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を光源氏に託す六条御息所の遺言によって 外戚ではない 卿宮ではなく光源氏に託す桐壺院の遺言や 秋好の 後見 遺 言 が 存 在 す る こ と に 気 づ く 源氏物語 は 似た遺言 へ依託を行う場合に大別でき その中にも共通する性格の 子供の両親の間で依託を行う場合と子供の親が親以外の者 たまへる

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Academic year: 2021

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はじめに

『 源 氏 物 語 』 の 遺 言 に つ い て は、 こ れ ま で 主 に 遺 言 を 受 けとめた者を規制する働きに注目して検討されてきた。長 谷川政春氏は、薫や大君、中の君だけでなく、作者の思惟 までも「呪縛」する八の宮の遺言の働きを論じ た ⎝ 1 ⎠ 。また藤 井 貞 和 氏 は、 桐 壺 更 衣 の「 聞 こ え ま ほ し げ な る こ と 」 ( 桐 壺 ① 二 三 頁 ) を 光 源 氏 の 立 坊 を 望 む「 遺 言 」 と 解 釈 し、 「 光 宮が将来、天皇位にたわむれてゆく」構想を見出 す ⎝ 2 ⎠ 。この 藤井説に対して関根賢治氏は、更衣の「聞こえまほしげな ること」や高麗相人の観相の内容を後の叙述から遡って解 釈していると批判し、若紫巻の夢告や澪標巻の宿曜の勘申 なども含めて「構想が変奏され、 増幅されることによって、 物語表現が受肉化される」と説い た ⎝ 3 ⎠ 。以上の諸論では遺言 の内容や規制力への着眼を通して、物語展開の方法や作り 手の構想、物語の長編化の様相が論じられている。 一方受け手を規制する遺言の働きではなく、 「後見」の関 係を結びつける働きに注目したのが加藤洋介氏である。加 藤氏は、親の「後見」を持たない姫君がその代役としての 夫を得る過程を描く 『うつほ物語』 や 『落窪物語』 に対し、 『源氏物語』では「死や出家を目前にした親が娘の「後見」 を 他 者 に 依 託 ( 遺 言 ) し、 そ れ が ど の よ う に 実 行 さ れ て ゆ くのかを描かれてゆくことが多くなる」と指摘す る ⎝ 4 ⎠ 。そし て 物 語 文 学 の「 後 見 」 は「 特 定 の 人 間 関 係 に 限 定 さ れ ず、 他者に依託することで次々と補完されてゆく」と説明した うえで、朱雀帝や春宮冷泉の「後見」を外戚右大臣や兵部

『源氏物語』における後見の依託

――

遺言の物語の型について

――

山口

 

一樹

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卿宮ではなく光源氏に託す桐壺院の遺言や、 秋好の「後見」 を光源氏に託す六条御息所の遺言によって、外戚ではない 光源氏の政権獲得が可能になると説い た ⎝ 5 ⎠ 。 『 源 氏 物 語 』 の 遺 言 を 概 観 す る と、 光 源 氏 が 玉 鬘 の 処 遇 について指示した「亡せたまひなむ後のことども書きおき た ま へ る 御 処 分 の 文 」 ( 竹 河 ⑤ 六 〇 頁 ) の よ う に 財 産 分 与 を 定める遺言や、宿願が叶わなければ海に身を投げるよう娘 を 戒 め た と い う 明 石 入 道 の「 遺 言 」 ( 若 紫 ① 二 〇 四 頁 ) な ど 受け手のみに関わる内容を指示する遺言もみられる。しか し多くは、遺言をのこす者が遺言を受ける者に、ある人物 の 後 事 を 託 す 形 式 の も の で あ る。 『 源 氏 物 語 』 の 遺 言 は 人 物の関係を新たに結びつけるものが多いといえよう。そし て依託の対象となっているのは、大方の場合、遺言をのこ す者が庇護していた子供である。 本稿では加藤説の成果を受け、これら子供の後事を託す 遺言について物語展開の類型性に焦点を充て検討をおこな う。主に加藤説では触れられていない遺言、もしくは遺言 と捉えられる作中人物の言動を「後見」や「遺言」の語の 有無に拘らず取り上げ る ⎝ 6 ⎠ 。各事例の検討においては、誰か ら誰へ子供の後事が託されているか、という点に注目した い。 後 事 を 託 す 人 物 と 託 さ れ る 人 物 の 続 柄 に 着 目 す る と、 子供の両親の間で依託を行う場合と子供の親が親以外の者 へ依託を行う場合に大別でき、その中にも共通する性格の 遺 言 が 存 在 す る こ と に 気 づ く。 『 源 氏 物 語 』 は、 似 た 遺 言 を繰り返すなかで新たな趣向の物語を生み出しているので はないか。以下、 『源氏物語』には男親が女親に娘の入内を 託す発想や男君が後見の依託を仕立て上げる発想、娘の後 事を託すことで男君との関係が成立する発想を物語の型と して見出すことができる、 という問題について考察したい。

