讃岐白水主神社所蔵
τ
外陣大般若経﹄と吋北野社一切経﹄について
は
じ
め
︵ l ︶ お お 水主神社とは香川県東かがわ市水主に一所在し、近陛まで大 水主社と呼ばれた古社である。祭神は倭誠一々日奇襲姫命で、水 主 地 区 の 氏 神 で あ り 氏 子 数 は 約 一 一 一 二O
ほ ど で あ る 。 文献史料上の初見は3
祝 日 本 後 紀 ﹄ 承 和 三 年 ︵ 八 一 一 一 六 ︶ 十 一 月七日条であり、これには﹁讃岐園水、玉祢泰授従五位下﹂とあ る ﹂れは讃岐盟内で逸平い神階授位であった。 ま た 、 司 悲 喜 い L ﹁ 出 削 ﹄ , 白 区 比一 エ ﹄
J J T A t o 山 中 ﹂ に﹁讃岐盟二十剖座︵中略︶大内郡一康小水、五 神社﹂と見え、讃岐国大内郡唯 も 、 一 平 安 末 期 に は 関 可 神 持 が な さ れ 、 の式内社でもあった。その後 ﹁ 当 国 之 鎮 守 L と し て ︵ 2 ︶ 宮田村神社と併称され、讃錠国内でも有力神社の一つであった。 当時の隆盛を示すように水主神社には、平安末期とされる木事
た
u− ず ﹄ 沼 津憲
司
造 神 像 一 一 一 臆 、 平 安 時 代 や 室 町 時 代 の 製 作 と さ れ る 木 造 狛 犬 西 対 、 源義経奉納と伝承される雷丈娘細鞍一背など平安以来の文化財 ︵ 3 ︶ も 伝 わ る 。 いずれも池方神社に伝来する貴重な文化財であり興味は尽き ないが、その中でも﹃内海大般若経﹄と﹃外情伴大般若経﹄と通 称される二部の﹃大般若経﹄はそれぞれ平安時代と室町時代の ︵ 4 ︶ 写本であり、内容としても香川県内だけでなく四国地方の﹃大 般若経﹄の伝播を把握する上でも興味深いものを持っている。 古くから吋内部大般若経﹄と﹃外陣大般若経﹄の二部の﹃大 般若経﹄の存在は知られており、宝永二年︵一七O
五︶に大水 主社の神宮寺であった大水寺の別当増幸が、大水主社に伝来す る諸記録を編集した﹃大水主大明神社旧 ︵ 以 下 J 出 記 ﹄ ︶ ﹁ 大 水 主 大 明 神 社 仏 助 隊 宝 物 之 事 L の 項 に 、 次のように述べてい係数大学総合研究所紀前主別附﹁♂切殺の時比史的研究︸ る言
、
。
J 大 水 主 大 明 神 社 仏 像 宝 物 之 古 学 ︵ 中 路 ︶ 一 大 般 若 経 一 皆 一 牛 荷 負 ノ 経 也 、 内 陣 不 出 、 雨続共書写本 間経一部 是外陣ニ有之 ︵ 中 略 ︶ 見 器 一 牛 荷 臼 ︵ 之 大 般 若 経 、 春 秋 向 子 議 、 巻 牧 之 全 十 之 也 間此経神宝最一也、今想此大破如何補之、愛以其巻々披閲 有 箆 底 記 、 すなわち吋内陣大般若経﹄は﹁黄牛荷負之大般若経﹂と呼ば れ 、 北 由 一 昨 γ に背負われて運ばれて来たと伝承される。加えて﹁神 宝最 一とあることから段も重要な神宝と認識されていた事が わ か る 。 また、ここにあるつ震以其巻々披閲存鐙底記 L とは♂内陣大 紋若経﹄を収める経函にあ のことである c この経函は至 認三年︵ 一一八六︶製作といわれる檎材の浅絡で、内底聞に鎌 倉・室町・江戸時代に書き継がれた長文の あ る 。 こ の 閉 鎖 には、至徳三年の経函製作や文安二年︵一四四五︶﹃内陣大 殻若経﹄修復の奉加帳、大水、烹社の縁起など か れ て お り 、 吋 水 主 神 社 大 殻 若 経 一 階 段 書 ﹄ ︵ 以 下 吋 経 函 底 書 ﹄ ︶ ︵ 8 ︶ 吋 香 川 県 史 ﹄ で 翻 刻 さ れ て い る 。 と 表 題 さ れ 、 明治時代に入っても﹃内際大般若経﹄は、 それを収める経医 とともに国宝︵昭和二十五年に重要文化貯︶に指定されるなど 希少祝されている。之内陣大般若経﹄に比べ、吋外際大般悲経﹄ ︵7 ︶ が注目され始めたのは近年になってからである。その評価の 国となったのは、空海の再来とも評される増件とその兄弟弟子 ︵ 8 ︶ 増範の存在である。この増件と増範は大水主社に関わる僧侶で あ る が ﹃ 北 野 社 一 切 経 ﹄ の願主及び執筆者であるこ とが広く知られるようになり、大水主社と﹃北野社一切経﹄が 俄かに脚光を浴びるようになった。加えて増件や増範のほかに も 大 水 、 五 社 僧 が 吋 北 野 社 一 切 経 ﹄ に参加しているので あ る 。 吋北野社一切経﹄とほぼ同時期に された﹃外陣大般若 経﹄を照合することで、中央と地方の書写事業の研究に重要な 情報を提供してくれることが期待される。 ﹂ れ ら を ふ ま 与 え て 本 稿 で 論 じ る 問 題 を 掲 げ て み る 。 一 キ ふ 吋 ル ル 野社一切経﹄を大水、支社僧たちがどのように関わっていたのか c 二 に 、 ﹃ l ト 有 士 、 品 工 ト ル 口 又 上 タ1
2
プ 長 ↓ 一 王 手 ﹄ に つ い て は 、 先学において奥きの部 分的な引用はあるが、 吋 外 際 大 般 者 経 ﹄ の本格的な分析は未だ になされていないのが現状である。 ? ? 在 a 三 九 1 t 1 1 土 h ア昨川 F 4 ノ 白 河 4 J A ・ 九 ぷ 々 ﹄ の の 分析により、これに関わった僧但や寺院について考えてみたい。信 用
大水主社僧と
吋
北
野
社
一
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経
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\ 』 /増
件
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増
範
増件と増範はいかなる人物であろうか。披らの姿を追って、 寸北野社一切経﹄との関係をみてみたい。 増件は貞治志年︵ 一 一 一 ム ハ ム ハ ︶ に讃岐間大内部与問郷で生まれ 房名を龍徳一段といい歳空蔵院で得度した。虚空説混とは束かが わ市中筋にある真言宗寺院・与田寺の院号のことで、議岐国の ︵ 9 ︶ 名剰の一つである。明徳二年︵一三九 ︶に虚空減院の住職と なり、以後、東寺や高野山さらに熊野三出などで修山し、水主 に 熊 野 一 一 一 山 を 勧 請 し た と い わ れ て い る 。 水主神社の近く ︵東かがわ市与田山︶という寺院が ある。ここには志永六年︵一三九九︶ から応永九年にかけて若 王子機現の常住流通物として書写された τ 大般若経﹄がある ︵ 叩 ︶ ︵ 以 下 ♂ お 王 寺 大 般 若 経 ﹄ ︶ 。 勺若王寺大般若経﹄ 子持ム応、水九年目二月三十日、敬以三諮日夜功労乎、 外題実、歳空蔵院住持金資増件生年三十七、リ升亮勝一局増範、 恥耐d 明通一房増稔、子時応永六年己卯正月十一日立筆始、自陣二 月 九 日 常 一 日 写 也 、 右 筆 真 海 六 十 九 波 蚊 閉 山 水 、 一 支 持 社 所 滅 寸 外 出 陣 火 絞 紫 綬 ゐ と 可 北 好 材 一 切 経 − b について応
、
;i]( 九 年 一︶三月三十日の年紀を持つ巻第 こい即日斗ヤb
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と噌範の名前が見える。増件は♂お王寺大般若経﹄の外題を米一回 b c、
J d F e f、 し ζ ト I コ 又 土 主 王 子 、 ブ 印 巧 イ ぷ ο可 ﹄ の書写に嶋範らとともに重要な役舗を 果たしているむ さらに後に触れる﹃北野社一切経﹄は、室町時代の収 ︵ H H ︶ 経の代表としてあげられるものである。応、氷十九年︵一回一 切 一一︶に増範が大制服主となり、完成をみた吋北野社一切経﹄ にも虚空蔵院の僧侶や大水、支社僧とともに参加している。 可北野社一切経﹄﹁大般若波羅蜜多経﹂巻第五百七十一︺ 応永十九年歳次壬辰⋮一一月十七日、禾山脇吉余輩之浄侶、肇致 如法説立筆、紹諮問儀不乱書写、国益筆体頗拙、難有俸子 後見、但就如法之道儀而日 設 問 芸 窓 定 人 五 日 部 隊 日 呼j
