領土問題と大日本帝国憲法
岡 本 公 一
Territory, Expansionism and the Meiji Constitution
Koichi OKAMOTO
Abstract
As a preliminary work for a comparative study on Japanese and American colonial- ism, this article intends to analyze the Japanese notion of territory before the Japanese colonization of Taiwan through the examination of various constitutional drafts.
Until the Meiji Constitution was issued in
1889, ordinary people as well as intel- lectuals, government officials and politicians had composed many constitutional drafts. In most cases, the texts and concepts of the drafts were taken from the Western constitutions.
Still, although it was a vital component in the Western constitutions, as well as some of the Japanese drafts, the significance of lack of territorial clause in the Meiji Constitution has received less attention.
In this article, first, territorial definitions in constitutional drafts in the
1860s and
70s were discussed. Particularly, along with the historical process to define national border, AOKI Sh
ūzo s drafts were thoroughly analyzed, since these were based upon the notion that national territory could be expanded or shrunken. Even Japanese colonialism was in sight.
Second, the exclusion process of territorial clauses from the Meiji Constitution was traced. By accepting Hermann Roesler s advice, ITO Hirobumi excluded a territorial definition of the Japanese Empire. The main reason for this was the Constitution relying on the historical myth of Japan as emperor s soil, in conflict with the modern explanation of national territory as an unfixed tentative.
Less attention to a legal territorial definition did not indicate that Japan was not
expansionist. In fact, the expansionist tendency appeared through Japan s modern state-
大日本帝国4 4憲法において,領土規定,いわんや領土拡張,植民地領有手続に関 する規定はない。「立憲政体の詔書」が出された翌年九月六日,元老院への国憲 草案起草の勅語で,「廣ク海外各国ノ成法」を参照して国憲草案を起草すること が求められている1。欧米列強は,植民地宗主国であり,多くの国が成文憲法に よって領土規定を持ち,加えて植民地の規定に関しても備えていた。にもかかわ らず,大日本帝国憲法草案を作成する過程において,これらの条項は如何に参照 され,何故に捨象されていったのであろうか。本論では,比較植民地論の前提と して,近代日本が領土拡張を行い,植民地宗主国となるに至るまでの領土につい ての概念を,様々の憲法構想,そして大日本国憲法制定過程を通して分析する2。 幕末の開国以来,不平等条約の下,如何に独立を維持し,かつ不平等条約を廃 棄して主権を回復するのかが,国家としての日本における切迫した問題であり,
「外圧」の存在をより積極的に評価するならば,まさに「植民地化」の危機に瀕 していたのであった3。しかし,当時の支配層,知識人が不平等条約体制下の中 国の惨状に対する認識はあったものの,制度としての植民地,つまり宗主国とし ての欧米列強が新しい領土に対し統治権を行使するためのシステムに対し,どれ ほどの理解があったのかは疑問である。新渡戸稲造が指摘するように,幕末にコ ロニーの訳語として創出された和製熟語である「植民」あるいは「殖民」は通俗 的に流布するものの,「拓地植民」の熟語より生まれた拓植こそが公式に用いら れることとなる。そして植民の語は,他地域への人の移動,定住を意味する語と なり,その背景となるイデオロギー,制度を含意する言葉であることを想定はし ていない。この点で,新渡戸は,
植民なる語は単に欧洲諸国語の訳字以外にある主要なる観念のを言外に保有 するものの如し。此点に於いては恐らく新領土,新版図等の文字が表明し得 るよりも更に一層深甚なる意味を含有することを得可く,領土等の文字が主 として重きを土地に置くに比して遙かに優れたる観念を与ふ可きなり4。
building process. The missing of territorial clauses was the causes of later confusion in the
acquisition of new territories. Consequently, this shows the critical conflict between the legal
justification of Japanese colonialism and national polity.
文明の拡散という強力なイデオロギー的正当化と,近代の帝国主義運動の一つの 帰結の表象であるコロニーという語の持つ,そのような重要な含意を捨象し「拓 地植民」として自国の拡張のみに意味を矮小化してしまったことは,日本が領土 を戦争を通じて獲得する段階に至り大きな混乱を引き起こすことの原因の所在を 示すものである。
