阪谷芳郎と会計法の制定
Yoshiro Sakatani and the Public Finance Law
西尾 林太郎
NISHIO Rintaro
Abstract
Simultaneously with the promulgation of the Meiji Constitution on 11
thFeb. 1889, the Imperial House Law, the Election Law and Public Finance Law were enacted, the following year the Imperial Diet was established. Previously, in 1886、the Government started revising public finance system, the young high-rate bureaucrat of MOF, Yoshio Sakatani (1863~1941) wrote the draft of the new public finance law in consultaion with the laws of public finance of UK, France and Belgium. Many texts of law of this draft were eliminated, but the regulation which requests severe rules of accounting official was left.
はじめに
帝国議会開設が近づくと、政府は憲法制定のほかにも各方面でその準備をする必要に迫ら れた。財務会計制度の整備もまたその一つであった。なぜなら、議会を開設することは租税―
予算を含む、国家の財務・会計に議会を参加させることを意味する。そのために、旧幕時代の 半ば大福帳中心の財務会計から、近代国家にふさわしい予算制度とそれを可能にする体系的な 財務・会計制度の確立が急務であった。ちなみに帝国議会では、民党は予算案を中心に財政問 題で藩閥政府に迫ってくることが予想されたが、初期議会でそれは現実のものとなった。
明治憲法下における国家の財務・会計を規律する法令は、会計法(明治
22[1889]年法律第 4
号) であった。名称は「会計法」でも会計ないしは経理ばかりか、その内容は財政全般にわたり、今日の財政法の内容をカバーするものであった。明治政府はこの会計法とその関連法規とによ り予算を策定し、初期議会に臨んだのである。
さて、明治政府がこの会計法を制定するに当たり、その中心になったのは岡山県出身の若き 大蔵官僚・阪谷芳郎(1863~1941)である。彼は、唯一ひとり漢学者として福沢諭吉らの明六社 に参加した阪谷朗廬を父に持ち、東京大学文学部(政治学・理財学専攻)を卒業後大蔵省に入り、
主計局長を経て大蔵次官に累進し、さらに第
1
次西園寺内閣の蔵相に就任した。また、大正初 年、東京市長に就任の後、貴族院議員として男爵議員の会派・公正会の領袖として広く政界に
その名を知られた1。
この若き大蔵官僚が近代国家形成期に当たり、明治国家の財政についてどのようなビジョン を描き、それが会計法にどのように結びついたのか。本稿は、阪谷が作成した会計法の原案を 主な素材として、彼の財政ビジョンを探り、会計法制定過程の一端を明らかにするとともに、
そこにおける阪谷の役割について考察することを目的とする。2
1.会計法取調委員
伊藤博文を中心に帝国憲法の草案作成が始まったころ、大蔵省でも財務会計制度の整備のた めの特別チームが編成された。明治
19(1886)年 12
月、渡辺国武主計局長の下、阪谷主計局 調査課長を中心に会計法取調委員が任命された。そこで阪谷は新たな会計法草案の起草にとり かかった。同月16
日、阪谷は東大時代の恩師であり、大蔵省入省後は上司でもあった田尻稲次 郎(後、大蔵次官、会計検査院長)の米国留学以来の盟友ともいうべき駒井重格しげただをその自宅に訪 れ、「会計法起草ニ付相談」3をしている。駒井は旧桑名藩士であった。アメリカに留学し、帰国後大蔵省に勤務したが明治
13
年、田尻 や目賀田種太郎らと経済・法律を教授する目的で「専修学校」(
後の専修大学)
を立ち上げた。明 治14
年に岡山県立中学・岡山師範学校校長に就任のため、一時同省を離れたが、翌年12
月東 京に戻り、同校の講師を再び務めるとともに、大蔵省に復帰した。そして翌年、ルロア・ボリ ュー(Paul Leroy-Beaulieu, 1843-1916)の『財政論』(Traité de la science des finances,1877、
2e
édit.1879)の原著第 2
版の一部を翻訳し、田尻の校閲を経て『歳計予算論』(青黎閣刊、492ページ)として刊行、明治
19
年1
