20 世紀初頭のフランスにおけるワインの「典型性
」をめぐる議論と原産地呼称
著者 ジャケ, オリヴィエ
雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law
journal
巻 93
ページ 205‑220
発行年 2012‑08‑31
その他のタイトル Olivier Jacquet: Les appellations d'origine et le debat sur la typicite dans la premiere
moitie du XXeme siecle ―le role du
syndicalisme viti‑vinicole bourguignon
URL http://hdl.handle.net/10723/1722
20 世紀初頭のフランスにおける
ワインの「典型性」をめぐる議論と原産地呼称
オリヴィエ・ジャケ
(訳)蛯 原 健 介
はじめに
ワインのグローバリゼーションが顕著な今日,フランスワインのAOC制度 の妥当性をめぐる激しい議論が展開されている。制度簡略化を求める主張は,
現行制度が複雑すぎて,競争の妨げになっていると批判するが,その他にも,
原産地呼称の価値そのものをめぐる論争が存在する。ワインの原産地に立脚す るフランスのワイン法は,何よりもまず,品質の保証であって,そうあるべき なのか,あるいは,テロワールを本質とする典型性の表明であって,そうある べきなのだろうか。
この問いに答えるためには,いったい典型性とは何か,という問題を最初に 検討しなければならない。何らかの典型性を呈するためには,そのワインは,
法的に規律され,限定された産地内で造られなければならない。それは,
AOC制度よって課される前提条件である。このような産地画定,すなわち,
特定の空間的実体を確定することによって,ワインが特徴づけられるのである。
したがって,土壌,地層,畑の向き,傾斜,そして人間の労働などのおかげで,
まさしく,こうした場所(ブルゴーニュでは「クリマ」と呼ばれている)が,各々 のワインに典型性を与え,他のワインとは異なる際立った個性を与えるのであ
206 る。テロワールこそが問題となるのである。
したがって,ワインの典型性は,テロワールに依存する。テロワールは,販 売上の謳い文句を使うならば,永遠不変の「神の恵み」として公に理解されて いる。先祖伝来のものであるテロワールは,千年以上にわたる人間の労働の成 果であり,崇高なる伝統のたまものである。テロワールは,永遠不変であって,
ワインの典型性を保証すると同時に,必然的に品質をも保証するのである。
このような自然重視の言説は,何度も繰り返し主張されてきたが,本稿では,
ワイン現代史の鍵となる時代に光をあてながら,ワインの品質と典型性のどち らが重視されるべきかという議論を見ることにしたい。具体的には,1919 年 5月6日の原産地呼称法の長く,困難な施行過程を考察していく。
今日の原産地呼称制度は,実際には,このプロセスを経て確立されたのであ る。1919 年法では,高品質ワインの法的定義,それゆえ商業上の定義は,本 質的には産品の原産地に立脚している。この法律の立法過程,そして,ブルゴー ニュの生産者組合の動きを見ることによって,本稿では,歴史上の対立,駆け 引き,政治的立場の重要性を理解することを試みたい。換言すれば,ワイン商 の利益には反するが,ブドウ栽培者に有利になるような形で,テロワールの再 定義が行われ,ワイン市場の規範が一変した決定的段階が検討の対象となる。
本研究は,これらの駆け引きを明らかにする一連の史料に依拠している
(REVEL Jacques [dir.], Jeux d’échelles - la micro-analyse à l’expérience, Gallimard-Le Seuil, 1996)。本稿では,国会議事録および地方の記録文書を参照するとともに,テ ロワールの定義をめぐって展開された業界の運動を分析するために,ブルゴー ニュおよび全国規模の生産者組合における議論をも参照した。本稿では,最初 に,1919 年5月6日法以前に効力を有していた法令を確認する作業を行い,
20 世紀初頭のコート・ドールにおける政治状況の変化と生産者組合をめぐる 状況の変化を明らかにしたい。そしてつぎに,第一次世界大戦後,1919 年法 の制定へとつながったパム=ダリア (Pams-Dariac) 法案を取り上げ,これを契
