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信仰論』の「序論」に関する分析的研究

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(1)

信仰論』の「序論」に関する分析的研究

著者 崔 弘徳

雑誌名 基督教研究

巻 76

号 1

ページ 83‑101

発行年 2014‑06‑24

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014537

(2)

イエス・キリストにおける「神-人」性 についてのシュライアマハーの理解

  『宗教論』ならびに『信仰論』の「序論」に関する 分析的研究  

Fr. Schleiermacher’s Understanding of the Divine-Human Nature in Jesus Christ:

An Analytical Study on Reden and ‘Introduction’ in Glaubenslehre

崔 弘徳 Hong-Duk CHOI

キーワード

イエス・キリスト、「神-人」性、仲保者、救贖者、根源的啓示

KEY WORDS

Jesus Christ, divine-human nature, mediator, redeemer, original revelation

要旨

 イエス・キリストにおける「神-人」性に関するシュライアマハーの理解をめぐっ ては、学者によって様々な解釈が行われてきた。しかしながら、それらの内容は、

シュライアマハーがイエス・キリストにおける「神」性と「人」性のどちらかを優先 してアプローチしていると解釈するか、あるいは単に並立させた上でどちらかを強調 していると解釈するかのいずれかであった。本稿の目的は、果たしてこれらの方法論 的諸解釈が正しく、あるいは適切に把握したものなのかという疑問を抱えつつ、シュ ライアマハーのイエス・キリストにおける「神-人」性理解をそれらとは別の方法論 的視点から提示することにある。このために、彼の比較的初期の著作である『宗教 論』(1799)ならびに『信仰論』(1821/22)の「序論」に着目してテキスト分析を行 う。この二つの作品を取り扱う理由は、一般に両者共に宗教哲学的あるいは哲学的神 学的性格を有していると知られていることから内容的にも連続したものとして捉え、

更にはそこで論じられているイエス・キリストの「神-人」性についてのシュライア

(3)

マハーの視点が、彼の後期思想にも一貫していると考えるからである。

 この二つのテキストにおいてイエス・キリストの位格は、彼の業、すなわちキリス ト教の創始者、仲保者ならびに救贖者、そして根源的啓示としての業などとの密接な 関連の中で論じられている。これらキリストの業に現われたイエス・キリストの位格 における「神-人」性を分析してみた結果、シュライアマハーは、一貫してイエス・

キリストを人であると同時に神、歴史的な存在であると同時に超歴史的な存在、自然 的な側面の存在であると同時に超自然的な側面の存在であると捉えていることが分か る。こうしたシュライアマハーの理解は、聖書の証言やキリスト教の伝統におけるキ リスト論的定式、とりわけ、イエス・キリストは「真ノ神ニシテ真ノ人」(vere Deus

et vere homo)という命題に忠実であるのみならず、シュライアマハー当時のキリス

ト論的諸思想にも徹底的に対応しているという点にその意義があると言えよう。特 に、シュライアマハーの理解を方法論的に顧慮する際、従来論じられてきた諸解釈の 類型をもっては把握しきれない面が内在している。つまり、彼の方法論は「上から」

(von oben)とか「下から」(von unten)というどちらかを優先するアプローチを もってか、あるいは単に「神」性と「人」性とを並立させ、どちらかを強調するとい う論理的関係規定のみでは説明しきれない面があるのである。そこで本稿では、イエ ス・キリストにおける「神-人」性に関するシュライアマハーのキリスト論的方法論 を「神秘的緊張-一致」(mystische Spannung-Einheit)の関係にあるものと捉える。

SUMMARY

There are many different interpretive views concerning Fr. Schleiermacher’s understanding of Jesus Christ. For example, some scholars insist that his Christology was based on the methodology of ‘from below.’ On the other hand, other scholars insist that his Christology was based on the methodology of ‘from above.’

The purpose of this paper is to reexamine these interpretive views. In the present study, I have attempted to deal with Schleiermacher’s texts analytically, in particular “On Religion”(Über die Religion/Reden, 1799)and ‘Introduction’

(Einleitung)in “The Christian Faith”(Der christliche Glaube/Glaubenslehre, 1821/22). First, according to these texts, Jesus Christ is the founder of Christianity as a positive religion. However, He is simultaneously a historical existence who has the divine nature in his person. Second, Jesus Christ is the mediator and the redeemer. On the one hand, as the mediator He has simultaneously both a finite and an infinite nature. On the other hand, as the redeemer He is distinguished from all other men. That is, He is the only One who stands outside the human condition of

(4)

sin. Therefore, He was able to bring redemption to all men. Third, Jesus Christ is the original revelation. He is the God who became a man, the Son of God. That is to say, He is the only One who has taken divine nature into his own human nature.

Simultaneously, He has both supernatural and natural aspects in his own person and works. Therefore, He was able to reveal God the Father to all human beings.

In conclusion, it is necessary to appreciate that Schleiermacher has understood Jesus Christ as ‘the true God and the true man’(vere Deus et vere homo). Of course, this is the heart of traditional Christian creeds. As a result, we have to conclude that Schleiermacher understood the ‘divine-human’ nature in the one person of Jesus Christ, not by the methodology of ‘from below’ or ‘from above’, but by his view of this simultaneous dual existence. In this respect, we can say that Schleiermacher’s understanding of Jesus Christ is based on his methodology of ‘the mystical tension-unity’(mystische Spannung-Einheit).

はじめに

  一 般 に 知 ら れ て い る よ う に、 シ ュ ラ イ ア マ ハ ー(Friedrich Daniel Ernst

Schleiermacher,

1768 ‐ 1834)の神学、とりわけ哲学的神学や教義学において中心と

なっているのはイエス・キリストである1。しかし、彼のイエス・キリスト理解、と りわけその位格における「神-人」性2に関する理解をめぐっては様々な解釈が行わ れてきたのが事実である。それらは四つの類型に大別することができよう。第一は、

歴史的イエスから信仰の(教義的)キリストへのアプローチ、言わば「下から」(

von

unten)の方法論に基づいていると見る解釈である

3。第二は、信仰のキリストについ

て強調しているが、歴史的イエスに関する叙述は不完全なままに留まっていると見る 解釈である4。第三は、歴史的イエスと教義的キリストとの両者を調和的結びつきの 中で論じていると認めつつも、教義的キリストから歴史的イエスへの道、言わば「上 から」(von oben)の方法論に基づいていると見る解釈である5。第四は、第三のもの と同様に、その両者の調和的結びつきを認めつつも、イエスを人間の原型として捉え る解釈である6

 本稿の目的は、果たしてこれらの方法論的諸解釈は正しく、あるいは適切に把握し たものなのかという疑問を抱えつつ、シュライアマハーの比較的初期の著作である

『宗教論』(第1版、1799)7ならびに『信仰論』(第1版、1821/22)8の「序論」9を分析す ることにより、彼のイエス・キリストにおける「神-人」性理解を別の方法論的視点

(5)

