木下尚江と田中正造︑一九一一年以降一五
1 田中正造歿後百年
二〇一三年は︑田中正造歿後百年の年であり︑命日の九月四日の
﹁東京新聞﹂夕刊は︑一面のトップに︑この日栃木県佐野市が︑正
造が息を引き取った小羽田︵当時は︑足利郡吾妻村大字下羽田字小
羽田︶の庭田宅の家を︑市の史跡に指定したことを伝えた︒その数
日前の九月二日の朝刊の﹁社説﹂では︑﹁田中正造︑百年の問い︱
足尾鉱毒と福島原発﹂の見出しで︑﹁正造翁が挑んだものは︑水俣
病や福島原発の姿を借りて︑今もそこにあるようです﹂と呼び掛け
た︒しばらく前から時折︑渡良瀬遊水地の現状の見事な風景画像 ︵1︶を︑
カラーで大きく夕刊巻頭に掲げて来た﹁東京新聞﹂だが︑その﹁社
説﹂の最後は︑次のような一節で締めくくられている︒
お金より命が大事︑戦いより平和が大事⁝︒原点の公害を振
り返り︑今学び直すべきことは︑何よりも命を大切にしたいと 願う︑人間の原点なのではないか︒﹁みんな正造の病気に同情するだけで︑正造の問題に同情し
ているのではない︒おれは︑うれしくも何ともない﹂
長年封印されてきたという正造最期の言葉です︒
意外でも何でもありません︒そもそも誰の問題か︒百年の問
いに答えを出すべきは︑私たち自身なのだということです︒
一読した時︑﹁長年封印されてきたという﹂という一節が︑妙に
気になった︒﹁社説﹂筆者の︑何らかの知識であることはわかるが︑
そのことが一般的な知識であるとは︑どうしても思えなかったから
である︒
この正造の言葉には︑次のような記録もある︒
﹁お前方︑大勢来て居るやうだが︑嬉しくも何とも思はねえ︒
お前方は︑田中正造に同情して呉れるか知らねえが︑田中正造
の事業に同情して来て居るものは︑一人も無い︒︱︱行つて︑
皆んなに然う言へツ︒﹂
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降
││
新資料・木下尚江宛田中正造書簡の紹介︵その2︶
││
中 島 国 彦
一六
足尾鉱毒地有志の総代という形で︑病床に詰めていた︑岩崎佐十
に︑逝去の日に言ったという言葉である︒引用したのは︑木下尚江
の﹃田中正造翁﹄︵一九二一・八・一〇︑新潮社︶の﹁三十一 永眠﹂
の章からであり︑正造の最期に付き添っていた尚江の︑逝去からそ
う時間がたっていない時期の回想である︒この言葉は︑尚江による
と︑わざわざ岩崎を呼び︑﹁声を励まして﹂語られたという︒﹁東京
新聞﹂の﹁社説﹂が再現したのと︑微妙にズレがあるのが気になる︒
特に︑尚江の﹃田中正造翁﹄は︑正造の人物を伝える︑ある程度知
られた貴重な文献であり︑その中に記された言葉が︑﹁長年封印さ
れてきたという﹂のは︑事実とは言えないのではないか︒
問題をさらに複雑にしているのは︑正造の最期の言葉として︑も
う一つの文章が伝えられているからである︒島田宗三も逝去の日に
正造の傍にいたが︑岩崎佐十に語られた言葉をはっきりとは聞くこ
とが出来なかった︒島田が岩崎に逝去の翌日朝︑どういう言葉だっ
たかと尋ねても︑岩崎は答えない︒尚江は憤然とし︑正造はこう話
したのだ︑と巻紙にすぐさま記録して︑島田に与えたという︒島田
宗三﹃田中正造翁余録﹄下︵一九七二・五・三一︑三一書房︶の中
では︑簡単にひかえ目に再現されたのみだが︑尚江の記録によって
伝えられた最後の言葉は︑実はこうなっている︒
﹁同情と云ふ事にも二つある︒此の田中正造への同情と正造
の問題への同情とハ分けて見なければならぬ︒皆さんのは正造
への同情で︑問題への同情でハ無い︒問題から言ふ時にハ此処 も敵地だ︒問題への同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ︒谷中問題でも然うだ︒問題の本当の所ハ谷中の人達にも解つて居ない︒﹂
尚江は他に︑早朝の正造の短い言葉もあわせて伝え︑﹁右は君の
親しく聴かざりき翁の最後の語なるが故に︑今ま此の記臆の新しき
時に於て記して呈す︒妄りに他へ示すことなかれ﹂と付記した︒こ
の尚江筆の資料を﹁補遺﹂としてかろうじて収録した﹃田中正造全
集﹄別巻︵一九八〇・八・八︶の﹁解題﹂は︑一九八〇年一月二十
