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「よきドイツ」と想起文化の問題

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補 論

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補論1

「よきドイツ」と想起文化の問題

―クリストフ・メッケルの父親小説を中心に―

1

父と子の葛藤を主題化した作品の範例といえば、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』

を筆頭に、シラーをはじめシュトゥルム・ウント・ドランク期の文学、自然主義の環境劇1、

19世紀のロシア文学に目を転じるならば、トゥルゲーネフの『父と子』、ドストエフスキ ーの『カラマーゾフの兄弟』等の長編小説、20世紀前半のドイツ文学では表現主義の文 学とカフカの父親宛の書簡集がそれぞれ思い浮かぶだろう。先ず表現主義文学の場合を見 よう。

表現主義は、「混沌」という当時の文化死活の危機に直面し根底的な変革と彼岸の救済を 渇仰していたが故に、過去の一切の拒絶と「新しい人間」の創造を新時代の統一理念とし ていた。表現主義はユートピアを夢見るが故に、権威の象徴である「父親に対する反乱」( ーター・ゲイ)2を、さらには「父親殺し」を想念の次元で敢行しなければならなかった。ハ ーゼンクレーハーの『息子』(1914年)、ブロンネンの『父親殺し』(1920年)という、こ れら双方の戯曲の標題は、このぎりぎりの文学状況の比喩的総称となっていた。ちなみに フランツ・ヴェルフェルは、『殺した者ではなく、殺された者に罪がある』(1920年)とい う挑発的な標題の小説において「新しい血、新しい生命、新しい現実」3の蘇生のための「父 親殺し」を究極の自由の実現と人類救済の契機としていた。夢想されていたのは、「破局が 和解の祝祭に変容する」4という奇跡であり、そのユートピア渇仰のパトスはそれこそ「黙 示録的」5であった。この意味でこの作品は、ワイマール文化の一精髄であった、この革新 運動の代表作となっていた。ここで同時に目を射るのは、トーマス・マンが晩年ヴェルフ ェル文学について指摘していたところであるが、「天分の豊かさにしばしば恵まれている抒 情詩人」6の姿と「芸術上の抑制力の時折の欠如」7という事態である。こういう正負双面 性は表現主義の文学全般の通有的特性と言えよう。『オイディプス王』に始まりかかる表現 主義において頂点に達した、「父親殺し」のテーマはドイツの戦後文学においてもじつは別 のかたちで再創造されていた。その好適例としてクリストフ・メッケル(Christoph Meckel

1935-)の中篇小説『父の実像を探し求めて』

(1980)を挙げたい。著者の版画入りの当作

品の成立地盤は如何なるものだったろうか?

ヴァイマール共和国の崩壊に始まり、ナチスの政権獲得、第二次世界大戦の勃発、ドイ ツの敗北に終わった、いわゆる「ドイツの破局」(マイネッケ)8の結果、戦後のドイツは

「根底的な非ナチス化」を国是としなければならなくなった。「反ナチズム」と「過去の克 己」はドイツ人の新しいアイデンティティとなり、ドイツは過去の犯罪に対する国家責任 を加害者の立場から率直に認め、ヨーロッパの一員としての国際貢献を国家の歴史的使命

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としはじめた。時の大統領ヴァイツゼッカーが1985年に行った、あの胸をえぐる謝罪 演説は今も記憶に生々しい。第一次世界大戦当時火山のマグマのように噴出した、自国に 根強い反フランス感情は払拭され、フランスとの友好関係も軌道に乗り、過去の「歴史清 算」が公的規範となる。ドイツは、政治を蔑視する因襲的な自国文化至上主義をかなぐり 捨て、文化の多様性を認め、実地に生かしていく道を真剣に考えはじめた9。その地方主義、

自己閉鎖性を克服し、今まであまり顧慮されていなかった「政治的公共性」(ハーバーマス)

10 の場での活発な討論や対話を、すなわち「公的コッミュニケーション」を重んじるよう になった。「現代ドイツにはヒトラー再生の可能性は皆無だ」という、ハンス・マイアーの 1976年4月13日の朝日新聞紙上(夕刊)での言明は先見の明ある情勢判断であった。

冷戦の象徴であったベルリンの壁は撤去され、ドイツは統一され、EU加盟国となり、マ ルクに替るユーロが国全体の通貨となった。ヨーロッパ中でドイツほど自己変革を行い、

その国家風土が変った国はない。トーマス・マンのいう「よきドイツ」11というテーゼは、

「戦後ドイツの知識人たちの自文化理解の原点」12となっている。

けれども同時にまた、こういうドイツの国際化、すなわち「過去の克服」という終戦以 降のドイツの指導理念は、18世紀の啓蒙と進歩の理念の復権と再生を目指すものであっ て、そのルーツは、ドイツ市民社会の伝統的な教養主義の終焉が決定化していた、ヴァィ マール時代にあったという歴史的現実も、同時に想起しなければならない。歴史とは質的 に同一事象の反復と再現であるという、その超時間的側面も見逃せない。ちなみにマンが 考えていた「よいドイツ」とは、悪魔に魂を売って地獄に堕ちたナチスという「悪しきド イツ」と表裏一体化していた 13。善悪のこういう互換性を形象化していたのが、象徴的な 意味でマンの「最後の作品」14 となっていた『ファウストゥス博士』であり、ゲーテを始 祖とするドイツ人文主義の伝統の最終喚起をその究極のメッセージとしていた。それは、

ゲーテ、ヘルダーリン、ニーチェの場合のように、自己嫌悪、自己呪詛にも近い、それ故 に他のヨーロッパ諸国では類例を見ない、ドイツの自己批判の伝統を継承したものにほか ならず 15、「よい意味でドイツ的であることこそは脱ドイツ化することである」16 という、

ニーチェのテーゼを下敷きにしたものであった。マンは、ドイツ精神の血液となっている 自己批判のラディカリズムをドイツ市民社会伝来の教養主義の次元で把握していたが、戦 後ドイツは教養市民の時代ではもはやない。マルティン・ヴァルザーが創作対象としてい るような「小市民」の時代に変貌している17。『父の実像を探し求し求めて』の成立背景と なっていたのは、かような戦後ドイツの知的歴史状況であった。

