鶴岡実枝子 二奈・良茂家」考
はじめに
一.奈良茂の出自と鎖店迄の動向二正徳期の資産
三鎖店後の奈良茂家
史料崩付
奈良茂神田家文召目録
はじ・めに
常磐院様御治世の時代'江戸中金もふけ俄分限多くして'町々に開き門の町人二ヶ所三ヶ所づつ有り'仲間草履
取高金を取tかんはんの仕立見町々多Lt然れども貧者も多Lt俄分限も今見るに1人もなし'茅場町冬木計り(1)なり'其頃国々山の奥までも金沢山に成りし云々(「江戸真砂六十帖」巻の四)
常宕院'すなわち五代将軍綱吉の治世とは'改めて断るまでもなく'元禄を真申にはさんで延宝八年から宝永六年「奈良茂家」考(鶴岡)
史料館研究紀要第八号二
のおよそ三十年の歳月がある。このいわゆる元禄期に、徒花のように咲き短期間で消え去った俄か分限が'将軍の首
都江戸だけの特異現象であったのかどうか'わたくLは知らない。ともかくtのちまで命脈を保ち得た冬木の名と'
財貨の源泉が諸国の山々であったとする表現からtT避千金の彼らに共通していたのは材木商であPたことが言外に
広めかされている.
ところで'この「元禄の繁栄」なるものの基盤なり性格がどのようなものであったかという'元禄期の時代的評価
は諸説の分れるところであって一致をみない。ただ寛文以降の農業生産力の上昇を基底に'地域的偏差を含みながら
も隔地向け商品生産の発展'海陸交通網の整備・発達をうけて'全国的な商品流通が展開し'近世郡市の発展期と見(2)放すことには異論のないところであろう。特に畿内農村の発展に加えて'日本海沿岸地方の物資を輸送する西廻海運
の発達は'江戸への流入物資の量を飛躍的に増大せしめたと思われるLtその供給に見合う程の需要が当時の江戸に
存在していたことは'前期の幕府の経済政策が専ら物価騰貴の抑制に向けられていたことから推察される。
明暦の大火後に本格化した江戸市街地の整備は'寛文以降の急速な人口の増大に伴ない'さらに元禄期に至って土
地造成による市域の拡張がみられたのも'その裏付けであると云える。同じ‑寛文‑元禄期に中央市場としての地位
を確立した大阪とは質的に異なるとは思われるものの'このような江戸の都市的発展は'別の視角から指摘すれば'(3)中央政権=将軍権力の集中的強大化の象徴と見なすことができる。
江戸の華ともうたわれた大火災の頻発'地雷などの天災'それに加えて本所'深川地区を重点とする土地造成ブー
ムと'将軍網舌の異常な迄に熱心で溝っ七寺院の建立・修復工事の多発が'権力と繋がりを持ち得た一部の材木商に
よる俄か分限張出の意味を或る程度理解し得るように思われる。
その俄か分限の代表格として紀伊国屋文左街門と並び称された奈良尾茂左街門に関しては'当館所蔵の「神田家文
(4)(5)菖」を利用された竹内誠・林玲子両氏の論考があり'他に傍証資料が殆んど得られない現在'改めて先学の論考に付
け加えるべきものもないのであるが、聾者が最近同文宙の整理を担当したのを機会に'当館所蔵史料紹介の意味で'(6)奈良茂家の消長の経過をやや詳細に考証を加えておきたい。
7奈混茂の出自と鎖店迄の動向
現存の奈良茂家文書のうち'成立の最も古い史料は'一代にして産をなしたと伝えられる四代勝豊(安休)が'営(7)業の停止を表明し資産の分与を定めた正徳四年二月・五月の導言状である。従って'霊岸島の袈店屋住いの串力(1(8)説には材木の小揚人足)の子といわれる勝盟の蓄財の経過を跡づける史料は皆無と云える。それ故に'従来から奈良(9)茂に関する殆んど碓]の所伝として利用されている「江戸真砂六十帖」の史料的位匠づげについて触れておきたい。
作者未詳の伝写本である「江戸真砂六十帖」には次のような序文がある。
私に日'元禄二己巳年出生して六十余年の星霜を考見るに世々珍事多Lt来生以前に聞伝へしは二十年来も知る
べLt.是は言に足らず、予が一生の事左に思ひ出して書置ぬ'徒然の節は慰ならんか'しかし盲人の噺Lに聞及
びし事1つ二つ記しぬ'是は其身の分限を知らさす老ゆゑ中位ぬ
元禄二年生れの作者が六十余年の星霜を経てきたとするのであるから'序文が置かれたのは究延‑宝暦の頃であ
り'輯錠された問責の内容は故老からの聞伝えを捉えて元禄の初年を遡ること二十年以前を上限としているが'ニュ
ースソースの時間的距離によって筆者自身'記述の史料的評価をすべきことを明らかにしているように読みとれる。‑
