サウンドスケープは聴くことが文化的実践であることを示して いる。 デヴィッド・サミュエルズ,ルイーズ・マインチース,
アナ・マリア・オチョア,トーマス・ポルセロ
“サウンドスケープ”は聞こえはいいが中身がない。
アリ・ケルマン
「サウンドスケープ」という用語は欺瞞的な魅力を持っている。
ポール・ロダウェイ 環境じたいが私たちが聞くものを構造化する。 ロダウェイ 音はつねに,すでに私のものであり,私のものではない。
ブランドン・ラベル
音は相手を選ばない。 ラベル
人間は自分がひとりぼっちでないことを確かめるために音を発 したがる。 レーモンド・マリー・シェーファー
はじめに
レーモンド・マリー・シェーファーの「サウンドスケー プ」は,用語としてはかなり知られたものになっている が,かなり厄介な概念である。デヴィッド・サミュエル
ズ,ルイーズ・マインチース,アナ・マリア・オチョア,
トーマス・ポルセロによる 2010 年の「サウンドスケー プ――音の人類学に向けて」(
Samuels, Meintjes, Ochoa
and Porcello
2010)のように,その問題点を指摘しながらも,積極的にその重要性を主張するものもあるが,批 判的な見解の方が多く見られる。
たとえば,音に関する研究領域であるサウンド・スタ ディーズのキーワード集『
Keywords in Sound
』(Novak and Sakakeeny
2015)では,「サウンドスケープ」はキー ワードに入っていない。「サウンドスケープ」という用 語の普及と影響を考えると不思議である。「イントロダ クション」では「キーワードは,学問と音の日常的な知 覚のなかでの普及と重要性の点から選択された」(Novak and Sakakeeny
2015:2)とされている(1)。この「イントロダクション」のなかで,サウンド・ス タディーズとシェーファーの西洋中心主義と「偏見」に ついて次のように指摘されている。「サウンド・スタ ディーズの学際的な広がりにもかかわらず,その領域は
サウンドスケープ概念の再検討
―― アリ・ケルマン,ステファン・ヘルムライヒらによるサウンドスケープの批判的検討について ――
和 泉 浩
Reconsidering the Concept of Soundscape
IZUMI, Hiroshi
Abstract
This article reconsiders relatively recent critical arguments about Raymond Murray Schafer’s concept of
‘soundscape’, especially the arguments of two articles: Ari Y. Kelman (2010) ‘Rethinking the Soundscape: A Critical Genealogy of a Key Term in Sound Studies’ and Stefan Helmreich (2010) ‘Listening against Soundscapes’, in order to re-explore ‘rich vein of scholarship of sound’ (Kelman) in the concept of soundscape.
Attending ‘to the invention of Schafer’s idea in order to wrestle with its redefinition’, Kelman criticizes Schafer’s bias against noise and his confusion of sound and listening, but Kelman does not consider deeply the definition of soundscape. This article reconsiders the definition of soundscape through rethinking Schafer’s explanation in The Tuning the World, Helmreich’s discussions of ‘soundscape’, ‘immersion’ and ‘transduction’, Steven Feld’s ‘acoustemology’, Tim Ingold’s ‘against soundscape’ , and Paul Rodaway’s ‘aural geography’ , in that it situates the concept of soundscape in developments of studies on sound. This article also makes clear the concept of soundscape is not in conflicts with ‘transduction’, ‘acoustemology’ and ‘immersion’, and it needs to be connected with a central and traditional problem of social theories: the relationships between the individual and the social, and depending on how to make this connection, there are possibilities to develop various conceptions of soundscapes.
Key Words : Soundscape, Sound Studies, R.M.Schafer, A.Kelman, S.Helmreich
全体として西洋の知的な出自と歴史に深くかかわってい る……サウンド・スタディーズはしばしば,聞くことと 聴くことの共通のコンテクストに位置づけられた規範的 な主体についての西洋の観念を強化している。普遍性に ついての想定は,研究者たちが,一般化された知覚的意 識にたいして予測可能で,しばしば技術によって決定さ れた影響を持ち,『人間の条件』全体に還元することさ えできる安定した対象として音を扱うことにもつながっ ている。こうした偏見はサウンド・スタディーズの事実 上の創設者であるレーモンド・マリー・シェーファーの 著作にも見られ,彼は,多面的な価値を持った音の場
(
field