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機に噴出した議論を考察したい。これらの分析を踏まえつつ,ブドウ栽培者の 主張が国会に取り入れられ,商標に対する原産地の優位性が法律上揺るぎない ものとなり,かれらが勝利することとなった理由を明らかにしたい。そして最 後に,生産者組合の構成員であるブドウ栽培者が,いかなる手段によって,き わめて厳格なテロワールの定義を打ち立てながら,その運動を続けていったの か,を解明したい。
20 世紀初頭における状況変化とワイン法
1919 年法以前は,ワインの品質は,2つの方法によって確認されていた。各々 の樽や瓶には,2つの標章が表示されていた。ひとつは,ブルゴーニュの村名 または地理的区域の名称であり,もうひとつは,ネゴシアンの名字である。し たがって,ワインの取引では,買い手によって認められた村々の評価のみなら ず,ネゴシアンの商標も重要であった。村名は,品質の基準として援用されて いたが,「ジュヴレ・シャンベルタンのワイン」というのは,かならずしもジュ ヴレ・シャンベルタンで収穫されたブドウで造られたワインではなく,さまざ まなクリマのワインのブレンド,さらにはブルゴーニュ以外のワインを,1919 年以前の非客観的根拠によりジュヴレ・シャンベルタンに匹敵するとされたブ ルゴーニュのクリマ(モレやブロション)で収穫されたブドウから造られたワイ ンとブレンドした結果,ジュヴレ・シャンベルタンと名乗ることができる品質 を得ているとみなされたワインのことであった。また,ネゴシアンの商標は,
アサンブラージュと熟成の技術や伝統を保証するものであった。したがって,
ワインに名を与えることができるのは,ワインを醸造し,販売するネゴシアン のみであって,商品が高く評価されれば,そのネゴシアン自体の評価も上がっ たのである。
19 世紀末および 20 世紀初頭に市場の規制緩和が行われると,ブルゴーニュ
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のネゴシアンの多くは,日和見主義的な立場をとり,真のクリマとそうではな い畑を同一視する慣行やブレンドが一層広まって,ブルゴーニュのブドウ栽培 者たちは苦境に追い込まれた。ブルゴーニュのブドウ栽培者は,実際には,ブ ルゴーニュのクリュから離れた産地の生産者との競争を強いられた。それゆえ,
一部のワイン商は,危機的な状況に追い込まれたブドウ栽培者によって非難さ れた。
ワイン商とブドウ栽培者との対立は,20 世紀の最初の数年のうちに始まっ た。ワイン商は,不正行為抑止法の立法化を促す原因となり,最終的にはその 立法によって過去のものとなる行為を行っていたが,これに対して,ブドウ栽 培者は,原産地の保護の徹底を熱望していた。ブドウ栽培者にとっては,耕作 地を保護し,その価値を高めるような規範を拠り所にして,原産地の保護を徹 底していくことが,ワイン商の支配から抜け出す唯一の手段であった。
ブドウ栽培者は,商標よりも原産地を重視する規範を成功裏に実現していく にあたって,農村の共和主義化と組合の組織化にきわめて好都合な状況を生か す術を心得ていた。
ブドウ栽培者が,19 世紀末までは市場における「伝統的な」ワイン商を頼 りにしていたとはいえ,1890 年代から,いくつかのブドウ栽培者団体は,組 合の連合を組織し,独立して活動することを試みていた。ブドウ栽培者組合は,
もともとは,共同購入,接ぎ木の研修,あるいは栽培技術の普及といった単純 な目標をかかげるにとどまっていたが,1890 年代半ば以来,ブドウ畑を直撃 した過剰生産の危機を契機として,代表的な連合体に統合される政治的な組合 へと変化していった。
1894 年からすでに,その主要な目的は,「南仏の組合が行っているように,
政治家たちを非難し,大連合」(Bulletin du Syndicat viticole de la Côte Dijonnaise, janvi-
er 1894)
を結成することであった。それは,国会議員を介して,具体的な形で,ブドウ畑所有者の経済的利益を政治問題化するよう努めることであった。その
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運動は,20 世紀の最初の数年のうちに姿を現し,県レベルの組合連盟が創設 され,その結果,1908 年には,栽培者協会と県レベルの連盟の連合体である
CGAVB,すなわち,ブルゴーニュ・ブドウ栽培者協会総連合(Confédération
