巡礼の旅を巡る持続可能な地域づくりについての研究
―香川県直島町の写し霊場の事例―
藤澤春華
八巻惠子
Pilgrimage and Sustainable Community Development:
A Case Study of Copied Sacred Sites in Naoshima Town, Kagawa
Haruka Fujisawa, Keiko Yamaki
論文要旨:本研究は、持続可能な地域づくりのための観光と地域資源の活用について、香川県直島 町の宗教巡礼の事例を検討する。直島はアートの島として世界に知られた観光地だが、島民は人口 減少と少子化が進み、観光ガイドはいなくなった。直島には四国遍路の写し遍路があり、かつては 島民の年中行事であり、1989 年には観光振興も行っていた。コミュニティの弱体化により文化継 承の危機にある直島のエコツーリズムの導入には外部支援も必要だ。
Abstract : This study examines the case of a religious pilgrimage in Naoshima, Kagawa, regarding tourism and the use of local resources for sustainable community development. Naoshima is a world- famous tourist destination for art, however, the islanders have been losing population. There are no more tourist guides. Naoshima has a pilgrimage which used to be an annual event for the islanders and was also promoted for tourism in 1989. External support is needed to introduce ecotourism to Naoshima, where cultural inheritance is at risk due to the weakening of the community.
キーワード:巡礼、持続可能な地域づくり、直島町、写し霊場
Key wards: Pilgrimage, Sustainable Community Development, Naoshima, Copied Sacred Sites
1.はじめに
本研究は、持続可能な地域づくりのための観光と地域資源の活用について、香川県直島町の宗教 巡礼の事例から、旅の商品化のプロセスについて明らかにする。
資本主義社会の発展と近代化による行き過ぎた開発により、多くの人々の生活は豊かになった一 方で、地球規模で生態系のバランスを崩している。人口の集中と過疎化、自然環境や伝統文化の継 承の危機など、深刻な問題や被害が全世界で起きている。国連では2015年に「我々の世界を変革す
る:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択され、17の具体的な目標と169のターゲット からなる「持続可能な観光目標(SDGs=Sustainable Development Goals)」が掲げられた。犠牲を 伴うような開発によって発展することへの批判、地球上の自然環境や生物多様性を尊重し、地球を 大切に存続させながら開発を進めていこうという考え方である。
観光産業の場合、その具体的な活動はSDGsよりも前に始まっていて、地域資源を活用するエコ ツーリズムは1970年代には中米などですでに行われていた。マスツーリズムの反省として日本にも 1990年代にはサステイナブル・ツーリズムや着地型観光などの形で導入されはじめたが、これらは いずれも目的は観光を利用した地域振興の手法である。
地域資源とは、地域固有の自然や文化、歴史や生活のことであり、生態系の中から受け取るもの である。生態系とは、森林や、草原、河川、湿地、溜池、農地などの自然環境と、そこに生息する すべての生物の関係を総合的にとらえた生物社会のことである。人は生態系サービスとして食料や 水、気候や土壌の安定、生息環境などの恵みを受け取ることで生活ができるため、生態系が壊れる と人がそこに住み続けることに問題が生じる。
地域が持続するということは、地域住民が経済的な活動を営み、心豊かな生活を送り、その暮ら しぶりが親から子へ、子から孫へと代々伝えながら住み続けることができることである。一方で、
近年の日本の大きな問題は、少子高齢化(自然現象)と人口の偏り(社会的現象)、空き家や空き 店舗の増加、コミュニティや産業の疲弊などである。とりわけ地方都市からは労働人口が流出して おり、過疎化と人口減少が進んでいる。東京一極集中を是正しようとする政策が地方創生の一連の 取り組みでさまざまに実践されている。その文脈において観光振興は地方都市では地域振興と同義 である。
観光は地域における滞在人口や交流人口を増加させ、地域経済を活性化させる効果がある。とり わけサステイナブル・ツーリズムやエコツーリズムは地域資源を活用することを通じてリピーター や地域のファンを獲得しようと考え、それを実現しようという取り組みである。エコツーリズムは 地域の「宝」であると地域住民が認めるような、その地域にしかない地域資源を住民たちで協力し て磨きあげながら観光商品にするので、住民にとってはふるさとの価値を再発見する地域学習の側 面もある。現場の運営や情報発信の活動も地域住民が深く関わることが多く、いわば地域を商品化 して自分たちで売る活動であるため、地域によって大きく違いが表れてくる。
