カントにおける純粋活動性と自由
著者 林 克樹
雑誌名 人文學
号 179
ページ 121‑138
発行年 2006‑03‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000008542
カ ン ト に お け る 純 粋 活 動 性 と 自 由
林 克 樹
カントは﹃道徳形而上学原論︵GrundlegungzurMetaphysikderSitten︶﹄︵以下﹃原論﹄と略記︶において﹁自由﹂
の概念に依拠して﹁道徳性﹂を演繹することを試みている︒自分が自由であることをわれわれに確証させるとしてカ
ントがもち出したものは︑﹁純粋活動性︵reineTätigkeit︶﹂の﹁感じ︵Gefühl︶﹂︑いわば作用の自己意識である︒しか
しカントはやがてこの着想を放棄し︑﹃実践理性批判﹄では﹁道徳性﹂は﹁自由の意識から理屈をこねて案出するこ
とはできない﹂と断言される︒作用の自己意識においては﹁自由﹂の自覚は成立しないこと︑﹁純粋活動性﹂と﹁自
由﹂は本質的に相違することが見て取られたのである︒小論が問いたいのはそれがいかなる相違であるかである︒第
一節では︑﹁道徳性﹂を演繹するカントの試みにおいて﹁純粋活動性﹂の概念がどのような役割を果たしたかを考察
するとともに︑その問題点を指摘する︒第二節では︑﹁道徳性﹂の演繹の試みの挫折がもたらした﹁理性の事実﹂の
問題構制がいかなるものであるかを考察し︑この問題構制において︑﹁道徳性﹂の原理に対する﹁関心﹂がなぜ諸他
の感性的動機をつねに圧倒し凌駕しうるのかがはじめて明らかになるということを示す︒第三節では︑﹁自由﹂は
﹁意志的自己﹂の立場において成立するが︑それは意志作用の自己意識の立場ではないこと︑そこにあるのは﹁要求﹂
― 1 2 1 ―
カントにおける純粋活動性と自由
と﹁同意﹂という深く意志的な呼応関係であることを指摘する︒
一︑純粋活動性
﹃原論﹄においてカントは﹁われわれは道徳性の確固とした概念を︑最終的に自由の理念に帰着させた﹂︵IV,448︶
と述べる︒﹁道徳性﹂は通常の理性認識においてすでに明らかではあるけれども︑哲学的理性認識において﹁確固と
した概念﹂として形成された﹁道徳性﹂は﹁自由﹂の理念に帰着する︒というのも﹁道徳性の原理﹂はひとつの綜合
的命題︑﹁端的に善い意志は︑その格律が︑普遍的法則と見なされる自己自身をいつも自分のうちに含むことができ
るような意志である﹂︵IV,447︶という命題によって表現されるが︑この命題の述語部分は﹁自己自身を普遍的法則
としてもまた対象としてもつことができるような格律以外のいかなる格律にしたがっても行為しないという原理﹂
︵ibid.︶を意味しており︑それは畢竟﹁意志はすべての行動においてそれ自身法則である﹂︵ibid.︶という命題︑意志
の自律の命題に他ならないからである︒ところで︑かの綜合的命題の述語部分に置かれた﹁原理﹂は﹁定言命法の法
式﹂に他ならないが︵ibid.︶︑カントはさらに︑なぜこの原理に服従すべきであるか︑換言すれば﹁道徳法則は何に 基づいて拘束するのか﹂︵IV,450︶を問おうとする︒つまり︑﹁道徳性﹂の演繹を企てる︒しかし︑そのためには︑
﹁道徳性﹂の概念が帰着する﹁自由﹂は単に考えられるというだけでなく︑何らかの意味において確証されなければ
ならない︒さもなければ︑カント自身が指摘するように︑﹁われわれは︑自分を道徳法則のもとにある目的の秩序の
中で考えるために︑自分を作動する原因の秩序において自由と想定し︑しかも︑われわれは自分に意志の自由を添え カントにおける純粋活動性と自由
― 1 2 2 ―
たという理由で︑自分をこの法則に服従すると考える﹂︵IV,450︶という﹁循環﹂に陥ることになるであろう︒
﹁循環﹂を回避するためにカントが見出した﹁方途︵Auskunft︶﹂︵ibid.︶とは︑﹁われわれが自分を自由によってア
プリオリに作動する原因と考えるときには︑自分自身を目の前にある結果としてのわれわれの行動に即して表象する
ときとは異なった立場をとっているのではないか︑と尋ねること﹂︵ibid.︶である︒つまり自己自身を﹁物自体﹂と
して﹁叡智的世界﹂に属すると考える可能性を探るのである︒それによって﹁定言命法﹂においてわれわれが従うべ
きかの﹁原理﹂がわれわれにとって必然的にもたざるをえない﹁関心﹂︵IV,449︶の対象であり︑﹁⁝⁝べし︵Sol- len︶はもともと欲する︵Wollen︶である﹂︵ibid.︶ということが示される︒感性的な動機とは全く異質な﹁関心﹂が
