ならびにその掲載作品である﹁花鳥図譜 七月﹂との関係性を考察することにより︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈が﹃女性岩手﹄との関わりのなかで生成されたと想定し︑晩年の作者
の創作行為そのものが︑新たな読者へ開かれていく様相を検討
した︒
はじめに
宮沢賢治の童話﹁ひのきとひなげし﹂には︑まず一九二一︵大正十︶年あたりに書かれたと想定される﹇初期形﹈テクストが存在する︒そしてこれに対し︑ブルーブラックインクで大量に手を入れ︑三枚四面を追加することにより︑現在一般に﹁ひの
きとひなげし﹂として読まれている﹇最終形﹈テクストが成立
した
︒追加稿の一枚︵第十二葉︶には︑﹃注文の多い料理店﹄ 1
︵一九二四︶の挿画を担当した画家︑菊池武雄宛て書簡下書が使用されている︒その菊池に宛てた書簡が一九三三︵昭和八︶年七月十六日付であることから︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終 キーワード宮沢賢治・花鳥童話集・オールスターキャスト・少女歌劇・﹃女性岩手﹄
要 旨
宮沢賢治の童話﹁ひのきとひなげし﹂は︑大正期に書かれた
と想定される草稿︵﹇初期形﹈︶に対して︑昭和に入り︑大幅な手入れが加えられて﹇最終形﹈が成立した︒
﹇初期形﹈では︑ひなげしたちはひのきの説教に対して黙っ
て聞くのみであったが︑﹇最終形﹈において︑ひなげしたちは﹁ば
かあなひのき﹂と悪態をつくなど反抗的な態度を示す︒
﹇最終形﹈を﹁少女歌劇﹂︵特に松竹少女歌劇︶といった同時代
の文化現象のなかで検討することにより︑ひなげしたちの表象
の変化が︑一九三〇年前後に変化する時代の変容と呼応してい
ることを検証した︒
また改稿した当時の作者の創作環境︑特に雑誌﹃女性岩手﹄
坪 谷 卓 浩 ざわめく 少女 たちの 表象
︱︱宮沢賢治﹁ひのきとひなげし﹂論︱︱
︿
論文﹀
童話とは一線を画し︑一九三三︵昭和八︶年夏という作者の死
の直前に推敲されることになったのだろうか︒本稿では︑﹁ひのきとひなげし﹂が﹇最終形﹈へ改稿されるに際し︑ひなげしたちの表象がどのように変化するかを検証する
ことにより︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈というテクスト
の生成過程についての考察を展開する︒まず︑テクストの改稿
における変化の様相を検証し︑次に︑同時代の文化現象とテク
ストの交差から︑﹁ひのきとひなげし﹂の同時代性について言及する︒後半部では︑当時の作者の創作環境︑特に雑誌﹃女性岩手﹄との関係性を考察し︑﹁ひのきとひなげし﹂のメッセージ性について論究する︒
﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈におけるひなげしたちのざ
わめきは︑﹇初期形﹈との比較を通してどのように読み解くこ
とができるのか︒また︑同時代のコンテクストのなかで︑ひな
げしたちの表象がいかなる文化現象との接続を可能としている
のか︒そして︑作者の身辺との関わりから︑テクストの改編の意図を導き出すことができるのではないか︒こうした問題を︑本稿のなかで明らかにしていくことにしたい︒
一.﹇初期形﹈と﹇最終形﹈との差異
﹁ひのきとひなげし﹂は︑ひなげしたちを騙そうとやって来
た悪魔から︑ひのきがひなげしたちを守る話である︒このテク
ストの改稿を考えるに際しては︑草稿の追加稿を検討する必要
があるだろう︒前述したように︑﹇初期形﹈に追加した草稿は三枚四面である︒順番にすると第一葉︑第九葉︑第十二葉とな 形﹈への手入れが︑一九三三︵昭和八︶年七月以降と推定する
ことができる︒作者の没年月日︵一九三三︵昭和八︶年九月二十一日︶を考えると︑まさしく死の直前に成立したテクスト
と言えるだろう︒
この﹁ひのきとひなげし﹂の表紙余白には一九二六︵大正十五︶年頃に書き込まれたと思われる﹁童話的構図﹂というメ
モがあり︑﹁o①蟹 o②ひのきとひなげし o③いてふの実 o④ダァリヤとまなづる o⑤めくらぶだうと虹 o⑥たうもろ こし o⑦蟻ときのこ o⑧蛙の雲見 ⑨兎とすずらん 皮を食ふ ⑩狸さんのポンポコポン ⑪鯉 あすこのところを通る と いきなり吸ひこまれるよ﹂と記載されている︒さらに童話
﹁おきなぐさ﹂︵生前未発表作品︒一九二三︵大正十二︶年六月頃成立
五︶年頃の書き込みと思しき﹁花鳥童話集﹂とのメモがあり︑﹁虹 ︶の裏表紙には︑一九二九︵昭和四︶年〜一九三〇︵昭和 2
とめくらぶだう︑ぼとしぎ︑ひのきとひなげし︑せきれい︑ま
なづるとダアリヤ︑いてふの実︑やまなし︑畑のへり︑黄いろ
のトマト︑おきなぐさ︑十力金剛石︵傍線で削除︶︑蟻ときのこ
﹂ 3
と作品名が列挙されている︒両者には重複して記載されている作品名もあり︑どちらの書き込みも作者自らが﹁花﹂や﹁鳥﹂を
めぐる童話集の構想を練っていたことを推定させる︒天沢退二郎は︑﹁まなづるとダアリヤ﹂︑﹁畑のへり﹂等︑作者自ら﹁花鳥童話集﹂と呼んだ一群が︑一九三〇︵昭和五︶年頃
の赤インク手入れによってほぼ最終形に達することを指摘して
いる
︒﹁ひのきとひなげし﹂もこの﹁花鳥童話集﹂を構成するテ 4
クストの一つであるが︑なぜ﹁ひのきとひなげし﹂は他の花鳥
美しく立派になりたいと願うひなげしたちから金銭を騙し取る
ため︑薬を飲ませようと画策する︒悪魔がいざ薬を投じようと
するや否や︑ひのきは高く﹁はらぎゃあてい﹂と叫び︑悪魔の企みを防止する︒つまり︑実際に悪魔が薬を投じてひなげした
ちに施術する場面は描かれていないのだ︒それに対し﹇最終形﹈
では︑医者に化けた悪魔の施術法がより詳細に表現されてお
り︑ひなげしたちから﹁亜片﹂を採取するという悪魔の具体的
な目論見が陳述される︒悪魔が呪文をうたうと︑一服目で空気
に赤い光の波︑二服目で黄色い光の波が立ち︑その風をひなげ
したちが吸うという施術法である︒﹇最終形﹈では︑悪魔が対話を通して徐々にひなげしたちを追いつめていく場面が追加さ
