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極東共和国憲法制定会議選挙とロシア共産党権力の
確立過程―選挙の諸相にみる前期極東共和国
1920 年 4 月-1921 年 4 月
清水 悠太
学修番号 17867105
首都大学東京大学院 人文科学研究科
文化基礎論専攻 歴史・考古学教室
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目次
序論 ... 4 1 節.課題の設定 ... 4 2 節.先行研究と本論文の視角 ... 5 本論 ... 12 一章 極東共和国の形成に至る過程... 12 1 節.コルチャーク政権の興亡と極東諸政府の形成 ... 12 ⑴コルチャーク政権の興亡 ... 12 ⑵極東臨時政府と極東共和国臨時政府... 13 ⑶「チタの栓」の除去 ... 15 2 節.極東諸州代表者会議とロシア共産党 ... 16 ⑴極東諸州代表者会議の開会 ... 16 ⑵緩衝国をめぐるロシア共産党内部の闘争 ... 19 二章 極東共和国憲法制定会議選挙... 21 1 節.憲法制定会議選挙の実施に向けて ... 21 ⑴「憲法制定会議選挙についての法規」 ... 21 ⑵選挙の背景・選挙運動... 26 2 節.各選挙地区の様子 ... 32 ⑴沿海州 ... 33 ⑵アムール州 ... 42 ⑶東部ザバイカル州 ... 46 ⑷西部ザバイカル州 ... 51 ⑸サハリン州 ... 543 ⑹カムチャッカ州... 54 ⑺中東鉄道接収地帯 ... 55 ⑻軍隊 ... 56 小括 ... 58 三章 極東共和国憲法制定会議と極東共和国憲法... 60 1 節.極東憲法制定会議の召集とその活動 ... 60 ⑴憲法制定会議の召集とメンバー構成... 60 ⑵憲法制定会議の活動 ... 64 2 節.憲法採択とその後の極東共和国 ... 69 ⑴憲法の採択 ... 69 ⑵その後の極東共和国 ... 73 結論 ... 75 参考文献リスト... 77 付表 ... 81 極東共和国地図... 85
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序論
1 節.課題の設定
本序論では、まず1920 年から 1922 年にロシア極東に存在した極東共和国の歴史の概略 をみて、研究の課題の設定を行い、その後に先行研究と本論文の視角を明示する。 ロシア内戦とシベリア出兵は、ロシア極東でのソビエト政権の樹立を困難にした。その ため、1920 年 4 月にヴェルフネウジンスクで極東共和国政府が創設された。11 月の極東 諸州代表者会議は、ロシア極東を統一した極東共和国を創設し、1921 年 1 月には極東共 和国憲法制定会議選挙1が実施された。憲法制定会議は、「民主主義的」な憲法を制定し た。もっとも、5 月には沿海州で白衛派政権が樹立され2、他方で8 月の大連会議とワシン トン会議は、日本の干渉の終結を近づけた3。それに伴い、1922 年からは政治的反対派に 対する弾圧が開始され、死刑の再導入を認める法律4や出版と言論を制限する法律が採択さ れた5。10 月にロシア共産党は、極東共和国の廃止を決議した6。10 月 25 日に日本軍が撤 退し7、1922 年 11 月 14 日に第二回極東共和国人民会議は、自らの解散、極東共和国の廃 絶、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国8との統合を決議した9。そうして、極東共和国 は、ロシア極東から姿を消した。 極東共和国の歴史は、多くの研究がなされてきた。特に、ロシア共和国の対外政策の文 脈での極東共和国の活動は、詳細に検討され、日本の研究者の研究も充実している。他方 で、内政や国内情勢に関する研究は、決して多いとは言えない。もちろん、主要な先行研 究は、内政に目を向けつつ、その国家的性格を論じた。さらに、個別的なテーマの研究 は、曖昧かつ情報が不足している内政を明らかにしてきた。それでも依然として、極東共 1 以降、原則として断りなく「極東憲法制定会議選挙」あるいは「憲法制定会議選挙」と省略する。 2 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p498。 3 小澤治子「ワシントン会議とソビエト外交-極東共和国の役割を中心に-」『政治経済史学』第 307 号、1992 年 1 月、p12-13。 4 Собрание узаконений и распоряжений правительства Дальне-Восточной Республики, no. 4, 1922, С. 352-354. 