三日に死去した島田宗三が︑死ぬまで尚江の言い付けを守り︑この
資料をそのままの形で公表しなかったことを伝えている︒が︑実際
は︑ほぼ同じ内容が︑尚江の﹃田中正造翁﹄に出ていたわけである︒
そこでは︑正造の語が︑かなり激烈に発せられたとなっているのは︑
﹃田中正造翁﹄の執筆意識の高揚においてなされたことを伝えてい
よう︒逝去翌日の執筆なので︑恐らく︑﹁正造の問題﹂の方が︑確
かかも知れない︒しかし︑﹃田中正造翁﹄執筆の時点では︑﹁正造の
事業﹂という語感の方が︑リアリティーを持ったのではないか︒記
憶のずれなど︑こうした点では問題ないくらいである︒
この正造の言葉が語られる少し前︑やや小康状態の日に︑正造が
語ったという次のような言葉を︑﹃田中正造翁﹄の中で︑尚江は伝
えている︒
﹁鉱毒事件で︑多少有志の人達を奔走させましたが︑只だ奔
走させただけで︑教育と云ふ事をしなかつた︒教育をしなかつ
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降一七 たのでは無い︒実は教育と云ふ事を知らなかつた︒此の田中正造と云ふものが︑全くの無教育者でがすから︒︱︱其れを︑自分一人抜けて来てしまつて︑外の者を皆んな捨てほかして置いたでげすから︑今日の場合︑何とも已むを得ないのです︒﹂
岩崎佐十への言葉は︑この言葉と背中合わせでもあり︑言わば︑
最後の﹁教育﹂を︑正造は試みたと言えるのではないか︒しかし︑
どうやら︑その﹁教育﹂は︑完全には伝わらなかったようだ︒それ
は︑現代にも続いている︒﹁社説﹂の中で︑﹁田中正造の事業﹂が︑﹁正
造の問題﹂とされることで︑正造が提起した﹁問題﹂が︑﹁水俣病
や福島原発﹂にも通ずるという︑幾分口当たりのいい︑誰にも納得
のいく普遍問題に解消され︑正造が何年にもわたって︑自分の足で
追及し続けた﹁事業﹂の内実が正確に見つめられなくなっているの
ではないか︒正造歿後百年︑正造が歩んだ行程を自身で同じ時間だ
け追体験するのでなくては完全には理解されないような︑﹁事業﹂
の持つ本質的な重み︑日日の経験の細部に眼を向けることこそ︑正
造から﹁学ぶ﹂ことであるように思う︒
2 木下尚江が伝えようとしたもの
正造歿後百年に合わせて︑最近︑大鹿卓の小説﹃渡良瀬川︱足尾
鉱毒事件の記録・田中正造伝﹄の新版︵二〇一三・九・四︑新泉社︶
が刊行された︒初刊は中央公論社版︵一九四一・四・六︶であり︑ 戦後には大日本雄弁会講談社版︵一九四八・六・二五︶も出て︑多数の読者を得た︒しかし︑この小説は︑正造の直訴で終わっており︑従来多く見られた︑正造の前半生を評価し︑直訴を頂点とする見方で綴られている︒こうした見方に古くから絶えず反対し︑正造の後半生の営為に︑正造の精神の深みを考えていたのが︑木下尚江なのである︒﹃田中正造翁﹄では︑正造の直訴は︑全体の半分よりも前に記さ
れている︒尚江の見識が︑そうしたところに現われているわけだ︒が︑
問題は︑一九一〇年の関東大洪水からの正造の姿を描くに当たり︑
尚江は完全に自分の言葉で構成せずに︑一切を正造の日記の引用で
構成したことである︒﹁二十二 晩年の日記︵一︶﹂から︑﹁三十 晩
年の日記︵九︶﹂までが︑それである︒正造の生の声を伝えること
では︑一つの方法であったが︑正造晩年の膨大な日記の完全な翻刻
を試みたわけではないので︑その記述には︑何らかの尚江の思い入
れが含まれてしまう︒この方法は︑木下尚江編輯﹃田中正造之生涯﹄
︵一九二八・八・二〇︑内外図書株式会社︶の大冊にも受け継がれ︑
正造の生涯と業績を伝えはしたが︑日記の引用は一部分であるとい
う事実は残っていた︒極端に言えば︑正造の全貌を︑必ずしも伝え
ていない︑という声が生まれたのである︒
その点をどう考えるかは︑難しい︒現在︑わたくしたちは︑膨大
な﹃田中正造全集﹄全一九巻・別巻︵一九七
七・
七・
一
〜一九八〇・
八・一︑岩波書店︶と︑その補遺である﹃亡国への抗論 田中正造
一八
未発表書簡集﹄︵二〇〇〇・三・二三︑同︶を持っている︒尚江の
抄録のみでは︑確かに充分ではないだろう︒しかし︑抄録の作業そ