存在するということは明らかである︒﹁道徳性﹂のかけらも示さないような﹁極悪な人間﹂が自分の傾向性と衝動の
ままにふるまうとき︑﹁彼はそれでもその際︑同時に彼自身にとって煩わしいそのような傾向性から自由でありたい
と願っている﹂︵IV,454︶︒
しかし︑これだけであれば︑かの﹁方途﹂は﹃純粋理性批判﹄の超越論的弁証論における自由が不可能でないこと
の証明と同様に消極的である︒﹃原論﹄におけるカントの立場の固有性は︑われわれが自分を﹁叡智的世界﹂に属す
ると考える可能性の根拠を︑いわば作用の自己意識に求めている点にある︒すなわち︑﹁一つの認知︵Bemerkung︶ があり︑それを行なうのに細密な熟考は何ら必要でなく︑最も普通の悟性でさえも︑それが﹃感じ︵Gefühl︶﹄と呼
んでいる判断力の曖昧な識別によって︑それなりの仕方でその認知を行なうであろうと想定することができる﹂︵IV,
450f.︶︒それは﹁われわれにどこか他から与えられ︑その際われわれが受動的である表象と︑われわれがもっぱら自 分自身から生み出し︑その際われわれが自分の活動性を証示する表象とのあいだの目立った相違﹂︵IV,451︶に気づ
― 1 2 3 ―
カントにおける純粋活動性と自由
くことである︒前者の表象については︑われわれは﹁⁝⁝単に現象の認識に到達できるだけであり︑決して物自体の 認識には到達できない﹂︵ibid.︶︒それに比べて後者の表象については︑なるほど﹁物自体﹂の﹁認識﹂に到達できな
いという点では変わるところはないが︑人間は﹁この単なる現象から合成された自分自身の主観の性状を超えて︑根
底にある何か別のものを︑すなわち自身がそれ自体で具えているであろうような自分の自我を想定しなければなら
ず︑⁝⁝自分の中で純粋活動性であるようなもの︵感性の触発によってでは全くなく︑無媒介に意識に到達するも
の︶に関しては⁝⁝叡智的世界に数え入れられなければならない﹂︵ibid.︶︒このように﹁無媒介に意識に到達するも
の﹂である自己の﹁純粋活動性﹂が﹁自分を作動する原因の秩序において自由と想定する﹂ことの︑換言すれば自己
を﹁叡智的世界﹂に属すると考えることの根拠となっているのである︒
しかし︑カントはこの魅力的に思える考えをやがて捨てることになり︑﹃実践理性批判﹄では﹁自由﹂から﹁道徳
性﹂を演繹する﹁方途﹂は塞がれる︒D・ヘンリッヒによれば︑﹃原論﹄第三部は︑遺稿のレフレクシオーンにおい
て繰り返し行なわれ︑悉く挫折した︑﹁道徳性﹂を理論理性から演繹しようとする試みの最後の﹁残響﹂なのであ
る
盧だ接に演繹しようとしたけらでなく︑﹁悟性と善の直か︒のカントは﹁道徳法則﹂拘性束力の実在性を理論理理
念とのあいだの中間概念﹂である﹁自由の理念﹂に依拠する間接的演繹をも試みていた
盪︒その際もち出されるの は︑﹃原論﹄において﹁純粋活動性﹂の別名ともなっている﹁自己活動性︵Selbsttätigkeit︶﹂︵IV,452︶の概念であ
る︒カントは言う︒﹁自由は本来︑意識されている自己活動性であるのみである︒何かを思い浮かべるならば︑それ
は自己活動性の作用︵actus︶である︒⁝⁝﹃私は考える﹄という表現はすでに︑私は表象にかんがみて受動態では
ないこと︑表象は私自身に帰せられていること︑︹受動態とは︺反対のことが私に依存していることを指し示してい カントにおける純粋活動性と自由
― 1 2 4 ―
る﹂︵XVII,462f.︶
erActusd蘯で自統覚﹂である﹁発源性の作用︵ここ的根はと﹁私は考える﹂い﹁うこと︑すなわ︒ち
Spontaneität︶﹂︵III,132︶が作用としてのすべての表象の起点であると述べられている︒すべての﹁表象﹂は﹁私に
帰せられている﹂かぎり︑私はそれに責任を負っている︒したがって﹁⁝⁝自我は諸々の行動の根拠の終点を証明す
る﹂︵XVII,511︶
盻の﹁物自体﹂として﹁ろ自分の自我﹂が想定にこ︒も﹃原論﹄において﹁と純粋活動性﹂のあるさ
れていたが︑これは﹁根源的統覚﹂の﹁自発性﹂を﹁超越論的自由﹂の開示と見ることでもある︒そのあたりの消息
をカントの次の言葉が明かしている︒﹁私には超越論的自発性︵spontaneitastransscendentalis︶あるいは絶対的自由︵lib- ertasabsoluta︶があるのかどうか︒ここで自我が再び助けてくれるにちがいない︒⁝⁝自我は︑私が行為するという こと︑私は原理であり導出されたもの︵principiatum︶ではない⁝⁝ということを証明する︒私は考える︑私は行為