5 Кузьмин В. Л., Ципкин Ю. Н., Эсеры и меньшевики на Дальнем Востоке России в период гражданской войны 1917-1922, 2005, С. 179. 6 Ципкин Ю. Н., Дальневосточная республика. Была ли альтернатива? (Некоторые вопросы историографии) // Отечественная история, 1993, С. 172. 7 Дальневосточная республика: Становление, борьба с интервенцией (февраль 1920 - ноябрь 1922 г.): Документы и материалы в 2-х частях, Часть 2, 1993, № 276, С. 291. 8 以降、原則として断りなく「ロシア共和国」と省略する。 9 Дальневосточная республика: Становление, борьба с интервенцией (февраль 1920 - ноябрь 1922 г.): Документы и материалы в 2-х частях, Часть 2, 1993, № 282, С. 296-299.5 和国の実像は、完全に描き出されたとは言えない。その実像の構築は、政治的、社会的、 経済的、軍事的側面といった様々な側面からのアプローチが求められている。とりわけ、 筆者は、その実像の解明のためには、極東共和国の国家的性格と権力を決定付けた極東憲 法制定会議(1921 年 2 月 12 日~4 月 27 日)とその選挙(1921 年 1 月 9 日~11 日)を詳細に検討 することが不可欠であると考える。次節では、極東共和国の先行研究を概観し、憲法制定 会議とその選挙に注目することの意義と必要性を提示し、本稿が論ずる範囲を明示する。
2 節.先行研究と本論文の視角
極東共和国は、約二年半のみ存在した短命な緩衝国家であった。しかし、この「国家」 の研究には一定の蓄積がある。もっとも、1991 年以前のソ連国内の研究は、党派的制約が 強く、他方の西側諸国の研究は、史料的制約が著しかった。チープキン(Ципкин Ю. Н.) によれば、シベリアと極東での内戦参加者の多く10は、1930 年代に弾圧され、それらの名 前は、研究書と論文では除去され、必要な場合にはその役職のみが言及された11。そのた め、本格的な研究の開始は、1991 年のソ連崩壊を待った。本節では、まずは 1991 年以前 の主要な先行研究を概観し、次にソ連崩壊直前から最新までの先行研究を概観する。 有名なソ連史家のカーによる1967 年(原著は1950 年)の研究12は、1991 年以前の研究の なかで特に信用できる。同書は、同時代の一次史料や文献を用いて、ロシア革命以降のシ ベリア及びロシア極東の政治情勢を描いており、極東共和国創設からロシア共和国への併 合までの歴史を通史的に扱った。カーの研究は、史料的制約により政治的指導者や内政に ついての記述が少ないが、理性的なものである。1955 年には、ソ連邦内務省沿海地方局ア ルヒーフ部は、資料集13を出版した。本資料集は、1917 年 10 月から 1922 年 11 月まで の、主に沿海州でのロシア共産党の様々な指令や共産党系新聞の記事を収録している。特 に共産党の選挙方針や1921 年 4 月に制定された極東共和国憲法(基本法)の全文14は、非 常に有益である。1963 年には、内戦と緩衝国の当事者の共産主義者ニキフォロフ 10 その中には、クラスノシチョーコフ(Краснощёков А.М.)、スミルノフ(Смирнов И. Н.)、パルフ ェノフ(Парфенов П. С.)、パクス(Покус Я. З.)、ウロレヴィチ(Уборевич И. П.)等がいた。 11 Ципкин Ю. Н., Дальневосточная республика. Была ли альтернатива? (Некоторые вопросы историографии) // Отечественная история, 1993, С. 166. 12 カー E. H.著『ボリシェヴィキ革命 ソヴィエト・ロシア史 1917-1923』第一巻、1967 年。原著は、Carr E. H., A history of soviet russia - The Bolshevik revolution 1917-1923, vol. 1, 1950.