しかしこのことを検討する前に,ここで注目したいのは,そもそも日本の独立 が最重要の課題であった時期には,将来,自国が帝国主義国家として植民地支配 を想定することがなかった。換言するならば国境の変更や,新領土の獲得を未来 に見据えて国家構想が為されなかったことである。このことは,日本が明治初期 に帝国主義的でなかったと述べているのではなく,まさにこの点に無自覚であっ たこと,換言するならば,西欧列強の不可欠な一要素である植民地主義を不平等 条約や単なる領土拡張運動の問題に限定してしまい,支配−被支配の問題,延い ては植民地宗主国の国家体制と,それを正当化するイデオロギーの問題などには 考えが及ばなかったことを示している。
本章では,日本の植民地政策を考える前提として,明治前期の憲法構想に焦点 をあて,起草者の植民地,領土・国境への認識,またその不在について論を進め たい。
開国・文明開化・憲法
誰が,どの様な手続きを経て,いかなる内容の権限を国の名において行使しう るかを定めるルールを実質的意味の憲法というならば,この憲法なしには国家は 存在しない5。そして,そこでは権力を行使する者が,恣意的に権限が及ぶ領域 を無制限に拡張するものではなく,ある共通の権力行使に関する了解がそこに存 在する。そしてその確認,取り決めを言葉として記すのが,形式的意味の憲法,
成文化された憲法典である6。
明治初期には,立憲制の確立は,文明のひとつの到達点を示す目標であったと ともに,それが西洋列強の「力」の根源であるとの認識は,政府,在野を問わず,
衆目の一致するところであった。それ故に,朝野を問わず多くの憲法草案が起草
されることとなる。これは,「日本」を一つの約束事によって統一するという,
ナショナリズムの表現でもあった。しかし,その一方でその範を欧米の憲法に求 めるという,文明開化の動きの一つとも位置づけることが出来よう7。
しかし,ナショナリズムの勃興と,それに付随する領土拡張運動の相におい て,此の憲法草案を分析するならば,そこにはモデルとなった欧米憲法との差異 を見出すことができる。即ち,国家の三要素といわれる主権・国民・領土のうち 憲法草案からは領土の規定が多くの場合欠けているのである。また,領土の規定 がある場合でも,それらは新たに領土が加わることを想定はしていなかったので ある。
一八五三年の「黒船」来航と,その後の開国に伴う一連の激変を経る過程で,
幕藩体制は大きく揺らいだ。そのような幕末期,幕府の維持を前提として,国家 体制,権力行使のルールを明文化した数種の憲法草案というべきものが起草され ている8。それらの文章に共通するのは,欧米の憲法を範として,幕政の改革,
将軍を中心とした立憲政体を構想したことであった。
領土問題に目を向けるならば,不平等条約の領域を所与の前提としており,ま た植民地化の危機意識はそこには見られない。これは欧米の憲法をモデルとした ことにもよるのだろうが,一方で将来の領土拡張にも言及されていないことか ら,国境という意識が,国内的な藩と藩の境界というレベルにとどまっている点 に,ナショナリズムの当時のありようも垣間見ることができる。
例えば浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)は,外国奉行阿部正外に「国体」と題する 文章を提出している9。この文書は,滞米一〇年,一八五八年に米国市民権を獲 得した浜田が,アメリカ憲法を念頭に置きながら幕藩体制の枠内で立憲体制確立 を提言したものであった。「人民主権を遠望するもの」との評価もある10。タイ トルの「国体」とはまさに,国家体制を意味するものであった。
その一方で,領土・領域に関しては,特段の注意が払われた形跡がない。この 時期アメリカでは,「マニフェスト・ディスティニー」の名で形容されるイデオ ロギーのもと,一八四〇年代以降領土を拡張してきた一方で,南北戦争という 国内を二分する戦争が行われていた。このような状況を踏まえるならば,「日本 六十餘州」(第一ヶ条)すなわち五畿七道に壱岐・対馬を合わせた領域を日本全
体と規定したことは,漠然とした古来からの観念で領土を固定的に捉える考え方 から,浜田をしても自由でなかった。一方では,不平等条約の下でも,列強によ る領土割譲の危機などが念頭になかったことを示しているといえる。確かに「国」
(=藩レベル)において,外国と条約を結び,あるいは戦争することを禁じては いるが(第十二・九),「異国」「外国」に対する「日本」は,立憲制度の下では,
無前提に一体化した存在として捉えている。アメリカの情勢から想起されたであ ろう,国家の領域が流動的である可能性を常にはらんでいる点に,注意は払われ なかったのである。もっとも,アメリカ憲法も議会に新しい州を加えることの承 認,あるいは離脱を認める権能を規定するのみで,アメリカという国の地理的領 域を規定した条文はない11。しかし,いずれにしても,アメリカの国境が可変的 であることは,憲法が想定している。
幕府存続を賭けて最終局面であり,日本国内の統一が最優先の課題であった時 期においても,津田真道や西周など当代随一の知識人にして,幕藩体制の中で立 憲性を構想した場合,「国」とは日本内部における藩レベルの領域のことでしか なく,その決定は,あくまで日本領域という前提が存在しての内部問題であった。
欧米での留学あるいは欧米人より教育を受けた経験を持つものでさえ,幕藩体制 の桎梏の下にあったといえる。
明治になり,より様々の西洋の文物が流入してきた時期,日本及びその国境は どの様に規定されてきたのであろうか。この点で先ず伊藤博文が後に学んだプロ シアの憲法学者・グナイストの教えを受けた青木周蔵を分析してみたい。
岩倉遣外使節団に加わった木戸幸一のため,プロシア留学中で外務一等書記 官心得に任ぜられていた青木周蔵は,一八五〇年のプロシア憲法をモデルとし て「大日本政規」を起草し,一八七三年の秋に、これを木戸に送付した12。そし て翌年の帰国中に「政規」に修正を加えた「帝号大日本国政典」を起草してい る13。この間,板垣退助・副島種臣らが「民撰議院設立建白書」(一八七四年一月)
を左院に提出しているのであるが,青木の「政典」は,民撰議院を含まず,官選 議院のみ構想されており,基本的に一貫して政府の意に沿った内容となってい た。ただ,「政規」には重要な修正が加えられ,元老院の新設など内容が含まれ ていたことは看過できない。「近代憲法としての重要な考え方がかなり多く採り
入れられて」おり,「文明開化時代の歴史的状況を離れては理解しがたい」もの であった14。
この時期日本は,隣接諸国や列強との間で国境画定のただ中にあった15。プロ シア憲法がそうであったように,「政規」も,先ず最初の条文は領土の規定から 始まっている16。
第一編 国境
第一章 現今帝国ニ附属スル諸州諸島ノ土境ハ即チ日本國タルベシ 第二章 但シ右土境ノ境界ハ啻ニ政務両極ノ許可ヲ経テ変革然ルベシ
青木のモデルとしたプロシア憲法も,領土の規定は第一条,第二条に記され,以 下のように規定されている17。
第一条 凡我カ王国ノ土地現今区域中ニ在ル者普露西国ヲ成ス 第二条 普露西国ノ疆界ハ法草ニ由ニ非レバ変改スル ヲ得ス
「政規」の条文は,ほぼプロシア憲法の条文を翻訳したものということができる。
ただここで注目すべきは第二条である。元老院の付したプロシア憲法第二条の注 釈には,以下のようにある18。