れ︑テクストに演劇的な効果が盛り込まれている︒
そして︑一服︑二服とひなげしたちを誘惑し︑最後の三服目
を投じようとするちょうどその時︑﹁おゝい︑お医者や︑あん
まり変な声を出してくれるなよ︒こゝは︑セントジョバンニ様
のお庭だからな﹂とひのきが叫び︑ひなげしたちの窮地を救う︒
﹇初期形﹈の﹁はらぎゃあてい﹂︵仏教的︶から﹁セントジョバン
ニ様のお庭﹂︵キリスト教的
子を対象とした園芸教育が行われるようになったことを指摘し 言えるだろう︒また︑渡部周子は︑明治三十年代半ば頃から女 ︶への変更は︑劇的な言説の変化と 6
ている
︒幼児教育における︑ドイツのフリードリヒ・フレーベ 7
ルの影響により︑明治期から幼児が園芸に親しむことが奨励さ
れていたが︑そこから派生して日本女子大学校では一九〇一
︵明治三四︶年の開学当初から学内に花壇を設けて園芸教育が行われたという︒こうした西洋経由の園芸における少女︵もし るが︑全十四葉のテクストのなかで物語の結節点とも言える箇所が変更されている︒具体的には冒頭部︑悪魔がひなげしたち
に薬を投じる場面︑そして結末部のひのきの説教の箇所という
ことになる︒物語のはじまり︑劇的に変化する場面︑そしてク
ライマックスとそれぞれの結節点が変更されているのである︒
まず冒頭部︵第一葉︶であるが︑﹇初期形﹈では南からの風が
ひのきに囁き︑﹁ひのきはたゞ一言︑﹁はらぎゃあてい︒﹂と答
へました﹂というひのきの修行者を思わせる姿が描かれていた
が︑削除される︒代わって﹇最終形﹈では︑﹁若いひのき﹂となり︑
ひなげしたちとの同世代同士のような軽妙な会話が導入され
る︒そもそも﹇初期形﹈では︑ひのきとひなげしたちが会話す
る場面はなかった︒それが﹇最終形﹈では︑冒頭部から両者の会話がスタートし︑ひのきが二回発する比喩表現︵真っ赤なひ
なげしたちが風に揺れている姿を模した﹁真っ赤な帆船﹂︑な
らびに﹁お日さま﹂を模した﹁みがきたての燃えたての銅づく
りのいきもの﹂︶に対してひなげしたちは二度とも否定した上
で︑﹁せだけ高くてばかあなひのき﹂とひのきの身体性を揶揄
しながら悪態をつく︒また﹇初期形﹈にはない﹁ひなげしども
﹂ 5
という表現からも︑ひなげしたちの発言に対する語り手の不快感を読むことができるだろう︒ただし︑﹁せだけ高くてばかあ
なひのき﹂が二回繰り返されることにより︑テクストの冒頭部
からリズム感が生み出されている︒テクストに音楽性が盛り込
まれたと言えよう︒次に︑詩稿用紙一枚の表裏を費やして追加した場面︵第九葉︶
について見てみよう︒﹇初期形﹈では︑医者に化けた悪魔が︑
情景の表現ではあるが︑﹇初期形﹈での﹁縦横に刻まれた悪い皺
や︑あやしいねたみのしろびかり﹂とまではいかないものの︑
ひなげし︵ども︶の反省のない姿勢を戒めるため︑顔をまっ黒
にしたと考えることもできよう︒しかしながら︑語り手は最終的にひなげしたちを無残な姿として描くことはしていない︒こ
のことは︑語り手がひなげしたちに憐憫の眼差しを向けたとも読めるが︑ひのきを尊重しないひなげしたちの現状に対し︑結果として一定の理解を示したと捉えることができる︒すなわ
ち︑﹇最終形﹈のテクストにおいては︑ひなげしたちを説教で抑圧したり︑見下したりせずに︑その個性︵オールスターキャ
スト︶を認めようとする方向性を読み取ることができよう︒
なお︑ひなげしたちが﹁ばかあなひのき︵ばかひのき︶﹂と悪態をつく前のひのきの言葉は︑文学的とも捉えられる比喩表現
や歌であることから︑若いひのきは文学青年として表象されて
いるように考えられる︒すると︑ひなげしたちの悪態は︑ひの
きの文学的な発言に対する苛立ちと解釈できる︒﹇最終形﹈の
テクストでは︑医者に化けた悪魔がひなげしたちを﹁全然無学
だな﹂と罵り︑ひなげしたちも﹁あたし字なんか書けないわ﹂
と呟く︒すなわち︑ひなげしたちは︑教養の欠けた少女たちと
して表象されているのだ︒ただし︑テクストは両者の分断を示
してはいない︒むしろ︑ひのきとひなげしたちとのコントラス
ト︵文化的な格差︶は︑会話におけるディスコミュニケーショ
ンを引き出す装置として機能している︒両者に差異があるから
こそ︑会話の齟齬から生じる滑稽さが引き出されている︒両者
のコントラストは︑会話に喜劇的な様相をもたらしており︑テ くは子ども︶のイメージは︑﹁セントジョバンニ様のお庭﹂にお
けるひなげしたちの少女性を彷彿とさせる︒最後の追加稿︵第十二葉︶の変更は︑物語のクライマックス
とも言えるひのきの説教に該当する箇所である︒﹇初期形﹈で
は原稿用紙三枚にわたってひのきが説教を披露し︑泣きじゃく
るひなげしたちに対し︑ひのきは優しく静かに﹁です・ます調﹂
で言葉を投げかける︒厳かな雰囲気のなか︑宗教者を思わせる
ひのきが︑弟子にあたるひなげしたちを教え諭すような設定と
なっている︒ひのきはまさしく︑ひなげしたちの庇護者として
の立ち位置を占めている︒代わって﹇最終形﹈で登場したのが﹁スターになりたいなり
たいと云ってゐるおまへたちがそのままそっくりスター﹂で
あって︑みんなが﹁オールスターキャスト﹂だというメッセー
ジである︒若いひのきの口調も軽妙なものとなり︑説教臭さが
みじんもなくなっている︒また︑土井晩翠の﹃天地有情﹄から引用した﹁あめなる花をほしと云ひ この世の星を花といふ
﹂ 8
という替歌をひのきが詠ずると︑またしてもひなげしたちに
﹁何を云ってるの︒ばかひのき︵中略︶おせっかいの︑おせっか
いの︑せい高ひのき﹂と悪態をつかれてしまう︒
これは冒頭部の﹁せだけ高くてばかあなひのき﹂と呼応して
いるリフレインと考えられるが︑ひのきの発言を否定するひな
げしたちの姿勢は︑危機に瀕した上でも全く変わっていないこ
とを示していよう︒それに対する仕打ちとして︑語り手は﹁も
うその顔もみんなまっ黒に見えるのでした﹂とひなげしたちが黒く変じたことを物語る
︒もちろん︑それは日没で暗くなった 9
