ジェンダー研究会
第 1 次世界大戦下フランスにおける労働・人種・ジェンダー
松 本 悠 子
第 1 次世界大戦において,主戦場の 1 つとなったフランスには,多様な地域から多様な 人種民族を出自とする労働者が動員された。彼らがフランス地域社会で実際にフランスの 人々と関わった時,フランスの人々の人種認識はどのようなもので,どのように変わった のであろうか。第 1 次世界大戦前後,アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人活動家が人 種差別のない共和国として憧れた国の人種認識は,どのように構築されたのであろうか。
さらに,人種認識は,どこの国,地域においても,必ずジェンダー秩序と深い関わりを持 っている。「血」の継承という基本概念は,人種の境界を超えた親密な関係や再生産の問 題と直結するからである。本稿では,戦時下フランスの軍需工場で働いていた女性労働者 とインドシナ植民地から動員された労働者を中心に,人種,ジェンダー,さらに労働者と いう階級がどのように人種認識をつくっていたかを論じる。
1 .は じ め に
第 1 次世界大戦は,戦争に参加あるいは影響を受けた国家と地域の数,それぞれの植民地 を舞台にした世界に広がる戦い,それぞれの国民を総動員した戦時体制など,どれを取って もまさに世界を動員した初めての戦争であった。その中で,ようやく近年注目されるように なったのが,労働者の世界的移動である。戦時下の労働力不足はどこの参戦国においても喫 緊の課題であり,国内の非戦闘員男性と女性の動員が行われたことはいうまでもない。フラ ンスは,国内の労働力だけでなく,ヨーロッパ内の移民労働力(イタリア,ポルトガル,ス ペイン,ギリシャなど)を導入した。フランスもイギリスも各植民地から兵士および労働者 をヨーロッパに呼び寄せた。さらに,両国ともに植民地とは公的にはいいがたい中国からの 労働者をも募ったことは,既に以前にまとめた拙稿において指摘したところである1)。結果 として,フランス本土では,戦場および労働の現場とそれを取り巻く地域社会において,フ
1) 松本(2017)。
ランス人は多様な人種民族に初めて日常的に接触することになり,しかもこれまで女性の職 種とは考えられていなかった労働現場に女性が入ってきたことで,人種とジェンダーの秩序 が問題となったのである。
アメリカ合衆国の歴史を研究してきた筆者の本来の目的は,戦時下のアメリカ合衆国およ びフランス本土に派遣されたアメリカ軍とフランスを比較し,人種認識の歴史が普遍的であ るのか否か,どのように各地域で人種秩序が構築されたのか,その際,歴史的に異なる人種 関係を持っている国々がどのように相互に影響しているのかなどの点を,ジェンダーの視点 を踏まえながら検討することである。本稿では,そのための作業の一環として,戦時下のフ ランスの労働現場における人種とジェンダーの問題をインドシナ植民地出身の労働者に関す る資料を分析することによって考えたい。資料は主に政府の文書,特に,インドシナ出身の 労働者を管理する管理官がそれぞれの労働現場を訪れた巡回記録とインドシナ兵士と労働者 の郵便を検閲する局の報告である。フランス軍は,大戦開始後, 郵便監視委員会を中心とす る検閲の組織体制を作った。翻訳者を雇用した各植民地および言語別の部局が,兵士および 労働者(中国も含む)の手紙や小包を検閲し, その報告書を毎月出したのである。検閲は,
主に戦況に関する機密や「誤報」がないかという点と,植民地支配に反発する動きがないか という点を中心に行われた2)。毎月出される検閲報告には,検閲で問題になった手紙の一部 も紹介されているが, 一旦検閲官の目を通してであり, さらに兵士や労働者たちも検閲があ ることを承知で手紙を書いているため,多様なフィルターを通して分析する必要がある。し かし,それでも労働者の日常生活や感情を垣間見ることができ,貴重な資料である。
2 .大戦下フランスにおける「人種」集団の構築
⑴ 呼称とステレオタイプの利用
1919年 7 月25日,フランス代議院は「人権宣言に基づく不滅の原理に忠実に,人種,階級,
宗教などに関するすべての偏見を非難し,この国のすべての法律において,出自や肌の色を 区別せずにすべての人間が平等であること」を宣言した。この宣言を提案したのは,グアダ ループとレユニオンの代議員であり,直接の発端は,同年の 4 月にグアダループの船員がア メリカ軍警察に殺害されたことである。西インド諸島やレユニオンなどの古くからの植民地 出身の代議員の目的は,アメリカ軍の人種主義とフランスとの違いを明確にすることであっ た3)。では,大戦下のフランス政府や軍部,さらにはフランス社会では「出自や肌の色」の 区別がなかったのであろうか。フランス政府および軍部の非ヨーロッパ系の労働者や兵士に
2) SLOTFOM XII 1 La Commission de Contrôle de Marseille, Rapport Moral et Politique, 25 Novembre 1916.
3) Chathuant(2018)pp. 225-232.