13 Борьба за власть советов в Приморье (1917-1922 гг.), Сборник документов, 1955. 14 Там же, № 391, С. 561-591.
6 (Никифоров П. М.)15による回顧録16が出た。同書は、その副題17からも明らかなように、 レーニン(Ленин В. И.)の判断の聡明さと干渉の脅威を強調しているが、当事者だからこ そ書ける情報も多い。1968 年のパピン(Папин Л. М.)による研究書18と1974 年のシェレ シェフスキー(Шерешевский Б. М.)の研究書19は、ソ連時代における通史的研究として挙 げられる。パピンの研究では、その書名「闘争と勝利の英雄的な数年間」が示すように、 ロシア共産党と赤軍及び人民革命軍が繰り広げた、日本軍ら干渉勢力や白衛軍に対する闘 争が詳細に述べられた。シェレシェフスキーの研究も、ロシア極東でのロシア共産党の活 躍と住民のそれへの支持を強調して極東共和国を描く点で、党派的色彩が強い。他方で、 極東共和国の創設でのクラスノシチョーコフの実際の役割に触れている等、1930 年代の大 粛清をある程度克服している。加えて、本研究は、1921 年の憲法制定会議選挙の一側面を 教えてくれる。概して、ソビエト時代の極東共和国研究は、一定の水準に達していたもの の、史料的制約による情報の不足や、党派的制約による記述の省略といった課題を有し た。なお、極東共和国を単独で扱った日本の文献は、同時代の文献20を除くと、大浦の 1976 年の概説的な論文21に限られた。 1991 年のソビエト連邦崩壊は、極東共和国研究に大きな前進をもたらした。早速、 1993 年には、新たに公開されたアルヒーフ史料を収録した 2 巻本の資料集22が発行され た。この資料集では、中央・地方・国・党アルヒーフで発見された史料と1920 年から 1922 年の新聞が収録された。学術的論文もすぐに登場した。1993 年のチープキンの論文 23は、ソ連崩壊による極東共和国への関心の高まりを背景に、極東共和国に関する先行研 究を広く踏まえつつ、この緩衝「国家」の創設の理由と性格、これがプロレタリア独裁国 家の代替物となり得るものだったかを検討した。チープキンは、極東共和国内での「民主 主義的な」諸要素とその実態を概観したうえで、極東共和国は、干渉の平和的除去を目的 15 ニキフォロフは、沿海州の有力な共産主義者であり、極東共和国閣僚会議議長を務めた。 16 Никифоров П. М., Под редакцией Антонов В. Г., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963. 17 「極東での干渉に対する闘争でのレーニンの政策の勝利」。 18 Папин Л. М. (Редактор), И. С. Косов, Р. И. Коробейников (Редакторы Издательства), Героические годы борьбы и побед (Дальний Восток в огне гражданской войны), 1968. 19 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974. 20 和泉良之助『続 極東共和国まで』1923 年 2 月。山内封介『シベリヤ秘史 出兵より撤兵まで』1923 年3 月。 21 大浦敏弘「極東共和国形成についての一考察」『阪大法学』第 99 号、1976 年 8 月、p1-29。 22 Дальневосточная республика: Становление, борьба с интервенцией (февраль 1920 - ноябрь 1922 г.): Документы и материалы в 2-х частях, Часть 1-2, 1993. 23 Ципкин Ю. Н., Дальневосточная республика. Была ли альтернатива? (Некоторые вопросы историографии) // Отечественная история, 1993, С. 162-176.
