Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Apr. - May 2014] │ 2
﹁映画をめぐる美術
│
マルセル・ブロータースから始める﹂フ ィ ク シ ョ ン に 取 り 込 ま れ た 現 実 マ ル セ ル ・ ブ ロ ー タ ー ス の︽ セ ク シ ォ ン ・ シ ネ マ ︾
牧 口 千 夏
会期二〇一四年四月二十二日│六月一日 会場美術館企画展ギャラリー﹇一階﹈マルセル・ブロータースという芸術家の名前を︑これまで日本で耳にしたことのある人
はどれくらいいるだろうか︒日本語で読めるブロータースについての文献資料を探して
みたが︑その創作活動の全体像を紹介したものは残念ながらほとんど見つからない︒ま
た︑これまで国内でブロータース作品を紹介した主な展覧会を挙げるなら︑比較的早い例としてはベネルクス三国のアーティストを取り上げた﹁第二回富山国際現代美術展﹂︵富山県立近代美術館︑一九八四年︶︑先ごろ訃報が伝えられたベルギーのキュレーター︑ヤ ン・フートの企画によるワタリウム美術館での個展︵一九八八年︶がある︒最近では金沢 由なんだから﹂︵︶にブロータースのお馴染みのモチーフであるムール貝のオブ二〇〇九年 21でされたゲントのコレクションは世紀美術館開催︑現代美術館︵︶展﹁人間自S.M.A.K.
ジェ︽ムール貝の大鍋︾︵一九六六年︶が出品されていたが︑とはいえ︑過去の作品鑑賞の機会はやはり限られてきたと言える︒一方︑海外では生前からヨーロッパの美術関係者
の間で一定の評価がなされてきたが︑一九九一年にパリのジュー・ド・ポム美術館とス
ペインのソフィア王妃芸術センターで大規模な回顧展が開催されたのを端緒に作家・作品研究が進み︑一九九〇年代以降は欧米の主要美術館において様々な角度からブロー
タースを取り上げた展覧会が開催され︑主要作品が収蔵されてきた︒
筆者自身もブロータースの存在を知ったのは美術館に勤務してからのことであり︑一九九六│九七年に京都国立近代美術館と東京国立近代美術館で開催された展覧会﹁プ
ロジェクト・フォー・サバイバル﹂の図録をめくっていた時にふと目にとまったのが最初 である︒﹁近代美術館鷲の部﹂という謎めいたタイトルと︑﹁虚構の美術館﹂が﹁ドクメン
タ
のセクシォンパブリシテがブロータースのであるこ代美術館鷲部・︾︵一九七二年︶代表作 ﹂で幕を閉じることを告げる作家ステイトメント︒後になってこの時の展示作品︽近5
とを知るのだが︑美術館で行なわれる展覧会が︑現実世界に対して美術史というひとつ
の虚構の物語を生み出しうることを自覚するなかで︑﹁虚構の美術館﹂という言葉は不可解で︑だからこそますます気になる存在となり︑この作品と展覧会を実見できなかっ
たことの後悔がいっそう重みを増していった︒*
一九二四年ベルギーの首都ブリュッセルに生まれ︑シュルレアリストの詩人︑ジャーナ リストとして活動していたマルセル・ブロータース︵Marcel Broodthaers, 1924-1976︶は︑一九六三年に自作の詩集五十部を石膏で固めたオブジェを制作したことをきっかけに︑造形美術の道に進むことを決意する︒ブロータース自身の回想によると︑その頃ベル
ギーの画家ルネ・マグリットに譲ってもらった︑一九世紀フランスの詩人ステファヌ・マ
ラルメの詩集﹃賽の一振り﹄が彼に大きな刺激をもたらしたという︒一九六〇年代から七〇年代にかけて︑卵の殻やムール貝を用いたオブジェ︑ことば遊びから生み出された絵画やドローイングなど︑美術家として創作活動を展開していく︒
先に触れた﹁虚構の美術館﹂こと︑ブロータースの︽近代美術館鷲の部︾とは︑一九六八年から七二年にかけてブリュッセル︑デュッセルドルフ︑アントワープ︑カッセル等の ヨーロッパの各都市を移動しながら︑ブロータース個人によって設立された虚構の美術館のシリーズである﹇註