Générale des Associations Viticoles de la Bourgogne)
が誕生したのである。CGAVBの理事会の構成員を民主的に選出しようという試みは,土地の名士 が選出されていた以前の慣習との断絶を示すものである。実際,CGAVB規程 の 15 条は、 「連盟の存在する県においては、 500 人以上の会員を擁する各連盟 の会長は,当然に理事会の構成員となる」としている。会員数がその2倍であ る場合には,代表の数も2倍とし,それ以上会員数が多い場合も,代表の数は 比例することとなっていた。規程は,「連盟の存在しない県においては,各々 の県は,会員数 500 人を数えるごとに同様に1名の代表を選出する」と続けて いる。この規程は,まさしく民主的,共和主義的,現代的なものであって,職 業代表におけるネゴシアン一族,貴族,大ブルジョワの影響力を部分的に回避 しようという意図がみられる。
ブドウ栽培者組合の組織化は,農村の共和主義化という大規模な組織化され た運動の一環をなすものである。土地の貴族の出身であるネゴシアンやブドウ 畑所有者の名士の伝統は,長きにわたっていたが,ブドウ栽培者は,20 世紀 初頭の急進派および社会主義派の台頭という政治状況の変化のおかげで有利に なった。20 世紀初頭の選挙では,ブルゴーニュでもその変化があらわれ,シ ミヤン(Simyan),シモネ(Simonnet),カミュゼ(Camuzet),ブーエイ=アレク ス(Bouhey-Allex)が選出された。これ以後,小土地所有農に好意的な急進派や 社会主義派によって,ブルゴーニュの利益が国会で擁護されることになる。国 民議会選挙では,これらの候補者が,コート・ドールのブドウ栽培者の代表と して,リカール(Ricard)を大差で破った。かくして,ネゴシアンは,その手 先を失ったのである。国会におけるネゴシアンの影響力低下は,1906 年およ び 1910 年の選挙で,コート・ドールのワイン商=所有者であった自由共和派
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のビショー(Bichot)が連続して落選したことからも確認される。ビショーは,
最初はカミュゼに屈し,その次は急進派のシャルル(Charles)に敗れた(LONG
Raymond, Les élections législatives en Côte-d’Or depuis 1870 : essai d’interprétation sociologique,
Armand Colin, 1958)
。このようなコート・ドールの選挙結果は,明らかにネゴシアンに手厳しいものであった。
CGAVBが設立された 1908 年は,ブドウ畑所有者とネゴシアンとの分離が,
組合および政治的代表のレベルで現実化した年として知られている。強固に組 織化された組合が,政治的な足場を築くべく,農村の共和主義化の動きに呼応 してブドウ畑に進出することによって,力関係は一変し,ブドウ畑所有者が有 利になった。ネゴシアンは,多くの委員会に席を有していた閣僚に対して影響 力を持ち続けたようであるが,第三共和制下では,何よりも国会こそが実権を 握っていたのである。
パム=ダリア法案
1905 年8月1日法は,ワインの名称を保護するために,行政がデクレで生 産地域を画定することを想定し,不正抑止機関を設置した。一連のデクレは,
広大なワイン産地であるシャンパーニュ,コニャック,アルマニャックおよび ボルドーという産地呼称の使用が認められる生産地域の範囲画定を意図したも のであった。しかしながら,この法律の適用は,ことにシャンパーニュでは,
失敗に終わった。シャンパーニュの生産地域からオーブ県が排除され,マルヌ 県とエーヌ県の一部だけが対象となったことで,深刻な政治的対立が生じた
(BEURY André, La révolte des vignerons de l’Aube. Février–septembre 1911, Troyes, 1962 ;
SAILLET Jacqueline et GIRAULT Jacques, «Les mouvements vignerons de Champagne»,
Mouvement Social, n° 67, 1969, p. 79 109)
。法律にもとづき行政主導でフランスのブ ドウ畑を画定しようという試みが失敗した後で,新たな法案が準備されること211
