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図書館員の文献紹介と 資料の活用
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■はじめに
江戸時代が後半にさしかかった頃、養蚕につ いての新しい書物『養蠶秘録』が上垣守國(宝 暦六-文化三=1756-1806)という人物によっ て刊行されました。この書物はわが国の養蚕業 を促進させるだけでなく、ヨーロッパに持ち出 されて翻訳され、蚕病で苦しんでいた国々の絹 糸業を助けることになります。翻訳も何人かの 人々によって行われた幾つかの版があり、日本 の技術がこの地域に浸透していきました。その 結果、ヨーロッパのこの事業が次第に蘇るので す。
■上垣守國という人
上垣守國は、江戸時代の中期である1756(宝 暦六)年に但馬(現在の兵庫県)養父郡蔵垣村 に生まれました。同地の資料(1)によれば、18 歳の頃から各地を巡り、陸奥国伊達郡伏黒村に 赴いて養蚕を視察し、帰郷するにあたり蚕種を 持ち帰るとともに研究を進め、蚕種改良の技術 指導者になったことがわかります。
この成果は享和三(1803)年に『養蠶秘録』
として纏められて、江戸時代後期はもとより、
明治30年代になっても兵庫県の蚕業学校の教科 書として使われていたようです。
■『養蚕秘録』とは
上垣は『養蠶秘録』を著すにあたって、但馬 の出石藩の儒学者で同藩の藩校の開設に力を注 いでいた桜井篤忠の助力を受け、桜井による漢 文の「序」で全3巻からなる本書の巻頭を飾っ ています。また、当時、都(京都)で活躍して いた浮世絵師の西村中和と速水春暁斎に挿絵を 描かせました。この絵師の起用は、当時の農民 の識字率の関係もあって、絵を多く用いて養蚕 技術の過程を示すことで内容を分かりやすくし
たものと考えられます。さらに、開版にあたっ ては、江戸日本橋の版元である須原屋茂兵衛と 須原屋平助、大坂では心斎橋の柏原屋清右衛門、
そして都では富小路三条の須原屋平左衛門を使 い、この三都の書林から広く流通するかたちを とっています。後世の『国書総目録』によれば、
刊行は1803(享和三)年の一度限りで、他に版 を重ねて発行されていたことは確認できません が、この書物の刊行部数は分かりません。
江戸時代の養蚕は全国的な主力産業であり、
この分野の技術書は奥州の佐藤友信が1783(天 明三)年に上梓していた『養蚕茶話』など、他 にも見られます。こうした中で、上垣は出石藩 をはじめ多くの人物の協力を得て新しい技術書
『養蠶秘録』を世に出し、これがさらなる類書 の刊行を促して江戸時代後期の養蚕業を発展さ せる情報源になっていたと考えられます。
■フランスを救ったシーボルト
このように、長期的な「ベストセラー」になっ ていた本書に着目をした外国人がいました。そ の人物こそ、ドイツ人で長崎出島のオランダ商 館医として滞在していたフランツ・フォン・シー ボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)
です。彼は医者としてだけではなく、博物学者 としても著名な人物ですが、同書の刊行後20年 を経た1823(文政六)年から1829(文政十二)
年までわが国に滞在して、国内の状況を熟知し た外国人でした。また、彼はヨーロッパで蚕に 微粒子病が発生して蔓延し、絹糸産業に大きな 打撃を与えていたことを認識しており、この状 況を打開するため、日本の養蚕技術に関心を 持っていたとしても不思議ではありません。こ うして、シーボルトは『養蚕秘録』を入手し、
上垣守國の『養
よう蠶
さん秘
ひ録
ろく』が
ヨーロッパの絹糸産業を救った話
奥 正敬
『養蠶秘録』全3巻(本学図書館所蔵)