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陪間大法師勢秀 為当来泰転読処也、 ほかにも増件は中部・辺国地方で多くの寺誌を閉山・中興す るなど大きな業棋を残し、応、水十九年には上洛して後小松天皇 ︵ 弘 法 大 に謁して権僧正に任ぜられたといわれている。近陛には﹁大師 ノ再誕﹂とまで称えられ、讃岐闘を代表する高僧と評価されて ︵ ロ ︶ い る 。 また、水主神社には応永三十四年三四二七︶ の増件の f、
、ノ紳 附 数 火 μ子総合研究所紀前立別附﹁一切経の澄史的研究一 が あ る 大 水 主 社 本 殻 の 蛙 股 が ん 伝 わ る 。 ﹃ 明 記 ﹄ に記載される忠 永二十九年の雨宮の棟札には﹁勧進金資増件﹂とあり、勧進活 動により雨宮を建立していることから勧進聖との位置付けるこ と も 可 能 と な る 。 文安 ︵ 二 山 田 五 ︶ に大水主社祝師行啓により﹃内陣大紋 若経﹄が修複されており、 そ の 時 の 泰 加 艇 が 吋 経 函 底 常 一 回 ﹄ 五 百 之内田秩に墨書されている。 1 5 n 日 立 4 ・ 廿 H M 子 百 凶 日 仏 氏 、 ヮ f − ロ μ イ l. dA ノ 4 人 。 口 市隠 増件法印 百丈 満蔵坊 百丈 賢住坊 十丈 ︸
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r F P J ォ i F ん vず庁 l T 3 A 息 子 す 占 十丈 多門坊 十文 増 勢 五十文理善房 与悶僧衆とあるのは虚空蔵院の所在地である大内部与田郷に 由来すると思われ、 つまり増件が虚空蔵院の僧侶として綿を奉 加していることが知られる。 続いて、増範について見てみたい。増範は増件の兄弟弟子で、 増件同様♂お王寺大般若経﹄巻第一や巻第四百二十八の奥書か らその書写事業に携わっていることが判明する。 ︹ 吋 若 王 寺 大 般 若 経 ﹄ 巻 第 四 百 二 十 八 ︺ 時志永八年辛己三月六百、於讃州大内郡与問郷若王子の為。
在 日 常住物令書写了、仏子増範 この当時は亮勝一段増範を名乗っていたが、後に覚蔵坊増範と 名 乗 っ て い る 。 彼の業績で特筆すべきは﹃北野社一切経﹄ の 大 願 、 玉 、 そして勧進聖人となったことであろう。応、水十九年︵l
E 一 円 υ ド 己一一一月十七日から八月十五日までの五カ月間にわたって書写 され、執筆者は越後・尾張・伊勢・但馬・出科・近江・丹波 和泉・摂津・大和・河内・紀伊・播磨・淡路・備前・備後・美 作・讃岐・河波・肥前 ・日向の国々の僧信や役俗の百数 十名に及んでいる。 この吋北野社一切経﹄は、毎年三月に京都北野で将軍が参殉 し執行された北野社 切経会のために書写されたものであり、 北野社一切経会は十月の北野社万部経会とともに室町幕府にと って重要な年中仔事であった。増範は北野社万部経会の経奉行 ︵ 悶 ︶ として実諮の経営にもあたっていた。 増範は吋北野社一切経﹄の大願主であることから、多くの経 巻に大願主や大勧進沙問として見えており、 さらに次の 高僧伝﹄巻第西から、増範が当時虚空蔵院の住侶であったこと が 知 ら れ る 。 校 果 、 大日本開出城淵愛宕郡平安宮北野宮寺、奉為天満大自在天神法楽、如法一切経、本顕聖人讃州虚空蔵続金剛仏子覚蔵 右筆摂州能勢概峰寺住侶沙内澄尊廿五 応永第十九壬辰七月廿二日、 主 d h ニ リ ヨ 寸 官 官 品 十 血 、 オ d T b F K H 7 t 吋北野社一切経 n同 の勧進のほかにも、永事問年 四 に東本寸の習院北界や御影堂上茸の勧進、永事六年 に上韓関の清滝宮の大勧進となったことが﹃満済准后日記﹄な ︵ MM ︶ どに見え、洛中の名和の修理・再建に活躍している。 次に大水主社僧たちと吋北野社一切経﹄との関係を具体的に 検討していきたい。 セ北野社⋮切経﹄﹁大般若波羅蜜多経﹂巻第七十四ほか︺ 円融禅定内 讃州大内郡与田郷神宮寺住増継 門司北野社一切経﹄﹁大般若技羅蜜多経﹂巻第五百九十ほか︺ 応、水十九年壬辰卯月八日、讃州大内郡与国虚空蔵院 右祭良仁 門﹃北野社一切経﹄﹁大智度論巻﹂第六十八ほか︼ 交了 讃州大内与出虚空蔵院之 金剛仏子増密 応永十九年六月十二日 文化乙亥十月晦日 沙門慈順拝覧畢 談絞留水友神社所絞咋 M外 附 伴 大 仇 松 方 向 山 札 ﹄ と 可 ” 花 好 社 一 切 経 ﹄ に つ い て 可北野社一切経﹄﹁大乗大方等日蔵経﹂巻第 ほ か ︺ 応永十九年卯月五日 讃州大内虚空蔵説賢真 為祐深禅定内成仏也、 吋北野社一切経﹄書写事業にあたり虚空蔵院から増範のほか にも、増継、良仁、増密、賢真らが執筆者として携わっていた ﹂ と が 奥 書 に 見 え る 。 そのうち良仁は﹁讃州大内部与出虚空蔵院 お 筆 良 仁 ﹂ ︵ 吋 大 殺若波羅蜜多経﹄巻第五十日九十︶や﹁讃州大内郡大水主社 良 仁﹂︵﹃阿差末菩薩経﹄巻第七︶、賢真は ﹁讃州大内虚空蔵院賢 ︵ ﹃ 大 乗 大 方 等 蔵 経 ﹄ 巻 第 一 ︶ 、 そして ﹁讃州大内大水主社 住 僧 賢 真 ﹂ 完 全 日 和 弗 河 見 門 的 世 論 ﹄ 巻 第 一 ︶ と あ り 、 虚 空 蔵 院 と も大水主社僧とも名乗っている。 これは後述するように虚空蔵院が大水主社の神宮寺であった た め で あ ろ う 。 ところで﹃若王寺大般若経﹄にも﹁大水主社住人﹂、﹁大水主 社 住 僧 ﹂ と称する大水、玉社の僧侶が参加している。 般若経﹄から大水主社に関わる主な奥舎を摘出する。 ︹吋若王寺大般若経﹄巻第二百四十六︺ 讃州大内郡与田山於若王子如形是写了、大水、王社住僧一 金制資良題寺二十六
。
五榊 開 放 火 d r ι 九時合研究所紀姿別叫同二切経の従史的研究 門 口 右 王 寺 大 般 若 経 ﹄ 巻 第 三 百 罰 ︺ 応永八年正月二十三日大水主住僧右筆小綿 セ若王寺大般若経﹂巻第三百一十七︺ 讃州大内郡与閉山若王子常生也、志永八年間正月七日、大 水主社住担僧賢真 門 ﹃ 若 王 寺 大 般 若 経 ﹄ 巻 第 三 百 九 十 一 ︺ 応 、 水 第 八 辛 己 仲 春 盛 一 日、与田山之若王子常住也、右筆良 一 十 八 歳 也 、 門 司 若 王 寺 大 般 若 経 ﹄ 巻 第 五 百 一 十 一 一 ︸ 議州大内郡大水、五社内にて此経巻書写果、五月七日、与田 山之若王子常住也、応永第八午月七日、右筆金制仏子賢留一︵ 良聞や小綿や賢真らの名前があるものが許五九巻ある。大水 、支社僧である彼らが執筆するだけでなく、大水主社が書写場所 となることもあった。このことから♂お王寺大般若経﹄の書写 卒業には大水主社が深く関わっていたことが判明する。さらに 大水主社俄である良仁や賢真が吋北野社一切経﹄の写経にも携 わっているのは先に述べたとおりである。 /{\
一
\』J増昨と写経集団
大 水 、 支 社 僧 と 吋 北 野 社 一 切 経 L と♂右王寺大般若経﹄と関わ りを持つ事が確認できた。 で 十土 に 際 し て 、 その作業にあた ヘ ゾ ム ハ った組識はどのようなものであったのだろうか c ︵ 日 ︶ 2 %城説文書﹄のには増件と写経を結びつける害状が残る。 円 増 件 書 状 ︵ 年 代 不 詳 ︶ ︺ 先度、付便宜、進一状侯しに、預御返事候、の熊野参詣之銭 青克世疋送給候、令祝着候、道中散銭候て、可致祈龍役者 哉、事繁候篤志誠以喜存校、今日十九日舟出し候ハんと中 居候へは、五月雨、水々しく候て、未天陰に天気待居候、経 衆ハサ入、於阿讃殉州龍之候、伶人雨三人、同しく参候彼 是如法経百日ハ管弦と申候て、伶人参議事被中下候、毎事 計会、可被察候、露命之習、秋まても存命候者、 下向候て 可 入 見 参 候 、 何 事 御 助 成 大 切 伎 、 汎 心 々 謹 ⋮ 一 一 一 口 、 五月十九日 増 件 ︵ 花 押 ︶ 党城院御返報 熊 野 参 詣 に m 出 し て の 践 加 の 返 礼 で あ る 。 すなわち、熊野参詣 のため船出しようとした増件は、五月の長雨により足留めを食 らっていた。その問、阿波国と讃岐屈で経栄一一O