から提示することにある。この二つの作品を取り扱う理由は、それらは、内容におい ては、一般に宗教哲学的あるいは哲学的神学的性格を有していると知られているよう に、両者には連続性が存在していると考えられるし、更には、それらに現れているイ エス・キリストにおける「神-人」性に関する視点はシュライアマハーの後期思想に も一貫していると考えているからである10

 シュライアマハーは、イエス・キリストの位格と業とを厳密に区分せず、むしろそ の両者を緊密な関連の中で論じる特徴を持つ11。したがって、本稿においては、イエ ス・キリストの業を現わす概念に着目し、それをキリスト教の創始者、仲保者ならび に救贖者、そして根源的啓示といった位格との関連で、その事柄の中に展開される

「神-人」性の側面に焦点を当てて考察する。もちろん、シュライアマハーは、その 当時の様々な思想のみならず12、古代からの伝統的なキリスト教の教説や宗教改革者 たちの思想にも精通していたが故に、それらとの関連も念頭において論じたい。

1.キリスト教の創始者

 シュライアマハーのイエス・キリストに関する叙述の特色の一つは、一神教のカテ ゴリーにおいてキリスト教を他の諸宗教、すなわちユダヤ教ならびにイスラム教と比 較することにより、キリスト教の固有性を論じるというその手法にある13。そこでイ エス・キリストの位格における「神-人」性に関する理解が浮かび上がってくる。も ちろん、このことは『宗教論』においても「序論」においても一貫している。ただ し、前者においてはユダヤ教との比較、後者においてはユダヤ教ならびにイスラム教 との比較の中で論じられる。ここでシュライアマハーは、キリスト教と他の諸宗教と の 間 に あ る「 共 通 な も の 」(

das Gemeinsame

) と「 固 有 な も の 」(

das Eigenthümliche)とを区別するが(CG

1

, §7, 2, S. 24)、とりわけ後者の叙述において

はイエス・キリストの位格や業が中心となっている14

 ここでは、こうしたシュライアマハーの叙述の特色を踏まえつつ、キリスト教の創 始者としてのイエス・キリストと他の宗教創始者15との間における類似性と相違性と いう視点をもって考察を進めつつ、イエス・キリストの「神-人」性に関するシュラ イアマハーの理解を明らかにしたい。

1.1. 他の宗教創始者との類似性

 シュライアマハーは、啓蒙時代に蔓延していた所謂「自然宗教」(natürliche

Religion) を 単 な る 理 念 に 過 ぎ な い も の と 考 え 退 け(R

1

, S. 248)、「 実 定 宗 教 」

(positive Religion)のみを宗教として認める16。その中でもユダヤ教、キリスト教、

(6)

そしてイスラム教を一神教と規定する17。ここで、キリスト教がユダヤ教やイスラム 教と同様に実定宗教、とりわけ目的論的一神教18であるならば、その創始者たちの間 には類似性があるとする。シュライアマハーは、その類似性を歴史性に見出す。すな わち、それらの諸宗教に共通する点は、歴史的存在者の人格との関わりによって成立 したということである。「序論」によれば、ユダヤ教がモーセ(Moses)の人格と、

またイスラム教がマホメット(Mohammed)の人格と引き離されないのと同様に、

キリスト教はイエスの人格(位格)と引き離されない。つまり、キリスト教はイエス によって成立し維持される。このようにイエス・キリストは、モーセやマホメットと 同様に「新たな共同体や信仰様式の創始者」(CG1

, §18, 1, S. 61, 62)であり、その点

で「イエスの人格(位格)は固有の歴史的出発点を成している」のである(CG1

,

§18

, Anm.,

1

, S.

61)。もちろん、イエス・キリストが実定宗教としてのキリスト教の

創始者であるという論旨は、すでに彼の『宗教論』でも論じられたものである。シュ ライアマハーは次のように述べる。「わたしは平和をもたらすために来たのではな く、むしろ剣をもたらすために来た、とキリスト教の創始者は言う」(R1

, S. 297)。こ

れは「マタイによる福音書」10章34節のイエス・キリストの言葉を引用する中で言及 したものであるが、ここでは、イエスが「キリスト教の創始者」として受け止められ ていることが分かる。シュライアマハーは、このようにイエス・キリストをキリスト 教の成立と結びつけ、その創始者であると述べることにより、イエス・キリストの位 格の歴史的側面を明らかにする19

1.2. 他の宗教創始者との相違性

 シュライアマハーは、他方、キリスト教と他の諸宗教との比較において、イエス・

キリストの特有性を明確に示す。以下において『宗教論』では、特にイエス・キリス トの位格における<有限性-無限性>の側面に、そして「序論」では、特にその業の 中でも贖い(Erlösung)20の側面に焦点を当ててその「神-人」性を論じたい。

 まず、『宗教論』によれば、イエスは最も輝かしい宗教、すなわちキリスト教の崇 高な創始者である。もちろんキリスト教の輝かしさは、イエスの特有な位格から為さ れる宇宙直観に基づいている。それではイエスの特有な位格とは何なのか。それは、

イエスの人間の本性において同時に「神的なもの」(das Göttliche, R1

, S. 301)が内在

しているということである。シュライアマハーによれば、イエスの歴史上の生涯に関 する断片的な叙述を通して観察できる。例えば、イエスの道徳の教えの純粋さ、彼の 性格の独自なところ、すなわち崇高な力と感じやすい心のやさしさの内的結合など は21、あくまでも「人間的なもの」(menschliche Dinge, R1

, S. 301)にすぎない。シュ

ライアマハーが特に目を向けるのは、イエスの位格には、その人間的なものを超えた

(7)

真に神的なものが同時に内在しているという点である。そこでシュライアマハーは、

イエスの魂の中に形成されている偉大な「観念」(Idee)に目を留めている。この観 念とは、あらゆる有限なものは神と結びつけられるために、より高き仲保(

höhere

Vermittlungen)を必要とするということである(R

1

, S. 301)。つまり仲保の観念のこ

とであるが、シュライアマハーはそれが有限なものと無限なものとの間において成し 遂げられると考える。したがって、彼にとっては、有限なものの中に神の本性

göttliche Natur

)が内在している、言わば有限と無限に属しているイエス・キリス

トの直観と感情においてその仲保の業が完成されたとするのである(R1

, S. 305,

306)。このようにしてシュライアマハーは、歴史上のイエスにおいて真に神的なもの を見出す22

 次に、「序論」において、この観念の問題は、贖いとの関連の下でより具体的に叙 述される。もちろん、この贖いは啓示概念とも絡み合って扱われる。シュライアマ ハーは可能な限り、伝統的な神学的概念を避けて贖いの事柄を論じており、この議論 の過程では何よりもまず人間の意識における「抑制」(Hemmung)を前提としてい る。 彼 に よ れ ば、 抑 制 と は、 人 間 に お け る「 感 覚 的 自 己 意 識 」(

das sinnliche Selbstbewußtsein)と「高次の自己意識」(das höhere Selbstbewußtsein)との統一が

阻止され、対立状態にあることを意味する(CG1

, §18, 3, S. 64-65;§18, 4, S. 66)。こ

れは伝統的神学用語をもって言うならば、罪に該当する。それは、「人間の神からの 疎遠」(

die Entfernung des Menschen von Gott, CG

1

,

§18

,

3

, S.