になり,より多くの権限がワイン業界関係者に委ねられた。1911 年に準備さ れたパム法案の発想は,原産地呼称を名乗って販売されることのできる商品で あるかどうかの判断を裁判所に委ねるものであった。これは,経済的利害をと もなう範囲画定を中央行政が行うのではなく,地域のアクターが自らの利益を 擁護すべきであるという発想である。裁判所は,その判断に際して,1905 年 8月1日法によって明確に述べられた従来からの忠実な地元の慣習にしたがっ て,「販売される産品の産地,性質,成分,品質」を考慮に入れるべきことに なる(Bulletin du Syndicat viticole de la Côte Dijonnaise, juillet 1911, p. 179 à 181)。ブルゴー ニュでは,行政によるブドウ畑の画定は実施されなかったので,裁判所によっ てブドウ畑の範囲を画定しようという発想は,地元での議論から完全に抜け落 ちていた。他方で,法案の重要な条項のいくつかは,後になって,フランス各 地方,とくにブルゴーニュ地方で議論された。
たとえば,CGAVBは,法案第1条第2パラグラフの「ワインの実質的な品質」
という概念に対してきわめて批判的な態度をとった。これに対して,フランス ワイン・蒸留酒全国卸売業組合(Syndicat National du Commerce en Gros des Vins et
Spiritueux de France)
に加盟している組合の構成員は,原産地よりも品質が前面に押し出されることを望んでいた。この組合の会長であったリニョン(Lignon)
は,以下のように述べていた。要するに,「産品に要求されるべきものは,そ の原産地ではなく,その品質である。消費者がムニエのチョコレートに求める ものは,カカオの原産地ではなく,複合的な種々の原料の巧みな混ぜ合わせで ある。それは,原産地ではなく,内在的品質に由来するのである」(Bulletin du
Syndicat viticole de la Côte Dijonnaise, juillet 1911, p. 185)
。品質の概念を考慮に入れる と,ワインの名称の付加価値が,ブドウ畑所有者におけるブドウ生産過程だけ でなく,ネゴシアンにおける加工過程にあるとみなすことも可能になる。しかし,CGAVBにとって,ワインの品質を法律で規定することは不可能であり,「買
い手が判断すべきこと」(Bulletin du Syndicat viticole de la Côte Dijonnaise, août 1911, p.
212
210)である。CGAVBの戦略は,「現議員の力を借りて,支持できる修正文言」
が作成されるように圧力を加えること(Bulletin du Syndicat viticole de la Côte Dijon-
naise, août 1911, p. 287)
であり,他のワイン産地である南仏,ボルドー,シャラントとの関係を強化することであった。
右派から左派まで,ブルゴーニュ選出の国民議会議員であるカミュゼ,シミ ヤン,シモネ,シャルル,ムトー(Muteau),ヴァンサン(Vincent)は,全員 一致してこの戦略に賛成した。地域における見事な一体性は,議員たちの政治 的利益によって説明される。9万人のブドウ栽培者に対してネゴシアンは数百 人程度であり,後者の中でも,ブドウ畑を所有しているネゴシアンは,原産地 を重視した定義を歓迎していた。議員たちは,CGAVBが擁護する概念を取り 入れ,修正の形でそれを提示した。1913 年の産地画定に関する政府提出法案 の国会審議の際に,ブルゴーニュ選出の議員たちは,「品質保証に関する複雑 で陰険な手法」をとることを拒否し,主としてワインの原産地に重点を置いた 法律の制定を期待していた(Journal Officiel de la République Française, Chambre des
députés, 1ère séance du 20 novembre 1913, p. 3328)
。この修正案は,フランスのワイ ン産地で全国的な議論を巻き起こし,一方では,全国組織および法案起草者で ある農業大臣ジュール・パム,他方では,ブドウ栽培者およびその利益を代表 する国会議員との対立を生じさせた。1913 年9月に,ボルドーの一部のブド ウ栽培者,ブドウ畑の大所有者とワイン商の全国代表との間で結ばれた合意は,混乱を招いた。この合意は,2条および3条を削除し,原産地の概念に優先す るものとして品質の概念を再び取り入れようとするものであった。しかし,