月には専修学校より改訂版を出版していた(写真 1)。すでにボ リューの財政論については田尻が関税や地方税の部分を翻訳して自ら刊行しており、駒井の仕 事はあるいは田尻の示唆によるものとも思われる。なお、「ボーリューの学風はイギリス古典派の影響を受け、自由主義的色彩が濃 厚であったが、その内容はきわめて実際的で、財政についての豊富 かつ技術的な知識を提供するものであった」4。田尻や駒井はその豊 富な事例等に注目したのかも知れない。
駒井はその他にも明治
10
年代に、フォーセット『自由保護貿易 論』(明治13
年刊)、グーシェン『外国為換論』(明治16
年刊)など 経済に関する6
冊の図書を鋭意翻訳し、共に専修学校から刊行し ている5 。国会開設を目前に、政府による予算案の作成と議会によ るその審議そしてその執行が会計法の最重要部分であることが考 えられる時、その草案作成を担当することとなった阪谷がボリュ ーの『歳計予算論』を翻訳・刊行した駒井を訪ね、草案作成に向け 相談したことは自然であった。なお、「歳計予算」とは、初代衆議院書記官長曽禰荒助
(
第1
次桂内閣蔵相)
によれば、「国家カ 写真1(国立国会図書館所蔵)
一定期間ニ支出収入スヘキ歳出及歳入ヲ計算公表スルヲ謂フ」6、即ち今日のいわば年度予算の 意であり、昭和戦前期に至るまでしばしば使われた語である。
さて後述のように、会計法は帝国憲法が発布された明治
22
(1889)年2
月11
日、皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令とともに憲法付属の法令のひとつとして公布されたが、その翌年、
帝国議会の開設をその年にひかえ、阪谷は会計法の解説書『日本会計法要論』(博文館刊、160 ページ)を刊行している。ここで彼は自ら関わった会計法の意義と目的を次のように述べている。
明治
23
年に於いて帝国議会は召集せらるへし。其重なる職務の一つは会計監督なり。現 行の会計法は帝国議会のなき時の事情に適当にして作りたる者なれは23
年以後は更にそ の事情に適するか如く改正せさるを得す。且つ現行の会計法は特別資金の如き、期満免除(時効―引用者注)の如き、政府の工事及ひ物件売買貸借の如き、出納官吏の責任及其身元保
証の如き、其他数多改正追加を要する点あるを以て、政府は19
年の末に於て会計法取調 委員を命し、現行の会計法を基礎とし広く欧米各国の会計法規を参酌し更に会計法を作る らしめらる。即ち22
年2
月以来漸次公布せられたる会計の諸新法はその取調の結果にし て此等の法規は何れも23
年4
月1
日を待ちてその運動を始むへきなり(79~80
ページ、カタカナ表記を平仮名表記に改めた)。
そもそもこれ以前に会計法規が無かったかと云えば、そうではない。明治
2
年1
月に出納司 規則書が制定されて以来、歳入出見込会計表作成(
明治6
年6
月)
、金穀趣意等取扱順序、大蔵 省出納条例、会計法及び会計検査院章程(
太政官第5
号達、明治15
年)
が公布されるなど、次第 に財務会計制度が整備されて来た7。また一会計年度も「7
月~6
月」、「1
月~12
月」と試行錯誤 の後、明治17(1884)年 10
月には「4月~3月」と定められ、19
年度から実施されていた。この 会計年度制は、阪谷の会計法原案に踏襲されることにより確定され、今日に至っている。ともあれ彼の課題は既存の制度の不備を洗い出して修正し、さらに欧米の最新の制度を採り 入れることによって、立憲政治・議会政治に耐えうる強固な会計制度を確立することであった。
2.会計原法草案
既にふれたように会計法取調委員となって早々、阪谷は駒井重格を自宅に訪ね、会計法起草 について相談したのは
12
月中旬であった。その草稿が出来たのは、それから7
か月ほど経っ た明治20
年7
月11
日である。彼は日記に「会計原法草案成ル。夕上野散歩。充血頭痛ス。」8 と書き付けている。この会計法草案は「会計原法草案」9 と題され、第1
章総則、第2
章予算、第
3
章収入、第4
章支出、第5
章決算、第6
章会計官、第7
章官有財産、第8
章本法施行に関 する特定則、の全8
章177
か条から成る大部なものであった。「原法」とは 基 本 法ファンダメンタルロー
という ほどの意味であり、この会計法を今後制定され整備されるであろう財政関連法令の根本法とし ようとする阪谷の意気込みが、ここに感ぜられる。なお、この草案は
45
ページの説明と112
ペ ージにわたる条文からなる。前者には阪谷の基本方針や国家財政に関する彼の基本理念が述べられている。以下、この部分の引用等に当たっては「会計原法草案」説明と表記する。