対する見方は,まずその呼称に現れていた。どの資料においても,最も多い呼び方が「原住 民」indigènes4)である。中国人労働者も「原住民」と呼ばれていることから,政治的意味で の植民地出身者という意味だけでなく,フランスあるいはヨーロッパが圧倒的な力を持つヨ ーロッパ以外の地域の出身者としての他者という意味が含まれていると考えるべきであろう。
中国人労働者は,同じ契約労働者であるにもかかわらず,ヨーロッパ内の移民労働者と異な り,植民地省の管轄であったことも付言しておきたい。
さらに,「原住民」は「有色」であることも示唆されている。というのもその対極として 資料ではフランスの人々を「ヨーロッパ人」と呼ぶことが多いからである。実際に「白人」
という言葉と並べて使われていることからも,肌の色が 1 つの基準であることは間違いない。
ただし,植民地においては,フランス文化あるいはヨーロッパ文明を身につけているかどう かが法的に「ヨーロッパ人」と分類される基準となっているため, 「ヨーロッパ人」を必ず しも生物学上の人種分類として論じることはできないという指摘がある5)。本稿で分析して いる資料は植民地行政と近い省庁のものであり,植民地で使われている言葉を意識せずに使 っているといえるかもしれない。しかし,法律上の分類が社会的分類と同じとはいえない。
さらに,フランス本土で「ヨーロッパ人」か「原住民」かの区別を論じる時,管見の限り,
ヨーロッパ文明の議論はなされていないことも指摘しておきたい。
フランス軍と植民地省は, マルセイユに集められた「原住民」の労働者たちを各出身地別 の集団に分類し,集団ごとに各地の労働現場に派遣した。資料では,その集団の単位として
「人種」race という言葉が多用されている。このような管理体制にした第一の理由は,言語,
習慣などを考慮して管理しやすいと判断したからであろう。しかし,結果としては,一時的 であれ,フランス社会の中に複数の「人種」集団を作ることとなった。ただし, 「人種」の 定義は実際には明確ではない。一方で,インドシナ植民地から来た人々をさらに,安南出身 者,トンキン出身者,コーチシナ出身者のグループに分け,それぞれに「人種」という言葉 を使うこともある。報告書の中では,トンキン出身者とコーチシナ出身者との間の乱闘など,
インドシナ人労働者6)の間での「人種対立」の事例が複数報告されている。他方,「アジア人」,
「黄色人種」という分類も使われている。1916年の巡回報告書は「アジア人」を一緒にする と「人種間の反感」が増すためツールーズの火薬工場には安南出身者だけを送り込むほうが
4) 「原住民」という語の差別的意味は承知しているが,むしろ扱った資料では,その差別的意味を 含んでいると考えられるので,本稿では「原住民」を使用する。
5) 松沼(2012)142-145,169頁。
6) インドシナ植民地出身者に関しては,資料ではトンキン人,安南人,コーチシナ人と分けて書か れていることも多いが,必ずしも明確に分けられていると考えられないため,本稿では,まとめて インドシナ植民地出身者をインドシナ人とする。
いいと提案している7)。 セネガルやマダガスカル出身の兵士や労働者も,出身地が異なって も「黒人」と呼ばれることがある。たとえば, 1916年,戦争省と植民地省が植民地出身者と 外国人労働者の管理が戦争省の管轄であることを確認するメモは, 「多くの黄色人と黒人が 突然入ってきたために起こる問題を避けるために,細部に気を配った組織を作る必要がある」
と指摘している8)。インドシナ人労働者も「人種」の持つ意味を理解していた。たとえば,
1917年のあるインドシナ出身の医療補助者の手紙は,フランスに奉仕すればするほど「軽蔑,
無視」の対象となると嘆き,それも「見かけの肌の色のせいだ」と論じている9)。
このように, 「人種」の意味は,「血」の継承による生物学的差異を想定した分類からエス ニシティに近いものまで多層的ではある。しかし,いずれにしろ, フランス人にとっての「他 者」を特定する「人種」分類が兵士や労働者の管理というシステムの中で構築されていたの である。その上で,各「人種」のステレオタイプが実際の管理に使われている。たとえば,
インドシナ人労働者に関しては, 「大人しくて静か」「原始的精神状態」といった特徴が報告 されている。また,仕事を逃れようとするインドシナ人労働者を,生まれつき「子供のよう で」「劣等な性質」を持つと批判している10)。このようなステレオタイプ化は枚挙にいとまが ない。それまでのヨーロッパの歴史にも見られた「戦闘に適した人種」とそうでない人種と いう分類も同じ発想である11)。「戦闘的人種」の筆頭とされたセネガル狙撃兵と対照的に, イ ンドシナ人は「人種」の特性として戦闘には適さないが「器用で細やか」であり,工場労働 者や運転手,看護師に向いているとされた。インドシナの兵士の部隊を戦闘に参加させるこ とにはフランスの軍部に反対が多く,最初は道路及び鉄道建設や宿営の建設に主に従事させ ていた。しかし, フランスの冬を耐えることができないという固定観念で冬は南仏に駐屯さ せられていたセネガル兵とは異なり, インドシナ部隊は越冬ができることが注目され, ヴェ ルダンの戦い以降,兵士不足の中でようやく前線で戦うことになったのである12)。
⑵ アイデンティティと相互の他者化
フランスの地域社会が国外からの兵士や労働者を歓迎しているという報告も多くあるが,
いつも歓迎されていたわけではなかった。中国人労働者に関するまとめでもすでに紹介し
7) SLOTFOMI 1, Le Comité d’Assistance aux Travailleurs Indochinois à Monsieur le Directeur de la Poudrière de Toulouse, 1 Août, 1916.
8) SLOTFOM I 4, Le Ministre des Colonies et Le Ministre de la Guerre, 26 Décembre, 1916.
9) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Rapport du Mois de Décembre, 1917.
10) SLOTFOM I 1 Le Ministre de la Guerre à Monsieur le Commandant du Dépôt des Travailleurs Coloniaux, Marseille, 9 Novembre, 1916.
11) Joly(2018)p. 154.
12) SLOTFOM I 4,Les Indochinois en France, 30 Décembre 1919.
た13)が, インドシナ人労働者や兵士だけでなく, どの集団もその集団に帰属しているという 理由で地域社会との摩擦を経験していた。フランス社会から受けた反感や蔑視を綴って検閲 で差し止められる手紙も多い。たとえば,ブールジュでは, 1917年の 7 月14日記念日に, 2 名のインドシナ人労働者がフランス人の若者に石を投げられ,それをきっかけに群衆がイン ドシナ人労働者を追いかけ暴動に発展した。あるブールジュにいたインドシナ人労働者の手 紙では, 「……みすぼらしい服装だと野蛮人として扱われる。きちんとした服装をしている と泥棒だと思われる。仕事場では, 働かないと監督に罰せられる。働きすぎるとフランス人 労働者から攻撃される。帰りたい。帰るために何か悪いことをしよう。(追放されることを 願って)」とあった14)。この件に関する巡回報告も,7 月14日記念日の祝祭の興奮とともに「(フ ランス人)労働者たちの間にあるインドシナ人に対する嫌悪感,彼らが清潔な身なりをして 女性と付き合っていることへの嫉妬,職場での競争に関する不安」などをこの暴動の要因と している15)。また,暴動以前の 6 月の郵便検閲報告で紹介された手紙では, ブールジュでは フランス人労働者たちとインドシナ人労働者が対立しているため「我々は襲撃されないよう に閉じこもっている。人々は,私たちをフランス人労働者の略奪者だと思っている」と記さ れており,地域の緊張の度合いが察せられる16)。
ただし,地域社会での摩擦は,いわゆる「原住民」労働者とフランス地域社会の対立だけ ではなかった。出身地別の集団の方が管理しやすいと当初考えられたが, 1 つの集団だけを 1 つの地域に派遣するというわけにはいかず,かえって,その場の力関係で多様な組み合わ せの衝突が起こることになった。たとえば,火薬工場で300人のモロッコ人と働いているイ ンドシナ人労働者の手紙は, モロッコ人との騒乱で警察が出動したことに触れ, モロッコ人 に対する侮蔑的な表現を書いている17)。モロッコ人やセネガル人とインドシナ人の衝突の事 例は多く,検閲報告書は「黒人と黄色人は互いにうまく付き合えない」と付言している18)。 注目すべきことは,フランスという同質性を疑わなかった社会において,地域に密着したレ ベルで,多様な「人種」集団が接触, 交流し,そして衝突が引き起こされたことである。最 終的には彼らの多くはそれぞれの出身地に帰るため,一過性の現象だという見方もできる。
しかし, この時期に構築された人種認識が記憶に受け継がれることはなかっただろうか。さ
13) 松本(2017)96-98頁。
14) 1 SLOTFOM-8-1,Le Contrôle Postal Indochinois, Avril 1917.