和十︶年までは︑﹁勉強・芸術活動﹂する少女に加えて︑﹁活動的な遊戯・スポーツ﹂をする少女が多数描かれるようになった
という︒また︑﹃少女の友﹄に掲載された伝記の女性像を分析
した結果︑一九二〇︵大正九︶年前後を境にして︑﹁皇族・華族﹂
や﹁エリート﹂から﹁芸術家﹂や﹁スター﹂へと伝記の対象が変化したという
正十︶年前後︑﹇最終形﹈が一九三三︵昭和八︶年に書かれたこ ︒﹁ひのきとひなげし﹂の﹇初期形﹈が一九二一︵大 10
と考えると︑ひなげしたちの表象の変化が︑当時の少女雑誌に
おける少女表象の変化と同様であることがわかる︒つまり︑お
となしい少女像から︑﹁スター﹂に憧れる活動的な少女像への変容は︑ひなげしたちの表象の変化と近似しており︑﹁ひのき
とひなげし﹂というテクストが︑時代やメディア状況の変容と通底していることを示していよう︒
二.少女歌劇の影響
ここで︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈における﹁オール
スター﹂という言葉について︑改めて検討したい︒﹇初期形﹈に
おいて︑小さいひなげしの花が﹁わたしなんか︑まるでつまら
ないわね︑美しくさへなれたら︑もうあしたの晩死んだってい
いんだけれど﹂と話す場面がある︒この箇所は﹇最終形﹈にな
ると﹁あゝつまらないつまらない︑もう一生合唱手だわ︒いち
ど女王にしてくれたら︑あしたは死んでもいゝんだけど﹂と書
き換えられる︒﹁合唱手︵コーラス︶﹂や﹁女王︵スター︶﹂とい
う言葉が新たに登場するのだ︒これは物語の結末部におけるひ
のきの﹁オールスターキャスト﹂と呼応する表現ではあるが︑ クストが﹇初期形﹈と比べて格段に演劇的に変化していること
を示していよう︒
ここまで︑﹇初期形﹈と﹇最終形﹈との表現の差異を確認して
きたが︑﹇初期形﹈と﹇最終形﹈のテーマに差異はあるのだろう
か︒﹇初期形﹈のひのきは︑﹁はらぎゃあてい﹂﹁善逝﹂や﹁青蓮華﹂といった仏教用語を駆使しながら︑﹁しづかにつゝまし
く﹂一生を送ることが幸福であるとひなげしたちに説教する︒対して﹇最終形﹈では︑﹁ちゃんと定まった場所でめいめいのき
まった光り﹂を放つ﹁スター﹂が自分たちだと︑ひのきはひな
げしたちにエールを送る︒﹇初期形﹈のただおとなしいひなげ
したちに対し︑﹇最終形﹈の悪態をつくひなげしたちへの変化
は︑女性の積極性を寓意として表現しているように思われる︒
つまり︑﹇初期形﹈がひなげしたちに対し︑規律的な生き様を
ともすれば強要することになるのに対し︑﹇最終形﹈では一人一人のありのままの姿が肯定されており︑このことは大きな
テーマの深化と言えるだろう︒ただし︑ひのきが説教という形式でひなげしたちに世界観を披露する枠組みは変化していな
い︒ひのきは教訓を提示する役割を放棄せず︑﹇最終形﹈のひ
なげしたちの反感を招いていると言えよう︒
こうしたひなげしたちの表象の変化は︑同時代の少女を巡る
イメージの変容と連動しているように思われる︒今田絵里香に
よると︑﹃少女の友﹄︵実業之日本社︶︑﹃少女倶楽部﹄︵大日本雄弁会講談社︶など︑戦前の少女雑誌の表紙絵において︑明治期
から一九二〇︵大正九︶年までは﹁勉強・芸術活動﹂をする少女
が多数描かれていたが︑一九二一︵大正十︶年から一九三五︵昭
ることがわかる︒つまり︑初期宝塚は﹁旧劇改良﹂としての歌劇であり︑歌舞伎との関わりのなかで成立したと考えられる
宮沢賢治が宝塚を観劇したことがあるか否かについては未だ ︒ 12
はっきりとしていないが︑近年公開された妹の岩田シゲの回想録
によると︑母のイチは一九一八︵大正七︶年四月に︑創設か 13
ら四年のまだ旧劇の面影を残す本場の宝塚で﹁一寸法師﹂︑﹁静御前﹂などを観劇している︒賢治が母の口から︑初期宝塚の話
を聞いた可能性もあろう︒
さて︑﹁旧劇改良﹂としてはじまった宝塚歌劇は︑昭和に入
り劇的な転換期を迎える︒現在まで続く宝塚の代名詞﹁レ
ビュー﹂の登場である︒大正期の﹁旧劇改良﹂として出発した宝塚が︑昭和に入り﹁レビューの宝塚﹂へと大きく変貌した︒
そのレビューを売り物として︑当時宝塚と人気を二分したの
が︑ライバルの﹁松竹少女歌劇﹂である︒一九三二︵昭和七︶年十月には︑宝塚の﹁ブーケ・ダムール﹂と︑松竹の﹁らぶ・ぱ
れいど﹂の同時期公演︑通称﹁レビュー合戦﹂が話題になった︒日本に入ったばかりのレビューが︑瞬く間に浸透したことを示
す事例である︒
その松竹少女歌劇において︑一九三三︵昭和八︶年︑世間を賑わす大事件が勃発する︒松竹少女歌劇部︑松竹楽劇部で発生
した労働争議︑通称﹁桃色争議
﹂である︒当時のトップスター 14
でありこの争議の中心人物であった﹁男装の麗人﹂こと水の江瀧子の愛称から︑﹁ターキー・ストライキ﹂とも呼ばれている︒桃色争議は︑当時全国的な話題となり︑﹃朝日新聞﹄や﹃読売新聞﹄といった全国紙のみならず︑地方紙である﹃岩手日報﹄に 何故に﹁コーラス﹂や﹁スター﹂といった言葉を新たに付け加え
る必要があったのだろうか︒大正期の児童文化を代表する雑誌﹃赤い鳥﹄では︑創刊一周年記念の企画として︑一九一九︵大正八︶年六月二二日︑帝国劇場にて﹁第一回赤い鳥音楽会﹂が開催された︒この演奏会で
は︑成田為三作曲の童謡﹁かなりや﹂︑﹁夏の鶯﹂︑石川養拙作曲の﹁あわて床屋﹂の三曲が︑八名の少女たちとピアノの伴奏
によって披露された︒会場が満員となるほど盛況だったこのイ
ベントには︑多くの文化人が聴衆として参加しており︑その感想が﹃赤い鳥﹄紙上に掲載された︒有島生馬は﹁今度から︑あゝ
した唱歌をなさる場合には︑人数をもう少しふやしても︑是非
コオラスで伺ひたいものです﹂︵同年八月号︶と述べ︑南部修太郎は﹁人数が少くも︑四〇人位あつて欲しかつた﹂︵同︶と評し
た︒賢治の弟である宮沢清六の記憶によると︑一九一八︵大正七︶年八月頃に賢治から﹁蜘蛛となめくじと狸﹂や﹁双子の星﹂
といった童話を語り聞かされたという
︒賢治が童話をまさに書 11
きはじめた時期に︑﹃赤い鳥﹄紙上で音楽会の様子が取り上げ