阪谷は維新後積み重ねられてきた慣例を尊重しつつも、ヨーロッパでの最新の財政システム を取り入れようとした。イギリスを中心にフランス、ベルギー、イタリアの制度が参考にされ た。彼によれば会計法が最も整備されているのはフランスで、その逆に整備されていないのは イギリスであった。フランスの会計は理論に基づいており、「完美」ではあるがそれを実際に機 能させるには多くの官吏が必要で、その分金がかかる。これに対しイギリスは法制度としては 雑然としているが、予算議定や徴税事務を地方に任せ、支出事務はイングランド銀行に取り扱 わせるなど実務的には極めて合理的である。そこで、彼はイギリスの制度を準拠制度とし、加 えてナポレオン
3
世治下で編纂されたフランス会計法とその影響を受け、「損益」を斟酌しつつ その後「一進歩」したベルギーやイタリアの会計法を参考としたのである(「会計原法草案」説 明)。阪谷は言う、こうしたヨーロッパ諸国やアメリカの会計制度には違いがあるが、帰するとこ ろは「金庫統一」である、「金庫統一」とは大蔵省が国家の財務を統括することであり、「苟モ 一銭ノ収入半銭ノ支出タリトテモ其ノ政府の経済に属スルモノハ国庫の帳簿ニモルルモノナカ ラシムルニアリ」
(
「会計原法草案」説明)、と。そして金庫を統一しさらに正確性を担保するた めに、予算・決算という議会による立法上の監督が必要であり、会計検査院による司法上の監 督が不可欠とする。後に述べるように、阪谷は財務執行上の問題点の処理は会計検査院の審査・判断によるとした。以上を前提として阪谷は草案を作成したのである。
さて、この阪谷案は、現金管理に対し従来ほとんど考慮されてこられなかった官有財産の管 理や処分にも配慮し、さらに財産会計とは別に物品会計の項目を立て、消耗品や帳簿の管理を そそ項目に入れた。それは、旧幕以来の半ば慣行と化してこの時に至ったであろう家産官僚的 な行政行為に対し、公私の別を明確にしようとする阪谷の意図によるものであった。そうした うえで、彼は「政府に属する一切の動産及不動産」が官有財産であるが、それは3つに分類で きるという。①「道路河流公園紀念碑」など公益に供するもの、②「行政ノ用」に供するもの で、砲台軍艦等軍政に供するものや家屋備品等「文政」に供するもの、そして③森林鉄道電信 等収入を目的とするもの、の3つである、巨大化する可能性のある鉄道・電信事業は別の独立 組織とするとしても、収入を目的とする他の森林や工場などは「官営財産局」を大蔵省に設け、
そこで管理するべきであるとする。彼がこのような一大官営事業を構想したのは、すぐ後に見 るように単なる大大蔵省主義からばかりではなかった。
阪谷は森林鉄道電信等の収入を「国民一般ノ利益」とすることを視野に、「政府ノ大財源」と することを考えていたのである。彼は「維新以来俄カニ欧米文明ノ風ヲ模倣セルヲ以テ軍備教 育其他官署家屋建築等万般ノ事之ヲ国ノ富ニ比較スレハ実ニ不相応ナリトス」「会計原法草案」
(
説明
)と考えた。日本全国の毎年の殖産高と租税その他公納とを比較すると、4割ないし5割
で旧幕時代の五公五民の「暴政」と異ならない、従って今後租税を減ずることはあっても増税 はするべきではない、と説く。国債を整理しその費用を減ずる一方、財源不足は、郵便・鉄道・
電信事業を拡大し、その収入で補えばよく、これらの事業は大蔵省管轄とするべきことを提言 する(「会計原法草案」説明)。すなわち、彼は将来有望と目されたこれらの事業を国営とし、大 蔵省主導で大いに収益を挙げ、租税とは別にそれを国家収入の柱のひとつとすることを提案し た。この時、彼の頭にはかかる官業が民業の発展を阻害し、圧迫するなどという発想はなかっ たようである。
他方、官営の工場・学校・病院などは会計上の管理は厳格にするとしても、特別会計として 一般会計と切り離したほうが、「実際上便利」(「会計原法草案」説明)であるとして特別会計制 度の導入を提言している。
これは既存の便法を追認するものであった。すなわち「官業ノ漸次発達スルニ従ヒ之ニ関ス ル諸般ノ経費ヲ一般ノ会計中ニ混同シテ整理スルハ事業ノ経営上障碍少ナカラサルヲ以て茲ニ 特別ノ経済ヲ立ツルノ得策ナルコトヲ感シ、官業上ノ収支ハ一般会計ト区分シ別トニ会計ヲ立 テ、別金櫃ヲ設ケテ之ヲ整理スルノ方法ヲ設クルニ至」10たが、その他鉄道基金、起業基金、
勧業基金なども同様に別途会計として取り扱われて来た。明治
19
年1
月、大蔵省主計局に雑 種金課が設置され、これら別途会計を管理していた。阪谷はこうした事情を考慮し、別途会計 の管理と処理を特別会計とし、一般会計と切り離そうとしたのである。後に見るように、この 特別会計は会計法大蔵省案にも引き継がれ、成案となったが、明治憲法体制発足10
年を出でず して、歳出総額に占める特別会計の比率は約2
対1(明治 30
年)にまで上昇し、さらにその後そ の比率は上昇を続けることとなる11。また彼は、「各年度ニ於テ執行スル所ノ政府ノ歳入歳出ノ総予算ハ毎年法律ヲ以テ之ヲ定ム」
(「会計原法草案」第 27