名を訴え、知 法経百日管弦のため伶人も伴い熊野参話するとある。 如法経とは特に司法華経﹄止を写すことを指すため、この書状 に出てくる経衆や伶人たちが本稿で検討している﹃大般若経﹄ の写経集団とは特定することはできない。 し か し な が ら 、 吋打口 には大水主社に吋法華経﹄があったことを示唆する記述がある。﹁大水、近社供僧座配之事﹂と題する嘉吉二年︵ に大水、五社供倦の既記を定めた記録がそれである c 左方 、大水主社供僧底配之事 右方 宰相坊 党音坊 毘光寺 資艦坊 持費坊 仲善寺 孝
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恵 寺 資積坊 オ d求 。 方 d H n ハ , 卒 中 ム ノ 経養坊 型 経 ⋮ 動 寺 妙光坊 多間坊 誠 一 郎 デ ザ 光 悦 札 口 坊 普勝坊 資住坊 薬王坊 務迦寺 持裁坊 定光寺 玉泉坊 在 ゴ 百 間 三 2 J S I 土 t ゴ 一 一 城琳坊 開之坊 北之坊 新議坊 十輪寺 浄土寺 ト 来 一ト てド 恵日寺 刊 、 へ で V L 川 ト η J J 4 4 E 恥 U ノ 知 日 海 坊 高原寺 四 回 二 ︶ 談 蚊 留 水 主 神 社 一 昨 夜 同 w M 外 附 聞 大 紋 若 山 稔 命 。 と τ北 町 H U 一 切 経 吟 む に つ い て 玉戴坊 念仰寺 慈尊坊i
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1詩
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願成坊 国護窃 離通坊 右、康配任先例定所如件、 成年九月八日 ’H L 3 3 ュ r よ 了 γ J ﹁E C ゴ 一 戸 打 叫 p↓ リ 弘 文 1 2 1 f ﹀|佐附則キ﹄ 私 一 去 、 在 之 通 法 務 経 裏 番 付 有 之 、 この﹁大水、支社供僧度記之事﹂には﹁法華経裳寄付有之﹂と 注記があることから、法華経裳書付にあったものを♂旧記﹄に 転載したことがわかる。 ﹃ 法 華 経 ﹄ かれていたことから判 断すると、この盛担は法華経読諭に参列した供僧の廃配と見ら れ る 。 さ ら に 挙 げ る よ う に 、 吋外陣大紋若経﹄巻第二吉七十 は っ 水 、 王 子 光 寺 如 法 道 場 ﹂ で 書 写 さ れ て い る 。 つまり ﹂ の 奥 から大水主社にも如法道場が設けられていたことが知られる の で あ る 。 締 匠 与 父 母 無 上 大 菩 提 速読 感 、 水 州 三 年 何 歳 次 五 月 せ 八 日 一 於 水 主 千 光 寺 如 法 道 場 書 写 右 筆 傍 燈 大 阿 閤 梨 位 権 少 僧 都 定 全 一 円 ’ この奥書を手掛かりとして、増件により悶波国と讃岐回で調 願以寄寓功 白地及法界 えられた経衆は、子光寺如法道場において修行した経衆であっ \ノ 七帥附救大学総合研究所紀姿別府二 M w q 孔 の 綬 史 的 研 究 ︵ ︸ 、J ! \ / / / / / 線 ” m 誌 や 水 主 干111ti: 周 辺 国 隠i1
たとも考えることができよう。彼ら経衆がどのような総織であ ったか、地に史料が無いため明らかにできないが、この写経集 団は増件を先達としていたのは間間違いないだろう。先に見た ♂右王寺大般若綬与や吋北野社一切経﹄に注話すると、大水主 社僧の賢真や良仁、増継らは増件と共に、 その執筆に携わって いることから、彼らが増件の いる写結集聞の 員として考え られるであろう。 もう一変北野社に自止を向けたい。北野社万部経会は法華経 万部を千人の傍によって読経される経会であり、北野社一切経 会とともに室向幕府にとって重要な年中行事であった。自井氏 によると、この万部経会に使用する経本は、毎年新写して経常 ︵日山︶ に韻布したという c この毎年新写される法務経な増吟率いる経 衆が書写したと結びつけることもできまいか。 ま た ﹂こで注目したいのは、 増件率いる経衆が能⋮野参詣に 際して調えられたことである。大水、支社のある水主地区は本宮 出・虎丸山︵新宮山︶・那智山に閤まれており、増件がこの 山々に設野三出止を勧請したといわれている。 増件を熊野系勧進袈とする指摘や熊野信仰と大水、支社との悶 ︵ げ ︶ 係は豊島修氏や武国和昭氏により明らかにされてきた c 先行研
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h sし 、 子 、
知 山 本 宮 設 誠 7 y 予 ノ イ 此 ハ ︵ \ 沼 下 合 目 、 ﹂ / 付 制 伊 古 口 / 士 口 同 叩 市 山 内 ふ 暗 中 f u v 、 下r h 設野ノ雨所、 i謁御
店lj /、 三 一 所 楼 現 ト 申 モ 、 一 一 所 大 明 神 ト 中 モ 、 一 勝 ト 云 々 、 これは応永十七年︵一四一C
︶に増件が作ったとされる吋大 ︵ 凶 ︶ で あ る が 、 熊 野 一 一 水主大明神秘讃﹄の と大水主大明 神 は 開 門 体であると述べられている c 吋 外 際 大 般 若 経 作 品 巻 第 吟 八 十 八 に は ﹁ 敬 白 泰 法 山 川 市 大 水 主 社 三 一 所 大明衿御賢治等﹂とあり、応、水三十二年︵ i正i
﹂ 工 J こ ↓ \ レ k : 刊 に 干 J \’ふ斗ノ J A 、 ﹁ ゴ 三一所大鴨神御宝前で法楽が執り行われている。この大水主三所 大明神とは右の﹃大水、五大明神和讃﹄から、熊野三所権現を指 すと悶けんて間違いないだろう。江戸後期の補経であるが、巻第⋮一 百七の呉市首には﹁為熊野権現﹂ かれている。これらのよう に吋外陣大般若経﹄にも熊野信保の影響が色濃くみえる。 また、若王寺でも享保年間一編纂とされる 王子大権現殻 ﹁ 百 三 、 ヒ モ ヒ レ じ ド ヨ E J Y E L 7 4 八 、 、 ヒ 、 ト L \ −L
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、 え 土 す コ り ふ f ︷ ゴ l , 干 止r 0
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ム 日 一 豆 一 対 ヰ ペ ョ 目 方 止 斗 斗 j J i 申 耳 目 μ 一 帯 二 乙 九係数大学総合研究所紀市究開時三切綬の一校史的研究い と あ る よ う に 、 の祭神も熊野から飛来したとあり、 熊野信仰と関わりがあったことがわかる。 そして熊野信慌を如 に示すのが に挙げる♂右王寺大般若経 L 巻第二百二十八 で あ る 。 南無熊野⋮一一所権現当世成就、子時志永七年三月二十一日間 組斗書写率、讃州大内郡与田山王子常住御経由、右執筆宥 真敬白 熊 野 一 二 一 的 権 現 に 当 社 成 就 を 額 い し て い る 。 このほかにも若王寺の鎮守社与毘神社には、一平安後期から室 町時代の熊野権現の本地を表した懸仏が伝わるなどこの地にお ︵ お ︶ ける熊野信仰の浸透を示している。 またその後、文正年悶や長亨年間に、大内郡の窃烏や引自の 先達たちが履那を導いているのが