其ノ已ムヲ得ザル時ハ必ス議院ノ公儀ヲ経テ初メテ変改スル ヲ許ス故ニ 国王ハ和戦ノ権アリテ割地ノ権ナシ
即ちこの条では封建領主が自らの意志によって定め得た領土という概念ではな く,議院の承諾を得なければならないとされている。加えて元老院は,その例と して止むを得ない戦争による領土の変更に言及し,植民地獲得などのことは想定 されていない。
一方,青木の「政規」では,国境は法律ではなく,「政務両局ノ許可」である。
(「政務両局」とはこの場合,「第三編 政務」の内容からして,「皇帝」と「議
院」を指す。)「両局ノ許可」と「法律」の規定上の差異は,領土変更の条約の承 認が,その後の法的手続きを経ず即時的に国境線の画定となる。歴史を例にとる ならば,日清戦争後,台湾・澎湖諸島を割譲に関して,いかなる立法措置によっ て当該領域が日本の版図となるかの議論があった。憲法改正まで視野に入れた論 争も,「政規」の条文からは生じない。
加えて,条約締結も皇帝の「全権」であり全国に公然と布告する義務はあるも のの(第卅三章),批准のプロセスは記述されていない。「典則」(=法律)の制 定に関しても,議会の「参与」を述べるにとどまっており(第廿六章),官選議 院を規定した事を想起するならば,実質的には,皇帝,即ち封建領主の如く天皇 が決定権を有する仕組みが形成されている。日本の国境が隣接諸国との間で,未 だ確定しない状況で,この規定は当時の領域の伸縮を容易にするものであった。
「憲法制定理由書」に青木は,「我帝国に在りては,独り君主の良意を以て民意 に代え」「専壇を制し,人民を文明に指導せざる可からず」と記し,天皇に領土 の権力を集中させたことは理解できる19。しかしながら,「政典」では,プロシ ア憲法と同様,法律によるとの修正が成されている。
第二章 日本国ノ境界ハ法律ニ由ルニ非レハ決シテ之ヲ変革スル 能ハザ ルモノトス
「征韓論」により政府が分裂し,青木によれば「政府は終に,薩人一派[鹿児 島県出身者特に西郷党]の不平を慰するの手段」の「台湾征討」が帰国直前に議 決され,「些々たる問題のために支那と事端を開く」ことを畏れている20。青木 の帰国中は,まさにこの台湾出兵が最大の外交案件であり(和議の成立は同年 一〇月三一日),この状況下で「政規」の改訂が進行したことを考える必要があ る。
プロシアにとっても,普仏戦争に勝利したとはいえ,常に戦争は領土喪失のリ スクを伴うものであり,プロシア憲法は従前にそのことを想定したものであっ た。天皇と議院の同意という曖昧な状況を創出し,天皇にこのような禍の累が及 ぶような仕組ではなく,「政規」に比して,責任を分散したシステムとなったと
いえる。換言すれば,戦争の危機に直面して国境に関しては,よりプロシア憲法 に近接したということである。そして,プロシア憲法原文では,「法律によって のみ改変される」とあるにもかかわらず,否定形を用いたところに,レトリック の問題を越えて,領土縮小の危機感をうかがわせるものである21。
稲田正次は「政規」について青木周蔵は,「プロイセン憲法にならっている點 頗る多く,また巧みにこれを取捨している」と評している22。そうであるならば,
なおさら「政規」と「政典」との間の変更は,当時の日本の状況から離れては理 解できないものであろう。青木の意図したことは窺い知ることはできないが,少 なくともこの草案のテキストの比較を通して,国内の混乱を通した国家独立の危 機感を感じ取ることはできる。また,この青木のプロシア憲法からの引用は,政 府・元老院の憲法草案へと受け継がれていく。
元老院の憲法構想
一八七三年「政韓」論による政府の分裂により,明治維新の中心をなした指導 者層は朝野に別れた。翌年一月前参議後藤象二郎,板垣退助,江藤慎平,副島種 臣等は,所謂「民撰議院設立建白書」を左院に提出した。これは薩長の政権独占 への批判であるとともに,国会開設運動の起点となる文書でもあった。一方で,
先にも述べたように西郷隆盛を中心とする政府への不満分子への妥協策でもある 台湾出兵,それに反対する木戸孝允の辞職など,政府の基盤は大きく揺らいでい た。
この政府の分裂状態を修復するために,政府指導者,下野した人々が大阪に集 い,一八七五年一月から二月にかけて会談が開かれた。大久保利通,木戸孝允,
板垣退助,伊藤博文などの参加者は,各自異なった政治的目標を持ちつつも,会 議の結果は,漸進的立憲主義を政治路線の中止に据える妥協が成立した。それを 受け,同年四月一四日,漸次立憲政体樹立の詔書が出されることとなった23。
茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ,大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏ク シ,又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ,漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ
立テ,汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ント欲ス。
この詔書を以て太政官政の左院と右院は廃止され,左院の建物・書類を受け継い で元老院が設置された24。同年一一月には「元老院章程」が定められ,その第一 条に「新法制定舊法改正ヲ議定スル」という権能が付与された。但し,第四条に は「議案ハ勅命ヲ以テ内閣ヨリ交付ス」とあり,立法府としての独立性は欠いて いた25。
翌年九月六日,元老院への国憲草案起草の勅語が出されている26。
朕爰ニ我建国ノ體ニ基キ廣ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シテ以テ國憲ヲ定メント ス汝等之カ草案ヲ起創シ以テ聞セヨ朕將ニ之ヲ撰ハントス
ここでは「廣ク海外各国ノ成法」を参照して国憲草案を起草することを,天皇自 ら正当化したことを意味している。即ち,天皇の権力に関して,法的に基礎づけ るモデルを特定のスタイルに限定するのではなく,欧米列強の様々のモデルが構 想されうる可能性を生み出す程度には,文明開化の潮流は日本を自由にしたとい えるであろう。加えて,当時イギリスが西欧において最も隆盛を誇った国であっ たとして,天皇が元老院に下賜した書籍が,イギリス議会政治についてのもので あったことも興味深い27。立法府としての元老院が,独立性を謳歌できないにし ても,国憲の起草課程に於いては,自由裁量の範囲は大きかったと言える。青木 周蔵などが木戸孝允に対して,イギリス型ではなく,プロシア型の国家構想を示 していたのに対し,天皇のサイドは,この時期イギリス型の国家体制を未だ受け 入れる余地を残していたことを物語るものである。
勅語を受けて,同年一〇月に第一次草案である「日本国憲桉」,それを 改定し,一八七八年に提出された第二次案,そして一八八〇年に最終案が完成して いる。本来からすれば,日本最初の近代欽定法の礎となるべきこれらの草案が,そ のイギリス的立憲君主制の要素を多分に含んでおり,政府の思惑とは異なっていた ため,新たなプロシア型憲法構想に改変されていく過程については,最終案完 成後の歴史が示すところである。