条)と、予算は法律であるとした。これはイタリア、ベルギーそしてフランスに倣ったことによる(「会計原法草案」説明)。そして「立法院」=議会が翌年度予算を前 年度中に議決できない場合、「前年度ノ予算ニヨリ収支ヲ執行」出来る(「会計原法草案」第
31
条)とした。これは当時のフランス財政法では村邑予算についてそれを認めていたし、日本の府 県会規則第33
条でも府県知事は同様な措置を講ずることができた。この条文の趣旨は憲法に 明記されることで、会計法から姿を消すことは後に見る通りである。さらにイギリスの例に倣い、「立法院」=議会の容喙できない永久財本制度を導入し、官有財 産や公権力の行使による収入さらに地租・国立銀行税・証券印税・訴訟用印紙税・北海道水産 税・米商会社税・株式取引税・酒造税・醬油税・醔麹営業税・菓子税・煙草税・売薬税・海関 税など
19
の租税収入を永久財本とし、これを帝室費や賞勲年金恩給・勅任判事会計検査院検査 官の俸給・国債元利金償還など永久経費の財源とした(「会計原法草案」第32、38
条)。また法 律が許可した場合を除き、各項間の流用の禁止(「会計原法草案」第47
条)、各予算に予備金を 認めるが、その通常な支出は会計検査院の承認登記を必要とし、非常なそれは閣議を経て勅令 による(「会計原法草案」第50、51
条)とした。この永久財本制度は皇室や官僚機構の財政基盤 の強化と財政規律確保のためのものであった。この阪谷案は後日、伊藤博文の幕僚のひとり井上毅をして「(大蔵省―引用者)主計局長出納局
長は各省会計局を監督
○ ○ママ
するの権あるへし各省会計局長に命令
○ ○ママ
するの権あるべからず」12とま で言わしめたほど、各省庁に対する大蔵省の管理監督の強化を目指すものであった。
さらに、阪谷案の特徴として、現金の出納や不動産・物品管理について極めて厳格な規律を 求めていたことである。すなわちその業務にあたる「会計官」の責任について明確に規定され、
場合によって会計官は賠償責任を負うものとされた。会計原法草案第
134
条に次のようにある。「…責任ト称スルハ各会計官ニ於テ故意又ハ過失怠惰及臨時ノ出来事ニヨリ其出納保管スル所 ノ官金ニ欠損ヲ生シタルトキ又ハ徴収スヘキ収入金ニ至ラサル時サラニ又ハ支出命令ニ反シ若 シクハ支出命令ナキ金額ヲ支出シタル時ハ総テ私財ヲ以テ其欠損又ハ政府ノ不利トナリタル金 額ヲ弁償スルノ義務アルヲ云フ」。さらに同じく
139
条では会計検査院が認めない限り、その 責任を免れないとする。すなわち「会計官其保管スル所ノ官金ヲ失ヒ又ハ盗マレタル時ハ其保 管上規則ニ定メタル注意ヲ怠リシニアラスシテ全ク人力ノ当タルヘカラサル天災強盗ニ係リタ ルコトヲ会計検査院ニ証明スルニアラサレハ其責任ヲ免ルルヲ得ス」(139条)。このように問題が発生し、会計検査院が責任ありと判断した時、当該会計官は弁済の義務を 負うこととなる。従って会計官は「身元保証金」を差出すことによる身元保証を可能にできる 者であることを必要とする (第
143~153
条)。いわば阪谷は、会計検査院による司法判断に会 計官(=収入官吏)に関する問題の判断を委ね、会計官に過失賠償責任を課すことを想定し、そうした事態にある程度耐えうる会計官であるべきとしたのである。以上の規定案は主にフラ ンスやベルギーの会計法を参考にしたと、第
6
章第2
款責任、第3
款身元保証のそれぞれ末尾 にある。ともあれ、会計官に関する阪谷の意図はその後大蔵省案そして政府案と受け継がれ13、 さらに枢密院の審議を経て成立に至る会計法の第9
章出納官吏の各条文に結実することとなる。阪谷による草案をもとに大蔵省で会計法の検討が始まったが、
8
月11
日には、予備費執行に 関する会計検査院の承認登記をめぐって「大議論」14と彼の日記にあるように、予算委員の間で 大きな議論を呼び起こした。阪谷は予備費について政府部内での安易な使用を抑制するため、その使用について会計検査院の承認が必要としたのであった。先の会計官の責任判断について もそうであるが、阪谷案では予備費使用についても会計検査院を《出動》させることを構想した。
3.井上毅の批判
会計原法案は井上毅にも届けられた。国学院大学図書館所蔵「梧陰文庫」所収の「会計法補 助書類」に合綴されている阪谷の「会計原法草案」の表紙の井上自身の書き込みによれば、彼 は
7
月25
日に閲読し、「此五項疑問」として「官有財産売却ニ法律ヲ要スル事」「支出命令ニ検 査院ノ登記を要スル事」「上等検査委員ノ事」「予算ヲ法律トスル事」「永久歳出入ノ事」の5
項 目を疑問点として挙げている。それは閲読直後の率直な感想であろう。この頃、すでに井上は憲法草案甲・乙両案を起草し終えていた。「会計原法ノ稿案ヲ内見スル ノ栄光ニ対シ其全備周匝そうニシテ将来憲法ノ羽翼タルヘキヲ賛成スルカ為ニ従ツテ愚見ヲ呈シ以
テ起草者ノ参考ニ供フ」15として、彼はこの
5
項目に加え20