65)をもたらすもの である。そして、シュライアマハーにとって贖いとは、こうした感覚的自己意識と高 次の自己意識との統一を阻むものが止揚(Aufhebung)され、その対立状態が解消さ れ、更には、より良い状態がもたらされることを意味している。ここで彼は、すべて の人間は贖いを必要とするに至ったことを述べる(

CG

1

,

§18

,

3

, S.

64

-

65

;

§25

,

3

, S.

94)。こうした贖いの事柄と関連して、シュライアマハーは、キリスト教と他の諸宗 教を比較するにあたり、イエス・キリストの位格の特有性を明らかに論じていく。彼 によれば、このようなキリスト教における贖いに属するあらゆる事柄をキリストの活 動性に帰すことができるが、他方、ユダヤ教とイスラム教においてはその創始者に直 接 帰 す こ と が で き な い。 な ぜ な ら ば、 キ リ ス ト は「 絶 対 的 に 完 全 な 敬 虔 」

(schlechthin vollendete Frömmigkeit, CG1

, §18, 4, S. 66)を有しているが、他の宗教

創始者たちの場合は「贖いの不完全性」(die Unvollkommenheit der Erlösung, CG1

,

§18

,

3

, S.

66)を本質とするからである。

 キリスト教を含めたすべての敬虔共同体において、「あらゆる構成員の贖う影響」

(die erlösende Einwirkungen aller Mitglieder, CG1

, §18, 3, S. 66)は、その創始者の指

示から由来する。従って、キリスト教においても、イエス・キリストから導き出され

(8)

る贖いの影響は、あらゆる個別者から他の個別者に及ぶ。ユダヤ教ならびにイスラム 教の敬虔共同体においても、贖いは多様な仕方をもって現れる(CG1

, §, 18, 3, S.

66)。しかし、ユダヤ教ならびにイスラム教においては、その創始者を含めすべての 構成員には「種々の等級」(verschiedene Grade)がある。すなわち、内面に対立の 少ない人が対立の多い人に伝達を通して贖いの影響を及ぼす(CG1

, §18, 3, S. 65)。

シュライアマハーによれば、ユダヤ教ならびにイスラム教においては、その創始者を はじめその構成員すべてが「抑制」に措定されている。このことは、その創始者たち が贖いの根源でないことを示すものである。敷衍すれば、モーセは自分の民族的伝承 を描いた人物であり、マホメットはキリスト教の伝承やユダヤ教の伝承、そして古代 の他の伝承を組み立て、自分の宗教を造り出した人物(CG1

, §19, 2, S. 72)である。

つまり、彼らには常に「贖いの必要性」(

Erlösungsbedürftigkeit

)が存在しているの である(CG1

, §18, 3, 4, S. 65-67, 特に S. 67)。

 他方、イエス・キリストは、単に伝承されたものを教えたのでもなく、「メシア的 希望」(Messianische Hoffnungen)を新しい形態に実現したのでもない(CG1

, §19,

2

, S.

72)。イエス・キリストは、抑制が止揚された「完全な贖いの根源者」(

Gründer

einer vollkommen Erlösung, CG

1

, §18, 4, S. 66)であるが故に、彼自身の本性からも

贖いを必要としないし、更には他の如何なる存在者によっても贖いを必要としない

(CG1

, §18, 3, S. 66)。このように、シュライアマハーは、ユダヤ教ならびにイスラム

教との比較において、キリスト教の本質的相違性を、徹底にイエス・キリストによっ て成就された贖いの業に求める23。したがって、イエス・キリストを他の諸宗教創始 者と等しく、ただ歴史的人間の次元にのみ考えてはならない(CG1

, §19, 2, S. 72)。

このような観点から、シュライアマハーは、イエス・キリストの歴史上の出現を、全 人類に対する一つの転換点(

ein Wendepunkt, CG

1

,

§18

,

4

, S.

67)、つまり、すべての 個別的人間が自分の抑制を止揚しうる点であり、他の諸宗教がそこへと移行しなけれ ばならない点として受け止めるのである(CG1

, §18, 4, S. 67)

24

 このようにシュライアマハーは、『宗教論』ならびに「序論」において歴史上のイ エスを単なる歴史的人物としてのみに捉えず、イエスの位格における超歴史的側面を 見出すことにより、その「神」性と「人」性を緊密な関係の中で論じるために取り組 んでいることが分かる25

2.仲保者ならびに救贖者

 ここまで、シュライアマハーの理解においては、イエス・キリストは他の諸宗教創 始者と同様に実定宗教としてのキリスト教創始者でありつつ、他方では、彼らとは異

(9)

なる超歴史的な側面、つまり神的本性を有しているということを見てきた。つまりイ エス・キリストは純粋な歴史的存在であると同時に、そのうちに神的なものが内在し ている存在であるということである。次の問題として、仲保者ならびに救贖者という 観点から、イエス・キリストの位格における「神-人」性に関するシュライアマハー の理解を考察する。

2.1. 仲保者の特有性

 シュライアマハーの神学は、神の世界と人間の世界との分離状態を前提としてい る。彼の『宗教論』によれば、この状態とは人間(世界)の「宇宙からの疎遠」(die

Entfernung vom Universum)、すなわち伝統的神学用語をもって言うならば、これは

人間の堕落によってもたらされた疎遠である。その結果、あらゆる人間(世界)は仲 保者(der Mittler)を必要とする(R1

, S. 295)。「すべての有限なものはより高き仲保

を 必 要 と す る 」(R1

, S. 301)。「 す べ て の 有 限 な も の は、 よ り 高 き も の の 仲 保

(Vermittlung eines Höheren)を必要とする」(R1

, S. 302)。このために神は、神自身

と人間との間に直接仲保者を立てたのである。「神は神自身と人間の間により崇高な 仲保者を立てる」(R1

, S. 293)。言うまでもなく、仲保者にとっての重要な業の一つ

は、堕落した人間(世界)に贖いをもたらし、神と人間との間に和解を成り立たせる ことに他ならない。こうした和解について、シュライアマハーは「有限なものがこれ 以上宇宙から遠ざかり、空虚や虚無に散らされないように」、また「宇宙との結びつ き」を保ち続けるように、と表現する(R1

, S. 302)。真の仲保者はイエス・キリスト

であると受け止められるが、それはイエス・キリストの魂全体が生き生きとした「宇 宙の直観」で満たされているという彼自身の理解に基づいている。シュライアマハー によれば、常にイエス・キリストには仲保者としての意識が内在していた。その意識 と は、 自 分 の 宗 教 性(Religiosität) は 唯 一 無 比 と い う 意 識(R1

, S. 302)、 直 視

(Ansicht)26の根源性についての意識、そして自分自身を伝えることによって宗教を鼓 舞しうるという意識などである。これは、他ならぬイエス・キリストに内在している

「仲保者としての努めの意識であり、神性(神であること)の意識」(

das Bewußtsein seines Mittleramtes und seiner Gottheit, R

1

, S. 303)なのである。ここでシュライアマ

ハーは、イエスは単なる有限な存在に止まらず、神の本性(göttliche Natur)と有限 の本性(endliche Natur)とに共に属している存在であると強調する(R1

, S. 302-303;

S.