られていたのである︒少女歌劇といえば︑その代表格は﹁宝塚歌劇﹂である︒宝塚少女歌劇︵現宝塚歌劇団︶は箕面有馬電軌︵現阪急電鉄︶の経営者であった小林一三の発案により一九一三︵大正二︶年に設立
された︒翌年の一九一四︵大正三︶年四月一日に開催された第一回記念公演の演目は︑﹃ドンブラコ︵桃太郎︶﹄︵北村季晴︶︑
﹃浮れ達磨﹄︵本居長世︶︑舞踊﹃胡蝶﹄であり︑当時流行してい
た少年音楽隊︑お伽歌劇といったコンテクストの延長線上であ
のは︑﹁春 水星少女歌劇団一行﹂︵補遺詩篇Ⅰ︶である︒この詩は﹁春と修羅 第二集﹂の﹁一八四ノ変 春 変奏曲 一九三三︑七︑五﹂と密接な関係を有することから︑一九三三︵昭和八︶年七月五日︑つまり﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈と
ほぼ同時期のテクストと考えられる︒このテクストの先駆形に
は︑﹁花鳥図譜 五月 ファンタジー﹂という記載が残されて
おり︑本稿第四節で後述する﹁花鳥図譜﹂構想の一つであった
ことがわかる︒﹁春 水星少女歌劇団一行﹂では︑歌劇団の一員と思しき少女たちが口喧嘩をする場面がある︒
︵竜の吐くのは夏だけだって︶/︵そんなことないわ 春
だって吐くわ︶/︵夏だけだわよ︶/︵春でもだわよ︶/︵何
を喧嘩してんだ︶空を飛ぶドラゴンが香油を吐くというファンタジックなテク
ストであるが︑ドラゴンが香油を吐く時期を巡って少女たちが言い争う場面である︒このような活発な少女たちの描写は︑﹁ひ
のきとひなげし﹂﹇最終形﹈のひなげしたちのざわめきと通じる要素があると同時に︑少女たちが﹁松竹少女歌劇団﹂を彷彿と
させる﹁水星少女歌劇団﹂の一員であることは示唆的である︒
また︑このテクストが会話体をベースとしていることも特徴的
と言えよう︒
﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈に演劇的な要素が追加され
たことは本稿ですでに指摘したが︑昭和に入り改稿された﹇最終形﹈にレビューの要素が加わったことは︑時系列を考えても矛盾がない︒宝塚少女歌劇の成功に端を発し︑一九二〇〜三〇年代には︑少女歌劇団が全国津々浦々に立ち上がり︑こぞって もその動向が掲載されている︒以下︑﹃岩手日報﹄に掲載され
た記事の見出しを確認してみよう︒・﹁レビユウ争議 遂に十七名解雇 松竹の断乎たる処置﹂
︵一九三三︵昭和八︶年六月二十六日︶・﹁松竹レヴユー 大阪争議解決 流石高野山の御利益 三師 の奔走から﹂︵同年七月九日︶・﹁ターキー委員長検挙 桃色争議に遂に大弾圧下る﹂︵同年七月十三日︶・﹁松竹レヴユー争議 一瀉千里解決か お盆興行を控えて居
る事とて 徹宵で両者交渉﹂︵同年七月十五日︶・﹁松竹桃色争議解決す 折衝五十余時間の争議史上の記録を残す﹂︵同年七月十七日︶
このように︑争議の最中から解決に至るまで︑﹃岩手日報﹄
でも仔細に報じられていたことがわかる︒前述した通り︑﹁ひ
のきとひなげし﹂は一九三三︵昭和八︶年七月十六日以降に改稿されるが︑桃色争議はまさしくその直前に発生した事件なの
だ︒桃色争議は︑当時松竹少女歌劇のスターであったターキー
こと水の江瀧子を﹁輝ける委員長﹂として祭り上げ︑強大な松竹資本と闘うという構図を演出した︒結果︑ストライキは一か月におよび︑会社側の切り崩しにも耐えて︑ほとんどの要求を貫徹することができた︒こうした﹁抵抗する少女﹂のイメージ
は︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈における︑ひのきと対等
に会話するひなげしたちの人物造形と通底する要素が含まれて
いる︒賢治テクストにおいて︑唯一﹁少女歌劇﹂という表現を持つ
をとった﹃女性岩手﹄という女性誌は︑一九三二︵昭和七︶年八月十五日に創刊され︑一九三四︵昭和九︶年一月十日の第九号︵﹁宮沢賢治追悼号﹂︶にて終刊する花巻のローカル誌とも言う
べき雑誌である︒編集兼発行者を務めたのが多田ヤス︵保子︶
であり︑彼女は賢治の妹で賢治に多大な影響を与えた宮沢トシ
︵一八九八︱一九二二︶の花巻高等女学校時代の同級であり親友であった
多田ヤスは夫が若くして病死したこともあり︑幼い子供四人 ︒ 17
を抱えて自活の道を歩み︑花巻で美容院をはじめる︒一九三一
︵昭和六︶年には﹃岩手中央新聞
女性を巡る厳しい現実を目の当たりにして︑女性の立場を訴え ﹄の記者となり︑当時の岩手の 18
る雑誌を自ら刊行する︒それが﹃女性岩手﹄である︒創刊号の
﹁巻頭言﹂には以下の言葉が並んでいる︒
創刊第一号を送る本誌の挙は︑単に︑せまい岩手女性のみ
に︑問題の対象を定限しての企画ではありません︒常に全女性の問題を問題として︑始めて岩手の女性の問題が問題
となり得ると云ふ信念と︑なし得ねばならぬと云ふ念願の下の企画であります︒︵中略︶男性の声も聴きませう︒経験者の深い経験も聴きませう︒権威者の所見の開陳も願い
ませう︒直接女性そのものの現実には関係なくとも︑人間
として必要なものである限り︑あらゆる所論︑研究の披瀝
をも願ひませう︒この着眼と計画の中に﹃女性岩手﹄の将来の発展のモーメントが存在するのであります︒巻頭の辞でいみじくも述べているように︑﹃女性岩手﹄は女性誌とは言うものの︑花巻のローカルな啓蒙誌的な性格が強 レビューを上演するようになった
︒そして﹇最終形﹈のひなげ 15
したちについては︑松竹少女歌劇の桃色争議における少女たち
のざわめきと通底する︑現状に対する不満︵﹁あゝつまらない
つまらない﹂︶が表象されている︒﹇初期形﹈のおとなしいひな
げしたちの姿は︑もうそこにはない︒﹇最終形﹈のひなげした
ちは︑昭和の時代に入り︑レビューの踊子へと変貌したのだ︒賴怡真は﹁オールスターキャスト﹂や﹁あめなる花をほしと云ひ この世の星を花といふ﹂という表現から宝塚の﹁花﹂﹁月﹂
﹁雪﹂﹁星﹂各組が想起されるとし︑ひのきの説教の﹁ちゃんと定まった場所でめいめいのきまった光りやうをなさる﹂という