政府が選出した委員の下でこのような草案が作成されたこと自体,興味を引く 問題ではあるが,既に多くの研究が蓄積されているので,ここではこれ以上に論 究は行わない。
さて,国境に関する規定は第一案では以下の通りである28。
第二編 帝国
第一条 凡ソ我帝国ノ土地現今区域ノ内ニ在ル者日本帝国ヲ成ス 第二条 帝国州邑ノ疆界ハ法律ニ由ルニ非ザレバ之ヲ変為スル ヲ得ズ 第三条 藩属地ノ政治及ビ事務ハ別段ノ法律ヲ用ユ
第二次案も,第二条の「州邑」を,より日本の当時の状況に合わせた「府県道国 郡区」と改訂されたのみで,ほぼ第一次案を踏襲している。
第一条,第二条に関しては,一見,青木周蔵の案文同様,プロシア憲法を参照 して国境規定を行っているようであるが,実際は第一条で日本国の領域を,第二 条では青木のように将来の日本の対外的国境を規定するのではなく,あくまでも 日本国域内での境界を問題にしているのである。つまり,青木における,あるい はプロシア憲法における「国家」が,封建制下の「日本」の藩=「クニ」レベル に矮小化されてしまっているのだ。この外国から移入された条規の第一条,第二 条の読み替えは,第三条によって補訂されている。では,第三条は何を意味して いるのであろうか。
「日本国憲桉仝準據書目」は「国憲桉」の各々の条文が,どの欧米憲法の条文 を参照したのかを示している。この第三条は,オランダ憲法第五九条,第六〇条,スペイ ン憲法第七九条,フランス憲法(一八一四年)第七三条,フランス憲法(一八三〇年)
第六四条の増補律例第一五条を参照したことが記されている29。これらの条項は,
各国の植民地の位置づけを示した条文であり,対照すると,特にオランダ憲法か らその用語,条文はスペイン憲法及びオランダ憲法から借用していることがわか る。スペイン憲法第七九条では「海外ノ属州ハ別段之ヲ統治ス」とあり,またオ ランダ憲法五九条では「欧州外ニ於ケル藩属地及ヒ所属地ノ統管ハ国王ニ属ス」
と記されている30。即ち藩属地とはコロニーの訳語であり,当時植民地を持たな
かった日本が,植民地統治を想定した条文を扱っていたこととなる。これは単に 海外の条文を直輸入したがために起こったことではなく,「廣ク海外各国ノ成法 ヲ斟酌」した結果であり,少なくともこの草案起草者は,この時期から二十年,
三十年後の台湾・朝鮮植民地統治に際して論争となった憲法適用問題に対する解 答を持っていたことになる。
この第一次・第二次の草案は,岩倉具視を中心とした政府のみならず,元老院 の議官からも批判を受けている。批判の中心はイギリス式立憲主義と日本の「国 体」とが相容れないものであるという主張である31。この批判が所謂岩倉がプロ シア型の漸進主義を示した一八八一年の「綱領」に連なっていくのである。一方 で元老院は最終案となる第三次案を一八八〇年七月上旬にまとめた。国境に関し ては「藩属地」の規定が消えて,二条となった32。
第二編 帝国
第一条 帝国ノ土地疆域内ニ在ル者日本帝国ヲ成ス
第二条 帝国府県郡区ノ疆界ヲ変為スルハ法律ノ定ムルトコロトス
従前の二つの草案にあった植民地とその統治に関する規定は消え,一方で「現今」
の区域を日本とするという規定が「帝国ノ土地疆域内」となり,憲法それ自体が 領域を規定することはなく,帝国の「土地疆域内」という将来,如何ようにでも 解釈できる余地を残すものに改変された。つまり植民地,あるいは属地を当時の 支配地域を超えて獲得した場合,「帝国」の領域の一部となり(但しこの手続き については明確ではない)。日本国の一部であるこの拡大された地域には,当然 にこの憲法が施行されなければならないという議論の火種を作る論理構成となっ ている。政府により大きな裁量権を与えることは,一方で数多くの問題を先送り にする結果ともなり,植民地問題に関しては,その明瞭な方針から後退したとい えよう。
伊藤博文の憲法構想
一八七〇年代の後半から一八八〇年代初頭にかけて数多くの憲法草案が,官民 問わず起草されている。領土規定に関しては,プロシア憲法のように地名を列挙 したもの,植木枝盛の「日本国々憲案」(一八八一年)における連邦構想。西周 の「憲法草案」(一八八二年)における「属嶋」を「デパンダンス」(
Dependency
) と称し,本州・北海道・四国・九州を日本,千島,佐渡などの「属嶋」部を含め たものを「大日本」と称するなどの案が出されているが,そのような国境規定を 記したものは,少数である。そしてそれはあくまでも国内的規定であり,元老院 の第一次,第二次草案のように,将来の領土拡張,植民地獲得を見据えた形での 規定は,全く見あたらない。例外的に,西周が「憲法草案」において天皇大権に 関し,「天皇ハ国会ノ許諾ナクシテ他邦ノ帝位王位ヲ踐ムヲ得ス」とあり,国会 の承諾を得て別の法体系下の地域を支配する規定が示されている33 。これはイギ リス国王がインド皇帝を兼任するように,天皇大権が国境外の地で行使される場 合は国会の承認が必要であり,ここから植民地支配のありかたも,国会が決定で きるというシステムが記されているが,その詳細は明らかではない。つまり自由民権期の憲法草案の特徴として官民を問わず,国内の権力を如何に 配分するかに重心が置かれており,国家の領域の問題は二次的な取り扱いであ る。換言するならば,国権論が具体的な憲法草案に反映されて条文を形成するこ とは,明確には見出せないのである。
自由民権運動の昂揚と,国会早期開設と議院内閣制を構想した大隈重信の国会 開設奏議は,伊藤や岩倉など明治政府の中枢に,大きな危機感をもたらした。岩 倉は,これに対抗すべく,井上毅起草により,憲法制定に関する基本方針をまと めた。この意見書においてプロシア型の欽定憲法,広範で強大な天皇大権などが 起草されている。その文書中,憲法起草に関する細目を記した「綱領」には以下 のようにある34。
一.大臣執政ノ責任ハ根本ノ大政ニ係ル者(政体ノ改革,疆土ノ分割譲与,
議院ノ開閉,和戦ノ公布,外国条約ノ重大事ノ類ヲ根本ノ大政トスベキ
歟)ヲ除クノ外,主管ノ事務ニ付キ各自ノ責ニ帰シ連帯責任ノ法ニ依ラザ ル事。(強調は引用者)
この一条により,領土領域の変更は,内閣,政府に依るのではなく,天皇大権に 属する事が明確に示されている。しかしここで注目すべきことは,領土の「分割 譲与」のみに言及し,拡大獲得についての言及がない点である。一八七九年の所 謂「琉球処分」により,沖縄県が設置され,当時の日本の指導者には,これ以上 領土拡大をしたり,新たな領土を獲得するという想像力が欠けていたのであろ う。
この文章の起草者であった井上毅は,一八五〇年のプロシア憲法をベースとし た「憲法草案」を翌年作成している。領土に関する条項も,プロシア憲法同様冒 頭の第一条から三条までで規定した。しかしながら,天皇大権に属した領土の変 更は以下のように改変されている35。
第一條 凡ソ我ガ八州ノ土壌並ビニ明治□年定ムル所ノ北海道ノ疆域ハ嗣今 両院ノ議ヲ経タル法草ニ依ルニ非ザレバ分割変更スベカラズ
領土の分割変更は,勅命により組織される「元老院」と「民撰議院」からなる立 法府の承認(第二十八条)が必要となる。青木周蔵,元老院案と共通するプロシ ア憲法に対する理解が反映され,天皇大権と議会主義との間で国境規定に関して 振動していることがわかる。