15) 1 SLOTFOM-8-1, Le Rapport de M Presyluski, Contrôleur des tirailleurs et travailleurs indochinois, Juillet, 1917.
16) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Juin 1917.
17) 1 SLOTFOM-8-1, L’Extrait de Lettres adressées par des Travailleurs ou Tirailleurs Indochinois en Indochine, Juillet 1917.
18) SLOTFOM I 4,Le Rapport du contrôle postal, Juillet, 1917.
らなる検証が必要であろう。
3 .労働の現場
⑴ 女性と労働
参戦国では,女性が一斉に国内戦線,いわゆる銃後の戦いに動員されている。これまでの 研究を手掛かりにフランスでの状況をまとめてみたい。比較史としてまず指摘したいことは,
アメリカ合衆国やイギリスの状況と比べると,フランスは女性の動員を躊躇していたように 見える点である。イギリスにおいてもアメリカ合衆国においても, 赤十字をはじめとする多 様な組織のボランティア活動に女性は参加し,自らの愛国心を競って表明した。しかし,当 初,女性のボランティア組織の結成の承認に関してもフランス政府は消極的だったという。
さらに,戦前からの出生率低下に関する懸念は,戦時下において,母親としての女性のアイ デンティティを強調するプロパガンダにつながった19)。工場労働が母体の健康を阻害すると いう議論も繰り返し行われた。しかし, 1915年後半あたりから,男性労働者の「代替要員」
として,つまり戦時中だけの労働者として女性の力が必要だというプロパガンダが見られる ようなった。プロパガンダとしては,ジェンダー規範を維持したまま愛国的な女性を一時的 に受け入れるというメッセージが発信されていたのである20)。
たしかに,1915年以降,女性労働者の軍需工場で占める割合は増加した。たとえば,弾薬 製造工場では,1915年に15000人だった女性労働者の数が,1917年には 6 万8000人に増加し ている。ある統計によると,1918年には約40 万人の女性が軍需工場で働いていた21)。しかし,
留意すべきことは,戦前働いていなかった女性が愛国心を持って労働に参入したというより,
戦前も働いていた層の女性の軍需工場労働への参入, すなわち職種間の労働力移動が中心だ ったことである。フランスでは,20世紀初頭にすでに他の国より外で働く女性の率が高く,
既婚女性も全体の 2 割が働いていたという。戦前の女性労働者の大半は家事使用人や織物工 場の労働者であったが,開戦前後の不況で職を失い,夫や父親の出征で一家の生活を担う必 要が高まることによって,より賃金の高い軍需工場に職を求めたのである22)。したがって,
女性の社会進出といっても,女性の間の階級のちがいを考慮する必要がある。
⑵ インドシナ人労働者
インドシナ植民地からは,1915年から1918年までに,約 5 万人の兵士と 5 万人近くの労働
19) Darrow(2000)p. 74; Thom(2017)p. 53.
20) Roseman(1999)p. 63.
21) Hause(1987)p. 104; Souchon(2008)p. 39.
22) Hause(1987) p. 104.
者がフランス本土に送られた。技術を持つ労働者および農村から集められた不熟練労働者た ちは,マルセイユに集められて,グループに分けられ,武器弾薬を作る工場,飛行機の製造,
トラック輸送の運転手,鉄道の保全と管理,看護師など多様な職種や地域に分散した。労働 者の中には技術を学ぶことによって賃金の等級が上がるなど,技術の取得という植民地側の 狙いを実現させたものもいるが, 大半は肉体労働で消耗していた。看護師も専門職というよ り, ほとんど何も知らずフランス語も話せない農民が初歩的な教育を受けて衛生部隊に配属 させられることが多い。当初は 1 年契約だったが, 最終的には多くの労働者が休戦後の戦場 の回復の仕事が終わるまで残ることになる23)。
派遣される仕事場によっても異なるが,労働者のグループは,大きいグループの場合は 1000人近くとなり,出来るだけ同じ地域の出身者でまとまるようにされた。管轄は戦争省と 植民地省で,管理運営をする戦争省の地域指揮官と各植民地出身集団ごとの保護監督をする 植民地省の管理官が, インドシナ人労働者の管理監督を分担していた24)。さらに各グループ には,将校が 1 人,何人かの「ヨーロッパ人」の下士官およびインドシナ兵士の下士官と通 訳がつけられた25)。さらに25人に 1 人程度の割合で労働者の間で「仲介者」を選ばせるなど,
明確なヒエラルヒーの組織をつくったのである。また, フランス人の下士官や将校にはでき るだけ植民地での軍務経験や行政経験のある人を選任した。地域によって相当状況は異なる が,全体としては中国人労働者と同様に軍隊式の管理が行われたのである26)。
仕事は 1 日 2 交代あるいは 3 交代で行われ,行う仕事は,技術労働者を除いて最も単純な 労働であった。衣食住も地域によって相当異なるが,簡易宿舎にまとめて入れられ,食事付 きであった。インドシナ労働者援助委員会のメンバーが各地を巡回した報告によると,食堂 や売店が揃い,映画も見られる例もある一方,街まで 6 キロ近くあり外出許可もほとんど出 ないシャトルーの飛行機工場の例もある。シャワーもなく,冬はとても住めそうもない宿舎 や,工場まで毎日 2 キロ歩く例もある27)。また,宿舎を出るには外出許可が必要であり,地 元警察や工場の監督は彼らの行動を監視報告する義務があった28)。巡回報告書も,外出許可 がめったに出されないグループに関して「良い方策である」と付言しており,方針として管 理と監視の強化があったと推察される29)。このような生活環境の問題あるいは厳しい管理,
23) SLOTFOM I 4, Les Indochinois en France, 30 Décembre 1919.
24) SLOTFOM I 4, Le Ministre de la Guerre à Monsieur le Ministre des Colonies, 10 Avril 1916.
25) Vu-Hill(2011)pp. 44, 93-94.
26) SLOTFOM I 1, Le Rapport sur le recrutement indigéne. Décembre 1915.
27) SLOTFOM I 1, Le Comité d’assistance aux travailleurs indochinois à Monsieur le Ministre des colonies, 7 Octbre, 1916.
28) SLOTFOM I 1, Le Ministère de la guerre, Notice au sujet de la main-d’œuvre étrangère, 1917.