作者クリストフ・メッケルは名門の後裔であった。明治時代にプロイセンの軍隊制度を わが国に定着させ、帝国陸軍の育ての親として日本史に栄名を残した、メッケル少佐はこ の作者の大伯父に当たる。メッケル少佐が導入した斬新緻密な戦略知識が日露戦争の勝利 に寄与したところが如何に甚大であったか、その経緯は司馬遼太郎の大河小説『坂の上の 雲』に詳しい。また、明治天皇は陸軍大学でメッケルの授業を参観し、「朕の将校たちに高 度の軍学を身につけさせる」よう少佐を激励し、当時わが国では全く未知の「実践に即し

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た教育法」で進めていた少佐の講義に「非常に興味をもち、続きを宮廷で勉強したいと、

と述べた」と報じられている産経新聞

1999

年3月20日)。作者の祖父は、フランクフ ルトの旧市庁「レーマー」(Römer)を再建した著名な建築家であり、父親のエーバーハル ト・メッケルは郷土詩人として、へーベルの研究家として往時著名であった。メッケル家 には芸術家の血が流れていた。作者は、この父の死後9年目に父のナチス時代や戦後の日 記や覚書に目を通した結果、今まで見てきた父の姿はその一部にすぎないことを知り、父 の全体像を追尋模索しはじめた。そして、これらの私的な記録を公的資料に値すると判断 し、それを原素材にして書き上げたのが、この「父親殺し」の中篇小説であった。在りし 日の父の実像を容赦なく暴露し再構成していく息子の筆致は簡潔で鋭い。折に触れ自己の 悲痛な思いを生の言葉で折々吐露してはいるけれども、全体は回想形式による報告体で記 述されている。したがって、絶望の闇と希望の射光を共棲させている、表現主義文学特有 の黙示録的なパトスは見られない。ウェルフェルの父親小説『殺した者ではなく、殺され た者に罪がある』からひしひしと伝わってくる、狂熱的・忘我的な、すなわち「音楽的」

な陶酔 18は皆無である。また、レマルク、ノサック、ベルの諸作品の場合のように、戦争 体験の悲痛な傷痕が読者の胸を抉りはしない。作品全体は、ドイツ史最大の受難の時代を 生きた、亡父の人生記録となってはいる。けれども、この記録は現実の事実と寸分のずれ もないものとは言えない。如何に調査と実証の行き届いた記録であっても、不明瞭な部分 や立証不可能な部分を大なり小なり残していることは否めない。実際に起こった現実の事 実との間のギャップは埋められない。或る特定の過去を語るためには、記録を適宜取捨選 しなければならない 19。読者が心中何を求めているか、大なり小なり予知しておくことも 必要である。この場で何を重視すべきか、という「選別の呼吸」(谷澤永一)20が記述の死 命を制する。作者の世界観、価値観、憶測、想定等がどうしても入る。創作の自由な場の 全くないドキュメントなんてありえない。アドルノが弁証法的に洞察していたように、現 実認識も仮象性を排除できない 21。ファクトそのものがフィクション性を生来含意してい るがために、ドキュメントは実質的にはフィクションの等価物となる。ファクトは真実を 語るものではない、「ファクトからの刺激で立ち昇ってくる気体のようなもの」(司馬遼太 郎)22 を把握しなければ、歴史と人生の真実は語れない。ドキュメント特有のリアリティ はまさにここにある。インフォーメーションが驚異的に発達してきた今日、ドキュメント が文学の主要なジャンルとなってきたのも、時代状況必然の成り行きと言うべきだろう。

現代はこういう類の文学を生きる知恵として必要としている。『父の実像を探し求めて』も こういう部類のモダンな作品となっていた。本作品における「父親殺し」の内実は如何な るものだったのだろうか、作品内在的であると同時に鳥瞰図的に観察していきたい。

以下の叙述において底本は下記の版とし、括弧内の数字は引用箇所の頁数としている。

Christoph Meckel: Suchbild. Über meinen Vater (Fischer Taschenbuch 5412). Frankfurt am Main 1995.

2

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父エーバーハルト・メッケルは、南ドイツのアレマン語圏内のフライブルクに生まれ、当 地で62年の生涯を閉じた。父は青春時代、祖父の圧力から逃れて、自己確立を決意する。

そのためには「父親に対する反逆」というかたちで芸術家になる以外に、歩むべき「わが 道」はありえなかった。シュヴァルツヴァルトを中心とする、南ドイツの悠久の自然こそ は、この父にとっては、人間性の超地上的な庇護地帯であり、ドイツ固有の世界感情の生 成基盤であった。故郷の「血と土」は、抒情詩を中心に父の文学作品の「論議の余地皆無 な礎石」(111)となっていた。父が絶対視していたのは、ドイツの過去の栄光、ドイツ人 特有の敬虔純朴な心性、ドイツという国家権威であった。家父長として家庭を何よりも大 切にし、「<子供の心を占有>しようと欲していた」(35)。この父がこよなく崇拝していた のは、ゲーテを中心にシュティフター、ペーター・へーベル、ヘルダーリン、アイヒェン ドルフ等、ドイツ語圏内の生粋の「詩人」(Dichter)であり、同時代の作家でとくに評価し ていたのは、フォン・ショルツ、ハンス・グリム、ヴァッガール、ヴィーヒェルト、カロ ッサ、エーミール・シュトラウス等、「血と土」の世界を作品成立の土壌とする、いわゆる

「民族の作家」であった。エーバーハルト・メッケルは、ロマンティックな「このドイツ 固有の内面性」(トーマス・マン)23の世界に常住する、政治には無縁無関心な「審美的人 間」(50)であって、政治の暴威の巷でつねに魂の安らぎを求めていた。政治は汚らわしい、