する等々と私が言う場合︑自我という語が誤ってもち出されているか私が自由であるかのどちらかである︒⁝⁝人間
が自由でないとしたら︑実践的な客観的命題は意味をもたないことであろう﹂
眈︒
﹁根源的統覚﹂において﹁物自体﹂としての私が開示されているということ︑そこでこそ﹁超越論的自由﹂は単に
考えられるだけでなくリアルであること︑これはカントの確信であったようにさえ見える︒しかし︑少なくとも公刊
された著作では︑たとえば﹁単なる思惟における私の自己の意識において私は存在体そのものであるが︑もっともそ
れ︹自己の意識︺によっては存在体そのものについて何ものも私の思惟には与えられていない﹂︵III,429︶という言
明からも分かるように︑その確信は積極的には語られない︒レフレクシオーンで言及された﹁諸々の行動の根拠の終
点﹂は﹁根源的統覚﹂の﹁自発性の作用﹂の中には見定められない︒ヘンリッヒが﹁純粋理性の誤謬推理﹂の章を念
頭に置きながら述べているように︑﹁思惟の主観は物質にも由来しうる﹂
眇︑﹂性動活粋純﹁とのるすうそ︒るあでへ
― 1 2 5 ―
カントにおける純粋活動性と自由
の気づきに基づいて自己を﹁叡智的世界﹂に属すると考えることは不可能であることになる︒それは﹁自由﹂を確証
した上で﹁道徳性﹂を演繹することが不可能であるということでもある︒この認識こそ︑﹃実践理性批判﹄における
﹁理性の事実﹂という問題構制をもたらすのである︒ヘンリッヒと共に言うなら︑﹁すべての思惟の第一の確実性か
ら︑自己意識から道徳的促し︵sittlicheForderung︶を理解することが不可能であるなら︑それは純粋な事実性として
甘受されなければならない﹂
眄︒
しかし︑これから詳細に論じるように︑﹁当為﹂は本来﹁意欲﹂であるという︑﹁純粋活動性﹂に依拠する手前でカ
ントがもっていたと思われる根源的洞察は︑﹁理性の事実﹂の問題構制においてむしろ鮮明になる︒加えて︑そこで
は作用の自己意識よりも一層深い自覚が成立することになる︒カントは﹃純粋理性批判﹄において︑﹁思弁の自負
︵Eigendünkel︶を︑謙譲ではあるがしかし根本的な自己認識に連れ戻すこと﹂︵III,763︶に﹁世界概念﹂としての哲
学の課題を見ていたが︑﹁理性の︵という︶事実﹂を甘受することこそ︑その課題を誠実に成し遂げることであろ
う︒ヘンリッヒも言うように﹁学の﹃目のくらんだ﹄優位は再び消えうせ﹂
眩ソれさ舞鼓にール︑﹁はで味意るあた
カント﹂に戻ったのである︒﹁⁝⁝学は無条件に価値のあるものではない︒そしてそれは︑人間がそれに基づいて生
き︑そこにおいて理性が︑真理の中にあるという確信をはじめて獲得する根拠に届かない﹂
眤︒次節においては︑﹁自
由﹂の認識根拠である﹁道徳法則の意識﹂︑すなわち﹁理性の事実﹂はいかなる意味で﹁根本的な自己認識﹂である
かを考察したい︒ カントにおける純粋活動性と自由
― 1 2 6 ―
二︑理性の事実
﹃実践理性批判﹄においてカントは言う︒﹁この根本法則の意識を理性の事実︵FaktumderVernunft︶と呼ぶことが
できる︒なぜならそれは理性に前もって与えられている与件から︑たとえば自由の意識から理屈をこねて案出する
︵herausvernünfteln︶ことができず︵というのもそういう意識はわれわれに前もって与えられていないので︶︑それ自
身だけでわれわれに︑純粋なものであれ経験的なものであれいかなる直観にも基づいていないアプリオリな綜合的命
題として迫ってくるからである⁝⁝﹂︵V,31︶︒ここで言う﹁この根本法則﹂とは﹁道徳法則﹂である︒また︑その
﹁意識﹂とは理論的認識における対象化的な意識ではない︒﹁道徳法則﹂は﹁︵われわれが意志の格律を立てるやいな
や︶われわれが無媒介に意識するようになるもの﹂︵V,29︶である︒それゆえ﹁道徳法則の意識﹂とは意志の規定根
拠である︒前節で見たように︑カントは﹃原論﹄において﹁道徳法則は何に基づいて拘束するのか﹂を問おうとし
て︑確証される﹁自由﹂からの演繹を試みた︒しかしカントは先の引用文中でまさにそれを否定している︒意志の規
定根拠である﹁道徳法則の意識﹂は﹁自由の意識から理屈をこねて案出することはできない﹂のである︒﹁道徳法則﹂
が﹁最初にわれわれに現れる﹂︵ibid.︶のである︒それを否定しようとしてもどこまでも﹁われわれに迫ってくる﹂︒
ここに案出されたものではない﹁事実性﹂がある︒
ところでL・W・ベックは︑﹁理性の事実﹂というときの﹁の︵der︶﹂は﹁目的格的属格︵genitivusobjektivus︶﹂で はなく︑﹁主格的属格︵genitivussubjektivus︶﹂であると解釈している