のものが︑尚江の正造観を示している︑と考えるのは︑許されるは
ずだ︒その手がかりとして︑どういう抄録の姿が観察出来るか︑跡
付けてみたい︒
﹃田中正造翁﹄の﹁二十二 晩年の日記︵一︶﹂の一節に︑一九一
〇年八月の後半の記述がある︒
○八月十三日︒暴風怒涛起る︑前十時より十一時︒
○八月十四日︒野木村︑野渡に泊︒此日︑米五俵割麦一俵買取
りて谷中に通知す︒
○十六日︒谷中に入︒恵下野にて避難人に面会︒
○二十三日︒古河町出立︑日暮里に来る︑泊す︒床上尺余浸水︒
○二十四日︒今朝︑逸見御夫妻と岡田氏へ行けり︒
○二十五日︒岡田神呼吸を訪ふ︒
○飢ゑて死するものよりは︑飽食に斃るゝもの多し︒
○心の尊きを知らざるものなし︒而かも誠に心を尊ぶもの稀な
り︒
○旧作
空樽の︑たゝけば昔の︑ひゞけるぞ︑
内のなるのか︑外のなるのか︒
○人は天によらずして片時も生息することを得ず︒衣食住皆な
之を天にうく︒況んや生命をや︒況んや又生命保全の道に於 てをや︒保全は霊にあり︒霊は神より出づ︒神の大なる事此の如し︒汝等衣食住の事を知りつゝ︑何故に其源を学ばざる乎︒汝等霊あるを知りつゝ︑何故に其主を尊敬せざる乎︒汝等は家に居れども家を知らず︑衣を着て衣を知らず︑食ふて味を知らず︑空気の中に居て空気を知らざるものなり︒○水は自然なり︒知者は之を利す︑愚者は之を損す︒○日本︑一人の治水家なし︒正造と静坐の岡田虎二郎の出会いをも記録する︑大事な部分だが︑現在﹃田中正造全集﹄第十一巻︵一九七九・七・一七︶の日記原本︵三︱三四のノート︶では︑この数倍の情報が収載されている︒﹁○
八月十三日︒暴風怒涛起る︑前十時より十一時︒﹂の部分など︑こ
んな感じだ︒
四十︹三年︺八月十三日の暴風雨ハ︑浸水家屋を遊泳せしめて
皆怒涛中に沈消せしめん︒利島︑川辺︑新郷︑石川︑帯刀︑古
河町︑ヘヤ︑生井︑いびせの一部︑間ゝ田︑乙女︑野木の一部
此災あらん︒
暴風怒涛起る︑八月十三日前十日より十一時︒
多くの地名など︑確かに尚江の抄録においては︑重要でないかも
しれない︒が︑実物の筆致は︑生々しさを増幅する︒地名でも︑﹁部
屋﹂﹁海老瀬﹂などの漢字を書いている余裕も無いかのように︑片
仮名や平仮名で瞬時に書きつけられる︒尚江は︑もとより︑﹁前十
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降一九 時より﹂と紹介するが︑原文は﹁前十日より﹂である︒正造の日記を辿ることは︑ノートに実際の書かれた時の︑正造の姿︑書かれたスピード︑その他生々しい事実を見据え︑それに眼を向けることなのである︒地名の羅列こそが︑正造の世界を現出させる︒正造にとっ
て︑どんな小さな場所︑人名までもが︑自分と世界とのつながりを
感じさせるものなのである︒
木下尚江編輯﹃田中正造之生涯﹄にも︑もちろんこの部分は採録
されている︒興味深いのは︑﹃田中正造翁﹄で付けられた○印が︑
そこでは︑○と◎との二種類で記されていることであろう︒﹃田中
正造翁﹄の十一個の○のうち︑最初の六個は◎であり︑尚江が少し
でも重要と考えた形跡が感じられる︒なお︑﹃田中正造全集﹄の成
果をコンパクトにした︑﹃田中正造選集﹄六﹁神と自然﹂の巻︵一
九八九・一〇・一一︑岩波書店︶では︑この部分で採録されたのは︑
八月二十五日の日記の部分のみである︒尚江が採録した︑﹁○人は
天によらずして﹂以下の部分に外ならない︵尚江は原文のカタカナ
を平仮名書きにしている︶︒
更に︑日記原文を観察すると︑﹁○水は自然なり﹂以下の部分は︑
原文では何項目も書き込まれており︑その中に︑一行印象的に︑﹁○
日本︑一人の治水家なし﹂が置かれているのである︒こんな感じだ︒
尚江が省略した部分を確かめながら︑読んでみたい︒
○国民自ラ自国ヲ亡す︑独り政治のみならんや︒山を堀りまた