項目余りにわたり阪谷の大蔵省案 に対し意見を述べた。井上はブルンチュリ―やグナイストをはじめとするヨーロッパの学者達 の著作の中でも、財政に関してはルロア・ボリューのそれを重視した。阪谷が起草にあたって 駒井に教えを請い、参考としたであろう駒井訳によるルロア・ボリュー『歳計予算論』を、井 上もまた手垢で表紙を黒くし、ページごとに朱や傍点を入れるほどに精読していたのであった16。ボリューは立憲主義の立場から議会の予算審議権を認めつつも、議会が国家運営にとり不 可欠な経費を否認したりして国家の存立を危うくすることを危惧する。この意味で彼はイギリ スを次のように高く評価する。「彼ノ英国ニ於テ国債帝室費年金公使俸給高等裁判官ノ俸給ヲ以 テ漫リニ国会ニ左右セシメサルハ宜シキヲ得ル者ト云フヘキナリ」17。
阪谷案に対する井上の意見はどうか。彼の意見書の要点は次の通りである。
この会計検査院による予備費の承認登記については、井上は賛成した。しかし、永久財本に よる永久経費の支出確保について、法律による必要義務の支出は議院が拒否できず、議院の毎 年承認を要しないものについては憲法にそれを明記するべきであって、プロシャ以外のドイツ 各国の例に倣うべきである、と井上は考えた。
また、予算が成立しない場合の前年度予算による予算執行は憲法上必要であるばかりでなく、
行政学の進歩により主張されたものであり、ザクセン憲法やスペイン憲法にもそれが書かれて いるので、本条に賛成である、と井上は考える。なるほど国家による行政サービスの安定性や 一貫性の必要性はこのころより国家学などで説かれる所であった。
しかし、予算を法律とすることについては各国が予算を法律と「指称」するが、反対である。
ここで各国というのは、先に見たようにイタリア、ベルギーそしてフランスである。が、イタ リアなどでは予算の増加処分もまた新たな法律でもって前の予算を修正する必要が出ているし、
ドイツのグナイストは予算とは議院の承認を受けた行政事務であり、法律ではないとする。自 分としては、「予算」を将来予算案・予算書と「指称」させたく、第
27
条「各年度ニ於テ執行 スル所ノ政府ノ歳入及歳出ノ総予算ハ毎年法律ヲ以テ之ヲ定ム」の規定は「縦令要用ナリトス ルモ憲法ニ掲クヘク、会計法に掲クへカラス」18と井上は主張した。かかる井上の意見のほとんどはこの阪谷案に取り入れられ、さらにいろいろな加筆・修正が 施されて、年末には
11
章201
条からなる「会計原法按」が作成された。そして明治20
年12
月14
日以降19
日にかけて会計法会議が蔵相官邸で連日開かれ19、翌年3
月、阪谷より会計原 法案が大蔵大臣に提出され、大蔵省内部の最終的な検討を経て、全9
章55
か条からなる会計 法大蔵省案が5
月15
日の閣議に提出された。これに対し閣議は紛糾した。大蔵大臣は一旦これを撤回したため、大蔵省側は修正案を作成 せざるをえなかった。かくして、修正案は
9
月に閣議決定を経て10
月には枢密院への諮詢に こぎつけた。会計法案は明治21
年11
月5
日から26
日にかけて審議されたが、大蔵省側から は松方蔵相と蔵相派出員として渡辺国武主計局長(後、蔵相)が出席した。会計法の諮詢案とその審議経過は稲田氏が論じておられるので、それに譲りここでは触れない20。こうして、
11
章33
か条からなる会計法が成立するに至った。阪谷が新会計法草案を脱稿して最終的に成立するまでに
1
年4
か月を要している。大蔵省内 部での審議、憲法草案起草者との摺り合わせ、さらには閣議における各大臣との調整に多くの 時間が費やされた。特に閣議は紛糾し蔵相は大蔵省案を一旦撤回せざるを得なかった。何故か。阪谷を中心に纏められた大蔵省案は、①各省庁の財務に関する大蔵省の統制強化、②各省庁 における現金・物品等の管理の適正化、③出納官吏への損害賠償責任制度の導入といった内容 をもつ画期的なものであった。それだけに大蔵省内部に多くの議論を呼んだであろうし、各省 庁の反発は強かったに違いない。例えば官有財産の管理権をめぐる対立がそれである。明治
20
年12
月の修正案について井上は「幾ト完璧ノ法律トナリ大体賛成ノ外コレナク候」21と評しつ つも、官有財産の管理権を大蔵省に集中するのであれば、新たに大蔵省財産管理局を置き、農 商務省山林局と内務省地理局の権限をそこに集中することになるが「此事各省事務分任に対シ 一ツノ変動ヲ起スヘシ」22(同)、また山林局、地理局に加えさらに大蔵省主計局が管理機関に加
われば官有物管理機関は3
つとなり、ますます不便となる。このように井上は少なくとも大蔵・農商務・内務三省の対立をほのめかすとともに、それが 表面化することを懸念した。その結果、大蔵省の官有物管理業務から不動産管理を切り離し、
大蔵省の監督権は物品会計のみに止めるべき、とした。この問題は井上の事前チェックにより、
閣議に提出する大蔵省案にそれは反映されたが、現金・物品管理を中心に大蔵省の各省への監 督官的傾向は各省の大きな反発をかった。