(一)子供の両親の間での依託

まず、両親の間で子供の後事を依託する場合について考 える。そのうち男親から女親への依託といえるのが、桐壺 更衣父大納言の遺言である。先行研究には家の遺志の存在 か ら 故 大 納 言 家 と 明 石 一 族 の 相 似 に 注 目 す る 論 も あ る が ⎝ 7 ⎠ 、 ここでは桐壺更衣父大納言の遺言と竹河巻の鬚黒の遺言と の類似について検討しておきた い ⎝ 8 ⎠ 。 故大納言、いまはとなるまで、ただ、この人の宮仕の 本意、かならず遂げさせたてまつれ。我亡くなりぬと て、口惜しう思ひくづほるなと、かへすがへす諫めお かれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなきま じらひは、 なかなかなるべきことと思ひたまへながら、

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ただかの遺言を違へじとばかりに出だし立てはべりし を、 (桐壺①三〇頁) 桐壺更衣の母君は、靫負命婦に夫大納言が娘の入内につ いて遺言した過去を語り、桐壺更衣が身に余る帝の寵愛か ら妬まれ、死に至ったことへの恨みを口にする。大納言の 遺言は娘の「宮仕の本意」を妻に託すものだが、その内容 がすでに実行された時点で回想的に語り出されている点が 特徴である。妻が夫の遺志を実行する経緯に眼目があるの ではなく、靫負命婦を介して帝に伝えられることに意義が あると思しい。 次の本文は、桐壺帝が命婦から母君の様子を聞き伝えた 場面である。 「 故 大 納 言 の 遺 言 あ や ま た ず、 宮 仕 の 本 意 深 く も の し たりしよろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたり つれ、言ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあ は れ に 思 し や る。 「 か く て も、 お の づ か ら、 若 宮 な ど 生ひ出でたまはば、さるべきついでもありなむ。寿く とこそ思ひ念ぜめ」などのたまはす。 (桐壺①三四頁) 桐壺帝は、母君が大納言の遺言を守って更衣を入内させ たことに対して、更衣の存命中に礼を示すことのできなか った無念を語り、光源氏が成長したあかつきに「さるべき ついで」もあろうと言う。この「さるべきついで」は、 『湖 月抄』が「若宮を春宮にもとおぼしめす御心なるべし」と 注 し ⎝ 9 ⎠ 、前掲の藤井氏も説くよう に ⎠₁₀ ⎝ 、光源氏の立坊を含ませ た言葉とみたい。すなわち、母君が桐壺帝に大納言の「宮 仕の本意」と更衣を亡くした恨みを伝えることは、家の遺 志を負う更衣が無理な入内を果たしたにも拘わらず報いる ことのできなかった帝の無念さを喚起し、代償として光源 氏立坊を思い立たせるのである。以後第一皇子立坊により 光源氏の立坊が断念された時点で母君は亡くなることにな る (桐壺①三八頁) 。 桐壺巻の物語において大納言の遺言は、母君が後見不在 のなかで更衣を入内させた理由を示すとともに、桐壺帝が 光源氏立坊を決意する脈絡のうえに位置づけられていると いえよう。そのためか、更衣の母君が遺言を実行する過程 は描かれることがなかった。 桐壺更衣父大納言の遺言がすでに実行された時点で語り 出されていたのに対し、竹河巻では物語冒頭で娘たちの入 内を願う鬚黒の遺志が語られている。 尚侍の御腹に、故殿の御子は男三人、女二人なむおは しけるを、さまざまにかしづきたてむことを思しおき て て、 年 月 の 過 ぐ る も 心 も と な が り た ま ひ し ほ ど に、

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あへなく亡せたまひにしかば、夢のやうにて、いつし かと急ぎ思しし御宮仕もおこたりぬ。 (竹河⑤五九 ─ 六〇頁) 鬚黒が玉鬘に娘たちの入内について遺言したことは、の ち 蔵 人 少 将 か ら 大 君 参 院 を 嘆 く 手 紙 が 送 ら れ て き た 場 面 で、玉鬘が「限りなきにても、ただ人にはかけてあるまじ き も の に 故 殿 の 思 し お き て た り し も の を 」 ( 竹 河 ⑤ 八 七 頁 ) と回想していることからも読み取れる。竹河巻の物語では 冒頭で夫鬚黒の遺志が語られたのち、それを継ぐ妻玉鬘の 判断を語ることが展開の主軸となっていく。 内裏にも、かならず宮仕の本意深きよしを大臣の奏し おきたまひければ、おとなびたまひぬらむ年月を推し はからせたまひて仰せ言絶えずあれど、中宮のいよい よ 並 び な く の み な り ま さ り た ま ふ 御 け は ひ に お さ れ て、皆人無徳にものしたまふめる末に参りて、遥かに 目をそばめられたてまつらむもわづらはしく、また人 に劣り数ならぬさまにて見む、はた、心づくしなるべ きを思ほしたゆたふ。 (竹河⑤六一頁) 玉鬘は鬚黒の遺志を受け、姫君たちの行く末をどのよう に定めるべきか悩む。鬚黒が今上にも姫君たちの「宮仕の 本意」について言い遺していたため、帝からも入内を求め られるが、明石中宮が寵を独占していることに憚り姫君た ちの参内をためらう。 桐壺更衣の母君と異なり、玉鬘は夫の遺志を引き受けな がらも、自らの判断のもとで行動していくのである。以後 玉鬘は、冷泉院の意に反して鬚黒の妻となった過去の償い に大君を参院させ、 中の君は今上へ尚侍として出仕させる。 桐壺巻と竹河巻には夫が妻へ娘の入内を託す遺言が共通し てみられるが、物語の文脈における位置づけが異なり、竹 河巻では妻が夫の遺志を受け娘の処遇を定めていく過程が 描かれていくのである。 このように『源氏物語』の子供の後事を託す遺言につい て、その託され方に注目すると、似た形式の遺言が繰り返 されていることや、繰り返しのなかで過去とは異なる趣向 の物語が描き出されていることが指摘できる。 『源氏物語』 内で似た構図の物語の反復がみられることは多く指摘があ るが、 遺言の発想に関しても同様のことが言えるのである。 また物語内で似た形式の遺言がみられることは、その内 容の解釈にも影響を及ぼしているのではないか。次に、女 親から男親へ子供の後事が託される事例として八の宮北の 方の遺言を取り上げる。 限りのさまにて、 何ごとも思しわかざりしほどながら、

