Ⅰ.「仲間の原理」としての倫理
「倫理」と社会共同体
人間が「社会的・政治的な生きもの」であり、何らか の関係をもちながら、同じ空間を「社会共同体」として 共有して生きるかぎり、その規範としての「倫理」もあ る。‘倫理のない社会共同体’というものを考えること は困難である。“反社会的な集団”でも、そこにはそれ なりの倫理があり、それがその集団をひとつの社会共同 体として成り立たせている。その集団の“反社会性”が、
それを抱える、より大きな社会共同体の社会性を解体す るようなレベルになれば、その集団としては、別の社会 共同体を作ることで自らを維持すべきだ、ということに なる。
「倫」という漢語は、「とも(友)・ともがら、仲間」
という音や意味をもっている。これにもとづいて、その ような「ともがら・仲間・同胞としての人と人との間が ら(関係)」が倫理であり、そのような関係が人々の集 団をひとつの「社会・共同体」として成り立たせる、と いうことができよう。その関係(倫理)は、「社会性、
共同性、公共性」ということもできる。
「この仲間関係(社会共同性)を作る原理はなにか?」
「倫(なかま)の‘理’となるものはなにか?」―とい うことが、さらに問われよう。それを「友愛」といえば、
トートロジーとなる。そこで、「正義」や「自由・平等」
といったものが挙げられうる。しかしそれらも、人々が 互いに友・仲間としてあるときに成り立っているもので あり、あるいはそこに要請され、含まれているものであ る、とみなすこともできる。「正義」を、‘人々に友愛や 調和や秩序を与え、そのような仕方で社会共同体を成り 立たせるもの’として考え、また「互いの自由や平等の 尊重」をそのようなものとして考えるなら、そのような 含意があることになる。
人々が友や仲間として社会共同体をもっているとき、
そこにはそれなりの正義も、あるいは自由や平等もある、
とはいえそうである。しかし「正義」も「自由や平等」も、
それ自体として別個に問われるべきことがらでもあり、
倫理学の問いは通常そちらから始める。しかしここでは 前者の方、つまり「人が友・仲間として社会共同体をも つ」という方から始め、そこに焦点を絞り、その限りで の「倫理」ということで何がいえそうなのか、を考える。
‘社会倫理’とも言われるこのような意味は、英語の
‘ethos, ethics’にもある。それは「社会的な生きもの」
としての人間の「社会性、人倫」をなすものであり、そ の「規範」である。ただし ethos の原義には、「倫」も 同様だが、 「(一個の)人間としてのあり方」、つまり‘個 人倫理’的な意味もある。そのように分けると「社会と 個人」の関係も問題になりうる。
しかしこの論考では、以下の構成で問題を考えたい。
・「倫」の‘仲間性・友愛性・同胞性’が、社会共同性 の原「理」として働くメカニズム。
・社会共同体の「複数性」と「境界性」。‘われわれ’と
‘かれら’。
・その近代的イデオロギーとしての「ナショナリズム」。
仲間関係のあり方、その濃淡・強弱・大小
「仲間」関係は、より小規模の家族や様々な社会集団 でも存在する。それは、濃い・強いものから、より薄い・
弱いものまで、濃淡・強度の違いがある。そこに「無関 係」や「不和」があるとしても、全体として(最広義で の)仲間であるということがあれば、つまり無関係や無 秩序、不和や争いが部分的、エピソ-ド的であるばあい には、そこにひとつの社会共同体があるといえる。最も 薄い・弱い意味でも、 ‘互いに協力する’とか‘助けあう’
といったことがあるはずだが、最低限、‘戦争をしない’
といったレベルでもいいかもしれない(個人や集団も‘戦 い・殺し合い’の主体となりうるが、戦争の主体は社会 共同体・公共体である)。
その仲間関係は、「われわれ」という意識や言葉で端 的に示される。それは、「かれら」の出現とともに、通
柏 田 康 史
ナ シ ョ ナ リ ズ ム
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