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(1)

労働組合主義の形成につ

い て

内 藤

見 日 ヂ 日

昭和六年六月︑右派系組合たる日本労働総同盟︑日本海員組合︑海員協会︑官業労働総同盟︑日本造船労働聯盟と

中間派組合たる全国労働組合同盟︑日本労働組合総聯合を統一した﹁日本労働倶楽部一が結成され︑大正末年以来の

左︑右︑中間というコ一派鼎立のまま推移してきた労働組合の戦線統一を右︑中間派一部の統合という形で完成した︒

この日本労働倶楽部はやがて七年九月に至り改組︑強化されて﹁

H

本労働組合会議一へと発展し︑当時の組織労働者

の三分の二以上を占めろ広範囲な全国的労働組合会議体となり︑日本労働運動史上に一つの時期を画することとなっ

た︒かくして︑大正十一年の総聯合運動の決裂以来初めて組織労働者の大半を占めた統体の成立を考えれば︑この

日本労働倶楽部の結成の意義は大なりとせねばならぬ︒

この右翼と中間派との統合運動は決して容易ではなかった︒と︿に中間派組合の主導勢力であった全国労働組合同

盟においては右翼との統合に反対した加藤勘十らの倶楽部排撃運動の展開を見て遂には分裂さえ惹起したが︑これは

この右︑中間派の統合体たる日本労働倶楽部の性格︑指導精神の右傾化を恐れたためである︒日本労働倶楽部は︑そ

の規約第二︹構成範囲︺で明確に次のように規定した︒

労働組合主義の形成について

四凶九

(2)

労働組合主義の形成について

四五

O

ゆ健全なる労働組合主義を以て指導精神とするもの

(共

産主

義︑

無政

府主

義︑

ファシズム等の指導精神に反対する

もの)

MW

国際労働機関そのものに対し反対せざるもの

この二つの相互規定は次の如く理解されねばならない︒プロフインテルン日国際赤色労働組合インターの理論的指

導者ログアスキーによれば︑国際労働機関日国際労働会議Q・F・︒・)は﹁それは労資聞の統一を表明し︑立法問題に

関して論議し︑改良に就いて演説し︑更新を勧告し︑市してこれが決定はその権能を有する︑否それ以上に利害関係

を有するブルジョア諸国家に委託すべき組縦一だとされ︑直接的にはアムステルダム・イング1に基礎をおく国際的

改良主義の助長のための資本制国家聞の協調による階級偽臓の機関だとし︑プロフインテルYはとれの排撃をはかつ

たが︑この国際労働会議にどう自らを対島させるかは当時の労働組合の性格︑立場を決定する最も重要な基本的フア

ググーであった︒従って︑日本労働倶楽部は基本的態度としてそれに﹁反対せざる﹂ことを表明し︑やがては中間派

組合さえも進んで参加︑協力体制をしき︑明確に﹁革命的労働組合日赤色労働組合﹂に対立したことは断るまでもない︒

かく制の規定を理解すれば︑

MW

の規定はゅの彼等のいう﹁健全なる労働組合主義﹂と同意義のことがわかろう︒即

ち︑こζでいう﹁健全なる﹂という形容が具体的に何を意味しているかはこの規定のみでは必ずしも明かでないが︑

続く﹁労働組合主義﹂とは通例一般の理解によれば︑労働組合の役割を資本主義の枠内における経済主義的行動に自

らを制限しようとすることから︑これは明かに﹁赤色労働組合十一とは対立する概念として考えられているからである︒

従って例の規定は労働組合主義を指導精神とした所産であり︑これは本来‑労働組合主義﹂の一つの幹において統一

理解さるべきである︒われわれは︑これを改めて制という形で再確認せねばならなかった所に右︑中間派統合の困難

(3)

性を読みとることができよう︒だから円本労働倶楽部が前述した如くやがて統一体として強化され日本労働組合会議 て す

i f  

7

の そ

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つ の

7

O~ 約

で は

へと発展したとき︑﹁﹃健全なる労働組合主義﹄を以て其運動の主義方針と為すもの﹂

の一

一四

(を

と相まって︑労働組合の役劃を資本主義の枠内

(4

) 

で団体交渉などを通じての経済的要求に限定しようとする経済主義的な組合運動の原理である︒とくに労働組合の経 ところで︑労働組合主義とは︑労働組合の法的承認︑選挙権の

済団体たる点を強調し︑組合運動の政治からの分離とその自主住の主張は本命的労働組合主義に対する批判が前提と

なっている︒これは又しばしば﹁組合主義一とも呼ばれ︑政治的には議会主義の立場をとり︑議会政策を通じて組合

運動の合法性の枠の拡大を初めとする労働保護立法日社会政策立法の獲得を目標左し︑従って改良主義と経験的には

同一視されると解してよいであるう︒

かかる労働組合の運動原理は︑労働倶楽部から七年に結成された日本労働組合会議を通じてその指導精神として最

もよく開花し︑機能し︑そして戦争の進展につれてその限界性のゆえに協調的立場を深め︑産業報国を主張し遂には

自主的存在としての立場を没し去ったものである︒そこで︑筆者における昭和の労働運動研究の端緒として︑そこに

うたわれた﹁労働組合主義﹂なる労働組合指導理念の系譜をたづね︑それの形成過程の主本的動向を明かにしようと

したのが本稿である︒勿論︑筆者が﹁労働組合主義﹂労働組合一連動の併究を志向している限り︑﹁労働組合主義﹂は

単なる概念としてではなく︑これは労働組合の構造と機能の研究にまで及ばねばならぬことは言を侠たない︒従って︑

労働組合の綱領︑宣言或いは運動方針等もその後の艮聞の具体的検証を必要とすろが︑本稿では一つは史料的制約に

基き

一つはその形成過程という蔚芽的段階に焦点をあわせたことから勢い抽象的な取扱いを余儀なくされている︒

労働組合主義の形成について

四五

(4)

労働組合主義の形成につい℃

四五

︑ 筆 者 の 問 題 意 識 か ら 直 接 系 譜 的 に 関 連 し な い 明 治 年 代 に お け る こ れ の 直 訳 輸 入 的 形 態 は 割 愛 し た

︒ 又

︑ 文 中 に お い て は 敬 称 を 略

τ

いるととも併せて初めに断ってがかねばならない︒

( 1 )

この規約叉は倶楽部そのものの成立については︑日本労働総同盟第・一十回全同大会報告書(昭和六年十一月)六

Ol

六六

頁︑日本海負担組合機関紙﹁海員﹂十巻七号(六年七月)一

O A

‑ ‑

O

六頁等々に当事者の正式報告がある︒

( 2 )

ロヅアスキー選集第二輯づフロアインテルンの成立と発展﹄(六年十月︑希望閣刊)一問︒頁

( 3 )

日本労働組会議機関紙﹁組合会世間時報﹂一号(七年十月)二八白(

( 4 )

平凡社﹃政治学事典七一

ο

一一

一一

一!