崩シ︑利益上の自然の面積を危くす︒之れ世界の問題なり︒世 界の中一ツの鉱山あり︑地方を害す︑之れ一国の問題ニあらず︒○救済人官吏たれバ被害民喜バず︒救済人の手より貰ふを喜ぶ︒慈善家の手ハ神の手の如シ︒官吏の手より来る食物ハ囚人の食の如シ︒囚人ハ捕へし人より食をうく︒被害民を造くれる官吏の手ハ鬼の手の如シ︒被害を造り︑被害を救ふ︒不条理の極くなり︒○今の技師ハ芸人なり︒此他ニ雇主を要す︒○日本一人の治水家なし︒○水害観察の官議両員及新聞記者の類︑又ハ学生及救済人の衣服の美なるため︑彼れらハ被害地ニ直接するを怖る︒○天災ニあらざれバ︑回復する事を期して去らず︒一日のうちに︑どんなに複雑な想念が渦巻いているか︑よく理解すべきであろう︒その中に︑﹁○日本一人の治水家なし﹂の一行が
置かれることで︑単なる表面的な意味を超えて︑﹁治水家﹂の三文
字が光り輝くのではないか︒それは︑﹁治水家﹂になることが︑ど
んなに大変なことであるかの認識につながっているのである︒﹁治
水家﹂でないことの苦い思いが︑正造を﹁治水家﹂に作り上げたと
言っていい︒正造の日記には︑その後︑おびただしい地名と人名が
現われる︒全て︑正造が行った場所と︑会った人なのである︒わた
くしたちは︑その一つ一つに︑襟を正して接しなければならない︒
二〇
3 ﹁治水行脚﹂の内実
一九一〇年八月八日の﹁東京朝日新聞﹂は︑﹁●群馬の豪雨﹂の
見出しで︑﹁七日午前二時頃より午後三時頃迄群馬県地方は各地共
篠衝く許りの豪雨あり雷鳴さへ加はり為に各地に出水し被害少から
ず﹂と伝えた︒翌九日の紙面では︑今度は︑﹁●神奈川県の水害﹂
である︒そうした関東地方への豪雨は︑数日後︑大きな水害として
現われ︑連日被害の報告が紙面に載ることになる︒更に︑十日の紙
面では︑﹁東京市内及び近郊の諸川も降続きたる豪雨の為浸水︑増
水等の被害あり﹂とされ︑首都圏を巻き込む大洪水が報じられるこ
とになる︒
谷中村でも同じで︑田中正造がいち早く各地を巡回したのは︑言
うまでも無い︒翌一九一一年にかけての︑正造の﹁治水行脚﹂の始
まりである︒一方︑新聞は︑洪水の事実しか︑人々に報じない︒例
えば︑﹁東京朝日新聞﹂の八月十四日の紙面での︑﹁▲利根渡良瀬激
流溢る﹂の記事を見よう︒
△利根渡良瀬両川の漲溢は思川巴波川の逆流と衝突し濁浪凄じ
く群馬県邑楽郡北大半を衝きて流る其増水程度十二日夜生井村
にて一丈七尺なりしが十三日は最高堤防より三尺乃至四尺に達
したり此方面各町村堤防内の民家は二階も若くは三階の外は悉
く濁水中に没し人民は辛うじて溺死を免れたる程にて従来洪水 に慣れたる住民も茫然為す所を知らず彼の谷中村を買収して貯水池と為したる如きは全く児戯にだも値せず利根渡良瀬二にの施さんとする改修工事の如きも到底効能なかるべく赤麻部屋生井等の村落を買収し再び第二の谷中村と為すも亦遂に無用に帰すべきを証したり実際に︑記者が特派員として文章を寄せるのは︑八月二十日の﹁●
洪水視察﹂あたりからである︒ただし︑それらもただ単に事実の報
告に終始し︑原因の解明や︑本質的な問題の指摘には程遠い︒解決
策にしても︑二十六日の﹁●東京洪水善後策﹂の記事のように︑大
洪水となった東京にばかり︑眼が行っているのである︒
それに対し︑田中正造の日記を辿ると︑洪水行脚として︑完全に
地域に密着している︒実際の足で行ったところ︑会った人物が︑克
明に記録されているのである︒場所︑人名︑それにさまざまな数字
が︑入り乱れている︒書いた本人にも︑もしかすると後でわからな
くなるようなデータが︑ともかく現場で記録される︒それは︑翌年
の一九一一年にも︑引き継がれて行く︒そうした﹁治水行脚﹂の︑﹁激
化する一方の水害を︑自然災害ではなく人造洪水である﹂と考
える正造の思想︑﹁上流から下流まで有機的一体のものとして把握
し︑治水のみならず治山をも重視する思想﹂については︑小松裕﹃田
中正造 未来を紡ぐ思想人﹄︵二〇一三・七・一七︑岩波現代文庫︑
初刊は﹃田中正造 二一世紀への思想人﹄の題で︑一九九五・九・
一五︑筑摩書房︶に詳しい︒
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降二一 今回紹介した木下尚江宛の田中正造書簡の中には︑例えば︑一九一一年一月九日に︑古河駅前の田中屋︵正造の行脚の拠点の一つ︶から出された葉書がある︒﹁谷中魚猟の減少﹂に関して︑地元の人々
の証言を確認している文面である︒﹁三分一﹂﹁五分一﹂﹁十分一﹂﹁二
