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7a 加 賀 藩 に ゆ か り の あ る 史 跡 と 産 物
カッ ト:
1861 年 ( 文
久 元)版
の 「加賀 藩 産 物 番 附」の中で, 大 関に輪 島 塗 物
,
小 結に金 沢三味 薬 と富 山 反 魂 丹,
そし て行 司に能
登塩
があ
げら れ てい る。
朗 浩 孝 芳 高 吉 浄 西
日
手
律 創」 r福 厂 」
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M●
能 登 の
製 塩 は 加 賀 藩 が 行
っ た事 業
の一
つ で, 藩
の重 要 な 財 源
で もあ
っ た。そ れ は 揚 浜 式 と よ ば れ る古
い方
法 であ
った が
,
昭 和 に い た る ま で 生 き な が ら え た。 し か し現 在 そ
の方法 を 受 け 継
い で いる家
は一 軒 に す ぎ な
い。
加 賀 藩
の漆 器
の産 地 と
して山 中 , 金 沢
,輪 島
,高 岡
を あげ
る こ と が で き る。 そ の な か で金 沢
の藩 主 前
田家 に よ り保 護
さ れ た 上流 階 級 向
け の 金 沢 漆 器 に対
し て, 輪 島 は 庶 民 向 け
の堅 牢 な 漆 器
の製 作
に成 功
し, 輪 島塗
と し て知 られ る よ うに な
っ た。 三味 薬 と も 呼 ば れ
る加
賀藩
の秘 薬
と反 魂
丹 で代 表
され
る富
山 藩 の売 薬 は , 庶 民
の治 療 薬
と し て 広 く使 わ れ
た。1 能 登
の製 塩
1−
3)日
本 海
の中 央
に突 出
し た能 登 半 島
は面 積
に比 し て海 岸 線
が非 常
に長 く
,海
に面
し た地 域 が 多
い た め, 古 墳 時 代 後 期
にす
でに瀬 戸 内 海
地方
と な ら ぶ製 塩
の地
であ
っ た こと
が明
ら かにされ
つ つ ろる。そ
して鎌 倉 時 代
に は盛
ん に製 塩
がな
され
ていたと
いわ れ
てい る が,能 登 全 域
で本 格
的
に行 わ れ る
よう
にな
っ たの は江 戸 時 代
であ
るD江 戸 時 代
におけ
る能 登
の製 塩
は, 加 賀 藩
三代 藩
主前
田利 常 ( 1593 − 1658 )
が1627 年 ( 寛 永 4 )
に しいた専 売
しお U
制 と 深 く か か わ っ てい る
。
そ れ は藩
が塩
土 と よば れた製
し おて ま い
塩
業 者
に生 産 費 や 食 料 費 と
して前 年 恥 一 玄 米 ( 塩 手 米 )
を
貸
し与
恕 翌年
の製
塩で返 済 させ るも
のであ
っ た。生 産 が 予 定 を
こえ
た場 合
は追 塩 手 米
を交 付
し, 塩
士自身
のHistoric
Remains
andTraditlonal
Products
Relating
to theKaga
Fief
in
EdoPeriod .