7 とする場合においてのみプロレタリア独裁国家の代替たりえたと結論付けた。さらに研究 の進展は、政治的反対派の右派社会主義者(エスエルとメンシェヴィキ24)に関する研究の登 場をもたらした。2005 年のクージミン(Кузьмин В. Л.)とチープキンの研究書25は、極東 共和国での右派社会主義者の活動をメインに扱い、研究に大きな前進をもたらした。同書 では、右派社会主義者による共産主義者との協調と対立の歴史が細かく著述された。研究 は、外交史の分野でも進んだ。2008 年のチープキンとオルナツカヤ(Орнацкая Т. А.)の 研究書26は、極東共和国の対外政策を詳細に検討し、諸国際会議での外交活動を包括的に 論じ、さらにコンセッション政策(第三章)と対中関係(第四章)を扱った。2019 年現在、 最も信用できる極東共和国研究は、2011 年の法制史家ソニン(Сонин В. В.)の研究論文集 27である。ソニンは、本論文集で、アルヒーフ史料・新聞・先行研究を豊富に利用し、極 東共和国での立法過程と法の性質を中心に極東共和国がいかなる国家であったかを論じ た。ソニンによれば、極東共和国憲法は、当時の環太平洋地域で民主主義的な憲法の一つ であった。他方で、極東共和国は、法治国家の発生にとって必要な諸条件が当時存在せ ず、法治国家ではなかった(法治国家の最初の段階の直前にあった)。 研究の進展は、個別的なテーマの研究に繋がった。2012 年のサージナ(Сажина А. И.) の研究28は、極東共和国期のザバイカル州での非識字の撲滅に向けた措置と、その効果を 実証した。近年は、ゴスポリトオフラーナ29に関する重要な研究も出された。2008 年のグ ラドキフ(Гладких А. А.)の論文30は、この保安機関の成り立ちや組織的構成・指揮系統を 詳細に明らかにした。さらに、2015 年のワシレーヴィチ(Васильевич Ч. М.)の論文31は、 24 本稿が論じる時期の極東では、メンシェヴィキの呼称は、「メンシェヴィキ」「社会民主党」「ロシア社 会民主労働党」が混在していた。本稿は、簡潔に「メンシェヴィキ」で統一して表記した。 25 Кузьмин В. Л., Ципкин Ю. Н., Эсеры и меньшевики на Дальнем Востоке России в период гражданской войны 1917-1922, 2005. 26 Ципкин Ю. Н., Орнацкая Т. А., Внешняя политика Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.), 2008. 27 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922гг) Монография, 2011. 28 Сажина А. И., Ликвидация неграмотности в Забайкалье в условиях ДВР (1920-1922 гг.) // Вестник Забайкальского государственного университета, №10 (89), 2012, С. 12-16. 29 ゴスポリトオフラーナ(Государственная политическая охрана、ГПО)は、極東共和国で活動した 国家保安機関である。その活動は、「極東共和国の全領域における政治犯罪とスパイ行為に対する闘争」 を目的とした(Гладких А. А., Органы Государственной Политической Охраны Дальневосточной Республики // Россия и АТР, 2008, С. 33.)。この保安機関は、1921 年初めには、1028 人の職員を擁し た(Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 203.)。 30 Гладких А. А., Органы государственной политической охраны Дальневосточной Республики // Россия и АТР, 2008, С. 32-42. 31 Васильевич Ч. М., Деятельность органов государственной политической охраны Дальневосточной Республики по противодействию подрывной работе специальных служб
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ロシア連邦保安庁中央アルヒーフの史料を用いて、その具体的な防諜活動を明らかにし た。少数民族の研究も進み、ブレンナン(Brennan C. A.)の1999 年の学位論文32は、ブリ