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E L に 河 ん え 、 大水主社周辺の村落において熊野信仰が村落住民に浸透してい ︵ 幻 ﹀ たことが明らかとなる。 水、去の地には修験道が根ざしていたのは、先に述べた吋内陣 大般若経﹄が石鎚山から運ばれたという﹁牛負い般若 L 伝承か らも窺うことができる。なお吋大般若経﹄を牛に背負わせて連 んだという伝承は、ヨニ宝感応要路銀中巻﹄や﹃今昔物語﹄ 旦僧知日、諮一部大般若経二百巻語第四﹂などの仏教説話を引用し た も の と 考 え ら れ 、 それを史実とみるには再考を要するが、石 「\ 〉 鎚出から逮ばれたという伝承は修験道との関係を読み取るに十 分な情報となろう。 そして与田神社の懸仏の例からも、古くから与問山や水主に 熊 野 信 的 仰 が 根 付 い て い た の は 間 間 違 い な い 。 話を増件に一反そう。先行研究においても、彼は日山記﹄に大 水、五社雨宮を勧進活動により建立したと記されていることや熊 野三山を水主に勧請したことから熊野系勧進型であったと想定 さ れ て い る 。 これらから熊野系勧進聖である増件が率いる写経集団は、ぃ肢 空蔵院や大水主社を拠点として、 ﹃ 若 王 寺 大 般 若 緩 ﹄ だけでな く各地の寺社を巡り、組織的に を 遂 行 し 、 その結果 吋 北 野 社 一 切 経 ﹄ という大事業に参加したことが想録でき る 中四隠地方で増件が中飽︵の祖とされる寺院が多くあるのも、 による評価もあるだろう。 吋北野社一切経﹄は覚蔵院増範が大殿、王となっているが、悩情 件止を先達とする写経集団がその執筆において重要な役訟を果た し た と 考 え る こ と が で き る 。 増 件 金 一 回 状 か ら 、 大 水 、 五 社 憎 の み な らず讃岐閉山や阿波留の僧侶たちがこの写経集毘に加わっていた と 予 想 さ れ 、 やはりこの組織の結束は熊野信仰が拠り所となっ たのは間違いなかろう c第
吋外陣大般若経﹄識語の検討
︵ 一 ︶ 第I
期の奥書
﹁ は じ め に L で述べたように﹃外陣大紋若経﹄は増件や地範 切経﹄と関わりを有すると考えられる 経典である。この章では τ外陣大紋若経﹄の奥令官を通じて、間 の関係からも吋北野社 経 の 伝 来 や 舟 一 日 写 背 長 、 そして吋北野社一切経﹄とどのように関 わっているかを明らかにしたい。 ﹃外陣大般若経﹄は五六九帖あり、若干の欠本があるものの 応永年間の写経を中心に、江戸後期の補続により 阪 一 ハ の 経 典 と して伝えられている。 フ ト 山 刷 主 へ 九 正 ト ゴ 正 上 z ヲ ノ F m M 川 斗 J A q F r w サ ﹄ は、第 I 期 の 応 、 水 五 ・ 六 年 ︵ 巻 第 一 、 l e e t 巻第八十︶、第立期応永三十二年 j 永 事部年︵巻第八十一以降︶、第 E 期江戸後期︵補経・修復︶ 一一期に繋理することができる。概ね室町中期乃至江戸後期の 写と捉えることができよう。 吋外附伴大般若経﹄は中世から近陛にかけ 修復されて お り 、 官 官 写 日 ・ 施主などを記録した識語が多く克られ る c の年代を大きく分けると書写年代と時様に、第 1 期 と 第H
期の室町中期、江戸後期の修復時の第班期に整理すること ができる c 第 1 期 は 六 三 巻 、 第 円 以 期 は 六 巻 六 三 筒 一 所 、 近 祉 の 議 絞 問 問 水 、 主 神 社 所 絞 ﹃ 外 路 大 絞 殺 絞 ら と 吋 北 昨 円 日 付 口 一 切 経 ι について 第m
期は最も多く一七七巻に識語が残されている。 第 1 期はむ永五年︵一三九八︶九月から応永六年十月までの 年 記 が あ り 、 大 頼 、 玉 砕 一 誠 松 住 持 北 氏 、 大 槌 那 富 田 沙 弥 聖 蓮 の 名 が かれたものである。第 B 期は応永三十 主 手 剖二五︶剖月 から永享四年︵ 四三二︶四月までで、定全や型元、良仁ら計 十二名の執筆者が見られる。 第 E 期は文政十一年︵一八 /¥. '-' 一月から間十二年九月、天 二 年 ︵ 一 八 三 二 ︶ から河七年までの修復事業により、既存の 又 土 ム ぷ こ 心 的 存 い ま こ ま み 間 差 こ 己 さ も 立 山 T H プ b v ・2 T K Z ↑ ⋮ 寸 d J J i u ・ う 千 人 げ 司 B ’ V ニ 一 一 n d c v z である。第護期の特徴は 村々の法話人を冒頭に記し、続いて経紙施主、大願主、末尾に ﹁奉安室正一位大水主大明神御宝前﹂と記すのが通例であった ょうであり、特に文政年間 によく見られ またそれらは ほほ向じ築跡であり、この の奥書は一人によっ 、 4 1 ニヵ
j T の ﹂ と が わ か る 。 吋旧日記﹄には﹃外陣大般若経与の史書を抜粋したものを掲載 いずれにせよ﹃外陣大般若経﹄の伝来 し て い る が 、 について詳細に物語る関連史料は少なく、むしろ吋外際大般若 由民体に記される識語などからその詳細を推定せざるをえな し、。
今回は第I
期 と 第 豆 期 、 つまり室町期の輿敢闘を通じてマ外陣 大般若経﹄について考えてみたい。川削教大学総合研究所紀要刷出際﹁ 切 経 の 校 史 的 研 究 ! 一 第
I
期の梨書があるのは、巻第 から巻第八十までである。 第I
期の奥舎を摘出して整捜したのが表ーである。 巻第一から巻第八十までの経巻は大願主兼執筆者霊松住持比 丘、富田沙弥聖蓮が大陸那となり写経が進められたものである。 ︻ 巻 第 一 ︺ 子 山 大 摺 那 一 品 回 沙 弥 袈 蓮 願主霊一松住持比丘天輿史知命 泰納入阿波川海部際薩摩郷 八絡宮御質殻 巻第一から巻第八十までの第I
揮の呉舎は、右とほぼ同文が t h k ノ \ 。 ﹄ 4 1 からむ永五年︵一三九八︶九月 白から始まり翌年 十月まで約一年 ヶ月で八O
帖が書写され、阿波国海部郡薩塚 (]) '},;長 /:fiJ淡州海部終夜!主主事八精気御三在民主 防波州 ifih\1)1TI;r漆[主主\lM吉宮;{卸 ~ii:段 防j皮州海部郡i窪僚主事入総宮御~己 防1+/i毎音/)!孫陰惨話器入申書'B御~後 間・HIi毎古111i,r,r,芸l誉主事八中君主f御宝前 「iす;皮ナiI海部郡{怒1昔話llJ\.総宮{却宝民主 阿波州i年泌総長室僚主事J\.$吉宮御手:民主 附州海部際援隊りよ)\.申請/£if,l/l'.'l':殺 j:iiJ・J+I海部郡民主!?よ綴)\.縁gf,却宝殿 阿川海部)\.総?主総~£殴 1~1l皮行|海部郡fti者 [i\]jl!J; 月 ; tJi; 約 郷八幡宮に納入されていた経巻であることがわかる。筆跡から 判 判 漸 す る と 、 巻 第 から巻第八十までは重松住持比丘一人によ って書写されている G 舟 一 日 写 日 を 見 る と 日 を 追 っ て 巻 第 一 か ら 順 次 品 川 一 日 写 が 進 め ら れ た こ と が わ か る 。 第 1 嬬の奥書には、大願、五と大控部および年号しか記述され ておらず関連史料もないため、護松住持比丘と富田沙弥聖還の 両者ともいかなる人物か明らかでない。海部川の右岸側に富悶 ︵ 現 徳 島 黒 海 部 町 富 田 ︶ という地名があり、大檀那富田沙弥翠 連との関係も推制限される。願、王でゐり執筆者でもある天与史知 丸 巾 キ ム 匹 、ft
と称する寺段の住持と察せられるが この寺院 つ 世 巳 仏 八 日 時 ’ ∼ − 3 ふ 々 4 L については不明である。 ここで重要となってくるのが阿波田海部郡薩摩郷八橋宮の比 定地であろう。奈良市の平城京跡から出土した天平七年︵七三 五︶の木簡に とあるが、徳島県海部郡周辺において~'& I矧 の 災 者 キ。ニ]\ユ皆fヤ "ノrーg勺 月 IJ 教 'j¥; 者 時立 ミt 警護 書店 r:t.1k5 iJ三 9 I 友松{主持比丘ヲミ与塁Z知命 [;¥[l]i歩弥翌日主 2 r:t.、永5iJo 9 4 笠松tl:Nt.1七丘天与 i;Q匁1w 出ill;\税目~'iilf:H 沙弥~Will'. 3 J;i)・7k5 ij' 9 5 笠松{主持よとf王オミ与"l!.JJ]!令 藤原•:viI主広II:!沙弥m述 4 1:t.ノ、k51ド 9 ネ:松tl:l寺Iと .Ii~た与 ''!Ll:n 命 iI事/Ji(1iifJ怪'[;';1刀i少初、<.Wi生