)としての“サウンドスケープ”に,互いに異なった社会的アイデンティティ,個々の創造性とアフォーダ ンス,生物的多様性と異なる能力を持って参与している 構成的な差異について明確な形で認識していない」
(
Novak and Sakakeeny
2015:7)。その「偏見」ゆえに,創設者の,こんにちもまだ影響力のある概念が取りあげ られなかったのだろうか。
サウンドスケープにたいする批判は数多くあるが,近 年よく引用されるものには,人類学者ティム・インゴル ドが 2007 年に発表した「反サウンドスケープ(
Against Soundscape
)」(Ingold
2007)という論文がある。また『
Keywords in Sound
』のキーワードに入っており,サウ ンド・スタディーズでかなり言及され,使われるように なっている「アコーステモロジー」(2)という用語を作っ たスティーブン・フェルドは,次のように述べている。「『サウンドスケープ』に抗して(
against
“soundscapes
”),アコーステモロジーは,行為主体性と知覚からのあらゆ る物理的な距離とともに“ランドスケープ”の音のアナ ロジーあるいは音による横領(
appropriate
)を拒む……アコーステモロジーは,最近の評論でサウンドスケープ を脱構築しているティム・インゴルド(
Ingold
2007)と ステファン・ヘルムライヒ(Helmreich
2010)による批 判と代替案に加わる。彼らの提案とともに,アコーステ モロジーは場所と空間-
時間にかかわる状況に置かれ た,聴くことを中心に位置づける探究を好む」(Feld
2015:15)。ここにはインゴルドとともにヘルムライヒの批判があ げられている。ヘルムライヒは 2010 年の「サウンドスケー プに抗して聴くこと(
Listening against Soundscapes
)」において,「ティム・インゴルドは『反サウンドスケープ』
のなかで,サウンドスケープは音を経験として扱うので はなく,音を客体化していると示唆している……私はイ ンゴルドの批判を拡張し,複雑化したい」(
Helmreich
2010:10)と述べ,インゴルドを参照している。またサウンドスケープについてアンドリュー・アイゼ ンバーグは次のように指摘している。「シェーファーの
サウンドスケープはサウンド・スタディーズの中心的存 在としてはかなり問題がある。それはどの音が『重要
(
matter
)』でどれがそうでないかという規範的な考え方にもとづいているだけでなく,シェーファーが『ローファ イ』『汚染』の源ととらえているまさに近代の音の複製 技術から生まれたという皮肉の重みできしんでいる
(
Helmreich
2010)。その用語の最大の強みさえ……その語の発見的な価値を損なうという点で弱みにもなってい る(
Kelman
2010:228)」(Eisenberg
2015:198)。ここでもヘルムライヒに言及され,それとともに,近 年のサウンドスケープの概念の検討としてはもっとも詳 細なもののひとつであるアリ・ケルマンの 2010 年の「サ ウドスケープ再考――サウンド・スタディーズのキー ワードの批判的系譜」(
Kelman
2010)が参照されている。インゴルド,ヘルムライヒ,ケルマン,この3人がこ んにち,サウンドスケープの概念の検討や批判において しばしば取りあげられている。インゴルドの反サウンド スケープについては別のところで取りあげたため(和泉 2018),本稿ではヘルムライヒとケルマンのサウンドス ケープの議論を中心にサウンドスケープの概念の再検討 を行う。このことをとおして,インゴルドの「サウンド スケープの概念を捨て去った方が良い……」(
Ingold
2007:10)という考え方とそれを支持するこんにちのサ ウンドスケープ批判について再検討する(3)。はじめに,サウンドスケープの概念について詳細な検討を行ってい るケルマンの議論を見ていく。
1.アリ・ケルマンのサウンドスケープ再考 1.1 サウンドスケープとケルマンの問い
ケルマンは「新興の学術研究領域」であるサウンド・
スタディーズが,次の「2つの重要な問いをめぐってま とまりを成している」と指摘している。「1つ目の問いは,
音とは何を意味するのか,である。この問いは,さまざ まな方法でアプローチすることができ,また,いかに,
どこで,なぜ音が生産され,再生産され,流通し,想像 され,伝えられ,とらえられるかについて,さまざまな 結論をもたらしうる。2つ目の問いは,方法論的なもの である。音の研究者として,音の意味をどのように扱う のか。どのようにデータを収集し,情報を集めるのか。
私たちを導くのは,どのような枠組みや理論か。音の研 究にどのようなモデルがあるのか」(
Kelman
2010:213-
4)。ケルマンはこの問いを次のようにも説明している。
「……音が社会的現象であるかぎりにおいて,音につい ての研究者はどのように音が循環・流通し,私たちの周 囲の世界を私たちが理解するやり方にどのようにサウン ドが寄与するのかを理解することに関心を持っている。
言いかえると……私たちは,音と意味の社会的生産との 関係について関心を持っている……しかし,自らが学術 的に注目する特定の音や有意味な音の集合を明確にする ことが,自らの研究を枠づけ,あるいは基礎づける方法 を求めている研究者たちの問題であり続けている……」
(
Kelman
2010:215)。こうした音の意味と方法に関する問いについて,「今 までに提案されて有益かつ議論になってきた用語のひと つが『サウンドスケープ』」(
Kelman
2010:215)であり,「こうした話の基本となる著作がマリー・シェーファー の『世界の調律』である……シェーファーの貢献は,そ れ以降,音の現象について書かれたほとんどすべての人 の著作に影響を及ぼし,学術の世界を越えて広く人気を 得ている」(
Kelman
2010:214)とケルマンは指摘して いる。しかし,サウンドスケープの学問を越えた人気の ために,その語は「無頓着に使われるようになっている……その高い普及率のために,サウンドスケープという 用語は,ほとんどどんなコンテクストでのおおよそいか なる音の経験についても指し示すようになっている」
(
Kelman
2010:214)。このようにケルマンはサウンドスケープという用語の 重要性を認める一方でその利用状況を問題視する。とい うのも,「シェーファーのもともとの定義は,はるかに 限定的なものをとらえたもの」(
Kelman
