The cotton crop and irrigation in the Yan-zijiang delta in the 16th and 17th century

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

The cotton crop and irrigation in the Yan- zijiang delta in the 16th and 17th century

川勝, 守

九州大学文学部

https://doi.org/10.15017/24533

出版情報:九州大学東洋史論集. 8, pp.98-106, 1980-03-03. The Association of Oriental History, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

明末清初︑長江デルタにおける直作と水利︵二︶

目 次一 はじめに

二 明末における棉作の展開

 ① 棉作と地温佃戸関係

 ⑪黒作と専制国家権力︵以上︑本誌6号︶

三 堅作の展開と水利共同体の変質

四 結び︵以上︑本号︶

 三︑棉作の展開と水利共同体の変質

 棉作は馬土地が高仰で水利の便の悪い所に多く行われた︒

崇禎﹃太倉州志﹄︑︵巻繊︶風俗志︑物産︑出藍稲には︑

  連曲︑蔭地高三内又水利不修︒若覧自立言種︑歳雨承佃

  人︑治岡身地︒二百穫半石︑温感棉花 適

とあり︑また︑同書︑ ︵巻町︶賦役志︑秋糧の知南砂立楽が

漕糧を論じた個所にも︑

  官地高言︑水利不究︒佃人挾便富岡公上︑喜樹木曾ゆ・

とあって︑いずれも︑明末の蘇州太海州では土地が高仰で︑

水利が荒廃しているため︑耕作者︵愚人︶は愚作を行うこと を喜ぶという︒したがって︑ここでは︑棉作の展開は水利荒廃の結果と考えられるが︑半面では︑いずれの指摘も︑当地が土地高仰地︵微高地︶であると断っているところをみると︑彼の西嶋定生氏が指摘した松江府神作の展開の要因と同じく︑灌概労働のにおける過重性もまた十分に考慮すべきである︒すなわち︑土地高仰であることは︑クリーク水面と好岸上面田面との高低差が大きいことを意味しており︑そこに竜骨車等を使って灌灘を行えば︑その労働は過重なものとならざるをえない︒いったい︑南京台地より上海附近まで︑揚子江下流デルタは長江沿いに丘陵地一1微高地が連っている︒そのため︑太湖に集申した雨水の排除は極めて悪い︒蘇州東北部の東山・常熟・太倉・嘉定の諸州県から︑松江府東郷では︑一面では︑排水路の確保が必要であり︑呉調書︑劉家江等を湊喋するのであるが︑そのため︑他の一面では︑当地域の水田稲作のために用水を確保する必要もあった︒しかし︑排水に重点を置けば︑川底を下げる必要があり︑そうなると水稲作の用水11灌概労働は益々困難なものとなる︒以上︑太虚地域

等の地理的諸条件を考えてみると︑土地が高言であるという

一 98 一

明末清初︑

長 江 デ

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タ に

b

け る 棉 作 と 水 利

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目 次

はじめに

二 明 末 に お け る 棉 作 の 展 開

①棉作と地王佃一月関係

⑪棉作と専制国家権力(以上︑本誌6号) 三棉作の展開と水利共同体の変質

結び(以上︑本号)

一 、

棉 作 の 展 開 と 水 利 共 同 体 の 変 質

掃作は︑土地が高仰で水利の便の悪い所に多く行われた︒

崇禎﹃太倉州志﹂(巻五)風俗士山︑物産︑附皐稲には︑

采按︑州地高仰︑又水利不修︒若寛得皐稲種︑歳給承佃

人︑治岡身地︒苛畝穫半石︑己倍棉花失‑

とあり︑また︑同書︑(巻八)賦役志︑秋糧の知州銭粛楽が

漕糧を論じた個所にも︑

州地高阜︑水利不究︒佃人挟便而間公上︑喜樹木棉︒

とあって︑いずれも︑明末の蘇州太倉州では土地が高仰で︑

水利が荒廃しているため︑耕作者(佃人)は棉作を行うζと

r‑¥ 

¥』ノ

を喜ぶという︒したがって︑乙乙では︑棉作の展開は水利荒

廃の結果と考えられるが︑半面では︑いずれの指摘も︑当地

が土地高仰地(微高地)であると断っているとζろをみると︑

彼の西嶋定生氏が指摘した松江府棉作の展開の要因と同じく︑

港紙労働のにおける過重性もまた十分に考慮すべきである︒

すなわち︑土地高仰であることは︑クリーク水面と好岸上面

田面との高低差が大きい乙とを意味しており︑そこに竜骨車

等を使って濯概を行えば︑その労働は過重なものとならざる

をえない︒いったい︑南京台地より上海附近まで︑揚子江下

流デルタは長江沿いに丘陵地日微高地が連っている︒そのた

め︑太湖に集中した諸水の排除は極めて悪い︒蘇州東北部の

昆山・常熟・太倉・嘉定の諸州県から︑松江府東郷では︑一

面では︑排水路の確保が必要であり︑呉権江︑劉家江等を竣

深するのであるが︑そのため︑他の一面では︑当地域の水田

稲作のために用水を確保する必要もあった︒しかし︑排水に

重点を置けば︑川底を下げる必要があり︑そうなると水稲作

の用水リ濯淑労働は益々困難なものとなる︒以上︑太倉地域

等の地理的諸条件を考えてみると︑土地が高仰であるという ︒on y 

(3)

指摘に関わって︑水利の荒廃と棉作の展開とが極めて密接な

有機的関連にあったことは︑まず確認できると思う︒

 以上について︑もう少し史料文言に確認を求めてみよう︒

太倉州の東隣︑嘉定県では︑万暦﹃嘉定県志﹄ ︵巻七︶田賦:

考下漕折始末の項導引︑︽万暦十一年本県糧塘里老等直通状︾

には︑  惟嘉定一鎖︑三面瀕海︑高阜悪癖︑下歯流砂︑貯水王難︑

  車扉尤梗︒版籍錐存田額︑其実四種木棉︒

とあり︑嘉定県も土地が高く甚だ癖せており︑また︑河道に

は流砂がつまり︑貯水は難しく︑灌排水の車水も阻害されて

いる︒土地台帳上では︑水田が存することになっているが︑

その実は専ら木棉を種えているという︒さらに事例を検討し

よう︒同じく﹃嘉定薄志﹄の同項罫引︑︽万暦二十一伍本県

民本︾には︑

  国初︑承宋元之後︑考之旧志︒境内塘浦浬港︑大小三千

  単身︑水道通流︑撃墜車扉︒民間種稲者︑十分而九︒以

  故与他県︑照常均派本色︑運尚能支持︑幾二百年也︒其

  後︑江湖塞塞︑清水不下︑濁潮逆上︑沙土日積︑堺田旋

  開︑漸浅負担︒既不宜於禾稲︑姑取弁白木棉︒

 国初︑嘉定県の塘浦等三千余条は︑いずれも水道通流し︑

車水も可能であったので︑水稲作を行うものは︑十に九もい

た︒したがって︑本県では米での本色徴収は確保された︒と

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口 ころが︑二百年後︑江湖は塞溢し︑水流は止って︑明倫が逆行し︑煙嵐が積って︑河道は序開常ならず︑漸くにして浅狭となってしまった︒水利は大いに阻害されたので︑すでに︑水稲には宜しくなく︑姑らく木画を取弁ずるのみである︒嘉定県の事例は︑水利荒廃の結果︑木棉が行われたという関係を極めて具体的に叙述している︒ ところで︑ここで注意をしておくべきは︑以上の太倉州や嘉定県の史料文言は︑いずれも︑水利の何らかの荒廃の結果︑棉作が行われるようになったという因果関係を叙述したものばかりであるが︑その逆︑つまり︑勝率の展開が江南水利の荒廃の要因の一つにもなったという関係の検討を試みなければならない︒ ただし︑さし当って確認を必要とする三点がある︒第一点は︑木棉栽培にあっては︑三三水利はどれほど必要なのか︑あるいは全く必要がないのであろうか︒また︑そのため︑棉作地帯では水利︵工事︶に対する配慮がどれほどなされるか       サイクル等についてである︒第二点は︑木棉栽培がその栽培過程中に農楽水利に何らかの障害を与えることがあるか否か︒第三点は︑木棉栽培が一紆なら一握という規模において︑村落の耕作秩序︵強制︶や共同体的関係に混乱を引き起こすことがあり︑その結果︑従来︑村落の共同体的関係にあって維持されてきた水利が荒廃するということが起ったと考えられるか︒

一 99 一

指摘に関わって︑水利の荒廃と棉作の展開とが極めて密接な

有機的関連にあったことは︑まず確認できると思う︒

以上について︑もう少し史料文言に確認を求めてみよう︒

太倉州の東隣︑嘉定県では︑万暦﹁嘉定県志﹄(巻七)田賦

考下漕折始末の項所引︑︽万暦十一年本県糧塘里老等役通状︾

7﹄キ晶︑

惟嘉定一県︑三面瀕海︑高車冗磨︑下注流砂︑貯水既難︑

車一周尤梗︒版籍雄存田額︑其実専種木棉︒

とあり︑嘉定県も土地が高く甚だ婿せており︑また︑河道に

は流砂がつまり︑貯水は難しく︑濃排水の車水も阻害されて

いる︒土地台帳上では︑水田が存するととになっているが︑

その実は専ら木棉を種えているという︒さらに事例を検討し

よう︒同じく﹁嘉定県志﹂の問項所引︑︽万暦二十一年本県

民本︾には︑

国初︑承宋元之後︑考之旧志︒境内塘浦淫港︑大小三千

余条︑水道通流︑猶可車一昇︒民間種稲者︑十分而九︒以

故与他県︑照常均派本色︑運尚能支持︑幾二百年也︒其

後︑江湖塞塞︑清水不下︑濁潮逆上︑沙土日積︑旋塞旋

閥︑漸浅漸狭︒既不宜於禾稲︑姑取弁於木棉︒

国初︑嘉定県の塘浦等三千余条は︑いずれも水道通流し︑

車水も可能であったので︑水稲作を行うものは︑十に九もい

た︒したがって︑本県では米での本色徴収は確保された︒と

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口 ころが︑二百年後︑江湖は塞塞し︑水流は止って︑濁潮が逆行し︑沙土が積って︑河道は塞開常ならず︑漸くにして浅狭となってしまった︒水利は大いに阻害されたので︑すでに︑水稲には宜しくなく︑姑らく木棉を取弁するのみである︒嘉定県の事例は︑水利荒廃の結果︑木棉が行われたという関係を極めて具体的に叙述している︒

ところで︑乙乙で注意をしておくべきは︑以上の太倉州や

嘉定県の史料文言は︑いずれも︑水利の何らかの荒廃の結果︑

棉作が行われるようになったという因果関係を叙述したもの

ばかりであるが︑その逆︑つまり︑棉作の展開が江南水利の

荒廃の要因の一つにもなったという関係の検討を試みなけれ

ばならない︒

ただし︑さし当って確認を必要とする三点がある︒第一点

は︑木棉栽培にあっては︑濯瓶水利はどれほど必要なのか︑

あるいは全く必要がないのであろうか︒また︑そのため︑棉

作地帯では水利(工事)に対する配慮がどれほどな苫れるか等についてである︒第二点は︑木棉栽培がその栽培過副刊に

農田水利に何らかの障害を与えることがあるか否か︒第三点

は︑木棉栽培が一行なら一好という規模において︑村落の耕

作秩序(強制)や共同体的関係に混乱を引き起こすことがあ

り︑その結果︑従来︑村落の共同体的関係にあって維持され

てきた水利が荒廃するということが起ったと考えられるか︒

‑ 99  ‑

(4)

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

等である︒

 第一点の諸点については︑木棉栽培には水の必要度が低い

ことは諸書に記すところである︒しかし︑それでも︑崇禎﹃

太言条志﹄︵巻+五︶環各面︑災祥に︑

  采按︑大水旱他邑同︒若風潮惟綿花敗︒芸州地宜読者︑

  亦+之六七︒皆棄三態花︒三時侍水利︒

とあって︑棉花栽培になっても︑三時︵春耕・夏転・秋収︶

要度は水稲作と格段の差があるのであって︑そのことが水利

︵特に水利工事︶に対する配慮の程度の差をなし︑結局は水

利荒廃につながるものとも考えられるが︑この間の因果関係

の説明は後の第三点とも関連させて考える必要があろう︒以

上︑不十分な検討ではあるが︑要は木棉栽培に水利灌概は全

く必要がないという理解はなりたたないという点のみを確認

しておけばよい︒

 次に︑第二の点についてみよう︒木棉栽培が農田水利に何

らかの障害をなすとして︑従来紹介されているのは︑王折

﹃東口ハ水利考﹄ ︵巻七︶附︑開河馬議一通に︑

  堅甲得︑阻擁之由︑早雪江浜大戸︑窺見河底塞高︑檀自

  耕墾ゆ今計七十里内︑種養盧者十之二一二︑種綿花寝押者

  十之七八︒歳収率利笹下万計︑計畝不忌数千余頃︒一樹   開溶之説︑弓造誹語謡言︑簑鼓緒紳︒繕紳亦有得珊江之  利者︑又従胸底和之︒とあるが︑︐浜︑島敦俊氏はこの史料によ︐って︑ ﹁局地的には綿・作の展開が水利の荒廃笙み出し奮例﹂﹁綿作による鋸のために地王が水利事業を妨害していたという﹂       と理解した︒