CGAVB代表サヴォー(Savot)は,ブルゴーニュのブドウ栽培者を「守る」た
めには,これらの条文は不可欠であると考えていたのである。きわめて多くの ボルドーの生産者組合・協会は,フランスワイン・蒸留酒全国卸売業組合によ る合意に与した地元のワイン商と意見が一致していた(Journal Officiel de la Ré-
publique Française, 1ère séance du 20 novembre 1913, p. 3461)
。ジュール・パムは,全213
国のワイン商と一部のボルドーのブドウ栽培者との合意があれば,法案全体を 通すために十分であると考えた。ワイン問題を専門としていたSFIO(労働者イ ンターナショナル・フランス支部)の国会議員バルト(Barthe)は,同じ意見では なかった。ラングドック選出のバルトは,国民議会の飲料委員会でたびたび委 員長となり,「ベジエの合意」の有効性をめぐってパムを批判していた(SAGNES
Jean [dir], La viticulture française aux XIXe et XXe siècles, colloque national dʼhistoire, Béziers, le 30 mai 1992, Presses du Languedoc, 1993)
。1913 年 10 月 26 日,まさにベジエにおいて,南仏ブドウ栽培者総連盟(Con-
fédération Générale des Vignerons du Midi)
の大会が開催され,またしても,フラ ンス各地のあらゆる有力ブドウ栽培者協会の代表が集結した。サヴォーは,「ブ ルゴーニュの代表は,抵抗する力の弱いボルドーの代表に強く訴え,最後には,中央の見解は,われわれの権利要求を支持することで一致した」(SAGNES Jean
[dir], La viticulture française aux XIXe et XXe siècles, p. 286)
と述べている。ボルドーの ブドウ栽培農家が分裂したことにより,全国のワイン商の代表は孤立し,依然 として偶発的なボルドーの合意をあてにしていた政府の支持を頼りにするしか なかった。ブドウ栽培者は,小規模事業者擁護に対するSFIOの賛同,つまり,左派の 政治的ネットワークを十二分に活用し,「新たな共和主義的社交性」である社 会主義へ傾倒していった(LYNCH Edouard, Moissons rouges : les socialistes français et
la société paysanne durant l’entre-deux-guerres, 1918 1940, Presses Universitaires du Septen-
trion, 2002, p. 129)
。カミュゼとシミヤンは,ブルゴーニュ出身のSFIO議員であり,「産地重視」的修正案の報告者であった。かれらは,バルト(SFIO)の支持,
そしてそれに続いて,南仏のブドウ栽培者であり左派議員であるダルビエ(Dal-
biez)
,ジロンド出身の共和左派であるエイモン(Eymond),コンブルーズ(Com-brouze)
,トレモイユ(Trémoïlle)の支持を得た。コンブルーズはサンテミリオンのブドウ栽培者・所有者であり,トレモイユはシャトー・マルゴーの所有者
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であったため,裁判によるクリュの評価に賛成するのも当然であった。国民議 会の審議の際に,産地重視側の議員は,どちらかといえば左派に根を下ろし,
パム(急進派が右派および商人階層に接近していたときの急進派)とダリア(民主共 和同盟)の法案の支持者とは対立し,バルトゥー(Barthou)の指揮する政府と 対決した。第一次世界大戦の直前に,国民議会の政党連携は,いっそう複雑に なっていた。1910 年に,598 人の議員のうち,20 人が自由主義派,149 人が保 守派,149 人が急進派であった。社会主義派および独立社会主義派は 95 議席 しか得ていなかったので,パムとダリアに対する支持は確実視されていた。
1913 年になって,政治的連携が錯綜し,とくに,急進派が相対立する戦略に 直面するにいたり,同業団体の利益の影響をますます受けて分裂していくと,
国民議会の勢力関係は複雑になった。