2010:214)だっ たからである。こうした状況から,ケルマンはこんにちのサウンド・
スタディーズのために次のことが必要だと述べる。
「シェーファーのサウンドスケープの概念をなしですま すことは,その人気とその深く共鳴する可能性をともに 無視することになるだろう。しかし,その概念を,それ が喚起するものによって手当たり次第に用いることは,
シェーファーの意図を無視することになるだろう。その 広範な流通とシェーファーの狭い定義の間のどこかに,
音についての豊かな研究の鉱脈がある。しかし,この鉱 脈を探り,サウンドスケープの再定義に取り組むために,
われわれが始めにする必要があることは,シェーファー が考案した考え方に耳を傾けることである」(
Kelman
2010:216)。ケルマンはシェーファーの考え方に耳を傾けた結果,
どのような「豊かな鉱脈」を得たのだろうか。
1.2 シェーファーの「偏見」
ケルマンはシェーファーのサウンドスケープを「狭い 定義」ととらえている。「シェーファーのサウンドスケー プはけっして聴覚研究の中立の領域をなしているのでは ない。それは,他の音にたいする特定の音へのシェー ファー自身の選好に大きく影響されたものである」
(
Kelman
2010:214)からである。このシェーファーの「選 好」,「偏見」は,シェーファーについての議論で多くの 論者から批判されてきた点である。シェーファーはこんにちの音と社会の状況,特に都市 の状況を音環境が悪化した「騒音公害」,「音の過密」
(
Schafer
1977=
1986:22,
92)が生じ,情報過多のため 音が「明瞭度」を欠いている「ローファイなサウンドス ケープ」ととらえている。それにたいして「ハイファイ なサウンドスケープとは,環境騒音レベルが低く,個々 の音がはっきり聞き取れるサウンドスケープを意味す る。田舎は一般的に都市よりハイファイであり,夜は昼 より,古代は現代よりハイファイである」(Schafer
1977=
1986:77)。したがって,シェーファーは歴史を 音環境悪化の過程ととらえており,「ローファイなサウ ンドスケープは,産業革命によりもたらされ,それに続 く電気革命によって拡張された」(Schafer
1977=
1986:92)と指摘している。シェーファーはより「自然な」音 環境を望ましいと考えている。こうした点がシェー ファーの「偏見」として批判されており,ケルマンも シェーファーのサウンドスケープを「狭い」ものとして,
たとえば次のように問題にしている。
「そのような語りの問題のひとつは,『ローファイなサ ウンドスケープ』に住んでいる人たちの行為主体性にご くわずかな余地しか残していないことにある。シェー ファーの描くサウンドスケープの退化はきわめて全面的 かつ決定論的なものであるために,彼の歴史記述での騒 音(
din
)に抗する人の耳への希望がほとんどなくなっ ている。近代の生活についてのシェーファーの記述では……すべてノイズにすぎない」(
Kelman
2010:217)。し かし,「皮肉なことに,サウンドスケープの人気にもか かわらず,音の研究者たちの注目を占めてきたことの大 部分は,まさにシェーファーが聞きたがらなかったシェー ファーのサウンドスケープの要素である」(Kelman
2010:216)。ケルマンはソフィー・アルケットの都市の音について の論文に言及しているが,アルケットはシェーファーに ついて次のように指摘している。「……都市の音を自然 な音と似たようにクリーンにできるということは,都市 空間の力学を読み違えている。農村的な音の空間を再現 しようとすれば都市は存在しえない……何が自然な音を 構成するのだろうか,そしてなぜ自然な音に,都市の音 には拒まれた特権的な地位が与えられるのだろうか。
シェーファーは,人工のものから自然を分ける明確な区 別を思い描いている。しかしその区別は彼が考えたよう には明確なものではないだろう」(
Arkette
2004:162)。こうしたシェーファーの「偏見」ゆえに,『
Keywords in
Sound
』でサウンドスケープはキーワードとされなかったとも言えるだろう。
1.3 「音」と「聴くこと」の混同
ケルマンがシェーファーの議論で問題にするもうひと つの点であり,ケルマンの批判の中心になっているのが
「音」と「聴くこと」の混同である。この点についてケ ルマンは繰り返し指摘している。そして,この混同によっ て,サウンドスケープが「背景」(バックグラウンド)
になってしまっていることを問題にしている。「……彼 のサウンドスケープに音響デザイナーと『イヤークリー ン』をした聴き手を住まわせようとする望みによって,
シェーファーは彼の議論の全体にわたって音と聴くこと との関係を混同している。重要な(
matter
)音とそうで ない音とを区別することは,サウンドスケープが重要に なるのは,音の経験について聴き手が下す判定のある種 の背景としてのみということを意味している。シェー ファーはサウンドスケープを克服されるべき問題として いる場合もあるが,社会生活の音の背景に格下げしてい る場合もある」(Kelman
2010:219)。シェーファーは音環境が悪化していると考えている が,それに対処する方法としているのは,聴き方を変え ることである。「シェーファーにとって,ノイズの侵害 はきわめて深刻であるため,それと闘うためには,皮肉 なことに,それを聴かないようにすることが唯一の方法 である……シェーファーにとって,都市の聴き手たちは 都市の音にとらわれたままであるが,ただし彼の『イ ヤー・クリーニング』と『音響デザイン』のための処方 箋にしたがうようになると,都市をそれじたいのように ではなく,交響曲のように聞けるようになる。適切な規 律=訓練によって,人びとは特定の音を聴かないように することを身につけることができ,結果として自分自身 と自分のコミュニティをノイズの侵害から守ることがで きるとシェーファーは論じている」(
Kelman
2010:217)(4)。たしかにシェーファーは次のように述べている。
「聴覚を意のままに停止させることはできない。耳には まぶた4 4 4にあたるものがないのだ……耳が自らを保護する 唯一の方法は,好ましい音に集中するために好ましくな い音をフィルターにかけて取り除いてしまうという極め て精巧な心理的メカニズムによるものである」(
Schafer
1977=
1986:33-
4)。こうしたシェーファーのとらえ方についてケルマンは
「シェーファーは音について書いているようであるが,
実際は聴くことについて書いている」(