そのようなエコツーリズムは規模も小さいため、参加する観光者はマスツーリズムではなく、個 人客が中心である。個人でエコツーリズムに参加する客は参加の動機づけや地域への興味が比較的 はっきりしていて、観光サービスを買う客というよりも、新しいことを学びたい、地元の人しか知 らないようなことを教えてもらいたい、観光地の人と交流をしてみたいという経験価値(シュミッ ト、2000)への要望が強い。
地域住民は、大勢の地域外の人たちに地域を見てもらい、喜んでもらうことでふるさとに愛着が わき、誇りを醸成することにもつながる。地域の商品化のその源泉となるのは、自然環境、民俗風 習、伝統文化、食文化など地域の暮らしぶりそのものである。それらを大切に保全して次世代に継
承しようという考えになる効果もある。観光のまなざし(アーリ、2014)によって観光地に人の手 が入り、品質管理されるという側面がある。逆に、誰も見に来ない観光地は人の手も入ることなく 廃れていくこともある。
本研究のフィールドである香川県直島町は人口減少の問題が深刻であるにも関わらず、江戸時代 から続く宗教巡礼路が残っている。宗教巡礼やお接待などの風習や、観光者向けの地図看板が港の 正面にあったことを覚えている人は多い。巡礼路についての観光協会に問い合わせは定期的にある らしいが、現在では観光案内ができるような情報は提供されていない。個人で歩いたり、サイクリ ングコースでまわったり、札所の撮影をする観光者はいるという。そこで本研究では、巡礼は商品 化が可能な旅であるととらえて、直島町の宗教巡礼のフィールドワークから現在の巡礼路がどのよ うなものなのかを明らかにし、直島の持続可能な地域づくりのための地域資源の活用について議論 する。
2.研究方法
持続可能な地域づくり
資本主義国家の近代化による開発で人々の生活が豊かになると同時に、開発には様々な犠牲が伴 った。経済や産業が弱い地域には経済や産業が強い先進国や外部企業が一方的に関与し、「行き過 ぎた開発」は公害を引き起こしたり、伝統的な民俗文化のくらしぶりを破壊したりした。自然環境 や産業経済社会の生態系のバランスが崩れ、地球規模で持続可能性が重視されるようになってきた。
行き過ぎた開発に対する批判は、1975年、スウェーデンのダグ・ハマーショルド財団が国連経済特 別総会に提出した報告書の中で「もう一つの発展(Alternative Development)」という概念の提案に よって提案された。同じ頃、熊本県の公害被害調査を長期的に行っていた社会学者の鶴見和子は、
「内発的発展論」を主張した(鶴見 1996)。その共通点は、発展は地域内で資源が循環するように、
生態系を壊さずに発展すべきだという点である。しかし1980年代はココ事件1が発覚するなど南北 問題は顕著であった。
その後、環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)は、アジェンダ212を通じて21世紀 に向けての持続可能な方法で開発を進めることを求めた。気候変動枠組条約や生物多様性条約が提 起され、貧困問題や自然環境保全などの地球環境問題などについて継続的に話し合われ、世界の国々 や企業において、持続可能性を考えながら開発しなければならないという考え方は徐々に共有され てきた。
国連はミレニアム開発目標(MDGs)を継承して、2016年〜2030年の間に達成を目指す持続可能
1 1980年代後半には、イタリアやノルウェーなどの先進国から、発展途上国であるナイジェリアに有害廃棄物が投棄 された事件である。処分が難しい有害廃棄物を規制が緩く処理費用もかからない発展途上国へ輸出し、ナイジェリア は外貨獲得のために受けいれたが、適切な処理を行わなかったために周辺住民に健康被害や環境汚染を引き起こした
(外務省2019)
2 1992年ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連環境会議で採択された21世紀に向けた持続可能な開発を実現 するための行動計画。
な開発目標(SDGs)を設定した。
日本国内においても、東京一極集中という偏りが顕著で、地方都市からの人口流出による人口減 少、少子高齢化、空き家の増加、雇用の減少、産業の疲弊は深刻な問題で、この是正に取り組んで いるのが地方創生である。多くの地方都市が都市部の企業によって利潤追求のための開発が行われ た結果、美しい海沿いが工場地帯になり原子力発電所が建てられた。地域に雇用が生み出された一 方で、特に1970年代には環境汚染と公害の問題が全国で顕在化し、自然破壊や健康被害が多数起き ていた。都市圏は食料や水などの資源を地方都市から得るので、地方の生態系が壊れることは日本 全体の持続可能性の問題である。
国内外の反省から1977年に環境教育政府間会議が開催され、1980年代に文部省(現文部科学省)
の教育研究開発学校において環境科がつくられた。日本の学校教育において環境を用いた教科が設 置され、1990年代後半には生態系を守るための持続可能な社会の主体者の育成を目指す教育が行わ れるようになった(佐藤他2018:2‑17)。
旅の商品化
観光産業の中では早い時期からマスツーリズムに対する批判があり、伝統的な少数民族の村や野 生動物が住むジャングルに団体で押しかけて見物することで、民族文化が売り物にされたり伝統が 変容したり、森林が失われて野生動物がいなくなるなど、観光資源さえ失うことにもなった。これ らは航空機が大型化した時代のアメリカやヨーロッパなどの先進諸国による国際観光ブームで途上 国の開発の中で見られた。サステイナブル・ツーリズムやエコツーリズムは1970年代にはすでに開 始されていた。
1992年ブラジルの地球サミット以降、「持続可能な観光」の一つの方法として自然保護や地域保 全を行いながら地域の雇用を創出し、地域資源を活用する一つの観光としてエコツーリズムが取り 上げられた。エコツーリズムとは、エコシステム(生態系)、エコロジー(自然環境)の「エコ」と、