フランスブドウ栽培者団体の総会が支持していた修正案は,賛成 334 票,反 対 203 票(農業大臣の票を含む)で採択された(Bulletin du Syndicat viticole de la Côte
Dijonnaise, mars 1913, p. 284 287)
。したがって,修正案は,政府が賛成していなかったにもかかわらず国会を通過し,ブドウ畑所有者は,その政治力を見せつける 形となった。パムの法案は,第一次世界大戦のため,結局は採択されなかった が,原産地呼称の保護に関する 1919 年5月6日法の原型としてそれが用いら れることになる。
産地重視原則の実践
1919 年法によってワイン市場の整理が実現した後で,今度は,法律をどの ように適用するかが問題となった。この問題は,きわめて複雑で,対立の原因 を孕んでいた。解決はすべて裁判によるべきこと,そして,ブドウの原産地の みが品質の指標となることが法律の2つの基本原則であったからである。この 法律の規定は,それまでネゴシアンによって広く行われていた慣行を全面的に
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排除する厳格な解釈を生む可能性があった。この法律がブドウ畑所有者に有利 であったとはいえ,ワイン生産の大部分は,相変わらずネゴシアンの支配する ところであった。「よいテロワール」の定義は,実際には,きわめて緩やかな ものであった。
ブドウ畑をもたないネゴシアンの抵抗
1919 年法の制定にともない,ブドウの原産地を考慮せずにはワインを造る ことができなくなったため,ワイン商の代表は,従来通りのきわめて柔軟な慣 行を要求し,原産地呼称についても,著しく緩やかな画定を提案した。有名な 名称ではない「不遇な」村の組合のいくつかは,ネゴシアンの草案を支持した が,これは,コート・ドールのクリュのブドウ畑所有者によって退けられた。
さらに,ネゴシアンは,1920 年代,ワインのブレンド問題に関して,1919 年 法の緩やかな適用を要求し続けた。しかし,こうした慣行は,ブドウ畑所有者 によって批判された。それは,真の厳格な原産地に立脚するものではなく,醸 造所の中で原産地呼称を作り出す手段であったからである。このようなネゴシ アンの慣行は,しだいに,原産地呼称に対する潜在的な不正行為とみなされる ようになった。
ブドウ栽培者協会から拒絶されたネゴシアンは,1919 年法でブドウ畑所有 者に認められた裁量に目をつけ,私的な商標を使って原産地呼称に逆行する道 を進もうとした。ブルゴーニュ・ネゴシアン連合(Union des négociants de la
Bourgogne)
の代表であったリジェ=ベレール(Liger-Belair)は,ブルゴーニュのブドウ栽培者協会に対して,「われわれは,完全にブルゴーニュの諸名称を 消 滅 さ せ る 」 と 宣 言 し て い る(Archives du Marquis dʼAngerville, Lettre à Sem
d’Angerville du 4 janvier 1921)
。「われわれの商業上の呼称は,ブドウ畑から取り入れたものであるが,われわれが自由に奪うことができるのであって,その呼称
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使用権の返還が合法的になされないかぎり,商標またはモノポールを合法的に 使用しつづけることができるであろう」(Paul Germain, Revue du Vin de France, juil-
let 1927)
。かくして,オスピス・ド・ボーヌの競売の際に,1922 年にボーヌに誕生した「フォワール・ヴィニコル(Foire Vinicole)」のカタログには,新しい ワイン名が登場している。ネゴシアン名の前に, «Monopole, Splendid, Excelsi- or, Carte-dʼOr, Carte-dʼArgent, Tête de réserve, Grande réserve, Cuvée Royale»
といった呼称が並び,私的な商標やブルゴーニュの宗規上の名称が表示されて いた。ブドウ栽培者は,このような行為をきわめて厳しく評している。「『ボー ヌのシャトーX,キュヴェ・シュペリウール,ヴォーヌ・ロマネまたは空想上 のクリュ名,ムシューX,ボーヌのネゴシアン』といった表示は,ワインの品 質そのものについて,購入者を誤解させるためになされたものである。ボーヌ,
ヴォーヌ・ロマネの名称を指し示しているように思われるものを除いて,この ような商標は,すべてのワインについて創り出されうるものである」(Déclaration