Yoshiro
HIYOSHI 石 川 県 立 輪 島 高 等 学 校 教 諭筆 者 紹 介
〔 経
歴〕1965年 金 沢 大 学 薬学
部薬学 科卒
業, 石 川 県 立 門 前 高 等学 校
教諭
を 経て 1988年か ら現 職。
〔お もな著 書〕“
現 代 化学
概 説卩 ,
共 立 出 版 ;“
化 学へ の
招待 ”
, 大
目本
図書
;“ k
のしい化学 実 験”
,
講 談 社,
いず れ も共 著。
〔趣 味 〕 蝶 採集 。
〔連
絡 先 〕928 石川県 輪 島市 河 井 町1部
64 −
1 (自 宅)。Takaharu
HONJO 金沢 大学助教 授
(理 学 部 化 学 教室
)理学 博
士筆者
紹 介〔経 歴 〕
1969 年京 都大学大
学院
理 学 研 究 科博
士課
程 化学 専 攻 修 了, 1969
年 金 沢 大学
理学 部 助 手 を 経て 1979 年から 現 職。
日吉 氏 本 浄 氏 中 西 氏
〔専
門 〕分析 化学 。
〔おも な 著 書 〕“
分 析 化 学の歴 史
”
,
内 田老 鶴 圃
,
共 訳。
〔趣 味 〕 囲 碁,
パ ソコ ン通 信,
Takashi
NAKAN
【SHI
金沢
大学 助教授 (
理学 部
化学 教室)
理学 博
士箜
者 紹 介〔経 歴 〕
1969
年 金沢大学 大学 院
理 学 研 究 科 修士課程 化 学 専 攻 修 了
, 1969 年
金 沢 大 学 理 学 部 助 手,
講 師 を 経て1987
年から現 職
。〔 専 門
〕放
射 化 学。
〔お も な 著 書 〕‘ ‘
宇
厂
地 球 化 学 (新
実
験化学 講 座 10)” ,
丸 善,
共 著 ;’ ‘
核 現 象 と
分 析 化
学
(化学
総 説Na
29)” ,
学会
出版セ ン ター, 共 著 。
〔
趣 味〕版
画,園
芸。
295
くいじお
E 由 販 売
をき
び しく禁
じた。能 登 塩
は, 喰 塩 ( 食 用 塩 )
あ いilDUお
や四十
物 塩 ( 鮮 魚 用 塩 )
とし て能
登でも
消費
さ れ た が,
大 部 分
は領内
各 地,
と くに塩田 のない越 中
へ送
られ
た。能
登 や越
中でつ く られ, 飛 騨
や信 濃
へ送 られ
た塩
ブ リの塩 も
この塩
であ
っ た。製 塩
の時 期
は3
月に始 ま り10
月に終
わ る のが普
通で,
塩 一 俵
の容 量
は5 斗 ( 50kg )
であ
り, 藩
へ の納
入は月3 回
の定
められ
た 日に行
わ れた。年 間
の生産 高
は天候
に影 響
され 一・ 定
し なかっ たが
, 15 − 30 万 俵
と され , 最 高
の年
す ず
は
47
万俵
であっ た。そ
の生 産 高
の60 − 70 髫
を珠 洲 郡
ふげし
(
現 在
の珠 洲 市
を含 む)
が,
残 りを 鳳 至 郡 (現 在の輪 島
市 を含
む)
な どが占
め ていた( 図 1
)。あげ
ド
よま能 登
の製 塩
は 日本
で最 も古
いも
の の一
つ で,
「揚 浜 式
」と
よば
れる方
法 が と られ
て い た。 日本
の塩の大 半 を 生 産い りはま
してい た
瀬 戸 内海 地 方
の よ うな
「入浜 式
」の方 法 が とれ
な か っ た の は,
干満
の差 が 約20cm
し かな
い こと
や,
波 が 荒
い た め であ
る。 さ らに山 が海 岸