ヤート・モンゴル人をめぐる諸問題の解決をめぐる問題を検討した。その他、アザレンコ フ(Azarenkov A.)とスチャッキン(Shchagin E.)の研究ノート33は、緩衝国のアイディアを
概説的に扱い、極東共和国への関心を示した。 研究の前進は、日本でも生じた。すでに1989 年の原の研究書34は、極東共和国の歴史の 一端を明らかにした。同書は、日米ロを中心とする非常に多くの史料・歴史文献を渉猟す ることで、シベリア出兵とロシア極東での革命の全体像を描き出した。しかし、同書は、 1920 年春以降の極東共和国を簡単に扱うに留まった。そのため原は、1995 年の論文35に よってこれを補った。同論文では、コルチャーク政権の崩壊からロシア極東諸州の統一ま での期間における、極東共和国臨時政府と極東臨時政府の競争とロシア共産党内での意見 対立が明らかにされた。同じく原の1991 年の論文36は、緩衝国をめぐるロシア共産党内の 主導権争いを取り上げた。同論文では、アメリカ帰りの異色の共産主義者クラスノシチョ ーコフ(Краснощёков А.М.)が関わった極東共和国創設をめぐる問題やその極東共和国議長 時代の問題が明らかにされた。この人物は、日本で一定の関心を集めて、1998 年には上杉 37が、1999 年には堀江38が伝記を出版した。これらの伝記は、この謎多き人物に光を当て た読み物としては面白い。しかし、どちらの著作もジャーナリスティックな傾向が強く、 極東共和国を民主主義的な法治国家のように評価した。 日本での学術的な極東共和国研究は、外交をテーマの中心としてきた。1992 年の小澤の 論文39は、極東共和国が戦間期の太平洋の国際秩序を規定したワシントン会議を通して、 日本のシベリアからの撤兵とモスクワ政府の対日国交樹立へ重要な役割を果たしたと論じ интервентов и белых режимом // Теория и Практика Общественного Развития, № 12, 2015, С. 269-273.
32 Brennan C. A., The Buriats and the Far Eastern Republic: an aspect of revolution Russia 1920-22,
University of Aberdeen, 1999.
33 Azarenkov A., Shchagin E., Some pages from the history of the Far Eastern Republic, Far Eastern
Affairs, no. 1, 1992, p117-129. 34 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月。 35 原暉之「内戦終結期ロシア極東における地域統合」『ロシア史研究』第 56 号、1995 年、p28-38。 36 原暉之「クラスノシチョーコフと極東共和国」原暉之・藤本和貴夫編『危機の<社会主義>』1991 年 1 月、p264-287。 37 上杉一紀『ロシアにアメリカを建てた男』1998 年 10 月。 38 堀江則雄『極東共和国の夢 クラスノシチョコフの生涯』1999 年 6 月。 39 小澤治子「ワシントン会議とソビエト外交-極東共和国の役割を中心に-」『政治経済史学』第 307 号、1992 年 1 月。
9 た。2017 年のシュラトフの論文40は、ソビエト政権発足後の日ソ関係の樹立までの過程を 扱い、1920 年 1 月以降に本格化したロシア共産党による本格的な対日政策とそこでの極 東共和国の対外政策を論じた。同論文は、ロシア共和国外務人民委員代理のカラハンや極 東電信社(ダリタ)のアントーノフらが対日交渉で果たした役割を明らかにした点で新し い。同年の藤本健太朗の論文41は、ワシントン会議・大連会議・ワルシャワ会議の3 つを 取り上げ、カラハンら外交官が築き上げた人脈が対外政策の成功に大きな役割を果たした と論じた。さらに、2019 年の藤本和貴夫の論文42は、極東共和国とソビエト政権の対外政 策を概観し、日ソ両国の外交交渉担当者がいかにして共存の道を構築しようとしたか明ら かにした。その他、2016 年の麻田の新書43は、シベリア出兵の文脈で極東共和国に言及し た。1990 年には、外交官の上田が概説的な文献44を出した。関連する研究として、バール ィシェフの2019 年の論文45は、白衛軍に対する日本の軍事的支援の実態を明らかにした。 2019 年現在の最新の研究は、サブリン(Sablin I.)らによる2018 年の論文46とそれを発 展させたサブリンの2019 年の研究書47である。これらの研究は、ロシア極東での集権国家 的ロシア・ナショナリズムについてのボリシェヴィキのビジョンがどのように拡大したか を検討した刺激的なものである。同書でサブリンは、共産党の活動と理論を概観し、極東 共和国がナショナリズムと地方分権主義の間の意見の一致の産物であると結論付けた。 