十分一﹂などの言葉は︑ややあいまいなもののように見えるが︑地
元の人の生きた感覚に根差した︑不思議なリアリティがある︒恐ら
く︑正造が大切にしたのは︑そうした感覚なのである︒幸い︑正造
が残した日記には︑この日の記述があり︑正造の行動が理解出来る
︵日記四︱一︑﹃田中正造全集﹄第十二巻︑一九七八・一〇・二〇︶︒
︹一月九日︺ ○救済 いげの︹恵下野︺ハ六人︑五斗とあり︒
移帰り左︹佐︺山嘉平貰わず︑不在のため︒神原太蔵不在同断︒
堤内岡島藤松貰つた︒
北古川 間明田政次︹治︺︑間明田竹四郎一粒も貰わず︒内野
染宮長助同断︑今成房之助同断︑四人一粒貰わず︒
○亡国の顕象 去る三十五年迄ハ救済米の類及堤防費に不正あ
れバ犯罪となりたるに︑今ハ之を告訴せるもの却て入檻す︒
○四十三年のわたらせ川鉱毒多く来る︒谷中にも薪もの青き火
の出るものあり︒怪むべし︒一月九日北古川間明田粂次︹郎︺
のはなし︒
両者を合わせて考えることによって︑正造の行動・想念・思想の
立体性が明らかになるように思う︒その意味でも︑数は少ないが︑
新発見の資料は今後︑さまざまに活用されるに違いない︒この年︑ 一月五日と八日の記述の間には︑﹁○水災問題の性質 水災無経験
の問題︑鉱毒の弟なり︒水災衆皆経験あれども︑水のためしもある
ものハ水辺のみ︒一般国民の感情少きを以て病深からしむ﹂という
文章が書き付けられている︒尚江の抄録にも採用された︑印象深い
一節である︒その思いを支えるのが︑日記や書簡に記録された︑毎
日の地道な﹁治水行脚﹂ではなかったか︒
その他︑今回紹介する書簡の中には︑岡田虎二郎についてのコメ
ントも見え︑晩年の正造の思想を考えるに当たり︑見落とせない記
述も多い︒その詳細な検討は︑別稿を期さなければならないが︑資
料の紹介だけは︑この機会にしておきたいと思う︒
注
︵1︶ 最近︑それらの写真は︑堀内洋助写真集﹃再生の原風景︱渡良瀬遊水地
と足尾﹄︵二〇一三・一〇・二五︑東京新聞︶としてまとめられた︒正造
が見たらどう思うだろうと︑考えずにはいられない︒
*尚江のもとに残された正造の書簡には︑尚江宛のみのもの以外の書簡も
多く含まれている︒ここでは︑一括して尚江宛書簡として紹介した︒書簡
の翻刻に当たり︑宮坂康一氏の助力を得た︒難読文字の解読には︑宗像和
重氏の助力を得た︒なお︑本研究は︑二〇一三年度の早稲田大学﹁特定課
題研究
A﹂の成果の一部である︒
二二 新資料 木下尚江宛田中正造書簡︵﹃田中正造全集﹄未収録︶・ その2
1 一九一一年︵明治四四︶一月九日
逸見斧吉様・木下尚江様より御序︵東京日暮里金杉百五十五︶︹は
がき︺
九日 古河町田中屋方より 正造 谷中魚猟の減少 高砂内野へん昨年より三分一 下妻五分一 北古
川二十分の一いけの左山のへん十分一ニて島田のへん五分の一位と
のよし 人ニより少々ツヽはなし同しからざるも要するに北古川の 二十分一と申すハ甚敷減少ニ候 特ニ困り候 ○野木村より公然た
る印刷代払込なき其内容ハ条例を余りに怖れて罪をとのためなりし
とかに承り申候 困た人民ニて候 ○少年男女ハ男ハ染宮与三郎氏 の二男とりて十二年軽便ニして小心の性ニテ ○女子ハ水野定︵さ だ︶吉氏の妹十三年とりて十四年寡言静寧の性 ○昨夜水野氏の宅 の中ニ一泊して只今古河町ニ帰る ○此四県地より昨年迄の請願書
紛失水害のため書類紛失せり
2 一九一一年一月二十日
逸見斧吉様・同菊枝子様より御序・木下尚江様︵東京日暮里金杉百
五十五︶︹はがき︺ 十九日 栃木町より 正造
拝啓 其後水源視察にて本日も永野谷と申して栃木町より九里の山 中を回り入りて立戻り申候 当水源地入りの用ハ尚沢山なりしも妨
寒具不足のため一先出京︵外套用意のため︶其序ニ一男一女をハ谷
中より携へ参る心ニて今日ハ此栃木町ニ泊し明日夕まてに谷中ニ来
る日割に候 外套黒の古のハ島田翁に差上候まゝ尓来夏外套ニて但
し綿入胴着綿入多く寒いも人のよふニ寒くも無く候得とも冬外套な
くてハイカニモ寒むそふにて事実又暖かにも無し 回りの人夫が寒 かろふと申しますので却て気の毒ニ候 ○深山岩下ツテ降リテ瀑の