Kelman
2010:217)と指摘する。音,サウンドスケープではなく,「聴 くこと」が前面に出てくるからである。「こうした定式 化では,サウンドスケープは,そのものとして出会われ るものではなく,よく規律
=
訓練された聴き手集団が『音響デザイン』をし,その世界のオーケストレーションを 行う,たんなる背景にあるノイズになる。サウンドスケー プは聞かれる何かですらなく,克服されるべきものとな る」(
Kelman
2010:218)。シェーファーは『世界の調律』の「日本語版への序文」
で次のように述べている。「サウンドスケープの研究の 最終的な目標は,サウンドスケープ・デザイン――すな わち,聴覚環境の意識的な計画を導くことにある。けれ どもこの考えはしばしば誤解もされてきた。サウンドス ケープ・デザインは決して上からのデザインであっては ならず,むしろ内からのデザインでなければならない
……サウンドスケープ・デザイナーは,何にもまして教 育者である……」(
Schafer
1977=
1986:9)。ケルマンは,こうしたシェーファーのサウンドスケープの位置づけを 問題にする。「シェーファーが音の分析を提示すること よりも聴き手の訓練を好んでいるということを考える と,音の研究者たちは,あまりにもイデオロギーを負わ されすぎているサウンドスケープが有益なものであるか どうかを問う必要がある」(
Kelman
2010:218)。ケルマンはシェーファーの「音分裂症(
schizophonia
)」でも,こうした音と聴くことの混同が生じていると指摘 する。シェーファーは「音分裂症」について次のように 説明している。「〈音分裂症〉は,元の音とその音の電気 音響的な伝達・再生との間の分裂を指す。これが 20 世 紀のもたらしたもうひとつの発展である……元来,すべ ての音はオリジナルであった。音はひとつの時間にひと つの場所でしか生起しなかった。したがって音は,自ら を生み出したメカニズムと不可分に結びついていた……
すべての音は,模造不可能でただひとつのものであった
……われわれは,音をその作り手から分離したのだ。音 はその自然のソケットから引き離されて,増幅され独立 した存在となった」(
Schafer
1977=
1986:143-
4)(5)。こ れにたいしてケルマンは次の点を問題にする。「音源か らの音分裂症的な音の分離は,音を作り出したもの(
makers
)と聴き手との間に『不自然な』距離を創り出すため,シェーファーにとって問題をもたらす。シェー ファーの定式化のもっとも明白な批判は,どこで『自然』
な音と『不自然な』音との境界を引くのか,コンテクス トとそうでないものとの線引きをどのようにするのかと 問うことから始められる」(
Kelman
2010:218)。この境界の問題はアルケットも指摘していたが,音分 裂症では音源からの音の分離と,それをとらえる視点,
聴き方が混在している。音分裂症とは音の状態なのか,
それとも人の症状なのか。ケルマンは,音分裂症は音が そのもともとの場所から離れること,「場違い(
out of
place
)」の音,「音の移動性にたいする不安を聴くことの行為へと投影」したものだとしている。しかし,「音
は聴き手に『不安』をもたらすこともできるが,音自体 が『不安』ということはありえない」(
Kelman
2010:219)。このためシェーファーは,音と聴くことを混同し ているとするのである。
音分裂症のこうした問題から,ケルマンは「音分裂症 から分裂生成へ」というフェルド(
Feld
1995)の議論を,シェーファーの問題点を修正するものと評価している
(
Kelman
2010:219)。「分裂生成」(シズモジェネシスschismogenesis
)はグレゴリー・ベイトソンの作った用語であるが,それは「相互作用と反作用の累積を通して 進化的差異化の類型について論じるため」(
Feld
1995:103)のものであり,フェルドはワールド・ミュージッ クについての議論でこのベイトソンの概念を用いてい る。特に音楽がもともとの場所から分裂し,「進化的な 差異化が相互的に激化」するワールド・ミュージックの 状況をとらえるために分裂生成の概念を用いている。
フェルドは次のように述べている。「ベイトソンの分裂
(
scjiz
)についての用語とシェーファーの分裂についての用語を並置することは,ワールド・ミュージックの商 業化の増大に関連する物質的,言説的展開のいくつかに ついて考えるうえで有益だろう」(
Feld
1995:103)。フェルドのこの議論について,ケルマンは「聴くこと ではなく音にあらためて焦点をあてることで,フェルド は結局,シェーファーの考えでなくベイトソンの考えを 用いており,シェーファーがうまく扱えなかった探究の 道を開いている」(
Kelman
2010:219)としている。分 離によって,音と聴くことの混同の問題の解消の可能性 を示したということである。しかし,商業化を分析する フェルドは(さまざまな時点での)聴くこと,消費の問 題を音から分離しているのだろうか。ベイトソンは ニューギニアのイアトルム社会の分析から分裂生成の概 念を生み出し,またフェルドもワールド・ミュージック の商業化とそれについての言説をめぐってこの用語を使 用しており,ともに人や集団,社会について用いられて いる考え方であるが,聴くことと切り離された音じたい が「分裂生成」すると考えることができるだろうか。混 同を問題にするケルマンはこうした検討を行っていない。ケルマンは音の社会的意味を研究することをサウンド・
スタディーズのテーマとしていたが,その社会的意味を 聴くという経験抜きに考えることはできるのだろうか。
ケルマンは近年の「サウンドスケープ」について扱っ た研究についても検討しているため,次にその議論につ いて取りあげる。
1.4 ケルマンの近年のサウンドスケープ研究再考 ケルマンは「サウンドスケープが音と場所の間の関連 性を喚起することに惹かれて,最近の多くの本で『サウ
ンドスケープ』がタイトルに使われているが,しかし シェーファーにしっかりと取り組んでいない」(
Kelman
2010:220)と指摘している。はじめにケルマンは
Fiona Richard
編のThe Soundscape of Australia
(2007),Charles Hirschkind, The Ethical Soundscape
(2006),John Picker, Victorian Soundscapes