文化に無関係である、詩聖ゲーテのドイツしか存在しえない、と信じて疑わなかったが故 に、時局から身を引いて沈黙したまま、従前同様、牧歌的で静謐な詩作品を発表し、同時 にまた、放送劇、古典劇の翻案、書評等を生活収入のために書いていた。その動機は純粋 良心的なものであったにせよ、すべて「時代から詩の世界への退却」(24)となったのが、

結果的には致命傷であった。これが父の癒しがたい宿命となっていた。

ドイツは、詩文芸、音楽、哲学の領域において史上不滅の偉業を達成してきたけれども、

反面、政治面ではイギリスやフランス等の他のヨーロッパ諸国に比べて著しく遅れていた。

ドイツほど政治と文化の関係が不均整で、文化人が政治音痴だった国はない。「非同時性の 古典的な国」(エルンスト・ブロッホ)24ドイツは国際間で孤立し、対外的にも対内的にも 様々な混迷や挫折に直面しなければならなかった。そして就中、「世界精神の意志との不調 和」(トーマス・マン)25という、この国生来特有の前近代性の史上もっともデモーニッシ ュ な 悲 劇 が ナ チ ス ・ ド イ ツ だ っ た こ と は 、 再 現 を 要 し ま い 。 ド イ ツ は 「 想 起 文 化 」

(Erinnerungskultur)の国として戦後装いを新たに出発しなければならなかった。

エーバーハルト・メッケルも当初はナチスに対して批判的であった。突撃隊(SA)のテ ロ行為、ユダヤ人の迫害、焚書等、ナチス党員の暴虐非道を言語道断と思い、入党勧誘を 断っていた。けれども、マン兄弟、ブレヒト、レマルク等、いわゆる抵抗と亡命の作家の 場合のように、郷土詩人生来のドイツの地方主義を超えた国際的視野から時代の現実を的 確リアルに批判しうる、知的洞察力を持ち合わせてはいなかった。また、同じように南ド イツ出身の郷土作家でありながらも、ヘルマン・ヘッセの場合とは根本的に異なっていた。

ヘッセは、エーバーハルト・メッケルのような正規の教養市民ではなかったし、マンの

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ようなその最後の末裔でもなかった。市民社会の落ちこぼれという、生まれながらのアウ トサイダーであった。その郷土愛は、アウトサイダーの自己批判と自己確立の礎石となっ ていた。だからこそヘッセは、第一次世界大戦と結婚生活の破綻という、相乗的に襲って くる時代と私生活の危機を自己唯一無二の実存の問題として受け止め、再出発と新生の糧 とすることができた。だからこそその作品は、ドイツの郷土文学という範疇を超えて普遍 的なものに高まり、とりわけ新時代を担う青年の胸を打って止まなかった。人間性の暗闇 がユンクの深層心理学の光でもって照射され、自我と人類の治癒と救済の射光がここに見 出されていた。エーミール・シンクレールという匿名で発表された『デーミアン』(1919 年)と、市民社会の一匹狼の告白作品として最も自画像的な『荒野の狼』(1927年)は、ヘ ッセならではの自己克服の足跡を語って余すところがない。ヘッセは、ドイツが狂信的な 愛国主義の坩堝と化すと共に国籍をスイスに移し、ロマン・ローランと連帯して反戦と平 和の運動に献身しはじめた。以来、その文学と時代批評は画期的な内的広がりと深まりを 示し始めた。こういう類例を見ない自己実現を成就できたのは、青春以来の自己の「意心 固我」(Eigensinn)26 の詩人として歩み続けてきたからであった。自己の実存に徹するこ とは、自己超越の契機となっており27、ヘッセはドイツの郷土作家の域を超えていた。

エーバーハルト・メッケルはヘッセほど自我に徹した反権威主義者ではなかった。この父 が兵役に服したのは、入党を避けるためであり、同時にまた、祖国愛、戦友愛、義務、秩 序を尊ぶドイツ軍隊の権威と栄光に憧れたからであった。以来、「高邁な臣下の<国粋主義

>(Chauvinismus)」(50)の翼賛者となった。「ドイツの理念の勝利」(49)を理知を超え て信奉していたが故に、「新しい共同体」の建設というナチズムの理想、ヒトラーの超絶的 な能力、ヒトラー・ユーゲントの「青春最高の精神」(29)に感動し、ユンガーの戦争文学 を賛美しはじめる。コスモポリタン的都会文学を「アスファルト文学」即「頽廃文学」と 烙印し、ユダヤ人の文学を抹殺し、「血と土」の文学を民族の文学として称揚する、ナチス の宣伝活動にまんまと利用されてしまい、ハンス・グリム、ヨースト、コルベンハイアー 等、ナチス作家のポートレートさえ書くようになった。時の「現実政治」(23)の正体を洞 察できなかったがために、父の思想は、当時のドイツの教養市民のエリート特有の非政治 的・愛国的な生活感情の次元でナチズムに染められてしまった。その真因は父生来の権威 主義と観念的なドイツ至上主義にあった。祖国愛は、本来的には人道的なものであっても、

ナチズムの「血と土」の神話を受胎させる子宮ともなる 28。国内亡命したヴィーヒェルト は異例として、こういう類のドイツの郷土家は数多い。ドイツ的心情と抒情の珠玉作とし て邦訳もされた『十字路』(1904年)

*

の作者エーミール・シュトラウスも、後年ナチス 作家となる。父はこういう「一世代の奇怪なアンビヴァレンツ」(28)の詩人であった。

*相良守峯 大和邦太郎訳『いのちの十字路』(岩波文庫 1940年)。原題はDie Kreuzungen。

父はフランスで捕虜になる。頭に大怪我をして神経症を患う。その間、ドイツ民族をミ スリードしたナチスの指導者たちの裏切りに気付き,遅蒔きながらドイツの「集団的罪過」

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を認めはじめた。激昂、苦痛、意気沮喪の日々を収容所で送っていたが、その間父の心の 支えとなっていたのは家族であった。「胸中は郷愁の苦痛で張りさけんばかりだった」(63)。 父は捕虜収容所で文化活動に従事した。当所の図書館からナチス色の本が一掃された結果、