これによってみると'市井の逸事・閲苔という史料的二次性は否めないものの'その多くは可成り同時代性を持つ聞
畠の集成であったことが窺える。さらに奈良茂の所伝に限定して筆者の時間的関係を確めれば'奈良茂の最盛期と思「奈良茂家」考(机岡)111
史料館研究紀要第八号四
われる元禄年中に幼年期を過ごし'先に触れた勝豊の没年の正徳四年が二十五才となるから'奈良茂の伸張期に関す
る記述は概ね故人からの語り伝え'或いは当時巷間に定着していた所説であり'勝豊の没後二人の道子が遊里にその
名をはせた時期の記述は筆者自身の実体験としての閲書であったわけである(後段で述べるように'五代広環の生年
は元禄八年と推定されるから「江戸真砂」の作者は広環より七歳年長であったことになる)。
以上を念頭におきながら'他に拠るべき史料も得られぬまま'長文を厭わず「江戸真砂六十帖」(巻の二)の前半部
分を引用しておこう。
霊岸島に奈良尾茂左衛門といふて材木御用閲にて大き成分限者なり'元来茂左街門親は同所材木の串力にて裏屋
借にて男子を茂松とて十二三歳のとき親にも似もせず生立清く堅く手跡も相応に書ぬ'宇野といふ材木問屋へ出
入して手代に馴染て終に宇野に勤めけるに才智にして廿八才の時に引込ぬ'少しの丸太竹などを置て商事いたせ
Lに折節日光山御宮修復有之、御手伝も仰付られ江戸中賑ひぬ'御普請材木槍無節物御入用なり'時に茅場町に
柏木伝右衛門とて木曾相木問屋一人あり'彼が棺ならでは此度御用木あらじと所々より入札望の老柏木にたより
て札を入る。柏木一軒ゆへ高直の下夕直段是を茂左街門考へて柏木に相談せず世上通用の直段を以て入札しぬ'
外には柏木高直段に諸事勝り利分等静供入札にて茂左衛門入札は半減にてさっそく御材木仰付られ'翌日奈良尾
茂左衛門真付上下著し柏木方へ参りて此度日光御用木其元所持より外当地に御座なく供'直段の義は兎角相対に
てよろしく被成下さるべLとたのみけり'柏木手代とも凡慮の外成ゆゑ挨拶不興にして相木差当り御用向程は入
‑舟御座なく侯と碇と請合不申丁茂左衛門再び言葉を尽して申せども手代1向合点せず'茂左衛門兼て斯あるべし
とおもひ何気なく帰りて翌日願書をもって町御奉行へ出其願書の趣は左の通り▲
.此度私日光修復の御材木之御用入札に罷成侯処に'「御注文相木へ茅場町柏木太左街門」人所持致し供処、入札
望之老共t.柏木太左衛門に聞合せ入札仕供'柏木太左柵門所持より外'江戸中に御材木無御座供'依之彼一人
売致し甚高直に御座候バ私儀是迄江戸中通用の直段を以入札仕∵外之入札と違い格別下直にて落札に罷成'一
昨日御用被仰付供'則柏木太左衛門方へ参り右之段を申'直段前之相場に相渡し侯様に申掛供処にt、曾て材木
所持無御座候由申供'此度御用木程深川木場有之俵は'私数年商買ゆゑ存罷在供処'太左衛門難渋を申'御材
木出し不申険はは'御普請の御手支に罷成供へ乍恐柏木太左衛門召出され'則有合之材木私に相渡し供様被仰
付被下置侯はば難有可率存供
と認て顕出ぬ'町御奉行もさっそく柏木を召出され御吟味仰付らるる処に'御材木御用向ほど御座なく侯よし御
返答中上供'依之残らず茂左街門へ相法t侠様被仰付'茂左締門深川へ至りて柏木手代相対して材木漸二三十本
相渡しぬ'茂左衛門立腹して申せども相渡し不申'ほんのロふさぎ計りの串也'茂左衛門翌日またまた町御奉行
所へ罷出'御材木わづか相渡し申供太左街門手代支配人被召出'私対決被仰付被下侯はは難有季存供と麟ひける。
是にょって太左衝門支配人召出され対決しけるに'材木入船無御座供と陀度申切'茂左衛門申上るほ'然る上は
御組中御添下さるべく供'私案内仕'御材木悉く差出べきよし言上す'則同心衆相添'即刻に深川へ走り行'兼
て案内能知ける材木の事なれば'急に何方へ引退く事もあたはず'其場所場所吟味致し極印を打'所々へ預け置」
残らず茂左衛門召上見るに'此度の御用木より余計にたづね出しぬ'町御奉行へ右之段中上Lに以之外御叱りつ
よし'太左衛門井手代三人牢舎仰付られ'則御材木寄付の通り茂左衛門うけ取'御用木に可仕よし仰付らる'茂
左衛門悦び首尾よく御用相仕廻ぬ'残木凡金高弐万両といふ'粗大左荷門は不屈者になりて豆州新島へ還流'手
代共も三宅島神島へ流罪に成る'家財不残関所と成る'島より七年過て宥免ありて帰りLが'奈良尾茂左衛門段
々立身して家富栄えLをロをしくや思ひけん'食事を絶て日数十八九日過て死す'流石に木曾問屋の壱番にて長
「奈良茂家」考(鶴岡)五