(2003)の3冊を取りあげて検討しているが,結果とし てこれらはいずれもタイトルに「サウンドスケープ」を 用いているが,「シェーファーのように,上の著者たち それぞれも,聴き手と,どのように聴き手が芸術的な主 体や文学的主体,あるいは倫理的主体になるかというこ とに注意を向けるために,音を無視している」(
Kelman
2010:223)。次にケルマンは「サウンドスケープ」に批判的に取り組 んだものとして,
Kay Kaufman Shelemay
のSoundscapes
(2006),
Barry Truax
のAcoustic Communication
(1984),Emily Thompson
のThe Soundscape of Modernity
(2002)の3冊を取りあげ,次のように述べている。「それぞれ の本でサウンドスケープの語を使用しているが……読者 にその語とその語の一般的な使用について再考するよう もとめている。それぞれの本がその語の共鳴(
resonance
) を十分に活用しているが,結局のところ,自分自身の目 的にしたがって,その語を再定義するか,枠づけしなお している」(Kelman
2010:223)。このことによっては じめの2冊はサウンドスケープという「語の潜在的な広 がりと適用可能性を制限している」(Kelman
2010:225)。それにたいして「トンプソンはサウンドスケープ4 4 4 4 よりも,モダニティの音4に焦点を合わせている」(
Kelman
2010:226)。こうした検討を通してケルマンは次のよう に述べている。「シェーファーの用語に批判的に取り組 んでいる著者たちにとってさえ,その用語じたいとらえ どころがないことに気づく……彼の用語を分析に使える ようにするために,ほとんど完全に再定式化しなければ ならなかった」(Kelman
2010:226)ケルマンがもっとも評価しているのがアラン・コルバ ンの『音の風景』(原題
Les cloches de la terre
〔大地の鐘〕)(
Corbin
1994 = 1997)であり,「コルバンは……サウン ドスケープを完全に避けているが,そうすることで,彼 は多くの著者たちがはじめにその語を使おうとしたとき に意味していたことを適切にとらえている」(Kelman
2010:227-
8)。「コルバンの研究は,音についての研究 のモデルのひとつであり……彼が描いているものは,シェーファーの用語でのサウンドスケープではまったく なく,より複雑で,より綿密で,より洗練され,詳細な ものである。コルバンはサウンドスケープについてまっ たく述べていないが,彼は,特定の音とそのメディアで ある物質をめぐって生じる社会的関係と文化的関係を実
証し,増幅させる」(
Kelman
2010:227)。検討の結果,サウンドスケープは不要ということであろうか。「豊か な研究の鉱脈」はどこに見いだせたのだろうか。
1.5 ケルマンの結論とケルマンの議論の検討
シェーファーと近年のサウンドスケープの研究の検討 を通してケルマンが至った結論は次のようなものであ る。「サウンドスケープについてのシェーファーの広大 で不安定な説明は,音の社会的生活の研究のために実際 に使えるモデルをほとんど,あるいはまったく提供して くれない」(
Kelman
2010:228)。それではサウンドスケープの魅力とは何か。「そもそ もノイズと音を有意味なものにするのは,まさにそれに たいして生じる,あるいはそれとともに生じる音と文化 のコンテクストである……音についての詳しい区別を行 うことは,コンテクストが決定的な役割をはたす社会的 な過程である……シェーファーの用語が共鳴をもたらし 続けているのは,音とコンテクストとの間の関係が,音 についての研究者にとって真に問題である4 4 4ことを示唆し ているからである」(
Kelman
2010:230)。音とコンテクストの関係は音についての研究,サウン ド・スタディーズにとってきわめて重要であり,そして
「サウンドスケープ」はその関係を想起させるものであ り続けている。このことは確かなことだとしても,これ はシェーファーにしっかりと取り組まなければ得られな かった結論なのだろうか。
ケルマンがシェーファーについて取りあげているの は,音と聴くことの混同という自らのシェーファーにた いする批判を論証するため,およびシェーファーの偏見 を示すためにとどまっている。ケルマンは,シェーファー のサウンドスケープの説明が「広大で不安定」であり,「音 の社会的生活の研究」のためのモデルになりえないと結 論づけているが,サウンドスケープについてのシェー ファーの定義の検討を行っていない。
ケルマンはシェーファーの定義について次のように取 りあげている。「サウンドスケープという用語を使う大 部分の研究者が,『研究対象となるあらゆる聴覚的領域』
(
Schafer
1993:
7)〔『われわれが研究の対象とするすべて の音響的フィールド』(1977=
1986:27)〕としてのサウ ンドスケープというシェーファーの広い定義を用いてい るが,シェーファー〔の議論〕により深くは取り組んで いない」(Kelman
2010:215)。少し細かくなるが,ここでケルマンはサウンドスケー プの定義をシェーファーの 1993 年の
The Soundscape
(1977 年の
The Tuning of World
の再版)の 7 頁からとっ てきたものとして「any aural area of study
」と記載をし ているが,原文では「The soundscape is any acoustic
field of study
」(Schafer
1993:7)となっている(6)。「any aural area of study
」も「any acoustic field of study
」も,‘
area
’か‘field
’の違いで,たいした違いでないと考えられるかもしれないし,どちらの表現だとしても,こ の定義は広すぎ,「広大」かもしれない。しかし,これ に「より深く」取り組んだとしても「不安定」な状態は 多少なりとも変えられないのだろうか。より深い取り組 み方にはさまざまなやり方が可能であるが,これまでの 研究者たちが表現だけを使い,シェーファーの議論に しっかりと取り組んでいないことを問題にし,「研究の モデル」をそこから得ようとするのであれば,定義につ いてよりしっかりと取り組むべきだろう。したがって,
本稿ではこの定義についても検討する。