眞実いと性理﹁はと﹂事︒の性理﹁︑合場のそう
― 1 2 7 ―
カントにおける純粋活動性と自由
事実﹂であることになろう︒この解釈が妥当であることは︑カント自身の次の言明によっても明らかである︒﹁⁝⁝
この法則を誤解なく与えられていると見なすためには︑それは経験的事実ではなく︑理性がそれをとおして自己を根
源的に立法的︵かく欲し︑かく命ずるsicvolo,siciubeo︶として告げる純粋理性の唯一の事実である︑ということ によく注意しなければならない﹂︵V,31︶︒つまり︑﹁理性の事実﹂とは︑感性の受容を悟性が綜合して成立する認識
の対象の場合のように理性に対して先行して与えられているのではなく︑理性が理性自身に自己を告知することなの
である︒それゆえこの場合の﹁事実性﹂とは︑理性が自己自身に無力に引き渡されていること︵ハイデガーの被投
性︶を意味すると言ってもよいであろう︒しかし︑理性が理性自身に自己を告知するとはいかなることか︒それは
﹁かく欲する﹂という純粋意欲としての理性の当体があらわになることである︒﹁かく命ずる﹂こと︑すなわち﹁道徳
法則﹂の拘束性はそこにのみ由来する︒これは︑﹁当為﹂は本来﹁意欲﹂であるという﹃原論﹄に存在した洞察と同
じものである︒傾向性と衝動のままにふるまうわれわれはその只中において﹁そのような傾向性から自由でありたい
と願っている﹂︒この﹁願い﹂は﹁信﹂の言葉としてこの上なく明らかではあるが︑﹃原論﹄ではなにゆえにそれが感
性的諸動機をつねに凌駕し圧倒するのかは解明されていなかった︒﹃実践理性批判﹄の﹁純粋実践理性の動機につい
て﹂の章はまさにその問いに答えようとするものである︒
カントは言う︒﹁いかにして法則がそれだけで意志の規定根拠となりうるか︵これはしかしすべての道徳性の本質
である︶︑ということは人間の理性にとっては解きがたい問題であり︑それはいかにして自由な意志が可能であるか
ということと同じである⁝⁝︒それゆえわれわれは︑道徳法則がそれに基づいてそれ自身において動機の役割を果た
す根拠をではなく︑道徳法則が動機であるかぎりにおいて︑この動機が心の中で引き起こす︵よりよく言えば︑引き カントにおける純粋活動性と自由
― 1 2 8 ―
起こさざるをえない︶ものをアプリオリに示さなければならないであろう﹂︵V,72︶︒すでに見たように﹁道徳法則
の意識﹂は無媒介に意志を規定する﹁理性の事実﹂であり︑われわれはそれを甘受しなければならないのであった︒
いまや問われるのは﹁道徳法則の意識﹂の﹁作用結果︵Wirkung︶﹂︵V,75︶である︒それは﹃原論﹄で問題にされて
いた﹁自己自身を普遍的法則としてもまた対象としてもつことができるような格律以外のいかなる格律にしたがって
も行為しないという原理﹂に対する﹁関心﹂であり︑﹃実践理性批判﹄では﹁道徳法則に対する尊敬の感情﹂︵ibid.︶
と呼ばれる︒問題となっているものが﹁感情﹂であるかぎり︑﹁カント倫理学が提起する最大の問題は⁝⁝︑﹃いかに
して意志からすべての感受的︵pathologisch︶な要素を除去し︑それを全く含まない義務の純粋な形式を取り出すこ
とができるか﹄ではなく︑﹃いかにしてこの義務の純粋な形式が感受的な要素として︑つまりわれわれの行動の駆動
力︑あるいは誘因として機能しうるか﹄である﹂
眥は︑しだた︒るあで切適く全摘と指のチッチンパュジ・Aういカ
ントが明らかにするのは︑われわれの行為の﹁感受的な要素﹂︑﹁駆動力﹂には傾向性における感性的諸動機の原因と
は全く異なる︽原因︾が存在するということであり︑それゆえ﹁かく欲する﹂純粋意欲は傾向性における欲求と同じ
仕方では充足されないということである︒
ところで︑﹁道徳法則による意志規定の本質は︑意志が自由な意志として︑したがって感性的衝動の協働がないと
いうだけでなく︑自らすべての感性的衝動を拒絶し︑傾向性がかの法則に反対しうるかぎりすべての傾向性を拒絶し
て︑単に法則によってのみ規定されるということである﹂︵V,72︶︒そうすると﹁道徳法則の意識﹂の﹁作用結果﹂ は︑われわれにはまずもって﹁苦痛﹂︵V,73︶あるいは﹁不快適﹂︵V,75︶として現れるざるをえない︒なぜなら︑ それはわれわれの﹁私愛Eigenliebe﹂を﹁毀損しAbbruchtun﹂︑﹁自負Eigendünkel﹂を﹁打倒するniederschlagen﹂か
― 1 2 9 ―
カントにおける純粋活動性と自由