291)。これは、イエスは「神にして人」あるいは「人にして神」であるが故に、

仲保する資格や能力を有しているというシュライアマハーの理解であると解釈できる ものであろう。

(10)

2.2. 救贖者の特有性

 シュライアマハーにとって、キリスト教の固有性は贖いの性格において現れるが、

それは他ならぬナザレのイエスという仲保者の観念と結びつけられている27。上で見 たように、『宗教論』においては、イエス・キリストの位格が主に仲保の業との関わ りの中で仲保者として叙述されるが、「序論」においては、主に贖いの業との関わり の中で救贖者として叙述される。この仲保者と救贖者という性格をイエス・キリスト において挙げることは、矛盾することでもなく、あるいは全く別の観点から論じるこ とでもない。パネンベルク(W. Pannenberg)が指摘しているように、『宗教論』に おける仲保者の観念が、「序論」においてはナザレのイエスによって成就された贖い についての信仰と関連して一層具体化されているだけである。換言すれば、『宗教論』

でも贖いに関する思想は重要な事柄であったにもかかわらず28、それに関しては具体 的に取り上げられなかったが、「序論」では贖いとの関連でイエス・キリストの仲保 者としての業が更に詳しく論じられたのである29

 「序論」によれば、人間の本性は事実上の根元悪(positive Urbösen)30に捕らえら れている(

CG

1

,

§25

,

4

, S.

95)。この根元悪を別の表現で言うのが、すでに言及した 抑制である。人間の根元悪からの贖いは、シュライアマハーによれば、感覚的自己意 識と高次の自己意識とが全く一致した存在、すなわちイエス・キリストによってのみ 成し遂げられる31。キリストにおいては、その二つの自己意識が同一の状態であっ て、如何なる対立的抑制も有していないとされる(

CG

1

,

§18

,

4

, S.

66;本稿の注23参 照)。換言すれば、根元悪に捕らえられていない(CG1

, §25, 4, S. 95)、無罪の存在な

のである。そういう点でイエス・キリストは、「完全な贖いの根源者」(CG1

, §18, 4, S. 66; 本 稿、1. 2.

を 参 照 ) で あ り、「 贖 い の 本 来 的 な 出 発 点 」(der eigentliche

Anfangspunkt der Erlösung,

CG

1

,

§25

,

3

, S.

94)である。つまりシュライアマハーの 理解では、イエス・キリストは人類におけるすべての人を贖うことができる救贖者な のである(CG1

, §18, 4, S. 66; §23, Leitsatz, S. 90)。

 シュライアマハーは、救贖者としてのイエス・キリストの「神-人」性に関して、

古代の自然的諸異端(

natürliche Kezereien

)を反駁することによっても論じていく。

彼 は「 仮 現 説 」(Doketismus)、「 エ ビ オ ン 主 義 」(Ebionismus)32、「 マ ニ 教 」

(Manichäismus)、そして「ペラギウス主義」(Pelagianismus)などを取り上げる

(CG1

, §25, Leitsatz, S. 93)。シュライアマハーによれば、仮現説は、キリストが人間

の本性に参与することを仮現的なものとして説明することにより、キリストと我々と の本質的な同一性(wesentliche Gleichheit)を否定する。エビオン主義の場合は、キ リストの現存や性質を全く我々と同一視することにより、キリストの特有性を否定す

る(CG1

, §25, 3, S. 95)。ここでシュライアマハーは、仮現説の主張のように、もし

(11)

キリストと我々との間に本質的同一性がなければ、我々はキリストに向かって近づく ことができないし、またあらゆる個別的人間との関係におけるキリストの特有性も不 可能になってしまうと論じる。他方、エビオン主義の主張のように、もしキリストと 我々との間に本質的同一性のみが捉えられるならば、キリストも一般的な精神的相互 作用の領域に依存している存在であるが故に、他のあらゆる人に対するキリストの特 有な卓越さが不可能となり、結果的には、イエスにおいても贖いの必要性を問わなけ ればならないようになると論じる。シュライアマハーは、このような誤った諸異端を キリスト教的にも、教会的にも、相応しくないものとして退ける(CG1

, §25, 3, S. 94,

95)。

 以上見たように、シュライアマハーは、自己意識という人間の普遍的概念を用いる ことにより、イエス・キリストの歴史性・自然性を示すと同時に、その無罪性を通し て超歴史性・超自然性をも論証するのである。特に、シュライアマハーは古代の自然 的諸異端に対する反駁をもって、この論証を一層明確に裏付けようとしていることが 分かる。

3.根源的啓示

 シュライアマハーは、イエス・キリストの位格や業を啓示の視点からも捉えている が、これによって、歴史上のイエスの特有性が受肉した「神の子」という視点から一 層明らかとなる。ここでは、シュライアマハーが理解している啓示における超自然性 と自然性の密接な関係を探った後、その両面が、イエス・キリストの「神-人」性理 解においてもそのまま現われていることについて論じたい。

3.1. 啓示における超自然性と自然性

 シュライアマハーは、すでに『宗教論』において「啓示」(Offenbarung)につい て触れている。第5講話において、次のように述べる。「宇宙は絶え間ない活動の中に あって、毎瞬間、我々に自己を啓示する」(

R

1

, S.

56)。「啓示とは何なのか。それは宇 宙の根源的かつ新しい直観である」(R1

, S. 118)

33。宇宙が自分自身を啓示するという ことは、「序論」によれば、「神の直接的顕現」(eine unmittelbare Aeußerung Gottes)

のことであり(CG1

, §19, 3, S. 74)、より厳密な意味では、神が啓示において自分自

身を告知することである(

Gott in der Offenbarung sich selbst kund thut, CG

1

,

§19

,

3

, S. 75)。シュライアマハーにとっては、啓示が神の直接的顕現であるならば、それは

「超人間的意味」(ein übermenschlicher Sinn, CG1

, §19, 3, S. 74)、換言すれば、直接

性や超人間性(die Unmittelbarkeit und die Uebermenschlichkeit)を有していなけれ

(12)

ばならない(CG1

, §19, 3, S. 75)と理解される

34。つまり神の啓示は、如何なる事実 から(aus keiner Thatsache)も生み出されないし、人間の魂(menschliche Seele)

によって把握されるものでもない。もし、人がその啓示を知覚あるいは把握すること ができたとしても、それは不完全な、有効でないものにすぎないというのが、シュラ イアマハーの論旨である(CG1

, §19, 3, S. 75)。

 しかしながら、彼は、決してこの啓示における自然的な側面を看過しない。彼は次 のように述べる。「キリストにおける神的啓示は、絶対的に超自然的なものでも、絶 対的に超理性的なものでもあり得ない」(CG1

, §20, Leitsatz, S.