さらにケルマンがシェーファーの問題としている点に ついて論じていないことがある。ケルマンはシェー ファーが音と聴くことを混同しているということを再三 にわたり批判しているが,なぜそうした混同が生じるの かということを,考えているかもしれないが,取りあげ てはいない。こうした混同を避けることの重要性,また そのことの「音の社会的生活の研究」にとっての意味に ついても説明していない。ケルマンが問題にしているの は混同であり,なぜそれが問題になるのかは論じていな いのである。このように,なぜそうなるのか,という視 点は,シェーファーの音の「選好」における「偏見」に ついての議論でも欠如している。これはケルマン以外の 論者についても同様にあてはまる。次にこの点について 検討する。
ケルマンはシェーファーの議論の検討を行っている が,そこからこんにちの音の研究にとって重要な視点や 論点などを引き出せておらず(そうしたものは「ほとん ど,あるいはまったく」ないというのが結論のようであ る),こんにちの研究にとっての音とコンテクストの重 要性を示すのであればコルバンの著作の検討でもよかっ たのかもしれない。結局のところ,ケルマンが批判する 他の著者たちと同じように,ケルマンは「サウンドスケー プ」という表現が有名なものであり,音と空間との関係 を示唆するということ以外のことを引き出せていないの ではないだろうか。
2.シェーファーの「偏見」と立場
ケルマンだけでなく,上に引用したアイゼンバーグや アルケットもシェーファーの音にたいする「偏見」を批 判している。サウンドスケープに好意的なサミュエルズ らも,シェーファーによって「“ノイズ”は“音”の敵 として表象されている」(
Samuels, Meintjes, Ochoa and
Porcello
2010:331)と指摘している。しかし,上述のように,こうした批判で十分に考えられていないのが,
なぜシェーファーがそうしているのか,ということであ る。ケルマンはそれをシェ―ファーの「選好」,好みの 問題としており,ヘルムライヒはサウンドスケープにつ いて「シェーファーの牧歌的な(
pastral
)概念」(Helmreich
2010:10)と述べている。シェーファーが問題にしたのは音環境の問題であり,
次のような現状認識である。「騒音公害は今や世界的な 問題である。どうやらわれわれの時代に至って世界のサ ウンドスケープは劣悪の極みに達したようだ」(
Schafer
1977=
1986:21)。そしてこれが特に問題になることも あるのが都市である。都市では人の声,子どもの声さえ「騒音」とされたり,それに悩まされたりする人もいる。
シェーファーはこうした「騒音公害」を改善しようとし た。そしてその原因のひとつ,かつ重要なものとして次 のことを考えた。「騒音公害は人間が音を注意深く聴か なくなった時に生じる。騒音とはわれわれがないがしろ にするようになった音である」(
Schafer
1977=
1986:22)(7)。
たとえば,川に関心がもたれていない地域では川が汚 れ,川に親しみがもたれ,川に関心が持たれている地域 では河川の環境が良好に保たれるといったことがある。
街路樹や森林なども同様である。その場合,川や木,自 然に関心を持つことについての呼びかけはどうとらえら れるだろうか。あるいは健康についてないがしろにされ たり,そうされざるをえないとき,食はどうなるだろう か。飲酒や喫煙などではどうだろうか。
環境として「良好」な状態を作っていくために,でき るだけ多くの人に関心を持ってもらうこと,またそうし たことに取り組む人たちを養成していくことも必要とさ れ,実際に教育や養成などが行われている。シェーファー は音環境にたいして,そうしたことが必要という立場に 立 っ て い る。「 必 要 な の は 耳 栓 で は な く〈 透 聴 力 〉
〔
clairaudience
〕である」(Schafer
1977=
1986:22)。こ うした視点が音以外に用いられた場合,重要な視点や主 張になるかもしれない。だとすれば,なぜ音ではそうな らないのか。複数の感覚の関連について指摘されること も多いが,こうした点からも複数の感覚についてのとら え方が比較されるべきだろう。ケルマンは,シェーファーにたいする批判として次の 点を指摘している。「結局のところシェーファーは背景 のノイズを沈黙させたいと思ったが,こんにちの音につ いての研究の多くは,それをよく聞くために,音量をあ げようとしている」(
Kelman
2010:229)。音について の研究者のなかには騒音のなかで生活し,研究すること に喜びを見いだす人たちもいるかもしれないが,より静 かな環境を好む人たちもいることだろう。音の研究を「戸 外に」連れ出そうとするインゴルドは,その戸外として都市を想定していないようだが,その好みはなぜ問題に されないのだろうか(和泉 2018)。
ブランドン・ラベルは
Acoustic Territories
のなかでロ ンドンの騒音についても取りあげているが(Labelle
2013),音に悩んでいる人たちがいるとき,「それをよく 聞くために」ノイズの「音量をあげよう」などと言える だろうか。ノイズは重要な研究対象とはいえ,音の社会 的なコンテクストを考えるということに,そうした人た ちのことは入らないのだろうか。「好み」について真剣 に考えることが,感覚の文化的,社会的な研究に必要な ことなのではないだろうか。音の好みについてシェーファーは次のように述べてい る。「音を美的特質によって分類することはおそらく他 のどの分類法よりも難しいだろう。音は個々人にそれぞ れ異なって作用し,一つの音でも極めて多様な反応を引 き起こすことが多いため,研究者は容易に混乱させられ 意気消沈することがある」(
Schafer
1977=
1986:211)。それでは,なぜシェーファーは音を区別(差別)するの だろうか。たしかに自然を好むという好みもあるだろう が,ノイズの定義を検討するなかでシェーファーは次の ように指摘している。「……最も満足のいくものはやは り『望ましくない音』である。ここでは,
noise
はあく までも主観的な用語として定義されている。つまり,あ る人にとっての音楽も別な人にとっては騒音になりかね ないのだ。しかしながらこの『望ましくない音』という 定義は,ある社会においてどの音が望ましくない断絶を つくりあげているかに関しては,おおむね見解の一致を み る は ず だ と い う 可 能 性 を 示 し て い る 」(Schafer
1977=
1986:263-