この浜島氏の理解は大筋では承認できるが︑詳細な点になる

と︑さらに検討を必要とする点がいくつかある︒

 まず︑右の事例では︑水利荒廃の原因がクリーク中に泥砂

が堆積し︑そこに謡言や棉重を栽培して︑耕地化したことに

よるとするのである︒したがって︑ここでの水利荒廃は︑直

接には︑クリーク申を不法に占有し︑墾地としている江浜大

戸の行為によるのであって︑棉作の展開そのものによるので

はない︒棉花は萎藍︑禾︵水稲か︶︑董などの作物栽培物の

一種に過ぎない︒しかし︑綿花禾董を植えるものは十の七八

で内養藍を栽培するものにくらべてはるかに多く︑また︑開

溶の説が起った時︑三三までまき込んで反対運動するという

ことから考えて︑・結果的には︑綿作による利益のために郷紳

地平が水利事業を妨害しているということはいえよう︒なお︑

綿花禾董の栽培とは︑既に述べたごとく︑綿花と豆との混作

が一般的であったことに照応するものであるが︑その申心的

作物は綿花であることはいうまでもない︒以上から︑右の事

例は︑木綿栽培そのものというより︑木綿栽培の流行によっ

100

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

等である︒

第一点の諸点については︑木棉栽培には水の必要度が低い

ことは諸書に記すところであ?る︒しかし︑それでも︑崇禎﹃

太倉州士山﹄(巻十五﹀噴綴志︑災祥に︑

采按︑大水皐他邑問︒若風潮惟綿花敗︒而州地宜稲者︑

亦十之六七︒皆棄稲襲花︒三時侍水利︒

とあって︑棉花栽培になっても︑三時(春耕・夏転・秋収)

水利を侍む乙とになったといい︑木棉栽培トに一も︑ある程度の

濯減水利は必要であったという指摘もある一ただし︑水の必

要度は水稲作と格段の差があるのであって︑そのことが水利

(特に水利工事)に対する配慮の程度の差をなし︑結局は水

利荒廃につながるものとも考えられるが︑乙の聞の因果関係

の説明は後の第三点とも関連させて考える必要があろう︒以

上︑不十分な検討ではあるが︑要は木棉栽培に水利濯概は全

く必要がないという理解はなりたたないという点のみを確認

しておけばよい︒

次に︑第二の点についてみよう︒木棉栽培が農田水利に何

らかの障害をなすとして︑従来紹介されているのは︑王折

﹁東旦ハ水利考﹄(巻七)附︑開河駁議一通に︑

又査得︑阻擦之由︑起於江浜大一向︑窺見河底塞吉岡︑撞自

耕墾︒今計七十里内︑種菱麓者十之二三︑種綿花禾萱者

十之七八︒歳収肥利不下万計︑計畝不下数千余頃︒一間 開溶之説︑轍造誹語謡言︑筈鼓鱈紳︒縞紳亦有得品川江之利者︑文従而附和之︒

とあ

るが

t浜島敦俊氏は乙の史料によって︑﹁局地的に怯綿

作の展開が水利の荒廃を住み出した事例﹂﹁綿作による利益

( 却

のために地王が水利事業を妨害していたという﹂と理解した︒

この浜島氏の理解は大筋では承認できるが︑詳細な点になる

と︑さらに検討を必要とする点がいくつかある︒

まず︑右の事例では︑水利荒廃の原因がクリーク中に泥砂

が堆積し︑そ乙に安産や棉謹を栽培して︑耕地化したことに

よるとするのである︒したがって︑乙乙での水利荒廃は︑直

接には︑クリーク中を不法に占有し︑墾地としている江浜大

一同の行為によるのであって︑棉作の展開そのものによるので

はない︒棉花は萎麓︑禾(水稲か)︑萱などの作物栽培物の

一種に過ぎない︒しかし︑綿花禾萱を植えるものは十の七八

で︑安麓を栽培するものにくらべてはるかに多く︑また︑開

港の説が起った時︑郷紳までまき込んで反対運動するという

ことから考えて︑結果的には︑綿作による利益のために郷紳

地王が水利事業を妨害しているということはいえよう︒なお︑

綿花禾萱の栽培とは︑既に述べたととく︑綿花と豆との混作

が一般的であったζとに照応するものであるが︑その中心的

作物は綿花であることはいうまでもない︒以上から︑右の事

例は︑木綿栽培そのものというより︑木綿栽培の流行によっ

‑ 100

(5)

て︑栽培適地のクリーク申の新生耕地の獲得によって水利の

荒廃がもたらされたものと考えるべきであろう︒

 第三点は︑木棉栽培が水利をめぐっての村落の耕作秩序や

共同体的関係に混乱を起こすという点の検討である︒そのば

あい︑まず︑確認しておくべきは︑先の第二点の﹃東呉水利

考﹄の記事のように︑共同利用の対象たるべきクリーク等が

私的︑不法に占有されているということも村落における共同

体的関係を侵害するものであったということである︒この点

について︑崇禎﹃太挙上志﹂ ︵巻七︶水利志︑治水議の末尾

には︑張采は水道の懸鼻が行われない七弊をあげ︑その第五に︑

  向者︑河道深澗︑難容仁心︒今職鎗好者︑以型科為事︒

  日照毛細︑水道挙全区畝︑則積侵︑五宝︒

とあって︑陞科増税につとめる地方官が︑クリークの不法占

有を認め︑水道も挙げて区畝とし︑田地としての陞科を行っ

た︒このように︑水道への課税が行われれば︑水道の不法占

有は合法化されてしまう︒これは︑公権力そのものが共同体

的関係を破壊していることに他ならない︒かかる状況下で︑

﹃太倉州志﹂の編者︑太倉の郷戸張采は︑水利をめぐる村落

規制について︑次の如き提言を行う︒同線志の同前記事の下

文に︑五禁を厳密すとあるが︑

  一︑ 禁中流張戴曲論︑致泥沙留淀︒

  一︑ 禁両岸灘鋤新土︑致雨濠沖合︒

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口   一︑ 禁漁入勇遡源堰︑致旧道逼狭︒  ︸︑ 禁小心縦養哺鴨︑致鍛壊堤岸︒  一︑ 禁縁翰墨種草棊︑事解漸阜高︒  此感心豊里頒︑可令塘長︑不時稽核︒ これは︑①クリーク申流に蟹を捕るやなを張って泥沙留淀を致させる︑②堤岸修理のため出土をはこび︑出水によってその土を流出させる︑③漁人が漁のために 堰を増築し︑旧来の水路を狭ばめる︑④その日暮しの小早が勝手にあひるなどを飼い︑平岸を殿壊させる︑⑤クリークの縁や労に草菓︵えんどう豆・大豆など︶を植え︑土地を次第に耕地化する︑などの五点を禁じたものである︒この最後の⑤は︑先の﹃東呉水利考﹂の指摘とも関連する︒ただし︑この禁約で注目すべきは︑禁令の違犯取締りが塘長に委ねられている点である︒というのは︑この時期︑塘長制はかなり弛緩していたと考えられるのであり︑改めて︑ここで塾長に禁約の監督をさせようとするのは︑塘長の機能そのものは有効であるとみているからであろう︒ 次に︑例の崇禎﹃太倉州志﹂凡例に︑  如量地未必不皇嗣︒話劇人偏種棉花︒庫米価騰貴︑田王  強弓佃種稲︒又惜工本︑不侶率開河︒小民扉水嵩難︒且  河道尽塞︑無水可颪︒如再婚泄︑数年後︑将不知所底︒とある︒ここで工本を惜しみ︑率先して開河を行おうとしな