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応、永51ド 9 9 笠松住持比五:フミ与皇Um守7 ii主JJ;\紛[i('ii';Ltl沙i苅:型巡 も 1,[;.7j( 5 'I' 9 II 笠松{上持比j王ヲミ与受J:111守T iiiP原初段;守口1 沙\];~\~迷7 i:c.;ノk5 iJ' 9 16 ゴよ松ll:t寺よとj王子ミ与i;Q匁}命 mm;\\主JR:’1i.\[l] 沙問、~Ul 8 !必氷5年 9 21 笠松tu寺上ヒI王天与i;Q匁J{,j; ;影)京将ll手ち\EII沙拐、型連 9 1,i)・永5 ij三 9 24 c:Hl~住持よヒ丘天与"!!.匁]{,j; j 篠原彰J [~(お任Ii少弥翠迷 IO f、正1k5 ijミI9 27 :::.~松住持よヒJi天l'j・5芝生:n 命 篠原初ltii:'ti¥IIIi合致、mu宝 11 r.G、ik5 ij三 II 18 安t!~lHおじ辰夫与受知命 正手際紛fl¥jj¥fH沙5台、盟主連 12 J:G、1k5 1Jo 11 22 笠松E主主Hヒ丘天与史知I命 'tl11Ili'J;5主主主述 14 応永5ijO 12 4 ;;;;:松fi:t.]'J:ヒEi:)ミljゐ受知l命 liiH阜、初H立liHII 沙5f1;~史巡 15 r.G、近、 5iド 12 9 安担~11:.NHヒ正夫与5芝知命 H隊派中月匝/jj[Hi、5虫!1;、m;主 17 応、7](5 ijo 12 28 笠松:fttHヒ任天与受知命 篠原付j隠筏l五沙5!M笠述 18 1,[;.1k 6 if' 2 2 議む:lt持Iヒ丘7ミ与受知ld言 'iMili少58;~記述 22 花、ik6 ij三 2 18 議長·~1n,r比 fr:)ミ与受:知{,µ 足手広3;拶j陸宮阪i;歩、5ii;塗迷 23 EG、近、6'<F つ 19 安十:!~f主持比j王天与受おfliお 隊派中AR京区ij歩的、~Wi主 26 応永6ij' 2 28 '.Ii_ti:t主'M'比1王子く与塁H111お 藤原初JR:'iil"lll 沙弥~\~J主 27 [江、ノk6 ifo 3 2 ヲ己tr~住持Iヒi王子ミ 1g芝知命 1篠原将lE2:1ヨlHj;歩5;j;'.'翌迷 29 花、;F'k 6 ifo 3 ょ;:ir~tu.r比.liT.·'子受主II 命 1実際紛{主主\ fIJ沙5;j;~翌述
30 /,['_;Jj(6 ij'. 3 霊長:tu·~,よと Ji天与史主Ill守? ';];HJi少効; ~\'lj主
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草原彰li主 1i\llll少弘之\~!ill34 r,i)、永611' 3 ;if:{公佳子H翠フミ'・3-災J:111令 笠松住.j.¥'i七Jifわミ与史知命 j路島i弱l医j;';IJJi'J;5おmx主
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62 !乙1k6 ijO 8 ゴ;:f公lHH'1'天与 9~9'廿命 2品不公住持・3字クミ与央土日命 li#ljj{初jI主;?; EEi沙弥辺!ill 63 f,乙ノk6 1j'. 8 ;;¥';tたれーめf事天与央知l前T 笠松ii:持?幸夫与央主II命 ffji!f,¥初b':li¥f]j沙弥;:主連 65 [ιik 6"ド 8 割 問 66 I.与tk6年 8, iit:tf:l:H寺i七丘天与史知Ii合7 4芸n;o:!月むl'i五rn沙5fr-M'li主 表 l 滋 絞 湖 水 、 主 神 社 所 蔵 可 外 附 州 大 紋 北 口 m 投 与 と τ 北野社一切絞らについて
柏 市 ル 人 ζ ’ r: 、 i 川 込 3 E l b し a w l − じ f ︿ H H V L J 倒州事 J ノ ぷ
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王将ヲ滞日夜型自部 切 授 の 院 は 史 的 研 究 一 ﹁薩摩﹂の地名は現存していないため、海部郡寵摩郷の比定地 はで小詳とされていた。しかしながら近年、薩摩郷八幡宮を手が さ か れ り つ に つ 薩 あ(!変 るさ恕|; 。 の -c~ ~-主
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毎 に 部郡薩摩の郷﹂にある北山薬師如来は、行基菩躍が彫刻し一 を建立したのが前建とされたとあり、このことから北山薬師の ある海部郡芝村︵現海部肉芝︶田川辺が陸摩郷と考えられる。さ ら に 覚 保 一 一 一 年 ︵ 一 七 四 一 一 一 ︶ の吋阿波田神社御改帳﹄には、問波 昌海部郡大里村︵現海南町大型︶ にある人格宮は、海部川河日 右岸の海岸部、制浦の大宮︵現海部町︶ から移転したという記 述があり、薩摩郷八幡宮は移転以前の大里村八統制官であると推 定 さ れ て い る 。 ところで薩摩郷八幡宮は海部多読多門坊とも称されていたこ とが巻第八十 に 記 さ れ て い る 。 12' 部書話勧進造 願以書潟師匠及父母七世 大 四 都 患 此 等経
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宝 初 諮 百 大 • rtq菩 八 提 巻 第開州海部多雑多門坊 此 経 徒 然 依 有 定 ︿ 近 所 望也
、
の
llLJ 大 水 、 王 円 光 寺 市 げ 巾 住 流 通 物 これには巻第八十までは阿州海部多羅多門坊の経典であった とある。多羅とは徳島県海部郡山尚南町と海部町を流れる海部川 下流左岸にある多良がこの遺称地と思われる。多門坊は薩摩郷 八橋宮の神宮寺と考えていいのか、これらの詳縮については不 明というのが現状である。 ,,..., \、J第
立
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奥
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一
日
大 騒 主 定 全 と 大 棺 一 那 水 主 氏 先に挙げた巻第八十一にあるように、巻第八十までは阿波国 海部郡多羅多門坊のものであり、円光寺住持定全の一所望により 巻第八十一以降を書写勧進し、円光寺の﹁中市住流通物﹂となっ たものである c 巻第八十 以降り込書をまとめたのが表2
で あ る 巻第 十五には吋外際大般若経﹄の発願に関わる重要な 記 述 が あ る 。 願以書罵功 父母成俄道 h L t T L J 仏 氏 L 仁 ヰ ヲ 会 寸 t一
J H, タ バ コ 皆生安楽陸 奉讃州大内郡大水主社大明神法楽流通物御経官、、
4 右 日 挙 権 少 僧 都 定 全 ﹂ / , J i ⋮ 料紙根那源光政陣織守 Z T γ コ しι
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機 数 大 , d T川総合研究所紀姿山山崎三切経の同校史的研究︸ 考えてみると、 第二に海上交通からの視点である。地理的位設から海部郡を 海部︵同 ﹂ の 地 域 に は ’ 牟 木 ︵ 海 部 郡 牟 岐 町 ︶ 、 部海部町朝浦・奥浦︶、宍咋︵陣郡宍喰町︶が材木の搬出港と 阿波間南方と堺を結ぶ商船が 設 し 野 て 参 機 詣 誌 に を 手IJ 果