伊藤博文の憲法草案と領土規定
明治十四年政変,明治二十三年までに国会開設の旨の詔書が出され,翌年,伊 藤博文は憲法調査のため渡欧する。そこで,ドイツやオーストリアの憲法学,国 法学者との交流を通し,強大な天皇大権を損なわずに立憲君主制,議会制度につ いて知見を得ることとなる。その伊藤が教示を受けた学者の一人であるオースト リア・ウィーン大学の国法学者ローレンツ・フォン・シュタインは,憲法草案を
起草している。伊藤が明治憲法起草課程では参考にされなかったと推測されてい るが36,プロシア憲法を参照しつつも,日本における憲法草案と相違があること は興味深い。「スタイン氏憲法草按」の第一章国土の第二条には以下のようにあ る37。
国家現在ノ各地方ハ,一部分タリトモ議会両院ノ承認ヲ経ズシテ売却ス可カ ラズ,又他ヨリ新地方ヲ合併ス可カラズ。
ここでは,割譲のみならず,領土の拡張,併合が視野に入りっている。これは当 時,ドイツが南太平洋やアフリカにおいて植民地を獲得し始めた一八八〇年代半 ばの状況と軌を一にしているといえる38。
伊藤がドイツ・オーストリアにて憲法調査を行ったのは,まさにこの直前の時 期であった。しかし,伊藤のもっぱらの関心は国内における主権のあり方であり,
憲法による強大な天皇大権の保障であった。具体的な憲法起草課程において,領 土規定,換言すれば植民地主義の影は,如何に見て取れるのだろうか。稲田正次 の詳細な記述に基づきながら考察をしたい。
明治憲法の起草配当が憲法調査を終え一八八四年八月に帰国39。直後の九月 一九日,憲法綱領に付き奏聞,翌年二月二九日には宮中に制度取調局の設置を奏 上,翌月一七日,伊藤が制度取調局長として憲政準備のための諸制度の取り調べ 機関が完成するに至った。翌八五年一二月には,議会開設に備えて,官僚制度,
地方制度の整備,確立を図った40。このような憲政制度確立の中心にいた伊藤が 憲法起草の中心にいることは当然の成り行きであった。
実質的な憲法起草は,伊藤博文を中心として,井上毅,伊藤己代治,金子堅太 郎とともに一八八六年秋頃から始まり,最終草案は一八八年四月にできあがっ た。稲田正次はこの起草機関を四段階に区分している。第一段階は一八八七年四
/五月頃,井上毅が考案乙案の二草案を作成し伊藤に提示した段階。その後伊藤 がこの両案およびヘルマン・ロエスレルの「日本帝国憲法草案」(一八八七年四 月三〇日起草)を参照し,夏島修正案が出された第二段階。この夏島修正案に対 し,井上,ロエスレルが意見を付し,先の四名で再修正案を作成した第三段階,
これに推敲を重ねた成案が一八八八年四月に完成する。これを最終の第四段階と した41。
先ず第一段階での井上の案において領土は,甲案第一章根本條則第四条,及び 乙案第二章国土国民第八条に同様の条文が掲げられている42。
日本帝国ヲ組立テタル現在ノ疆土及附属ノ島嶼ハ統一ノ版図ニシテ永遠分割 スヘカラズ
稲田によるとこの条文はウェルテンベルグ憲法の規定に倣ったものと推測してい る43。
一方ロエスレルも「日本帝国憲法草案」を脱稿した。領土規定については特に ないが,第一条の前半部には以下のようにある。
日本帝国ハ万世分割スベカラザル世襲君主国トス
この部分はバイエルン憲法より範をとったと稲田は指摘している44。この条文は 直接に領土を規定したのではなく,その不可分を述べたにすぎないものである が,井上案との共通性とともに,両者とも日本領域を具体的に明示することなく,
既にそれが彼らにとって所与の前提になっていたことを示している。
これらの井上両案,ロエスレル案参照しつつ,伊藤は井上甲案を添削,改訂を 施し,領土条項に関し,以後夏島修正案となる条文,第九条を以下のように記し ている45。
日本帝国ノ疆域ハ現在ノ統一ニ属スル版図タルベシ
国境ノ変更ハ専ラ法律ニ依ル(「天皇ハ特典ヲ附與シ各場合ニ於テ法律ヨリ 特免スル」)
とまで記した。しかし伊藤は,これを削り,さらに甲案第四条の修正案として
日本帝国ヲ組立タル現在ノ疆土及ビ附属ノ嶋嶼ハ統一ノ版図ニシテ永遠分割 スヘカラス(第二項)而シテ国境ノ変更ハ法律ヲ以テ定ムルニ非サレハ其ノ 効ヲ有セス
との条文を一度は掲げたものの,これも削っている。伊藤が領土,国境に関する 各文をめぐり逡巡している様子がうかがわれる。この条文における天皇大権の位 置づけと,島嶼を明確に日本の版図に条文として組み込む点が伊藤にとって中心 の問題であるということがわかる。しかし結果的には井上甲案・乙案の字句修 正,内容の追加が吟味されたものの,元老院も依拠したプロシア憲法のごとき条 文となり,夏島草案(八月草案)第一章根本條則第三条には削除前の,最初に自 らの草した条文が現れている46。
この夏島草案に対し,ロエスレルと井上毅がそれぞれ「憲法草案修正意見」及 び「逐条意見」を伊藤に提出している。ロエスレルは草案中の領土に関する第三 条について以下のような批判を加えている47。先ず前半部の「日本帝国ノ疆域ハ 現在ノ統一ニ属スル版図タルベシ」に対しては,ベルギーのような新独立国は州 名まで記載が必要であろうが,日本帝国にあっては領土は「明々白々更ニ疑ノ容 ルヘキナキ」ことであって,明文を設ける必要なしと述べている。また「国境ノ 変更ハ専ラ法律ニ依ル」としたことに対しても,国境の変更は列国との交渉によ るものであり,そもそも議院の権限ではないのであり,宣戦講和による変更も
「議院ノ議決依リ左右シ得ベキモノアラス」と記している。加えて議院の決議を 経ずして「宣戦講和訂盟」をなすことは「王権ニ反スルモノト認メリ」として,
この部分を批判している。更に,ロエスレル自身の草案に見られる領土不可分の 規定についても,特に必要ない旨を指摘している。
夏島草案を基にして一八八七年一〇月には,井上,ロエスレルの意見を参考に した新たな草案が作成される。そこでは,第一章根本條則は天皇についての章と 統合され,ロエスレルの意見を採り入れ,領土条項は削除されている。以後領土 についての条文は憲法草案には現れることはなくなった。
枢密院での議論
一八八八年四月に憲法草案が完成し,天皇に提出,憲法草案を討議する枢密院 が伊藤を議長として翌月に開院。皇室典範の審議を経て,六月一八日より憲法案 の審議に入った。冒頭議長の伊藤より憲法草案の「大意」の説明があり,その後 各条の検討が行われた。第一条の天皇の統治権を規定している条文を論ずるに際 し,佐野常民顧問官から領土に関する質問が発せられた48。
此始メノ處ハ欧洲各国ノ憲法ニハ国土ノ事ヲ載スルヲ例トス素ヨリ日本帝国 トアレハ古来ノ国彊タルハ論ヲ待タスト雖永ク子孫ニ傳フル元質タル者ハ従 来ノ国彊タリトノコトハ示サレス其理由如何
憲法草案に領土規定を組み込まなかったことについて,冒頭から質問が成され た。此の質問に対して,井上毅報告員は以下のように説明している。