観光旅行や観光事業を意味する「ツーリズム」を組み合わせた合成語である。地域を訪問し、地域 の暮らしぶりについて教えてもらうという、学習意欲の高い観光者が個人参加することが多い。海 津ゆりえは、エコツーリズムの特徴について、観光事業者や観光者など利用者側へのサービスに目 的を置くのではなく、あくまでも地域資源の持続的な保全と利用を究極の目的にしていると説明し ている(海津2011:25)。エコツーリズム自体が目的なのではなく、観光を活用しながら地域らし さを守り持続させていく手段なのである。
エコツーリズムは、地域住民が「宝」と考える地域資源を磨き込んで商品化する内発的発展を前 提とするものである。鶴見は、内発的発展は、地域固有の自然生態系に適合し、文化遺産にもとづ き、外来の知識・技術・制度などを照合しつつ自律的に創出されるという(鶴見1996:9‑10)。地 域資源は、自然、景観、歴史、伝統、風習、慣習、文化、産業、名人、食、建築物、技術などの様々 な地域らしさである。
地域住民が自分たちで創ることで自らの地域の良さを再認識し、帰属意識が高まる。観光者が関
心を持って地域を訪れることによって見られる側の意識が芽生え、住民の環境管理に対する意識が 高まる。観光者がやって来るから地域資源をよく管理して磨く、よく磨かれている地域だからこそ 観光者が魅力を感じてやってくる、という循環が地域らしさを持続させていく。外発的な諸要素も 排斥することなく適宜取り入れながら、地域住民主体で柔軟に地域づくりを行っていくことがエコ ツーリズムの本質的な目的である。
本研究においては、直島の宗教巡礼は「宝」の地域資源であると考えて、聖地を巡る旅の商品化 とエコツーリズムによる地域振興の可能性について明らかにする。
信仰と巡礼
あらゆる巡礼に共通するのは、日常の俗なる空間から聖なる空間へ移行すること、人々がコムニ タス(ヘネップ、2012)となり非日常的な社会状態に属し、再び日常生活へ復帰するという儀礼の 構造である。ヘネップは、通過儀礼を「分離」「過渡」「統合」へと移行するものだということを明 らかにした。聖地をめざす巡礼の旅に出ている間は、人は「過渡期」である。
オーラ―は、巡礼の動機について、神への信仰や諸聖人に対する信頼、神への誓い、罪の償い、
冒険心と娯楽願望、心の巡礼などと述べている(オーラ―2004:59‑82)。巡礼の目的は現世利益や 病気治癒、子授けなどが多く、神や聖人、聖遺物ゆかりの聖地を目的地として移動する人類普遍の 行動である。空間移動するだけでなく、現世利益や病気治癒、来世での救済を求めることを目的と しながら、神や聖人、聖遺物ゆかりの聖地へ移動する。巡礼者たちは、人々が認識する徴(しるし)
としてイエスなどの聖人に関係する土や石、川の水などを持ち帰っていた。さらに中世後期以降で は各巡礼地で独自の徴が作られた(オーラ―2004:253‑255)。
世界遺産認定を受けている聖地巡礼の路には、サンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼、メッカ巡 礼、日本では熊野古道がある。他にも国内の巡礼には江戸時代に始まったお伊勢参りや四国遍路(後 述)がある。
こんにちは、宗教が観光産業に組み込まれた巡礼ツアーもあり、個人レベルでも、信仰心もなく 観光気分で寺社仏閣を訪れる人は多い。そう考えると人は時代や場所問わずに巡礼を行っている。
観光人類学者のグラバーンは、巡礼と観光は人生時間を区切るという点で類似しているという(グ ラバーン2018:38‑39)。かつての巡礼は主に徒歩だったが、交通手段が発達してからは自家用車や バスを利用できるようになった。長距離を歩くことが困難な高齢者たちも聖地を巡ることができる ようになった。スポーツ感覚でバイクや自転車の旅の巡礼路も人気である。門田岳久は、巡礼を行 う手段が増加したことで、「巡礼者=顧客」となり、それまで巡礼者になりえなかった人々の潜在 的需要を掘り起こして「巡礼ツーリズム」を生み出したと説明する(門田2010:213)。逆に橋本和 也は、巡礼ツアーのような旅の商品化が信仰や布教のきっかけにつながるという。(橋本2011:
25)。
観光は近代に発達した産業だが、江戸時代にはすでに観光行動ともいえるような現象はあった。
幕府は庶民の地域間移動を禁じていたが、巡礼と温泉治癒は例外であった。人々はお伊勢参りのお
札やお守りを持ち帰ったり、参詣後に名所見物や名物を食べたりなどの異文化体験をしていた。現 在の土産購買や観光旅行とよく似ている。室町時代や江戸時代には巡礼の支援グループ「講」がよ く機能していたが、現代の団体旅行のしくみに発展したともいえる(須田2009:39)。また聖地巡 礼と呼ばれるものに、テレビや映画、アニメ、小説などの作品に描かれたゆかりの場所を訪れるコ ンテンツツーリズムがあるが、その観光スポットが神社仏閣であることも頻繁である。巡礼路をピ クニックや健康目的で歩く観光も人気である。
本研究のフィールドである直島の巡礼路は江戸時代に作られたが、平成頃には観光客向けの観光 案内看板が立てられ、地図も配布していた。しかし現在は、看板は撤去されて観光案内の資料はな い。地域住民の信仰や巡礼は少子高齢化によって弱体化しているかもしれないが、観光協会による と観光者からの問い合わせは時折あるという。エコツーリズムの観点から、直島の巡礼路は持続可 能な地域づくりのための資源として活用できることは間違いない。
フィールドワークの概要
本研究のフィールドワーク調査は、2019年8月から2020年11月までに断続的に行った。直島出身 の大学教員から島の暮らしや子供時代のあそびについて話を聞いたことがきっかけで、直島の歴史、