問貞

参照

﹁寸労働組合をつくって共カで労働者の地伎を改善しようなどと言う事はまだるっこい︒吾々は手取り早く社会主義者となって

直接行動をした方が早い

O L

之は此頃労働者自身の口からよく聞く言葉である︒げれ共それは間違っている︒直長行動とは一体どう云う事を意味するのか︒

直接行動とは︑警官と小ぜり合いをして︑一ト晩警察に止められたり︑禁止の革命歌を高唱して大道を歩く事ではあるまい︒こん

な直接行動では社会の大革命は愚か︑資本家の白効率一つ転覆する事は出来ないだらう︒こんな貧弱な直援行動を頼りにして︑労

働者にとって大切な大切な労働組合

! i

労働者の団結

1i

ーを拾て去らうとするのは狂気の沙汰ではないか︒

直桜行動の最上の手本は︑波一閣の対露戦挙を援助しゃうとした英国政府に対して︑英同労働階級が行動委員会を作り︑若し英国

政府にして波醐闘を援助するならば︑全英国の労働者は一令の下に総同盟罷業をすると云って威嚇した態度である︒英国政府は此威

嚇に震え上って波関援助を思い止まった︒日本の労働者よ︑直接行動とは斯う一五う事を云うのだ︒直接行動と云う一言葉を玩具の如

くに玩弄して︑直接行動の飯事をやって供惜しがっている連山ーは︑少し限界を高く大きくする必要があらう︒

成程飯事や玩具の直接行動をやるには︑別問一一強い労同問者の同結や労働組ムはは要らぬだらう︒そんな事なら単独でも出来る︒然し

こんな玩具や飯事で︑五口々労働者の地位の改善が出来ると思ったら大間違ひだJ

真に労働者の地位を向上させる事の出来る直接行動は︑労働者の大々的団結を必要とするJ絶大勇猛な労働組合が必要だQ

(5)

諸君

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労働

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(1

) 

組合

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国で

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︒﹂

大正十年一月︑総同盟東京聯合会主事︑柵橋小虎がその機関紙﹃労働﹄に

A

労働組合に帰れ

V

と題して述べた右の

一文は︑当時の労働運動の支配的な指導精神であった革命的サンジカリズムに対する極めて痛烈な批判であった︒

大正九年三月には︑その後長く日本労働者階級を労働条件切下と失業の不安にさらすこととなった恐慌が勃発した︒

生産縮少︑企業倒産とともに失業者は街頭へ投げ出された︒この時期は︑六年から七年にかけての急激な物価騰貴に

基く生活不安から醸成された労働大衆の斗争化とこれの集中的表現である七年の全国的な﹁米騒動﹂を決定的な契機と

して︑それまで協調的労働組合であった﹁友愛会﹂が翌八年八月の第七周年大会で名称を﹁大日本労働総同盟友愛会ι

と改め︑宣言や主張に示されるように斗争的労働組合へと転換を遂げ︑この斗争化した友愛会を中心に労働運動は

正に大きな昂揚期を迎えようとしていた最中であった︒このことは大正八年の労働争議件数の八

O

併余が賃銀増額要

求に基いていたことに証明されよう︒しかし乍ら︑恐慌到来の資本攻勢で事情は一変した︒それまでの賃上げ要求は

一転して逆に賃下げ反対︑繊首反対の防衛的立場に追こまれ︑しかも争議の多くは敗北に終った︒かくして︑大戦後復

活し︑漸く自主的組織に結集して斗争的組合としてその基礎をすえたばかりの労働運動は大きな困難を迎え︑加うる

に原敬内閣によって︑当時昂揚しつつあった普選運動が議会解散裡に空しく敗退し︑議会への希望を断たれ︑並目選熱

労働

組合

主義

の形

成に

つい

四五

(6)

労働組合主義の形成について四五四

が冷却するとともに︑その絶望的な救いを反議会主義・直接行動1サンジカリズムに求めたのは故なしとしない︒か

って明治一二十年代末の社会主義者が激しい弾圧に抗して合法的政治手段の無力を悟ったとき︑滞米中に

H・4﹃ ・

4︿

・の

深 い影響をうけてサンジカ日ノストに転化した幸徳秋水を中心にサンジカリズムは拾頭したが︑再びそれは天皇制絶対主

義体制下の治警的高圧を培養土壌として解放運動の指導理論として登場し︑第一次大戦後の世界的な革命の波に影響

された日本労働運動の指導者を急速にその信徒とするに至った︒そこで﹁今や彼らはゼネラル・ストライキその他直

接行動によって︑直接に資本主義の倒壊を図ることこそ︑解放の唯一の道であるとの信念のもとに争議行為の直接行

一切の合法的政治運動を否定するに至った﹂のである︒

動化

を企

て︑

ここ

では

れた主的Lとして挙げ︑当時の労働年鑑に基けば︑組合撲滅策に端を発して組合員である﹁四十余名の職工が工場を

﹁日本労働争議史﹂の著者が﹁当時流行した直接行動主義を誼歌するサンジカリズムの思想が具一体化さ

工場主を殴打し︑事務員を負傷せしめ︑工場の機械約二十五台の重要部を殆ど破壊し去るに到った︑我労働

運動史上空前の事前山といわれた十年一月の東京︑足立製作所の争議を典型とする当時の数多い争議を詳述する余裕

はないが︑九年末から十年中にかけて労働者階級は恐慌下の解雇一︑失業そして弾圧とおいつめられ︑斗争は総じて誠 襲

撃し

に陰惨なものであった︒

足立製作所争議の場合には︑同じく年鑑が報じている﹁其辛掠なる絞取︑低廉な賃銀︑不完全なる設備に於て

東京有数の﹃鬼工場﹄として聞え百労働条件を中心とする特殊的条件を考えなくてはならぬ︒しかし乍ら︑サンジ

カリズム理論から労働者階級の経済的直接行動を以て直ちに現制度の顛覆が可能だと考える場合︑少くともサンジカ

リズムを実践体験のなかで成育させた西欧では質量ともに誇示するに足る強大な労働者組織日労働組合の存在が前提

(7)

となり︑そのような主体的条件の上で編み出されたものである︒従って︑かかる前提条件を欠く場合には︑断乎たる 行動に訴える革命的サンジカリズムは天皇制権力の迫害と一原生的労働関係を二大支柱として少数急進労働者の極端に

尖鋭化した英雄主義的斗争を惹起する︒かLふる傾向は既に明治年代じおいて発芽したころの︑理想主義的﹁日本型﹂

サンジカリズムの伝統なのである︒そして具体的には

個の小英雄として祭り上げられLここに益々労働組合運動の大衆的基盤からの遊離︑ 一寸した争議もデカデカと報導され︑その幹部・指導者は

日常斗争の軽視が促進され︑運

動の高踏性・観念性が助長されるに至った︒そこで︑荒畑寒村の要約を借りれば﹁急進的と称する労働者が組合を忘

れて徒らに軽操浮誇︑革命歌を高唱し︑警官と小競合いを演ずることをもって社会主義と誤認し︑直接行動と心得る

の誤りを戒めた﹂のが冒頭に示した柵橋小虎の一文であった︒

この一文は︑当然に大杉栄を中心とするサンジカ2スト及びその共鳴者たる急進的分子の激しい反感を買った︒と

くに間もなく周年三月に生じた足尾銅山の同盟罷工の解決にあたっ℃︑鉱夫総聯合の麻生久ら知識階級指導者が﹁労

働者の蟻烈なる戦斗精神を無理に抑へて﹂屈辱的妥協を行ったと非繋し︑直接行動派から麻生︑柵橋(一二高以来の盟友 てともに大正六年東大卒﹀らを目した知識階級排斥運動が生じた︒そして︑