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これをいと心苦しと思ひて、 「ただ、この君をば形見に 見たまひて、あはれと思せ」とばかり、ただ一言なん 宮に聞こえおきたまひければ、前の世の契りもつらき をりふしなれど、さるべきにこそはありけめと、 (橋姫⑤一一九頁) 臨終前に八の宮北の方は、中の君を自身の形見として育 てるよう八の宮に言い遺した。姫君に仕える女房たちが中 の君を厭うのに対し、八の宮は北の方の遺言を思い、姉君 と分け隔てなく妹君を養育する。北の方の遺言は、八の宮 が在俗のまま中の君を受け容れ養育する契機になっている のだろう。 このように宇治の物語の始発に女親が男親へ子供の後事 を託す遺言が存在することは、正篇の始発に位置する臨終 前の桐壺更衣の「聞こえまほしげなること」について、光 源氏の後事を託したとする解釈が生じることと関わるので はないか。 「 限 り あ ら む 道 に も 後 れ 先 立 た じ と 契 ら せ た ま ひ け る を。さりともうち棄ててはえ行きやらじ」とのたまは するを、女もいといみじと見たてまつりて、    「か ぎ り と て 別 る る 道 の 悲 し き に い か ま ほ し き は 命なりけり いとかく思ひたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞 こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげに たゆげなれば、 (桐壺①二二 ─ 三頁) 臨終前の桐壺更衣の言葉は「いとかく思ひたまへましか ば 」 で 中 断 さ れ る。 「 聞 こ え ま ほ し げ な る こ と は あ り げ な れど」と何か言いたげな更衣の様子が帝の目を通して語ら れるのみで、語り手によって更衣の内面が明かされること は な い。 三 田 村 雅 子 氏 は「 い と か く 思 ひ た ま へ ま し か ば 」 の反実仮想の意味について、 「不分明なまま、最期の別れの 歌 の、 生 き た い (「 い か ま ほ し き は 命 な り け り 」) と い う 言 葉 の意味まで曖昧なものとなったまま投げ出されているので ある」と説 く ⎠₁₁ ⎝ 。三田村説のとおり桐壺更衣の沈黙は、当座 において複数の解釈を惹起する性格を持つであろう。 様々に理解され得る桐壺更衣の「聞こえまほしげなるこ と 」 に 光 源 氏 の 将 来 を 託 そ う と す る 意 志 を 汲 み 取 る の は、 読み手が後の叙述や先行文学との関係を踏まえて解釈を行 うことによる。 のちに語られる父大納言の遺言から遡れば、 その遺志を継いだ「遺言」と読むことがで き ⎠₁₂ ⎝ 、『漢書』外戚 伝の李夫人の故事を重ね合わせても、帝に子の将来を託そ うとする願いを読み取ることができ る ⎠₁₃ ⎝ 。賢木巻以後の桐壺 帝の遺言にまつわる物語が故大納言の遺言遵守による桐壺

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更衣の入内を想起させ、光源氏の将来を託す「遺言」とす る解釈を喚起するという説もあ る ⎠₁₄ ⎝ 。 それらに加えて八の宮北の方の遺言も、桐壺更衣の「聞 こえまほしげなること」を妻が夫に子供の後事を託そうと し た 遺 言 と す る 解 釈 を 引 き 起 こ す 働 き を も つ の で は な い か。 八の宮北の方の母の遺言と桐壺更衣の臨終前の沈黙は、 ともに主人公格となる人物の母の死に伴う叙述である。共 通 す る 図 式 の な か に あ る 言 葉、 沈 黙 で あ る こ と に よ っ て、 似た内容の遺言として読み手に理解され得るものであると 考えたい。 以上、桐壺巻から竹河巻へ夫が妻に娘の入内を託す遺言 が繰り返されるなかで、竹河巻では桐壺巻で描かれていな か っ た 夫 の 遺 志 を 受 け た 妻 の 判 断 が 描 か れ て い く こ と や、 八の宮北の方の遺言は、桐壺更衣の沈黙について妻が夫に 子供の後事を託そうとしたものとする解釈を喚起し得るこ とを指摘した。次節では子供の親が親以外の者へ子供の後 事を依託する場合を取り上げ、親同士で依託を行う場合と の相違について、とくに紫の上祖母尼君の遺言を取り上げ 検討する。