風俗文化、伝説などに関する資料を教員から借りた。教員の紹介でNPO法人直島町観光協会のスタ ッフに面会を申し込み、そこからの紹介で元観光ボランティアガイドに島の寺社仏閣や伝説が残る 場所を案内してもらった。四国遍路の写し霊場が直島にあることを知ったのはそのときである。宿 泊施設の女将は写し霊場を知っていて、その友人からも話を聞くことができた。地元飲食店のスタ ッフの話では、写し霊場の管理は直島町役場も関係しているということを聞き、関連する活動をし ている直島町地域おこし協力隊隊員を紹介された。瀬戸内海歴史民俗資料館では館長は四国巡礼の 専門家で、四国遍路や直島の遍路や言い伝えについて大変詳しく話を聞くことが出来ただけでなく、
調査の進め方のカギやヒントもいただいた。インタビュー調査や聞き取り調査を進めながら、88の 札所を探して記録に取った。
3.香川県直島町
香川県直島町は瀬戸内海の島の一つで、直島を主島とする大小27の島々で構成され、有人島は直 島と向島、屏風島の3島だけである。面積は14.22平方キロ、人口は3,069人(2020年4月1日住民 基本台帳)、降水量や寒暖の差が少なく日照時間が長い。直島(なおしま)という地名は、保元の 乱で敗れた崇徳上皇が讃岐へ配流される際に直島に立ち寄り、島民の心が素直だったために名付け たと伝えられている。そのため直島には崇徳上皇に関する伝説やゆかりの地が存在する。岡山県と の関係が深く、1969年から生活用水は海底導水管を使い岡山から送られている。船便も香川の高松 港よりも岡山の宇野港の方がアクセスは良く、島から岡山に通勤や通学をしている人も少なくない。
直島にはスーパーマーケットが2軒、コンビニエンスストアが1軒で、日用品の買い物も島民は頻 繁に船で出かけるようである。
島の玄関口は宮浦港で、草間彌生の有名な赤い「南瓜」があることでも有名である。毎日のよう に観光客がやってくるのは、1980年代からアートの島としての観光振興が成功したからで、いまや 世界に知られた有名観光地である。とりわけ瀬戸内国際芸術祭の開催年は賑わう。一方、島民の人 口は年々減少し高齢化が進んでいる。生活地域は里山が荒れて野生動物による被害が起きたりして いる。
人口
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図1は直島町の人口グラフであ る。1673年から1935年まで人口は 緩やかに増加した。1917年に三菱 マテリアル株式会社直島製錬所(以 下、製錬所)が誘致されて以降、
働き口の増加、戦後の復員、産業 の発展、ベビーブームに伴い人口 は増加したが、1960年代ごろから 現在まで人口減少が進んでいる。
子供たちは中学を卒業すると香 川県か岡山県の高校へ進学する。
直島の就職口は職種が限られてい るため、島外に仕事を求めて帰ってこない若者も少なくない。2020年度の小学生は124人、過去に は100人を下回った年もあった。1年生は現在15人と学年で最も少ない。1958年がピークで1300人 を超えていた。2020年度の中学生は48人である。
島の主要産業と開発
直島は江戸時代には幕府の天領3として交易の拠点とされ海運業が栄えたが、中期になると島の 船は使用されなくなった。やがて近代を迎えて道路や鉄道が発達すると北前船の航路による交易は 衰退し、交易拠点としての直島の位置づけは消滅した。明治時代に農業と漁業が不振に陥り財政が 破綻しかけた。そのため町は企業誘致を行い製錬事業が始まり現在に至る。1960年代頃、カドミウ ム公害が起きてから田んぼは畑へと変えて野菜・芋・果物を作っている。塩田は埋め立てられ今は ない。漁業では、タイが代表的な魚だったが1960年代以降ヒラメ・アイゴなどと共に少なくなった。
現在はハマチが直島の代表魚で、海苔の養殖と並んで主要産業になっている。
現在の島の主要産業は、製錬事業やリサイクルを行う工業と、アートを中心とした観光産業の2 本柱である。両産業とも外発的発展事業である。製錬所は島の北側の2割の面積を占めていて2017
3 江戸幕府の直轄領であり、幕府財政の基盤であった。
年に100周年を迎えた。1989年には東洋一の金生産能力を持つ貴金属工場が建設され、直島の労働 人口の約7割が製錬所とその関係取引先企業の従業員である。製錬所が誘致されてからは企業城下 町としてサービス産業も発展し、人口増加、豊富な税収により香川県内でも裕福な自治体となった が、一方では銅の精錬から発生する亜硫酸ガスの煙害により島の北側の山の木が枯れ、禿山となる など生態系の破壊もある。1990年代に豊島の産業廃棄物の処理を通じてリサイクル事業を開始し、
環境教育や環境学習のための工場見学をエコツアーとして提供している。
1985年に株式会社ベネッセホールディングスによるアート観光が始まり、観光者を対象とするサ ービス産業従事者が増加している。
直島の観光
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アートを中心とした観光産業は、株式会 社ベネッセホールディングスを中心とする 事業である。ベネッセアートサイト直島は、
1985年に福武書店(当時)の創業社長福武 哲彦と、直島に教育的な文化エリアを開発 したいとの夢を描いていた当時の直島町長 三宅親連の思いが重なったことから始まっ た。開発当時、瀬戸内海の島々では直島製 錬所から排出される亜硫酸ガスによる煙害 が起きていたり、豊島では、産業廃棄物の 不法投棄事件が続いたりなどの公害問題があった。メッセージ性の強い現代美術を置くことによっ て新しい価値観が生まれるのではないかという着想から観光開発が進められた。子供たちのための 国際キャンプ場をつくり、ベネッセハウスのオープン以降はアートに重心を置くようになった(福 武・北川2016:16‑20)。
図2は直島町を訪れる観光客の推移で、人口減少にもかかわらず、2000年代に入って増加してい る。3年に1度開催される瀬戸内国際芸術祭の年は数値が突出し、2010年は約63万人、2013年と 2016年は70万人を超えた。直島のアート関連の仕事の従事者は県外から通ってくる人が大半で、地 元のボランティアガイドはアートの説明をするのみで、島の案内はしない。