101

て︑栽培適地のクリーク中の新生耕地の獲得によって水利の

荒廃がもたらされたものと考えるべきであろう︒

第三点は︑木棉栽培が水利をめぐっての村落の耕作秩序や 共同体的関係に混乱を起こすという点の検討である︒そのば

あい︑まず︑確認しておくべきは︑先の第二点の﹃東呉水利

考﹄の記事のように︑共同利用の対象たるべきクリーク等が

私的︑不法に占有されているというととも村落における共同 体的関係を侵害するものであったということである︒この点

について︑崇禎﹁太倉州志﹄(巻七)水利志︑治水議の末尾

には︑張采は水道の疏溶が行われない七弊をあげ︑その第五に︑

向者︑河道深潤︑難容嵩葺︒今職鎗行者︑以型科為事︒

寸灘畢税︑水道挙為区畝︑則積侵︑五也︒

とあって︑陸科増税につとめる地方官が︑クリークの不法占

有を認め︑水道も挙げて区畝とし︑田地としての陸科を行っ

た︒このように︑水道への課税が行われれば︑水道の不法占 有は合法化されてしまう︒乙れは︑公権力そのものが共同体

的関係を破壊していることに他ならない︒かかる状況下で︑

﹁太倉州志﹂の編者︑太倉の郷紳張采は︑水利をめぐる村落

規制について︑次の如き提言を行う︒同州志の同前記事の下

文に︑五禁を厳立すとあるが︑

一︑禁中流張裁蟹節︑致泥沙留淀︒

一︑禁両岸機鋤新土︑致雨療沖潟︒

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利同

禁漁人芳築腔堰︑致旧道逼狭︒

禁小民縦養晴鴨︑致致壊堤岸︒

一︑禁縁芳栽種草菜︑致日漸車高︒

此則憲撤琵頒︑可令塘長︑不時稽核︒

乙れは︑①クリーク中流に蟹を捕るゃなを張って泥沙留淀 を致させる︑②堤岸修理のため新土をは乙ぴ︑出水によって その土を流出させる︑③漁人が漁のために堰を増築レ︑旧 来の水路を狭ぱめる︑④その日暮しの小民が勝手にあひるな どを飼い︑堤岸を駿壊させる︑③クリークの縁や芳に車菜(

えんどう豆・大豆など)を植え︑土地を次第に耕地化する︑

などの五点を禁じたものである︒この最後の③は︑先の﹁東 呉水利考﹂の指摘とも関連する︒ただし︑乙の禁約で注目す

べきは︑禁令の違犯取締りが塘長に委ねられている点である︒

というのは︑この時期︑塘長制はかなり弛緩していたと考え られるのであり︑改めて︑乙乙で塘長に禁約の監督をさせよ うとするのは︑塘長の機能そのものは有効であるとみている

からであろう︒

次に︑例の崇禎﹃太倉州志﹄凡例に︑

如州地未必不宜稲︒承佃人偏種棉花︒庫米価騰貴︑目玉

強責佃種稲︒又惜工本︑不倍率開河︒小民一尽水実難︒且

河道尽塞︑無水可一問︒如再油油︑数年後︑将不知所底︒

とある︒乙乙で工本を惜しみ︑率先して開河を行おうとしな

‑ 101

(6)

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

いのは︑承佃野に種稲を強要する田主であるとする︒このよ

うな地主の責任回避︑及びその半面︑収量のみを事とすると

いった寄生的存在が︑水利の荒廃をもたらし︑小農民の再生

産を脅かしていたという文言については︑筆者はこれまでに

も幾度か紹介してきた︒ここで︑若干の追加をしておきたい︒

まず︑崇禎﹃太倉国里﹂ ︵巻斗︶営建志︑市鎮附には︑

  年来水利不講︒幹河積濃︑致坐困︒廼士大夫迄庶民猶泄

  泄︒責之履畝開溶︑則百方阻︑或雪田免︒再数年而後︑

  終如此者三三何所底︒

とあるが︑ここでは士大夫ほ郷紳以下︑庶民に至るまで︑およ

そすべての面戸の責任として︑所有田土面積に応じて開溶が命

じられたところ︑百方反対が起り︑あるいは自分だけ免れよ

うとしている︒かかる業戸の責任とは︑﹃州志﹄ ︵画聖︶水

利志︑開渠にも︑張采は︑

  采按︑⁝⁝昔周文嚢公開呉瀬江︒合江以南車楽︑敏夫︑

  梢専責之芋棒業戸︑宣有丈理︒

というように︑宜徳年間︵一四三〇年代︶︑南直厚層周枕が

呉湘江を開溶した時に用いた方式であるところの︑費用を労

江の封戸にかけるという方式に属するものであった︒ただし︑

業戸のみの負担というのは幹回などの費用の多いものに限り︑

枝河︑小河については︑﹃州志﹂ ︵巻軸︶水利志︑治水議︑

末尾に方志の編者の言として︑   又各区支署︑主流中田︑如不施竣︑則幹河錐通︑流如何  入︒乃野里責之河労佃戸︒とあり︑枝河の負担は耕作者たる佃戸の負担とされていたのである︒ただし︑以上のように︑地王と佃戸それぞれの負担内容が︑星河一枝河というように明確に分離されたものであ