(二)子供の親から親以外の者への依託

は じ め に 参 照 し た 加 藤 説 で は 六 条 御 息 所 の 遺 言 に つ い て、光源氏に「秋好を「思ほし人」めかして考えぬように と諌めているのも、異性間の「後見」が、多く結婚形態を と る こ と で 実 行 さ れ て い く か ら で あ る 」 と 指 摘 し て い る ⎠₁₅ ⎝ 。 すなわち男女間の後見は結婚の形式をとって行われるのが 基本であるため、親から親以外の者へ、子供とくに娘の後 事を託すことは親から親への依託と異なり男女関係の成立 につながり得るのである。六条御息所の遺言の場合、光源 氏が娘に懸想することを禁じたことで結婚に発展すること はなく、依託を後ろ盾とする冷泉後宮への入内に移行する が、後事を託すことが男女関係の容認を意味する場合もあ る。紫の上祖母尼君の遺言である。 「 乱 り 心 地 は 、 い つ と も な く の み は べ る が 、 限 り の さ ま になりはべりて、いとかたじけなく立ち寄らせたまへ るに、みづから聞こえさせぬこと。のたまはすること の筋、たまさかにも思しめし変らぬやうはべらば、か くわりなき齢過ぎはべりて、かならず数まへさせたま へ。いみじう心細げに見たまへおくなん、願ひはべる 道の絆に思ひたまへられぬべき」 など聞こえたまへり。

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(若紫①二三六 ─ 七頁) 尼君は紫の上の祖母ではあるが故母君の親代わりでもあ り、その言葉は「限りのさまになりはべりて」と死期を予 感したものであることがわかる。 見舞いに訪れた光源氏に、 紫の上がある程度の年齢まで育ったのち顧みてほしいと後 事を託し、 条件付きではあるが二人の関係を許すのである。 この遺言の特徴は、 紫の上の後事を光源氏に託す一方で、 父親である兵部卿宮に託さないことである。本来実の父親 である兵部卿宮は、まだ幼い紫の上の世話役として最もふ さわしい人物ではないか。 紫の上の後事を父親へ託さないことの背景には、継母に 対する警戒を読み取りたい。北山の僧都が光源氏に語った 言葉には、 「もとの北の方やむごとなくなどして、安からぬ こと多くて、明け暮れものを思ひてなん亡くなりはべりに し 」 ( 若 紫 ① 二 一 三 頁 ) と 紫 の 上 の 母 は 先 妻 と の 関 係 に 生 じ る心労により亡くなったとある。尼君が亡くなったのち少 納言の乳母は、光源氏に「あまたものしたまふなる中の侮 ら は し き 人 に て 交 じ り た ま は ん な ど、 過 ぎ た ま ひ ぬ る も、 世 と と も に 思 し 嘆 き つ る も 」 ( 若 紫 ① 二 四 一 頁 ) と 尼 君 は 紫 の上が継子として虐待されることを危惧していたと伝えて いる。のちに光源氏は、式部卿宮が迎える前に紫の上を二 条院に連れ去る。紫の上の成長を待たずに盗み出すことは 一面では尼君の遺言を違えることになるが、継母北の方に よる継子いじめを回避する意味ももつのである。 以 上 の よ う に 親 か ら 親 以 外 の 者 へ 子 供 の 後 事 を 託 す 場 合、男女関係に発展する可能性を含むことが確認され、尼 君による光源氏への依託は、少納言乳母の発言などから継 母 の 虐 待 を 回 避 し よ う と す る 意 図 を 読 み 解 く こ と が で き る。そして親が男君へ娘の後事を託す発想は、この尼君の 遺言ののち男君が後見の依託を仕立て上げる形へと変化が 加えられ、朱雀院による女三宮の後事の依託や八の宮によ る 娘 た ち の 後 事 の 依 託 に 繰 り 返 さ れ て い る の で は な い か。 次節以後、さらに検討を加える。

(三)依託を仕立て上げる男君

次の本文は、玉鬘の尚侍出仕について光源氏が夕霧から 詰問を受ける場面である。夕霧は、光源氏が蛍兵部卿宮と の縁談を断り、すでに秋好中宮と弘徽殿女御が寵を独占し ている冷泉後宮に玉鬘を出仕させる不自然さを突く。 「 か の 母 君 の あ は れ に 言 ひ お き し こ と の 忘 れ ざ り し か ば、心細き山里になむと聞きしを、かの大臣はた、聞 き入れたまふべくもあらずと愁へしに、いとほしくて