まで せ り出
した岩
石浜
になっ ているので, 多
くは海 面
よりや や 高
いと
ころ に石 垣 を築 き , 粘 土
など
で 地盤
を 塗 り固
め た上に砂 を
しく塗
浜の塩 浜
が用
い られ
た。
そのため原 料の海 水 を 人 力 で塩 浜
まで運び上 げ ね ば な らず ,
入浜 式
に比
べ て効 率
が悪
か っ た。現 在
でも能 登
の海 岸
に こ の塩
田跡 を 石 垣
田 として み るこ とがで
き
る。
製
塩の経 費
の約 50 %
が燃 料 費
てあ
っ た が,
山 が 近いしおぎ
の で
塩
たき
に必要
な 塩 木 が得
やす
く,
これ が唯 一
の めぐ
ま
れ
た自
然条 件
であ
っ た。 と二う が能 登
で は七木
の制
と1いわ れてスギ
,
ヒ ノキ,
マ ツな どの7 木
が伐 採
を禁
止 され
て いた。そ
こで これ を 監督 す
る山廻 役
に塩
の相 見 役 を 兼
ね させ た が,
それ
は塩 木
の確 保
が 理 由の一
つ でも あった。
塩 木
は薪だけでな く, 柴
や枯 葉
も 大 量に使
わ れた。能 登
の南 部
に おい ては,
西 側 と東 側 ( 能 登 島)
の製 塩 村
の
間
に製 薪 村
が立 地
して いたが ,
やせ た土壌
を製 薪 村
に,
肥 沃
な土 壌
を製 炭 村
と して利
用 し ていたe な お能 登
に は大
河 が な く,
海 水 中の塩 分 が多
い こと も好条 件
の一
つ といえ るか
も
し れ ない。塩 浜 , 塩 木
と とも
に製
塩に欠
くこ とができ
ない のが 塩釜
であ
る。 この釜には 御 仕 入 釜 と 自分 釜 が あ った。 塩 釜 は高 価 な
た め簡単
に 入手
でき ず
,藩
の御仕
入釜制度
は塩
士 が
塩釜 を 入 手 す
るのに重 要
な役 割
を は た した。それ
は藩
が塩
士 に釜
を貸
し与
え る もの で,
毎 年 借 料 を 払い,一
定
の年 数
が たてぽ
塩士 に払 下 げ
ら れ た。 こ の釜
は鉄
の鋳
なか
い
物 釜
で, 鋳 物
の産 地
の鳳 至 郡 中 居 や 越 中 高 岡
でつく
られ
ていた
。
釜に は形 太釜
と浅 釜
があ
り, 形 太 釜
は底
の深
い釜
で,
燃料
の消 費
は多
いが,塩
の焼 き
上 が りが よい といわ れ
た。寛政 年 間 ( 1789 − 1801 )
か ら導
入 さ れ た浅
釜 は,
底
が浅 く
て 口径 が 大き
く,
燃料
消費
が少
ない の で藩
に おい て
奨 励
され
たが, 形 太 釜
が なお多 く
用い ら れ た。入 浜
式
に比べ て はるか に労 力
を要 す
る揚 浜 式
で,
しかも天 候
にも
そ れほ ど恵
まれ
ない能
登の地
での製 塩
が, 藩
制 期におい て発
展の傾 向 を 示
し た最 大
の原 因
は専 売 制
の ため とい わ れ る。 そ して奥 能 登
が主 産 地
であ
っ た の は,
地 理 的
な条 件
の ほ か に他
に産 業
が なか っ た こ と や, 産 米 が 少
なか っ た ことも原 因
の一
つ と考
え られ てい る。
に がり
なお
製
塩の途中
に出
る苦 汁
は,豆 腐
づく り
に用
いられ
た
程 度
で, 大 部 分
は廃
棄 さ れた。 ま た大量 に出