4)。この「おおむね見解の一致をみる はずだ」という点は問題がある。見解の一致が生じない こともかなりあるからである。シェーファーがこうした立場をとるのは,音の量的測 定の問題のためである。「……デシベルによる制限……
音の量的な測定は騒音に『大きな音』という意味を与え がちであるが,それはとても不幸なことである。なぜな ら周知のように,人をいら立たせる音すべてが大きいと は限らない……」(
Schafer
1977=
1986:264)。かすかな音,小さな音も人を悩ませることがある。大きさの問題では ない。アルケットはこの点を適切にとらえている。「……
サウンドスケープの研究は,発せられる音がどのような 種類かに関係なく,一般的な振幅レベルの制限に直接的 に取り組んでいる騒音減少のための多くの組織と対照的 である」(
Arkette
2004:161)。「サウンドスケープ・デザインは,決して上から統御 するデザインになってはならない。むしろ意味深い聴覚4 4 4 4 4 4 文化4 4の回復こそが問題であり,それはあらゆる人々に課 せられた仕事なのである」(
Schafer
1977=
1986:292)。シェーファーの議論は一貫しているわけでなく,特定の 音を排除し,特定の音で支配したいように見える箇所も 多々見られるが(たとえば,「このことがわかれば,退 屈な音や破壊的な音もはっきりとし,それらを排除しな け れ ば な ら な い 理 由 も わ か る だ ろ う 」(
Schafer
1977=
1986:291-
2)),まずはよく聴く文化を求めている。こうしたこととサウンドスケープの概念との関係につ いては後で検討するが,その前にヘルムライヒのサウン ドスケープについての議論をみておく。
3.ヘルムライヒのサウンドスケープと「変換」
ヘルムライヒはサウンドスケープを次のように定義す る。サンドスケープは「聴き手が空間のなかで自らを取 り 囲 ん で い る も の と し て 経 験 す る 音 響 的 環 境 」
(
Helmreich
2010:10)。そして「シェーファーは,サウ ンドスケープをランドスケープの音のバージョンとし て,静観=計画(contemplation
)の対象として分節化した」(
Helmreich
2010:10)と指摘する。ヘルムライヒが問題視しているようであるのは,サウンドスケープが 音を「対象」や「物」としてとらえる点である。この点 からインゴルドの「反サウンドスケープ」を取りあげて いる。「ティム・インゴルドは『反サウンドスケープ』
のなかで,サウンドスケープは音を経験として扱うので はなく,音を客体化していると示唆している……私はイ ンゴルドの批判を拡張し,複雑化したい」。(
Helmreich
2010:10)。しかし,ヘルムライヒはインゴルドの立場 を受け入れているわけでもない。ヘルムライヒはサウンドスケープが主体と客体につい ての特定の見方にもとづいていると指摘する。「……サ ウ ン ド ス ケ ー プ の 概 念 は 観 想 的 な 美 学 と 客 体 化
(
objectification
)と主体化(subjectification
)の技術の混 合から生じた。サウンドスケープは,所与の空間のアコー ステモロジーと,世界から離れているとともに世界に 浸 っ て い る 聴 き 手 の 影 に つ き ま と わ れ て い る 」(
Helmreich
2010:10)。また,この主体化と客体化につ いて以下のように説明している。「サウンドスケープの 概念が機能するためには,空間性にたいして特定の態度 をとっている聴き手を前提にする必要がある。スティー ブン・フェルドの有益な概念を使うと,そうした聴き手 は, 人 を 空 間 の な か に 位 置 づ け ら れ(emplaced in
space
),外的な客観性を処理する内的な主観性を持つものとして想像するアコーステモロジー4 4 4 4 4 4 4 4 4を持っていなけれ ばならない」(
Helmreich
2010:10)。さらにヘルムライヒはサウンドスケープと近代,技術 との関連を指摘する。「そうしたアコーステモロジーは デカルト的なものからケージ的なものにまで及ぶかもし れないが,サウンドスケープの概念は,美学的,概念的
な隔たり(
remove
)にある音をとらえる技術によって 可能になった。エミリー・トンプソンが『モダニティの サウンドスケープ』と呼んでいる電話通信,フォノグラ フィー,建築音響学によって音は抽象的にとらえられる ようになった。サウンドスケープはそうした技術による 逆形成(back-formation
),事後作用(after-effect
)である」(
Helmreich
2010:10)。アコーステモロジーというより「アコウステーメー
(
acousteme
)」(8)とした方がいいところもあるかもしれ ないが,こうした特定のアコーステモロジーにもとづく「 サ ウ ン ド ス ケ ー プ に 抗 し て 聴 く こ と 」(
Listening against Soundscapes
)の可能性について,ヘルムライヒ は,ライラ・アブー=ルゴドの「文化に抗して書くこと(
Writing against Culture
)」を参照している。アブー=ルゴドは,大きな影響を及ぼしたジェイムズ・
クリフォードとジョージ・マーカス編『文化を書く』
(
Clifford and Marcus
1986 = 1996)にたいして,「文化」という概念の問題を指摘する。文化は自己と他者,主体 と客体の分離を前提にしており,「“文化”が一貫性,無 時間性,離散性(
discreteness
)の影につけまとわれてい るとすれば……人類学者は文化に抗して書くための戦略 を考えるべきだろう」(Abu-Lughod
1991:147)と主張 する(9)。ヘルムライヒによれば,アブー=ルゴドはこ のことを「3つの方法,つまり言説と実践の動的な特性 に注意を払うこと,社会的世界の間の予期しないつなが りに注意を払うこと,特殊なものと還元不能なものに注 意を払うこと,によって成し遂げられると示唆している」(
Helmreich
2010:10)。アブー=ルゴドの「文化」にたいする批判は,インゴ ルドのサウンドスケープ批判と共通する点もあるが,ヘ ルムライヒはインゴルドがサウンドスケープを対象化し ないために用いる「浸っていること(
immersion
)」の概 念にたいしても批判する(10)。「どのようにサウンドスケー プに抗して聴くことができるのだろうか? インゴルドに 反して,サウンドスケープは浸っていること(immersion