如く景色神を洗ツテ襟自ラ清シ
3 一九一一年一月二十日
逸見斧吉様・同菊枝子様より御序・木下御一統様方︵東京日暮里金
杉百五十五︶︹はがき︺
二十夜 うつの宮市旅舎より 正造
防寒の用意乏しきため一旦見合せたりしも思ひ返して今夜うつの宮
明日日光方面ニ罷出候 今夜うつの宮の旅舎ニての号外を見たり 特赦十二人の事見る事きく事皆涙ならざるなし 嗚呼
二十日夜
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降二三 4 一九一一年三月三日 逸見斧吉様 同菊枝子様︵日暮里金杉百五十五︶︹はがき︺
麹町中六より 正造
今朝の御説明ニて霊的呼吸の真妙なる常と申す一事ニて了解いたし
ました ありかたし〳〵 ○昨夜さし上候草稿ハ重複せる処多くて
困りましたけれとも不文筆ニて加減するを得す被成ハ木下氏にも御
一らんをねかい度 ○よりて此政治論なりとも治水の論として御ら んお願候 尚充分ニ御不赦相願申候 ○風邪ニ少々
5 一九一一年三月五日
木下尚江様︵府下千住町より三河島村字町谷二ノ八︶︹はがき︺
三月五日 麹町中六 島田氏方より
わたくし漸く出京一昨日よりハ麹町ニ来りて疲労今日も平臥ことし
本期問題の原稿未たまとまり兼て御内見を得るほとニ至らず次第に
困却申候ニ付逸見くん之ハいら〳〵申上候得ども右まて 一寸
6 一九一一年六月八日
木下尚江様 親展︵東京府千住南千住三河村字町谷二ノ八︶︹封筒
書留︺
明治四十四年六月八日后二時 茨城県猿島郡古河町 停車場休息茶 屋田中助次○昨日急き御めにかゝり兼ねて此長文認候 覚
一 七情調和の静座 二木氏と主義の相違の事 ︵信 不信ハ先入 主の関係也 博士崇拝︶
一 島田三郎氏の遊説政談の事 ︵予の例証一節︶
賢なるものハさとり遠からず 一 三ヶ年此の方の失策の事 ︵少々自白せしハ妙なり︶
一 党への出入り如何 ︵質問もありき︶
御はなしニよりて麹町ニ参りしに主人不在 奥さんニ向つて正造曰
く先日木下君一寸参上せしも来客多きため辞して帰りたり失礼いた
しましたよな心がするなり 奥さんより何か御はなしがまだあつた
よニ思わるゝからもし御もらしてもよい事ならば御聞き申して来て
くれと云われましたと申しました 一昨日また来客もあり電話も来 て落付かす 終ニ一泊いたしました 先生ハ夜ニ入り千葉けんより
帰られました
翌日別間ニての御はなしニ先日木下君ニ申上けたいと思つたのハ三
年斗り此方大同派なぞニ交渉して以来又入党なぞのときニ木下くん
より非常ニありかたい御忠告をうけて居るし毎日新聞譲り渡し当時
も木下君ニ御相談もなく事情切迫のため節ニ処理せしハ尤徳義上行
届ぬ次第てあつたとの自白的御はなしでした
二四
はなしハ取交ぜて予ハ岡田氏の七情調和主義は二木氏の形のみ肉の
みの健全法ニハあらず全く其根本ニ至りてハ天地の大差であるも
のゝ如くはなしました 奥さんニハ大ニさとる処あるらしくに見へ ました 尤主人公ハ目下家伝とやらの深呼吸勉強大ニ功ありそに申
して居りますからわたくしハ只左ニ申しまして其家伝もよろし二木
氏のもよろし其二箇が出来た上ハ必す新しき岡田君の精神の基礎ニ
付て御研究成就と申上けたり
七情調和の根本義ハわたくしより奥さんニ申上けたとき感せられた
よふニ見へました 妙ニわたくしのはなしも首尾整理してよく出来 たと覚へます 神学のものハ出来不出来あるを免ぬかれされとも此
はなしハよく出来ましたと覚へます
一 党への出入ハわたくし断案を申しません いつれ手紙にてと申 し置きました 但し横況が脱党を希望せハ一日も早く脱党よろしく
も政治家余り進退を軽く見せるもよしあしであるからと申しました
党ニ居らぬ方がよいとハ曽て正造も入党の前ニ申してある人ハ独り
が大きいので党ニ居れハ小さいですとハ申してあるけれとも今とな
り 又軽々しくのみ見へでも如何 六ヶ敷処です云々︵但し程度の
問題なれハ此くハ申せり︶
其他後任ハ土井嘉佑氏 之ハ郡部より候補に立つの計画ニて内実ハ 已ニ一二の同意を得たとのよし 其原動ハ島田氏が辞すると申せし
を以て土居氏ハ島田氏に気焔を添へんためならん云々