77)。その理由は、

シュライアマハーにとっては、一人の人間がキリストとして存在したということは、

「人間の本性」(menschliche Natur)の中に「神的なもの」(das Göttliche)を受け入 れたのであり、そうだとするならば、それは「自然的なもの」(

etwas natürliches

)で なければならないからである(CG1

, §20, 1, S. 79)。

3.2. 根源的啓示の特有性

 シュライアマハーにおける啓示理解は、受肉の思想との関連で具体化、本格化され る。『宗教論』の第5講話においては、「父を知る者は子、また子の欲するままに顕す ところの者のほかにない」(R1

, S. 302)

35という聖句が引用されている。ここで「子」

とは「神の子」としてのイエス・キリストを指すもので、その「子」は神、すなわち 父なる神を知っているということである。シュライアマハーはこの箇所を啓示の側面 から捉えるが、伝統的な三位一体論をもって言うならば「神の子」、すなわちイエ ス・キリストは神(父なる神)を啓示しうるということである36。この内容は、シュ ライアマハーの受肉に関する思惟において一層明らかとなる。『宗教論』によれば、

宗教講話の目的は、人々を「受肉した神」(

der Gott, der Fleisch geworden ist

)へと 案内することである。この受肉について、「自分の無限性を放棄し、往々みすぼらし い姿で人々の間に現れる宗教」、「天上の美を有している宗教」(R1

, S. 237, 238)等々

の表現をもって根源的啓示としてのイエス・キリストを説明する37

 このような受肉を通した啓示に関するシュライアマハーの叙述は、「序論」におい ても一層具体的、本格的に展開される38。ここで、彼は、イエス・キリストが「神の 子」(Gottes Sohn)(CG1

, §19, 2, S. 73)として啓示された存在であることを明確に

表わす。「神がペトロと彼の仲間たちに、イエスを『神の子』として啓示された」。そ して、『宗教論』における「受肉した神」について、「序論」においては「神の子の人 となること」(das Menschwerden des Sohnes Gottes)という表現をもって論じる。

シュライアマハーの叙述からすれば、受肉は他ならぬ「神的なものの現実的植え付 け」(die wirkliche Einpflanzung des göttliche)であり、特定の個別的人間における

(13)

「神的なものの時間的顕れ」(das zeitliche Hervortreten des göttliche)である(CG1

,

§20, 1, S. 79)。この受肉の出来事は、シュライアマハーによれば、全く神の永遠な 行為、すなわち根源的な「神意」(

göttlicher Rathschluß

)であり、それ故我々にとっ て そ れ は、「 内 的 な 普 遍 的 精 神 的( 霊 的 ) 生 の 最 も 深 遠 な 秘 義 」(das tiefste

Geheimnis des inneren allgemeinen geistigen Lebens)に属するものとなるのである

(CG1

, §20, 1, S. 79)。こうした受肉の出来事はシュライアマハーにとっては、イエ

ス・キリストにおける「根源的かつ本来的啓示の直接的作用」(

CG

1

,

§19

,

2

, S.

73)

と捉えられる。もちろん、これを自然的側面から捉えるならば、イエス・キリストは

「 あ ら ゆ る 啓 示 の 頂 点 」(Christus der Gipfel aller Offenbarung ist., CG1

, §19, 3, S.

75)、あるいは「最高の神的啓示」(die höchste göttliche Offenbarung)となるのであ る(

CG

1

,

§21

,

3

,

86)。

 このようにシュライアマハーにとっては、イエス・キリストは、超自然的な側面か らすれば、神から派遣された神であると同時に、自然的な側面からすれば、この上な い高次の啓示なのである39。ここでも、イエス・キリストの位格における「神」性と

「人」性の同時的、相互緊密な関係が論じられている。

結び

 『宗教論』ならびに「序論」に一貫して現れるイエス・キリストにおける「神-

人」性に関するシュライアマハーの理解について、イエス・キリストの業との関連で 考察してみた。そこで分かったのは、キリスト教の創始者としてのイエス・キリスト には歴史性と超歴史性が、仲保者ならびに救贖者としてのイエス・キリストには人間 的本性(人間であること)と神的本性(神であること)、また、有限性と無限性が、

そして根源的啓示としてのイエス・キリストには自然的側面と超自然的側面が同時 に、共に存在しているとシュライアマハーが受け止めているという点である。これら の両側面は、イエス・キリストの位格における「人」性と「神」性を現わすものであ るが、シュライアマハーはそれらを密接な関連の中で構想していると言える。ただ当 然のことであるが、その論理展開の形式上では「神」性と「人」性の中でどちらかを 優先的に論じざるを得ない場合がある。

 イエス・キリストにおける「神-人」性に関するシュライアマハーの構想と叙述の 意義は、聖書の証言やキリスト教の伝統的定式に忠実であったし、更には、彼の時代 における諸思想への対応にも忠実であった点にあると言える。まずは、聖書の証言と 関連して考えてみよう。「ヨハネによる福音書」1章14節を一つの例として挙げれば、

そこには「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見

(14)

た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」40と記さ れている。ここには、二つの重要な事柄が表れている。その一つは「言は肉となっ て」、すなわち神が人となったということであり、もう一つは「わたしたちの間に宿 られた」イエス・キリストはとりもなおさず「父の独り子」であるということであ る。前者はイエス・キリストは元々神であるという存在的見地からの証言であり、後 者はイエス・キリストは我々が歴史上で経験している存在にもかかわらず、そのイエ ス・キリストはとりもなおさず「神の子」、すなわち神であるという認識的見地から の証言である。『宗教論』ならびに「序論」に論じられている、イエス・キリストに おける「神-人」性に関するシュライアマハーの理解には、まさにこのような存在的 見地と認識的見地が同時に密接な関係をもって表されているのである。

 次は、キリスト教の伝統的定式との関連である。一つの例として、カルケドン信条

(Chalcedonian Creed, 451 A. D.)を挙げる。その本文の中には次のような文章があ る。「…一にして同一者なる御子…それ同一者は、神性において全く、…人性におい ても全く、まことに神にいまして、まことに人、同一者は人間固有の魂と体を備え、

神性によれば御父と同質、人性によれば同一者はわれわれと同質なり。…一にして同 一者なるキリスト、御子、主、独り子なる御方は、二つの本性において、混合なく、

変化なく、分割なく、分離なく、知られたもうなり。…」41。ここで、キリスト教の 伝統において最も重要視されてきた命題は、イエス・キリストは「まことに神にいま して、まことに人」、すなわち、一般によく知られている定式をもって言うならば

