数の低減が図られ た。また、この時期に同期化研究がおこなわ れている。これは、「品質チェックも含めて 全生産ラインの完全同期化を志向する思想で あり、工程細部の検討、設計変更提案、設 備の自動化、ラインバランス、品質管理など 多方面に、詳細な改善活動を展開」(同上、

228 頁 ) す る も の で あ っ た( 同 上、224 〜 228 頁)。

3.2 佐和工場における SAPS の導入

 以上のように、自動車部品生産を行った多 賀工場および佐和工場は、日産をはじめとし た自動車メーカーに影響を受けながら生産シ ステムを発展させたのであるが、そのひとつ の画期となるのが、1976 年より導入が始まっ

SAPS(Sawa Action Plate System)であ

る。SAPS とは、「 必要なものを、必要な時 に、必要なだけ 安く生産することのできる 柔軟な生産現場体質をつくる」(『佐和工場十 年の歩み』96 頁)事を目的とした生産シス テムである。これは、日本能率協会編(1982)

が、「自動車産業で発達した『かんばん方式』

と同じく、工程間のモノの移動には必ず AP

と呼ばれるカードを付けて、ジャストインタ イムに生産していくものである」(77 頁)と 紹介しているとおり、トヨタ生産システムに おけるかんばんの役割を AP に代替したもの であった。

 1973 年の第 1 次石油危機をきっかけに日 本は戦後の高度成長期の終焉を迎えた。こう した状況の中、「本格的な低成長時代に対処 するため軽量で柔軟な体質づくりをめざし」

(『佐和工場十年の歩み』96 頁)た取り組み として、SAPS は位置づけられる。

 SAPS の具体的中身を、真島(1980a)に よって整理しておこう。SAPS の中心は、先 に述べたとおり、トヨタ生産システムにおけ るかんばんと同様の役割を持つ AP を利用し た、後補充生産システムの採用である。そし て、トヨタ生産システムにおける後補充生産 システムがその実現のために多くの条件を必 要としたのと同様に、SAPS 導入に向けた取 り組みも多様なものである。

3.2.1 完全生産活動への取り組み

 SAPS の展開に先駆けて行われたのが、 「完 全生産活動」であった。これは、「機械設備 に対する認識の向上を図り、 設備で品質を つくり込んでいく という姿勢を醸成すると ともに、設備保全に関するスキルを向上させ 従来特定の部門に委ねていた設備の改善、保 全を全員の力で行う」(30 頁)体制の構築を 目指したものであった。すなわち、AP を利 用した後補充生産導入の前提となる体質改善 を行おうとしてのものであった。その第 1 段 階として行われたのが、 「530・450(ゴミなし・

ヨゴレなし)運動」である。これは、トヨタ

生産システムにおける5S 活動に類する活動

である。機械設備に対しては、まずは能力分

析が行われ、ネック機械、重要機械、一般機

      

13 戦後日本自動車産業における激しい競争関係に関しては、牧(2007)を参照されたい。

(13)

械の 3 つに分けられた。その上で、重要機 械、一般機械はトラブルやダウンタイムのな い状態にされ、ネック機械は、プロジェクト チームによって生産性の向上が図れるまで分 解し、欠陥個所の修理を行った。この取り組 みの重要性は、機械のメンテナンスそのもの にのみあるのではない。この取り組みによっ て、現場作業員が、いかに機械設備を不完全 な状態で使用していたかを実感し、日々の維 持管理や点検等の重要性を認識することにこ そ目的があった。こうして、「自分の機械は 自分が守る」という認識を持たせたうえで、

そのことを可能にする現場作業員を育てるた めに、「PM 短期留学制度」をつくった。こ の制度には、初級、中級、上級の 3 クラスが ある。初級は、班長クラスである「棒心」を

対象に、前述の機械設備の維持管理を行うた めの要員を育成するためのものである。この クラスには、1 カ月間 15 人を引き抜いた上 で、改善活動を行い、その日行った改善につ いて、夜にテキストを使って勉強する。こう して、現場での実践と理論的勉強を相互に行 うなかで、現場での機械設備の維持管理を行 える人材を育成するのである。中級クラスは、

初級クラスを終了した者から選抜され、工場 内で横断的な解決を必要とする諸問題の改善 にあたる。この期間も 1 カ月である。そして、

上級クラスでは 1 年にわたって表 6 に示す 上級設備保全技術者教育体系に基づいて教育 される。上級クラス終了者は、職場復帰後、 「保 全組」という組織に入って、その職場の改善 管理を行うことになる。