らである︵V,73︶︒﹁私愛﹂とは﹁自愛Selbstliebeの︑︹すなわち︺自分自身に対する何ものにもました好意Wohlwol- lenの我欲Selbstsucht﹂であり︑﹁自負﹂とは﹁自分自身についての適意Wohlgefallen︵arrogantia︶﹂である︵ibid.︶︒
また︑﹁自愛﹂は﹁自分の選択意志の主観的規定根拠にしたがっている自分自身を意志の客観的規定根拠とする性癖﹂
︵V,74︶であり︑﹁それ︹自愛︺が自分を立法的に無条件の実践的原理にするとき﹂︑それは﹁自負﹂となる
︵ibid.︶︒﹁道徳法則の意識﹂は﹁自愛﹂を毀損し︑﹁自負﹂を打倒することをとおして︑われわれを﹁謙抑にする︵de- mütigen︶﹂︵V,73︶︒この﹁謙抑﹂という否定的感情の裏面が﹁尊敬﹂に他ならない︒それについてカントは次のよ
うに説明する︒﹁⁝⁝道徳法則の意識の作用結果としては︑したがって叡智的原因︑すなわち最上の立法者としての
純粋実践理性の主体に関しては︑傾向性によって触発された理性的主体のこの感情はなるほど謙抑︵知性的軽蔑︶と
呼ばれるが︑その︹謙抑の︺積極的根拠︑法則に関しては︑同時に法則に対する尊敬である﹂︵V,75︶︒﹁謙抑﹂の感
情はあくまでも﹁傾向性によって触発された理性的主体﹂に現われた結果であるかぎりでの﹁感情﹂であるが︑その
同じ感情が﹁道徳法則﹂との関わりにおいて見られた場合には﹁尊敬﹂という意味をもつ︒しかし︑当の感情を﹁道
徳法則﹂との関わりにおいて見ることは﹁叡智的原因﹂︑すなわち﹁純粋実践理性﹂との関わりにおいて見ることで
ある︒なぜなら﹁道徳法則﹂の﹁意識﹂とは﹁かく欲し︑かく命ずる﹂という純粋実践理性の名告りにほかならない
からである︒それゆえ︑﹁道徳法則﹂に対する﹁尊敬﹂とは﹁理性﹂の自己自身に対する﹁尊敬﹂である︒カント自
身も︑この感情は﹁高揚︵Erhebung︶をも含むのであり︑感情への主観的作用結果は︑純粋実践理性がその唯一の原 因であるかぎりにおいて︑純粋実践理性にかんがみて単に自己是認︵Selbstbilligung︶と呼ばれうる﹂と述べている
︵V,80f.︶︒ カントにおける純粋活動性と自由
― 1 3 0 ―
しかし︑自己自身に対する﹁尊敬﹂あるいは﹁自己是認﹂という言い方には危ういところがある︒カントはそれを
見逃さない︒﹁人間が︵われわれのすべての洞察によれば︑またあらゆる理性的な被造物が︶立っている道徳的段階
は道徳法則に対する尊敬である︒⁝⁝また人間がそのつどとることのできる道徳的状態は徳︑すなわち戦いのうちに
ある道徳的心術であって︑意志の心術の完全な純粋性を所有しているとされる神聖性ではない︒人が︑行為が高貴で
あるとか崇高であるとか度量が大きいとかで鼓舞されてその気になるのは単なる道徳的狂信であり︑自負の昂揚であ
る⁝⁝﹂︵V,84f.︶︒﹁傾向性によって触発された理性的主体﹂にとっては﹁道徳法則の意識﹂は決して自己満足をも たらさない︒﹁純粋実践理性﹂の名告りは︑﹁あたかも志願兵︵Volontäre︶であるかのように不当に思い上がる﹂︵V, 82︶ことでは全くない︒理性の自己自身に対する﹁尊敬﹂のうちにはむしろ︑﹁傾向性によって触発された理性的主
体﹂の﹁謙抑﹂が同時に﹁かく欲する﹂純粋意欲の充足であるという特異な構造が内在しているのである︒そのこと
をカントは次のような問いによって示唆している︒﹁正直な人間が︑義務を無視することができるなら回避しえた人
生の最大の不幸のうちにあってなお︑彼が自分の人格における人間性をその尊厳において維持し︑尊敬したという意
識︑彼が自分自身に対して恥じたり︑自己吟味の内的な眼差しを恐れたりする理由をもたないという意識が︑その人
間を支えることはないであろうか︒この慰めは幸福ではなく︑幸福の最小の一部分ですらない﹂︵V,88︶︒﹁慰め﹂は
﹁内的平安︵innereBeruhigung︶﹂︵ibid.︶とも言い換えられているが︑それが﹁幸福の一部分ですらない﹂のは﹁傾向
性によって触発された理性的主体﹂の自己満足ではないからである︒したがって感性的に触発される人間はそれを求
めて行為することもできない︒それを求めるならば︑﹁内的平安﹂は他の諸動機と同列の感性的なものとなるであろ
う︒しかし純粋意欲は︽それ︾を求めている︒そのために人間は傾向性の満足によっては決して充足されないものを
― 1 3 1 ―
カントにおける純粋活動性と自由
抱え込んでいるのである︒ジュパンチッチは純粋意欲が求める︽それ︾をラカンの精神分析における﹁対象a﹂
眦に 対応させている︒﹁ラカンの理論における対象aと形式の概念とのあいだの適切なリンクに関しては︑欲望︵desire︶ は欲求︵demand︶の純粋な形式として︑欲求を満足するようになるであろうすべての特殊な対象︵あるいは﹁内