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かく渡しはじめたるなり。 ここにかくものめかすとて、 かの大臣も人めかいたまふなめり」とつきづきしくの たまひなす。 (藤袴③三三五頁) 夕霧の詰問に対して光源氏は、玉鬘の母から娘の後事を 託 さ れ て い た の で、 玉 鬘 が 内 大 臣 か ら 顧 み ら れ ず「 山 里 」 で生活を送っているのを不憫に思って六条院に迎えたのだ と言う。この「母君のあはれに言ひおきしこと」について 『 岷 江 入 楚 』 の 三 条 院 実 枝 説 聞 書 で は「 夕 か ほ の 上 の 事 を 源のゝ給ひいたす也   此段はさもなき事をつくり出しての 給ふ也   仍つき〳〵しきといへり」と解す る ⎠₁₆ ⎝ 。実際、夕顔 が娘の後事を光源氏に託したという遺言は物語に語られて いない。夕顔は玉鬘の存在を光源氏に打ち明けることなく 亡くなるのであり、光源氏は右近に「人にさとは知らせで 我に得させよ。あとはかなくいみじと思ふ御形見に、いと う れ し か る べ く な ん 」 ( 夕 顔 ① 一 八 六 頁 ) と 自 ら 玉 鬘 の 養 育 を申し出ている。光源氏は存在しない遺言を作り上げるこ とで、玉鬘を引き取り尚侍として出仕させるのも母君の遺 志を継ぐ行為であると主張するのである。 こ の よ う に 男 君 が 後 事 を 託 す 遺 言 を 仕 立 て 上 げ る 発 想 は、夕霧巻で夕霧が言及する一条御息所の「遺言」にも共 通 す る の で は な い か。 光 源 氏 に よ る 夕 顔 の 遺 言 の 捏 造 は、 その場を取り繕う以上の意味は持たないが、夕霧が一条御 息所の遺言を仕立て上げることは、落葉宮を得る展開と深 く関わっていると考える。 次は落葉宮を一条宮へ移したことについて花散里が夕霧 に当否を尋ねる場面である。 「 故 御 息 所 は、 い と 心 強 う あ る ま じ き さ ま に 言 ひ 放 ち たまうしかど、限りのさまに御心地の弱りけるに、ま た見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の 後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心 ざ し も は べ り し こ と に て、 か く 思 た ま へ な り ぬ る を、 さまざまに、いかに人あつかひはべらむかし。 」 (夕霧④四六九頁) 夕霧は取り沙汰されている落葉宮との関係が事実である ことを認めながらも、一条御息所に後見を託されていたの だと言う。そして、仮に落葉宮が出家を果たしたとしても 御息所の遺言を違えまいと思うから今も心厚く世話をして いるのだと述べ、機会があれば光源氏にも今伝えたように とりなして欲しいと頼む。 「亡からむ後の後見に」について、 『湖月抄』は「夕霧の 空言にのたまふ也」と説く。一条御息所の「遺言」は、全 くの事実無根ではないが夕霧によって仕立て上げられたも

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のであると考えたい。御息所は生前夕霧の薄情さをあてこ する手紙を送っている。 なほ、いかがのたまふと気色をだに見むと、心地のか き乱りくるるやうにしたまふ目押ししぼりて、あやし き 鳥 の 跡 の や う に 書 き た ま ふ。 「 頼 も し げ な く な り に てはべる、とぶらひに渡りたまへるをりにて、そその かしきこゆれど、いと晴れ晴れしからぬさまにものし たまふめれば、見たまへわづらひてなむ、    女郎花しをるる野辺をいづことてひと夜ばかりの 宿をかりけむ」 (夕霧④四二五 ─ 六頁) 夕霧から落葉宮のもとに送られてきた手紙は薄情さをな じるものであり、契りを交わした者の後朝の文としては情 の浅い内容であった。実際には夕霧は落葉宮に拒まれ実事 に至らなかったのであるが、落葉宮の世評を憂慮する御息 所は夕霧の意中を確かめるべく手紙を送る。 『 河 海 抄 』 が 指 摘 す る よ う に、 御 息 所 の 和 歌 に は 引 歌 と して「秋の野にかりぞ暮れぬる女郎花今夜ばかりの宿はか さ な ん 」 (『 貫 之 集 』・ 一 五・ 詞 書「 こ た か が り 」 / 『 古 今 六 帖 』 二・ こ た か が り・ 一 二 〇 一・ 紀 貫 之・ 下 句「 こ よ ひ ば か り の や ど も か さ な ん 」) が 認 め ら れ る で あ ろ う ⎠₁₇ ⎝ 。 引 歌 の 発 想 に 拠 り な が ら 詠 歌 の 視 点 を「 女 郎 花 ( 女 ) 」 の 側 に 寄 せ、 戯 れ の つ もりで娘のもとを尋ねたのかと訴えたものである。夕霧の 側からすれば、たしかに落葉宮との関係が許容されたもの と読むことはできる。 しかし一条御息所の手紙は、あくまでも夕霧の来訪を促 し意中を確かめようとしたものであり、死期を悟って娘の 後事を託したものではない。夕霧が「遺言」と呼ぶほどの 意義を認めることはできないであろう。夕霧自身、雲居雁 に奪われた御息所の手紙を発見した際には「おぼろけに思 ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ、つれなくて今宵 の 明 け つ ら む 」 ( 夕 霧 ⑤ 四 三 三 頁 ) と そ の 心 中 を 察 し て も い る。 夕霧は一条御息所から送られてきた手紙を、自分の都合 に合わせて「遺言」に仕立て上げたのである。先に述べた 通り、親が男君へ娘の後事を託すことは関係を容認する意 味も含む。夕霧と落葉宮の関係については、皇女への憧憬 に基づく私通婚である藤原師輔と醍醐天皇の皇女たちの関 係などと共通すると捉える説もある が ⎠₁₈ ⎝ 、実態が私通婚であ っても夕霧は表向き母御息所からの裁可を受けた結婚に見 せかけようとしているのではないか。御息所の「遺言」を 後ろ盾とすることで、雲居雁を妻に持ちながらその兄の妻 であった落葉宮と関係をもつことや皇女独身の旧い通念に

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反することを正当化しようとしているのだといえよう。 これは光源氏が夕顔の後見の遺言を捏造し玉鬘の処遇を 正当化しようとしたことと類似するのではないか。光源氏 による夕顔の遺言の捏造が場当たり的で結果として玉鬘を 鬚黒に奪われたのに対し、夕霧は一条御息所の「遺言」を 大義名分にすることで身内の追及を逃れ、落葉宮との結婚 を実現させる。すなわち、男君が遺言を捏造したり仕立て 上げたりする発想を繰り返すなかで、夕霧巻では、親以外 の者へ後事の依託を行うことが男女関係の成立につながり 得ることを背景に、夕霧と落葉宮の恋を描き得ているので ある。