のは宝塚の標語﹁清く正しく美しく﹂の﹁正しく﹂と一致してい
るとして︑宝塚歌劇の影響を指摘している
︒しかし︑ひなげし 16
たちの言説は︑﹁正しく﹂という姿勢とはほど遠い︒むしろ︑
ひなげしたちは抵抗する少女たちと考えられよう︒ただし︑ひ
なげしたちはあくまで﹁セントジョバンニ様のお庭﹂に咲く花
であり︑庇護された存在である︒悪態をつくだけのひなげした
ちの態度は︑松竹少女歌劇の少女たちのストライキと比べる
と︑格段に戦略性のない抵抗ではあるが︑そのイメージが付与
されていると言えるのではないか︒
三.﹃女性岩手﹄と宮沢賢治
次に︑﹁ひのきとひなげし﹂の改稿時期︵一九三三︵昭和八︶年七月以降︶における作者の創作環境︑特に﹃女性岩手﹄との関連性について考察していきたい︒最晩年に賢治が好意を寄せ︑寄稿者というより協力者の立場
の風俗を報告する姿勢は興味深い︒ただし︑モガたちに対し﹁直
ぐに猿の人真似する一部分の同性︑殊に若い人々に対して私は憂鬱を感ずる﹂と評価しており︑最先端の流行を追いかける東京のモガたちの軽々しさに苦言を呈している︒
さて︑多田ヤスと所縁があり︑花巻の文化人的存在であった賢治としては︑﹃女性岩手﹄に文章を寄せることはごく自然な
ことであったと思われる
回︶︑﹃女性岩手﹄に寄稿している︒ ︒実際に賢治は︑合計四回︵生前は三 19
・創刊号︵第一巻第一号︶︑一九三二︵昭和七︶年八月十五日発行﹁民間薬﹂・﹁選挙﹂︵ともに文語詩︶
・第四号︵第一巻第四号︶︑一九三二︵昭和七︶年十一月十五日発行﹁祭日﹂・﹁母﹂・﹁保線工手﹂︵ともに文語詩︶
・第七号︵第二巻第三号︶︑一九三三︵昭和八︶年七月二十日発行﹁花鳥図譜 七月﹂︵口語詩︶
・第九号︵第三巻第一号︶︑一九三四︵昭和九︶年一月十日発行
﹁花鳥童話集第五話 マリブロンと少女﹂︵童話︶創刊号の巻頭に文語詩二編が掲載されていることからも︑そ
の破格の待遇というのが見て取れる︒﹁編輯後記﹂では﹁岩手が持つ病める唯一人の詩人宮澤賢治氏の玉稿を戴くことの出来た
のは本誌の持つ一つの誇り﹂と書かれており︑その厚遇の様子
がよくわかる︒
﹃女性岩手﹄第二号︵第一巻第二号︶︵一九三二︵昭和七︶年九月十五日発行︶には﹁創刊号を読む﹂と題した投稿が﹁花巻町Ⅰ子﹂という匿名で掲載されている︒
宮澤賢治先生が多分病床からの御寄稿と思ひますが︑﹁民 く︑寄稿者も地域の文化人が多いのが特徴で︑その大半が男性
であった︒創刊号︵一九三二・八・十五︶の目次を概観しても︑﹁忍耐と統制﹂︵八木英三︶︑﹁若き近代女性に語る﹂︵佐藤大峰︶︑﹁結婚に対する考察﹂︵小西頂水︶︑﹁婦人の自覚﹂︵中田知足庵︶︑﹁婦人と猿﹂︵和賀之介︶等︑女性を巡る評論は多数掲載されるもの
の︑男性の執筆者が多くを占めている︒
こうしたなかで︑東京に在住する八重樫祈美子が﹁偶感片々﹂
という文章を寄せているのは注目される︒八重樫祈美子は一九〇四︵明治三七︶年生まれで花巻の出身︒青山学院英文科
を卒業後︑﹃主婦の友﹄の婦人記者を経て﹁民友社﹂に入社︑徳富蘇峰の秘書を務めた女性である︒賢治没後には︑草野心平が中心となって刊行した﹃宮澤賢治研究﹄四号︵宮澤賢治友の会 一九三五・十一︶に﹁花巻・人と町のプロフイル﹂を寄稿してい
る︒花巻出身で女性誌に関与し︑著名なジャーナリストの秘書
を務めている才女が寄稿したことは︑﹃女性岩手﹄にとって﹁一段の光を添えた﹂︵編輯後記︶と言えるだろう︒﹁偶感片々﹂に
おいて︑八重樫祈美子は﹁近頃驚くこと﹂と題し︑東京のモダ
ンガールの外見について報告している︒
銀座を歩いても︑新宿を歩いても︑活動に行っても喫茶店
に行っても先ず驚くのは近頃の若い人々の姿である︒銀幕
や流行雑誌から抜け出して来た様なスタイル︒お鍋の様な帽子を横に被って片目を隠し︑短いブラウスに長いノッポ
リしたスカートを巻いてゐる︒眉の引き方︑アイシャドウ
の技巧︑変わったものだと感心する︒他の記事が男性の硬質な評論が並ぶなか︑女性の視点で東京
い︒当時の花巻の女性読者が文語詩を﹁其の発声さへもがはつ
きりときゝ取れる感じ﹂と評しているのである︒これはつまり︑
この匿名読者にとっては︑定型の韻を踏む文語詩のほうが︑﹃春
と修羅﹄のような口語詩よりもはるかに︽身体的に︾理解でき
たことを物語っていよう︒こうした読者の声に寄り添い︑彼ら
の求めるものを書こうとしたことは︑賢治晩年の創作姿勢とし
て注目すべきと思われる︒
四.﹁花鳥図譜 七月﹂と﹁ひのきとひなげし﹂
﹃女性岩手﹄において文語詩に手ごたえを感じていた賢治が︑一九三三︵昭和八︶年になると一転して口語詩を掲載する︒﹁花鳥図譜 七月﹂と題したこの口語詩は︑すでに﹁春と修羅 第二集﹂にて﹁一五八﹇北上川は螢気をながしィ﹈一九二四︑七︑十五﹂としてまとめてあった口語詩に︑若干の手を加えて成立
した︒賢治は﹁花鳥図譜﹂と名付けた執筆年不詳の構想メモを残し
ており︑そこには一月から十二月の名の下に︑複数の単語が記載されている︒その七月には︑﹁北上川︑魚狗︑同胞三人﹂と
いう記述が確認できる︒栗原敦は﹁この七月が﹁花鳥図譜・七月﹂のためのメモであることは疑う余地がない﹂として︑﹁花鳥図譜﹂が︑賢治晩年の構想ではないかと指摘している
譜﹂構想メモの七月が︑﹁花鳥図譜七月﹂と題して世に出たこ 性岩手﹄第七号︵第二巻第三号︶に掲載されたことは︑﹁花鳥図 図譜七月﹂として一九三三︵昭和八︶年七月二十日発行の﹃女 大正期のテクストである﹁北上川は螢気をながしィ﹂が﹁花鳥 ︒つまり︑ 23 間薬﹂﹁選挙﹂の二篇︑まことに先生の長詩の大成を思はせ
るものがあります︒はじめて発表された﹁春と修羅﹂時代
には︑私共いかにその一々を繰りかへしても︑先生の作意
と情緒とをつかむことが出来ないで︑たゞその中の﹁無声慟哭﹂や﹁獅子踊﹂に琴線を感じ得たにすぎませんでした
が︑その後十年︑すつかり洗練され切つたこの二篇を口承
して見るとき︑この田園詩の物語る世界が︑空間に再現さ
れるばかりでなく︑其の発声さへもがはつきりときゝ取れ