主として読まれたのはトーマス・マンの『魔の山』であり、日々の生活は「よろこびのな い『魔の山』」(111)のように単調無聊であった。父はこの間苦心しながら詩、短編小説、

自己自身にかんする覚え書きを書いた。終戦後、父は釈放されて故郷に帰る。食糧難をは じめとする戦後の窮乏生活は苛酷さをきわめていた。ドイツの敗戦は父にとっては「零と 無という彼個人の時点」(71)となっていた。息子クリストフにとっては父との最初の再会 は無上のよろこびだったけれども、以後の再会はつねに失望に終わらざるをえなかった。

戦後の父は、人を苦しめると同時に自分を苦しめている杓子定規な形式主義者に変ってお り、息子にとっては「疎遠になった人間」(75)となっていた。「父には軽妙さ、新鮮さ、

就中、ユーモアが欠けていた」(79)。相も変わらず権威主義者であった。

戦勝国はドイツの民主化を占領政治の指導方針としていた。文学史は、従前の民族主義 的、国粋主義的色彩を払拭し、今まであまり日の目を見なかった、ドイツにおける民主主 義文学の系譜を新たに記述しなければならなくなってきた。サルトル、カミュー、ベケッ トの文学、ピカソの抽象画、オルフの音楽等、当時のヨーロッパのモダニズムの藝術がド イツの地にも根づきはじめた。戦後の新世代の作家たちは、「過去の清算」という至上令を 遵守して「零地点」(Nullpunkt)から出発し、「皆伐」(Kahlschlag)を決行しなければな らなかった。彼らは新しい切り口から人間や社会の問題を捉えはじめた。「われあれは新た に出発したくてたまらない。どの世代も前世代に拠りかかろうとはしない。前世代を拒否 している」(ヴォルフガンク・ケッペン)29。ここで彼らにもっとも身近な作家となってき たのは、「反逆と憂愁」と同時に「形式破壊」の作家ゲオルク・ビューヒナーであった。夭 折した19世紀の鬼才ビューヒナーこそは革命と前衛の文学の先駆的・記念碑的存在とな ってきた。新世代の作家たちは古典主義の霊峰に鎮座していたゲーテの名に付随している、

権威主義的色彩に本能的に反発しはじめた。従前の最高の文学賞であったゲーテ賞に取っ て替るビューヒナー賞の制度が設立された 30。ケッペンは、1962年にその受賞の栄に 浴した時の謝辞でこう断言していた。「ビューヒナーは我らの詩人です。今日そうなのです」

31。表現主義に次ぐビューヒナー・ルネサンスが始まる。このように180度転換した戦後 ドイツの潮流のなかで父は再出発しなければならなかった。文筆活動を再開し、進歩的な 政党である

SPD

支持を表明したり、反動的な立法である非常事態法に反対表明をしたりし て、「新時代」というバスに乗り遅れぬよう当人なりに涙ぐましい努力をしていた。その言 動は良心的だったけれども、内発的ではなかったために、自己保身のための付け焼刃に止 まっていた。家庭内では父なりに気を使い、子供たちや彼らの友人たちのパートナーにな るよう尽力し、家族に溶け込もうとしたけれども、すべては裏目に出た。父の言動はオー プンでなく、作為的であって、家父長としての自己のアイデンティティを守るための自己 防衛のメカニズムの域を出なかった。そのため家族の空気は逆にますます息苦しくなる。

(8)

子供たちは父の前で羽目をはずすことも、胸の思いを打ち明けることもできず、父と家族 との間の違和感は深まる一方であった。「過去の清算」の問題を取り上げても、父の場合、

真の対決ではなく、その緩和化と回避に終わっていた。戦後も同じような詩を書き、相変 わらず郷土詩人ペーター・へーベルの作品の編集や注解の仕事も続けていた。また、当時 の文学、哲学、思想と取り組み、評論家として文筆活動も開始したけれども、取り立てて 言うほどの出来栄えではなかった。長編小説にも着手したが、未完に終わった。文壇では 孤立し、創作力は日々衰えていく。故郷の風土と魂を謳歌していた父の作品は、今や過去 の遺物にすぎなくなってしまう。「父は変っていなかった、常に同じだった」(108)ので、

地殻変動にも等しい新時代から置き去りにされていき、執筆物は最晩年には没になり、作 家生命は断たれてしまう。父は「あまりにも遅れ」(111)ていた。

父は息子が芸術家になるのを望んではいなかった。市民社会で安定した地位を築くよう 期待していた。けれども息子は、父の圧力から逃れるために、家出してベルリンに住み、

版画家として詩人として生活の足場を固めはじめる。この息子についてその弟からデュッ セルドルフで聞いたことを、司馬遼太郎は『坂の上の雲』の「あとがき」でこう記してい る。「兄はヒッピーみたいで、と笑っていた。いまベルリンで絵を描いたり、詩を書いたり して、女と同棲しています」32。息子は、父から離反することによって父の存在を克服しよ うとした33。それは、「父に対する反逆」という、自分の父の若き日の足跡そのものをその まま辿ることを意味していた。息子の固有の生は、祖父以来の芸術家の血筋という、生の 原型の模倣と反覆とならざるをえない。父は息子のために何かと尽力するが、それが逆に 息子を束縛するという、不本意な結果となる。父の息子に対する気持ちは屈折していた。

息子を一方では他人に自慢し、他方では息子に対して対抗心を燃やしていた。親子の間柄 はますます気詰まりになり、すべては悪循環に終わり、父が心の支えとしていた家庭も崩 壊してしまう。「父は教養市民としての生涯を全うした」(60)。だが、その余生は「古い世 界の延期されたエピローグ」(111-112)にすぎなかった。ナチス協力と敗戦はこの純朴な 父の残余の人生を閉ざしてしまった。父の悲喜劇のすべてはここに尽きていた。

『父の実像を探し求めて』は上述のような「父親殺し」の作品となっていた。作者は何 故これほどにまでに激しく父親を槍玉に上げたのだろう。それは、家父長である父親を内 心愛していたからであった。愛情は、双方間の距離がなくなるとき、激しい憎悪となる。