29) SLOTFOM I 1, Le Rapport à Monsieur le Président du Comité d’Assistance aux Travailleurs
監督らの横暴などに対して仕事を集団で拒否する事例も多く報告されている。1917年 8 月の 報告では,ツーロンでは100人のインドシナ労働者が仕事を拒否したが,15人が30日間拘留 されるなど仕事の拒否には懲罰が待っていた30)。
⑶ 労働の現場における女性労働者とインドシナ人労働者
1915年後半に女性向けの労働動員のプロパガンダが盛んになるとほぼ同時期に,中国人労 働者を募集する計画が練られ,1916年前半に実際に中国で募集が実施されている。インドシ ナ植民地における労働者の徴募も1916年から大々的に行われるようになった。当初はすぐ終 わると思われた戦争の長期化の様相にフランス政府が慌てた様子が見て取れる。では,女性 労働力の動員と植民地および中国からの労働者の工場への動員はどのように関わるのであろ うか。戦前の重工業には熟練労働者が必要であったが,戦時下では,一部専門職労働者が前 線から呼び戻された以外は,むしろ雇用者側が生産の仕方を転換したことに留意したい。女 性たちが新たに重工業の職を得たといっても, 戦後に続く技術を獲得できたわけでは必ずし もなかった。セーヌ県の弾薬製造工場の資料を分析した研究によると,むしろ,代替要員で も仕事ができるように工場側が工程を細分化し,流れ作業を導入したのである。このような 単純な流れ作業は, 植民地からの労働者や中国人労働者にも適用された。女性労働者ととも に, 1 日平均10時間,換気も良くない仕事場で底辺の単純労働をこなしていたのである。女 性労働者の賃金に関しても,他の女性労働者の職よりは好条件であったが,同一職種のフラ ンス人男性よりは低く,日当の最低が7.5フラン,最高が12フランに対してフランス人男性 労働者の賃金は,最低が8.5フラン,最高は18フランであった31)。ちなみに,中国人労働者を 募集した時のフランスの契約では衣食住付きでおよそ 3 フランであった32)。物価がわからな いので比較できないが,「原住民」労働者に最低限の衣食住の心配がないとすると,女性労 働者とインドシナ人労働者との賃金の差はそれほど大きくはなかったのではないかと推察で きる。
巡回報告書もインドシナ人労働者の仕事が女性の仕事と同等であったことを認めている。
たとえば,1916年の段階でフランスで最も大きいといわれる火薬製造工場では, 1 万6000人 の労働者のうち1974人がインドシナ人労働者,3000人がフランス人女性,他はカビルと呼ば れるアルジェリア植民地出身者とフランス人男性労働者で構成されており,インドシナ人労
Indochinois, Septembre 1916.
30) 1 SLOTFOM-8-1,Le Contrôle Postal Indochinois, Août 1917.
31) Dubesset et al.(1992)pp. 186-191.
32) Tsao(2018)p. 323.
働者は女性と同じ仕事を任されていた33)。ツール地方の火薬工場においても,近隣のフラン ス人以外に,セルビアからの避難民,セルビア軍の 1 部隊とともにインドシナ人労働者は働 いており,やはり女性と同じ仕事をしているという報告がある34)。
このような劣悪な労働環境や低い賃金に関して,フランス人女性労働者は,戦時下の愛国 主義の高まりにもかかわらず,フランス人男性労働者とともに,あるいは彼女たち単独で自 らの権利を主張した。年間のストライキの件数は,1916年が315件に対し1917年には696件に 増加し,その多くは女性労働者の多い織物産業と軍需産業であったといわれる。セーヌ県で は,1915年から1918年までのストライキの延べ参加者数は16万人に上り,そのうち30%が軍 需産業に勤める女性であった。ストライキのほとんどは物価の上昇に比して賃金が低いこと への不満であった35)。
フランス人女性労働者のストライキなどの行動は,直接インドシナ人労働者に影響した。
郵便検閲の報告によると,ツールーズの火薬工場で女性労働者が仕事を放棄して運動をした 時,女性労働者はインドシナ人労働者を運動に誘う一方,仕事を続けるインドシナ人労働者 に暴力をふるうこともあったという36)。フランス人労働者にしてみれば,全く管理体制が異 なり,低賃金で働く労働者の存在は,アメリカの労働運動で問題となる新来移民労働者のス ト破りと同様の意味があるだろう。管理官や現場の監督もストライキには神経をとがらせて いた。ストライキが抗議の意志表示であり, 要求を勝ち取る手段であることをインドシナ人 労働者に知らせてはならないと論じ,外出禁止を命じた37)。しかし,インドシナ出身者の手 紙は,ストライキにフランス人労働者の力の強さを見出した。1918年 2 月,ベルジュラック 野営地では「女性労働者に扇動されて」賃上げを求めてインドシナ人労働者がストを行った という記録がある38)。1919年 5 月のソルグのフランス人労働者のストライキでは,工場にイ ンドシナ出身者だけが働いており,フランス人の下士官が監督し,宿舎のあるアヴィニオン との往来はセネガル兵によって護衛されるという事態になった。この現場で働いていたイン ドシナ人労働者の手紙には「フランス人は賃金が低いことを抗議する手段を持っている」と 記されている39)。
33) SLOTFOM I 1, La Notice sur la Poudrerie de Saint-Medard, 5 Mai 1916.
34) SLOTFOM I 1, Le Rapport à Monsiuer le Président du comité d’assistance aux Travailleurs Indochinois, 20 Juillet, 1916.
35) Dubesset et al.(1992)p. 204; Darrow(2000)p. 194.
36) SLOTFOM I 4, Le Rapport du contrôle postal, Juillet, 1917.
37) 1 SLOTFOM-8-1, Le Dépôt des Travailleurs coloniaux, Rapport au contrôle postal indochinois, Avril 1919.
38) Vu-Hill(2011)p. 104.