成程各国ノ憲法ニハ国土并ニ各州マテモ列舉スルアリ已ニ草案取調ノ際ニモ 一問題トナリシト雖モ,精シク各国憲法ヲ調査スルニ或イハ舉クルアリ舉ケ サルアリテ一様ナラズ而シテ其之ヲ舉クル者ノ中荷蘭,白耳義ノ如キハ国州 マデモ舉ケ普国ハ現在ノ疆土トアリテ畢竟其之国ノ事情ニ因リ必要ニ應シテ 書方を異ニセリ知ラルゝ如ク荷蘭ト白耳義ハ元一国ナリシカ後割カレテ二國 トシタルカ故ニ此ノ二國ニ於イテハ白耳義ノ国土ハ何々荷蘭ノ国土ハ何々ト 列舉スルノ必要アリ普国モ亦其憲法制定ノ時ニハ彊土中断して恰モ瓢計ヲ為 シ分裂セル地ヲ以テ成リ且ツ其国ハ元ト獨逸ノ一小諸侯ヨリ漸次開拓シテ今 日ノ大ヲ致シ而シテ今日ニ在テハ四隣他国ト相接シテ彊土甚ダ錯綜シ現ニ佛 国トノ彊界来因河畔ニハ時々伸縮スルコトヲ免ガル能ハす然ルニ我ガ邦ニ在 リテハ二千五百年間連綿トシテ曽テ彊土ノ變更ヲ来シタルコトナキヲ以テ今 之ヲ明條ニ列舉スルノ必要ナキヲ認メ遂ニ之ヲ除ク トナシタリ
如上の説明はロエスレルの説明をそのまま受け継いだものであった。この発言に
続いて,伊藤博文は,議長ながら井上の答弁を支持して,元老院の憲法草案,ロ エスレルの憲法草案にも地域が列挙されない例をひき,その必要性のない旨の発 言をしている。
しかし,佐野はそれらの発言に対して以下の反論を行っている。
必要ナラザルハ承知シタリト雖此ノ事ハ人心ニ関係スル多シト考フルヲ以テ 質問シタリ「ロイスレル」ノ案ニアル如ク今後天皇ノ統御シ玉フ国土ハ増ス トモ決シテ分割スヘキ筈ナシト雖モ既ニ巨文島強借ノ事実モアリ幕府ノ時代 ニハ對州ノ強借セラレタルコトアリ若シ幕府ニ於イテ其求ヲ拒マサリンナラ ハ對州は如何成行キシヤ知ルヘカラス報告員ハ二千年来我彊土ニ変更ナシト 云ヒシト雖モ既ニ当今ノ御宇ニ於テ北海道ノ管轄内ニ彊土ノ変更在リ・・・・・
伊藤はこの発言を中断させ,「国土列舉ニ付可否ノ意見ハ第二讀會ニ譲ラレタシ」
と述べた。しかし佐野は更に続けて,
餘リ長ク演説シタレハ少シク意見ヶ間敷クナリタリレトモ其實若此ノ事ヲ掲 クルニ於テ差支アラハ其理由ヲ示サルヘシト要シメタルナリ
議事録には,この発言に対する議長の対応が( )内に示されている。
(此時議長云フ番外ニ於テ既ニ其起案ノ主意ヲ答辧シタリ其他ハ今之ヲ辧ス ルノ限ニアラスト)
そして議長の伊藤は議題を第二条にうつした。午後に開かれた第二読会では第一 条について改めて皇室典範との関係について協議されたものの領土問題について は討議される事はなかった。
佐野常民の発言は,伊藤の受け取ったように常に国土列挙の問題に収束されて しまっており,発言者も領域を具体的に掲げる要求に集約している。しかし発言 内容を吟味するならば,伊藤や井上などの憲法起草者のみならず他の私議憲法起
草者が考慮しなかった,あるいは避けて通ってきた問題が潜んでいる。即ち,多 くの起草者は日本を所与の領域として無前提に「日本」あるいは「六十余州」な どと表現してきたが,歴史的に見れば,国境は可変であったのであり,実際北海 道などの事例を挙げるまでもなく,国境は明治初期に一時的に確定したにすぎな かったのである。加えて元老院案や西周案などにも見られた将来の版図の拡大の 可能性への言及が,佐野の発言の中にも見出せる。しかしながら「藩属地」即ち 植民地を視野に入れた議論が明確に意識された形でどの委員からもなされていな かったことは,ここで特筆しておかねばならない。「国土ハ増ストモ決シテ分割 スヘキ筈ナシ」と述べる一方,佐野にはイギリスによる朝鮮半島南端の巨文島占 領(一八八五〜八七)を例に出し,日本領土保全に対する危機意識もそこに垣間 見える。将来の国土拡張を遠くに望みながらも,このような西欧に対する危機意 識は,一般の国民も共有していたことは想像に難くない。
しかし伊藤はこの現状分析を用いた議論を,全く排除している。これはロエス レルの意見に強く同意し,領土規定そのものを憲法の条文からはずしたためであ ることも理由の一つであろう。しかし,それ以上に伊藤が憲法草案の特に天皇大 権の条文を作成するための基礎を,当時の成分法源や慣習より,フィクショナル な歴史に多くを求めたためではないか。例えば伊藤は「立憲ノ洪獣」は「皆祖宗 ノ偉業ニ依リ其ノ源ヲ疏シテ其ノ流ヲ通スル者ナリ」との言はまさにそのことを 表している49。そのような歴史に基づく以上,現状の領土を並べ立てることは,
その原理とは対立してしまうのであり,また将来も過去のフィクションに遡及す ることで権威が保持されるのであれば,統治する領土は実態ではなく,これもま たフィクショナルな観念である「日本」たらざるを得ない。具体的な土地の領域 は「歴史」とは対立するのである。
いずれにせよ,枢密院という憲法草案最後の局面におけるチェック機関で,領 土,国境,そして将来の拡大された領土,即ち植民地などについての憲法上の問 題を,実質的に討議することはなかったのである。そして以後領土に関する議論 もなく,そして領土に関する規定のないままに,大日本帝国憲法草案が確定して いく。
大日本帝国憲法発布の際の勅語には,次の如くある50。
朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣 布ス惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力補翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ 以テ無窮ニ垂レタリ
ここでのロジックは,帝国は過去に,天皇と「臣民」の祖先により「肇造」され たものであり,その過去から将来まで連なる「臣民」とその末裔に対して「不磨 ノ大典」として,憲法が授けられるというものである。つまり,ここではあくま でも当時の帝国領域の「臣民」を対象としているのであって,将来の臣民が現領 域以外にいることは想定されていない。そして天皇大権の行使も,「大日本帝国 憲法上諭」によれば,
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及ビ朕ガ 子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
とある51。憲法が現行の領域のみを想定する以上,統治大権もその内部のみを想 定していたことがわかる。
伊藤博文の『憲法義解』には,第一条の解説に改めて古典から説き起こされた 天皇大権と国土の規定を施している。そして当時の領土を「現在ノ彊土ハ所謂大 八島延喜式六十六国及各島并ニ北海道沖縄諸島及小川原諸島トス」と規定し,「一 個人ノ體躯ノ如ク以テ統一完全ノ版図ヲ成ス」と結んでいる52。このように領土 を憲法ではなく,草案の内容を解説に於いて繰り返しているものの,佐野常民の ように版図の拡大については視野に入っていなかったのである。
むすびにかえて
官民の憲法草案から大日本帝国憲法起草に至る過程を概観し,領土の規定を通 して,植民地に対する認識を考察してきた。幕末から明治維新期には,国家その ものの独立と,具体的な隣国との国境画定という政治・外交のプロセスと併行し ていたため,国境について認識は切実さを持って細かく憲法に盛り込まれる案が
見られる。文明開化の潮流と重なり,外国憲法の寄せ集めの観を呈する草案もあ るものの,そこには当然起草者の取捨選択の判断が表明されている。ドイツ憲法 のように植民地を持たなかった時期から,将来の植民地についての位置づけが行 われていたように,日本にも青木周蔵や,元老院の草案に,その構想が見られた のは,まさに彼らが植民地を所有する国家を将来に見据えたからに他ならない。