る灰は越中
に送
られていた。 肥料
とし て使
われ
ていた の か, 紺 屋 灰 と
して染 め物
屋 が 用い て い た の か, あ
る い は 五箇 山
の塩 硝
づく り
に使
わ れて い た のか 定か でないDこのよ う な 歴 史 を もつ 能 登の 製 塩 も
1958 年
(昭 和 33 )
の第 3 次 臨 時 塩 業 措 置
法 で消 滅
し, 現 在 , 珠 洲 市
のに i か く は な
仁 江 海 岸
で角 花 菊 太 郎 一 家
に よ り行
われ
て い るの が唯 一
の
も
のであ る (写 真1
)。 しかしこ こで得
られる浜 塩
に は天 然
の う ま み があ
る といわれ
る。現 在
の イ オン交換 膜
法で
得 られ
る塩
は, 99 %
以 上 が塩 化
ナ ト リ ウム の ため塩「 一
」
図
1
明治初期の 能 登 半 島 の 製 塩 の 地 (● 印 )3)。
296
(46)
写真
1
珠 洲市にある揚 げ浜塩田 :浜 床,
泝過 槽,
釜 屋 がみえる
。
化
学
と
教
育
辛
い だけでそ こ には う まみ はない。な おこ の
塩
田 で は, 夏
の シー
ズ ン中
に は午 前 と午 後
に海 水
を まく
のを 見
ること
ができ
る。 ま た珠 洲 市
に あ る「
能
登記 念 館 喜 兵 衛
どん」に は製
塩 用 具166 点 が収 集 ,
展 示
され
てお り, そ れ らは1969 年
(昭和 44 )
に文 化 庁
よ り重 要 民 俗 資 料
に指 定
され
た。2 輪 島 塗
4’
5)輪 島塗
の起 源
につ い て は諸 説
があ
り, その多
く は伝
承に よる
も
のであ
る。 その中
に応 永 年
間 (1394 − 1428 )
にね ころ
根 来 寺
(和 歌
山県 )
の僧
が輪 島
へ来
て技 法
を伝 え
たと
か, 輪 島
か ら根 来
へ出 向
い て技 術 を 習 得
したと
い うのが ある○ ま た
1296
年 (永
仁4
)につ くられ,
1524年
(大 永じゆ うぞ うじ んU+
4 )
につく
りかえ ら れた と さ れる重蔵 神
社奥
院の朱
塗の扉
が火 災 を
のがれ
て同社
に現 存
し てい る。 しか しこれ をね し
塗
っ た 人物
が輪 島
の塗 師
であ
っ たか は定
か でな
い 。一 方 ,
神 社
の棟 札
な どか ら15
世紀 後
半か ら16
世紀
に かけ
て輪 島
に 塗師
が いたこ とは確
か ら しい。 そ して 1718年
( 享 保 3 )
に は但 馬
(兵 庫 県
) まで販路
をひろげ
た著 も
い た が, こ の地の名 産
と して全 国に ひろく知
られ
る よ うに な っ たのは, 「
加越 能
大路
水径」
や 「三国 名 物 誌
」な
どから
,
宝 暦年 間 ( 1751 − 1764 )
と考
え られ
て い る。
そ れ 以 来 , 輪 島
は堅地
の朱 家 具
(朱 塗
の膳 , 飯
椀,
汁 椀 な ど20 人 前 , 飯 鉢
通盆
な ど一
揃
)が一
枚盾 板
とな っ た( 写 真 2
)。 以 下に こ のよ うな 堅 地の丈 夫
で 長持
ちす
る特 徴
を そ
な
える こ とになっ た 理由
を考
えて み る。 じ lま
ず 下 地
に 「地の粉 」
を使
うことが あ げ
られ
る。地
の粉