美術館システムの問題を扱った︑きわめてパフォーマティヴな実践と見なされている︒特 術動向を考えるためのキーワードのひとつ︑作品や作家という存在の成立条件としての ︒このシリーズは︑一九六〇年代後半から七〇年代前半の美﹈1
に同シリーズの︽セクシォン・パブリシテ︵広告部門︶︾は︑ハラルド・ゼーマンが企画した
ドイツ︑カッセルでの国際展﹁ドクメンタ
﹂︵︶において発表されたことで知一九七二年5
られる︒鷲のフィギュアを象徴的に掲げる小部屋に︑身の回りの広告や美術史上の作品
に登場する鷲のイメージやオブジェを大量に集めた資料群による大規模なインスタレー
ションは︑ブロータースの近代美術館シリーズの集大成であり︑その名を戦後美術史に深く刻みつけることとなった︒さらに二十五年の時を経た一九九七年の﹁ドクメンタ
10﹂
において︑︽セクシォン・パブリシテ︾の再構成展示が行われたことで︑同作品が保持し
ていた美術︵館︶制度に対する批評性を一九九〇年代の文脈で新たに理解する可能性が
3 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Apr. - May 2014]
クルト・シュヴィッタース︑ルネ・マグリット︑ラ・フォンテーヌの五人の芸術家の名が連
なる︒いずれもブロータースが尊敬する芸術家たちであり︑ブロータースはオマージュと
して短編フィルムを制作している︒残念ながら︽シネマ・モデル︾の公開期間中どのよう
な空間で上映が行なわれたのかは明らかになっていないが︑一九七〇年十一月十五日に﹁ラ・フォンテーヌのプログラム﹂と題した公開上映会が行われ︑これらの短編フィルム五作品が上映されたという︒このデュッセルドルフの地下室での新しい計画のための案内状やポスターのドローイングやコラージュを参照すると︑﹁近代美術館鷲の部﹂に加 えて﹁吸血コウモリ︵Vampires︶﹂という単語が書き添えられている︒最終的に出番はな かったものの︑どうやらブロータースは﹁近代美術館の新しい活動﹂として映画部門を設立するにあたって︑権力の象徴としての鷲だけでなく︑闇の世界からの使者としての吸血コウモリを登場させようとしていたらしい︒つまり映画部門は︑それまでブロータース
が継続してきた︽近代美術館鷲の部︾の活動とは別の要素を含みうる可能性をもつも
のとして構想されていたふしがある︒
・
│
映画空間 翌一九七一年一月︑改めてデュッセルドルフの地下室における︽近代美術館鷲の部 セクシォン・シネマ︾の開設をうたう案内が出された︒二月にデュッセルドルフの新聞に掲載されたヘルガ・マイスターのレポートによると︑午後二時から毎日開館し︑白と黒に塗られた部屋ではリクエストに応じて十六ミリフィルムの鑑賞が可能であり︑白塗りのスクリーンに番号と﹁fig.﹂の文字が書かれていたという︒もうひとつの部屋では︑書類
ファイルや写真を収めた箱などが置かれた文書管理用の棚が
あり︑反対側の壁に鏡や仮面︑パイプ︑カレンダー︑アコーディ
オン︑発煙弾︑止まった時計などが掛けられていた﹇註
︒イン﹈3 スタレーションの記録写真を見ると︑それぞれのオブジェには︑文中などの挿図に付けられる﹁fig.1︵図
︶﹂﹁﹂といっの意fig.21
たキャプションが添えられている︒﹁もしそこに書かれているこ
とを信じるなら︑オブジェは社会についてのある種の物語を実例として示すような性質を帯びたものとなる﹂とブロータース
の言うように︑オブジェと与えられた言葉との関係が決して固定したものでなく︑恣意的であやふやなものであることが︑謎 示されたと言える﹇註