ったか否か︑いま一つ確認すべきであろうが︑今のところ果

していない︒それでも︑明末段階では︑地王︵業戸︶1佃戸

の水利の責任負担の関係は崩壊していたことは確実であるの

﹃州志﹄治水議の続文には︑

  夫佃戸経年労苦︑何堪経始︒必須通計該区脚数︑毎早業

  王給米升合︒使佃戸県単力役︒主導髪長美点︑官為省察︑一

  則一河三四日可弁︒      ㎜

とあり︑佃戸は経年の労苦によって︑とても水利工事を負担 一

できない︒そこで︑工事工区に田土を所有する業王に面積に

応じて米を出させ︑それを佃戸に給す︑つまり業曝勇力の慣

行を実施するのであるが︑この慣行を維持するために︑塘長

に簡点させ︑官が省察する︒これらの点を含め︑明末の太倉

地域の水利について︑その特徴点をまとめてみよう︒まず︑

﹃州志﹂ ︵巻十四︶芸文志︑文旦所収︑王在籍﹁水利説﹂に

は︑

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利

ω

いのは︑承佃人に種稲を強要する田主であるとする︒このよ

うな地主の責任回避︑及びその半面︑収租のみを事とすると

いった寄生的存在が︑水利の荒廃をもたらし︑小農民の再生

産を脅かしていたという文言については︑筆者はとれまでに

も幾度か紹介してきた︒とこで︑若干の追加をしておきたい︒

まず︑崇禎﹃太倉州志﹂(巻一一)営建志︑市鎮附には︑

年来水利不講︒幹河積様︑致坐因︒廼士大夫迄庶民猶油

担︒責之履畝開溶︑則百方阻︑或蛋自免︒再数年而後︑

終如此者其患何所底︒

とあるが︑ζ乙では士大夫H郷紳以下︑庶民に至るまで︑およ

そすべての業一戸の責任として︑所有国土面積に応じて開溶が命

じられたととろ︑百方反対が起り︑あるいは自分だけ免れよ

うとしている︒かかる業一月の責任とは︑﹁州志﹄(巻七)水

利志︑開諸にも︑張采は︑

采按︑:::背周文嚢公開呉松江︒合江以南四郡︑敏夫︑

伯専

責之

芳江

業一

戸︑

山豆

有通

理︒

というように︑宜徳年間(一四三0年代)︑南直巡撫周悦が

呉瓶江を開港した時に用いた方式であるととろの︑費用を芳

江の業一円にかけるという方式に属するものであった︒ただし︑

業一同のみの負担というのは幹︑河などの費用の多いものに限り︑

枝河︑小河については︑﹁州志﹄(巻七﹀水利志︑治水議︑

末尾花万志の編者の言として︑ 文各区支河︑引流帰国︑如不施波︑則幹河雄通︑流従何入︒乃往例責之河芳佃一問︒

とあり︑枝河の負担は耕作者たる佃一戸の負担とされていたの

である︒ただし︑以上のように︑地王と佃一戸それぞれの負担

内容が︑幹河1枝河というように明確に分離されたものであ

ったか否か︑いま一つ確認すべきであろうが︑今のところ果

していない︒それでも︑明末段階では︑地王(業一戸

) l佃 一 回

の水利の責任負担の関係は崩寝していた乙とは確実である︒

﹁州志﹄治水議の続文には︑

夫佃一四経年労苦︑何堪経始︒必須通計該区回数︑毎畝業

主給米升合︒使佃一同止供力役︒の責塘長簡点︑官為省察︑一

則 一 河 三 四 日 可 弁

︒ 問

とあり︑佃一向は経年の労苦によって︑とても水利工事を負担一

できない︒そ乙で︑工事工区に田土を所有する業主に面積に

応じて米を出させ︑それを佃一向に給す︑つまり業食佃力の慣

行を実施するのであるが︑この慣行を維持するために︑塘長

に簡点させ︑官が省察する︒これらの点を含め︑明末の太倉

地域の水利について︑その特徴点をまとめてみよう︒まず︑

﹁州志﹄(巻十四)芸文士山︑文徴所収︑王在晋﹁水利説﹂に

4

太倉莫急於水利︒水利関田賦︑田賦関皇生︒此而可減︑

執不可減乎︒絹謂︑幹河開撃︑必用公網︑枝河則焔田分

(7)

  派︒如湖川︑楊林︑塩鉄︑半浬︑漕漕︑時溝︑横渥︑七

  浦︑三聖等処︑先其所急︑盛年疏溶︒力遜塘長之弊規︑

  厳禁下役之需索︒粗土分域︑較量尋尺︑懲主情窟︑測其

  浅深︒子童累次巡行︑計日完備供具︒養蜂不許積土︑里

  甲不得虚包︒三民之利︑以速其成︒乗農之隙︑以畢其力︒

  一労永長︑無不可意之工︒

とあり︑まず︑三河・枝河の区別を設け︑遡河は公糧の支弁

により︑枝河は湿田派役する︒なお︑里長の瞬結を退けるこ

と︑三役の需索を厳禁することが述べられ︑州県正官の巡行

督視の必要が説かれる︒しかし︑その反面では︑塘長にして

も︑塘長を含む里甲制の機構にしても︑何ら期待するところ

でないとされていることは確認できよう︒

ところで・明末・藷の餐制については森田腺鴫の蕩

な指摘があり︑それによれば︑明末の塘長は︑官吏の需索や

遠区への派役などの負担増によって苦しみ︑それの改革をめ

ざした納暖銀制や﹁泥頭﹂による包撹制などの施行も︑あまり

効果を挙げ引れなかった︒がえって吏習や即身らの背景にあって

勢力を拡張することに腐心していた郷紳大戸と結んで不正を

行ったりしたことなどは︑筆者も旧稿で指摘した︒・

 明末の塘長制は︑制度的に弛緩しており︑また︑郷村にお

ける権力盟係の中で︑塘長の弊とむ呼ぶべきものになってい

たことは明瞭なのであるが︑にもかかわらず︑野末清初︑三

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口 長の役は革除されず︑実役として存続し︑その役割は期待されていたこと︑︑太倉州志の張采等の指摘の通りである︒例えば︑先の継立五禁の禁約にしても︑﹃州志﹂ ︵巻七︶水利志︑治水議︑同じく張采の一文に﹁今難治七巡︑亟修六利﹂とあケ︑その第五項に︑  菖葦之種︑随潮湧入︑遇濫即停︒毎年派定応管塘長︑無  論已未竣︑諸河凡三月五月八月︑各巡歴三周︒令業尼削  去︑其愛好陞科︑母得署名塗蕩︑仮縫出撃︑則積侵忍声  除︒とあって︑塘長は︑三月︑五月︑八月の農期間に︑諸河を巡 一      鵬歴し︑クリーク等の隠占侵害を除くという︒      一 万暦三十四年︵一六〇六︶︑太倉州の隣り常熟県で知県歌橘による大規模な水利工事が行われたが︑太半田では︑この年知州が欠員となったため︑肥州事を兼ねた判官李野馳によ