は輪 島
で寛
文年 間 (
1661−
1673)
に発 見
さ れた と さ れるケイソ ウ
泥 岩
で,
こ の粉
がケイソウ土 と判 明
し たの は, 1908 年
(明治 41 )
の こ とであ
る。採 掘
し た黄
士 をよ くくん し よi
練
り,
だん ご状
に し て天 日乾 燥
し, 燻 焼 (
い ぶ し焼 き) ,
粉 砕 ,
ふ るいわ け を す る。 そし て粒
子の粗
い もの か ら 順べ ん じ ニ
に
,一,
二,
三辺
地粉
と よび 用 途に応
じて用い る。 ケ イ写 真
2
輸息
塗 を象
徴 する 堅地の朱 家 具。
第 39 巻 第 3
号(1991
)
ソウ土は ケ イ
殼
を 主成 分
とし,
ケイ殼
は ケイ酸
の微粒 子
( 10− 100,
um)
で,
か つ超 微 細 孔 を多 数 有
し て い る。 その ため漆
と まぜ
ても光 沢
など
の性 質
に悪 影 響
を お よ ぼす
こ と な く安
定 な漆
の増
量剤
と な り, 漆 層
を厚 く
して堅 牢 性 を 増
加 させ る。適 当
な 下 地粉
と な るよ うに, 黄
上を・ 燻焼
し て 地の
粉
と した 経験
的方
法 は, 焼 成 温 度 が 低
い の て不 要 な有 機 物
は除 去
さ れるが ,
ケ イ殼
は破 壊
され
ない有 用 な方 法
であ
る。下 地
に ケイソ ウ土を 利用 す
るの は輪 島塗
独特
の技
法 で あ る。き じ
次
に木
地であ る。周 辺
に生産 す
るケ ヤ キ,
ヒ ノキ,
さらに
そ
の後
に ア テも木 地 化
され
た。 ケ ヤ キ の横 木
を椀 木
かくもの
地に
,
アテを 角 物 木 地に用いた。
その接 着には漆
を使
い,
かつ
要 所
に木 釘
を 用い た。 もち ろ ん木
地は 自然乾
燥,
廡煙 乾 燥
な ど年 単
位の時
間 を か け て,
仕 上 がっ た漆
器にく
る いな
ど
が生
じない よ うに して い た。 なお現在
は横 木
よ りは縦木
が多
く使
わ れてい る。ぎやう し
つ
次
い で髴 漆
であ
る。 下
地 までに11
エ程 を 要
し,
さ らmの ぎ
に
木
口を 堅 牢
にす
る ため に指 先
の腹
を使
っ た 「布着
せ」
が行
われ
る。そ
し て地
の粉
の粗
よ り細
をII 匱
次「 米
の り」
と ともに
混
じ た漆
を下 地 塗 とし て3
回塗 布
する。 1733
年 ( 享 保 18
)の「 亀 井 家 文 書 」
に は 「ぬ り物 之 次 第 下
こ し ら え
一
ベ ン, 其
上 じの こ ニへ ん, 其
上中
ぬ り, 其
上はなぬ り」 と
記
され
てい る ことか ら, 当時 す
で に堅 地の漆
器 がつく
られ
ていた こ とが うかが える。 この下 地 調 合き うるし
に は多 量の生
漆
を 用い るこ とも
堅牢
さの要 囚 とな
る が,
こ
れ
は ケイソ ウ穀 粒 子
の液 体
の吸 収 性
がきわ
め て大 き
いの で
漆液
をi’ 分
に吸収 す
る ため は じ め て可能
な こ とであ るD こ の よ うに下
地 と下
地 が よく接 着 し て ますます 堅牢
じふ ちび
さ を
増 す
工程 と なっ て いる。 ま
たこ こ て 「地 縁 引 ぎ 」
といわ
れ
る椀
のL 縁
の よ う な.