容﹂︶が除去されたときに欲求に残るものとして定義される︑ということを指摘するだけでよい︒それゆえ対象aは
形式を獲得した虚空として理解されうる︒ラカンの言葉でいえば︑﹃対象aは存在者ではない︒対象aは欲求によっ
て前提されている虚空である︒⁝⁝︽それじゃない︾という言葉が意味するのは︑あらゆる欲求の欲望の中には対象
aへの要求︵request︶以外の何ものもない︑ということである﹄﹂
眛か意粋純も者在存るない︒るせさ足満を性向傾欲
が求める︽それ︾ではありえない︒ここに﹃原論﹄でカントが示唆した﹁願い﹂︑﹁道徳性﹂の原理への﹁関心﹂が他
の諸動機をつねに圧倒し凌駕する理由があるのである︒それは﹁自由に作動する原因﹂︵IV,458︶としての叡智的自
己の存在を自己意識において確証するからではない︒そうではなくて︑純粋意欲の︽要求︾の前ではすべての傾向性
の満足が色褪せてしまうからであり︑﹁道徳法則に対する尊敬﹂において﹁傾向性によって触発された理性主体﹂自
身がそのことを是認するからである︒
三︑自由
よく知られているようにカントは﹃実践理性批判﹄において︑﹁道徳法則は自由の認識根拠︵ratiocognoscendi︶で
ある﹂︵V,4︶と述べている︒また︑﹁道徳法則の意識がいかにして可能であるか﹂と﹁自由の意識はいかにして可能 カントにおける純粋活動性と自由
― 1 3 2 ―
であるか﹂は同じ問題であるとも指摘している︵V,46︶︒前節で見たように﹁道徳法則の意識﹂は﹁理性の事実﹂で
あり︑それ以上解明されない︒とすれば︑﹁自由の意識﹂もまた﹁理性の事実﹂であるということになるであろう︒
しかしそれは﹁無条件的な法則﹂が﹁純粋実践理性の自己意識﹂であるという意味ではない︵V,29︶︒われわれが
﹁自由﹂を﹁無媒介に意識するようになる﹂ことはありえない︵ibid.︶︒では﹁自由﹂を﹁意識する﹂とはいかなるこ
とか︒換言すれば︑いかにしてわれわれは自分が﹁自由﹂であると自覚するのか︒この問いには︑作用の自己意識に
おいて捉えられる﹁純粋活動性﹂と﹁自由﹂の本質的相違を解明することによって答えることができる︒ヘンリッヒ
は言う︒﹁⁝⁝彼︹カント︺が︑思惟の自発性と意志の自由を同じものと考えていたあいだは︑尊敬においてあらゆ
る度合いの感性的抵抗を克服しうる自由が︑││それゆえ理論的な活動性︵Aktuosität︶の自由ではない自由がわれ
われに意識されることを見ることはできなかったのであり︑理論的な活動性については︑それは実効的であることを
要
求 !
す !
る !
と言うことはできない﹂ !
眷︒
ここで﹁純粋活動性﹂と﹁自由﹂の根本的相違について二つのことが指摘されている︒一つは︑﹁自由﹂は﹁あら
ゆる度合いの感性的抵抗を克服しうる﹂ものであるということである︒カントは﹁即刻の死刑﹂という﹁威嚇﹂のも
とに﹁誠実な人に対する偽証﹂を強要された人物を例にとって︑われわれがそのような﹁自由﹂を確かに意識してい
ることを示唆している︒﹁⁝⁝彼︹偽証を強要された人︺はその場合︑生に対する自分の愛着がどれほど大きくても
それをよく克服することが可能であると思うであろうか︒克服するかどうか彼はおそらく確言しないであろう︒しか
し克服することが彼にとって可能であることを彼はためらいなく容認するにちがいない︒それゆえ彼は︑為すべきで
あると意識しているがゆえに︑あることを為しうる︑と判断するのであり︑もし道徳法則がなければ彼に知られない
― 1 3 3 ―
カントにおける純粋活動性と自由
ままであったであろう自由を自分のうちに認識するのである﹂︵V,30︶︒前節で見たように︑﹁道徳法則への尊敬の感
情﹂は﹁道徳法則の意識﹂の﹁作用結果﹂であり︑行為の駆動力には感性的諸動機とは全く異質な︽原因︾が存在す
る︒それゆえ﹁道徳法則の意識﹂において︑われわれは自己の格律の根底に﹁感性的条件﹂から﹁完全に独立した
︹意志の︺規定根拠﹂︵ibid.︶を見出すのであり︑﹁自然のメカニズム﹂︵ibid.︶の中に組み込まれない﹁超越論的自
由﹂を自己のうちに認識するのである︒なるほど﹃原論﹄においても﹁自由に作動する原因﹂が考えられていた︒し
かしそれだけであれば﹁為すべきであるがゆえに為しうる﹂は精神論的スローガンにすぎないであろう︒﹁理性の事
実﹂の問題構制においては︑純粋意欲の︽原因︾が傾向性のすべての満足を褪色させてしまうことが明らかになった