(四)朱雀院と八の宮による依託

祖母尼君による紫の上の後事の依託のように、女君の庇 護者が男君に後事を託すことが男女関係の契機になるとい う意味において、朱雀院による女三宮の後事の依託や八の 宮による娘たちの後事の依託も類似の事例と捉えられるの ではないか。そして朱雀院による依託では、依託相手を選 ぶ経緯が詳細に描かれる点に特徴があると考えたい。 光源氏への女三宮降嫁は、作中人物同士の対話を経て必 然の結果として導びかれることが指摘されている が ⎠₁₉ ⎝ 、女三 宮の後事を婿となり得る者へ依託するに至る事情も周到に 設定されている。朱雀院の場合、出家山籠りを前に女三宮 の後事を他者へ託す必要に迫られるのであるが、当初は春 宮や承香殿女御へ女三宮の後事を託そうとしていた。 「 三 の 宮 な ん、 い は け な き 齢 に て、 た だ 一 人 を 頼 も し きものとならひて、うち棄ててん後の世に漂ひさすら へ む こ と、 い と い と う し ろ め た く 悲 し く は べ る 」 と、 御目おし拭ひつつ聞こえ知らせさせたまふ。 女御にも、 心 う つ く し き さ ま に 聞 こ え つ け さ せ た ま ふ。 さ れ ど、 母女御の、人よりはまさりて時めきたまひしに、みな いどみかはしたまひしほど、御仲らひどもえうるはし からざりしかば、そのなごりにて、げに、今はわざと 憎しなどはなくとも、まことに心とどめて思ひ後見む とまでは思さずもやとぞ推しはからるるかし。 (若菜上④二〇 ─ 一頁) のちに朱雀院が語る皇女の結婚を軽薄なものとする考え や、 当 代 で は 皇 女 へ の 私 通 が 多 発 し て い る と い う 認 識 ( 若 菜上④三二 ― 三頁) は、 『継嗣令』に象徴される皇女独身主義 や、とくに醍醐朝以後他氏による私通婚が増加する史実と 共通す る ⎠₂₀ ⎝ 。女三宮の後事を春宮に託すことは、女三宮が独 身でいることを可能にし、起こり得る私通を未然に防ぐこ

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とにもつながるだろう。春宮は内親王である女三宮が身を 寄せる相手としてふさわしい者であったと考える。 しかし朱雀院は、藤壺女御と寵を争った過去をもつ承香 殿 女 御 が 女 三 宮 に 心 を 寄 せ 後 見 し な い で あ ろ う と 予 測 す る。承香殿女御が女三宮と確執を持つことは、その子春宮 に よ る 庇 護 も 期 待 で き な い こ と を 示 唆 す る の で は な い か。 朱雀院が予想した通り、この場面ののち承香殿女御が女三 宮に心寄せる様子はみられない。そして東宮が女三宮の後 見役として行動する姿が語られるようになるのは即位後の こ と で あ る が ( 若 菜 下 ④ 一 六 六 頁 ) 、 承 香 殿 女 御 の 死 ( 若 菜 下 ④ 一 六 五 頁 ) が 語 ら れ た 後 の 時 点 で も あ る。 朱 雀 院 が 逝 去 したのちの宿木巻に父の依託を重んじ出家した女三宮に心 を 配 る 様 子 は み ら れ る が ( 宿 木 ⑤ 四 七 七 頁 ) 、 春 宮 に と っ て 母の存在も大きかったのではないか。かつて朱雀帝自身が 母弘徽殿女御の意に背くことができず、父桐壺院の遺言を 違えた時と似た事情があったように思われる。 春宮や承香殿女御への後事の依託は、後宮での不和に発 する継母継子関係の軋轢により意味をなさず、以後朱雀院 は夕霧、冷泉帝、蛍宮、藤大納言、柏木を女三宮の婿候補 として吟味したうえで、光源氏に嫁することを決める。 「 か た は ら い た き 譲 り な れ ど、 こ の い は け な き 内 親 王 ひとり、とりわきてはぐくみ思して、さるべきよすが をも、御心に思し定めて預けたまへと聞こえまほしき を。権中納言などの独りものしつるほどに、進み寄る べくこそありけれ、大臣に先ぜられて、ねたくおぼえ はべる」と聞こえたまふ。 (若菜上④四九頁) 朱 雀 院 は 光 源 氏 に 女 三 宮 の 将 来 の 婿 選 び も 託 し て い る が、結果的に両者の関係は結婚の形で結ばれる。 尼君による紫の上の後事の依託と朱雀院による女三宮の 後 事 の 依 託 に 一 定 の 共 通 性 を 認 め つ つ 相 違 点 を 考 え れ ば、 孫の後事を依託するに至る尼君の葛藤は、先述の通り光源 氏の視点に即した語りのなかで乳母の発言などから推測す る形になっていたのに対して、朱雀院の依託では、尼君の 場合には描かれなかった依託相手を選ぶまでの経緯が詳細 に描かれているといえよう。 さらに八の宮が娘の後事を薫に託すことも、尼君や朱雀 院の依託と共通する発想と考えられるのではないか。橋姫 巻 で は 阿 闍 梨 が 冷 泉 院 に 八 の 宮 の 噂 を 語 る 場 面 に お い て、 朱雀院による光源氏への依託が回想されてもいる。 この院の帝は、十の皇子にぞおはしましける。朱雀院 の、故六条院にあづけきこえたまひし入道の宮の御例 を思ほし出でて、かの君たちをがな、つれづれなる遊