しかしながら,記録によればロエスレルの意見により領土拡張についての構想 が憲法の構想から消えてしまうこととなる。このことは日本の膨張主義の消滅を 意味するものでないことは,日本の朝鮮に対する干渉や,国権論の展開を見ても 論をまたない。
では領土規定の不在は何を意味するのであろうか。第一には,西欧憲法の直接 的な移植を通し,列強のイミテーション国家を構想することが,憲法起草過程で は消滅をしていき,フィクショナルな歴史の中に,その国家の正当性を求めたた め,植民地の規定などの当時火急の問題ではない項目が排除されたことである。
即ち領土・「臣民」を過去の歴史過程の中に位置づけ,その延長線上のみに天皇 大権の行使の枠組みを設定したため,領土拡張,植民地問題はその視野には入っ てこない。
第二には,幕末・維新の対外的緊張を経験した起草者たちは,独立への強い危 機意識を持つ一方で,領土の拡大へ具体的構想には思いは至らなかった。この点 において,自由民権運動家であった樽井籐吉の「大東合邦論」は空前絶後の創 見であったといえよう。列国に対する危機意識を媒介として,日朝の対等合邦 を説いた。その過程において彼は欧米列強の領土拡張,「藩属地」の形態を分析 し,そのような合従連衡とは違った「合邦」を目指していることを主張してい る53。しかしながらそこでは,一時的な「両国約」をたてることを述べるのみで あり,自由民権運動を背景としつつも,立憲制度への具体的な言及はない。
このことは,第三の論点へと誘う。つまり,国権論や対外拡張論が,思想的,
政治的な問題として俎上に上りつつも,憲法制定の過程とは相関関係を持たな かった。つまり膨張主義イデオロギーが具体的な立法過程からは顧みられること はなかったのである。
日本の帝国主義的伸張が具体的な政治過程にのぼりつつも,「大日本帝国憲法」
が,そもそもイデオロギー的に領土問題を排除し,法律的裏付けを与えなかった ことは,以後,日本の植民地政策に多くの混乱を引き起こしたことを考えるなら ば,重要である54。
国際法が文明の象徴として機能し,その遵守こそがまさに文明国の証であると 捉えられる一方,植民地支配の国内的な法的基礎の検討がおろそかにされること によって,「文明」を正当化の梃子とした植民地支配に法的空白,混乱を生じさ せることとなったのである。
そして日清戦争を経て,日本が植民地をもつ帝国主義国家への階梯を昇るに際 して,国内的法的基盤を付け焼き刃的に整備せざるを得なかった。と同時に,本 来の立憲国家であれば,憲法に沿って行わなければならない権力行使が,実質的 に準備のない状態で植民地において行われたのである。
一方で憲法という権力行使のガイドラインが想定外の事態に直面し,法治主義 から大きく隔離した「野蛮」な植民地論が,三国干渉を受け入れたことに対する 反作用として,感情とともに吹き出す素地ともなった。
「学問のススメ」において「天理人道」を盾として,人間,国家の平等を説い た福沢諭吉は,台湾領有の際の現地住民の抵抗に対して,以下のように記してい る。
苟も我に反抗する島民等は一人も残らず殲滅して醜類を畫し,土地の如きも 容赦なく官没して全島掃蕩の功を期せざる可からず(後略−引用者)55
この福沢の明治初期から晩年の間に見られる振幅は,日本の植民地主義の成立に ついて,興味深い示唆を与えてくれる。文明の一つの到達点として人々に受け入 れられた大日本帝国憲法は,あくまでも国内的な意匠であった。その一方で憲法 が看過しているため,植民地問題は法律・支配機構の問題としてではなく,征服,
被征服という原初的な形態で露出することになるのである。
二〇世紀を迎える直前,やはり植民地国家の道を歩み始めたアメリカも同様の 憲法問題に直面し,また日本と同様の植民地主義が露頭を顕すこととなる。「文 明」を隠れ蓑とした植民地主義は,文明のシンボルである「憲法」との折り合い
をどの様につけるのか。言い換えるならば植民地支配者の権力行使のルールを,
植民地宗主国のルールと如何に矛盾を少なくして創出するのかなどの問題群の解 決が,植民地支配の最初の,そして最重要の課題となったのであった。
1『太政官日誌』明治九年九月六日。
2 比較植民地論の意義,および方法については拙稿「比較植民地主義試論」『歴史学研究』
二〇一〇年六月号。またアメリカとの比較研究の素材としては,拙稿 The Constitution of the United States and Expansionism in Waseda Global Forum, Vol. 5. を参照。
3 一九五〇年代初頭に遠山茂樹,井上清との間で交わされた論争以来,「外圧」の評価は 研究史上のひとつの主題であった。
4 新渡戸稲造『植民政策講義及論文集』[『新渡戸稲造全集』第四巻(教文館,一九六九)
所収],特に「講義第三章 植民の語源と定義」および「植民なる名辞につきて」を参照,
引用は後者論文 『全集』第四巻,p352。
5 長谷部恭男『憲法』(第三版)(新世社,二〇〇四),p2-p6 を参照。
6 一般的に成文憲法を単に憲法と呼んでいるため,以下特別の注記のない場合,本論でも 憲法と記す。
7 憲法と文明の関係については,例えば,Carol Gluck, Japan s Modern Myths, (Princeton, Princeton University Press, 1985)を参照。
8 このような草案にはアメリカ憲法をモデルとした浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)「国体」,
オランダ憲法を範とした津田真道「日本国総制度」や,西周「議題草案」があげられる。
家永三郎,松永昌三,江村栄一編『新編明治前期の憲法構想』(福村出版,二〇〇五),
p110-p126に所収されている。
9 同前書,p111-p118。この文章の提出日に関し,一八六三年以降一八六五年五月六日以 前であることは確実であるものの,正確な提出日は確定されていない。[家永他,前掲書,
p8-p9。]
10 同前書,p16。
11 拙稿, The Constitution of the United States and Expansionism を参照。
12『青木周蔵自伝』(平凡社,一九七〇),p57-p68。
13「帝号大日本国政典(草案)」は,原資料を画像にして国立国会図書館『資料にみる日本 近代』のサイトにて閲覧ができる。その第一ページに「元老院ノ条ハ昨年帰国中ニ起草 セリ」とあり(http://www.ndl.go.jp/modern/img_l/007/007-001l.html 2010年10月1日)。
それは『自伝』に依れば一八七四年三月から一〇月までの間であることがわかる。
14 家永他,前掲書,p16。
15 台湾出兵(一八七四年)を梃子とした琉球領有。ロシアとの千島樺太交換条約(一八七五 年),米英との間の懸案を解消するための内務省による小笠原領有宣言(一八七五年)。
16 家永他,前掲書,p127。
17 元老院『各国憲法類纂』(元老院,一八八一年一二月),p236。ドイツ語原文は以下の通り。
Artikel 1
Alle Landestheile der Monarchie in ihrem gegenwärtigen Umfange bilden das preußische
Staatsgebiet.