ここまでみてきたように、極東共和国は、様々な視点からの分析と研究が行われてき た。筆者が重要な政治的出来事と捉えている極東憲法制定会議も、多くの研究によって検 討されてきた。しかしながら、憲法制定会議選挙、、の研究は、その蓄積が乏しく、多くの研 究では、この選挙についての記述は、もっぱら数行に留まる。それらは、選出された議員 の構成を提示するだけか、単に自由な選挙であったと述べるのみだ。現在までの憲法制定 40 シュラトフ・ヤロスラブ「ロシア革命と極東の国際政治―日露関係から日ソ関係への転換」松戸清裕他 編『ロシア革命とソ連の世紀 1 世界戦争から革命へ』2017 年 6 月、p203-232。 41 藤本健太朗「極東共和国とソヴィエトロシアの対日政策―ワシントン会議・大連会議・ワルシャワ会談 ―」『二十世紀研究』第18 号、2017 年 12 月、p59-79。 42 藤本和貴夫「1920 年代初頭における日ソ国交交渉の開始」『大阪経済法科大学東アジア研究』第 70 号、2019 年 2 月、抜刷。 43 麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』2016 年 9 月。 44 上田秀明『極東共和国の興亡』1990 年 11 月。 45 バールィシェフ・エドワルド「反ボリシェヴィキ諸勢力の内戦闘争と日本の軍事的な支援(一九一八~ 一九二二年)『ロシア史研究』、第103 号、2019 年、p46-75。
46 Sablin I. and Sukhan D., Regionalisms and Imperialisms in the Making of Russian Far East,
1903-1926, Slavic Review, 77, no. 2 (summer 2018).
47 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic 1905-1922―Nationalisms,
10 会議選挙、、の最も詳細な研究は、シェレシェフスキーの研究書48である。同書は、アルヒー フ史料や新聞を用いて、極東共和国の諸州・中東鉄道・軍隊での選挙の様子と州単位での 選挙結果に十分な紙幅を割いた。しかし、同書は、選挙での共産党の「勝利」と同党への 住民の「支持」を綿密に記した一方で、非共産党の記述は、極めて少ない。党派的には正 しいこの研究は、非共産党の個別の選挙結果を記すことを巧みに回避している。2011 年の ソニンの研究49は、初めて選挙法を詳細に検討しつつ、選挙の様相を明らかにした。もっ とも、同書は、個々の選挙区に触れていないし、筆者は、ウラジオストク市域だけを挙げ ての「共産主義者の影響力が最大だった極東諸地域では、棄権50は取るに足らないものだ った。干渉勢力が我が物顔で振舞っている場所では棄権が非常に多かった」51との記述に は同意できない。棄権は、干渉勢力が不在の地域でも多かったし、共産主義者の影響力と 棄権の関係性が不明だからだ。サブリンの研究は、選挙の際に農村では極東共和国を支持 した少数の者でさえ共産主義者を憎み、共産党は住民の支持を得ていなかった52、と興味 深い指摘をした。しかし、選挙の記述は、ボリュームに乏しく、加えて、筆者は、「南部 沿海州を除く共和国のほとんどの地域で極東共和国政府が選挙活動を支配した」との記述 53には同意できない。選挙では、沿海州以外でも非共産党が大きな存在感を示したのだ。 こうしたわけで、極東憲法制定会議選挙、、は、未だにその実相が不明瞭であると言わざる を得ず、ソビエト時代の研究の問題も、十分に克服されたとは言い難い。我々は、ある国 家の性格を論ずるのであれば、その国家の憲法と、選挙を含むその憲法制定過程を十分に 検討するべきだろう。このような問題意識のもと、本稿は、極東憲法制定会議選挙に注目 し、各政党の選挙運動、選挙地区の選挙結果、提出された候補者名簿などを検討して選挙 の実相を明らかにし、それを踏まえてこの緩衝国の性格を論じようと試みた。もっとも、 本稿は、緩衝国の実像と選挙の実相を完全に描き出せなかった。何故なら、筆者は、本稿 が検討する範囲を、1920 年 4 月の極東共和国政府の形成から 1921 年 4 月末の憲法制定会 議の閉会までに限定したからだ。本稿がこのような時期的範囲の限定を行うのには理由が 48 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974,С. 37-54. 49 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922гг) Монография, 2011, С. 90-97. 50 この棄権は、「選挙人名簿に自らを登録せず投票自体に参加しなかった」という意味の棄権である。 51 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922гг) Монография, 2011, С. 96.