39) 1 SLOTFOM-8-1, Le Dépôt des Travailleurs coloniaux, Rapport au contrôle postal
4 .ジェンダーと人種認識
⑴ ミドルクラス以上の女性とフランス人兵士
1918年夏,フランス本土のアメリカ軍本部とフランス側との連絡将校 J.A. リナードが,フ ランス軍の指導部に,アメリカ人(白人)はアフリカ系アメリカ人兵がフランスで厚遇され ることを嫌悪している,特に「黒人」がフランス人女性とつき合うことは不道徳あるいは「堕 落した」行為であり,「黒人」はフランス人女性を襲う危険がある,と考えているから,考 慮して対応したほうがいい,という旨のメモを送った40)。フランスに上陸したアメリカ軍は,
アフリカ系アメリカ人兵がフランス人女性に話しかけたり,カフェに入ったりすることを禁 じていた。それはアメリカ軍内の人種隔離政策にとどまらなかった。アメリカ兵はフランス にいるアンティル諸島やアフリカ出身者とよく揉め事を起こし,フランス人女性が原因とな ることも多かった41)。他国の人間であっても,多くの「白人」アメリカ兵には「黒人」が「白 人」女性と並んで歩き,対等に談笑することなどあってはならないことであるという人種隔 離の規範が染み込んでいたといえよう。
では,フランスで非白人の諸集団が身近に現れた時,フランスの女性たちはどのように対 応したのだろうか。また,それがフランス社会のジェンダー関係および人種認識にどのよう な影響を与えたのであろうか。万博以外で初めて異なる肌の色の集団に出会ったフランス人 女性の受け取り方について,1920年に出版されたリュシュー・クテュリエの『我が家の見知 らぬ人たち』がその一面を生き生きと伝えている。クテュリエ自身は,南フランスに駐屯し たアフリカ兵と交流を持ち, フランス語を教えた人物である42)。彼女自身の人種認識も興味 深いが,本稿では,むしろ彼女の観察を通してフランス人女性たちが初めての出会いでどの ように認識したかに注目したい。まず,呼称として「黒人」とそれに対応する「白人」とい う言葉が多用されており, アフリカあるいは植民地から来た人というよりも,肌の色が認識 の基準であったことがわかる。同時に付随する言葉として「野蛮」, 「ゴリラのような」ある いは「子供のような」といった表現が使われていることからも,ある程度の固定観念がすで にあったことがわかる。さらに,クテュリエはゴビノーにも言及しており,受けた教育によ っては知識としての人種認識を持つことも可能であったことがわかる。一方で,看護婦がセ ネガル兵に対して子供を扱うように接する様子や,ミドルクラス以上の女性たちが負傷兵の 見舞いと称して,セネガル兵の病室を珍しそうに覗く様子を批判的に描写している。負傷し
indochinois, Mai 1919.
40) Fogarty(2017)p. 68 ; Chathuant(2018)p. 229.
41) Chathuant(2018) p. 231 ; 松本(2017)99頁。
42) 平野(2014)95-103頁。
たセネガル兵の病室を訪問し,半ば強引に食事に呼ぶフランス人女性に困惑するセネガル兵 の話は,好奇心と施しの目で見るフランス人女性の人種認識を示している43)。このようなフ ランス人女性とアフリカ兵との接触は新聞や絵葉書にも見られる。家族のいない,あるいは 家族が遠方にいる兵士に,家族の代わりに手紙や慰問品を送る「兵士の代母」事業では,フ ランス人女性とセネガル兵とのやりとりが大衆新聞の題材にもなるなど,揶揄や批判を引き 起こした44)。「兵士の代母」としての文通は,本来は,戦前からの教会の慈善事業の延長の計 画だったが,実際には,若いと想定される女性と兵士の文通となり,セクシュアルな意味が 込められていたからである。マダガスカル兵の記録にも「兵士の代母」として複数の女性と 文通して,金品や衣服などを送ってもらっているという指摘がある45)。軍部も危惧し,1915 年末に,セネガル兵に手紙や慰問品,特に写真を送ると,彼らの間で回覧されて「楽しみと 嘲り」の対象になると女性たちに警告した。また,1916年には,負傷した植民地兵のために 別の病棟を用意し, 女性看護師を遠ざけて, インドシナ労働者のような男性の看護師や衛生兵,
雑役夫が看護に当たることを軍部が命じた46)。
フランス人女性がアフリカ植民地から来た兵士や負傷兵に接する時,慈善の精神や母性的 態度を示したであろうことは間違いない。このようなフランス人女性の人種認識は植民地支 配を肯定する帝国主義的意識,あるいは白人であるフランス人を上位とする人種ヒエラルヒ ーを明確に示すものであった47)。ところが,前線にいるフランス人兵士達はこのようなフラ ンス人女性の態度に思わぬ反発をした。前線の兵士達が作成回覧していたいわゆる塹壕新聞 を分析した研究者によると,フランス人女性を誘惑するセネガル兵というイメージが,真偽 がわからないような記事や寸評で繰り返し掲載されていた。同時に自分たちが命を懸けて戦 っている時に銃後では女性たちがアフリカ兵の誘惑に積極的に応じているという裏返しの嫌 悪あるいは批判の言説が繰り返された。ドイツ側のフランス兵へのプロパガンダが植民地兵 の魅力に惹かれるフランス人女性という言説であったことも考慮すると,フランス人女性と 非白人男性との関りが規範からの逸脱であることがよくわかる48)。このような人種とジェン ダーの関わりに関する言説が戦争という緊張の極限状況で見られたものであることは留意す る必要があるが,ジェンダーをめぐる規範において「出自や肌の色」の違いが重要な要素で あったといえよう。
43) Cousturier(1920) pp. 43, 198-203.
44) Darrow(2000) pp. 79, 85;Grayzel(1999) p. 124.
45) 1 SLOTFOM-8-1. Le Contrôle Postal Malgache, Rapport, Novembre, 1917.
46) Melzer(1998)p. 227; Stoval(2003)p. 313.
47) Fell(2011).
48) Melzer(1998)pp. 226-228; Koller(2002)p. 146.
⑵ 労働者階級のフランス人女性とインドシナ人労働者
このような規範にもかかわらず,労働の現場およびその周辺で働いていたフランス人女性 の「原住民」労働者に対するまなざしは,ミドルクラス以上の女性たちのそれとは異なって いた。
インドシナ人労働者をはじめとするいわゆる「原住民」労働者たちは軍隊式の厳しい管理 を受けていたが,フランス人女性,特に共に働く労働者や街のカフェなどで出会う女性とつ き合う機会は頻繁にあった。インドシナ人とフランス人女性の結婚の問題を論じた報告書も,
日常の工場での植民地出身の労働者とフランス人女性の接触が問題であると指摘した49)。イ ンドシナ人労働者および兵士の郵便検閲の月例報告書には必ず「交際」という項目があり,
フランス人女性に関する記述は検閲の対象となった。戦時中公認された娼家の数は増加して おり,彼らも利用していたという記述がある。また,フランス人女性の写真(商業的な)が インドシナ植民地宛の多くの手紙に同封されているため,どのような程度の写真が何枚ある か,種類別に毎月統計が取られるほどであった。
そのような手紙の多さに,1917年 7 月の報告において郵便検閲官は,インドシナ人労働者 がフランス人女性を「尊敬していない」と嘆いた。たとえば,インドシナ人労働者のある手 紙は,サイゴンではインドシナ人労働者は軽蔑の目でフランス人女性から見られていたが,
もはやフランス人女性たちの評判は地に落ちているとまで言っていた50)。インドシナ人労働 者とフランス人男性の間で,女性を巡って暴動が起きるなど,インドシナ人労働者とフラン ス人女性の「交際」は地域の緊張関係の主要な原因の一つとなっていた。休戦協定後の郵便 検閲報告も,インドシナ人はフランス人女性に対して「尊敬」の念を持たず, 「軽薄で道徳 心がない」女性や若い女性とその家族に受け入れられたことを自慢していると批判してい る51)。フランス人女性との「交際」は,植民地支配への反逆あるいは植民地の人種秩序の破 壊の可能性を示していたのである。マダガスカル出身者の郵便検閲では,さらに強い調子の 手紙が検閲の対象となった。「フランス人女性との交際は,単に楽しみだけでなく,報復の 方法でもある。……マダガスカルでヨーロッパ人が現地の人々に見せた軽蔑に報復をするこ とができる。マダガスカルでは,ヨーロッパ人女性たちは,私たちをハンセン病患者のよう に見ていた」,と52)。
49) 1 SLOTFOM-8-1, Le Ministre de la Guerre à Monsieur le Commandant du dépôt des Travailleurs Coloniaux.