この作品全体の通奏低音を奏でているのは、こういう肉親間特有の愛憎併存感情である。

父に対する息子なりの「秘められた思いやり」(107)が手厳しい筆致の襞の部分から感知さ れてきはしないか。「共感とも言える悲痛な思い」(ホルスト・クリューガー)34 が苛酷な 父親批判の倍音となっていた。作者はこう記す。「死に臨んで父は<詩人>として生きてい た。私と私の詩に思いを馳せながら」(104)。

この中篇は、回想のドキュメントというかたちで書かれた時代小説と言える。また、そ

(9)

の主人公と語り手が双方共に詩人であるという局面からすれば、19世紀以来ドイツ文学 の重要なジャンルとなっている、「芸術家小説」の系列に属する作品とも見做せよう。作者 は、父の悲運な人生と共に作家として画家として独立していく自己発展の過程を語ってい る。すると、「自伝性」というゲーテ以来のドイツ文学の普遍的伝統がここにも継承されて いることが、判読されこよう。作者は亡父の非業の人生を書きながら現代を語っている。

かような二重性が本作品の歴史風景となっている。こう見るならば、この作品は同時に歴 史小説とも言えるだろう。『父の実像を探し求めて』はこういう重義的な作品であった。

郷土詩人エーバーハルト・メッケルの文学作品はすべて忘れられてしまい、現在ではペ ーター・へーベルの専門家としてその名をドイツ文学史の片隅に止めているにすぎない。

その悲劇の素因が観念論的なドイツの教養市民の政治音痴にあったことは、再言を要しま い。けれども、ナチズムが、疲弊と頽廃の極にあった西欧文明のアキレス腱を突く当時も っともラディカルな批判となっていたことも、同時に忘れてはならない。多くのドイツの 文化人が、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』に活写されていたし、トーマス・

マンも亡命後『日記』で指摘していた 35、男色というナチズム特有の倒錯・頽廃現象を見 抜くことができず、そのドイツ至上主義のイデオロギーに足を取られてしまった素因はま さにここにあった。「隠された黒い点」(マイネッケ)36 として摘出されてくるのは、バッ ハ、モーツアルト、ベートーヴェンを演奏する敬虔素純な人間を強制収容所のガス室の死 刑執行人に変身させてしまう、非政治的・内省的なドイツ文化の、ひいては人間性そのも のの潜在的悪魔性である。それは、フルトヴェングラー、ハイデッガーを筆頭に20世紀 のドイツの非政治的な文化人全般に指摘されねばならない問題ではなかろうか。記録映画 の金字塔『民族の祭典』の監督レニー・リーフェンスタール、楽界稀代の帝王だったカラ ヤンを筆頭にべーム、シュヴァルツコップ、ヒュッシュ等、一時代を画したドイツの音楽 家も当時はナチスの党員、それとも翼賛者であったことが、随時暴露されてきていた。最 近のニュースに目を向けるならば、ノーヴェル賞受賞作家であり

SPD

の支持者である、グ ラスも「若きときナチスの武装親衛隊員だったことを告白していた」

(朝日新聞

2006年 8月

18

日)37。この経緯は最近の述懐の書『玉ねぎの皮剥ぎ』38に詳しい。作品受容の理論 の提唱者ヤウス、啓蒙派の「学者詩人」(poeta doctus)イェンスも党員だった。ナチスと いう新時代の大衆政治の呪縛力はそれこそ絶大であった。ナチズムの虜囚となった文化人 はそれこそ枚挙に暇がないし、ナチズムがとりわけ当時の若い世代の目に神託と映じたこ とも、察するに難くない。個人は、時代の大きな流れの前には無力であって、「波間に浮か ぶ泡のようなもの」(ビューヒナー 「宿命論書簡」)39 となるこがしばしばであることは、

歴史の冷厳きわまる教訓と言わねばなるまい。ナチス時代が後世に背負わした課題はあま りにも大きく重い。ナチズムと隠微に結び合う臍の緒となっていた「ドイツ固有の内面性」

(トーマス・マン)の逆理的プロセスは今後とも根底的に再確認、再検討されていかねばなら ない。ナチズム解読の決定的方程式は発見しがたい。

ここで立ち止まって考えたい。息子がナチス時代に現役の詩人として生きていたら、そ

(10)

の言動はどうだったろう?ナチスの暴威に対してはたして敢然と抵抗していただろうか?

息子は戦後作家だったからこそ当人なりに自由な「父親殺し」ができたわけであって、父 親の方が決定的に不利な立場に置かれていはしなかったか。過去を現在の目で批判するこ とはたやすい。けれども、ともすれば不毛な一般論や結果論に終わる。時代という運命の 経緯はどういうものなのか、その現実を的確に認識しなければならない。過去の困難な時 代を生きた人物の足跡を当人の身になって辿り、その人物像を具体的に把握するべきでは ないか。「歴史の歯車に対する沈潜の洞察」(谷澤永一)40 なしに過去は語れない。と同時 にまた、全体を現在の目でもって過去を鳥瞰的に捉えて適宜批判もしなければならない。

とりわけ時代小説はこういう「遠近法的見方」(ニーチェ)41を必要としており、その構成 は対位法的・重層的となるよう定められている。

作家は人間の観察を天職としなければならない。作品の決め手となるのは、生身の人間 性に対する活眼である。それは、具体的な各人のなかに自己自身を的確に見定めることで はなかろうか。作者メッケルは創作のこの鉄則を十分にわきまえていたであろうか?ちなみ にマンは文学の在り方についてこう記していた。「ほんとうに深くて情熱的な批判は、イプ センのいう意味での文学である。すなわち、<自己自身>に下される審判の日なのである」

42。この覚え書の最終究極の帰結となっていたのが、マン畢生の文明批評作『ファウストゥ ス博士』であった。マンこの辞世の作において、ナチズムを芸術家である自己自身に内在 する悪のデモーニッシュきわまる発現形態として実存的に把握したからこそ、この「ドイ ツの悲劇」の極北の地を究めることができた。そのナチズム批判は、「距離のパトス」(ニ ーチェ)43 の作家マンの峻厳胸を刺す自己批判となっていた。真正な自己批判はそれを超 えて普遍的説得力をもつものとなる。創作のかかる本質的な問題を踏まえて再考するなら ば、マンの「よきドイツ」という警告は今も清新な余燼と言えはしないだろうか?マンの ナチズム批判は、それこそあまりにも19世紀的であり文学的ではあることは否めないけ れども、それなりに当該問題の本質を抉り出したものではなかろうか?