って水利工事が施行されたことが記録されている︒ ﹃州志﹂

︵巻十二︶名面心︑俸弐伝には︑

  李枝秀︑字彫雲︑肥郷県人︑進士︒左遷水利判官︒適知

  州鋏︒視築︑政清平︑無所紛擾︒州塩幌塘南自嘉定︑北貫

  常熟白茅︑時議竣︒故時開河︑豪強漏役︑次賄脱︒毎都

 ︐質料長︑凡手河官需索︑日長例︒又日責供応︑既具︒復

  乾折︑晋徒多無名耗︑早早︑工賃不集︒枝秀日︑水利固

  我職︑廼計富岳工︑用水平法︑定深浅︒詳水利志︒下智 派︒如湖川︑楊林︑塩鉄︑半淫︑櫓漕︑時溝︑横漉︑七浦︑横塘等処︑先其所急︑逓年疏溶︒力近塘長之弊規︑厳禁下役之需索︒画土分域︑較量尋尺︑懲其情旗︑測其浅深︒正官露次巡行︑計日自備供具︒河傍不許積土︑里甲不得虚包︒因民之利︑以速其成︒乗農之隙︑以畢其力︒一労永逸︑無不可意之工︒

とあり︑まず︑幹河・枝河の区別を設け︑幹河は公糧の支弁

により︑枝︑河は照田派役する︒なお︑塘長の弊規を退けるζ

と︑膏役の需索を厳禁する乙とが述べられ︑州県正宮の巡行

督視の必要が説かれる︒しかし︑その反面では︑塘長にして

も︑塘長を含む里甲制の機構にしても︑何ら期待するところ

で な い と さ れ て い る と と は 確 認 で き よ う

ところで︑明末︑江南の塘長制については森田自民の適切

な指摘があり︑それによれば︑明末の塘長は︑官吏の需索や

遠区への派役などの負担増によって苦しみ︑それの改革をめ

ざした納噴銀制や﹁泥頭﹂による包撹制などの施行も︑あまり

効果を挙ザりれなかったυ.かえって吏背や泥頭らの背景にあって

勢力を拡張することに鶴心していた郷紳大一同と結んで不正を

行ったりした乙となどは︑筆者も旧稿で指摘した︒

明末の塘長制は︑制度的に弛緩しており︑また︑郷村にお

ける権力関係の中で︑塘長の弊とも呼ぶべきものになってい

たことは明瞭なのであるが︑にもかかわらず︑明末清初︑塘

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口 長の役は革除されず︑実役として存続し︑その役割は期待されていたこと︑太倉州志の張采等の指摘の通りである︒例えば︑先の厳立五禁の禁約にしても︑﹁州士山﹂(巻七)水利志︑治水議︑同じく張采の一文に﹁今欲治七弊︑張修六利﹂とあり︑その第五項に︑

高葦之種︑随潮湧入︑遇濯即停︒毎年派定応管塘長︑無

論己未凌︑諸河凡三月五月八月︑各巡歴三周︒令業一同削

去︑其錆好陸科︑母得託名塗蕩︑仮公隠占︑則積侵之弊

除 ︒

とあって︑塘長は︑三月︑五月︑八月の農期聞に︑諸︑河を巡

歴し︑クリーク等の隠占侵害を除くという︒

万 暦 三 十 四 年 二 六

O六)︑太倉州の隣り常熟県で知県歌

橘による大規模な水利工事が行われたが︑太倉州では︑乙の

年知州が欠員となったため︑知州事を兼ねた判官李枝秀によ

って水利工事が施行された乙とが記録されている︒﹃州志﹄

(巻十二)名宮志︑停弐伝には︑

李枝秀︑字干雲︑肥郷県人︑進士︒左選水利判官︒適知

州紋︒視築︑政清平︑無所紛擾︒州塩鉄塘南自嘉定︑北貫

常熟白茅︑時譲渡︒故時開河︑豪強漏役︑次賄脱︒毎都

設塘長︑凡管河官需索︑日長例︒文日責供応︑既具︒復

乾折︑青徒多無名耗︑費銀︑工卒不集︒枝秀目︑水利国

我職︑廼計畝授工︑用水平法︑定深浅︒詳水利志︒下令

‑ 103  ‑

(8)

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

  署長︑我無他科︒第石工︑情有重典︑刻上行河賞罰︑至

  期陳刑具︑出訴銭示賞︑侃托故不行︒塘長髪詰開夫指事

  竣︒黙考塩鉄甲通済者︑三十余年︒

とあり︑以前の開河には︑豪強の漏役や怨言があり︑都ごと

に弓長を設けたが︑管河官の需索は長例といい︑また日び供

応を要求し︑乾折があり︑晋吏の無名の耗費があって︑それ

ら費用は酷きく︑工卒を集めることができなかった︒李枝秀

は塘長に命じて︑.工夫を率い︑工夫の勧惰賞罰を掌握させ︑・

そのため托故が行われなくなったといい︑工事の成就を記し

ている︒ 最後にもう一度︑﹁太陰州志﹄ ︵巻斗︶水利志︑治水議︑

張采の評言をみると︑

  若夫翼長一役︑翌翌点排年唐名輪充︑責以催督散戸︒今

  区黒戸小︑致首名有不及数十玉響︑難上半下︑累苦法嗣︒

  如催比河工︑傍照徴三法︑逐野砲稽︑母致独累︒

とあり︑かって塘長には排年︵里長戸︶の中でも首名︵第一

等軸︶が充てられることになっていたが︑明末の現在では︑

節名でも︑所有地数十畝にしか及ばない状態である︒この点

は浜島氏が正しく指摘し讐とく・郷紳の特権をめぐって花

甲誰寄等の不正行為が増長し︑ますます揺役負担が零細土地

所有者へ下降したことを示すのである︒ただし︑−右文で︑河

工の催比は徴糧法によって︑甲を遂って稽察せよという点は︑ この甲が里甲の甲であるか︑あるいは保甲の甲であるかの区別が不明ながら注目される︒そのいずれかはともかくとして︑里長役11頭役11首名が零細になる一方︑甲戸への負担を重視したものと考えられる︒ 四︑結び 本稿は︑十七世紀前半の長江デルタ︑特に蘇州府︑東北部の太急撃の史料を中心として︑棉作の展開と水利事業の関係を考察したものであるが︑当地方の棉作は明確に佃戸層によ