年にデュッセルドルフ州立美術館のコレクションとなり︑現在に至っている︒ ︒この再構成展示は︑ドクメンタ終了後も保管され︑一九九九﹈2 四年間継続されたブロータースの近代美術館プロジェクトの最大の面白さは︑文学や歴史︑映画︑広告といったジャンルを持ちこみ︑そこに美術館の既存のシステムを作動
させることで︑アイロニカルな形でその制度性を強調した点にあるだろう︒さらにブロー
タースの場合︑フィクションという設定のなかで行われる現実の行為が︑虚構と現実と
の捩れから別のメッセージを発信するようなパフォーマティヴな性格を帯びていること
がしばしば見受けられる︒そして近代美術館シリーズのなかでも一九七一年に設立され
た映画部門︑すなわち︽セクシォン・シネマ︾は︑そうしたブロータースの創作活動のエッ
センスを重層的に含んでおり︑また同時に︑多様な解読の可能性を保持しながら展開し
ていったように思われる︒ここでは︑︽セクシォン・シネマ︾にまつわる活動の経緯を辿り
ながら︑現在の視点からこのプロジェクトをどのように捉えうるのかを考えてみたい︒
鷲吸血部 ・ ︽セクシォン・シネマ︾の設立に先だって︑デュッセルドルフのブルク広場十二番地の建物の地下室が︑︽シネマ・モデル︾という名のもとで公開された︒案内状はタイプ文字で﹁一九七〇年十一月十五日から一九七一年四月十五日まで﹂という会期と﹁予約制によ
る鑑賞﹂とのみ記された質素なものだった︒一九七〇年十月二十四日付のベルギーの新聞﹃ル・ソワール﹄に書き込んだ広告ふうのドローイングには︑﹁美術館へようこそプロ
グラムフィルムとスライド﹂︑その下にシャルル・ボードレール︑ステファヌ・マラルメ︑
マルセル・ブロータース
《パイプ(ルネ・マグリット)》
1969年 16ミリ白黒フィルム 5分
© Estate Marcel Broodthaers
Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Apr. - May 2014] │ 4
かけのように示されている︒上映には︽シネ
マ・モデル︾の時とは異なる六作品のフィル
ム
│
ブロータースのフィルム作品とチャッ プリンなどの商業用映画の抜粋│
によるプログラムが組まれた︒また︽セクシォン・シ
ネマ︾の公開中︑この場所は創作活動の拠点ともなった︒猫に向かって芸術とは何か
と問いかける音声作品︽インタビュー・ウィ
ズ・ア・キャット︾や︑仮面で扮装して映画
の古典書を手にしたブロータースのポート
レート写真など︑この場所ではブロータース
らしいユーモアが込められた幾つもの魅力的な活動がなされた︒このポートレートが案内状に用いられた︑ナポリでの個展﹁Fig.1, Fig.2, Fig.0, Fig.12﹂︵一九七一年三月︶では︑︽シネマ・モデル︾から︽パイプ︾や︽雨︵テクス
トのためのプロジェクト︶︾などのフィルム作品
が展示されたようだ﹇註
︒これらのフィル﹈4 ム作品の呼称に﹁Fig.﹂という指示番号が用
いられたことも︑︽セクシォン・シネマ︾のオ
ブジェを指すキャプション番号と共通する︒
インスタレーションに用いられたオブジェ
のうち︑ピアノを除いた十二点が︑一九七一年十月にメンヒェングラートバッハ美術館
で開催されたブロータースの個展﹁オブジェ
クトとしての映画︑映画としてのオブジェ
クト﹂に出品され︑その後同美術館によって購入・収蔵された︒これは単に﹁美術館がブ
ロータースの作品を収蔵したこと﹂を意味 するのではない︒ベンジャミン・ブックローは次のように述べる︒﹁自身の美術館から︿現実の﹀美術館へと作品が輸送された際︑ブロータースは︽セクシォン・シネマ︾内で生じた変容や相互作用を通して彼が進めてきた複合的な戦略の︑さらに別の側面を提示する
ようなコメントを残している︒﹃これは虚構の美術館︵近代美術館鷲の部︶の領域内で創作され︑育まれたオブジェの集合体︑あるいはオブジェのセットである︵これらのオブジェ