る感じがいたします︒一二誤植と思はれるふしも見えます
が︑若しあのまゝでいゝのなれば︑また百回の吟誦をくり
かへして見ませう︒賢治はこの投稿に大いに勇気づけられたようで︑親友の藤原嘉藤治に宛てた書簡︵一九三二︵昭和七︶年十月︶において﹁口語の方をと思ってゐましたが雑誌の批評を見て考へ直して定形
のにしました
﹂と書き︑﹃女性岩手﹄第四号へ文語詩を三篇送る 20
ことを決めている︒賢治の文語詩の評価としては︑中村稔の﹁病床の手すさび
﹂ 21
といういわば否定的な言説が示すように︑口語詩や童話と比べ
て一段劣るという見方が強かった︒しかし︑近年の着実な文語詩研究の進展により︑文語詩の新たな側面に光が当てられてき
た︒信時哲郎は︑文語詩を﹁大衆向けの作品で︑生活を積極的
に取り入れた素朴なもの﹂と捉え直し︑当時勢いのあったプロ
レタリア文学とは一線を画した方法で賢治が﹁大衆﹂に近づこ
うとしたと指摘している
︒確かに﹁花巻町Ⅰ子﹂の文語詩評価 22
は︑賢治生前時の数少ない一般読者の同時代評として興味深
なの︶/︵ははは︑来たな/聖母はしかくののしりて/降臨祭をば待ちたまふ⁝︶/︵クリスマスなら毎日あるわ
/受難日だって毎日あるわ/あたらしいクリストは/千人
だつてきかないから/万人だつてきかないから︶/︵はは
あ︑こいつはどうも⁝︶
キリスト教を思わせる用語︵マリア・聖母・降誕祭︵クリス
マス︶・受難日・クリスト︶が散りばめられ︑﹁翡翠・魚狗︵か
はせみ︶﹂︑﹁ミチア﹂といったモーリス・メーテルリンクの﹃青
い鳥﹄を連想させる言葉が盛り込まれている︒宮沢トシが日本女子大学校時代に成瀬仁蔵から強い影響を受け︑キリスト教に親しみ︑メーテルリンクを愛読していたこと
を考えるならば︑ 25
﹁花鳥図譜 七月﹂には妹トシとの関連性を読み解くこともで
きるだろう︒そして︑トシの親友であり︑クリスチャンだった
のが︑多田ヤスその人なのである︒ただし︑﹁花鳥図譜 七月﹂
を直接的にトシと結び付けて解釈するのは早計と言えよう︒む
しろ︑利発で教養のある女性が登場するという意味において︑
﹃女性岩手﹄に掲載するにふさわしいテクストとして選択され
たと考えるべきではなかろうか︒
またこの詩には︑﹁よだかの星﹂︵夜鷹︶や﹁黄いろのトマト﹂・
﹁十力の金剛石﹂︵蜂雀︶︑﹁やまなし﹂︵翡翠・魚狗︶といった︑賢治童話に表れる鳥たちが登場する︒本稿﹁はじめに﹂で先述
した︑﹁ひのきとひなげし﹂表紙余白メモの﹁童話的構図﹂︑ま
た童話﹁おきなぐさ﹂裏表紙メモの﹁花鳥童話集﹂には︑それら
の童話のタイトル︵と思しき︶名称が確認できることから︑﹁花鳥図譜 七月﹂には︑﹁童話的構図﹂もしくは﹁花鳥童話集﹂と とを示している︒では︑大正期のテクストである﹁北上川は螢気をながしィ﹂を改稿することにより︑九年の時を経て︑なぜ
﹃女性岩手﹄に掲載されることになったのだろうか︒
その可能性の一つとして︑﹃女性岩手﹄の発行者である多田
ヤスの存在が挙げられるだろう︒ヤスは賢治の妹トシの親友で
あったのみならず︑花巻教会の教会員であり︑クリスチャンで
もあった︒そのような人物が編集兼発行者を務める雑誌に﹁花鳥図譜 七月﹂を掲載した意義は大きい︒なぜなら︑この詩は︑兄と妹を彷彿とさせる二人の軽妙な会話が︑テンポよく推移す
るテクストだからである︒なお︑﹁北上川は螢気をながしィ﹂
の改稿前テクスト︵下書稿︿五﹀︶には︑﹁夏のやすみの兄妹は
/三人そろってご散歩です﹂や﹁たとへば三人きょうだいの/
たったひとりが鉄花だと/さあよし/あの魚狗がテーマだぞ﹂
といった記述が確認できることから︑登場人物が兄妹と幼い弟
︵もしくは妹︶という三人の男女であることが想定される︒秋枝美保は︑﹁北上川は螢気をながしィ﹂の﹁兄妹の会話は実
にクールで︑諧謔と皮肉が適度に折り込まれた︑軽快でリズミ
カルなしゃれた会話になっている
思しき人物︶の即興で作り上げる言葉に対し︑利発な妹︵と思 ﹂と指摘しているが︑兄︵と 24
しき人物︶がうまく混ぜ返すやり取りは︑実に巧妙である︒
︵ははあ︑あいつは翡翠だ/かはせみさ︑めだまの赤い/
あゝミチア︑今日もずゐぶん暑いねえ︶/︵何よミチアつ
て︶/︵あいつの名だよ/ミの字はせなかの滑らかさ/ミ
の字はせなかのなめらかさ/チの字はくちの尖つたぐあひ
/アの字はつまり﹇愛称﹈だな︶/︵マリアのアの字も愛称
ことができよう︒少なくとも︑﹁花鳥図譜 七月﹂に触発され
る形で︑﹁ひのきとひなげし﹂が改稿されたと言えるのである︒
おわりに
﹃女性岩手﹄の最終号は一九三四︵昭和九︶年一月十日発行の第九号︵第三巻第一号︶であり︑﹁宮沢賢治追悼号﹂として幕を閉じる︒この最終号には︑﹁花鳥童話集第五話 マリブロンと少女﹂と題して﹁マリヴロンと少女﹂が全文掲載される︒﹁マリ
ブロンと少女﹂は︑本稿﹁はじめに﹂で触れた︑﹁ひのきとひな
げし﹂表紙余白のメモとして記載されている﹁童話的構図﹂の
なかの﹁⑤めくらぶだうと虹﹂を改稿したものである︒このテ
クストの﹃女性岩手﹄掲載については︑賢治の遺志によるもの
で︑賢治の死後︑弟の宮沢清六が清書したことがわかっている
︒ 27
しかしながら︑﹃女性岩手﹄に載せるべく準備されたテクスト
として︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇最終形﹈を想定することもで
きるのではなかろうか︒
﹁ひのきとひなげし﹂の結末部において︑ひのきはレビュー
の踊り子を思わせる若いひなげしたちへ語りかける︒この場面
は︑軽佻浮薄なモダンガールへの説教として捉えることができ
よう︒牟田和恵は﹁新しい女﹂と﹁モガ﹂を﹁隠れた姉妹﹂︑﹁モガ﹂
と﹁良妻賢母﹂を﹁隠れた双子﹂と呼び︑三者が各々共通性を持
つ﹁modernな女﹂であったことを指摘している
︒近代消費社会 28
を生きる女性たちは︑年齢や階級を超えて︑﹁見られる対象﹂
として自らを構築していく運命から逃れることはできない︒ま