ド地の
破
損し やす
い とこ ろ に さ らに生 漆 を 塗 布
して い る。次
い で後 述 す
る 「く
ろ めe
漆
」 を 用い て中 塗
か ら上塗へ と,
塗布 , 乾 燥
1研 ぎを く
りか え すの で, 総
工程 27 − 37 , 手
数75 − 114
回に お よぶc
ところで
漆 液
であ
るが, 奥
能 登は漆 木の成 育に適 した 土地
で, 「延 喜 式
」の中
にも 能 登
か ら漆
が 上納
さ れ てい
ナ t
た こ と が 記 さ れてい る。
漆 液
は木
の種類 ,
採 取 地, 掻
く時 期
に よっ
ても性 質
が異 な
る。6 月
上旬
か ら12 月
上旬
に か け て 掻
き
と り炉 過
しただ;ナ
の生 漆
を,
また は精 製
して
用途
に適
した漆 液
と して使 用
していた。 こ こ で特 筆 す
べ
き
こと
は精 製
工程
に おけ
る 「く
ろめ( 黒
目)」
であ
る。 掻 ぎ とっ たままの漆
液 を 木製
の浅い桶
に入 れ,
夏 は 天 日で冬ぽ
炭
火 をつ る して40 −
45℃ の温 度
にあた ため, 櫂
で
表 面 積
を 大ぎ
くす
るように か き ま ぜ, 漆
液 中の水 分 が約 3 %
にな る まで蒸 発
させ た。 くろ めを終
え,
炉 過 して は じ め て塗 料 と して使
え る よ うになる。 こ の くろ め に よ( 47 ) 297
っ て
漆 液 中
の成 分
が均 一
に分 散
され , 塗 布
さ れ た とき
耐 久 的 構 造の塗膜
をつ くる こ とにな る。 く ろめ漆
を うす
く塗
り, 乾 燥 す
る 工程 を く り
かえ す
こと で, 丈 夫
な塗 膜
を経 験 的
に つく
り上げ
て い た。現 在
こ のく
ろめや うす塗
りの
意 味 も
化 学 的に解 明
さ れつ つあ
る6}。 とは いえ昨 今 使 用
され
て い る漆
は90 % 以上 が 中 国 産
であ
り,くろ
めも 年 間
を通
し て か くはん 器 と電 熱 器
を用
い て行
われ
ているD
つ
ぎ
に輪 島
の実
用 漆 器の産 地化
の要 因 を 考
えて み る。前 述
の地
の粉
の発 見 や
ア テ の木 地 化
な どはも
ち ろん であ
ち
ん
きんるが
,
享保 年
間 (1716 − 1736
)の沈金 技
術の創
始 と, 文
まき i
政 年 間 ( 1818 − 1830 )
の蒔 絵 技 術
の伝 来 を 忘 れ
ては な らない。
沈 金 と
は塗 物
の表 面
を鋭 利
なノ ミで彫
り,
そのあ
とへ漆
をつけ , 金 , 銀
な どの バ クや粉
を沈
め る技 法
であ
り,蒔 絵
は漆
で模 様
を 描き
,金
,銀 な
どの粉 を 蒔 ぎ
つ けてみ が
き 上 げ
る技 法
であ
る。 し か した と え ば1843 年
(天
保 14 )
に は, 沈
金, 蒔
絵 と も そ れ を業
とす
る家
は各
2軒
にす ぎず , 無 地 も
のが 主
であ
り, 発 展
ぽその後
の こ とであ
る。 そ う した中
で沈 金
の金
バ ク散拭綿
か ら金
を 回収
する灰吹
金製 出 法
が, 1868
年 (慶 応 4)に当 地で発 見
さ
れ
て いること
は注
目す
べき
であ
る。 だ い こ く こiま た 天
明年 間 ( 1781 − 1789 )
に 大 黒講
と よ ば れた組 合
をつ
く
り, 塗 物
の標 準
工程 を 定
め, 価 格
の抑 制
をは か り,
版 路
の拡 大
に努
め たD これ
が現 在
の輪 島漆
器協
同 組 合のhん t う
元 祖である。 ま た
販 売 方 法
にも 文 政 年 間
に は碗 講
と よばたの も しこう
れた
頼 母
子講
の方 法
を と り入 れて購
入 を容 易
に し需 要
のば し よ
増 大
をは か った。
販 売 形式
は業 者