52 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic, 1905-1922―Nationalisms,
Imperialisms, and Regionalisms in and after the Russian Empire, 2019, p186.
11 ある。それは、1921 年 5 月以降に、極東共和国がその性格を大きく変化させたというこ とである。その変化とは、具体的には、指導者の交代、政治的反対派に対する弾圧の開 始、白衛派政権の樹立、日本軍の撤兵の開始、諸外国との外交関係樹立の機運の上昇であ る。さらに筆者は、選挙全体の統計資料を確保できなかったために、各選挙地区の記述を 主に当時のロシア語新聞と日本側史料に依拠せざるを得なかった。これらの理由から、本 稿が示す極東共和国の国家像は、不完全なものだとの批判を免れないし、選挙の実相、、の解 明は、一層の精微な研究と多数の史料による補足を必要としている。 それでも、筆者は、先行研究が示すものとはやや異なった選挙の諸相、、を明らかにしつ つ、それらを踏まえて前期極東共和国の性格を提示できたと考える。選挙の諸相について の結論は、第二章の小括でまとめた。憲法制定会議選挙の諸相と全体を通しての、前期極 東共和国の性格についての結論は、本稿最後の結論でまとめた。 なお、本稿の脚注では、書籍は、著者名、書名、出版年、引用部分のページ数のみを表 記した。また、論文は、著者名、論文名、掲載書名や雑誌名、号数、出版年、引用部分の ページ数のみを表記した。完全な書誌情報は、本稿末尾の参考文献で明記した。さらに、 外国語の人名は、原則として本文と脚注での初出の際に日本語表記の名前の後ろに原語の 名前を表記し、それ以降は日本語表記のみを記した。
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本論
一章 極東共和国の形成に至る過程
1 節.コルチャーク政権の興亡と極東諸政府の形成
⑴コルチャーク政権の興亡
シベリアでは1917 年の十月革命後の六ヵ月間は、ある種の空白期間によって特徴づけ られた。ソビエト政権は、散発的かつ発作的にその存在を主張していた。この不確定な情 勢は、外国の軍事行動によって破られた54。すなわち、1918 年 4 月 4 日のウラジオストク での日本人殺傷事件による日本海軍陸戦隊上陸を一つの契機とするシベリア出兵である 55。外国による干渉の開始を背景に、東ヨーロッパ・ロシア及びアジア・ロシア一帯では 反ボリシェヴィキ政府が組織され始め、1918 年 9 月 23 日には、諸政府を糾合した「全ロ シア臨時政府」が設立された56。この臨時政府は、11 月 18 日に元黒海艦隊司令官のコル チャークのクーデターによって転覆され、コルチャークが「最高統裁官」に就任した57。 この軍事独裁政権は、1919 年 3 月にはウファーを占領し、ヴォルガ川に向かった58。コル チャークは、一時モスクワに迫ったが、11 月 14 日には自らの拠点であるオムスクからイ ルクーツクに退却し、12 月 20 日には赤軍がトムスクに入った59。 赤軍がさらにエニセイスクに入ろうとしていた頃、イルクーツクとその周辺では「政治 センター」60の指導の下、反コルチャークの反乱が起こった61。1920 年 1 月 4 日、イルク ーツクで守備隊兵士が反乱を起こし、15 日にはコルチャークの身柄は、チェコ軍によって 「政治センター」に引き渡された62。