かかる対立と反目は︑前九年の第一回メ

ーデーを契機としてつくられた共同組織である﹁労働組合同盟﹂内でのサシジカリズム派組合と総同盟との衝突とな り︑五月に麻生︑柵橋らの発議で総同盟は労働組合同盟から脱退し︑統一戦線は分裂を見るに至った︒しかし乍ら︑

麻生︑柵橋らに対する非難は総同盟の外からばかりでなく内部からも生じ︑七月の総同盟東京聯合会第二回大会で・柵橋

排斥は成功し彼は主事の職を辞任した︒叉麻生も総同盟本部を去って鉱夫総聯合に専念することになって﹁サンタカ

リスト一派の知識階級排斥は実効を収め﹂︑十月の総同盟大会でも叉サンジカリストが優勢を示し︑かくして十年は

労働組合主義の形成について

四五

(8)

労働組合主義の形成について

四主

サンジカリズム全盛の年となったのである

かくして見れば棚橋小虎の批判は統一戦線の分裂と知識階級排斥運動のみに役立ち︑かえってサンタカリズムを日印

揚ぜしめた結果に帰したという︑へきであろうQしかし乍ら︑この棚橋小虎の一文の意味する所は︑

日本労働運動が第

一次大戦後漸く自主性を快復し︑労働組合としての戦略的未熟さのうちに発生した最初の﹁急進派と現実派との対立﹂

又一論白体は思想的革命主義に刺戟されて盛行したサシジカリズムを批判することとしての意義は大きく︑そして︑

によって自ら労働組合運動の現白人化・大衆化を主張し︑正に表題そのものが端的に示すところの

A

労働組合に帰れ

V

の労働組合主義宜一言であった︒このことは鈴木文治がこの十年の対立を評して﹁後年の総同盟分裂の端緒も︑早く此

ハ 叩

)

頃に蔚したと見るべきである﹂と述べていることに証され︑か︿してζの棚橋小虎の一文は︑わが国における労働組

合の現実的大衆化の方向転換を求めた最初の歴史的宣言といえるであろう︒

(1

麻生久伝記刊行委員会﹁麻生久伝

L (

昭和三十コ一年八月)二四七︑八頁から再転用した︒

末弘厳太郎著﹁日本労働組合運動史﹄(昭和二十五年九月)四八頁

村山重忠著﹃日本労働争議史

L

ハ昭和二十一年九月﹀五七頁

( 5 )

大原社会問題研究所﹁日本労働年鑑﹄大豆十一年版三一一

i

四頁

鈴木文治著﹃労働運動二十年﹄(昭和六年五月﹀一七九頁

荒畑寒村著﹁日本社会主義運動史﹂(昭和二十三年十月)二八八頁

赤松克煙者﹃日本労働運動発達史﹄

同右︑一一五頁

鈴木文治︑前掲蓄︑二九

O

(2 ) 

(3

(4

(6

(7

(8

( )

( 日 )

八大

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四年

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)一

一一

一一

(9)

担て︑十年に全盛を極めた+ンジカDズムは翌十一年には凋落の兆を一不し始めた︒これはサンジカ

n y ズムの直接行

動の失敗とともにロシヤ革命のボルシェヴィlキによる無産者独裁と政治斗争主義の勝利が︑政治斗争を含まない経

済的直接行動主義としてのサンジカリズムの無力を悟らせたことによる︒ここでアナルコ・サンジカリズムとボルシ

ェグイズムの所謂アナ・ボル論争︑が展開され︑この両者の対立は十一年九月一二十日の大阪における﹁全国労働組合総

聯合﹂創立犬会で頂点に達した︒この総聯合創立大会とは︑恐慌の深刻化に伴う強大な資本攻勢に対応すべく︑分散

孤立している労働組合の結集の必要から生じた戦浪統一運動日﹁総聯合運動﹂が結実し︑﹁全国労働組合総聯合﹂と

して正に発足せんがためのものであった︒ここでアナ・ボルの対立は総同盟対反橋同盟という形をとり︑とくに組織

方針をめぐるアナ系日反総阿盟の主張する個々の組合の自主権尊重の自由聯合論と総同盟の単一の戦斗機関たらしめ

るための集中合同日中央集権論の尖鋭化した抗争となって演じられた︒そして両派の対立から大会は極度の混乱に陥

り︑遂に官憲から解散を命ぜられて総聯合は創立大会で決裂してしまった︒大会における総同盟とボルシェヴストの

提携は︑このとき既に総同盟一部には野坂鉄(参三)の如きボルシェヴストがいたことにもよるが︑反サンジカリズ

ムという点で両者は大きく一致し︑更に総同盟の集中合同論は又ボルシェヴストの主張でもあったからである︒この

直後に総同盟はその全国大会(十月一︑a

三一

一一

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一︑

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組合

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労働

組合

主義

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つい

四五七

(10)

労働組合主義の形成について 二︑本大会は本総同盟があくまで戦斗力集中の原則を固持することを宣明す︑しかして本総同盟は以上の諸組合が本総同盟の主張

に合致し来らざる以上断じて総聯合組織の交渉を為さず右決議村

の決議を行い︑アナ系組合との絶縁を明かにすると共に長文の﹁宣言﹂を発表した︒その宣言は終始アナ系の自由聯合主

義の非現実性を鋭く攻撃したものであるが︑アナ系に対する総同盟の組織方針の相違を知るため次にその一章を示そう︒

﹁我等は労働組合を以て資本家階級に対抗する労働者階級の斗争機関と解釈する︑而して資本家階級が労働者階級に対しては全 産業的に全国的に︑更に全世界的にららゆる権力を集中し以て資本主義制度の城塞を防護すると共に︑労働者階級の搾取と抑圧と に之れを用いて居る︑斯の如品己資本家階級の戦斗力に対抗するには︑労働者階級は労働組合の集中せる戦斗力を以て当らざるべか

らざるは何人も認むるところで為る︑.