って担われており︑それに対して︑地王層は︑対佃戸との佃

租徴収の関係において︑また︑国家収取U税糧徴収との関わ

りにおいて︑佃戸層が旧作から水稲作へ再転換することを願

うのであった︒幹河であれ︑枝河であれ︑水利工事の振興を

期すものも︑水稲作の拡大を甦り︑地王一佃戸関係を安定さ

せることを狙いとしていた︒

 それでは︑かかる地耳栓の意図は実現したのであろうか︑

崇禎﹁太倉州志﹂が編纂されたのは早智十五年という明朝滅

亡の三年前であか︑当時既に華北では李自成軍の勢力が極め

て盛んであり︑南方でも︑各地に抗租や奴変の動きが激しく

なるころであった︒とすれば︑当時の状勢からして︑短期的

には実現不可能と判断できよう︒長期的には︑これは実は清

朝支配と関連させて考える必要があり︑本稿ではその検討は

104

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利同

塘長︑我無他科︒第集工︑情有重典︑刻期行河賞罰︑至

期陳刑具︑出私銭示賞︑の托故不行︒塘長重率丁夫趨事

竣︒子是塩鉄塘通済者︑三十余年︒

とあり︑以前の開河には︑豪強の漏役や賄脱があり︑都ごと

に塘長を設けたが︑管河官の需索は長例といい︑また日ぴ供

応を要求し︑乾折があり︑青吏の無名の耗費があって︑それ

ら費用は銀︑きく︑工卒を集める乙とができなかった︒李枝秀

は塘長に命じて︑工夫を率い︑工夫の勧惰賞罰を掌握させ︑

そのため托故が行われなくなったといい︑工事の成就を記し

てい

る︒

最後にもう一度︑﹁太倉州志﹄(巻七)水利志︑治水議︑

張采の評言をみると︑

若夫塘長一役︑原挨点排年首名輪充︑責以催督散一向︒今

区窮一月小︑致首名有不及数十畝者︑難上難下︑累苦百端︒

如催比河工︑何照徴糧法︑逐甲挨稽︑母致独累︒

とあり︑かつて塘長には排年(里長一同)の中でも首名(第一

等一月)が充てられるζとになっていたが︑明末の現在では︑

首名でも︑所有地数十畝にしか及ばない状態である︒ζの点

謹 )

は浜島氏が正しく指摘したととく︑郷紳の特権をめぐって花

分詑寄等の不正行為が増長し︑ますます傍役負担が零細土地

所有者へ下降したことを示すのである︒ただし︑右文で︑河

工の催比は徴糧法によって︑甲を遂って稽察せよという点は︑ 乙の甲が里甲の甲であるか︑あるいは保甲の甲であるかの区別が不明ながら注目される︒そのいずれかはともかくとして︑里長役H頭役H首名が零細になる一方︑甲一同への負担を重視

したものと考えられる︒

四︑結び

本稿は︑十七世紀前半の長江デルタ︑特に蘇州府︑東北部

の太倉州の史料を中心として︑棉作の展開と水利事業の関係

を考察したものであるが︑当地方の棉作は明確に佃一戸層によ

って担われており︑それに対して︑地王層は︑対佃一同との佃

租徴収の関係において︑また︑国家収取日税糧徴収との関わ

りにおいて︑佃一同層が棉作から水稲作へ再転換することを願

うのであった︒幹河であれ︑枝︑河であれ︑水利工事の振興を

期すものも︑水稲作の拡大を画り︑地王l佃一戸関係を安定さ

せる乙とを狙いとしていた︒

それでは︑かかる地主側の意図は実現したのであろうか︑

崇禎﹁太倉州志﹂が編纂されたのは崇禎十五年という明朝滅

亡の三年前であり︑当時既に華北では李自成軍の勢力が極め

て盛んであり︑南方でも︑各地に抗租や奴変の動きが激しく

なるころであった︒とすれば︑当時の状勢からして︑短期的

には実現不可能と判断できよう︒長期的には︑乙れは実は清

朝支配と関連させて考える必要があり︑本稿ではその検討は

‑ 104  ‑

(9)

留保しておこう︒ただし︑再度︑佃農薬の事情に即してみる

と︑次の二点に言及しておく必要がある︒これを示して本稿

の一応の結びとしておきたい︒

 その第一は︑棉作と豆作との関連である︒まず︑西嶋氏に

よれば︑綿花に豆類を混作することは︑土地制度日田王・佃

戸間の重藤関係における綿作農民の消極的自己防禦手段にし      箪かならなかったとされるが︑実は︑当時︑彼の徐光啓は面罵

の混作をよくないとし︑こんな小利をむさぼる者は︑下農夫        ︵34︶だとあざけっている︒徐光啓がよくないとするものを︑なぜ

農民逮は行っていたのであろうか︑この点については︑天野

元之助氏の評言が傾聴に価しよう︒すなわち︑ コ般に豊凶

の差のいちじるしい棉作のために︑多種の作物を棉田に混作

する農家の意欲との間に・対立矛盾があらわれてい麓とい

う︒やはり︑ここでは︑農家の意欲や︑農民的智恵の発揮こ

そまず認めるべきではあるまいか︒西嶋氏の理解は︑結局に

そこに落ちついたというものであって落ちつくまでの過程の

問題こそ重視すべきと思われるのであるが︑いかがであろう

か︒ 次に︑第二文目は︑畢宿と抗租運動との関わりである︒し

かしながら︑これを直接に示す史料を未だ発見していないが︑

やや︑それに近いものに︑次の事例がある︒崇禎﹃太倉孝志﹄

︵巻十五︶ 填綴志︑災祥に︑

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口   崇禎四年︑但書︒穀枇︑綿花壊︒四郷好佃︑謀喪主租︒  中夜呼応︑焼亡王事盧︒冬尽乃蛮︒とあって︑崇禎四年︵一六三一︶には︑台風で穀はひいなとなり︑綿花は全滅した︒そこで四郷の好佃は互に謀って尽く租米を隠匿し︑中夜いっせいに蜂起して︑田王の屋敷を焼打ちした︒冬になってようやく息んだという︒これは綿花の作柄不況が農民蜂起を引き起こしたと考えられる一例である︒ 以上の二点からして︑明末段階の棉作農民は︑棉作に基くところの生産畜力の発展を確実に自らのものとしていたことは理解される︒それに対し︑棉作をめぐる地王制の再編成︑ 一あるいは︑商業流通資本の支配はいかに貫徹していったであ去ろうか︑これは別稿で考察することにしたい︒       一     註︵麹元代の無作技術を伝える︑官撰﹃農桑輯要﹄ 栽木器法に︑  下種︑先一日目将地連澆︑三次以水嵩過子︑取余話覆一  夜︒ とあり︑発芽のため種子を水に淫したとあるほか︑  三六︑七日苗出三時︑旱則澆概︒ とあり︑この六︑七日を王禎﹃農書﹂穀譜一〇︑木棉には︑ 六︑七月と改めているが︑いずれにしても︑苗の成長時に 旱であれば露量を必要としたと伝えている︒以上について は︑三野元之助﹃中.国農業史研究﹂第二章諸説の展開︑増 ただし︑再度︑佃農側の事情に即してみる

次の二点に言及しておく必要がある︒これを示して本稿

の一応の結びとしておきたい︒

その第一は︑棉作と豆作との関連である︒まず︑西嶋氏に

よれば︑綿花に豆類を混作する乙とは︑土地制度リ田王・佃

一同聞の納租関係における綿作農民の消極的自己防禦手段にし

笥)