が 「場所
まわ り」
と称
して現 地 を
お とず
れ る直 接 的 方 法
が とられ
た。前 年
に注 文 を得
てい た漆
器 を夏 す ぎ
につ く り上げ , 得 意
先に納 入 して注
文 をき
い て帰
る年 単 位
の注
文 生産
が 普 通で あった
。
ところ で漆
の硬 化
はその成 分
の ウル シオー
ル が その 中に含
ま れて い る酵 素
の ラ ッ カー
ゼの作
用 で起
こり
,温 度
が25 − 30
℃, 湿 度
が75− 85 %
が適 当
といわ れている。
輪 島
で は5 月
か ら9 月
上旬
に かけて の気 温
が25
℃ 以 上であ り, 5
月か ら翌年 2 月
にかけ
ての湿 度
が759 以 上
であ
ること か ら 生産
に適
した時 期 を経 験 的
に知っ た の であろ う。輪 島 塗
の伝 統
は今
な お この町
に生 き続
け, 輪
島 市の総 人 口約3
万1
千 人のほ ぼ4 分
の1
,tこあ
た る約 8 千 人 ( 家
族 を
含
む ) が何
らかの形
で漆 器
に か かわっ てい る といわ れる。 そし て石 川 県 もそ
の発
展のた めの援 助
を借
しまず ,
県立
輪
島実
業 高等
学 校イ ンテ リア科 , 輪 島漆
芸技 術 研 修 所 を設 け , 現 在 , 輪 島 漆
芸美 術 館 も建 設 中
であ
る。
な お 前 述の 「喜 兵 衛 どん」に は, 能
登漆 掻 , 漆
工用 具
1425点
が展
示 さ れてい る。 また輪 島 市
に あ る輪 島漆
器会 館 2 階
の 「輪 島 漆
器資 料 館 」
で は輪 島塗
の製 作用 具
や298
写真 3 福久 屋の看 板:金 沢三味薬 とよばれる紫 雪
,
烏 犀 円, 耆
婆万病 円
の名
がみえる(内藤 記 念 くす り博 物 館提
供)。
製 品 3804 点
が所 蔵 , 展
示 さ れ てい る と とも
に製造
工程
の
一 部
を見 学 す
るこ と ができ
る。 これ ら も ま た
,
重要 民
俗資 料
に指 定
され
ている。
さ らに金 沢 市に ある 「伝 銃 産 業
工芸館
」で は輪 島
塗,
金沢 漆
器,
山中 漆
器の製 品
な どを みる こと がで
き
る。3 加 賀 藩
の秘 薬
n と富
山藩
の売 薬
8)きv
.
まL びよ ラえん加 賀 藩
の秘 薬
とは通常
は 三味 薬 と
よばれ
る耆 婆
万病
円,
し t
つ
うさ L・
えん紫
雪 , 鳥 犀 円
の ことであ
る(
写真 3 )
。1670 年 (寛文 10
)に 五代 藩 主 前
田綱 紀 ( 1643 − 1724 )
が,
そ れ まで門 外
不出
であ
っ た秘 薬
を福
久屋 と中 屋
に, そ
の後 , 宮 竹 屋
に も 調 製 販 売 を 許
可
し, 庶
民の治 療 薬
とし て使
わ せた。耆 婆
万病
円の書婆
は, 梵 語
のJivaka
で釈 迦
の時 代
の名 医
の名
であ
る。 こ の万 病
円の名
は, 徳
川家 康
が自
ら調 製
し た薬 剤
の中 や , 江 戸 時 代
の薬 剤
に関 す
る本
とし て有
か
名
な 「江 戸鹿
の子 」
の中
にも見 られ
る。金 沢
の書婆
万病 円
は動 物 , 植 物 , 鉱 物
の31 味
か ら な り, 万 病
に効 能
がこおう じや こO さ いh
・
くあ る と さ れ た。 その成
分
の牛黄 , 麝
香, 犀 角
は強 壮 薬
と して現在 も 用
いられ
て いる。 マ メハ
ン ミョ ウ,
ム カデ ,
トカ ゲな どの動
物 薬
も使
わ れてい る。 またそ
の中
には朱 砂
や雄 黄
の よ うな 水 銀 やヒ素
の化 合物
も含
ま れて い るが,
これ らは き わめて 水に溶
け
に く く,
ご く微
量であ
れ ば薬 効
があ
る と さ れ た。 それ
らは中 国
で 不老
不 死の薬
と して