表 6 「PM 短期留学制度」上級設備保全技術者の教育体系

区分 大 分 類 内   容 時間

基礎学習

機械要素

26H ①締結部品・軸・軸受・伝道部品・

 クラッチ・ブレーキ・変速機

②工作機械の潤滑

20 6 機械構造

14H ①旋盤・フライス盤・研削盤・

 ボール盤・中ぐり盤

NC 工作機械

8 6 油圧・空圧

46H ①油・空圧機器の構造・保守

②油・空圧の回路

③作動油の管理と汚染度測定

30 10 6 機械設備の電気

80H ①電気機器の構造・保守・安全

②シーケンス

③配線

④機械のエレクトロニクス

20 20 30 10 232H

機械工作法と自動組立技術 50H

①切削加工法

②研削加工法

③加工液

④自動組立法

20 10 10 10 上級設備保全技術者として

16H SAPS の概要

②完全生産活動

③統計

4 4 8 実習 設備点検保守の基礎実習 ①モデル機による分解・精度測定・組立・

 調整

1.5 ヵ月 /240H ライン設備の診断・改善・維持 ①ネックラインの設備診断・改善・維持 9 ヵ月 /1500H

※学習時間 PM5:15 〜 7:15

出所:真島、1980、33 頁。

(14)

3.2.2 SAPS の導入

(1)平準化生産

 トヨタ生産システムの研究でも明らかなよ うに、後工程引き取りによる生産を実現す るためには、平準化生産の実現が必要にな

14

。平準化生産とは、「日割り、時間割り さらには分割りで数機種をそれぞれ必要な量 だけ、少量ずつ生産を行う」(33 頁)という ものである。佐和工場では、平準化生産の 範囲を、1976 年度の 40%から、77 年度の 50%、78 〜 79 年度の 70%へと徐々にその 範囲を広げていった。

 この平準化生産を行ううえでボトルネック になるのが段取り替え時間であることはよく 知られている。SAPS ではこの段取り替え時 間の短縮にも取り組んでいる。段取り時間 を 10 分以下にする、いわゆるシングル段取 り化を行うために、「段取り合理化活動」が 展開された。機械設備の中で、とりわけ必要 度の高いものを選び、段取り時間短縮を進め た。その中でも特に優れた成果を挙げたもの について、「シングル段取りは、徹底して考 えればかならずできる」(33 頁)ことを理解 させるために、各職場から多くの作業員を集 めての公開段取りが行われた。第1回の公開 段取りが行われたのは、250 トンダイカスト マシンであった。これは、内段取りの外段取 り化および作業・装置の標準化を中心とした 取り組みの結果、従来 75 分かかっていた段 取り替え時間が、3 分にまで短縮されたもの であった。1977 年以降は、組長 1 人当たり、

期に 3 件のシングル段取りの挑戦目標を決め て実施し、1980 年の段階で約 600 台の機械 設備のシングル段取り化に成功している。

(2)多能工の育成

 多能工の育成によって「全自在型ライン」

を構築した。これは、「従来の定員制を廃止 して、非定員制による多工程持ち」(34 頁)

を実現し、そうすることによって「需要点の 変動に応じて人を自由に増減させることによ り、1 人定時間当たりの出来高をおとすこと なく対処できるようにした生産ライン」(同 上)である。トヨタ生産システムにおける少 人化の考え方に類しているといえよう。また、

現場作業者のうちの班長クラスである棒心を 1 ヵ月検査部門にあずけてライン検査を実際 に行う「品質留学制度」を設け、現場作業員 が自ら品質検査を行うという、いわゆる「品 質は工程でつくり込む」という考え方とその 実際を教育した。

3.3 日産における APM 導入とサプライヤー への展開

 このように、日立における SAPS の導入は、

トヨタ生産システムに代表される自動車産業 で構築された生産システムの導入過程であっ た。そして、SAPS の導入には、日産におけ APM (Action Plate Method)導入の試み、

及びそれのサプライヤーへの展開という背景 があった。日産における APM 導入の目的は、

「生産システムに内在するムリ・ムダ・ムラ を徹底的に排除し、人・物・設備のもっとも 有効な活用を図ることによって、生産性向上、

在庫削減、不良減少、および管理水準向上を 達成するもの」(『日産自動車社史』105 頁)

であった。これは、「後工程が前工程に着工 を指示するシステムであり、トヨタ生産シス        14 後工程が必要となった部品を、必要な時に必要なだけ前工程に引き取りに行く後補充生産の場合、後工程が引 き取りに行くタイミングや量が一定でなければ、前工程は常に、引き取り量のピークに合わせて生産しなければな らなくなり、結果的に多量の在庫を抱えてしまうのである。その意味で、門田(1985)は、「生産の平準化こそ、

トヨタ生産方式の基礎である」(58 頁)と述べている。

(15)

テム(TPS)の『かんばん方式』に相当する システム」(佐武、2012、51 頁)である。

 この APM は、日産がサプライヤーを指導 する形で各サプライヤーに導入された。この 指導が始まったのは、1974 年であり、この 時、対象となったのが 8 社のサプライヤーで あった(『日産自動車社史』104 頁)。そのう ちの 1 社として、河西工業㈱