そのため、①について大蔵省側は撤回を余儀なくされた。が、②・③の現金・物品の出納・
管理については阪谷ら大蔵省側がこだわり、その適正化条項の温存に成功した。言うならば、
会計原法案草案から憲法原案起草者の井上毅との摺り合わせや大蔵省案作成の段階で阪谷案は 大きな修正を余儀なくされた。
そうした中で会計官=出納官吏の厳格な規律の維持に阪谷たちはこだわったのである。その 結果、枢密院の審議を経て成立した会計法第
26
条では「政府ニ属スル現金若シクハ物品ノ出納 ヲ掌ル所ノ官吏ハ其ノ現金若ハ物品ニ付一切ノ責任ヲ負ヒ」と規定され、第27
条には「保管ス ル所ノ現金若ハ物品ヲ紛失毀損シタル場合ニ於テハ保管上避ケ得ヘカラサリシ事実ヲ会計検査 院ニ証明シ責任解除ノ判決ヲ受クルニ非サレハ其ノ負担ノ責ヲ免ルルコトヲ得ス」と明記され た。革命の勃発以来、フランスでは中央政府の財務管理に対する人民の不信が根強かった。公 金の「秘密留保」すなわち秘密主義による公金処理あるいは公金処理の不透明性は長い間フラ ンスでも大いに問題視され、ボリューは政府会計の一大欠陥と指摘する23。阪谷は『会計法要 論』で、この新会計法施行以前には、役所の不要物品の払下げ代金など雑収入の一部を隠匿し たり、銀行に預金したりして資金を作り、予算の不足を補い、予算外に支出したり交際費とす るなどの行為が往々にして見られた、と述べている(92~93ページ)。彼自身これ等の行為は「盗 賊犯」のそれであると切って捨てている。
3.阪谷と『憲法義解』
憲法と皇室典範、貴族院令、会計法などそれに付属する法令が公布された直後、憲法の公定 的注釈書の編纂・刊行がはかられた。『憲法義解』がそれで、井上毅がその稿本を書き、伊藤・
井上二名の憲法草案起草者と
6
名の学者・官僚らによる審査会の審議を経て内容や表現が確定 された。明治22(1889)年 2
月中旬から3
月にかけ枢密院別館で伊藤を議長として審査会が もたれ、『皇室典範義解』とともに版権の寄贈を受けた国家学会は、両義解を伊藤博文の私著と して1
冊にまとめ、同年4
月22
日に刊行した。それは今日、岩波文庫の1
冊として手軽に手 に取ることができ、「明治思想の研究上欠くことのできない著作」24 と言えよう。さて、憲法第6章「会計」の関係条項に限ってであるが、阪谷はこの審査会に参加している。
それは井上の要請によるものであった。2月
12
日、彼は伊藤に宛てて阪谷を参加させるよう、蔵相に要請するよう手紙を書き送っている。曰く「会計部ニ阪谷大蔵参事官ヲ加候事必要ト存 候、大蔵大臣ヘお話被下度」25。こうして、阪谷は明治憲法の公定注釈書作成会議に参加するこ ととなった。阪谷は
3
月1,2,4,7
日の4
日間審議に加わったことが、彼の「日記」に明らかであ る。ちなみに「日記」の3
月1
日の条に「枢密院別局ニ於テ憲法解釈会議ニ列ス」26 とある。伊藤・井上そして阪谷以外で、この「憲法解釈会議」に参加したのは法科大学教授穂積陳重
(民法、法理学)、同富井政章(民法)、同末岡精一(憲法)、同兼法制局参事官斯波淳六郎(行政法、
国際法)、同宮崎道三郎
(
法制史)
、である。まだ、この頃は学界と官界の区別があいまいで、斯 波・宮崎は帝国大学法科大学教授であったが、参事官として官界の人でもあった。伊藤を除け ば、この会議のメンバー中、純粋な官僚は井上と阪谷であった。後年、阪谷は、井上起草の原 案を「伊藤公自身議長となられ、穂積陳重、富井政章、末岡精一等の諸君及私などが種々討論 して修正削除したのであります。当時なかなかの大議論」27であった、と回想する。
第6章「会計」分野のどの条文のどの部分が「大議論」の対 象であったか。またその議論の中心はだれであるか。会議の参 加者に配布された、井上による「憲法」と題された活版刷の草 案(写真 2)が「阪谷芳郎関係文書」中にある28。前者については 阪谷の草案への書き込みの夥多な部分に注目することで自ず と明らかであろうが、後者については必ずしも明らかではな い。ここでは阪谷の会計原法草案との関連で問題となったと考 えられる点について述べたい。
阪谷が出席した初日、まず紛糾したのは、第
6
章会計の最初 の条文である第62
条「新タニ租税ヲ課シ及税率ヲ変更スルハ 法律ヲ以テ之ヲ定へシ・・・」の箇所である。井上の草稿では、このような場合議会の協賛を必要として、政府の独断に任せな
写真2
(国立国会図書館憲政資料室所蔵)
いことは「立憲制ノ一大美果」であり、「直接ニ臣民ノ幸福ヲ保護スル者」である、と井上は立 憲政治の効用を高らかに宣言する。これに対し阪谷は「単ニ法理ノミヲ云フヘシ他ハ言ハス」
(前掲『憲法』の該当条文の欄外の阪谷書き込み、以下同じ)と井上に対し冷やかである。彼は次