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びがたきに、などうち思しけり。 (橋姫⑤一二九頁) 阿闍梨の話を聞いた冷泉院は八の宮から姫君たちを迎え たく思うが、八の宮がかつて立坊争いで敵対した院に娘の 後事を託すとは考えがたい。実際娘の後事を託す相手につ いて思案する場面では、冷泉院の存在は意識されていない (椎本⑤一七七 ─ 八頁) 。 朱雀院による女三宮の後事の依託を想起させながら、大 君と中の君の後事は薫に託されることとなる。 「 亡 か ら む 後、 こ の 君 た ち を さ る べ き も の の た よ り に もとぶらひ、思ひ棄てぬものに数まへたまへ」などお もむけつつ聞こえたまへば、 「一言にてもうけたまはり おきてしかば、さらに思ひたまへ怠るまじくなん。世 の中に心をとどめじとはぶきはべる身にて、何ごとも 頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方 にてもめぐらひはべる限りは、変らぬ心ざしを御覧じ 知 ら せ ん と な む 思 ひ た ま ふ る 」 な ど 聞 こ え た ま へ ば、 うれしと思いたり。 (椎本⑤一七九頁) 親からの後事の依託を受け、薫が八の宮の娘たちと関係 をもつことは容認されたに等しい。しかし八の宮は、姫君 た ち に は 軽 薄 な 結 婚 を 慎 む よ う 遺 言 し ( 椎 本 ⑤ 一 八 四 ─ 頁 ) 、 女 房 た ち も 同 じ よ う に 戒 め る ( 椎 本 ⑤ 一 八 六 頁 ) 。 先 行 研究の指摘する通り、八の宮の遺言は内容が微妙に食い違 い、 そ れ ぞ れ の 受 け 手 の 判 断 の も と で 物 語 は 進 展 し て い く ⎠₂₁ ⎝ 。とくに大君にとって父の遺言は、薫の求婚を拒否する 動機の一つとなる。 すなわち八の宮による娘たちの後事の依託は、それ以前 に繰り返された後事の依託により女君と男君の関係が成立 する発想の系譜に位置し、男君への依託と対抗する内容の 遺言も存在することで、結婚拒否の物語が進展する一助と なり得ているのである。

おわりに

『 源 氏 物 語 』 に お い て 子 供 の 後 事 を 依 託 す る 遺 言 は 作 中 人物同士の関係性を新たに結びつける常套として用いられ ているが、その託され方に注目すると発想の型を見出すこ とができる。具体的に本稿では、男親から女親へ娘の入内 を託す事例として故大納言と鬚黒の遺言を、男君が後見の 依 託 を 仕 立 て 上 げ る 事 例 と し て 夕 顔 と 一 条 御 息 所 の 遺 言 を、後事の依託によって女君と男君の関係が成立する事例 として尼君と朱雀院、八の宮による依託を取り上げた。そ れぞれ後の事例では、前の事例には描かれなかった遺言を 実行する経緯や依託によって拓かれる展開、依託相手を選