は私の美術館の構成要素ではない︶︒﹄こうしてブロータースはもうひとつの建設的なパラ
ドックスを生み出した︒結局︑実在する美術館のコレクションに入ったのは展示された
オブジェのみで︑彼がこのプロジェクトの中心に据えていた美術館の虚構性についての分析や批評レベルの認識論ではなかった︒︵中略︶むしろ否定弁証法のカウンター領域を作り出すことこそ︵がブロータースの野望︶であり︑そこでは意味と経済価値をもって作品 に投資する制度化された権力自体が批判的分析の対象となる︒﹂﹇註
︒﹈5 メンヒェングラートバッハ美術館へとオブジェが移送された後のデュッセルドルフの地下室は︑一九七二年六月頃になって若干の手直しを経て再び公開された︒上映室には﹁お静かに︵Silence︶﹂という壁の文言やディレクターチェアが新たに用意され︑またオブ
ジェがなくなった資料室には︑もともと時計が掛けられていた壁の中央の﹁fig.12﹂の文字だけが大きく描き替えられたほか︑後にオブジェの写真を載せた作品カタログが︑製本前の未完成の状態でガラスケースに収められた︒棚には﹁鷲の部
/秒﹂と書かれた木製パネルも追加された︒ 24コマのイメージ 12という数字や一秒間のコマ数など︑いず れも目に見えない時間にかかわる要素が加えられる︒オブジェが不在となった空間その
ものが投影されたイメージの非実在感を示唆するという点で︑まさに︽セクシォン・シネ
マ︾は映画的な時空間を体験する場所として提示されるのだ︒
この︽セクシォン・シネマ︾の二度目の公開は︑先に触れた﹁ドクメンタ
﹂の時期と重5
なるのだが︑驚くべきことにブロータースは同展図録の作家紹介ページで︑︽セクシォン・
シネマ︾が主観的な環境にすぎないという理由から︑︽近代美術館鷲の部︾の活動一覧
から除外することを表明している﹇註
︒このステイトメントの内容は果たして事実な﹈6 のか︑それとも虚偽なのか︑ブロータースの真意は今となっては知りようがない︒たし
かにブロータースにとって︽セクシォン・シネマ︾は映画についての個人的な思索の場で
あったかもしれない︒あるいはオブジェが失われた環境に対して﹁サブジェクティヴ︵原
語subjectif︶﹂という単語が選択されたのかもしれない︒それでもまだ疑問は残る︒この表明を字義通りに捉えて本当によいのか︑この表明の発話主体はいったい何処にいるの
マルセル・ブロータース《近代美術館 鷲の部 セクシォン・シネマ》1972年6月から10月にデュッセルドルフで公開された時の室内の様子 © Estate Marcel Broodthaers
5 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Apr. - May 2014]
か︒壁面に貼られた歴代の︽近代美術館鷲の部︾のポスターは残されたままだ︒そして再び︑﹁ドクメンタ
﹂展での︽セクシォン・パブリシテ︾に関するブロータースのステイト5 メントに戻ってみる︒﹁この美術館はフィクションである︒これは︑ある時は美術活動の政治的パロディとして︑またある時は︑政治的出来事の美術的パロディとしての役割を果たす︒それはちょうど︑ドクメンタ展のような公式の美術館や施設が果たしている役割と同じである︒唯一の違いは︑フィクションはわれわれに︑現実と現実が隠蔽するもの
の両者を同時に把握させてくれる点である︒︵略︶﹂﹇註
︒現実を取り込む虚構の世界﹈7
に逃げ込んだブロータースは︑事実か虚偽かという問いかけをはぐらかし無効化してし
まう︒イメージと言葉︑オブジェの関係を︑現実と虚構の関係のレイヤーとも重ね合わ
せながら常に宙吊りにするブロータースの実践は︑投影された像=映像のイメージに溢