「真ノ神ニシテ、真ノ人」(vere Deus et vere homo)であり、また「二つの本性におい て、混合なく、変化なく、分割なく、分離なく」というその関係の規定であると言え るだろう。シュライアマハーが『宗教論』ならびに「序論」において、イエス・キリ ストにおける「神-人」性に関して論じた内容をこの定式に照らしてみれば、極めて それに忠実であることが分かる。すなわち、シュライアマハーはイエス・キリストは 父なる神と同質の「神」であり、他方、我々と本質的な同一性を有した「人」である こと、更には一つの位格においてその「神」性と「人」性が言わば混合・変化・分 割・分離のない関係をもって存在していることを描写することに力を入れているので ある。このことはシュライアマハーがキリスト論と関連した古代の諸自然的異端に対 し批判したことを通しても明らかとなっていると言えよう。そのようにして彼はイエ ス・キリストが我々と本質的同一性を有した人であり、他方我々とは本質的相違性を 有する神であることを論証したのである42。このようなイエス・キリストにおける

「神-人」性に関する理解は伝統的定式に忠実であるのはもちろんのこと、宗教改革 者たちのイエス・キリストにおける「神-人」性理解にも通じるものと言える43。  最後は、シュライアマハー当時の諸思想的背景との関連である。彼は、例えば、イ

(15)

エス・キリストの超自然的側面を強調するプロテスタント正統主義、イエス・キリス トの歴史性を強調する「史的イエス研究」、そしてイエス・キリストを理念的に捉え る理神論(

Deismus

)などに対し、近代的学問性をもって反論している。つまりシュ ライアマハーは、それらにおけるイエス・キリストの位格やその「神-人」性に関す る不十分な理解、あるいはどちらかに傾けられた理解に抵抗しつつ、聖書の証言やキ リスト教の伝統的定式に基づき、その健全な、正しい理解を弁証しようとしたのであ る。もちろんその結果、シュライアマハーの「神-人」性理解には、伝統的キリスト 教におけるキリスト論的定式には見出すことのできない種々の用語が用いられたこと も事実である。例えば、「抑制」とか「自己意識」とか「贖いの影響」などを挙げる ことができる。これらを通して明らかとなるのは、シュライアマハーの試みは単なる 伝統的定式の踏襲ではなく、あくまでもその定式の内実を守りつつもその当時の概念 を取り入れることによって、様々な思想の中でイエス・キリストやキリスト教を適切 に弁証していたということである。

 それでは、イエス・キリストにおける「神」性と「人」性の関係に関するシュライ アマハーの理解の特徴は何なのか。今までの研究における支配的な諸主張は、すでに 本稿の序論のところで言及したが、大別して言うならば以下のように言うことができ よう。すなわち、一つはシュライアマハーのアプローチは「上から」あるいは「下か ら」であるという、言わば「神」性と「人」性のどちらかを優先するとの立場(パネ ンベルク、シュトラウスなど)であり、もう一つは「神」性と「人」性が同時に扱わ れていると認めつつも、そのどちらかを強調するとの立場(キュンク、ペールマン、

マクグラスなど)である。しかし筆者はシュライアマハーの理解を、前者のように単 にアプローチの優先性をもって、または、後者のように単に並立関係における強調性 をもって網羅できるものとは考えない。その「神」性と「人」性における均衡的・調 和的関係のみならず、その間に内在している秘義性44まで見極めなければならない。

こうした視点から、イエス・キリストにおける「神」性と「人」性の関係についての シュライアマハーの理解は、「上から」あるいは「下から」でもなく、単なる「並立 関係」でもなく、むしろ<神秘的緊張-一致>(

mystische Spannung-Einheit

)の関 係であると捉えるのが適切であると考える45。これを更に敷衍して説明するならば、

ここで「緊張」というのは、「神」性(神の本性、完全な贖いの根源者、神の子など)

と「人」性(キリスト教創始者、人間の本性、人間との本質的同一性、自己意識の存 在など)は常に各々の固有性を保つということである。また、一致というのは「神」

性と「人」性とが交流する側面である。ここでは両者が密接な関係の中で絡み合って いて、事実上では両者を明確に見分けることはできない。このような「神秘的」な側 面が内在しているのである。もちろん、これは緊張と一致の関係そのものにおいても

(16)

現われる。この神秘的側面は、シュライアマハーの諸表現、例えば、「最も深遠な秘 義」、「体系でなく、敬虔な刺激に対する直接的表現」(本稿の注44参照)46などを通し ても十分分かるものである。このようなシュライアマハーのイエス・キリストにおけ る「神-人」性理解の特徴は<神秘的緊張-一致>の関係であると規定するほうが、

神学を信仰体験についての省察と捉える彼自身の思惟にも当てはまるのではないかと 考える。

*本稿は日本基督教学会近畿支部(2013年3月12日、於大阪短期キリスト教大学)で の発表に修正を加えたものである。

1 バ ル ト(Karl Barth, 1886-1968) は、 シ ュ ラ イ ア マ ハ ー の 神 学 を「 キ リ ス ト 中 心 主 義 」

(Christozentrismus)であると指摘する(K. Barth: Die Theologie und die Kirche, Gesammelte Vorträge, 2. Band, München 1928, 169)。すでに、シュトラウス(D. F. Strauß, 1808-1874)は、シュライアマ ハーの神学的省察すべてに一貫して支配しているのは「キリスト論」、すなわちキリストの位格の教 義 で あ る と 言 及 し た(B. A. Gerrish: A Prince of the Church; Schleiermacher and the Beginning of Modern Theology;『シュライエルマッハー:近代神学の父』、松井睦訳、新教出版社、2000、53頁参 照)。ノーヴァクは、「シュライアマハーの『信仰論』の中核はキリスト論である」という(K.

Nowak: Schleiermacher, Göttingen 2001, 278)。ちなみに、ニーバー(R. Niebuhr)は、シュライアマ ハーの神学を「キリスト形態的」(Christo-morphic)と呼ぶ(R. Niebuhr: Schleiermacher on Christ and Religion, New York: Charles Scribner’s Sons, 1964, pp. 210ff、特にp. 212を参照せよ)。

2 シュライアマハーは、「神性」や「人性」といった哲学的・本質的両性の概念を全く用いていないわ けではないが、主に「神」や「人」という位格的概念を好んで用いる。従って、本稿においては、一 般に用いられる「両性」とか「神性」や「人性」といった用語の代わりに、「神-人」性とか「神」

性や「人」性といった用語を創り上げて用いる。

3 パネンベルク(W. Pannenberg)、デンボーブスキー(H. Dembowski)、そして石井次郎を挙げるこ とができる。W. Pannenberg: Grundzüge der Christologie ;『キリスト論要綱』(麻生信吾、池永倫明 訳)、新教出版社、1982、24頁;H. Dembowski:Einführung in die Christologie, Darmstadt, 1976, 158, 166;石井次郎『シュライエルマッヘル研究』新教出版社、昭和23年(1948)、204頁以下を参照。と りわけ石井はシュライアマハーの『宗教論』と『信仰論』の「序論」が宗教哲学的性格を有している と受け止めているが、特に、『信仰論』の「序論」における「歴史的考察からのみ」という叙述に着 目 し て い る と 考 え ら れ る。 こ の 叙 述 の 内 容 に 関 し て は、Fr. Schleiermacher: KGA, 1/7, 1=Der christliche Glaube nach den Grundsätzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt

(1821/22), Teilband 1, hg. v. Hermann Peiter, in: Fr. Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt.