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た さ し れ て 7こし、 と た し、(と うきさ 。 れ この地域における熊野信仰の浸 透を踏まえて考えると、先に見た熊野信仰により結集した増件 たち写経集団たちの存在も浮かび上がってくる。 また大水主杜の西側を流れる与国間は措磨灘に注ぎ、 その河 絞 』 江のほど近くに三本松がある。この一一一本松はフぷ︵庫北関入船納 に 見 え 、 jj¥¥_ 鍛 島 ︵ 小 豆 讃故国の船籍地の中で宇多津、 高︶、引聞に次いで多く、讃故国でも重要な港であった。 111 同地 iifi州大内部大水主社内光寺f員i経也 i荻以含お功j潟,G、成1·~lifilt=11也1立法学4俊生者間'7乙 七'
i ])口 県立i以"Ii".)~]師匠及父母仁i止i羽 ,\ii,等i宝f,JI大'£討を ト六日 - L ノ\ 域の海上交通上の泣置から運搬手段を考えると、吋外陣大紋若 主杜まで運ばれてきたとも考えられる。 は海上輸送により、阿波留海部郡から讃岐国大内部の大水 次に第日期の輿舎に見える人物や寺院を見ていきたい。 大願主定全 門 巻 第 九 十 二 ︺ 料紙捜那源光政同氏女額以常一回寓功 右筆原主権少僧都定全一許閲光寺第西住持敬来日 庭 、 水 品 川 二 年 記 邦 月 七 白 書 寓 之 、 問 問 思 成 側 道 右の史料にあるように、定全は第H
期 の 舟 一 回 写 の 大 願 主 及 び 執 げ 注 、 4 2 培 り ぬ f 2 4 2 、 3 自他及;;1;界 l前i阪与父母第百期の;~'•ii= 経 巻 ミヰ 仁,守5 月 臼 |土問者 11P手場所 務iミヨ !校 iJI) 81 81 E ノ•k!i三 41j0(1432) 5 5t三(玉66ii交) 水ヨミ絞・iすh註・明笈・儀正文 (裟打ち) 83 応永32<:ド(1425) 6 14 主主raミ.ゴJ、ミ 円光寺 iffi\光政 88 花、7k32>j'.(1425) ]予!6 12 定金(59hえ) JEι・3二、 ilh¥古E石丸ClWi)ぇ 90 !.(子永32ij0(1425) 6 24 定金(59夜) 月光寺 92 丘、永32i手(1425) 7 7主会(59ii)立 主主玉三 ilhl光政 i司氏女 94 4 22 rヌl三.ニノε~ 98 r.G7l<32iJo(l425) 5 18 定金(591,長) 107 !(似32年)(1425 j["三ニ九E: 111 成寺五 地球段 130 iミ仁(48主主) 142 手f義(26frl)立 146 識;j)¥( 150 7K'主4i['(二1432) 4 21 ’ユパ二ユノこと〉 181 !必ノiく32if二'(1425) IO 3 禅林(48i&) 188 良{二 189 良仁 191 {河工:,3:、o 192 !志ノ•k32年 (1425) 8 23 定会(59設立) ノ;g':l~ 197 応ノ・k33年(1426) 2 3 定金(60i&) FIJ光寺 198 (!必ノ•k33if)(1426) 定金(60店主) 199 !;乙7k33if三(1426) 5 3 定会(60店主) 216 i乏手書 231 ノ•kl't4 iド(1432) 2 23 t品日」一刀之 256 定全))} 265 i:t;永34"Jo(l427) 良仁(50絞) 271 応、;jc33ijo(l426) 5 28 ;;g会(60歳) 子光寺立n i主退場 272 応、永33年(1426) 6 23 rヌA丘,二人:ι 千光寺: 273 (応永33年)0426) 定会(601;&:) 274 r.G、ノ•k33'ド (1426) 8 23 定会(60段) 275 r.t.ノk34iJo(1427) 4 10 定全(61百五) 276 (r,Gノk34iド)(1427) 5 3 定£ミ(61足立) 278 ' (応ノk34"!'-)(1427) 定{0:(61絞〉 281 i虫記 282 MR元 283 型元 284 E笠元 285 復元 286 !忽元 287 3袈Tc 288 E翌元 289 議5l; 290 山 MR元 321 9 15 [守党三子 7)(,:j:光正文 主 主Z 滋般国水主神社所刊紙吋外附伴大役若絞﹄と守北野校一切経﹄について ヒ
紳 仰 教 大 山 γ 総合研究所紀附究開四時一一切経の佳史的研究﹂ 筆 者 と し て 、 吋 外 韓 大 般 若 経 ﹄ の計二九巻にその名が見える人 っ た 。 円 光 寺 に は 物である。定金は巻第九十二にあるように円光寺第四住持であ 永享五年二月六日﹂と銘 がある善試締童子像があり、円光寺にも定八五との関係を示す文 ︵ m m ︶ 化 財 が 残 さ れ る 。 巻第二百七十一では体燈大阿関梨位権少僧都の階位を持って いることから、伝法濯頂を受けた高僧であったといえる。巻第 て 講 読 導 締 止 を 務 め て い る 。 三百八十九では永享四年︵一四三二︶四月十五日の法楽におい 連 の 呉 書 に は 、 応 、 水 三 十 二 年 ︵ 一 一 間 二 五 ︶ 五 十 九 歳 か ら 、 水 121 字国年︵一四三二︶六十六歳まで定会の年齢も書き込まれてい 日 世 巾 4 4 h υ j 安 釦 巳 室 御 十 郎 積 物 也 ; 通 路 欣 注 流
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功父母成1Jlii芝締約及衆生河t.lf火器提 大水主役 八 る 0 ﹃ 外 部 大 般 若 経 ﹄ ♂ 右 王 寺 大 般 若 経 ﹂ の奥舎に散見され や る年齢から、定全は貞治五年︵ 一 ⋮ 六 六 ︶ 生 ま れ と 推 定 で き る 。 増件と生年が同じであり、間待代に生きた僧侶といえる。また 龍康状態の変化からか六十六歳の筆跡は震えたような文字で書 か れ て い る 。 さ て ︷ 一 応 人 五 は ♂ お 王 寺 大 般 若 同 u j ? 首 γ﹂ 、
H 山 又 セ 又 上 b ノ 自 γ イ ノ ’ a n 志 位 。 耳 だけでなく 経﹄のうち計九巻を書写している c そ の 代 表 的 な 呉 市 す が 次 の 一 巻 で あ る 。 可若王寺大般若経﹄巻四百八十一︼ 応永八年辛巳卯月十七日、於大内郡大水主将光寺令書写之 果、金剛資定金三十五、与田山若王子流通物也、不可出他 所 者 耳 、 当若王寺大般若経﹄巻第五百五十︼ 大 内 郡 千 光 寺 住 侶 定 ︿ 王 者 之 、 巻第五百五十では﹁大内部千光寺住侶定金﹂とあり、当初定 ︿況は子光寺の僧侶であったようである。しかしながら巻第四百 八十一を円光寺 していることから、以前から円光寺と関 わりを持っていたことがうかがえる。 また、定全は﹃続函底来日﹄六百之内九秩に幸厳が書き写した ﹁ 牛 負 い 般 若 伝 承 ﹂ を 、 山 応 、 水 三 十 年 ︵ 一 ⋮ ︶ 凶 月 日 に 円 119 光寺において改めて経留に書き写している c経 巻 ; i[O ?口王 月 13
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i特 例 康1主 lJ',i )J[) 322 |(応ノ'K341f)三(1427) " υ 定全(6liえ) 324 r,t、1k35年(1428) 2 II寺IEEl 定会(62N定) 325 (応永351To)(1428) 定全(62t友) ;店{光政・紀氏i;cll)J'.It平尼 333 恕チヰ 334 3主主こ 335 lfilj己[ 336 3ニ?三'5して 381 1Ef毛211三(1429)。 。