本論はここでもう終えるべきだろう。にもかかわらず視界を広げ、わが国の独文学者の戦 争責任の問題をもついでに一瞥しておきたい。本領域に本格的な鋤を入れた著作としては、

高田里恵子の『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校

2001

年)と関楠生の『ド イツ文学者の蹉跌 ナチスの波にさらわれた教養人』(2007年)が挙げられる。前者は犀利明敏 な観察でもって当該問題をいわば「学校物語」44にパロディー化・戯画化したものである。

こういう読んで面白い、否、面白すぎる本が書けるのは、著者にとっては当時が今や遠い 昔になってしまったからであろう。追体験的な切実さは全く感じられない。それに対して 後者は、何はさておき事実を事実として簡潔明快に語らせることを主眼目としており、そ の紙背から伝わってくるのは、当時の痛切な共体験に裏付けられた、当該問題に対する8 0才を超えた老ゲルマニスとの執念と情熱である。本書のドキュメントとしての説得力と

(11)

価値は大きい。「(前略)つぶらな実証というものは、それを超えたものを提示することを この書は示している」(松下たえ子)45。

基調音を異にする双方の著作において共通してもっとも多くの紙面が費やされているの は、高橋健二の独文学者としての処世術ある。高橋健二は戦前、文士気質のリベラリスト であるが故に教室をディレッタンティズムの苗床にしてしまった、当時の京大独文学科の 主任教授成瀬無極と共に、ナチスの手による焚書を蛮行と非難していた。高橋健二も当初 はリベラリストであった。1936年にはトーマス・マンの処女長編『ブッデンブローク 家の人々』を洗練され完成された藝術作品として絶賛していた。けれどもどういう風の吹 きまわしか、その一年後にはマン文学をデカダンスとニヒリズムの文学と酷評するように なった。やがてドイツと日本の全体主義化に迎合し、ヘッセ文学と並べてナチスの文学を 翻訳し称揚しはじめた。その際、反戦・反ナチの作家ヘッセには言及されていない。そし て戦争末期には敗戦を予見しながらも、山本有三や岸田国生に推薦されて大政翼賛会の文 化部長に就任、戦後は「ナチスに白眼視されていたケストナーやヘッセの翻訳者」46、さら には日本ペンクラブの会長として活躍していた。関楠生はこの「文学の商人」(高田理恵子)

47の以上のようなどう見ても釈然としない事実を実証している48。

戦後はトーマス・マンの翻訳と論評の分野でそれぞれ多大の業績を残した高橋義孝と佐 藤晃一の場合も、全般としては高橋健二の場合とパラレルであった。高橋義孝は『ナチス の文学』(1941 年)のなかでトーマス・マンの小説を「ほぼ完成の域」49 と評価し、彼の亡 命の原因を「非凡な批判精神にあった」50と述べて、その「(前略)幾多の作品と評論とが 再びドイツの精神を豊かにする日が来ないかどうか、何人にも断言することが出来ないよ うに思われる」51 と結んではいるけれども、ナチス文学を「ドイツ民族性を解釈し開示し 高揚するポリティアの精神に発する表現」52 と特徴づけ、郷土文学については以下のよう に記している。

凡てこれらの郷土文学は、一定の地域に根を下ろしたドイツ諸民族の運命・生活・神を書くことによって、

必然的にドイツ民族文学全体に深い関連を持ち、結局それら凡ては合して唯一の問題すなわち民族の運命 の問題の層まで掘り下げて行くものであり、正にそのことによって地域の特殊性と制限が止揚されるが、

新しい世紀のドイツ文学精神は、この領域に於ける長く埋もれた準備を除外しては到底考へられないもの である53

エーバーハルト・メッケルのナチス時代の言辞と多々共振共鳴するところがありはしない か。高橋義孝はヘッセを郷土作家としてここでこう論評しているのに先ず注目したい。

その出世作『ペーター・カーメンティント』(1904 年)は当時の郷土文学中での白眉と称せられるが、後 年の『デミアン』(1922年)、『荒野の狼』(1927年)等に於いては、漸次現実遊離の傾向が顕著になっ て来る。とまれヘッセは今日ドイツに於いては種々の意味から過去の詩人と見做されてゐるやうである54 けれども、同じ著者は戦後、『現代ドイツ文学』(1955年)に収められたエッセイ「ヘッセ問 題」では以下のような反転した論評を披露している。

『デミアン』、『ツァラトゥストラ』、『荒野の狼』などによってヘッセがヨーロッパ文明に加えた批判もほ

(12)

かならぬ魂の調和を求める人間の反抗の声なのであって、(中略)つまり彼の抒情的個人主義の必然的な結 論である55

佐藤晃一もまた、「『わが闘争』の絶賛者から『ドイツ抵抗文学』の著者へと見事に変身」(高 田理恵子)56していた。

上掲の諸事例からも端的に窺われる無節操、変化自在と思われる時局便乗は、何もドイツ 文学の世界に限られたものではなく、当時の知識人の全般的な現象であった。それは、「男 たちの涙と栄光と勘違い」(斎藤美奈子 朝日新聞 2001年

8

26

日)と茶化して済ますこ とのできない、日本精神の根深い機微にかかわる問題ではなかろうか。

日本の近代化は、西欧の場合のように「下からの」革命ではなく、「上からの」指導力に よって実現された「維新」なのであった。異質な西欧の文化も文明も、いわば木に竹を接 合するような要領で時流とパラレルに摂取されていた。したがって、既存の体制を崩壊さ せてきた西欧特有の「批判と革命の精神」は受肉化されはしなかった。異質な思想の同時 的併存や類似化によって、前近代と近代は表面では対立していても、深層では地下水的に 連続していた。こういう日本特有の文化状況においては、権力側への接近と人格の自主独 立という、相反するファクターが個人内部で共棲していた。いちおう近代化されていても、