れた世界を生きる私たちにとって今なお示唆的だ︒︽セクシォン・シネマ︾は︑一九九七年にスペインのアントニ・タピエス財団での回顧展の際に初めて再構成展示が試みられ
たが︑壁面にオブジェのない二回目の公開時の状況が再現された︒それは︑その空間に
たたずむ鑑賞者それぞれが思い描くイメージこそが﹁映画﹂である︑というブロータース
のメッセージを私たちが了解しているからではないか︒︵京都国立近代美術館研究員︶
マルセル・ブロータース《近代美術館鷲部門 セクシォン・シネマ》にて デュッセルドルフ 1971年 Photo: Joachim Romero Frias
© Estate Marcel Broodthaers
註
1
当時メンヒェングラートバッハ美術館の館長だったヨハネス・クラダースの回想によると︑一九六八年九月二十七日に開かれた開館記念セレモニーには︑カール・アンドレやダニエル・ビュレンら同世代の美術家のほか︑コレクターや批評家︑音楽家などが大勢集まったという︒
2
﹁ドクメンタ
ワ・シュヴリエによる鼎談を参照︒Politics-Poetics, das Buch zur documenta X, 1997, pp. 10﹂図録におけるベンジャミン・ブックローとカトリーヌ・ダヴィッド︑ジャン・フランソ
387-391.
3 Helga Meister,“Fiktives Museum. Marcel Broodthaers gibt einen Denkanstob”,
Düsseldorfer Nachrichten, no. 31,6 February 1971. in Marcel Broodthaers. Cinéma,
Fondació Antoni Tàpies, Barcelona, 1997, p. 156.
4 次の文献を参照︒Marcel Broodthaers Projections, Stedelijk Van Abbemuseum, Eindhoven,
1994, pp. 70-71.
Benjamin H. D. Buchloh, “Marcel Broodthaers’s Section Cinema”, Marcel Broodthaers. 5 Section Cinema 1972, Marian Goodman Gallery, 2010, p. 14. 6 Documenta 5: Befragung der Realität Bildwelten heute, 1968, section 13-1.
﹃プロジェクト・フォー・サバイバル7
1 9 7 投企的﹈な実践の再発見に向けて﹄京都国立近代美術館︑一九九六年︑二九頁︒ 年以降の現代美術再訪プロジェクティヴ﹇意志的・0 後記 ﹁映画をめぐる美術﹂展企画者の牧口氏に︑マルセル・ブロータースの多岐にわた
る活動から︑とりわけ﹁映画﹂に関わる実践について紹介いただいた︒本展において唯一物故作家であるブロータースは︑十二人の現存作家による作品を解読するための導き手として召喚される︒牧口氏はブロータースの近代美術館プロジェクトの特徴を︑アイ
ロニカルに美術館の制度性を強調すること︑と指摘する︒この﹁制度性の強調﹂とは︑近代・美術館に対する批判であると同時に︑そのさらなる可能性を考える端緒ともなり
うるものだ︒そして﹁美術︵館︶﹂に﹁映画﹂が持ちこまれる本展は︑この﹁近代美術館プロ
ジェクト﹂の特徴に引きつけて見てみることもできるように思う︒
秩序や権威をすでに失った感もある近代・美術館が︑なお﹁強調﹂されるような制度性を持ちうるのか︵持つべきなのか︶︑といった問題を本展がもし提起するのだとしたら︵当然ながらそのためには一九六〇│七〇年代とは異なるスタンスが必要だ︶︑それは会場とな る二つの﹁近代美術館﹂の︑未来に向けた可能性になるのかもしれない︒︵企画課主任研究員 三輪健仁︶