rliflf 389 ノij(~主 4 年 (1432) 15 宏子主(661ぷ) i原~to絞り8成) 紀氏女I列ゴrcfli<J巴 464 正問t;'.rjζJi\火夫大中 f~Ifr1J:; 497 ;ノ・k'l3 if三(1431) 1 24 善治三(67){1)え 541 ノi(jc1正4if)三(1432) 7主王子(66絞) IYJ宝.I潟余・磁波紋 553 1ヲ,·~事 573 Jk~l 3 ド>(1431) 17 3主会(65trl)之 575 Jl<.~;£ 3 11ミ(1431) 5 21 3主会(65段) 582 584 ノ'k~.立 41ド(1432) 27 591 Ji<2]£4 i[O(1432) 27 定金(66)1え) 600 滋 絞 間 出 水 、 支 神 社 引 所 絞 咋 外 附 伴 大 机 税 法 経 ﹄ と τ 北野社一切経与について セ 経 函 底 常 一 回 ﹄ 六 百 之 内 九 秩 ︺ 博問、此大般若経元伊消防翻石鎚社・奉安置御経也、而自被 鴎奉送設社之時、品開︵牛運送之閥、於泥中泰落、失般若二 難然彼牛負大般若経依功徳、受人身成沙門形、上件子細同社内 感夢想之鋼、参詣吉社、此経内ニ巻書寓之奉加之、 此子綿陪及之問、為援代記之 治陽比叡山末流阿悶梨五十厳 子 時 感 、 水 品 川 年 。 突 卯 如 月 一 日 、 於 毘 光 寺 来 日 限 切 之 本経之丈令破損問、為後代記之置者也、 設社二和尚M m
権少僧都定全五十七歳 これにあるように﹁牛負い般若 L とは、経阿に締められる 吋内陣大般若経﹄は伊予国石鎚山から牛に背負わせ運んできた という伝承である。またこの特定全は﹁首社二和尚東寺米中流権 少僧都定︿五五十七歳﹂と自ら東寺末流と名乗っている。円光寺 は真言宗寺院であるが、 はたして東寺末流であったか否か容易 に 判 断 し が た い 。 ところで♂お王寺大般若経﹄ には参加した形跡を残 す 定 全 で あ る が 、 吋 北 野 社 一 切 経 ﹄ にはその名前は全く克えな し、。
つまり定全は吋北野社一切経 L に参加していない ということである。定会は先に述べた増件率いる写経集団には 1L帥附紋大学総合研究所紀閉店別附﹁一切経の俊史的研究﹂ 所麗しておらず、増件の写経築関とは違う形で、定全が独自に 写経集団を組識して吋外陣大般若経﹄ に取り組んだと祭せ ら れ る 。 大樹郡水主氏 大願主となった定全について触れることができた。続いて大 檀那となった人物について見ていきたい。 すなわち、料紙大樹部として奥書に見える源熊石丸︵巻第八 十 八 ︶ 、 源 光 政 ︵ 巻 第 八 十 一 一 一 、 巻 第 九 十 二 、 巻 第
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巻第三 二十五︶、源盛政︵巻第三百八十九、巻第五百四十 一︶らが吋外陣大般若経﹄の大控那といえる。 これらの奥脅か二克すると、大檀那となったのはこれらの源 ︵ 幻 ︶ 姓を称する水、五氏であることが明らかとなる。次に水主氏がみ える主な真書を掲げ、水主氏の血縁構成や村落内での地位につ いて考えてみたい c 門 巻 第 八 十 八 ︺ 敬 自 泰 法 祭 大*
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権 源 社 少 熊 三 僧 石 所 者l
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大 定 生 明 全 年 千rji 九五才 1~1
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FJIJ 等 料紙大誼那 P闘”‘ 巻 第 百 lf.!J': 八 永 右 十 ・ 筆Jjj 九 二 大 〕 天 廠 日乙ごド 潤 ー ノ、 月 トE
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︵問問カ︶− Z 子 時 、 水 享 三 年 刊 卯 月 十 五 日 於 大 明 神 御 震 前 泰 関 白 法 山 山 市 所 最 重成乎、特諒之僧衆廿三人之内講読導部器光寺住持者協伺之 本願望人権少僧都定八五送春秋六十六歳限、偏是潟自他詞誌 無上菩提故也耳、 大 檀 那 山 口 問 地 頭 源 康 政 十 八 歳 井紀氏女禅定明資勤行之、 門 巻 第 五 百 由 十 一 ︺ 右筆権少僧都定全六十六 大撞那明安明金源盛政 ︵ 巻 第 司 八 十 一 一 一 、 巻 第 九 十 二 、 巻 第 一 一 一 十 一 、 巻 第 一 一 十五は加頁にて掲載︶ 巻 第 八 十 八 に は 応 、 水 三 十 二 年 ︵ 一 回 二 五 ︶ の時点で源熊石丸 十一歳とある。巻第三百八十九では七年畿の永享四年三四二 二︶に源盛政十八歳と見えることから、源熊石丸は源藤政︵水 主 盛 政 ︶ の幼名であることがわかる。 水主氏は奥来日以外にもその名を見出すことができる。すなわ ち棟札や弓壮語底辺吉がそれである c 衛 門 応 部 永源二
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政 九 」 年 と ( あ(ー るそ?匹! の 本 殻 棟 札 に は ﹁ 惣 官 水 主 一 二 郎 左 文安元年︵ 匹i j凝 血 の﹁大水主社神人産記之事﹂︵吋経函底 三 百 之 内 六 秩 ︶ には蟻政が見える。披は﹁惣官 L という立場で先制問に任せて神人たちによって組織される宮座の座配を決 が見て取れる。 定している。この惣官識は祭杷を決定する最高位にあったこと 大水主社神入庫配之事 左座大神人 一胞茂吉 一 一 川 秀 依 一 一 一 川 助 友 田川行松 少二五 祈l // 人ご図A 噌 女 ,ム吋’ Zと 左中康 一関依守 ケ 包 行 一 一 一 H 士 口 延 入 神 人 臨庁行松守 繕 上 回 ︵ 持 小神人ニテ絞へ共、 H 4 ハ 出 陣 品 川 市 ヲ 取 次 庁友弘 一 一 一 二 俗 谷 四 N 守 友 五 N 成 遠 ム ハ 庁 ﹂ 問 只 徒 一 七 右中座 一膳末貞 二 H 近 成 一 一 一 H 土器 右座大神人 一脆依道 一 万 友 土 口 一 一 一 庁 吉 行 四 H 祢 ︷ 五 時口内/ 五二勝五部大夫分 四 H 米正
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談 紳 股 間 出 水 主 締 役 所 持 問 問 a M 外 附 伴 大 紋 影 山 粒 ゐ と ﹃ 北 野 外 江 切続与について 文安元年八月吉日 惣官源盛政 年代から光政と盛政が義子関係にあると思われる。その光政 と盛政がともに惣官を官職としていることから、水主氏は代々 惣官を務め、大水、支社の祭杷運営止を司る権限があったと考えて いいだろう。また、感政は巻第三百八十九で﹁当地地頭﹂と名 乗り、在地での官途を有している。 なお、明宝と明金は盛政の母親か姿にあたる人物の法名と考 えられる。 叶内際大般若経﹄修復の﹁文安二年奉加帳L
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経 函 底 書 ﹄ 一 一 一 百之内一秩︶'
勧進奉加帳事 受貫文 郎 左 で は 、 衛門尉漉盛政﹂とあるように盛政は一覧文の泰加をしており 一五六件ある泰加の中で最高額である。このことから水主氏は 地域でも政治的、経済的にも最有力者であったことが判明する。 版以金田寓功父母成俄道 我等与衆生 皆生安楽閥、 奉讃州大内郡大水主社大明神法祭流通物御経也、 右築様少僧都定全六十一一 料紙撞部源光政問幡守 リ汗紀氏女明資禅尼 これは先に見た巻第三百二十五であるが、﹁願以金一回潟功父母 成側道﹂とあり、 の功徳によって定全と水主氏が共に父母 成仏を願っている。 二百二十五のほかにも巻第八十。 一
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帥 仰 救 大 学 ん 叫 ん 口 研 究 所 紀 姿 別 府 ﹁ 一 切 経 の 佳 史 的 研 究 ﹂ 各 dJ ヤ ム ℃ ︺ 令 コ マ L 一 、 ﹂ ぺ 芳 氏 周 ? プ , 1 百七十一にも同様の版文が舎かれてい る。このことから定全は水主氏の 員と推察することができる。 そしてこれらの奥舎は水主氏の と一族の繁栄を願意と することから、彼ら水主氏の結合を見ることができないだろう tJ