封建時代以来の権力偏重の気分は根強い。火花を散らし命を賭しての対決はなく、すべて は現状追随的に終わってしまう。ナチズム賛美もファシズムもそうだった。最末期の西欧 文明に対して突きつけられたもっともラディカルな批判の刃となっていた、ナチズムとは 根本的に異質であった。すべては時の熱病のようなものであった。だから日本は軍国主義 の国家から戦後民主主義の国家に短期間で鞍替えすることができた。こういう俊敏器用な 適応能力は他国に類例を見ない。日独ファシズム双方の厳密な解析ができず、心情の次元 でナチス・ドイツを賛美し軍国主義に心情的に協力した知識人は数多い。高橋健二はこう いうエリート・教養人の際立った一例であった。ここに浮上してくるのは、西欧の様々な 思想を木に竹を接合するような要領で時流に追随して摂取してきたが故に、「すべてが程よ い湿めぽったさを保ちながら、センチメンタルなムードのなかでスムーズに流れていくわ が国の精神風土」(脇圭平)57である。鵺のように変化自在な日本精神と固有の「曖昧な」

原体質は変わっていない。ちなみに司馬遼太郎はこう語っていた。「日本人というのは、本 来無思想なのです。あるいは本来が無思想なればこそここまでこれえた、とも言えるので はないでしょうか」58。司馬のいう「無思想」とは、「思想を取り替え可能な<土木機械>、

技術にすぎないものとして扱う態度」59 と換言できようか。鵺のように変化自在な日本人 の心性の原型は変わっていない。「過去の克己と清算」という歴史的課題との対決が現在も 執拗に行われなければならない、ドイツの精神風土とのコントラストはあまりにも著しい。

メッケルの父親小説はこの重い問題をわが国の読者の「期待の地平」60 ともしていはしな いだろうか?日独間のこのコントラストは、ナショナリズムの研究にかんする丸山真男の 所論を転用するならば、「孤立した諸現象の孤立した観察や評価は危険であって、高度に文 脈的な、また全体関連的な考察」61 の裏づけなしには解明できない。必要なのは、文化の

(13)

他質性と同質性を先ず具体的であると同時に「全体関連的」な解読を目指す、日独双方間 の「解釈共同作業」である 62。エーバーハルト・シャイフェレの学問体系の鍵概念となっ ている「ドイツ文化の学際的・比較的研究」63 は、今やそれこそ転機に直面している、わ が国のゲルマニスティクの、ひいてはドイツ語教育の道標となっていはしないだろうか64。

1 Vgl. Wulf Segebrecht: Christoph Meckels Suchbild unter anderen Vaterbildern. In: Porträt 1 (hrsg.

v. Franz Loquai). Eggingen 1993, S.78f.

ピーター・ゲイ:『ワイマール文化』(みすず書房 1987年)137頁。

3 Franz Werfel: Nicht der Mörder, der Ermordete ist schuldig. Eine Novelle. München und Leipzig 1922,S.266.

4 Ebenda, S.185.

5 Vgl. Klaus Vondung: Die Apokalypse in Deutschland(dtv 4488). München 1988.

本書は、ドイツ文化における黙示録の系譜を総合的・学際的視点から詳述した労作であるが、表現主義 の黙示録的特性が随所で指摘されている。

6 Thomas Mann: Die Entstehung des Doktor Faustus. In: Gesammelte Werke. Bd. 11. Frankfurt/M.

1974, S.190.

7 Ebenda. S.190.

8 Vgl. Friedrich Meinecke: Die deutsche Katastrophe. Wiesbaden 1949.

三島憲一 『戦後ドイツ―その知的歴史―』(岩波書店 1991年)250頁参照。

ドイツの戦後問題にかんしてはその他下記の著作と論文からも貴重な教示を得た。

坂井栄八郎 『ドイツ史10講』(岩波新書826 2004年)

中正昌樹 『日本とドイツ 二つの戦後思想』(光文社新書213 2005年)

石田勇治 『20世紀ドイツ史』(白水社 2005年)

中正昌樹 『日本とドイツ 二つの全体主義』(光文社新書 261 2006年)

三島憲一 『現代ドイツ―統一後の知的軌跡―』(岩波新書994 2006年)

柳原初樹:『日本とドイツにおける戦後責任の諸相』(甲南大学 国際文化センター『言語と文化』 9 号 2005年)

柳原初樹 『戦後日独両国の「アイデンティティ」をめぐる知的バラダイム変遷』「KGゲルマニスティ ク」 11号 2007年)

10 Vgl. Jürgen Habermas: Zeitdiagnosen. Zwölf Essays. F/M 2003, S.67.

11 Thomas Mann: Deutschland und die Deutschen. In: Gesammelte Werke. Bd. 11, S.1146.

12中正昌樹:『日本とドイツ 二つの全体主義』78頁。中正昌樹:『日本とドイツ 二つの全体主義』78頁。

13 Vgl. Thomas Mann: Deutschland und die Deutschen. In: Gesammelte Werke. Bd. 11, S.1146f.

14 Vgl. Thomas Mann: Briefe 1937-1947. S.Fischer Verlag 1963, S.309.

15 Vgl. Thomas Mann: Deutschland und die Deutschen. In: Gesammelte Werke. Bd. 11, S.1146f.

(14)

Vgl. Thomas Mann:Betrachtungen eines Unpolitischen. In: Gesammelte Werke, Bd. 12, S.297f.