du Comité d’Agriculture et de Viticulture de l’arrondissement de Beaune, FIII § 8 art. 2 n° 5, Archives Municipales de Beaune)
。裁判
ブドウ栽培者の組合は,ワイン市場における慣行を規制するために,法律に もとづき2つの訴訟を提起した。すなわち,不正行為者に対する訴訟と,ブド ウ畑の画定のための司法判断である。
ヴォルネの大所有者であるダンジェヴィル(dʼAngerville)侯爵の指揮の下,
ブルゴーニュ・ブドウ栽培保護組合(Syndicat de Défense de la Viticulture Bourgui-
gnonne)
,1927 年以降のコート・ドール高級ワイン生産者保護組合(Syndicat dedéfense des producteurs de grands vins fi ns de la Côte-dʼOr)
は,原産地に関する詐欺 的行為に対して 180 件以上の訴訟を提起した(その内,ネゴシアンに対するもの217
が 58%,ブドウ栽培者が 17%であり,それ以外の訴訟は,レストランやバーに対する ものが主であった)。ほとんどすべてが組合側の勝訴であった。訴訟は,ときに 大いにメディアの注目を集め,ネゴシアンの商慣行の信用を失わせたり,原産 地に立脚し,ブドウ畑を忠実に形取った新たなワイン法がより正当であること を消費者に印象づけた。司法の場で批判され弱体化したネゴシアンのワイン生 産との対決を経て,ブドウ栽培者のテロワールは,真正なる空間となったので ある。
第二の種類の訴訟は,ブドウ栽培地の画定をめぐるものである。ブルゴーニュ では,原産地呼称をめぐる二つの考え方が対立していた。そのひとつは,原産 地呼称の最重要部分の畑を保持する大規模所有者に有利な厳格な概念であり,
もうひとつは,19 世紀の同一視の慣行に由来する,コート 12 村の名称使用を 認められていた小規模所有者に有利な概念である。ブルゴーニュワインは,こ れらの有名な村々(ヴォルネ,ポマール,ニュイ・サンジョルジュなど)の名を冠 して販売されていたのである。そのようなブドウ畑所有者たちは,かれらの定 義を押しつけようとして,従来からの忠実な地元の慣習を説明するために,矛 盾した証拠を援用した(LAFERTE Gilles et JACQUET Olivier, «Appropriation et identi-
fi cation des territoires : la mise en place des AOC dans le vignoble bourguignon», Cahiers d’Economie et de Sociologie Rurales, INRA, n° 76, p. 9-27)
。しかし,全国レベルの組合 の上層部を占めていたクリュ所有者こそが,かれらの概念を強要することがで きたのである。1927 年以降,ブドウ品種が産地画定にも関係するようになり,ガメイの畑の所有者とピノ・ノワールの畑の所有者との激しい内部対立が生じ た。1930 年4月 29 日のブルゴーニュ地方の産地画定決定は,ピノ・ノワール の畑の所有者を利するものであった。ガメイとアリゴテのワインには,原産地 呼称「ブルゴーニュ」は認められないこととなったのである(ボジョレーの花崗 岩質土壌を除く)。
1931 年に国会の飲料委員会がフランス全土のワイン産地に介入を行ったに
218
もかかわらず,厳格な産地画定の支持者たちは,フランス・アルジェリア・ブ ドウ生産者協会連盟(Fédération des associations viticoles de France et dʼAlgérie)の グラン・クリュ部門に浸透し,カピュス(Capus)の支持を得て,1935 年7月 30 日法を成立させるにいたった(Archives INAO Paris, Compte rendu des réunions de
la Fédération des Associations Viticoles de France et d’Algérie 1929 1934)