フィールドワークで案内をしてもらった元観光ガイドは、現役時代には直島を案内する時にアー トについても説明ができるように準備していたという。現在は直島についての案内をする観光ガイ ドの継承者はいない。直島の寺社仏閣や民族風習、伝統文化について語れる語り部も高齢化して減 少している。トリップアドバイザー4に書き込まれた口コミによると、直島を訪れる観光客の多くは、
アートや建築、静かな時間を過ごす、景観などを目的として訪れる客が多い。中国、イギリス、フ
4 旅行に関する口コミや価格比較などの情報を掲載しているウェブサイトの事。世界49の国と地域、28言語でサービ スを展開している。
ランス、カナダ、イスラエルなど世界中の人が直島を評価していたが、直島女文楽5や霊場など、
直島の伝統文化についての口コミはなかった。
以上をまとめると、香川県直島町は江戸時代からの産業を一変しなければならなくなり、企業誘 致による地域経済を発達するにあたって、現在、島民は約7割が製錬所関連の仕事に従事している。
人口は年々減少しているが観光による交流人口が爆発的に増加していて、瀬戸内国際芸術祭の年に は実に人口の230倍以上の観光客がやってくる。直島は外発的発展に頼る企業依存の状態である。
町長から政策を聞く機会を頂いたが、子供たちの教育支援、積極的な留学支援、国際交流など、未 来志向の人材育成に取り組んでいる。また「直島人としての人情や近所づきあいを残したい」とい う言葉からコミュニティの持続を大切に考えていることわかった。企業に依存しすぎない地域づく り、直島人らしいくらしぶりの持続を形の一つとして、地域資源の観光活用と事業化活動はコミュ ニティの強化も期待ができるものである。直島の写し霊場は活用されていない地域資源だとも言え る。
4.四国遍路と写し霊場 四国遍路
四国遍路6とは、弘法大師空海のゆかりの神社仏閣を巡る真言宗による巡礼である。四国4県の全 長約1400キロメートルの巡礼路、八十八箇所の札所を、徳島県の1番札所から時計回りに巡る。四 国遍路は江戸時代中期頃から後期頃にかけてつくられ、徒歩で巡る人が多かった。近代化により移 動手段が発達すると、全国はもちろん、海外からも「お遍路」をしに巡礼者がやってきた。四国遍 路は2015年に「回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」として日本遺産に登録され、現在は世界遺産の登 録を目指している。
空海は774年に現在の香川県で生まれ、中国へ渡って日本に密教を持ち帰り、真言宗を開いた。
四国遍路は真言宗の信者に限定されず、巡礼者は誰でも「お遍路さん」と四国では呼ばれている。
階級社会においても、女性や不治の病を抱えているような差別の対象となる社会的弱者であっても お遍路を行っている間はヘネップのいう「過渡期」に属しており、日常の所属から分離し、何者で もない境界人である。誰もがただの「お遍路さん」としての扱いを受けていた。こんにちでも、四 国の人々はお遍路さんを弘法大師空海(お大師さま)が人の姿をして表れたとみなして大切にする。
お遍路は修行である。遍路修行をしている最中は、「同業二人」といってお大師さまと一緒に歩い ていると考えられている。お遍路さんは白装束に遍路笠、金剛杖や数珠など巡礼用のそろいの衣装 を着ていることが多いので、一目でそれと分かる。
お遍路さんに「お接待」することは、弘法大師にお接待することと同じであり、功徳を積む行為 とされている。お接待は江戸時代から続けられている文化の一つで、お菓子や飲み物をあげたり、
5 江戸時代から明治初期まで直島で公演されていた人形芝居のこと。一度は途絶えたが、第二次世界大戦後島の女性 たちによって復活した。
6 四国遍路以外にも四国巡礼、本四国、お四国さんなど様々な呼称がある。
休憩場所を提供したりしてきた。お遍路さんは一般人が利用するような宿で宿泊するのではなく、
宿坊や巡礼者専用で格安で泊まれる宿を利用することもあるが、宿がない場所では野宿をするお遍 路さんもいる。
写し霊場
江戸時代には全国から四国を訪れるこ とはたいへんな困難であった。そのため、
四国まで行かずに四国遍路を巡ったこと と同じ功徳を得られるよう、簡易版とで もいうような巡礼地を日本各地に作っ た。これが写し霊場である。直島には四 国遍路と西国三十三所巡礼7の2つの写し 霊場が巡礼路としてある。
瀬戸内海歴史民俗資料館の館長は四国 遍路の専門家で、写し霊場や直島に関す る専門的知識を提供して頂いた。館長に よると、直島八十八ヶ所以外に瀬戸内海の島々には四国遍路の写し霊場がたくさんあるという。ま た西国三十三所巡礼の写し霊場もある。瀬戸内海歴史民俗資料館紀要に香川県の島の写し霊場がま とめられていたのが表1である(田井2007:19‑43)。瀬戸内海には島ごとに写し霊場があり、四国 遍路の写し霊場と西国三十三所巡礼の写し霊場、いずれかまたは両方がある島もある。資料では西 国三十三所の写し霊場について触れられていなかったが、フィールドワークで札所をよく見ていく と直島にも西国三十三所巡礼の石仏を見つけることができたため、直島は豊島や本島同様に四国遍 路と西国三十三所の巡拝が習合したものになっていたことが分かった。
5.直島八十八ヶ所遍路 直島八十八ヶ所遍路の概要
直島八十八ヶ所の石仏は、本村にある極楽寺横にある薬師堂を1番札所として配置され、本村地 区から始まり、図3で赤字に示したルートで積浦地区、南側の琴弾地地区、西側の宮ノ浦地区、直 島製錬所がある北側というように直島全体を巡るように配置されている。87・88番札所は、有人島 の一つである向島に配置されている。