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また巻第五百七十五の奥武田では、十方檀那と表現される人々 の菩提を供養すること の 目 的 と し て い る 。 子 時 、 水 享 三 年 一 約 五 月 サ 額以寄寓功師匠父母等及十方檀那詮元上菩提 右 悠 一 極 少 僧 都 定 会 以 十 にあたり、水主氏以外にも駒郡 白書 寓 果 、 つまり吋外陣大般若経﹄ となった結縁者の存在を知ることができる。 2 執筆者と書写場所 願主や大根那だけでなく執筆者や書写場所を検討する必要が あ ろ う 。 定全以外にも良仁や聖元といった数名の執筆者がいる。しか し残念ながら、彼らの中で動向が知られるのは限られている。 また円光寺︵巻第八十一二、巻第九十、巻第て治九十七、巻第一一 日 一︶や子光寺︵巻第二百七十一、 百七十 乙 が 書 写場所としてみえる。 ±>'itJヨl
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二 可外陣大般若経﹄巻第二百九十四︺ ︵ 抽 出 正 力 ︶ 夫大水、忠大則的神大般若経者縫潟増件増正藤氏信俊等筆跡最 経数百年議損没法頗多、木村姓某深憂之以十方椴越 信 施 求 経 氏 巾 需 予 跨 巻 補 筆 、 設 ︵ 意 趣 如 何 泰 潟 大 思 教 主 務 迦 人 牟 屯普逝報患謝穂大水主大明神神穂自在府弘、子時文政十一戊 子仲冬廿有七日書寓率、 大内郡胤夜間郷横内村亀齢山松林精舎資増尊理澄生年十 戸七 歳 ﹃外隊大般若経 L 巻第二百九十四には丈政十一年︵一八 八︶の修復事業の趣旨を記している。すなわち大水主社の吋大 般若経 L の中で増件増正や藤氏信瞭らの筆跡は最も﹁重宝﹂で あったが、年数を経て虫損や慢患が生じたため補筆したとある。 吋外陣大般若経﹄にも増件の名を記した盆呉市首があったようであ ︵ お ︶ るが、虫損などにより論経の対象となったようである。増件の 手による筆跡の存在から、増吟も﹃外陣大紋若経﹄の に携わっていたと推測することができる。 前項では、定全は増件が組織する写経集罰には所属せず、 ﹃外陣大般若経﹄は定全が独容に組織した写経集自によってす一日 写されたと指摘した。増件の筆跡の存在はこれに相反するが、 吋外際大般若経﹄の由緒付けのため社会的評価の高い培件に執筆を以来したのであろうか。 ク己 ニ己 全 F『 ク'c 3/3.己 ニ己 ノ己2 全 第 の 刀 ( -名 享 百 が 閲 五 、 年 十 『 子 壬 〕
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話 番 L 了 の 例 で あ る 。 右 社 説 空 全 のん築書に見えるのはこれが唯 の ん 災 害 ︵ 一 羽 田 二 ︶ しかしながら吋内陣大般若経﹄巻第 に向巻を彼が修謹安置したこと が記されている。 門﹃内棒大般若経﹄巻第三百五十補
三r.: E三Z 一年壬戊初夏念五日令安置之 ま た 、 ﹁文安二年奉加藤L
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経函底書﹄ の﹃内陣大般若経﹄修設において一00
文安二年︵一自由五︶ ‘ 削d 右筆空会 五百之内七秩︶ F ﹂、 b v 奉加 文を奉加している。この額は比較的高額の奉加である。 二百文 国 光 寺 良 海 百 丈 色 す 計 一 泊 、 レ 灯 ザ キ L L i−
吉丈 定器 百文 全秀 百文 百 丈,
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百丈 成 ~I生 百文 ︷ 疋 議 問 百文 百文 増現 讃 絞 間 出 水 主 神 社 所 絞 吋 外 陣 大 絞 殺 向 性 L と ﹃ 戸 北 野 社 一 切 m 投与について 五十文 吉 子 い 臼 ν 4 ρ ドE ⋮E パ 品 川 文 善成 五十文 孝 恕 土 寸 良 本 ヤ 口 M M ∼ 4 4 一 右令修護経師尾張之法眼御前 大水主社にとって神宝とされる﹃内陣大般若経﹄の修複にあ たり奉加を仔い、その上自らも経巻の補写を行っているという ことは、大水主社と深いつながりを持った人物であることは開 いないであろう。 良 I毎 門巻第三百八十一︺ 正長武年配五月五 前掲のJ
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安二年奉加帳 L に円光寺良海が二CC
文を奉加し 保子良海 ているのがみえる。彼もまた大願主定全と同様に円光寺の儀信 で あ る 。 良 門巻第二百六十五︺ 態 、 水 品 川 V ハ 訂 右 筆 良 仁 積 ぽ 良 仁 は 巻 第 二 日 一 一 ム i ・巻第一百八十八・巻第。百八十九・巻 第二百六十五に見える。応永三十四年︵一回二七︶ から年齢を 逆算すれば永和三年︵ 三七七︶が生年となる。係数大学総合研究所紀閉店別冊二切経の隆史的研究﹂ 良仁という僧名は♂お王寺大般若経﹄にも見え、計 ’ し ム ℃ r f jJ モ ヰ t b 写している。しかし前掲の♂右王寺大般若経﹄巻第三百九十 にあるように応永八年︵ 由。一︶当時三十八歳であり、逆算 す れ ば 志 安 六 年 ︵ 一 三 七 一 一 一 ︶ 生 ま れ と な る 。 同巻に見える良仁の生年に若干の誤差が生じているため、同 一人物と見るには疑義が生じる。だが、同一地域にほぼ問時期 に、そして同名の僧揺が存在していたと考え難く、 やはりここ ではこれらに出てくる長仁は同一人物と考えたい。 ま た 吋 北 野 社 一 切 経 ﹄ にも次の奥設のように同名の僧侶が 出 て く る 。 ︹ 吋 河 葉 末 笠 口 露 経 ﹄ 巻 第 七 ︺ 交 了 、 讃州大内郡大水、五社 応 永 十 九 季 舵 卯 月 廿 六 日 書 一 挙 、 大水主社僧と名乗りコ間差求菩薩経﹄巻第七を書写している。 この良仁は﹃外陣大般若経﹄や♂お王寺大般若経﹄に見える良 仁と詞一人物とみて間違いなかろう。良仁はいずれの経典の 良仁 写にも携わっており、増件の写経築自の 員であったと考えら れ る 。 門 巻 第 一 百 四 十 二 ︺ 右筆金位宥義歳齢廿六 日 立 巻第一百四十二に宥義という倦倍が出てくる。吋北野社一切 校 果 、 の J 啓 一 一 一 口 童 子 経 上 ﹄ に も 同 名 の 僧 侶 が 登 場 す る 。 大 右 願 祭 主 二 宥 覚 年 義 蔵 主j
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・Ii F子c!i:l:i: し か し な が ら 、 応 、 水 十六歳、応永十九年の吋北野社 とある。年齢に相違が克られることを考慮すると般の場合は別 切経﹄では二十四歳 人と患われる。 t雪 1刀 ( F司 増 巻 契 永 第は 享 二
万え〆く 臼 享 困 三 回 数 十 年 歳 一 ( 子 走 〕月
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-日 告 : 潟 申 魁 畢 にかかる﹃外隊大般若 出三二︶二月二十三日に書写している c 禿筆増契 されるod
ごは文字を掛り揺して後に ﹁増﹂の係字を持つことから、増件や増範との師資関係も推察 さ れ て お り 、 ﹁ 契 ﹂ 以前に侭という文字が玄関かれていたのか、 たのか疑問が残る。 またなぜ掛り消され立泊 二 位 フじ 門巻第二百八十一など︺ 結縁比丘 の については知るところがないが、結縁比丘を名乗り 定全に次ぐ計一四巻を数え、この吋外路大般若経﹂ 深く議わっていた人物とみてよいであろう。 敢 闘 写 場 所 円光寺 門 巻 第 一 言 九 十 一 一 ︼ 讃 !喪ナ1-1 永 大 711- 内 二 部 年 大 巳 乙 水 八 ごE二