50) SLOTFOM I 4 ,Le Rapport du Contrôle Postal, Juillet 1917.
51) 1 SLOTFOM-8-1, Le Dépôt des Travailleurs Coloniaux, Rapport du Contrôle Postal Indochinois, May 1919.
52) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Malgache,Décembre, 1917.
真剣な交際を望んだ女性も多かった。フランス人女性の家族も巻き込んだ結婚を前提とす るつき合いや結婚の申請などについての記述が毎月のように検閲官を困らせていた。1917年 6 月の植民地部隊の指導部から植民地省のインドシナ部局への手紙によると,1918年の段階 で法的結婚の事例が250件あった53)。1919年 3 月の郵便検閲報告では,「交際」に分類された 検閲すべき手紙が300通あったという54)。また,1920年 4 月のインドシナ部隊の総監査官の報 告によると,名簿上250カップル,さらに正式ではないカップルが1142組いるとしている55)。 休戦協定後,徐々に帰国の可能性が見えてくると結婚の問題も本格化した。フランスに残る 道を探すのか,植民地に女性を連れて行くのか,どちらにしても各個人としては大きな選択 を迫られた。
全体から見ればこのような結婚の件数が多いとは言えないが,フランスの社会においても,
植民地においても大きな議論を呼んだ。1917年 7 月には,植民地出身者とフランス人女性の 結婚の申請に関して司法省から控訴院検事局に機密扱いの通達がなされた。それによると,
結婚を阻止するために管轄の自治体に知らせ,自治体が女性とその家族に植民地での生活の 劣悪さや一夫多妻制の存在を知らせるとともに,当該の男性に対しては,身元証明など必要 な資料を全て植民地省に提出し,法的にその資料が認定されることが必要であるとした56)。郵 便検閲報告書においても,インドシナ人労働者あるいは兵士を「誘惑者」とし,出来るだけ 密かに家族に結婚を妨げさせる必要があると論じている57)。具体的には,手紙からわかった交 際の事例をリスト化すると同時に労働者のグループ構成を変える,労働監督によって相手の 家族に介入する,労働者に対する懲戒の厳格化などを提案している。実際に,1917年 7 月の ツールーズにおいて,契約が切れるインドシナ人労働者とフランス人女性との結婚の申請に 対して,インドシナでの家族の状況や身上調査が必要であるとして延期させ,またもう 1 人 の労働者の申請に対しては,本人に懲罰の履歴があったので,急ぎ転属をさせている58)。 休戦協定後の1919年 4 月の郵便検閲の報告によると,ブローニュの知事は結婚を阻止する ため極端な方策をとった。植民地などから来た「原住民」労働者(彼によると,中国人,イ ンドシナ人,エジプト人,チュニジア人,マダガスカル人,モロッコ人など)とフランス人 女性は親密な関係になってはならないという禁止令を出した。そのような関係は規律を乱し,
53) Vu-Hill(2011)p. 111.
54) 1 SLOTFOM-8-1, Le Dépôt des travailleurs coloniaux, Rapport du Contrôle Postal Indochinois, Mars, 1919.
55) 1 SLOTFOM-8-1 Le Ministère des Colonies, Rapport. Contrôle Général des Troupes Indo- Chinoises 1 Mai 1920.
56) SLOTFOM I 1,Le Ministère de la Justice à Monsieur le Procureur General, Juillet, 1917.
57) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Novembre, 1917.
58) 6 SLOTFOM/7,Le Ministre de la Guerre à Monsieur le Ministre des Colonies, 8 Juillet, 1917.
彼らが「ヨーロッパ人」の監督に服従しなくなるからだという。実際に,ある若い女性が中 国人に自分のポーズした写真を送ったために逮捕された。法廷は知事の法令は妥当ではない と無罪を宣告したが,地域のレベルで緊張関係があった 1 つの例であろう59)。法律上阻止す ることは無理であっても,休戦後もできる限りの方法で介入しようとする努力は続けられた。
たとえば,植民地省は,インドシナ人労働者は国費で帰国させるが妻の渡航費用をフランス は支払わない,仕事場でリーダーや監督は内密に交際と結婚の事例を調査し報告すること,
などを命じた。夫についてフランスを出国しようとする事例に関しても,なんとか女性の渡 航を阻止しようとする動きがあった60)。
このようなインドシナ人労働者や兵士とフランス人女性の交際,そして結婚に対して規制 しようとする第 1 の理由が,植民地の人種およびジェンダー秩序が乱されることによって植 民地支配が難しくなるだろうという危惧にあることは明白である。先述した1917年の機密の 通達においても, そのような結婚は「政治的」に望ましくなく,植民地の人々の間で「我々 の尊厳」に打撃を与えると指摘した。他の資料では「ヨーロッパ人の威信」という言葉も使 われている61)。では,何故「我々の尊厳」あるいは「ヨーロッパ人の威信」に打撃となるのか。
それは,フランス人女性が現地の家族制度の中に組み込まれれば,植民地支配の根幹である 白人あるいは「ヨーロッパ人」上位の人種秩序が乱れるからである。先述の機密の通達も,
インドシナ植民地の現地の男性は結婚が早く,18歳で独身者の数は限られているためフラン ス人女性は一夫多妻婚の 2 番目の妻になる可能性が高い。マダガスカル,北アフリカ,西ア フリカ,モロッコでの現地の人の生活はヨーロッパの最下層の女性より劣悪であることなど を強調し,「女性を守る」必要があるという。
現地社会にとっても,フランス人女性との結婚は従来の伝統習慣に反することであり,あ まり歓迎できることではなかった。実際に,植民地にいる妻に宛てて,フランス人女性と結 婚したい,あるいは妻に女性の写真を送るといった手紙が見られることから,フランス人女 性がインドシナ社会でフランス流の結婚生活を送ることは難しかったであろうことが推察さ れる62)。ベトナム史研究者によると,一夫多妻制は1955年まで続き, 2 番目以降の妻をもら う時は,第 1 妻の同意か地域の長の承認が必要だったという63)。1920年のインドシナ部隊の 総監査官も,フランス人女性とインドシナ兵やインドシナ人労働者と結婚したフランス人女 性の植民地への到着は,現地の人々に良くない影響を与え,「植民地に行った女性たちは,
59) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Avril 1919.