:・:組合の戦斗力を考へずして︑徒に個々の組合の自主権の尊重に汲々たる組合同盟会の態度の如きは︑労働運動者として 現実的斗争の職責を忘れ︑空漠なる思想中毒に堕したものといわなければならぬ︑各組合が緊密なる合同をなさずして︑各々自由 な立場に立って自由に聯合し︑しかして各組合の自由意志が自由に綜合されて︑それが強大なる戦斗力を生む日を待っとすれば︑

暴虐なる資本主義は恐らく永久に枕を高くして︑安眠を貧るであらう︒﹂

そして︑この総聯合の決裂以後サンジカリズムはその勢力を失墜し︑翌十二年の大震災における甘粕事件での大杉

栄の非業の最後によって完全に衰退するに至るが︑この総聯合の決裂以後﹁社会運動の理論派の地位がサンタカリス

(3

) 

トからコンミュユストに移りサンジカリストの多くがコンミュユストに鞍替するに至﹂り︑ボルシェヴイズム日コン

ミュニズムが労働運動の指導精神として全盛を極めるに至るのである︒

かかる傾向のなかでボルシェヴイズム化した総同盟は︑この十一年度大会において創立大会以来の︑組合の目的と

任務を集中的に表現する綱領を左の如く改正し︑明確にその階級斗争主一義的立場を宣明するに至った︒

一︑我等は団結の威力と相互扶助の組織とを以て経済的福利の増進並に知織の啓発を期す

(11)

一一

︑我

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組合

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労働

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新社

会の

建設

を期

この戦斗的綱領の採択は︑先の十一年八周二十日の中央委員会における国際労働会議の否認決議或いは翌十二年一月

の中央委員会における︑同年議会へ提出すると伝えられた工場法改正法案及び労働組合法案に対する次の決議

﹁吾

人は

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会政

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︒﹂

と一貫した総同盟の強硬なる急進化と解すべきであろう︒しかもこれらの決議に一不されるような社会政策日労働保

護立法に対する激しい不信の表明はそのまま労働大衆の日常的な利益一擁護の軽視を怠味し︑従ってここには旧態依然

たるサンジカリズム的傾向日直接行動主義の残存を指摘できるのであるつかかる限り一当時の共産主義の思想は︑政

治行動を高調する点において︑経済行動のみを主張するサンジカリズムと異っていたけれども︑観念的な急進主義の

サンジカリズムと五十歩百歩であった一といえる︒そして︑

点に

おい

て︑

かかる労働組合の急進化︑革命主義化を

前提として大正十二年春の第四十六帝国議会に一過激社会運動取締法案﹂﹁労働組合法案(その実は組合取締法)﹂﹁小

作争議調停法案﹂の一連の本格的な弾圧立法が上呈されてくるのであるc

しかしながら︑ここで以下の点が注目されねばならぬ︒即ち︑前述した戦斗的新綱領を採択し︑著るしく急進的な階

級斗争化を表明した十一年度総同盟大会は︑又同時に八年以来の﹁主張一を代え︑そこに﹁径済的行動の全国的協力﹂

労働

組合

主義

の形

成に

つい

凶五九

(12)

労働組合主義の形成について

O

の一項を新しく採用し︑総聯合運動決裂後の労働組合戦線の結集を訴え︑更に本大会一宣言しとして次の如く述べた

ことである︒

﹁我国労働運動の中堅としての我等の使命と責任とは我等の等しく自覚する処であるが更に︑我等の陣容を充実し以て理想への

戦線を進めて行く為めには運動の戦術上︑極々考慮を要すべきものの存することは窃かである︒例へば総同盟の組織を適当なる方

法に依って漸次産業別に向けて行くこと︑組合の方針が唯だに狭少なる当而の組合的利答のみならず進んで全労働者階級に密接の

利害を有する社会的経済的政治的問題に就て考慮する事︑空漠なる形式的論議を避けて実質的効果のある現実政策に心を用ふべき

こと

等之

であ

る︑

::

・:

:﹂

ここでは︑労働組合戦線統一のために総同盟組織の産業別整理方針を打ち出し︑

又一全労働者階級に密接の利害を有

する﹂具体的諸問題はこれを採りあげ︑そし

τ

﹁空漠なる形式的論議を避けて実質的効呆のある現実政策に心を用ふ

べき﹂態度を宣明している︒この労働大衆の利益擁護の基礎的︑日常的斗争を重要視し︑現実政策に留意することの 主張は︑先に見てきた総同盟の強硬なる急進化した運動方針︑諸決議と対比すればその矛盾は明かであろう︒この矛 盾己そ︑総同盟が︑広くいえば臼本労働運動が何らかの

A

換の必要に迫られていることを物語るものであった︒

V

そし

て︑

かかる時代的要請に答えたのが有名な山川均の﹁無産階級運動の方向転換﹂である︒

( 1 )  

(2

) 

協調会大阪支所﹃最近労働組合運動叉﹄︿昭和二年十月)一二三︑四頁

同右︑三四!四一頁υ

尚︑

反総

同開

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正進

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信友

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印刊

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四二

1

四頁

﹂が

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横溝

光障

著一

一一

日本

社会

主義

運動

史講

話﹄

(昭

和三

年十

月)

四七

赤松

克麿

著士

J日本社会運動史﹄(昭和二イ四年九片)二二一︑二頁

同右︑二一九頁 以下十九団体の態度の表明一全

(3

) 

(4

(5

(13)

( 6 )  

協調会大阪支所︑前掲書︑五

O

(1

山川均のこの論文は犬正十一年八月︑

日本共産党の機関紙と見られていたっ前衛一

(七︑八月合併号)において充表

されたもので︑全編九章から成る長

z X

のものであるが︑要約引用すれば以トの通りである︒

先づ︑無産階級運動は資本制社会の階級対立から階級意識に眼覚めたものの少数者運動として現われ︑

﹂の思想的

に大衆と独立した少数の先覚者がその思想を益々純化し︑徹底させて自己の進むべき目標を見極め︑そこで真に無産 者を解放するのは卒命的行動だけでそれ以外の日常の生活改善のための行動の如きは無意味だと確信し︑益々急進的︑

革命的色彩を強めるに至ったと説き︑y﹂れが同本無産階級運動の第一期だと述︑ベ︑

これを社会主義運動に見れば

﹁過去二十年間に於ける日本の社会主義運動は︑先づ自分を無産階級の大衆と引﹀JJ離して︑日分自身をはっきりさせた時代であ

った︒そして之はまだ︑無﹃段階級の大衆が全然資本主義の心理と思想に支配されている時代に︑州出立した無産階級の考え方と︑独

立した無産階級的の思想と見解とを築く為には︑必要な道行きであった︒干して此点に於ては成功した︒日本の社会主義運動は︑

過去

二十

年間

を通

じて

︑常

に階

級一

l予︑士山誌と革命主義との上に立ってゐたゾ日本の社会主義運動の思想には︑一度も妥協主義が混

ざってゐたことはないと云ってよいJ

従って思想的には純粋の直命主義者とはなったが

﹁然しながら斯うした潔癖た﹁X

X

ハ﹂態度た取ることになれ式︑資本制度の下に起る一切の率的を︑唯だ片端しから口先さや年J

先きで否定するだけであって︑先づ十人か一一十人の御定連が集って︑革命の翌日を空想して気焔を揚げるか︑明治査を相手に﹃革命

的﹄の行動に出で︑一晩の検束を受けて大に﹃反逆の精神﹄を満足させる位が関の山である︒資本制度を否定するが︑実際に於て

は︑却って資本制度そのものには︑小指一本も触れては居らぬ︒斯ような消極的の態度を取って屑るうちは︑社会主義運動が思想

労働組合主義の形成について

(14)