フィールドワーク中、石仏の写真を撮っている観光客を見かけることがあった。観光客は札所と 知っていて写真を撮っているのか、知らなかったのかは定かではないが、観光の対象であることは 分かった。
7 西国三十三所巡礼は、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と2府5県に渡って三十三カ所の霊場を巡る 巡礼路で総距離は約1000㎞。
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直 島 町 地 域 お こ し 協 力 隊 が2019年 に 直 島 八十八カ所の調査を行っており、観光案内所に は定期的に資料の問い合わせがあることは分か った。聞き取り調査からわかったのは、札所は 1989年に石仏本体、屋根、札所の番号を記す石 が一部復元されたことである。このときに、札 所の場所が分かるように写真1のように立札が 建てられている。新しい石仏には、「奉納 直 島町 ○○○○ 平成元年𠮷日」のように、寄 付者の名前が記されている。
札所のおそなえは、スナック菓子、果物、線香、
ろうそく立て、仏具のリン、弘法大師の掛札、
ミネラルウォーターやペットボトルの飲み物、
ミニカップのお酒などである。札所は、住宅地 に隣接していたり、山の中などの人がめったに通らない場所にもあったりした。
地元飲食店の経営者が、写し霊場の保存を商工会と町役場に働きかけたことがあると教えてくれ た。商工会に問い合わせたが直島八十八ヶ所に関する資料は残されて
いなかった。町役場のまちづくり観光課と教育委員会には資料が残さ れていた。写し霊場の調査は、現在、直島町地域おこし協力隊が行っ ていて、直島八十八ヶ所復元発起人会により復元された八十八ヶ所の 当時の資料が保管されていた。「寄付者名簿」に、直島八十八ヶ所は約 300年前の江戸時代につくられたこと、1984年に教育委員会で一度話題 になり、翌年商工会が復元しよう としたが具体化には至らなかっ た、などの経緯が書かれてあった。
復元した1989年ごろは多くの人が直島を訪れ、直島を巡っ ていたことが読み取れる(直島八十八ヶ所復元発起人会 1989)。直島八十八ヶ所は信仰の場であるだけでなく、一日の 行楽、いのちの洗たく、体力づくり、島内外の多くの人に喜 ばれることを期待する、と書かれてあったことから、レクリ エーションの場としても巡礼路を理解していたことが分かる。
写真2は、代々島に住む一族である宿泊施設の女将の叔母 が終戦直後に友人たちと行った直島遍路の様子で、フォトグ ラファーだった女将の兄が撮影し、1946年頃のものだと説明 を受けた。直島八十八ヶ所を地元住民が歩いていた証明であ
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ฟ㸸୰ᮧ㸦㸧 写真2 終戦直後の直島遍路の様子
る。女将によると、1年に1度お大師さんの命日(3月21日)に行い、おそろいでお遍路の服装を して、ピクニックのように楽しみにしていたこと、また女性だけがお遍路を行っていたという。直 島では現在も観音講8が行われており、「御詠歌(ごえいか)の会」と呼ばれている。女将は2005〜
2010年ごろには、御詠歌の会のメンバー数人が直島八十八ヶ所を回っていたという話を聞いたこと があると話した。
島民によるお遍路は、おそろいの服装で歩き、健康のため、行楽のためと、楽しみの年中行事だ ったようだ。この意味において、日常から離れてお遍路の「過渡」の状態を経験して、再び日常へ と統合するヘネップの時間の構造にのっとっており、人生時間を区切るという効用があったといえ る。
写し霊場は四国巡礼と同じく1番の札所から始まるが、製錬所の敷地内にあった札所を1989年の 復元の際に敷地外に移動させたため、現在は一筆書きのようなルートの配置ではなくなっている。
筆者らはフィールドワークを通じて札所を探し、地図に記録を残した。現在、直島八十八ヶ所の公 式地図はない。聞き取り調査から、1989年の復元時には地図看板が宮浦港の正面にあったが撤去さ れたことが分かった。
図4 なおしま88カ所(復元)巡拝地図(1989年復元版) 図4は1989年に復元した地図であ る。同じ地図の看板が宮浦港の正 面に建ててあったときは、観光客 は必ずその前を通ったことだろう。
フィールドワークでは、島の北 東 の66・69・70番 な ど の よ う に、
移動して順番が違う札所もあった。
ベネッセが2006年ごろにスラグブ ッダ889をつくる際に札所の調査を 行ったらしく、そのときの写真は すべて残されている。2019年に地 域おこし協力隊が調査した際に27 番の札所だけが見つけられなかったという。筆者らも27番の調査は行ったが草木に阻まれて札は見 えるが先に進めず、石仏は見つけることができなかった。
図5の地図は直島フィールドワークの記録である。88の札所を探すために、自動車、レンタサイ クル、徒歩などで島を何度も巡った。ときには地域住民の案内してもらったり、敷地に入る許可を 取って裏山に入ったりもした。
8 観世音菩薩を信仰し、参詣するための団体。
9 スラグブッダ88…2006年〜2007年に「芸術の日常化」をテーマとした島全体を会場として開催された「直島スタン ダード2」にて小沢剛氏によって作成された88体の仏。
図5 直直島八十八カ所の四国遍路の写し霊場調査結果(2020年12月) 1番札所は本村の極楽 寺横の薬師堂に置かれて いる。近くには安藤忠雄 ミュージアム10があり多 くの観光客が訪れている が、薬師堂を訪れる観光 客はいなかった。筆者ら も案内なしには見つける ことができなかった。
2番札所は極楽寺に置 かれていて、極楽寺自体 が札所となっている。
3・4番札所は住宅地 に隣接していたが、手入 れがされている様子が全 くなかった。5〜10番札 所は未発見である。
11番札所は直島ダムに 隣接していてミネラルウ ォ ー タ ー が 置 か れ て い た。