60) 1 SLOTFOM-8-1, La Note pour les Services Militaires, 26, Mars 1919.
61) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Septembre, 1917.
62) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Mai, 1917.
63) Vu-Hill(2011)p. 108.
現地の人からも私たち同国人からも堕落した女性とみられ,すぐに売春婦に身を落とすだろ う」と警告した64)。フランス人女性が結婚して植民地に行くことに反対する声はアフリカの 植民地からも聞こえている。1925年,赤道アフリカのフランス植民地の総督は,異人種間結 婚をしてアフリカの植民地に来れば,生活は惨めで現地社会からもフランス人社会からも排 除されて悔やむことになると,フランスの植民地省に警告を送っている65)。社会の根幹とな る結婚や家族などのジェンダー秩序に関しては現地社会の伝統習慣を維持しながら,「ヨー ロッパ人」優位の人種秩序を基盤に植民地統治を行おうとする統治者側の姿勢が,凝縮され た形でフランス人女性と「原住民」男性の結婚問題に見られるのである。
ただし,「女性を守る」ためという言葉が繰り返されると同時に,当該の女性に関して「一 部の女性たちのひどい堕落」を嘆き,「軽率で疑うことを知らない」女性と評している点に 注目する必要がある66)。ボルドーの火薬工場では300人の女性が働いていたが,巡回記録は,
彼女たちが「下層階級の出身」で「彼女たちの道徳観は疑わしく」,インドシナ労働者を誘 惑して彼らの賃金を巻き上げていると非難している67)。ヨンヌ県の軍需工場を巡回した1917 年の報告においても「軍管理地域の公認の娼家から逃れてきた女性たち」が公然とインドシ ナ労働者を「誘惑している」として,監視を厳しくするように工場に進言している68)。イン ドシナ人労働者や兵士との交際や結婚を選択した女性は,無知か,社会の規範を逸脱してい るとされたのである。この評価の背景には,外で働かざるを得ない労働者階級の女性に対す るフランス社会の見方もあると推察される。しかも,植民地統治とは直接関わりのない中国 人労働者とフランス人女性との間の交際や結婚の計画も同様に規制,介入が行われてい た69)。植民地統治の問題とともに,フランス社会にとって他者である人種集団のメンバーと の親密な交際とそれがもたらす結果が,フランス社会の規範をも危うくする問題として考え られていたのではないだろうか。
64) 1 SLOTFOM-8-1, Le Ministère des colonies, Rapport Confidentiel, Août, 1920.
65) フランス政府はアフリカ出身の兵士とフランス人女性の交際に関しても,インドシナ兵士や労働 者に対する議論と同様の議論と規制を行っている。Last and Futselaar(2015) pp. 89, 90, 96; 1 SLOTFOM-8-1, Le Gouverneur Général de Afrique Équatoriale Française à Ministre des Colonies, 10 Juin, 1925.
66) 1 SLOTFOM-8-1, Le Ministère des Colonies, Service de Indochine, Note pour les Services Militaires 26 Mars, 1919.
67) SLOTFOM I 1, Le Rapport à Monsieur le Président du Comité d’Assistance aux Travailleurs indochinois, 5 Mai, 1916.
68) 1 SLOTFOM-8-1, Le Rapport de M. Presyluski, Contrôleur de la main-d’œuvre indochinois sur sa visite aux Établissements Bickfort à Héry, 4 Juin, 1917.
69) 松本(2017)100頁。;Xu(2017)pp. 107-8; Ma(2012)p. 81.
⑶ 「混血」児
フランス人女性とインドシナ人男性との親密な関係は「混血」児の問題に帰着する。1918 年末の段階で,サンメダールというインドシナ人労働者が多い火薬工場の近辺には60人の混 血児がいたという記録があるほどフランス社会においても問題になっていた70)。1919年 6 月 の郵便検閲の報告においても,「混血」が増加していることについて,我々の人種 race のた めにも「フランス人女性の尊厳」のためにも「混血」児の出生を避けることが必要だと指摘 している71)。
「混血」児の問題は,大戦前まではジェンダー非対称の問題,すなわちフランス側から見 れば男性の問題であった。植民地におけるフランス人男性と現地の女性の間に子供が生まれ ることに関しては,ジェンダー秩序からも人種秩序からも想定されており,フランス人男性 が父親ならフランス人とされていた72)。ただし,社会的にどのように位置付けられているか は別の問題である。フランスへの動員において,植民地で「混血」とされた人々は,特別扱 いされることなく「原住民」のグループに入れられたのである。植民地から来た「混血」男 性は,手紙の中で,フランス人の血が入っていることが植民地でむしろ特権として見なされ ていたにもかかわらず,インドシナ人労働者のグループの中に分散して入れられ「原住民」
の中で逃れられないと感じている,戦争が終わってインドシナに帰ったら「彼らの父親に値 する立場と地位を守る」と書いている73)。1918年のサイゴンの子供保護協会に宛てた「混血」
男性の手紙は,自分はインドシナ人労働者と混合されているが,自分たちには帰化の権利が あり,父親はフランス市民であると,強調している74)。この問題が当局の目にも止まったのか,
戦後,「慈善的措置」としてインドシナ植民地から来た10代の「混血」男性50人がフランス に残ることが許され,里親の家庭に送られた75)。
一方,フランス人女性とインドシナ人男性との間の子供という設定は,大戦前まで想定外 であった。1917年 6 月の植民地兵を統括している将軍から戦争省への手紙にも,これまでの
「混血」児への対処とは異なるという以下のような指摘がなされた。フランス人女性とイン ドシナ出身の父親の間にフランスで生まれた子供は,もし父親に認知されて母親が認知しな い場合,植民地で「辛い」生活を送らなければならない。さらに,このような子供たちの存 在は,私たちの統治支配を弱め,私たちの「名誉」も損なわれる。これはインドシナだけの
70) Stoval(2003) p. 308.
71) 1 SLOTFOM-8-1, Le Rapport du Contrôle Postal Indo-Chinois, Juin, 1919.
72) 植民地における混血の問題について松沼(2012)参照。
73) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Juin 1917.
74) 1 SLOTFOM-8-1, Le Contrôle Postal Indochinois, Août 1918.
75) Saada(2012)p. 84.