労働組合主義の形成について

四六

的に純化すればする程︑それは大衆とは離れて来るv斯ような態度は虚無主義者の理想であっても︑決して社会主義運動│即ち無

産階級の大衆的運動の態度でないことは一式ふまでもないじそして吾々は確かに︑この誤謬に陥ってゐた己

無産運動の他の側面たる労働組合運動を見れば︑

より包括的であるはずの組合運動も社会主義運動と同様に少数者運

動で

あり

︑ しかもその中心となって活動する分子は児に少数で大衆運劫というよりも少数先覚者の運動である︒彼等 は﹁階級意識が鮮明であり︑其の思想の徹底し純化して居る点に於ては

L

長年月の伝統を有ずる外国のそれと較べて

少しも劣っていないが︑﹁思想的に撤底し純化

L

て居るほど︑其の周囲の一般組合員との間には︑可なりに思想の上

行動の上の距離がある︒更に労働階級の大衆との聞には︑一層大なる距離がある

O L

これは社会主義運動と同様に︑組合運動の最後の目標を見極めるため大衆から自分を引き離して︑思想的に徹底し

純化する必要から生じたことである︒

﹁之は無産階級運動の第一歩であった︒日本の紺合運動はこの第一歩を踏みし

f

めた︒しかも立派に踏みしめた

O L

以上のことから日本の無産階級運動

l

社会主義運動と労働組合運動

l

において︑次の課題は以下の如くなってくる︒

﹁そこで次の第二歩に於ては︑五口々はこの目標に向って︑無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ︒無産階級の前衛たる少数者は︑資木主義の精神的支配から独立する為に︑先つ思想的に徹底し純化した︒それが為には前衛たる少数者は︑本隊たる大

衆を逢か後ろに残して進出したQ今や前衛は︑敵の為に本隊から断ち切られる↑公ひがある︒そして大衆を率ゐることが出米なくな

る危険がある

ω

そこで無産階級運動の第二歩は︑是等の前街︑にる少数者が︑徹氏し純化した思想な技へて︑遥かの後方に残されて

ゐる大衆の中に再び引き返へして来ることでなければならぬ︒尚ほ資本主義の精神的支配の下にある混沌たる大衆から︑自分を引離して独立することが︑無産階級運動の第一歩であった︒そして此の独立した無庭階級の立場に立ちつL︑再び大衆の中に帰って

来る

こと

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無産

階級

運動

の第

二歩

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衆の

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標語

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らぬ

︒﹂

L

て︑そこで﹁方向転換﹂の必要が生じる︒無産階級の運動は資本主義の一撤廃を目標とするが︑若し大衆が現に目前

(15)

の生活改善を要求しているならばこの大衆の現実の要求を基礎とせねばならない︒﹁若し労働階級の大衆が︑まだ生

産の管理を要求しなレで︑現に一日十銭の賃銀増額しか要求して居らぬなら︑苦々の当面の運動は︑この大衆の実際

の要求に立脚せねばならぬc吾々の運動は大衆の説実の要求の上に立ち︑犬衆の現実の要求から力を得て米なけれ

ばならぬ﹂︒従って︑当面の利害を代表する運動︑当面の生活を改善する運動︑部分的勝利を目的とする運動を一一層

重要視せねばならない︒従って︑無産階級の現実生活に桜響する一切の問題に対して積極的斗争の態ー反にうつらねは

ならぬ︒ブルジョアの致治を消極的に否定し去ることは︑それを肯定・支持することと同じである︒ブルジョア政治

に対して無産階級の政治的対抗が積権的にとられなくてはならない︒以上が山川均の一方向転換論﹂の趣旨であった︒

との論文は︑山川均が当時の社会主義運動のすぐれた理論的指導者であり︑その前月(七月﹀に結成された日本共産

党の

幹部

で︑

しかも後年に至って昭和六年七月二十五日の日本共産党公判第一

O

回法廷で市川正一が明かにしている

所によれば第一には﹃犬衆へ﹄︑

﹀﹂

いふ

この

二大

広ロ

1ガンを広く大衆に宣伝するために︑

︿2

)

日本共産党は党議をもって︑当時の共産党の最も重要な指導者︒一人であった山川均氏に一つの宣伝文を起草さぜ一

(3

﹁日本共産党の党決議を経てつくられた‑権威のあるものだけに︑当時渦中の一人であった荒畑寒村の表現によれば︑

ワぎ

には

﹃政

治斗

争ヘ

﹁との論文がひとり社会主義者ばかりでなく︑無産階級運動一般の上に及ぼした影響は想像以上であって︑社会主義

運動に対する指針はここにはじめて確立されたというも過言ではなかろう﹂といわれる如く︑決定的意義を有した︒

この

﹁大

衆へ

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ガン

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アナ・ボル対立のうちに生れた日本共産党が︑

一大

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ルγ第三回大会において決議された国際的スローガンに学んだものである︒市川正一はこれを次の如く述べ

τ

いる

3

即ち﹁当時の共産党がこれを採用しなければならぬことは︑国際的に見てさうであったばかりでなく︑とくに僅かの

労働組合主義の形成について

(16)

労働組合主義の形成について四六四 一握りの少数者のグループにすぎない︑大衆から孤立した当時の党にとっては絶対に心要な︑最も重要なスローガン

(5

たらざるを得なかった﹂と︒従って︑この意味では山川論文は日本労働運動の伝統的な少数精鋭︑急進主義に対する 批判であったと見るべきであろう︒だから﹁此の所論は当時﹃質から量への運動﹄の叫ぴが起りつ

Lあった一般無産

(6 )  階級運動に強い刺執を与へずにはおかなかったしのである︒そして︑ここから一大衆へ﹂という新しい標語が生れる

に至った︒

(7

しかしながら﹁方向転換論﹂が﹁無産階級運動の﹁右傾﹄

ji

‑‑

::

改良主義への堕落しという︑

アナ系は勿論︑共

一年半後に山川均が雑誌﹁マルグス主義﹂誌上で﹁﹃方向転換﹄の危険性﹂と題して産主義者内からの非難に答えて︑

再言せねばならなかったように︑

まことに此の﹁方向転換論﹂は危険性を内包していた︒彼自身︑

この危険性を次の

如く指摘する︒即ち

弓万向転換﹄は無産階級のうちの最も進歩した部分︑最も階級意識の進んだ部分︑最も

h

的な部分が︑透かに階級意識のおくh

れた部分の要求と妥協するととl言葉を換へて云へば︑無産階級の前衛部子が︑無庇階級の大衆に一議歩することーーを意味して

居る︒若し無産階級の前衛部子が︑一般大衆の要求と妥協することを知って︑一般大衆の要求を階級意識の最高の水準に引き上げ

る努力を忘れたなら︑彼等は大衆を同化しないで︑大衆に同化せられたものである︒そして﹃方向転換﹄は︑正しくこ

の危険を冒そうとするものである︒

﹃方向転換﹄は︑無産階級の大衆の当面の要求と︑部分的の斗争とをもって︑資本主義に反対する現実な力と認め︑この力の上

に︑無産階級の運動を確実に立脚せしめることを要求するQこの当面の要求と部分的斗争によってのみ︑無産階級の大衆は最後の

円的なはっきりと見︑決勝的の斗令に必要な準備をすることが出来る

3:

::

・︒けれども当面の要求と部分の斗争とは︑畢費︑資:

本主義の範囲内に於いて行ばれる改良の要求でおり︑改良を目的とする斗争である︒・;・::︒若し五口々が当面の要求と部分的の斗

争とのうちに︑最後の目標と決定的の斗争を見失ふたらば︑若し吾々が当面の要求と部分的の斗争とを︑決勝的の斗争に導くこと

を忘れたら︑﹃方向転換﹄は正さしく改良主義への墜落に外ならぬ﹂

(17)

従って︑彼は﹁方向転換﹂に伴う危険性を指摘して︑﹁﹃方向転換﹄は如何なる場合にも︑××主義から改良主義に 墜落し︑階級斗争から階級協調に堕落し︑無産階級運動から小ブルジョア自由主義の運動に堕落する場合の︑自分自 身を欺く口実となってはならぬ﹂と強調せざるをえなかった︒しかし︑無産階級の前衛分子の結集体日共産党は非合

法政党として無産大衆一般から隔離されたまま︑

しかもこの前衛分子をいかにして大衆と結びつけるかの具体的問題 を回避して︑運動の大衆化・現実化を主接した寸方向転換論﹂は︑少数者運動から大衆運動へ︑

理想主義から現実主 義へと機械的に理解され︑無産運動を革命主義から社会改良主義へ転化せしめる理論的根拠を与えることとなったの

であ

る︒

(1

﹀﹃前衛﹄(二巻一号︑大正十一年八月)二ハ│二五頁所収︑山川均﹁無産階級運動の方向転換﹂︒

( 2 ) ( 3 )

﹃プロレタリア科苧﹄(第三年十二号︑昭和六年十一月)部題﹁日本共産党公判斗争傍聴記号﹂一

O

七真︒引用文そ

れ白体はこの公判での陳述記録を今次大戦後編述した市川正一述守臼木共産党斗争小史﹄(二十一年十月)六一頁によった︒しかしながら︑党と﹁方向転換論﹂の関係について当時渦中の一人である荒畑寒村は次の異説を立てている︒即ち﹁山川均氏のこの

﹃無産階級の方向転換﹄論を︑日本共産党が:::︑山川氏に命じて起草させたものとする伝説が世上に流布されている︒この伝説は第二次共産党の公判において故市川正一氏が陳述した﹃共産党史﹄に初めて現われ︑最近出版された同氏の﹃日本共産党小

史﹄に再現するに及んで︑今では日本共産党の神話の一っと化している︒しかし︑神話が歴史でないことは勿論であって︑当時︑

裁判所が山川氏主この問題との関連について市川氏の証言を徴した際︑当の市川氏が事実の有無については全然責任をもたないと答えたのでも明かである︒本書の著者(寒村のこと:::内藤註)がひそかに付度するところでは︑この一論はけだし山川氏自

身の清算であり方向転換であったであろう︒﹂へ荒畑寒村署﹃日本社会主義運動史﹄二九O

頁 ﹀

(4﹀

苦川

畑寒

村︑

前掲

吾︑

一一

九O頁

( 5 )

﹁プ

戸科

﹂前

掲書

︑一

C

七頁︑市川正二前掲書︑六

O

( 6 )

横溝光輝︑前掲書︑五O頁

(7

( 8 )

﹁マルクス主義﹂(第一巻第三号︑犬正十三年六月)一

O

八!一二の頁所収︑山川均﹁﹁方向転換﹄の危険性﹂

労働組合主義の形成について四六五

(18)

労働組合主義の形成について四六六

大正十二年は冒頭から過激社会運動取締法案︑労働組合法案︑小作争議調停法案の三大弾圧法案反対運動が進展し︑

﹁悪

法反

対無

産者

同盟

﹁全国労働組合悪法反対同盟しが組織されて二月十一日の大示威運動となり︑不況の深刻化

に加うるに軍縮に伴う労働不安の増大から生じた失業反対斗争︑更には﹁労農ロシア承認﹂﹁対露通商開始

L

促進運動

雄一

寸々

尖鋭

化し

た政

治斗

争が

昂揚

した

︒こ

こで

かかる事態に対処した政府は︑六月五日の五十余名に及ぶ一斉検挙を

見た所謂﹁第一次共産党事件﹂及び九月震災時の所謂﹁甘粕事件﹂﹁亀戸事件﹂等に示される革命的社会主義者並び

に戦斗的労働者に対して一連の大弾圧を加え︑他方でこれまでわが国体を危くするとまで極言して反対してきた普通

選挙法の制定声明と国際労働会議労働代表選出方法について従来の官選を改め労働組合に選挙権賦与の決定という露

骨な﹁飴と鞭﹂の政策を登場せしめた︒労働運動対策が徹底的弾圧政策と改良主義に対する自由主義政策とのニつの

様式をもって具体化されることは︑いづれの国でも同様であるが︑わが弾庄政策は以上で尽きるものでなく︑更に大

正十四年の﹁治安維持法﹂﹁暴力行為取結法﹂の制定実施で一一層強化されていったことは断るまでもない︒

かかる政治的弾圧︑白色恐怖的な反動の強化から︑

と称せられる運動が拾頭して仁叫﹂oそこでこの傾向に影響キCれて︑第一次共産党事件で検挙され保釈出獄中の山川均︑ 一般労働運動のなかに﹁いはゆる

p

ベツ化と称す︑自由主義化

猪俣津南雄らによって十三年三月に共産党の解党が決議されるに至った︒解党理由は要約すれば﹁共産党はもう少し

日本の労働者が目ざめてきて︑自然に共産党を結成するまで︑もっと待たなければならぬ﹂ということであったが︑

この解党に反対した市川正一は︑これ令ニー単にみづから党を棄てるだけでなしに︑党を解体せしめ︑党の解体を強調し

て︑党のために斗はうとしてゐる革命的労働者を無党状態に陥れ︑さうしてその後︑これがいかに日本のプロレグリ

(19)

3 )

ア運動の発展を阻害し︑妨害し︑毒したか﹂と激しい言葉を投げかけている︒そして︑コンミェユストの前衛党を白

らの手で解体した山川均らは︑共産党に代る共同戦線党の提唱をするが︑これこそ正に﹁典型的な日和見主義﹂

然成

長主

義﹂

かかる山川イズム批判者とし

( 4 )  

て︑論文題名の如く﹁山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず﹂(北条一雄︑雑誌﹃マルクス主義註雨上において)

﹁大衆追随主義﹂に惰したものといえるであろう︒そして︑附言すれば︑

とする福本和夫の登場となり︑世にいういわゆる福本イズムが左翼運動の指導理論となるのである︒

更に弾圧の恐怖と改良主義に対する自由主義政策の帰結は︑大正十一年九月末の総聯合運動の決裂以来急進的革命 的労働組合としてボルシェヴイズム化した総同盟に顕著にあらわれた︒総同盟幹部の一人であった赤松克麿の如きは︑