のである︒純粋意欲が求める︽それ︾は﹁内的平安﹂であったが︑さらに徹底して言うと︑﹁そこでは何も必要とし
ないということが意識されている︑自分の現存︵Existenz︶への消極的適意︵einnegativesWohlgefallen︶﹂︵V,117︶︑ すなわち﹁自己の安らぎ︵Selbstzufriedenheit︶﹂︵ibid.︶である︒純粋意欲が求めているのは自己自身であり︑しか
も︑﹁何も必要としない﹂という仕方で︑つまり︽欲望︾が完成するという仕方で自己自身を獲得することを求めて
いる︒カントによれば﹁自由と︑圧倒的な心術をもって道徳法則を遵守する能力としての自由の意識﹂こそ︑かの
﹁安らぎ﹂の﹁源泉﹂である︵ibid.︶︒それゆえ︑ここにあるのは﹁自由による原因性︵KausalitätdurchFreiheit︶﹂︵V, 47︶であり︑純粋意欲が求める︽それ︾︑すなわち自己自身こそ当の意欲の︽原因︾である︒
﹁純粋活動性﹂と﹁自由﹂の相違としてヘンリッヒが指摘する第二の点は︑後者はそれが﹁実効的であることを要
求する︵beanspruchen︶﹂ということである︒ヘンリッヒによれば︑﹁要求︵Anspruch︶﹂とそれに対する﹁同意︵Zustim-
mung︶﹂は﹁道徳的洞察﹂における二つの本質的契機である
眸るず命くか︒し欲くか﹁︑け則お﹁道法徳の意識﹂に 粋自と性動活ン純るけおにトカ由
― 1 3 4 ―
る﹂純粋意志の名告りと︑その﹁作用結果﹂としての﹁道徳法則に対する尊敬の感情﹂はまさにこの二つの契機に対
応するであろう︒﹁道徳法則の意識﹂は純粋意志の顕現である︒しかしそれは純粋意志の自己意識ではない︒もしわ
れわれがそういうものを﹃原論﹄でカントが依拠しようとした﹁感じ﹂によって少しでも捉えていると信じたなら
ば︑それは﹁自分があたかも志願兵であるかのように﹂思い上がる﹁自負の昂揚﹂にすぎないであろう︒したがって
カントの言う﹁圧倒的な心術をもって道徳法則を遵守する能力としての自由の意識﹂はいわゆる高邁の情念とは異な
ると思われる︒﹁純粋実践理性﹂の名告りに対して﹁傾向性によって触発された理性主体﹂は﹁謙抑﹂であるしかな
い︒そしてそれは同時に﹁道徳法則に対する尊敬﹂であり︑純粋意欲の﹁要求﹂に対する﹁同意﹂なのである︒
さて︑﹁道徳法則の意識﹂は﹁自由の自己意識﹂ではないけれども︑一つの根本的な自覚である︒その点について
もヘンリッヒは興味深い考察を行なっている︒﹁なるほど善は自己の自身への反省によっては見えうるようにならな
い︒しかしそれは自己理解のひとつの様式であり︑それどころか際立った様式である︒それなしには善が何ものでも
ない同意は︑自己の存在に対する善の拘束性の表現である﹂
睇拘欲くか﹁︑はと﹂性束の︒善るす対に在存の己自﹁す
る﹂純粋意欲の﹁要求﹂︑﹁かく命ずる﹂ことである︒それは︑﹁傾向性によって触発された理性主体﹂が見出すその
つどの充足において︑︽それじゃない︾という声とともに迫ってくる︒その﹁要求﹂に﹁同意﹂するとき︑すなわち
﹁道徳法則に対する尊敬の感情﹂が成立するとき︑ひとつの際立った自己理解︑自己自身との根源的な関わりが実現
する︒その点についてヘンリッヒは﹁⁝⁝この同意は自己の自発的な能作である︒自己は自身をその同意において自
己としてはじめて構成する﹂
睚階﹁実存の美的段はる︑実存が自己自︒いとー述べ︑キルケゴルてを引き合いに出し身
を選択することによって克服され︑倫理的段階へと止揚される︒この選択において実存は本来はじめて精神︵自己へ
― 1 3 5 ―
カントにおける純粋活動性と自由
の無限の関係︶となる﹂
睨﹂つ﹁道徳的洞察なをいし﹁道徳法則のも機︒意﹁要求﹂と﹁同﹂契という二つの構造意
識﹂︵ここではその﹁作用結果﹂を含む︶においては︑作用の自己意識によっては不可能であった物質に由来しない
﹁自己﹂の存在が構成され︑まさに﹁自らによる﹂という意味での﹁超越論的自由﹂の自覚が成立するのである︒
ところで︑﹁純粋活動性﹂によって﹁自由﹂が確証されなかったのは﹁純粋活動性﹂の作用が単なる志向作用││
西田幾多郎に倣って言えば﹁自覚的内容なき意志作用﹂
睫ン場立の己自的志意﹁がトカ│︑りあでらかたっあで│﹂
睛
に立ちえていなかったからであると見ることもできよう︒しかし︑﹁意志的自己の立場﹂とは意志作用の自己意識の
立場ではない︒作用の自己意識の立場は︑西田で言えば﹁自覚的一般者﹂
睥に的志意﹁てし対れのそ︒るあで場立自
己﹂は﹁叡智的一般者﹂
睿るも破るものであ︒底﹁自覚的一般者﹂をのに﹂﹁於いてあるものでそあり︑最終的にはは
﹁対立的無の場所﹂