次に正造曰く 一 島田氏ハ議場ニ同志少しと雖広く平均して宗教家以外国民ニハ
信用が多い 河野広中氏と同して一般の信用ハたかく薄くても広い 此一般の信用なるものハ演説の云う力ニある 島田氏ハよく欺かれ
又よくかつがれ調法的ニ引き廻わされて演説ニ出て人に利用さる殆
んと他の狡滑者の調法物となるハ数十年の長いのである 先ツ選挙 の応援を証すべし 候補者首尾良当選せるの曉きハ島田氏ニ来らす して他ニ行くもの多し 之れを以て見ハ玩弄物視されたりと云ふも 可なり 然れとも公正ハ誣ゆべからず 茲ニ誣ゆべからさるあり
演説ハ地方ニ残り演説の声其議論の正道なる政治の正道なる明ニし
て公平なるものハ聴衆即ち多くの人民の頭まニ残り〳〵て積りて今
ハ山の如して故ニ此一般の人民ハ中々信用が高いのです
たとへ議場の勢力なくとも国民の社会にハ大信用家であつて他人の
左右すべからざるのである ○犬養氏ハ之れニ反して居る 此人ハ 一般の信用ありて然るものニあらず 只此人ハ中以上級の人物の心 をしり総揉して其人心をまとめらるつとむ 所謂むかしの軍学者北
条早雲の要領的籠絡語天下の事ハ克て英雄の心を得るにありで先ツ
議員を仮りニ英雄と見て此英雄の心を得るの一方ニつとむ 故ニ議 員中ニハ真の信用にあらざる現在的勢力あり 而も国民の一般ニ対 してハ信用も薄く勢力も狭し 注目せハ此人の流義ハ頗る階級主義 を無形的ニ上手にやるなり 又日本人の平均ハむかし流義多し 犬
養氏茲ニ於てむかし流義の英雄をしうらんするの術数を研究して
やゝ熟したる人なり 故ニ一般ニハ少しも信用なくしても勢力ハ甚
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降二五 た多し之れ島田氏と性質の絶対ニ反対する所以なり 只島田氏の国民ニ対 する信用は金銭や物件を以て売買するを得す 又短年月ニ製造する
を得されども犬養氏の信用ハ知謀ニして金銭ニて買へ得らるゝなり 又短日月ニて得んとせハ得らるゝなり 此意味を以て奥さんニハ短 く明ニ申のべました 此一説ハ恐れもなくのべました けれども此
手紙の文句の如く細説ハいたして居るひまありませんですから尚貴
君よりもよろしく御申添へ被下度奥さんの聡明ニハ服せりです 忽 ちニして悟る其速かなる流るゝ如し 只惜へかな此人ハ富者の家に
生れて暖ニ育てられ且ツ学校の官弊階級の基礎堅く又克く取捨と利
害に明かなるのが自ら自らを狭くするの原因ニもなり人をも軽んし
又内外雑費の嵩ミともなり申候 わたくし寸暇あらハ一〻可申上も
今回も亦貴下ニ面会の時間なく帰国いたすほどにて何とも可ともひ
まも手も足しもなし 予正造も徒らに忍ひ忍んで世の悪魔の愚弄を 被りツヽ奔走努力せるのみ ○岡田先生の如き秀てたる事富岳の如 き大人物を目前ニ見なから寄り付くのひますらもなしです 且ツ老
へて肉おとろいて哀し
精神ニ反きおもふ存分ニ動き兼て折角東京ニ来て居りツヽ上野の公
園に出席し能はさる時多し 之れを壮年にして肉盛んなるものより 見ハ何とも意趣の弱きものゝ如く見下けらるべし されとも他ニ俗
用ありて夫れこれニ縁れて専心ニして此霊所にすらも到るを得さる
なり 嗚呼世の俗人の多くが神妙霊妙に近ずかず近ツかざれハしる よしなしで徒らに修飾的眼前ニ人ニ見へるものニのみよりて富貴貧賎人格の分ちとまでニなすほとの迷ひ其深き此地獄ニ入りて尚をとらず地獄却て極楽なりとまてニ誤るニ到れるも一応ハ無理もなき時複雑なる無数なる事情の人類生活の種目ニて候 憐れ貴下ニハ社会
ニ広く御尽しの次第ハ諸般の形ニおゐても己ニ見る如処ニ候 其無 形の如きハしるものなし 貴下か無形ニ尽さるゝハもとよりニして
今更正造貴下ニ論へと申す無形上ニおゐてハ島田氏ニ対する今来と
もに可然一寸願候 本文中島田氏両氏の品評を加へたるハよろしか
らざるも此紛擾多事の世の中殊更老へたるものハ再回と申す断言も
出来す何事も御目ニかゝりしときのみ全く明日の事ハ難計ものなる
に昨日ハ此間ハつい御目ニかゝる余地なきため又此長文矢鱈ニ乱筆
のまゝ切迫せる事情の肝要な人道の一ツと存して拝啓せり 草々敬 白文中失言あらハ許せ 謹言 正造 四十四年六月八日 古河町田中や方ニて 木下尚江様