。この法律によって,ブルゴーニュワイン市場に対する共和主義的統制が厳格 化された。1935 年法の 21 条は,組合の要求により,全国委員会がAOCを決 定すると規定していた。しかし,同条は,「本法の審署時点においてすでに存 在する原産地呼称,既判力をともなった司法判断によって画定された原産地呼 称」が対象となると述べていた(Décret-loi du 30 juillet 1935, art. 21)。1935 年法は,
1919 年法の裁判所による産地画定には立ち戻っていない。その本質部分は,「共 和主義的市場統制」とともに,1930 年代に確立された。そこでは,ワインの 品質に関する概念は,一方では,資本家,特権階級,ネゴシアンに対する職人 ブドウ畑所有者の防衛に立脚し,他方では,2つの行政機関の創設にともなっ た公権力による統制形態および共同プロセスに由来する。その機関とは,1905 年法により設けられた不正抑止局(Répression des fraudes)および 1935 年創設 の原産地呼称全国委員会(Comité National des Appellations dʼOrigine)である。共 和主義側の論証こそが,ワイン法の立法に影響を与えた唯一正当なものであっ た。テロワールにもとづく品質概念の確立は,まさしく経済活動と法規範との 相互作用,より根本的には,経済活動と政治的基盤との相互作用のプロセスで あ っ た(STANZIANI Alessandro, «Action économique et contentieux judiciaires. Le cas
du plâtrage du vin en France, 1851 1905», Genèses, 50, 2003, p. 71-90)
。市場における利 害対立を経て,イデオロギー的正義のルールと,判断を下す適切な方法(裁判 所と国会)は,凌駕することのできない共和国の秩序のうちに見出されたので ある。219 結論
産地重視原則および従来からの忠実な地元の慣習の尊重,そして,品質概念 に優越する産地の典型性の観念は,1930 年代までに規範的効力を持つにいたっ た。テロワールとも結びついた品質の観念は,最近になって法的に確立された ものなのである。
ネゴシアンには不利となる規範が誕生した起源もまた,明らかに政治に存す る。市場の法的フレーミングが行われる際,クリュ所有者によって共和主義の イデオロギーが受容され,効果的に利用されたことからしても,そのことは明 らかである。国会議員の立場,とくに議論の過程で示された急進派および社会 主義派の立場は,自己の規範の見地を押し付けようとして,ますます組織化さ れていく生産者組合には有用なものとなった。AOCは,共和主義によって制 度化されたのである。
たしかに,ラフェルテ(Laferté)の業績によれば,地域的アイデンティティ や民間伝承といった要素も,積極的な形で,テロワールを実際的に表現するも のといえる(LAFERTE Gilles, La Bourgogne et ses vins : image d’origine contrôlée, Belin,
coll. Socio-histoire, 2006)
。しかし,原産地についての法的および商業上の概念によってこそ,土地に結びついた慣習を規定できるのであって,これこそがテロ ワールを表現する際に不可欠な要素となっている。本研究は,この規範の形成 過程を確認するために,テロワールの定義をめぐる歴史につき,控えめな考察 を試みたものである。地質,気候,ブドウ栽培にかかわる言葉であって,マー ケティングと文化の客体であり,社交の場であり,たびたび政治の場にもなっ たテロワールは,法律に由来する最近の意味では,真の内在的な場所というよ りも,永遠に再構成される歴史的客体なのである。
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【訳者あとがき】
本稿は,ブルゴーニュ大学のオリヴィエ・ジャケ(Olivier Jacquet)氏の論文
«Les appellations dʼorigine et le débat sur la typicité dans la première moitié du XXème siècle : le rôle du syndicalisme viti-vinicole bourguignon» の翻訳である。
本論文の電子版は,ブルゴーニュ大学のウェッブページ(http://revuesshs.u-
bourgogne.fr/territoiresduvin/)
に掲載されている。翻訳掲載にあたり,ジャケ氏のご快諾を得ることができた。この場を借りて,御礼申し上げたい。