Band 7, 1. hg. v. Hans-Joachim Birkner…―Berlin/New York 1980(以下、CG1と略す)の §18, 5, S. 68 と Fr. Schleiermacher: Der christliche Glaube nach den Grundsätze der Evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt(1830/31), 7. Aufl., hg. v. Martin Redeker, [Erster Band], Berlin/New York 1999(以下、CG2と略す), I, §11, 5, S. 83を参照せよ。

(17)

4 シュトラウス、シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875-1965)などを挙げることができる。水垣 渉、小高毅(編)『キリスト論論争史』、日本キリスト教団出版局、2003、463頁。

5 H. Fischer: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, München 2001, 132, 133.

6 キュンク、ペールマン、マクグラスなどを挙げることができる。한스 큉그리스도교: 본질과

역사』(이종한 ), 경북: 분도출판사 , 2002, 864-865〔H. キュンク『キリスト教:本質と歴史』

( イ・ ジ ョ ン ハ ン 訳 )、 慶 北: ブ ン ド 出 版 社、2002、864 ‐ 865頁 〕;H. G. Pöhlmann: Abriss der Dogmatik, Ein Kompendium; 『現代教義学総説』[新版](蓮見和男訳)、新教出版社、2008、313頁;A.

McGrath: The Making of Modern German Christology ;『歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ド イツにおけるキリスト論の形成』(柳田洋夫訳)、キリスト新聞社、2011、60頁以下参照。ここでのキ リストを原型として捉えることは、啓蒙主義の合理主義における理想的存在として捉えることとは異 なる。それは働きかける存在としての原型を意味するからである。

7 Fr. Schleiermacher: Über die Religion; Reden an die Gebildeten unter ihren Verächtern(1799), 7. Aufl.

Göttingen 1991(以下、R1と略す);高橋英夫訳『宗教論:宗教を軽んずる教養人への講話』筑摩書

房、1991;佐野勝也・石井次郎共訳『宗教論』岩波書店、1995。以下『宗教論』とは、『宗教論』(第 1版)を指す。

8 CG1;本稿の注3を参照せよ。.

9 以下、『信仰論』(第1版)の「序論」を「序論」と表記する。ちなみに、『信仰論』(第1版)は「序 論」(§§1-35)、「第1部」(§§36-76)、「第2部」(§§78-106)に分けられている。§77が欠けてい る理由は、§68が二つ(§68 aと §68 b)に分けられているからである。CG1の編集者の注を参照。

10 シュライアマハーの後期のイエス・キリストにおける「神-人」性理解に関しては、特にCG2, II, § 92ff., S. 31ff.を参照せよ。

11 A. McGrath: The Making of Modern German Christology ;『歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代 ドイツにおけるキリスト論の形成』、61頁参照。

12 シュライアマハー当時の諸思想の中で、幾つか主なものだけを挙げるならば、プロテスタント正統主 義、啓蒙主義的合理主義、カント(I. Kant, 1724-1804)やレッシング(G. E. Lessing, 1729-1781)等 による神学の哲学化傾向、聖書学による「史的イエス研究」、そしてロマン主義などである。ヨー ロッパの啓蒙思想の状況とキリスト論との関わりについては、栗林輝夫、西原廉太、水谷誠『総説  キリスト教史3; 近・現代篇』日本キリスト教団出版局、2007、170頁以下;水垣渉、小高毅(編)

『キリスト論論争史』、441頁以下;K. Clements: Friedrich Schleiermacher; Pioneer of Modern Theology, London: Collins, 1987, pp. 7ff.を参照。

13 ゲリッシュによれば、シュライアマハーの時代において初めてキリスト教と諸宗教との関係が問われ 始めるようになったという。その際、理神論者たちは人道主義に立つ共通宗教(common religion)

を求めたが、これは排他的啓示による救い(贖い)を強調する伝統的な主張への反動であった。B. A.

Gerrish: A Prince of the Church; Schleiermacher and the Beginning of Modern Theology;『シュライエル マッハー:近代神学の父』、60、61頁。

14 「序論」におけるシュライアマハーの学的分類からすれば、敬虔(あるいは宗教)一般の共通的なも のを通して、敬虔の本質究明を課題とするのが「宗教哲学」(Religionsphilosohie)であり、諸敬虔の 間の比較を通してキリスト教の固有性を究明することを課題とするのが「弁証学」(Apologetik)で ある。更に、イエス・キリストの位格における<有限性-無限性>、すなわち「神-人」性やその業 における<贖い>などを扱うのがキリスト教の「本来的教義学」(eigentliche Dogmatik, CG1, §18, 4, S. 66)である。「弁証学」は、後に「哲学的神学」(philosophische Theologie)という用語に変わっ

(18)

て用いられるが、厳密な意味では、シュライアマハーにとって「哲学的神学」と「本来的教義学」と の間には、その事柄が重なるところもある。とりわけ「教義学」は、全くキリスト教内部に向けた、

すなわちキリスト者にその信仰を説明するための学である。CG1, §1, 3, S. 11; CG1, §7, 2, 3, S. 24-25;

CG1, §18, 5, S. 68参照。

15 「創始者」という用語は、シュライアマハーのテキストではStifterあるいはUrheberが用いられてい る。

16 「序論」では、実定宗教は共同体であり、自然宗教は共同体でないと規定される。CG1, §19, 1, S. 70.

17 一神教という言葉は「序論」には現われるが、『宗教論』には現れない。また、「序論」においては一 神教としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教が取り上げられているが、『宗教論』においてはユダ ヤ教とキリスト教のみが取り上げられている。『宗教論』の第5講話とCG1, §18, 1, S. 61を参照せよ。

18 CG1, §18, Leitsatz, 1, S. 61; §16, 3, S. 57参照。

19 シュライアマハーがイエス・キリストの歴史性を強調するのは、その超歴史性や理念の次元を強調す るプロテスタント正統主義ならびに理神論(Deismus)に対する反論として捉えられよう。

20 一般に、Erlösungは狭義では「贖い」(あるいは贖罪)、広義では「救い」に訳される。ここでは、

イエス・キリストにおける抑制(罪)の克服という観点から、前者の意味で用いる。

21 高橋英夫訳『宗教論:宗教を軽んずる教養人への講話』、236頁参照。

22 シュライアマハーは『イエス伝』においても、キリストの生の契機や行為や行動などの個別的な事柄 のみならず、その歴史的関連で考察されるすべては、純粋に人間的に把握され得なければならない し、また同時に、その内面的なものであった神的なものの表出と作用として把握され得なければなら ないと述べる。H. Fischer: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 131参照。

23 シュライアマハーは、キリスト教における敬虔の特有な形態をナザレのイエスの位格を通した贖いの 意識から見出す(CG1, §18, Leitsatz, 1, S. 61)。また、イエス・キリストには如何なる抑制も措定さ れてないとか、イエス・キリストにおいては対立が完全に止揚されたと論じる(“in ihm selbst keine Hemmung gesezt”, CG1, §18, 3, S. 66;“gar keine Hemmung statt finden”, CG1, §18, 4, S. 66;“eine völlige Aufhebung jenes Gegensazes”, §18, 3, S. 66)。