問題ではない。フランスの土地でフランス人の母親から生まれた子供については「原住民」
の認知を拒絶することはできないだろうか,と。将軍は,認知のあり方について司法省でよ く調べてほしい,内務省には,子供をフランス国外に連れ出そうとしたり,母親が未成年で 決断できない場合,出国の許可を取り消してほしい,と懸念を表明したのである76)。1917年 7 月,植民地部隊指導部からマルセイユ植民地労働者収容所の所長に対して,労働者と子供 が一緒に渡航しようとする場合許可を与えない,密航がないかなど監督し,母親が同意して もなんとか出発を延期させることを母親に考えさせるように,と依頼している77)。
1917年 7 月の司法省から控訴院への機密の通達では,子供の問題に関しては,法的には認 知に反対できないため,認知の申請を受ける自治体の長に不都合であることを秘密裏に指摘 し,子供の母親を呼び出して父親が認知するとどのような結果になるかを自治体に説明させ ることがいいのではないかと提案する。この通達に関して,インドシナ植民地でも控訴院が 同年11月招集された。その報告では,植民地の「臣民」と結婚したフランス人女性とその子 供の国籍および身分を守り,子供にフランスの市民権を与える必要がある,フランスの法律 がフランス人の父親に与える権限をフランス人の母親に与え,子供にフランスの教育を与え る義務を課す必要があるという議論がなされた。1910年代にはすでにフランス本国において も母親が法的保護者になれるかどうかが議論されていた78)が,インドシナ労働者や他のいわ ゆる「原住民」とフランス人女性との関わりが人種秩序維持の面からもその必要性を後押し したと考えられる。その上で,この新しい事態に対して本国で法の制定が必要であると控訴 院は主張した。インドシナ人労働者あるいは兵士はインドシナの習慣に基づいた結婚を行わ なかったことを証明する必要があり,そのような証明なく行われた結婚は無効であるとする 法律を制定する必要があると指摘した。さらに,子供は,たとえインドシナ人の父親から認 知されても, 母親の身分に従ってフランス人である,子供の父親の財産の相続権を維持しな がら母親が親権を持ち, フランス的教育の義務を課さなければならない,フランス人の女性 と結婚したインドシナ人はインドシナの法律による新しい結婚はできない, などの要件を新 たに定める必要があると論じたのである79)。1918年に入っても,結婚を阻止する,もし阻止 に失敗しても植民地にフランス人女性をこさせない,さらに父親による認知を阻止するなど について,本国と植民地の間で議論が続いていた。インドシナ植民地の統治者もインドシナ
76) 1 SLOTFOM-8-1, Le Ministère de la Guerre à Monsieur le Ministère des Colonies
77) 1 SLOTFOM-8-1 Le Ministère de la Guerre àMonsieur le Commandant du Dépôt des Travailleurs Coloniaux-Marseille.
78) Hause(1987)p. 107.
79) 1 SLOTFOM-8-1, L’Extrat des Minutes du Greffe de la Cour d’Appel de L’Indo-Chine, 29 Novembre, 1917.
人の父親を持つフランス人との「混血」児を歓迎していなかったのである80)。
「混血」の問題は,じつは,戦争初期にすでに大きな議論を呼んでいた。ただし,この時 の「混血」は,いわゆる「原住民」とフランス人女性との間の子供ではなく,戦争初期にド イツに占領された地域のフランス人女性とドイツ人との間の子供である。開戦直後の進撃に よってフランス北部とベルギーがドイツによって占領された際,その地域の女性たちが強制 的に労働させられ,さらに労働のために強制移動させられている。そのような状況の中で,
暴力も含めた多様な接触がドイツ兵となされた結果が, 「混血」の問題となったのである。
まずドイツ人を「野蛮な人種」というようにフランス人とは異なる「人種」とみなすことが 大前提となっていた。その上で, フランス人の「血」の危機であると主張した人々によって,
占領地域では中絶を認めるという法案が1915年に提出された。この法案に対して多様な意見 が出されたが, いわゆるフェミニストたちは子供達の「血」の半分はフランス人でありフラ ンスの地でフランス人から生まれた子供を拒否することは女性の権利の侵害であると主張し た81)。インドシナ植民地出身者とフランス人女性との間の子供の議論と重ねて考えると, フ ランス人というアイデンティティが「血」の継承の観点から論じられ,しかもジェンダー非 対称な問題であったということに気づく。父親がフランス人の場合には想定されていること が,父親が「人種的他者」で母親がフランス人である場合には非常に警戒され,規制の対象 となったのである。結果としては,いわゆる「原住民」の父とフランス人の母親を持つ子供 の場合, フランスに滞在する限り, フランス人の父親と「原住民」の母親を持つ子供と同等 の位置付けとなったと考えられる。ただし,インドシナ人の父親による認知を阻む法的手段 がないため,問題は複雑である。インドシナ人とフランス人女性の結婚とその結果は,父権 を中心に考えられてきたフランス社会の市民のあり方にも一石を投じたのである。
5 .結びにかえて
第 1 次世界大戦の主戦場となったフランスでは,一度に多様な地域から多様な出自の人々 を社会に迎えることとなった。しかも,軍隊にしても労働者の管理にしても,「人種」別グ ループに分けることによって管理をしようとした。そのため,フランス社会の中の他者とし ての複数の「人種」集団が存在し,フランス地域社会と彼らの交流と摩擦,地域社会レベル での人種集団間の摩擦が見られることとなったのである。たしかに「人種」の定義は明確で はないが,戦時下のフランスはカラーブラインドな共和国というよりは,「血」の継承によ る分類に基づく「人種」集団のありようを一定程度認識した社会であったと考えられる。さ
80) Vu-Hill(2011)p. 109.
81) Grayzel(1999)pp. 50-56.
らに,フランス人女性の非白人人種との出会いは,フランス人女性の属す階級によって異な っていた。一般にはすでに人種に関する固定観念ができていたが,インドシナ人労働者と日々 接していた労働者層のフランス人女性は,積極的につきあっていた。その結果,彼らの結婚 および子供の誕生は,植民地統治のあり方に危機感を抱かせただけでなく,フランス社会の 人種およびジェンダー規範を問い直させることになったのである。
アメリカ史との比較から興味深いのは「血」の考え方である。アメリカの場合,強固な人 種ヒエラルヒーを背景に,奴隷制時代以来少なくとも公民権時代まで,一滴でも人種ヒエラ ルヒーの下位に置かれた人種の「血」が入っていればその下位の人種に帰属するとみなされ,
完全なシティズンシップを得ることができなかった。たとえば,20世紀の前半にはそのよう な基準をもとに異人種間結婚禁止法が多くの州で施行されたのである。したがって,半分フ ランス人の血が入っていればフランス人であるという認識は,同じように「血」の継承によ る帰属を認めながら,米仏で異なる人種認識が第 1 次世界大戦期に見られたことを意味する。
ただし,この違いはあくまで法的側面であって,インドシナ植民地から動員された「混血」
の人々のあり方が示すように,社会的に完全なシティズンシップが得られていたかどうかは 別の問題である。人種認識の面でも,フランス人は誰かという視点からも,戦後,フランス 社会で戦時下の人種認識の記憶がどのように継承され,「混血」のあり方がどのようにみな されたのかを検討する必要があろう。
参 考 文 献
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