12〜14番札所は階段が 崩れて木々が覆い茂り、進めなくなっていた。15・16番札所は崇徳天皇神社と直島伝説の1つ「そ うめん川」のそばに置かれている。
17〜21番札所は未発見である。
22番札所の石仏は見つかったが草木に覆われて手入れはされていない様子だった。
23番札所は積浦の薬師堂に番号が振られていた。復元時は積浦の子供墓の横に置かれていたが、
子供墓を別の場所にある大人墓と1つにまとめるために、2003年に大人墓のあった現在の場所に移 された。23番はお堂自体に番号が振られているため、石仏は置かれていない。積浦の人は、薬師堂 のことを「おやくしさん」と呼んでいるという。
24番札所は未発見である。
25番札所は本村から積浦へ行く道に置かれてあり、真新しい造花が飾られていた。
26番札所は週末のみ営業するつり公園の中に置かれている。営業していない平日は入口の門に鍵
10 安藤忠雄ミュージアム…安藤忠雄は日本の建築家である。直島には安藤建築の施設が8つあり、安藤忠雄ミュー ジアムはその一つである。
筆者作成
がかかっているため公園内に入ることができない。「今年は草を刈っていないから見つけることが 難しいかもしれない」と地域住民に教えてもらったが、見つけることができた。
27番札所は未発見である。地域おこし協力隊の2019年に行った調査でも発見できなかった。
28番札所はつり公園へ続く道に置かれており、ペットボトルに入った水が供えられていた。
29〜40番札所、59〜63番札所は積浦から宮浦まで直島の南側の路肩に置かれていた。順番がずれ て置かれている場所もあった。
41〜43番札所は未発見である。
41番とみられる札所は見つかったのだが、塗装が剥げていて番号が確認できなくなっていた。ま たその先に続く道は立ち入り禁止になっていたので探すことができなかった。
43番札所は復元時の地図を頼りに捜索したが、民家に道が続いていたので探すことができなかっ た。
44番札所は住宅地に隣接していて復元前の石仏だと思われる。フェンスで囲まれてあり、石仏の 前には小銭が置かれていた。
45番札所は未発見である。
54・65番札所は住宅地に隣接しているが、木々に覆われ、蜘蛛の巣が張っていて、手入れされて いる様子ではなかった。
46・56番札所は宮浦から本村への道に隣接していた。水の入ったペットボトル、真新しい造花が 置かれていた。
47番札所は住宅地や畑に隣接して置かれてあり、誰かによって手入れがされている様子であった。
48〜50番札所は鷲ノ松から宮浦までの道沿いに置かれてあり、造花や水の入ったペットボトルが 置かれていた。
51番札所は未発見である。
52・53・55・57番札所は住宅地や墓地に隣接した場所に置かれてある。54・65番札所は住宅地に 隣接していたが、草木に覆われクモの巣が張られていた。
58番札所は社宅の駐車場に隣接しており、手入れがされていた。
64番札所は宮浦の郵便局のすぐそばに置かれている。住宅地に隣接していて、果物や折り鶴、水 の入ったペットボトル、仏具などが置かれてあった。
66・69・70番札所は同じ場所に置かれてありバス停のすぐそばだった。道路を作った際に場所を 移されていることが資料から分かった。
67・68・80・81・86番札所は直島ダムを囲うように置かれていた。
71・72・76・78番札所は未発見である。
73番は直島町立直島小学校と直島町立直島中学校の道を挟んだ向かいに置かれてある。水の入っ たペットボトルやマグカップ、造花が置かれてあった。
74番札所は住宅のすぐ横に置かれていた。飲料水やミニカップのお酒と小銭が置かれていて、手 入れがされていた。
75番札所は住宅地に隣接していて、果物や飲料水、スナック菓子などのお供えが置かれていた。
他の札所とは違っていた点として、コンクリートで屋根が作られ石仏が濡れないよう守られていた。
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77番札所は道沿いの階段を上がった先にあるが、階段には 蜘蛛の巣が張られ、石仏の前にはネットが張られ、人が近づ けないようになっていた。
79番札所は草が伸びて見つけにくくはなっていたが、造花、
飲料水が置かれていた。
82番札所は未発見である。
83番札所は直島町立小学校の裏山に置かれていた。木々が 覆い茂っていて進みづらくなっており、手入れされている様 子ではなかった。かつての通り道の跡は残されていたが、それさえ整備された様子はなかった。
84・85番札所は未発見である。
87・88番札所は向島に置かれているが未発見である。
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フィールドワークを通じて地域住民と話をすると、「あそこは木が生えていてもうあがれない」
「去年は草を刈ったけど今年は刈ってないから見えんかもしれん」という話が多いことから、札所 の場所を知っている人は多くても誰も手入れをしていなかったり、手入れが行き届いていなかった りする場所も多いことがわかった。同時に、住宅地や墓地に隣接している札所では、代々直島に住 んでいる人や、信仰深い人はお参りやお供えを行っていた。積浦では、お墓に行く際に、一度、札 所にお参りやお供えを行った後にお墓参りに行っていることが聞き取り調査で分かった。
直島には四国遍路の写し霊場だけでなく、西国三十三所巡礼の写し霊場も存在するが、21番、22 番、23番の3カ所だけである。宮浦港のフェリー乗り場を下りてすぐの道を挟んだ東にある小さな 山の上の接待所の横に置かれている。接待所では、弘法大師空海の命日である旧暦の3月21日にお 接待を行っていた。米やお金を寄付することで、島の女性達が炊き込みご飯やおむすびを作り、寄 付者の家に2個ずつ配っていたという。しかし、2015年ごろからお接待の文化も途絶えていたこと が聞き取り調査から分かった。