尚逸見様によろしく
7 一九一一年十月十七日
木下尚江様・御奥様・御同居人様まて︵東京南千住町三河島村大字
町屋二ノ八︶︹はがき︺
十月十七日
二六
拝啓其のち地方取込多ニて出京遅くなりまして御同居の御娘子ニ大
失礼いたしました よろしく御伝相願候 其内必す 出京いたしま す 娘をなくす厄業をさけんとして却て心配をかける立てます 何 んでも人ニ心配をかけぬよふニ 此手紙を見せて出来るだけハ手数 をかけぬよふニと御はなしきかせシテ被下度く わたくし飽まてせ わハいたします 此義ハ慥です ○わたくしの目下の用ハ谷中裁判 昨日開け 此事御しらせ ○関東河川しらべ未々済ます 切迫々々 ○地方の紊乱目下の救済 ○破憲の難問題谷中人道です⁝⁝書外拝
眉謹言8 一九一一年十月二十五日
逸見斧吉様・同菊枝子様より御序木下様まて︵東京日暮里金杉百五
十五︶︹はがき︺
下野うつの宮市より 正造 古来隆盛 昨日午后うつの宮より東京の芝の深谷弁護士方迄往復終
列車ニて昨夜うつの宮市に帰れり 其用ハ栃木裁判の件ニて候 う
つのみやヘハ谷中及治水上の人道に関し議員ニ用ありて此くの如く
歳月ハ流れ盗賊いよ〳〵独なり
9 一九一一年十一月三日
逸見斧吉様・同菊枝子様︵東京日暮里金杉百五十五︶︹はがき︺ 十一月二日さの町へんより拝啓 ○木下君より島田宗三氏への御書面ありかたき御事ニて候
此人この内ニて一人も人類らしきものを見度〳〵 今来ドウガナ御 力ラにより一人を要し申候 偏ニ御願ニ候 ○裁判ハ正造もろとも 欠席判決ニ付更ニ其手続中 草々頓着 10 一九一一年十一月四日
木下尚江様・石川三四郎様・安部磯雄様・逸見斧吉様︵東京千住三
河島町谷二ノ八︶︹はがき︺
辛亥十一月九日 正造 何んの必用何んの権利ニて我々を水せめニせしかの問あるべし 何
者ニ問ふべきか 問ふ処あり 社会同胞ハ広き被害地のため谷中人 民のために問ふべし 人ニ問ハすして天ニ問ふべきか 天ニ問ふも のあらす 天ニいのるものなり 敬白 11 一九一一年十一月九日
木下尚江様・同操子様︵東京千住より三河島村町谷二ノ八︶︹はがき︺
辛亥十一月九日 藤岡足町より 正造 爾来御起居如何 不肖事五日前ニ岡田聖教ノ門人ニして小山町ノ人
木下尚江と田中正造︑一九一一年以降二七 天野氏︵婦人ニ︶面会 精神を洗へたり下野の復活ハ此婦人の手ニ よりて復活の謂を開かれたり ○書余逸見君之の書御一見被下候 12 一九一二年︵大正元︶八月二十七日 木下尚江様︵東京南千住町より三河島村町谷二ノ八︶︹封筒 書留︺
御親展後 御序 同御奥さまも可然 壬子年八月二十七日 茨城県途上古河町より 田中屋助次方
○地方の万事ハ皆予正造の身の卒別となり 出来不容席されハ慈ニ
古人曰ク道ちを同ふせされハ相共ニ図らすと
島田三郎君の如き純良の心淡泊の意正当の精神を以てハ迚も〳〵今
日の人情をしるべからず 断して此民情をしるべからす 又断して 悪魔の術数をしるべからす 但し島田君のみならす何人ニもしるを 得さる点も多し 其悪魔自らも亦悪事の全般をしらず 為す事ハ局 部ニここして成蹟ハ纏めて大々なり 故ニ善人ニも悪人ニも全体の 真相をしるを得ず 無我夢中ニ於て国家も社会も今日のありさまニ して而モ尚悟らさる如し 偶さとるものあるが如きも是亦けして社 会の全面をさとりたるにハあらざるなり ケニ各々解釈を異ニして 清しとても狭き細き光りを放てるのみ かれの怒涛の如き勢々を以 て崩れ又崩れツヽあるを奈何すべからす 此時勢ニ当りてパンのみ
を以て生けるものニあらずの言葉をして真実ニ決行して行くもの義
人にあら我国ニ於てハ一ニ聖ノ形と実とを備へしモノヽ外 社会殆 んとゼロならん 然れとも此社会の紊れた風教の挽回人生精神の根
拠ハ此一言ニありて人類ニおゐて減ニ然らさるを得す 而モ他ニ何
等の云々を以てせるも独り寸毫の功力なきのみか却て皆後の災とな
れるのみ 予ハクレ〳〵モ亦島田三郎君を引用して日本古部面を左 右する今日の政治界を悲めり 予ハ構て以て細き光りニ大々なる決
心を以て只悲んて止まさるものなり
大正元八月二十七日 木下尚江様 茨城途上より 正造 二日 旅行中の書極めて乱筆ニ候