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ぶ過程などが描かれるようになる。 このように『源氏物語』では、似た発想の遺言を繰り返 すなかで微細なずらしが加えられることによって、新たな 趣向の物語が生み出されているといえよう。 ︻注︼ ( 1 ) 長谷川政春 「宇治十帖の世界 ― 八宮の遺言の呪縛性 ― 」( 『物 語 史 の 風 景 』 若 草 書 房、 一 九 九 七 年、 初 出 一 九 七 〇 年 )。 長 谷 川 説 の の ち、 遺 言 の 受 け 手 で あ る 薫、 姫 君、 女 房 ら は、 三 者 三 様 の 主 体 的 な 判 断 の も と で 遺 言 を 引 き 受 け て い る こ と が 指 摘 さ れ て い る。 森 一 郎「 大 君 と 中 君 」( 『 源 氏 物 語 作 中 人 物 論 』 笠 間 書 院、 一 九 七 九 年、 初 出 一 九 七 六 年 )、 三 谷 邦 明「 源 氏 物 語 第 三 部 の 方 法 ―― 中 心 の 喪 失 あ る い は 不 在 の 物 語 ―― 」( 『 物 語 文 学 の 方 法   Ⅱ 』 有 精 堂 出 版、 一 九 八 九 年、 初 出 一 九 八 二 年 )、 神 田 龍 身「 薫 と 大 君 ―― 不 能 的 愛 の 快 楽 」( 『 源 氏 物 語 = 性 の 迷 宮 へ 』 講 談 社、 二 〇 〇 一 年 )、 沼尻利通 「八宮の遺言の動態 ― 「一言」 「いさめ」 「いましめ」 か ら ― 」( 小 山 清 文・ 袴 田 光 康 編『 源 氏 物 語 の 新 研 究 ― 宇 治 十帖を考える』新典社、二〇〇九年)等。 ( 2) 藤井貞和 「ふたたび 「桐壺の巻」 について」 『源氏物語入門』 (講談社、一九九六年、初出一九七二年) 。 ( 3) 関 根 賢 司「 遺 言 と 予 言   源 氏 物 語 を 読 む 」( 『 源 氏 物 語 論   言語 / 表現攷』おうふう、二〇一四年、初出二〇〇二年) 。 ( 4) 加 藤 洋 介「 「 後 見 」 攷 ― 源 氏 物 語 論 の た め に 」( 『 名 古 屋 大 学 国 語 国 文 学 』 第 六 十 三 巻、 名 古 屋 大 学 国 語 国 文 学 会、 一 九 八八年一二月) 。 ( 5) 加 藤 洋 介「 冷 泉 ― 光 源 氏 体 制 と「 後 見 」 ―― 源 氏 物 語 に お け る 准 拠 と︿ 虚 構 ﹀ ―― 」( 『 文 学 』 第 五 十 七 巻 第 八 号、 岩 波書店、一九八九年八月) 。 ( 6) 加 藤 説 が 問 題 と す る 桐 壺 院 や 六 条 御 息 所 の 遺 言 と 光 源 氏 の 政権獲得との関わりについては、あらためて検討したい。 ( 7)日向一雅 「光源氏論への一視点 ―「家」 の遺志と王権と ― 」(『源 氏 物 語 の 主 題   「 家 」 の 遺 志 と 宿 世 の 物 語 の 構 造 』 桜 楓 社、 一九八三年、初出一九八〇年三月、一九八〇年一〇月) 。 ( 8)竹河巻と桐壺巻の類似については、 武田宗俊氏が竹河巻を 「無 才 の 後 人 の 補 作 」 と す る 論 拠 の 一 つ と し て 指 摘 し( 武 田 宗 俊「 「 竹 河 の 巻 」 に 就 い て ―― そ の 紫 式 部 の 作 で あ り 得 な い ことに就いて ―― 」『源氏物語の研究』 岩波書店、 一九五四年、 初 出 一 九 四 九 年 )、 星 山 健 氏 が「 主 家 の 姫 君 に、 聞 き 手 の 共 感 を 呼 ぶ 悲 劇 の ヒ ロ イ ン 的 性 格 を 付 加 す る 」 方 法 と し て 論 ず る( 星 山 健「 「 竹 河 」 論 ―― 「 信 用 で き な い 語 り 手 」「 悪 御 達 」 に よ る「 紫 の ゆ か り 」 引 用 と 作 者 の 意 図 ―― 」『 王 朝

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物 語 史 論 ― 引 用 の『 源 氏 物 語 』 ― 』 笠 間 書 院、 二 〇 〇 八 年、 初出一九九六年、一九九九年、二〇〇一年) 。 ( 9) 引 用 は 有 川 武 彦 校 訂『 増 註 源 氏 物 語 湖 月 抄 』( 弘 文 社、 一 九 二七 ― 八年)に拠る。 ( 10)注 2 藤井論文。 ( 11) 三 田 村 雅 子「 桐 壺 巻 の 語 り と ま な ざ し ―― ︿ 揺 れ ﹀ の 相 関 ―― 」( 『 源 氏 物 語   感 覚 の 論 理 』 有 精 堂、 一 九 九 六 年、 初 出一九九五年) 。 ( 12)注 2 藤井論文。 ( 13) 藤原克己 「紫式部と漢文学 ―― 宇治の大君と ︿婦 人苦﹀ ―― 」 ( 植 田 恭 代 編『 日 本 文 学 研 究 論 文 集 成 7   源 氏 物 語 2 』 若 草 書房、一九九九年、初出一九九〇年) 。 ( 14) 高 木 和 子「 源 氏 物 語 の か ら く り ― 反 復 と 遡 上 に よ る 長 編 化 の 力 学 ― 」( 『 国 語 と 国 文 学 』 第 八 十 七 巻 第 四 号、 東 京 大 学 国語国文学会、二〇一〇年四月) 。 ( 15)注 5 加藤論文。 ( 16) 引 用 は 中 野 幸 一 編『 源 氏 物 語 古 注 釈 叢 刊   岷 江 入 楚 』 第 六 ― 九巻(武蔵野書院、一九八四 ― 二〇〇〇年)に拠る。 ( 17) 引用は玉上琢弥編 『紫明抄   河海抄』 (角川書店、 一九六八年) に拠る。 ( 18) 後 藤 祥 子「 皇 女 の 結 婚 ― 落 葉 宮 の 場 合 ― 」( 『 源 氏 物 語 の 史 的空間』東京大学出版会、一九八六年、初出一九八三年) 。 ( 19) 秋 山 虔「 「 若 菜 」 巻 の 始 発 を め ぐ っ て ― 」( 『 源 氏 物 語 の 世 界   そ の 方 法 と 達 成 』 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 六 四 年、 初 出 一 九 五九年) 。 ( 20) 今 井 源 衛「 女 三 宮 の 降 嫁 」( 『 源 氏 物 語 の 研 究 』 未 来 社、 一 九 六 二 年、 初 出 一 九 五 五 年 )、 今 井 久 代「 皇 女 の 結 婚 ― 女 三 宮 降 嫁 の 呼 び さ ま す も の ― 」( 『 源 氏 物 語 構 造 論 』 風 間 書 房、 二〇〇一年、初出一九八九年) 。 ( 21)注 1 森・三谷・神田・沼尻論文等。 ( 付 記 )『 源 氏 物 語 』 の 引 用 は 小 学 館『 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 』 に 拠り、和歌の引用は『新編国歌大観』に拠る。

参照

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