15

がある。同 社の当時の主要製品は、ドアトリム、サンバ イザ、ダッシュインシュレータ、リアパーセ ルなどの自動車内装部品であった。同社では、

1974 年にドアトリムの日産への AP 納入を 開始し

16

、ついで、同社内での生産における APM を導入した(坂内、1982、67 頁)。

 同社は APM 導入と、それを核とした生産 システムの総合的改善活動を KPS(Kasai Production System)活動と名付けた。生産 現場での KPS 活動は 2 期に分けられる。第 1 期は、1977 年 11 月から 1978 年 4 月まで の半年間である

17

。この時期は、同社の工場 ラインを、AP を使った後補充方式に適合的 なラインに総合的に転換させることが目的と された。具体的には、ライン改善や業務分担 の明確化によって、スムーズな生産を可能に するように改善され、また、後補充方式に不 可欠な段取り時間の短縮も行われた。こうし て、同社工場内での生産における APM 適用 範囲の拡大が図られた。また、問題点の顕在 化によって改善活動を活発にさせるため、多 くの管理板を使用した目で見る管理や、5S

も徹底された。同時に、部品調達においても APM が導入され、サプライヤーの部品生産・

配送の偏りをなくし、同社の月末在庫増を防 ぐと同時に、不良等の問題がすぐにサプライ ヤーにフィードバックできる体制とした。

 第 2 期は、1978 年 5 月から 12 月までであ る。この時期は、第 1 期で行われた諸改革の 定着期と位置づけられ、主に人材育成が行わ れた。小集団活動を中心に、第 1 期に行われ た改善活動や目で見る管理の定着、全員参加 が目指された。中でも重点的に行われたのは、

多能工の養成であった。後補充方式の目的は、

市場の変動に合わせて生産量を変動させられ る体制の構築であるが、それには当然、作業 現場の人員配置の柔軟性が必要であり、その 前提は作業員の多能工化である。それまで、

同社の人材育成の基本的考え方は、作業に人 を固定することによって、作業者の作業の質 や生産性を確保しようとするものであった。

にもかかわらず、誰がどのような仕事ができ るかははっきりと捉えられていなかった。結 果として、システムとして後補充方式によっ て生産量変動に対応しようとしても、作業者 の編成は固定化されざるを得なかったのであ る。多能工養成のために、縦軸に作業員の氏 名、横軸に作業名が記された表がつくられた。

この表の中で、各作業の技量が 2 〜 3 段階 に分けられた。その上で、色分けしたマグネッ ト等を利用して、だれがどの作業をどの程度 行えるのかがはっきり分かるようにし、多能        15 同社は、日産のサプライヤーによって構成されている日翔会のメンバー企業である。同社の日産との関係は古く、

初めて自動車部品生産を行った 1941 年にさかのぼる。この時、同社は日産に軍用トラックの綿製品を納入してい る(『河西工業 30 年史』43 頁)。2012 年 3 月末日現在、日産との取引は連結で年間 800 億円を超えており、総販 売実績の 65%を占めている(河西工業株式会社『有価証券報告書』第 81 期)。

16 2012 年 10 月 16 日に行った、日立佐和工場 OB へのヒアリングによると、日立佐和工場においては日産に対す AP 納入は行われなかったとのことであった。つまり、日産のサプライヤーではあっても、納入方式に違いがあっ たということである。なぜこのような違いがあったのか、また、この違いがサプライヤーの生産システムにどのよ うな影響を与えたのかは、今後の課題である。

17 この時期に、同社は日産の購買管理部技術課の援助を受けている(『河西工業 50 年史』88 頁)。

表 1 戦時下における日産及びトヨタの自動車生産台数 年 日 産 トヨタ 乗用車 トラック・バス 計 乗用車 トラック・バス 計 合計 1935 2,631  1,169  3,800  0  20  20  3,820  1936 2,562  3,601  6,163  100  1,042  1,142  7,305  1937 4,068  6,159  10,227  577  3,436  4,013  14,240  1938 4,151  12,440  16,591  539  4,076
表 4 日産における自動車生産台数の推移 年 乗用車 トラック バス 普通車 小型車 計 普通車 小型車 計 大型 小型 計 合計 1946       5,846  560  6,406        6,406  1947   55  55  3,305  1,061  4,366        4,421  1948   246  246  5,821  2,329  8,150  71    71  8,467  1949   647  647  6,578  4,052  10,630  453
表 5 1969 年日立製作所品目別生産指数  1965 年= 100 順位 品目 指数 工場 1 カークーラー 1,308.4  佐和 2 ダイカスト 518.9  佐和、多賀 3 ジューサー 433.3  多賀 4 エスカレーター 380.6  水戸 5 配電制御板 318.4  国分 6 タービン発電機 285.5  日立、日立工業 7 蒸気タービン 273.1  日立 8 換気扇 268.0  多賀 9 気化器 248.4  佐和 10 エンジン発電機 239.0  日立 11 ダイナモ 237.3

参照

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