市川正一をしていわしめれば﹁彼は当時日本共産党の指導部内にあって最も勇敢に党をふりすてて︑リベツ化どころ

(5 ) 

ではなく全く完全に立派に︑社会民主主義に向って突進して行ったのである﹂︒その後︑彼は間もなく日本労働運動の 在り方を批判しそれの外来輸入の翻訳臭の強い点をとらえ︑労働運動における日本国家の特殊性を強調した﹁科学的 日本主義﹂の主張をなすに至つい可これ︑大正・昭和労働運動史上でその存在没すべからざる赤松克麿の︑満州事変

勃発直後の昭和六年末における

A

国家社会主義

V

転向︑更にその後の

A

日本主義

V

転向のそもそものプロローグであ

る︒そして︑第一次共産党事件で野坂鉄以下の犠牲者を出した総同盟では︑この﹁飴と鞭Lの政策を契機に会長であ

る鈴本文治以下の松岡駒士口︑西尾末広︑麻生久及び赤松克麿ら幹部の改良主義化・議会主義化が促進され︑左翼即ち 共産主義に対する右翼即ち社会民主主義的立場を形成するに至った︒かくして︑今や﹁方向転換論﹂は革命的労働運 動の改良主義運動への転換として示され︑それのジャスティファイの理論的支柱となったのである︒

ここで総同盟幹部の﹁方向転換論﹂の解釈の仕方の一例を中央委員であった麻生久に求めれば次の如くである︒

労働組合主義の形成について四六七

(20)

労働組合主義の形成について四六八

﹁臼本に於げる無産階級の状勢を見るに︑後れ走せに同覚めた我国の無産階級は︑運動の日尚ほ浅︿︑目覚めたる・無産階級の数

は極めて少数なるに拘らず︑先進諸国・に於ける高度の社会思想並びに其逼動に刺戟せられて︑未だ何等の実力を有せざるに拘らず︑

気持ち丈けは他を模倣して極度に左傾的となり︑従って英運動は遂に大衆より︑孤立せる少数者の運動に止まるに至ったのである︒

方向転換は此誤謬を一訂正せんがために生れたのである︒方向転換の目的ば︑単に従来の運動に濃厚であった無政府主義︑サンジカ

リズムの思想方訟を排して共産主義の思相吋共産党的方法に代ゆる事のみではない︒何となれば︑今日の日本の社会状態に於て極

度に危険視されつLある共産主義の思想共産党的方法を以てしては︑勿論︑無政府主義︑サソヂカリズムより見れば一面の方向転

換でゐるけれ共︑互に大衆を獲得するがための円的は達し得られないのである③斯くの明き方法を以てする伝らば我山寺の運動は依

然として方向転換以前の少数者の選動たらざるを得ない︒未だ日覚めざる大衆を起たしめて階級的結成に迄持ち来す大衆的運動は︑

先ず可能なる自由主義の発達を助長し︑これに依って一般の無産階級運動に対する恐怖心を除くと共に法律的社会的環境を有利に

(7

) 

導く事に依って初めて可能なりとなすのであるL

従っ

て︑

﹁方向転換論﹂は︑われわれが最初に見た﹁棚橋宣言を漸く一年八ヶ月後に思弁

的説明を加えてくり返えしたものであった﹂という解釈が成立するのである︒かくして︑今や日本労働運動は弾圧と

﹃麻生久伝﹄においては︑

改良主義に対する自由主義政策に対応し︑二者択一的な

A

向転

V

を具体的な課題とすることを余儀なくされ︑労 働組合の方向転換問題として大きく発展するに至った︒即ち︑大正十三年二月における総同盟大会がこれである︒

既に総同盟では改良主義化した幹部たる右翼現実派と反幹部派たる革命的左派との対立は︑組合運動の方向転換即 ち大衆化と現実化をめぐって︑現実主義・改良主義的転換が大衆化の道とする右派と階級的政治斗争の大衆化のため

の現実主義をとる左派との相違から次第に淑化されつつあったが︑

ここではこれが大会の﹁宣言﹂をめぐる対立とな

って表面化した︒本部提出の原案は﹁吾等は組合の質の洗錬に勉むる余り︑且患を軽視する傾がなかったか︒理想の実

現に焦慮して︑徐ろに健実なる基礎を固めることを怠って居なかったか︒

:‑

ji

‑‑

‑︒我が総向盟は設に断乎として現

(21)

9 u

実に立脚すべきことを宣明する︒労働組合は思想的又は政治的団体ではない︒::::::﹂と明言し︑過去の運動の失

敗が放に方向転換が必要であり︑そのため現実主義・労働組合主義的転換を主張した︒しかし︑この提案理由の説明に

あたった西尾末広は直ちに鍋山貞親らの若手コンミュニストの猛攻撃をあび︑原案は幾多修正され︑とくに過去の運動

については﹁我等は過去における我国労働運動の過程は必然的に我閏資本主義の変則的発展に応じたるものな芯こと

を断言する﹂と改められ︑結局﹁宣一言

J 一は右派の改良主義・議会主義と左派の革命的斗争主義との折衷として発せら

れることとなったのである︒即ち︑一宣言﹂の後段で日く

﹁今

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等は

過去

に於

ける

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も︑

共政

策を

より

現実

化し

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ji

‑‑

改良政策に対

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態度

は︑

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るこ

とに

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られ

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れば

なら

ぬ︒

例へ

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ア議

会に

依て

労働

階級

の根

本的

解放を期待する所事もなきは勿論なれども︑説日選実施後に於ては選挙権を有効に行使することに依りて政治上の部分的利益を獲得すると共に︑無産階級の政治的覚醒を促し叉労働会議に就ても之が対策を慎重に考慮し︑以て我国労働組合発展の為に計るべきで

ある

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我等

は階

級的

利害

の一

致に

依り

分立

せる

労働

組合

の合

同は

勿論

組織

きれ

ざる

労働

階級

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束を

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︑現

実的

利益

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ノ侍

しつ

つ終局の目的に向って進むべき労働組合運動本来の面目を発探せればならぬ

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精神

に就

ては

篭も

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なき

事を

哲一

]明

する

む﹂

これは一見すれば︑普選利用日議会政策も政権獲得を期待せず︑叉国際労働会議の利用も部分的利益の手段とされ

て依然として基調をなすものは急進的革命主義の如くであるが︑本部原案を知ればそれがいかに左右の妥協の産物で

あるかがわかろう︒﹁従って︑戦術上の方向転換という意味で︑右派と左派とが一応一致して宣言を発したものの︑

根本的態度においては︑両者の聞の仏吹いちがひがあった︒これが後に総同盟の分裂を来たした康問であったのであ

る﹂︒勿論︑この分裂が翌十四年五月の総同盟第一次分裂lli左翼組合の﹁日本労働組合評議会﹂結成を指すことは

断るまでもない︒ともかく︑この宣言で議会政策と国際労働会議利用を宣明したことは︑総同盟が現実政策を標梼す

労働

組合

主義

の形

成に

つい

四六九

(22)