2020年12月現在、フィールドワークを通じて直島八十八カ所の四国遍路の写し霊場は、
発見した石仏 58箇所 立て札のみ発見 18箇所
どちらも発見できなかった 12箇所
という結果であった。西国三十三所巡礼の札所は石仏3箇所を発見した。以上のことを図5と図6 に記す。
6.おわりに
フィールドワークを通じて札所と石仏を79箇所発見した結果、わかったことは、手入れがされて いる場所と手入れがされていない場所には状態に大きな差があることである。
手入れがされていない札所や石仏は、草木やクモの巣に覆われて近づけなくなっていた。それら は住宅地や主要道路から離れていた。お菓子や果物、飲料水などが供えられているのは、住宅地に 隣接する場所が多かった。
同時に、住宅地に隣接しているのに手入れがされずに荒れ放題の札所も複数あった。推測できる ことは、かつて管理者だった札所の世話人の役割が次の人に引き継ぎがされていないことだ。理由 はいくつか考えられる。たとえば、継承者になるはずだった子供が島外で進学や就職をして世話人 が高齢になった。あるいは継承者に引き継ぎをしないまま管理者が島を出て行ったか、ないしいな くなった。または島外から引っ越してきた人が札所のことを知らされないまま管理についての引き 継ぎがされなかった、などだろう。
かつてのように3世代家族が代々続く家族ばかりのコミュニティであれば、文化の継承は生活の 中にあった。しかし直島も少子化や2世帯家族が増えていて、家族内においても地域のしきたりや 伝統文化について語りあう時間が少なくなっているのではないだろうか。たとえば直島伝説につい ては小中学校の地域学習の時間が作られた。札所の管理についても実務的な話し合いの機会を作り、
役割分担する制度や組織を整えるべきときに来たのではないか。
札所や石仏が放置されたまま木々や土砂に埋もれて荒れているのは地域文化のつながりが切れて いる現れであり、それはコミュニティの弱体化を表すように思われてならない。1989年に直島 八十八カ所の地図を作ってから30数年が経つが、札所や石仏の管理を突然やらなくなったわけでは ない。徐々に人の手が入らないところが出てきたのだ。江戸時代から続く直島八十八ヶ所を1989年 には復元させて観光振興に活用したり、弘法大師の命日に住民でお接待を行っていたり、今も手入
れがされている札所がたくさんあることから考えても、島民はお遍路を大切にしていることは調査 を通じても明らかである。管理が行き届かなくなってきたことは、高齢の地域住民にとって、一方 では仕方のないことだ。過去にはコミュニティの中で自然と後継者に引き継がれていったはずの循 環が切れてしまったのである。
一方、エコツーリズムの観点からは直島八十八ヶ所は貴重な地域資源であり、旅の商品化が可能 である。地域資源を観光活用していくためには、住民が価値の本質を理解していなければ商品とし て磨きあげられない。現役の観光ガイドはいないが、今なら語り部は大勢見つけられるので、プロ ジェクト的に進めれば後継者の養成は期待が出来る。また瀬戸内海の島々の写し霊場の存在はある 程度は知られているため、観光者としての巡礼者を迎え入れることは難しくないと思われる。
本研究は、持続可能な地域づくりのための観光と地域資源の活用について、直島の写し霊場を事 例に、エコツーリズムによる旅の商品化を検討してきた。エコツーリズムの目的は観光ではなく、
地域のくらしぶりを持続させることである。
現在の直島の観光はアートが中心で企業依存だが、直島の写し遍路はそれと共存する「もう一つ の観光」の提案である。すでに多くの観光者が島を訪れていることから、情報提供は難しくないが、
それについて語ることができる人材養成が急務である。観光者から見られるようになれば地域住民 はそれに答えるように札所の手入れをするようになる。その循環が切れてしまっている修復が今す べきことだろう。それには行政や観光協会、商工会、NPO、学校などの公的かつ組織的な後押しは 必要だ。家庭内やコミュニティだけが地域文化の継承装置とはもはや考えず、移住者、信者、観光 者、企業、SNSなどの外部要素も活用した情報ネットワーク装置の構築によって、写し遍路という 地域資源を活用したエコツーリズムの推進に期待したい。
謝辞
本研究にご支援くださったすべてのみなさんに心から感謝を申し上げます。きっかけをくださっ た就実大学経営学部三枝省三教授には、子供の頃に過ごした直島の暮らしや遊びのことを聞かせて 頂いただき、フィールド調査に入るときには人つなぎをしていただきました。NPO法人直島町観光 協会の藤井重典さまには、長い時間を割いて島のくらしのことを教えて頂きました。元観光ガイド の田中春樹さまには、写し遍路のことを教えて頂きました。ガイド時代のように現地を案内して、
木々で覆われて隠れて見えない札所の位置や伝説が伝わっている場所にも連れて行ってくださいま した。直島町長小林眞一さまには、政策的な観点から直島の将来ビジョンについて教えて頂いただ けでなく、「直島人」という大事なキーワードを頂きました。旅館志おやの村尾由紀子さまには、
フィールドワークの合間においしい地元料理をごちそうになりました。伝説やお遍路の話を何度も 話してくださり、人つなぎもしてくださいました。古い貴重な写真や資料もみせていただきました。
直島町役場教育委員会事務局の職員の皆様、直島町地域おこし協力隊の本橋英里さまには、直島 八十八カ所の昔の調査当時のことを詳しく教えて頂きました。瀬戸内海歴史民俗資料館の田井静明 館長、芳澤直起主任には、四国遍路の専門家の立場から、香川の巡礼やお接待文化のこと、その読
み解き方、直島調査の切り口をご指導賜り、参考資料もたくさんのアドバイスをも頂きました。本 当にありがとうございました。
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