のように考える。「租税ハ第二十一条ニ於テ解釈セル所ヲ国民義務トシテ課セラルルモノニシテ 脅迫又ハ専○〔1字不明〕ノ性質を有スルモノナリ。故ニ新タニ租税を課スルニ当リテハ其ヲ 政府ノ専行ニ任セス其適否ヲ議会ノ公論ニ問ヒ其協賛ヲ必要トスル所以ナリ」(同)。阪谷は租税
を納めることは義務であり強制であって、そうだからこそ政府独断でなく、議会の協賛を必要 とするということだけであり、「美果」や「臣民ノ幸福」などという、正当化し装飾するための 語句を使うべきではないとする。井上は課税に関して拘りがあった。『憲法義解』にも正確かつ詳細にそれについて書こうとし た。議会開設後の民権勢力の動向を予想しての事であろう。井上は、税率変更は租税の興廃と 同一効果を持つので、その変更は法律によるべきであろうが、予算に関し法律が税率変更を認 める場合はその例外とする、との
4
行足らずの文章を自らの草稿に入れていた。法治主義に拘 る井上は予算編成の際、該当する税法に税率変更を謳うことにより議会の予算策定への介入を できる限り拒もうとしたのであろうか。変動税率に関する記述を書くか書かざるべきか。井上 は書くべきとして、この4
行にこだわった。しかし、伊藤以下おそらく井上を除く全員が反対 した。「井上毅氏主張ス。議長以下削除ヲ唱フ 二十二年三月一日」と阪谷は書き込んでいる。結局、この
4
行は削除と決まったが、「美果」「臣民ノ幸福」を含む前の5
行からなる文章はそ のまま残された。阪谷の思いに対し、井上は租税と議会との関りについてさらに強い思いがあ ったのであろうか。次に、憲法第
67
条「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府 ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削除スルコトヲ得ス」に関 わる説明である。最終の刊本では「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出」、「法律ノ結果ニ由ル 歳出」、「法律上政府ノ義務ニ属スル歳出」の3
種類の歳出が詳細に述べられているが29、井上 の草稿ではまだそうではなく、さらにそこには語句の移動や補充・削除などが沢山ある。例えば井上の稿本では、法律上政府の義務に属する歳出に入れられた「外国トノ条約ニ依リ 必要ナル費出」は審議の結果、憲法上のいわゆる外交大権(憲法第
13
条)に基づく既定の歳出に 入れられた。また恩給年金の規定が井上稿本には見当たらないが、審議後は恩給年金が「官制 之費用及俸給」とともに法律の結果に由る歳出に入れられている。さらに国債の利子及償還・会社営業の補助が「法律ノ結果ニ由ル歳出」から「法律上政府ノ義務ニ属スル歳出」へと移さ れた。阪谷の会計原法草案では、以上のような支出項目は一括して「永久経費」とされ、「永久 財」と称する地租をはじめとする財源をもって賄うこととされていた。これに対し、井上は一 貫性を要する経費については国家財務を規律する会計法ではなく、根本法である憲法そのもの に明記することを要求し、阪谷案を退けたのである。
むすびにかえて
明治
22
年2
月11
日、官報によって公布された会計法は以下の通りである。第
1
章 総則、第2
章 予算、第3
章 収入、第4
章 支出、第5
章 決算、第6
章 期満 免除、第7
章 歳計剰余定額繰越予算外収入及定額戻入、第8
章 政府ノ工事及物件ノ売買 貸借 、 第9
章 出納官吏 、第10
章雑則 、第11
章 附則全
8
章全33
か条の条文から成るそれは、当初の阪谷案「会計原法草案」の五分の一のサイ ズである。削除されはしたが、憲法の条文に反映されたり、会計法でなくその細則の会計規則 に回された案文も少なくない。会計法はまさしく国家財政の基本中の基本法であった。それ故、会計法の下位規則の整備は不可欠となる。ちなみに、枢密院における会計法案の審議が進み、
成立に向けて目処が立ったころ、大蔵省や法制局では会計規則の審議が始まっている30。 そうしたなかで、阪谷原案とも言うべき「会計原法案」からほとんど変わらないまま会計法 にたどり着いた項目がある。会計官・出納官吏制度がそれである。「会計原法案」では会計官で あったが、その後、会計官吏、出納官吏と呼び方を変え成案に至った。しかし、それに厳格な 規律をもっての業務遂行が要求され、さらに過失責任が問われることは、その後の大蔵省案そ して政府案においても変わることはなかった。すでに述べたように、会計法第
28
条は、責任能 力担保のため、出納官吏に対し「身元保証金」の納付を要求したのである。さて、会計法が憲法付属法典として明治
22
年2
月11
日に公布された。それから1
か月あま りたった3
月30
日、慰労金250
円を阪谷は受け取った。日記に「大蔵省ニ於テ会計法取調ニ 付特別勉励ノ廉ヲ以テ慰労金二百五十円下賜」31とある。1 阪谷芳郎に関する資料については西尾林太郎・伊藤真希「阪谷芳郎関係文書」