労働

組合

主義

の形

成に

つい

O

る新しい段階に入ったことを意味し︑従って劃時代的宣言と形容される所以である︒そして︑当時の協調会史料によ れば︑最大の組合であった﹁総同盟のかかる方針の変化は︑全労働組合に多大の衝動を与へ︑之と同一態度に出づる ものも出で︑殊に最初より労働組合主義を奉ずる組合の如きは執れも総同盟の態度の変化を是認したのであった︒﹂

かかる総同盟の政策転換の影響を典型的に示したものは機械労働組合聯合会である︒この組合は﹁最も忠実なサン ジカリズムの信奉者﹂で︑従って反総同盟系組合の雄であったが︑総同盟大会の翌月即ち十三年三月に臨時大会を開 催︑従来の運動方針を改め︑ここで﹁純白紙主義﹂を表明するに至った︒その﹁宣言﹂の一箇所で次の如く述べている︒

﹁労

働組

合は

思想

団体

叉︑

政治

団体

にて

なき

事は

元よ

り明

だ︒

尚吾

々労

働者

は叉

主義

の伝

導者

でな

ぎ事

も明

だ︒

五口

々の

幸福

の為

めあ

らゆ

る手

段︑

を選

ぶ事

を鷹

臨時

しな

い︒

吾々

の運

動上

の進

路は

常に最も広汎でなくてはならない︒最も自由でなくてはららぬ︒夫れは吾々労働者が社会的立場よりして社会に対して叫ぶ︒幸福

は当

然過

ぎる

事実

であ

るが

故で

ある

︒此

の当

然得

ベき

豆日

々の

運動

上に

於て

如何

なる

主義

︑又

は政

策と

謂へ

ども

喜も

束縛

すべ

き何

の理

由は

存し

ない

然れ

ども

︑吾

々は

更に

︑そ

の繁

雑を

断っ

て只

労働

組合

の本

流を

旗色

に揚

げて

勇敢

に遁

進す

るも

ので

ある

労働

組合

の本

流即

ち本

聯合

会は

純白

紙主

義で

ある

を事

表明

する

︑ 以上によって﹁純白紙主義﹂転換と国際労働会議︑普選利用を大胆に宣言した︒同宣言文中の他の箇所にある﹁労働組

ll

何といふ懐しい響であろう

L

という感情からすれば︑この組合が最早労働組合主義的立場に立っていることは

明白である︒

尚︑ここで注目すべきは総同盟と国際労働会議との関係である︒国際労働会議の利用を積極化した総同盟では選挙 の結果十三年の労働代表として鈴木文治︑西尾末広を海員組合の米窪満売とともに派遣することになったが︑ここで 鈴木文治が団結自由の問題を提出せんとして発言権を与えられなかったことが︑総同盟内の共産分子の存在にありと

(23)

し︑これが後の除名・分裂の原因だったとする説のあることであゐ︒この真偽はともかく総同盟が国際労働会議を通

じて︑第二インター日アムステルダム・インターーの改良主義的・組合主義組合と接関し︑提携を深めていったこと

は争われぬ事実であろう︒

( 1 )

︿2)(3)﹁プロ科﹂前掲書︑一一二頁︑市川正一︑前掲書︑七八│九瓦

(4

﹀雑誌﹁マルクス義﹂第二二号ヘ大正十五年二月)及び第二十五号ペ同年五月)に連載されたもの︒尚︑

の方向転換﹄が伺じく北条一雄の名で大正十五年に出ている︒

( 5 ) ( 1 )

に同

( 6 )

赤松克麿のかかる傾向に関しては︑赤松著﹃転換期の日本社会運動﹄(大正十五年二月ゾ参照

( 7 )

麻生久箸﹃無産政党とは何ぞ﹄普及版へ昭和四年一月︑井白書庖)一九九!二

CC

( 8 )

前出﹃麻生久伝﹄二五三頁

︿9

)

日本労働総向盟出版部﹃日本労働総同盟第十三年大会議事録﹄(大正十三年五月)

(日)(日﹀同右︑二一八│一コ二頁

(ロ)赤松克麿著﹃日本社会運動史﹄(昭和二十四年九月)二四五五

(臼﹀(日)協調会大阪支所︑前掲官官︑七九

l

八一頁

彼に

円無

産階

一二四│五頁

総同盟の現実主義的転換は日本労働組合に多大の影響を与えたことは既に見た通りであるが︑時四同盟内における革

命主義と改良主義との左右の対立はその後益々激化され︑翌十四年五月にこの対立・分裂的傾向は遂に左派分子の除

名で破局に達し︑総同盟の第一次分裂が招来する︒ここで革命酌左翼労働組合主義にたっ﹁日本労働組合評議会﹂の

誕生を見るが︑文ここで総同盟は完全に改良主義的・議会主義的な労働組合主義化を遂げたというべきであろう︒そ

労働組合主義の形成について

(24)

労働組合主義の形成について

して︑更に十五年の第二次分裂で中間派(﹁日本労働組合同盟﹂︑俗にいう日労系)を分離して益々組合主義化を強 化・徹底させ︑自ら右翼組合・合法主義を宣明し︑

そして組合戦線統一運動にあたっては﹁大右翼

L

結成を誇称する

に至った︒この﹁大右翼

L

結成運動の結実したのが冒頭﹁序﹂に述べた﹁日本労働倶楽部﹂

H

﹁日

労本

働組

合会

議﹂

なの

であ

る︒

掠て︑本稿では労働組合主義の萌芽的段階に焦点をあわせたことから︑

﹁序﹂で断った如くそれの機能的側面より

する実証的研究に欠けている︒問題は以上を前提として︑日本における労働組合主義の組合としての構造と政策︑そ れの物質的基盤と社会的機能を明かにすることでなくてはならぬ︒断るまでもなく︑筆者の意図する所もここにある︒

しかし︑労働組合主義組合の結集がまず﹁労働立法促進委員会

L

昭(

和三

年十

二月

)

という名称で発足した如く︑労働

組合法制定を先頭とする労働保護立法獲得運動を拡大し︑又総同盟に典型的に示される団体協約締結方針︑罷業統制 と罷業積立金制度︑消費組合・労働会館建設を中心とした共済制度等々の諸政策の具体的の展開はここから始まるの で︑これは寧ろ再度に豆る分裂後の総同盟研究を中心とした﹁大右翼﹂結成のなかで論ぜらるべきであろう︒とくに︑

それの戦争下(満州事変後)における対応の仕方をまてば︑その社会的機能は一段と明かとなるであろう︒試みに︑そ の展望の一例を示す︒

総同盟の現実主義転換後︑

﹁純白紙主義﹂を宣明し︑組合主義的立場にたった前述の﹁機械労働組合聯合会﹂はこ のとき高山久蔵によって率いられ︑これは後に﹁日本労働組合総聯合﹂

(大

正十

五年

)

とな

り︑

からの反総同盟的立場から中間派を形成してきた︒その後昭和六年の全国労農大衆党内における選挙公認問題の不満 を契機として︑折から拾頭してきた国家主義的気運に促進されて急旋回し︑国家社会主義を標棒していた下中踊三郎

参照

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