た︑先に見た﹃女性岩手﹄の創刊号において︑八重樫祈美子は いう名でまとめられる一連のテクスト群との強い関係性を見出
すことができる
︒ 26
﹁童話的構図﹂ならびに﹁花鳥童話集﹂いずれにも名が記され
ている﹁ひのきとひなげし﹂では︑﹇最終形﹈に改稿されるにあ
たり︑ひのきとひなげしたちとの軽妙洒脱な会話が導入され
た︒また︑﹁花鳥図譜 七月﹂には︑作中に会話を多く含むと
いう特徴が認められる︒こうした会話体の類似性を考えると
き︑﹁ひのきとひなげし﹂と﹁花鳥図譜 七月﹂との関連性が見出されてくるだろう︒
ひのき︵兄としての存在︶とひなげしたち︵妹としての存在︶
という兄妹的な設定もさることながら︑妹が勝気であり︑飄々
とした兄の即興的な言葉を混ぜ返すところも共通している︒も
ちろん︑﹁花鳥図譜 七月﹂の妹が教養のある利発な設定であ
るのに対し︑﹁ひのきとひなげし﹂のひなげしたちは見栄っ張
りで感情的であることは言うまでもない︒ただし︑兄妹的存在
の二人の会話が滑らかにテンポよく推移するところは︑両テク
ストに共通性を見出すことができる︒
﹁花鳥図譜 七月﹂が﹃女性岩手﹄に掲載されたのは︑一九三三︵昭和八︶年七月二十日発行の第七号︵第二巻第三号︶ であるが︑﹁ひのきとひなげし﹂が改稿されたのが︑一九三三︵昭和八︶年七月十六日以降である︒時系列を考えるならば︑﹁花鳥図譜 七月﹂が﹃女性岩手﹄に掲載される直後に︑﹁ひのきと
ひなげし﹂の改稿が行われたことになる︒そのように考えるな
らば︑﹁ひのきとひなげし﹂の改稿は︑﹁花鳥図譜 七月﹂に続き︑
﹃女性岩手﹄への掲載が想定されるなかで行われたと推測する
し﹂を含めた本文の引用は︑すべて﹃新校本宮澤賢治全集﹄︵筑摩書房︶に拠った︒
︵
収﹁宮澤賢治年譜﹂八七三頁参照︒ 2︶原子朗﹃新宮澤賢治語彙辞典﹄︵東京書籍一九九九・七︶所
︵
沢俊郎は﹁童話的構図﹂の書き込みを一九二六︵大正十五︶年︑ 篇︵筑摩書房一九九七・十一︶三三一〜三三四頁︒なお︑小 3︶﹃新校本宮澤賢治全集﹄第十三巻︵下︶ノート・メモ本文
﹁花鳥童話集﹂の書き込みを一九二九︵昭和四︶年〜一九三〇
︵昭和五︶年と推定している︒︵﹁宮沢賢治童話類集メモ考﹂﹃小沢俊郎宮沢賢治論集︵1作家研究・童話研究︶﹄所収 有精堂出版 一九八七・三︶
︵
紙には赤インクで﹁ 書房一九八五・十二︶︒なお︑﹁まなづるとダアリヤ﹂草稿表 4︶天沢退二郎﹁解説﹂︵ちくま文庫版﹃宮沢賢治全集7﹄筑摩
5. 10. 等︑他の花鳥童話にも赤インクでの手入れが散見されること 昭和五年十月十一日に校訂したことが想定される︒﹁畑のへり﹂ 11.校訂﹂という書き込みがあり︑
から︑一九三〇︵昭和五︶年頃に﹁ひのきとひなげし﹂を除く
﹁花鳥童話集﹂がおおよそ成立したと推定することができる︒
︵
5︶遠藤祐は﹁ひなげしども﹂という表現について︑﹁ひのきを
﹁見下﹂すひなげしを物語が﹁見下し﹂ている﹂と指摘している︒︵﹁︿逢魔がとき﹀の物語︱﹁ひのきとひなげし﹂評釈﹂︵﹃学苑﹄第八一四号 二〇〇八・八︶︶
︵
6︶大塚常樹は﹁セントジョバンニ様のお庭﹂について︑カルメ
ル会の修道女聖テレジア︵一八七三︱一八九七︶の自伝として世界的に流布している﹃一霊魂の生い立ち﹄︵日本では﹃小さ
き花﹄として一九一一︵明治四十四︶年九月にシルベン・ブス
ケ訳︑同発行者で出版︶の影響を見ている︒︵﹁聖テレジア﹃小 ﹁直ぐに猿の人真似する一部分の同性︑殊に若い人々﹂に対し
て苦言を呈していた︒こうした論調を踏まえるかのように︑﹁ひ
のきとひなげし﹂の結末部では︑﹁美﹂を巡る競争から離脱でき
ない女性たち︑特に当時のモダンな風潮の中にいる若い女性た
ちに対して︑時流に流されることなく︑自分らしくあることの重要性を伝えている︒一人一人の女性たちが︑﹁そのままそっ
くり﹂﹁めいめいのきまった光り﹂を放つ﹁スター︵オールスター
キャスト︶﹂であるというように︒加えて︑ただ従順でおとな
しいだけではなく︑ざわめき︑抵抗を示すことも︑﹁この世の星﹂
として肯定している︒
﹃女性岩手﹄創刊号の﹁巻頭言﹂には︑﹁常に全女性の問題を問題として︑始めて岩手の女性の問題が問題となり得る﹂とい
う文言があった︒すなわち﹁オールスターキャスト﹂とは︑ひ
なげしでもあり︑岩手の女性でもあり︑すべての女性のことを指していると言えよう︒本稿で確認してきた︑﹇最終形﹈の女性たちへ寄り添う姿勢は︑﹁ひのきとひなげし﹂が︑﹃女性岩手﹄
と連動していることを示している︒﹁ひのきとひなげし﹂は︑当時の女性たちへのメッセージを示しつつ︑まさしく同時期に創刊された﹃女性岩手﹄と並走する形で生成されたのである︒
注︵
1︶本稿では︑﹁ひのきとひなげし﹂の﹇初期形﹈と区別するため︑
﹃新校本宮澤賢治全集﹄第十一巻 童話Ⅳ 本文篇︵筑摩書房一九九六・一︶所収の﹁ひのきとひなげし﹂のテクストを便宜的に﹇最終形﹈と呼ぶ︒﹁ひのきとひなげし﹂に関する現存草稿については︑宮沢賢治記念館所蔵の精密複写原稿︵表紙を含めた全十六面︶をすべて確認した︒なお︑﹁ひのきとひなげ
賢治妹・岩田シゲ回想録﹄︵蒼丘書林 二〇一七・十二︶︒イチ
が観劇した際の演目︵大正七年春期公演︶は︑﹁一寸法師﹂・﹁新世帯﹂・﹁神楽狐﹂・﹁静御前﹂・﹁羅浮仙﹂であった︒
︵
一九七八・十︶を参照︒同書によると﹁桃色争議﹂は次のよう 世紀︱松竹歌劇団五〇年のあゆみ︱﹄︵国書刊行会 14︶﹁桃色争議﹂については︑松竹歌劇団編﹃レビューと共に半
な一連の経緯を辿る︒一九三三︵昭和八︶年六月十日に︑松竹座音楽部員の待遇改善要求に端を発した争議事件が表面化し︑十三日には歌劇部員も合流して︑会社側と折衝した︒争議は
ストライキの形となり︑総員百数十名の歌劇部員は︑会社側
の切崩しに備え︑サイン入りプロマイドで資金カンパした︒
これは﹁桃色争議﹂として賑やかにジャーナリズムに書きたて
られた︒この争議は︑七月十五日夜半に至って︑松竹本社城戸専務と︑従業員側代表水の江瀧子等との間に覚書が交わさ