) の概念,空間に位置づけられていると同時に,折に触れ て空間と多孔的に浸透する形で連続しているという感覚 を持った聴き手の出現に取りつかれているという考えか ら始めることもできるだろう」(Helmreich
2010:10)。ヘルムライヒが言及しているわけではないが,この「浸 ること」は聴覚の特徴づけにもかかわる(したがってジョ ナサン・スターンの「視聴覚連祷」(
Stern
2003=
2015:28
-
9)にもかかわる)。ウォルター・オングは音と「浸 ること」について次のように述べている。「視覚は分離し,音は合体させる。視覚においては,見ている者が,見て いる対象の外側に,そして,その対象から離れたところ に位置づけられるのに対し,音は,聞く者の内部に注ぎ
込まれる……視覚は,一どきに一方向からしか人間に やって来ない。つまり,部屋を見たり風景を見たりする ためには,眼をあちこちに動かさなければならない。と ころが,聞くときには,同時にそして瞬時に,あらゆる 方向から音が集まってくる。つまり,わたしは,自分の 聴覚の世界の中心にいる。その世界はわたしを取りかこ み,わたしは,感覚と存在の一種の核の位置にいる……
聞くことのなかに,音のなかにひたりきることはできる が,おなじようなしかたで視覚のなかにひたることはで きない」(
Ong
1982 = 1991:153)。この聞くものの中心 性はサウンドスケープの概念にとって重要な意味を持 ち,サウンドスケープと浸ることは相反するものではな い(浸っても「反サウンドスケープ」にならない)とい うのがヘルムライヒの指摘である。この「浸ること」に抗するものとしてヘルムライヒが 位置づけるのが,彼が潜水艇での経験から得たと述べて いる「変換」(
transduction
)である。「浸ることにたい して,私は変換4 4という分析の視点を得た」(Helmreich
2010:10)。「 変 換 」 は『Keywords in Sound
』(Novak
and Sakakeeny
2015)でキーワードのひとつになっており,ヘルムライヒがその項目を執筆しているが,以下の ように説明されている。「受け容れられている説明によ ると,音は媒体(
medium
)を通して伝えられるエネルギー のひとつの形態である。しばしばそのエネルギーは媒体 を横断して,あるいは媒体の間を移動する。たとえば,アンテナから受信機=受信者,増幅器から耳,明るい空 気から不明瞭な水へ。そうした交差とともに音は変換さ4 4 4 れる4 4……変換は,媒体(
media
)を横切るにしたがって,そのエネルギー的基体(
substrate
)の変容(たとえば,電気的なものから機械的なものへ)を受けるなかで,そ の物質と意味の両方を変化させる変質を経るとともに,
音がどのように変わるのかについて名づけたものであ る」(
Helmreich
2015:222)(11)。ヘルムライヒは「浸ること」と変換との関係について 次のように指摘する。「水中の状況が明らかにすること は,変換の働きが,浸ることのできるサウンドスケープ の基礎をなしているということであった」(
Helmreich
2010:10)。「音に浸るという経験は,変換の構造によっ て可能になる」(Helmreich
2015:224)。それではなぜ変換は,浸ることにたいするもの,「サ ウンドスケープに抗して聴くこと」になるのだろうか。
この点についてのヘルムライヒの説明は明確でない。浸 るという経験の条件になること,その基礎になることは,
必ずしもそれに抗することにはならない。この点につい て,ヘルムライヒも引用しているジュリアン・ヘンリケ スの次の指摘をあわせて考える必要があるかもしれな い。「変換のそれぞれの点で,電気的,音的,あるいは
文化的に,あるものは他のものへと変化する。このこと は過剰を創り出す。変換は,形式/内容,類型/実質=
物質,身体/心,物質/精神の二元論をこえる過程を描 き出す」(
Henriques
2003:469)。インゴルドもこうした二元論をこえるために「浸るこ と」という経験を重視し,またサウンドスケープを批判 しているが,ヘルムライヒは変換によって「浸ること」
を批判的にとらえる。だとすると,ヘルムライヒはイン ゴルドを批判することにはなってもサウンドスケープに 抗して聴くことにはならないのではないだろうか。ヘル ムライヒは,サウンドスケープと「浸ること」をともに 共通のアコーステモロジーに位置づけるが,インゴルド はそうした位置づけに納得しないかもしれない。さらに,
変換によって,どのように,またどこまで「サウンドス ケープに抗して聴くこと」ができるのかをヘルムライヒ は示していない。
サウンドスケープについては「
against
」が積み重ねら れる状態になっており,それらが併記的に,いずれもサ ウンドスケープ批判として一括りにされることもある。こうした重なり反響し合う「
against
」のなかから音につ いて有益な議論や視点が提示されているが,本稿の最後 に,ケルマンが検討していなかったサウンドスケープの 定義について検討することで,これらの議論や論点のい くつかを明確にしてみたい。4.サウンドスケープの定義の再検討
シェーファーはサウンドスケープを次のように説明し ている。「サウンドスケープとは,われわれが研究の対 象とするすべての音響的フィールドである。ある音楽作 品をひとつのサウンドスケープとして,あるラジオ番組 をひとつのサウンドスケープとして,またある音環境を ひとつのサウンドスケープとして考えることができよ う。特定の 風ランドスケープ景 の特徴を研究できるのとちょうど同じ ように,ある音環境をひとつの研究フィールドとして分 離することができる。しかしながら,サウンドスケープ の正確な印象を系統立てて述べることはランドスケープ の 場 合 に 比 べ る と そ う 容 易 で は な い 」(
Schafer
1977=
1986:27)。さまざまな議論のなかで,これが定 義としてしばしば用いられているものである。音環境だけでなく音楽作品やラジオ番組など,「われ われが研究の対象とするすべての音響的フィールド」が サウンドスケープである。このためサウンドスケープは あらゆる音と場所や空間との関係にかかわる研究に用い られるようになり,広すぎるということにもなる。しか し,サウンドスケープは音と場所,空間だけで構成され るのではない。
ヘルムライヒは次のようにサンドスケープを定義して