Artikel 2
Die Gränzen dieses Staatsgebiets können nur durch ein Gesetz verändert werden.
18 同前,p237。
19 青木『自伝』,p60。
20 青木『自伝』,p64。
21 原文については注13参照。
22 稲田正次『明治憲法成立史』上(有斐閣書房,一九六〇),p204。
23 『太政官日誌』明治八年四月一四日。
24 元老院の法規・規則については,内閣記録局編輯『法規分類大全第一編・官職門十七』
(一八九一),p31-p216を参照。
25 同前 p63-p64。浅井清『元老院の憲法編纂顛末』(厳松堂書店,一九四六),p27。
26『太政官日誌』明治九年九月六日。
27 下賜された書籍はAlpheus Todd, On Parliamentary Government in England: Its Origin, Development, and Practical Operation(london: Longman, Green and Co., 1867)。浅井前掲書,
p35。
28 元老院の憲法草案に関しては,家永他前掲書p173-p186およびp219-p224を参照。
29「日本国憲桉仝準據書目」は浅井前掲書所収。参照部分は同書p124-p125。
30 条文の翻訳,引用は元老院蔵『欧州各国憲法』(一八七七年九月印行)に依った。
31 浅井前掲書,p38-p51。
32 家永他前掲書,p220。
33 家永他前掲書,p472。
34 江村栄一編『日本近代思想体系9 憲法構想』(岩波書店,一九八九),p225。
35 家永他前掲書,p461。
36 江村栄一「解説」『近代日本思想大系9』。
37 同前書,p266。
38 ドイツは,一八八四年ニューギニア(及びカメルーン・トーゴ,ミクロネシアなどの南 太平洋の諸島を含む)地域と南西アフリカを,一八八五年には東アフリカとヴィツを植 民地として支配下においた。
39 稲田正次『明治憲法成立史』上(有斐閣,一九六〇年),p568。
40 春畝公追頌會編纂『伊藤博文公年譜』(春畝公追頌會,1942)p148-p167参照。
41 稲田正次『明治憲法成立史』下(有斐閣,一九六二年),p1。
42 同前書,p70-p71。
43 同前書,p84。ウェルテンベルグ憲法(一八一九年)第一条には以下の規定がある。
Sämtliche Bestandtheile des Königreichs sind und bleiben zu einem unzertrennlichen Ganzen und zur Theilnahme an Einer und derselben Verfassung vereinigt. (「全ての王国を構成する領 土は,現在・未来にわたり不可分であり,唯一の憲法の下に統一されている。」)
[documentArchiv.de http://www.documentarchiv.de/nzjh/verfwberg.htmlより引用,拙訳。]
44 同前書,p117。
45 同前書,p133。
46 この修正の過程から判断しても,領土に関して憲法起草にあたり確固たる方針の下に条
文が作成されていないことがわかる。しかしながら,金子堅太郎『憲法制定と欧米人の 評論』(日本青年館,1937)p133には,一八八六年五月頃に憲法編纂の方針が示された とあり,領土に関しては,「日本帝国の領土区域は憲法に掲げず,法律を以て定むる事」
と述べている。現在でも,例えば公文書の中にも,これに依拠して明治憲法が一定の方 針の下に編まれたとの解釈を成している。例えば『明治憲法と日本国憲法に関する基礎 資料(明治憲法の制定過程について)』(最高法規としての憲法のあり方に関する調査小 委員会(平成一五年五月八日参考資料)[衆憲資27号]。しかし,領土に関しては,これ は明らかに誤りである。
47 「憲法草案修正意見[ロエスレル]」伊藤己代治関係文書(国立国会図書館蔵)マイクロ
フィルム・リール2。
48 枢密院における発言に関しては,『憲法草案枢密院会議筆記 明治二十一年自六月十八 日至七月十三日』の六月十八日午前中の会議録より引用。『会議筆記』は『枢密院会議 議事録』第一巻(東京大学出版会,一九八四)に収録されている。佐野常民(一八二二
〜一九〇二)は佐賀藩士。一八六七年パリ万国博覧会を機に渡仏。工業技術習得の一方,
赤十字の活動にも興味を持つ。明治政府において,兵部少丞,イタリア,オーストラリ ア公使。西南戦争に際しては戦地病院博愛者を創立。これが後の日本赤十字社となり,
初代社長。一八八〇年大蔵卿,八二年元老院議長,八八年枢密顧問官。
49 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会,一八八九),p1。
50 木下鹿一郎『詔勅・帝国憲法・皇室典範』(晴雲堂・一九一一),p11。
51「御署名原本・明治二十二年・憲法二月十一日・大日本帝国憲法」アジア歴史資料セン ター(ref. A03020029600)。
52 伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会,一八八九),p4。
53 森本(樽井)籐吉『大東合邦論』(発行者森本籐吉,1893),p128〜p182を参照。この『大 東合邦論』は一八八五年一度日本語で書かれたものの,筆者が大阪事件に連座し発表さ れることなく一八九三年に至り漢文にて改めて刊行された。
54 伊藤博文は,将来の憲法改正を避けるため,領土規定を憲法に含めなかったとの回想 が金子堅太郎によって成されているが(金子堅太郎「伊藤公と憲法制定事業」『国家 学会雑誌』Vol. 24 一九一〇年七月,及び「憲法制定懐舊談」『國學院雑誌』Vol. 125 一九一九年四月),枢密院会議議事録などから判断する限り,これらは先の憲法草案に おける方針ついての金子の説明同様,後から付加された説明と考えるべきであろう。
55 福沢諭吉「台湾の騒動」『時事新報』明治二九年一月八日 (『福沢諭吉全集』第一五巻(岩 波書店,一九六一),P354。
本論は,科研費(基盤研究C15520389)報告書,「日本およびアメリカにおける植民地政 策の比較研究」の一部に,加筆,修正を加えたものである。本研究は,如上の科研費に加え, ハーバード大学燕京研究所のThe Visiting Scholar Program (2007-2008)の助成を受けてい る。