れ︑これにより全面解決をみた︒会社側は︑七月二十八日を以て松竹少女歌劇部を解消し︑松竹少女歌劇団︵略称S・S・
K・D︶を創設するに至った︒
︵
弓社二〇〇五・八︶ 15︶倉橋滋樹︑辻則彦﹃少女歌劇の光芒ひとときの夢の跡﹄︵青
︵
16︶賴怡真﹁宝塚少女歌劇団のパロディ︱宮沢賢治﹁ひのきとひ なげし﹂﹂︵﹃宮沢賢治文学におけるヴァージョンの生成﹄ 九州大学大学院比較社会文化学府博士論文 二〇一五・五︶
︵
17︶﹁多田ヤス﹂については︑雜賀信行﹃宮沢賢治とクリスチャ
ン 花巻篇﹄︵雜賀編集工房 二〇一五・九︶︑齋藤駿一郎﹁多田ヤスの生涯と宮沢賢治・トシ﹂︵﹃宮沢賢治記念館通信﹄第七十号 宮沢賢治記念館 二〇〇〇・五︶︑﹁多田ヤスの生涯﹂︵﹃週刊きたかみ﹄一一四〇号〜一一四二号 河口新聞店 さき花﹄と﹃ひのきとひなげし﹄︵﹁白い花の記号論﹂二章︶﹂﹃宮沢賢治 心象の記号論﹄所収 朝文社 一九九九・九︶
︵
十二︶ 本における﹁少女﹂規範の形成﹄所収新泉社二〇〇七・ Ⅰ部﹁少女﹂の規範化﹂第五章︶﹂︵﹃︿少女﹀像の誕生︱近代日 7︶渡部周子﹁実践教育としての﹁園芸﹂︱ケア役割の予行︵﹁第
︵
8︶土井晩翠﹃天地有情﹄の﹁星と花﹂には﹁み空の花を星とい ひ わが世の星を花といふ﹂とある︒大塚常樹は﹃天地有情﹄
の表紙にひなげしが描かれていることから︑﹁ひのきとひなげ
し﹂への影響を指摘している︒︵﹁天上と地上の関係式︱﹃ひの
きとひなげし﹄︵﹁花園の思想﹂三章)﹂﹃宮沢賢治 心象の記号論﹄所収 朝文社 一九九九・九︶
︵
望のはかなさを意味する﹂として︑﹁語り手は︑一見清楚に見 9︶関口安義は﹁顔が﹁まっ黒﹂とは︑花の命の短さ︑人間の欲 えるひなげしたちの傲慢さを批判している﹂と指摘している︒︵﹁ひのきとひなげし︵第Ⅲ章 幻想の世界︶﹂﹃続賢治童話を読む︵港の人 児童文化研究叢書四︶﹄所収 港の人 二〇一五・七︶
︵
10︶今田絵里香﹁あこがれの才色兼備のお嬢さま︱﹃少女の友﹄
の変化︱︵﹁第Ⅱ部﹁少年﹂﹁少女﹂の展開﹂第六章︶﹂︵﹃﹁少年﹂
﹁少女﹂の誕生﹄所収 ミネルヴァ書房 二〇一九・十︶
︵
11︶宮沢清六﹃兄のトランク﹄︵筑摩書房一九九一・一二︶
︵
本﹄︵新書館一九九九・十一︶︑川崎賢子﹃宝塚というユート 12︶﹁宝塚歌劇﹂については︑渡辺裕﹃宝塚歌劇の変容と近代日 ピア﹄︵岩波書店 二〇〇五・三︶︑津金澤聰廣﹃宝塚戦略 小林一三の生活文化論﹄︵吉川弘文館 二〇一八・四︶等参照︒
︵
13︶栗原敦監修宮澤明裕編﹃屋根の上が好きな兄と私宮沢
二〇〇七年十二月二十九日〜二〇〇八年一月十二日︶を参照︒
︵
土紙︱﹄︵一九九四・三︶によると︑﹃岩手中央新聞﹄は一九二五 18︶昆憲治﹃岩手県の郷土紙物語︱敗戦後発行の県中南部の郷
︵大正十四︶年十二月二十九日に花巻にて創刊︒花巻のローカ
ル新聞である︒原紙が残っていないため︑明確な廃刊年月日
は不明だが︑後続紙﹃日刊いわて﹄へ吸収された時期から︑一九三九︵昭和十四︶年と推定される︒
︵
富蘇峰の秘書を務める八重樫祈美子と並んで名を列ねている︒ 小学校時代の恩師である八木英三︑歌人で親戚の関徳彌︑徳 19︶﹃女性岩手﹄の創刊号に︑賢治は﹁祝創刊﹂︵広告欄︶として
︵
一九九五・十二︶四一七頁︒ 20 ︶﹃新校本宮澤賢治全集﹄第十五巻書簡本文篇︵筑摩書房
︵
21︶中村稔﹃宮沢賢治﹄︵筑摩書房一九七二・四︶︑﹃宮沢賢治ふ たたび﹄︵思潮社 一九九四・四︶
︵
二〇一〇・十二︶ 22︶信時哲郎﹃宮沢賢治﹁文語詩稿五十篇﹂評釈﹄︵朝文社
︵
挽歌﹂との関連の深さは明瞭である﹂として︑﹁トシとの死別 八︶︒なお︑木村東吉は﹁﹁北上川は螢気をながしィ﹂と﹁青森 沢賢治︱透明な軌道の上から﹄所収新宿書房一九九二・ 23︶栗原敦﹁︿心象スケッチ﹀の行方︱﹁花鳥図譜﹂構想まで﹂︵﹃宮
の悲傷を明るいファンタジーへと昇華した﹂という見解を示
している︒︵﹁﹃春と修羅﹄第二集 私註と考察︵その三︶﹇北上川は螢気をながしィ﹈﹂︵﹃島根大学教育学部紀要︵人文・社会科学︶﹄第二十二巻第一号 一九八八・十︶︶
︵
24︶秋枝美保﹁﹁春と修羅第二集﹂における女性︱詩﹁﹇北上川
は螢気をながしィ﹈﹂を中心に︱﹂︵﹃﹁春と修羅﹂第二集研究﹄宮沢賢治学会イーハトーブセンター 一九九八・三︶一七二頁︒ ︵
25︶山根知子は︑宮沢トシが日本女子大学校時代に校長であっ
た成瀬仁蔵から強い影響を受けたという見解を示している︒
また成瀬を通してトシがメーテルリンクに親しんだことも指摘している︒︵﹃宮沢賢治 妹トシの拓いた道︱﹁銀河鉄道の夜﹂ へ向かって︱﹄︵朝文社 二〇〇三・九︶︶
︵
26︶鈴木健司は︑﹁北上川は螢気をながしィ﹂と主に﹁黄いろの
トマト﹂における兄妹の問題について論究している︒︵﹁﹁﹇北上川は螢気をながしィ﹈﹂における兄妹の構図︱よだか・かは
せみ・はちすずめ︱﹂︵﹃﹁春と修羅﹂第二集研究﹄ 宮沢賢治学会イーハトーブセンター 一九九八・三︶︶
︵
治が多田ヤスに送った私信として﹁賢さんの原稿をいただき 27︶﹃女性岩手﹄最終号︵第九号︶の﹁編輯後記﹂にて︑藤原嘉藤
ました︒清六さん︵宮澤氏御令弟︶自ら清書して下さいました︒特に女性岩手にだけ発表するので他へは絶対に出さないので
す︒女性岩手の誇りです﹂といった文章が掲載されている︒
また︑﹁マリブロンと少女﹂の末尾に﹁附記﹂として藤原の名
で﹁宮澤さんの遺志に依り特に﹁女性岩手﹂にだけ発表さして
いただいたのであります﹂と記されている︒
︵
28︶お互いに対立するものとして位置した﹁新しい女﹂︑﹁モガ﹂︑
﹁良妻賢母﹂は︑一見異なった位相にいるように見えるが︑二十世紀の初頭において︑メディアや知識人︑国家が日本の女性表象に塑形しようとしたという点では︑同根であると言
える︒︵牟田和恵﹁新しい女・モガ・良妻賢母︱近代日本の女性像のコンフィギュレーション︵Ⅱまなざしの政治 第五章︶﹂﹃モダンガールと植民地的近代︱東アジアにおける帝国・資本・ジェンダー﹄所収 岩波書店 二〇一〇・二︶
︵つぼや たかひろ︑本学大学院博士後期課程︶