睾般所場の無の真﹁は﹂者一で的智叡﹁︑し対にのるあ﹂
Aktu-睹ある︒カントにでける﹁活動性︵お
osität︶﹂と﹁自由﹂の相違は︑二つの場所に﹁於いてあるもの﹂の存在意味の相違であると見ることができる︒﹁活
動性﹂において見出されるものは心理学的な考察の対象ともなる作用であるのに対し︑﹁自由﹂において見出される
ものは﹁要求﹂と﹁同意﹂であり︑両者はその根元において深く意志的である︒しかも﹁要求﹂は﹁同意﹂を求め︑
﹁同意﹂は﹁要求﹂なしにはありえないのであるから︑両者は呼応しあう関係にある︒両者は心理学的な作用の場合
のように自己の﹁有﹂を基体とする二つの能作ではなく︑両者の呼応関係においてはじめて自己は自身を自己として
構成するのである︒それゆえ両者はいわば﹁無﹂のはたらきである︒﹃原論﹄における﹁願い﹂や﹁関心﹂という語
はそれに相応しい︒しかし︑キルケゴールにおいて﹁自己への無限の関係﹂である﹁精神﹂は﹁絶望﹂するように︑
また︑西田において﹁意志的自己﹂は﹁叡智的世界﹂の底を破るように︑﹁自由﹂は﹁道徳性﹂の基底であると同時 カントにおける純粋活動性と自由
― 1 3 6 ―
にそれを超えている︒カントの言う﹁自己の安らぎ﹂が﹁道徳法則を遵守する能力﹂と不可分でありながら︑それを 超えてどこか︽涅槃︾の響きをもつように思われるのは︑そのことと無関係ではないであろう︒
注
引用文中の︹ ︺内の語句はすべて引用者による補足である︒
カントからの引用に際しては︑本文中にアカデミー版︵
Kants gesammelte Schriften, hrsg. v. der Preussischen Akademie der Wissen-
schaften
︶の巻数︵ローマ数字︶と頁数︵アラビア数字︶を記入した︒なお︑﹃実践理性批判﹄からの引用に際しては︑宇都宮芳明﹃訳注・カント﹁実践理性批判﹂﹄︑以文社︑一九九〇年から訳語の点で多くを学んだ︒
盧
D. Henrich,
” Der Begriff der sittlichen Einsicht und Kants Lehre vom Faktum der Vernunft“, in : Die Gegenwart der Griechen im neuen Denken, Festschrift für Hans-Georg Gadamer zum 60. Geburtstag, Tübingen 1960, S. 108.
盪
Ibid., S. 107.
蘯
Reflexion 4220. Vgl., ibid.
盻
Reflexion 4338. Vgl., ibid.
眈 K. H. L.
Pölitz
︵ed.
︶, Immanuel Kant’s Vorlesungen über Metaphysik, Erfurt 1821, S. 205−7. Vgl., ibid., S. 107 f.
眇
Henrich, op. cit., S. 111.
眄
Ibid., S. 110.
眩
Ibid., S. 111.
眤
Ibid.
眞
L. W. Beck,
” Das Faktum der Vernunft“, in : Kant Studien, Bd. 52, Heft 3, hrsg.v. P. Menzer, G. Martin, Köln 1960/61, S. 279 f.
∨ ∨
眥
A. Zupancic, Ethics of the Real , London/Newyork, 2000, pp. 15−16.
眦 R・シェママ︑B・ヴァンデルメルシュ編﹃精神分析事典﹄︑弘文堂︑二〇〇二年︑三〇四頁を参照︒﹁ラカンによる︑欲望
―1 3 7―
カントにおける純粋活動性と自由
の原因である対象︒対象aはこの世の対象ではない︒それ自体としては表象できず︑身体の部分的な﹃破裂﹄
éclat
というかたちでしか同定できない﹂︒
∨
∨
眛
Zupâ nc ic i, op. cit ., p . 18.
眷
He nr ic h, op. cit ., S . 112 f.
眸
Ib id ., S. 8 3 f.
睇
Ib id ., S. 86.
睚
Ib id .
睨
Ib id .
睫
西田幾多郎﹁叡智的世界﹂︑所収
⁚ ﹃
西田幾多郎全集﹄第五巻︑岩波書店︑一九六五年︑一三一頁︒
睛
同書︑一二八頁︒
睥
同書︑一二五頁︒
睿
同書︑一四〇頁︒
睾
西田幾多郎﹁場所﹂︑所収
⁚ ﹃
西田幾多郎全集﹄第四巻︑岩波書店︑一九六五年︑二三〇頁︒
睹
同書︑二三一頁︒ カントにおける純粋活動性と自由