24 こうした思惟に基づいて、シュライアマハーは、キリスト教を最も完全な敬虔共同体と見なす(“das Christenthum sei die vollkommenste fromme Gemeinschaft”, CG1, §18, 3, 66)。

25 ライマールス(H. S. Reimarus, 1694-1768)の影響の下で行われてきた単なる歴史的イエスの描写へ の反駁であろう。

26 ここでAnsichtは、「直観」とも訳し得るものと考えられるが、シュライアマハーの『宗教論』にお

ける中心概念の一つであるAnschauung(直観)と区別するために「直視」と訳した。

27 한스 큉(이종한 역)『그리스도교: 본질과 역사』, 872;〔H. キュンク『キリスト教:本質と歴史』

(イ・ジョンハン訳)、872頁〕。

28 『宗教論』における贖いに関する思想は、R1, S. 291を参照せよ。そこでは「堕落(滅亡)と贖い」、

「(神との)敵対関係と仲保」というキリスト教における根本直観の両面が叙述される。

29 Wolfhart Pannenberg: Problemgeschichte der neueren evangelischen Theologie in Deutschland, Göttingen 1997, 72-73.

30 ここでpositivは、「事実上-歴史上」(faktisch-geschichtlich)という意味合いを有していると考えら

れる。M. Junker: Das Urbild des Gottesbewußtseins; Zur Entwicklung der Religionstheorie und Christologie Schleiermachers von der ersten zur zweiten Auflage der Glaubenslehre, Berlin/New York 1990, 115参照。

31 シュライアマハーにおける贖いの概念について、フィッシャーは「新約聖書の諸証言を通して我々に

(19)

伝えられたイエスの影響力についての教義的総和である」と述べる。Fischer: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 129-130. また、ノーヴァクは、「贖いの概念を一層明確に規定すること、それは『信 仰論』におけるキリスト論的中心について強く心に留めさせることであり、教会としてのキリスト信 仰の共同体を特徴づけることである」と述べる。Nowak: Schleiermacher, 273.

32 シュライアマハーは、エビオン主義を「ナザレ派」(Nazoräer)[ナザレ派的異端(Nazoräisches)]

と同様の性格を有しているものと見なしている。

33 R1, S. 205参照。

34 ここで所謂啓示宗教と自然宗教や理性宗教との根本的相違が現れるのである。CG1, §19, 3, S. 74。

35 高橋英夫『宗教論:宗教を軽んずる教養人への講話』、237-238頁。「マタイによる福音書」11章27 節;「ルカによる福音書」10章22節の聖句をシュライアマハーが引用したものである。

36 シュライアマハーによれば、キリスト教における三位一体は子(救贖者)と聖霊との関係の中で言及 されなければならない。こうした指摘から見ても、救贖者としての神の子は神として捉えられている ことが分かる。CG1, §17, 2, S. 59-60; §19, 1, S. 71.

37 ここで言及されている宗教というのは、直接に一般に言われている諸実定宗教を指すものではなく、

根源的啓示であるイエス・キリストにおける有限と無限との関係をめぐった事柄が構想されているも のと推察される。

38 ビルクナー(H.-J. Birkner)は、『宗教論』と『信仰論』の間の啓示概念の変化を指摘している。すな わち『宗教論』においては宇宙の直観が啓示である一方、『信仰論』においては救贖者としてのイエ ス・キリストにおける絶対的かつ完全な形態が啓示であるという。しかし、もちろんこれは啓示の内 容が変わったという意味ではない。H.-J. Birkner. “Offenbarung”, in: Schleiermachers Glaubenslehre, in:

Schleiermacher-Studien, hg. v. Hermann Fischer, Berlin/New York 1996, 89.

39 常にシュライアマハーは、キリスト教の教説内容には「理性的なもの」と「超理性的なもの」とが並 んで存在していると考える(“die christliche Lehre bestehe aus vernünftigem und übervernünftigem

neben einander.”, CG1, §20, 2, S. 79)。したがって、キリスト教の教説におけるあらゆる個別命題は

「超理性生」(Uebervernünftigkeit)と「合理性」(Vernunftmäßigkeit)とを有している(CG1, §20, 2, S. 79, 80-81)。

40 新共同訳。

41 渡辺信夫『古代教会の信仰告白』、新教出版社、2002、232頁参照。

42 ちなみに、北森嘉蔵は、イエス・キリストの受肉における超越性と内在性を述べているが、神の人間 との連帯化という側面からイエス・キリストの内在性を、イエスの無罪性からその超越性を論じる。

それをもって、北森はイエス・キリストの「神-人」性を論証する。北森嘉蔵『聖書百話』講談社、

2002、102、103頁。

43 とりわけ、J. Calvini: Instituo Christianae Religionis;『キリスト教綱要;第1篇・第2編』〔改訳版〕(渡 辺信夫訳)、新教出版社、2007、505頁以下。特に、仲保者、受肉した救贖者については12章、イエ ス・キリストの位格における「人性」については13章、「神性」と「人性」の一致については14章を 参照せよ。

44 シュライアマハーは、イエス・キリストに関連した受胎、復活、昇天といった事柄を否定しない。

シュライアマハーにとってキリストの位格と関連する事柄は「本来的意味における教説」に属し、そ の超自然的な事柄は「非本来的意味における教説」に属する。そして後者の事柄を「神話」として扱 うことは、適切でないと述べる(CG1, S. 117, 118, §33, Zusaz, b, d)。シュライアマハーは、キリスト 教の教説、神学における「超自然的」(übernatürliche)な側面を認めている(CG1, S. 86, 87, §21,

(20)

3)。

45 た だ し、 バ ル ト は、 シ ュ ラ イ ア マ ハ ー の 学 的 作 業 に お け る 方 法 論 的 特 徴 を「 緊 張 の 一 致 」

(Spannungseinheit) と い う 言 葉 を 用 い て 否 定 的 に 捉 え た こ と が あ る。Heinz Bolli(Hg.): Schleiermacher–Auswahl; Mit einem Nachwort von Karl Barth(1968), 2. Aufl., Gütersloh 1980, 300. ち なみに、ここで私が言う「神秘的」というのは「神秘主義」の意味ではなく、キリスト教の教説の事 柄における逆説的な側面、超自然的な側面などを指すものである。

46 このことは、シュライアマハーが、イエス・キリストの位格や「神-人」性を聖霊論的視点から理解 していると解釈することができるものでないかと考える。ノーヴァクは、シュライアマハーのイエ ス・キリスト理解において、イエスの体における聖霊の働きを読み取ろうとする。「聖霊がイエスに 有機的体(Organisation)を与え、その肉体と魂(霊魂)との結束を保った」という。しかし彼は シュライアマハーのキリスト論的方法を本格的には論じていない。K. Nowak: Schleiermacher, S. 279.

(21)

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