(愛知淑徳大学
大学院現代社会研究科編・刊『現代社会研究科研究報告』第11
号、2015
年、所収)の解説論 文を参照されたい。2 会計法成立に関する研究として、稲田正次「明治二十二年会計法の成立」
(
『富士論叢』第25
巻第2
号、1980年刊)がある。この研究は阪谷による会計原法案や井上のそれに対する意見 そして枢密院会議筆記(写本)を基本資料としている。3
「阪谷芳郎日記」 (国会図書館憲政資料室所蔵「阪谷芳郎関係文書」所収)
明治19
年12
月15
日の条。
4 遠藤湘吉・武田隆夫・林健久「財政学」(東大経済学部編・刊『東京大学経済学部
50
年史』,1976
年)292
ページ。5 瀬戸口龍一「駒井重格の軌跡―『駒井重格先生小伝』再考―」(『専修大学史紀要』第
2
号、所収)。75ページ。
6 曽禰荒助『歳計予算論』、明治
25
年、丸善刊、1ページ。7 明治財政史編纂会編『明治財政史』第
1
巻、1971
年第3
版、吉川弘文館、232~239
ページ を参照。8 前掲「阪谷芳郎日記」明治
20
年7月11
日の条。9 国学院大学図書館所蔵「梧陰文庫」所収「会計法補助書類 六十七条件参照」と題する綴 りに、活版刷の「会計原法草案」
(説明 45
ページ、本文112
ページ)が収められている。本稿 はこれを参照した。10 前掲『明治財政史』第
1
巻、893ページ。11 江見康一・塩野谷祐一『長期経済統計推計と分析』
7(東洋経済新報社、 1966
年)53
ページ 参照。12 「会計法意見」(国学院大学編『井上毅伝史料篇』第1巻、196?年、所収)562ページ
13 ちなみに政府による枢密院諮詢案では、第
34
条「政府ニ属スル金銭ノ出納若シクハ物品ノ 出入リヲ掌ル所ノ官吏ハ其金銭若クハ物品ニ付イテ一切の責任を負ヒ会計検査院の検査判 決を受ク経へシ」、第35
条「前条ノ官吏其金銭若クハ物品ヲ失ヒ又は盗マレタル場合ニ於テ ソノ保管上自己ノ過失ナク相当ノ注意ヲ尽シテ避ケ難キ事実ヲ会計検査院ニ証明シ責任解 除ノ判決ヲ受クルニ非レハソノ負担ノ責ヲ免ルルコトヲ得ス」第38
条「歳入ノ徴収若シク ハ経費ノ支出ヲ掌ル所ノ官吏ハソノ取リ扱ウトコロノ事務ニツキ一切ノ責任ヲ負ヒ会計検 査院の検査ヲ受クベシ而シ其故意又ハ過失怠惰ニ由リ政府ノ損失ヲ生シタルトキハ総テ私 財ヲ以テ其金額弁償ノ責ヲ負ウへシ」とそれぞれあった(稲田、前掲論文、24~30ページ所 収のものを参照)。14 前掲「阪谷芳郎日記」明治
20
年8
月11
日の条。15 前掲『井上毅伝史料篇』第
1
巻、555ページ以下に所収。16 稲田正次『明治憲法成立史』上(有斐閣、1960年)、910ページ。
17 ボーリュウ著・駒井訳『歳計予算論』(青黎閣、1886年)206ページ
18 前掲『井上毅伝史料篇』第
1
巻、562ページ。19 前掲「阪谷芳郎日記」明治
20
年12
月14
日~19日の各条を参照。20 稲田、前掲論文、特に
24~48
ページを参照されたい。ただ、それは詳細ではあるが、必ず しも網羅的ではなく憲法の条文に関するものに限定されている。21 明治
20
年12
月21
日付「会計法第二修正意見」(
前掲『井上毅伝史料篇』第1
巻、612
ペー ジ。22 同上。
23 ボーリュウ著・駒井訳、前掲書、78ページ。
24 伊藤博文著・宮沢俊義校注『憲法義解』(岩波文庫、1997年)表紙カバー。
25 明治
22
年2
月14
日付井上毅宛伊藤博文書簡(『伊藤博文関係文書』1、塙書房、1974年、389
ページ、所収)。26 前掲「阪谷芳郎日記」3月
1
日の条。27 阪谷芳郎「伊藤公と国家学会」(『国家学会雑誌』第
24
巻7
号[1910年刊]、所収)942ペー ジ。28 この時参加者に配布されたのは「憲法」と題された
136
ページから成る活版印刷物である。これが井上による「憲法義解」の草稿である。ちなみに「阪谷芳郎関係文書」所収のその表 紙に「明治二十二年三月枢密院官舎ニ於テ伊藤博文氏議長ニテ憲法義解ヲ作リシトキ会議ノ 原案ナリ」と阪谷自身による書き込みがある(写真 2を参照されたい)。
29 前掲『憲法義解』、112~113ページ。
30 前掲「阪谷芳郎日記」明治
21
年11
月18
日の条には、日曜日のこの日に会計規則会議があ り、阪谷が出席したとある。31 同明治
22
年3
月22
日の条。なお、この250
円であるが、同じく阪谷日記の明治18
年12
月15
日の記述によれば、明治18
年上野精養軒で阪谷らが洋行する浜尾新(後、東大総長)の 送別会を催したが、来会者が71
名で料理・酒ともに経費が100
円80
銭であったと言う。70
名余りが高級料理店で宴会をもてば100
万円ほどは必要であろう。そうであれば、当時 の250
円という金額は今日の200~250
万円位であろうか。