かならなかったとされるが︑実は︑当時︑彼の徐光啓は花宣

の混作をよくないとし︑こんな小利をむさぼる者は︑下農夫

( Mm }  

だとあざけっている︒徐光啓がよくないとするものを︑なぜ

農民連は行っていたのであろうか︑乙の点については︑天野

元之助氏の評言が傾聴に価しよう︒すなわち︑﹁一般に豊凶

の差のいちじるしい棉作のために︑多種の作物を棉田に混作

( 部)

する農家の意欲との聞に︑対立矛盾があらわれている﹂とい

う︒やはり︑乙乙では︑農家の意欲や︑農民的智恵の発揮乙

そまず認めるべきではあるまいか︒西嶋氏の理解は︑結局に

そ乙に落ちついたというものであって落ちつくまでの過程の

問題乙そ重視すべきと思われるのであるが︑いかがであろう

次に︑第二点目は︑棉作と抗租運動との関わりである︒し

かしながら︑乙れを直接に示す史料を未だ発見していないが︑

やや︑それに近いものに︑次の事例がある︒崇禎﹃太倉州志﹄

(巻十五)噴綴志︑災祥に︑ 留保しておこう︒

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

崇禎四年︑蝿風︒穀枇︑綿花壊︒四郷好佃︑謀尽匿租︒

中夜呼応︑焼国主房慮︒冬尽乃息︒

とあって︑崇禎四年(一六三一)には︑台風で穀はひいなと

なり︑綿花は全滅した︒そこで四郷の好佃は互に謀って尽く

租米を隠匿し︑中夜いっせいに蜂起して︑田主の屋敷を焼打

ちした︒冬になってようやく息んだという︒これは綿花の作

柄不況が農民蜂起を引き起としたと考えられる一例である︒

以上の二点からして︑明末段階の棉作農民は︑棉作に基く

と乙ろの生産諸力の発展を確実に自らのものとしていたこと

は理解される︒それに対し︑棉作をめぐる地王制の再編成︑

あるいは︑商業流通資本の支配はいかに貫徹していったであ

ろうか︑乙れは別稿で考察することにしたい︒

(却)元代の棉作技術を伝える︑官撰﹁農桑輯要﹄栽木棉法に︑

下種︑先一日︑将地連漉︑三次以水淘過子︑取瓦盆覆一

夜 ︒

‑ 105

とあり︑発芽のため種子を水に漉したとあるほか︑

待六︑七日苗出斉時︑皐則涜獄︒

とあ

り︑

ζの六︑七日を王禎﹃農書﹄穀譜一O︑木棉には︑

六︑七月と改めているが︑いずれにしても︑苗の成長時に

早であれば濯溜を必要としたと伝えている︒以上について

は ︑

6天野元之助﹃中国農業史研究﹄第二章棉作の展開︑増

(10)

明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利口

 借本五〇三頁︵御茶の水書房︑一九六二年︶の教示による︒

︵⑳浜島敦俊﹁明代江南の水利の一考察﹂ ︵﹁東洋文化研究所

 紀要﹂四七冊︑一九六九年︶

︵包森田明﹁明末における弓長制の変質﹂ ︵﹃東方学﹄二六輯

 一九六三年︑同罪﹁清子水利史研究﹂亜紀書房︑付編第二

 章︶︒︵越浜島敦俊﹁明末書江の嘉湖両蓋における均田均役法﹂︵﹃東

 洋文化研究所紀要﹄五二冊︑一九七〇年︶︒

︵還西嶋定生﹃中国経済史研究﹂八二六頁︒

︵遡すでに天野元之助前掲書に紹介指摘されている︒同書五・==

 頁︒︵範天野元之助︑前掲書︑五三一頁︒

  ︹附記︺

 本稿eを作成して二年が経った︒筆者はその間に︑昭和

五十三年四月より︑五十四年三月まで︑日本学術振興会の流

動研究員として一年間︑東京︑東洋文庫に滞在した︒本稿

に関しての史料も多数閲覧できたのであるが︑そ︑れによれ

ば︑すでに発表分のeを含めて︑大幅に加筆補回し直す必

要が生じた︒また︑予告の目次によれば︑二には︑⑪項と

して︑ ﹁棉作と商業資本﹂という部分があったが︑それを

叙述するには︑なお史料整理︑分析の時間が必要である︒ 本稿Oでは︑この部分を割愛し︑一応︑三までを完結することとした︒割愛した部分を含めて︑本稿eO全体を︑改めて新たな構想の下に叙述し直したいと考えている︒読者の寛恕を乞う所以である︒ なお︑筆者は五十四年七月︑京都大学東南アジア研究センターが行った﹁江南デルタの開発﹂のシンポジウムに参加し︑諸先生方から有益な教示を受けた︒本稿の叙述にもその教示の一端は反映されているが︑なお十分ではない︒今後を期したいと思う︒

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明末清初︑長江デルタにおける棉作と水利白 補本五

O三頁(御茶の水書房二九六二年)の教示による︒

(迎浜島敦俊﹁明代江南の水利の一考察﹂(﹁東洋文化研究所

紀要﹂四七冊︑一九六九年)

(紅茶田明﹁明末における塘長制の変質﹂(﹁東方学﹄二六輯

一九六三年︑同著﹁清代水利史研究﹂亜紀書房︑付編第二

章)

(忽浜島敦俊﹁明末漸江の嘉湖両府における均田均役法﹂(﹃東

洋文化研究所紀要﹄五二冊︑一九七O

年)

(辺西嶋定生﹁中国経済史研究﹄八二六頁︒

( M ) すでに天野元之助前掲書に紹介指摘されている︒同書五三一

頁 ︒

(包天野元之助︑前掲書︑五コ二頁︒

︹附

記︺

本稿付を作成して二年が経った︒筆者はその聞に︑昭和

五十三年四月より︑五十四年三月まで︑日本当街振興会の流

動研究員として一年間︑東京︑東洋文庫に滞在した︒本稿

に関しての史料も多数閲覧できたのであるが︑それによれ

ば︑すでに発表分の付を含めて︑大幅に加筆補定し直す必

要が生じた︒また︑予告の目次によれば︑こには︑価項と

して︑﹁棉作と商業資本﹂という部分があったが︑それを

叙述するには︑なお史料整理︑分析の時聞が必要である︒ 本稿︒では︑との部分を割愛し︑一応︑三までを完結することとした︒割愛した部分を含めて︑本稿ハ円︒全体を︑改めて新たな構想の下に叙述し直したいと考えている︒読者の寛恕を乞う所以である︒

なお︑筆者は五十四年七月︑京都大学東南アジア研究セ

ンターが行った﹁江南デルタの開発﹂のシンポジウムに参

加し︑諸先生方から有益な教示を受けた︒本稿の叙述にも

その教示の一端は反映されているが︑なお十分ではない︒

今後を期したいと思う︒

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