16 Friedrich Nietzsche: Menschliches, Allzumenschliches. In:Werke in drei Bänden. Bd.1. München 1954, S.851.

17 この問題にかんしては下記の著作に分りやすく詳述されている。

遠山義孝:『ドイツ現代文学の軌跡―マルティン・ヴァルザーとその時代(明石書店 2007年)

18 Vgl. Franz Werfel: a.a.O., S.57.

19松本健一:『歴史は文学の華なり、と』『司馬遼太郎の音』 中公文庫 1143 1998年 57-132頁)84 参照。

20 谷澤永一:『司馬遼太郎エッセンス』(文春文庫44 1996年)30頁。

21 Vgl. T. W. Adorno: Philosophie der neuen Musik. In: Gesammelte Schriften. Bd.12. Frankfurt/M 1975, S.71.

末国嘉己:[『史実と虚構』『司馬遼太郎の世界』 至文堂 2002年)89頁参照。

22 司馬遼太郎:『手堀り日本史』(文春文庫419 2007年)52頁。

23 Thomas Mann: Deutschland und die Deutschen. In: Gesammelte Werke. Bd. 11, S.1146.

24 Ernst Bloch: Erbschaft dieser Zeit. In:Gesamtausgabe 4 (werkausgabe). Frankfurta/M 1977, S.113.

25 Thomas Mann: Schicksal und Aufgabe. In:Gesammelte Werke, Bd. 12, S.926.

26 Vgl. Eigensinn. In: Hermann Hesse: Gesammelte Werke 10. Frankfurt a./M. 1970, S454-460.

この Eigennsinnというヘッセの生涯の信条については「我意」という高橋健二の訳語がいちおう定着

している。けれども、「意心固我」と訳した方が原意により近いと思う。

27 Vgl. Otto Friedrich Bollnow: Existenzphilosophie. Stuttgart 1960, S.33.

28 このきわめてデリケートな問題にかんしては下記の著書から貴重な示唆を得た。

池田浩士『ファシズムと文学 ヒトラーを支えた作家たち(白水社 1978年)

神品芳夫編著『自然詩の系譜 20世紀ドイツ詩の水脈に寄せて』(みすず書房 2004年)

29 Büchner-Preis-Rede 1972-1983 (Reclam 8011[3]) Stuttgart 1984, S.52.

30 エーバーハルト・シャイフェレ 下程息編『ビュ―ヒナー解読』―コロキウム形式による―(2002年)

85頁以下参照。

31 Büchner-Preis-Rede 1951-1971(Reclam 9332[3]) Stuttgart 1987, S.116.

32 司馬遼太郎『坂の上の雲』6(文芸春秋社 1972年)346頁。

33 Vgl: Segebrecht. a.a.O., S.88.

34 Christoph Meckel: a.a.O., S.1.

35 Vgl. Thomas Mann: Tagebücher 1933-1934. 12.7.1934. Frankfurt/M 1977, S.470.

36 Friedlich Meinecke: Die deutsche Katastrohe, S.85.

37 Vgl.In:Der Spiegel. Nr.34/21.8.06. 2006, S.46-68.

38 Vgl. Günter Grass: Beim Häuten der Zwiebel. Göttingen 2006.

39 Georg Büchner: Werke und Briefe. München-Wien 1980, S.256.

40谷澤永一:『司馬遼太郎エッセンス』 108頁。

(15)

41 Friedrich Nietzsche: Zur Generalogie der Moral. In: Werke in drei Bänden. Bd.2. München 1955, S.861.

42 Thomas Mann: Geist und Kunst. In: Thomas-Mann-Studien. Bd.1. Bern 1967, S.211.

43 Nietzsche. Jenseits von Gut und Böse. In : Werke. Bd. 2. S.727.

44 高田里恵子『文学部をめぐる病い』(松籟社 2001年)298頁。

拙論(フォーラム)「高田里恵子著『文学部をめぐる病い』に寄せて」(日本独文学会誌『ドイツ文学 110号 2002年 312-315頁)参照。

45 松下たえ子 「関楠生著 『ドイツ文学者の蹉跌』―自省と再考をうながす検証の力―(Laterne 99 Frühling 2008 17頁)。

46高田里恵子『文学部をめぐる病い』14頁。

47 同上 252頁。

48関楠生『ドイツ文学者の蹉跌―ナチスの波にさらわれた教養人(中央公論社 2007年)90頁、105-106 参照。

49 高橋義孝『ナチスの文学』(牧野書店 1941年)20頁。

50 同上 20頁。

51 同上 20頁。この事実にかんしては関楠生も上掲書の23-4頁で言及している。

52 同上 6頁。

53 同上 51-52頁。

54 同上 19-20頁。

55 高橋義孝 『現代ドイツ文学』(要選書77 1955年)134頁。

56 高田里恵子『文学部をめぐる病い』43頁。

57脇圭平『知識人と政治―ドイツ・1914~1933―(岩波新書 848 1973年)4頁。

58司馬遼太郎:『手堀り日本史』148頁。

59 鷲田小弥太:「司馬遼太郎と歴史観」総特集 司馬良太郎 幕末~近代の歴史観河出書房新社 2001年)

27頁。

60 Vgl. Hans Robert Jauss: Literaturgeschichte als Provokation(edition suhrkamp 18). Frankfurt a/M 1970, S.172.

61丸山真男 『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社 1968年) 284頁。

62 柳原初樹 『戦後日独両国の「アイデンティティ」をめぐる知的パラダイム変遷』(『KGゲルマニイス ティク』第11号 2006年 2007年刊行)106頁以下参照。

63 Vgl. Eberhard Scheiffele: Interkulturelle Germanistik und Komparatistik. In: Über die Rolltreppe.

München 1999, S.208-218; ders: Interkulturelle Germanistik und Literaturkomparastik: Konver- genzen, Divergenzen. in: Alois Wielacher u. Andrea Bogner: Handbuch interkulturelle Germani- stik. Stuttgart, Weimar 2003, S.569-576.

Vgl. Hatsuki Yanagihara: Ein Vergleich der Historikerstreite in den Nachkriegsgesellschaften Japans und Deutschlands (『KGゲルマニイスティク』第12号 2007年 2008年刊行).

(16)

64 柳原初樹 『異文化理解と外国語・外国文化境域―「知」のパラダイムの深化の道―』(甲南大学 国際文 化センター『言語と文化』 72003年)参照。

参照

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