コルチャークは、2 月 7 日にロシア共産党軍事革命 委員会の決定によって銃殺刑に処せられた63。1920 年 1 月 19 日にトムスクでは、政治セ ンターとロシア共産党の間で交渉が行われた。この交渉で政治センター代表団長のメンシ 54 カー E. H.著『ボリシェヴィキ革命 ソヴィエト・ロシア史 1917-1923』第一巻、1967 年、p289。 55 細谷千博『シベリア出兵の史的研究』2005 年 1 月、p98。 56 カー E. H.著『ボリシェヴィキ革命 ソヴィエト・ロシア史 1917-1923』第一巻、1967 年、p289。 57 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p452。 58 藤本和貴夫「1920 年代初頭における日ソ国交交渉の開始」『大阪経済法科大学東アジア研究』第 70 号、2019 年 2 月、抜刷、p3。 59 同上、p4。 60 この組織は、憲法制定会議議員だったフョードロヴチをトップとし、エスエル、シベリア地区委員会、 メンシェヴィキ・シベリア組織ビュロー、ゼムストヴォ・市自治体、労働組合の代表などで構成された。 61 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p498。 62 同上、p506-507。 63 大浦敏弘「極東共和国形成についての一考察」『阪大法学』第 99 号、1976 年 8 月、p5。13 ェヴィキのアフマートフ(Ахматов И. И.)は、ロシア極東にいる日本軍と衝突を避けるた めに緩衝国を創設することを主張した64。実に、日本との直接衝突は、西方でのポーラン ド軍と南ロシアでの白衛軍との武力衝突を考慮すれば、赤軍にとっては望ましくなかった 65。ソビエト側は、これといった反論をせずに政治センターを暫定的緩衝政権として認め た66。緩衝国創設に関する決議が採択され、1 月 20 日にロシア共産党シベリア革命委員会 は、レーニンに詳細に報告を行い、1 月 21 日にロシア共和国人民委員会議は、レーニンの 署名を経て、この決議を承認した67。しかし、承認に至る間に、同市の権力は、ボリシェ ヴィキと左派エスエルに移り、政治センターは事実上崩壊した68。
⑵極東臨時政府と極東共和国臨時政府
政治センターは、モスクワのロシア共産党中央が緩衝国に関する政治センターの提案を 承認した時にはすでに崩壊していた。もっとも、緩衝国創設のアイディアは、クラスノシ チョーコフら共産主義者によって維持された69。そして、コルチャーク政権の崩壊と政治 センターの解散後、1920 年 5 月頃までのザバイカルと極東の政治地図には二つの緩衝国 (政府)が出現した。すなわち、ウラジオストクを中心とする極東臨時政府と、ヴェルフネ ウジンスクを中心とする極東共和国臨時政府である。これら二つの政府が、地域での主導 的な政治的役割を主張し始めた70。本項では、極東諸州の統一を主導した極東共和国臨時 政府と極東臨時政府の動きを概観する。なお、本稿では詳しく触れないが、北サハリン、 カムチャッカ州、アムール州では、1920 年 2 月から 3 月に、ヴェルフネウジンスクとウ ラジオストクとは関係なくソビエト権力が宣言された71。後述するように、それらの諸政 府は、極東諸州代表者会議に参加した。 64 原暉之「クラスノシチョーコフと極東共和国」原暉之・藤本和貴夫編『危機の<社会主義>』1991 年 1 月、p273。65 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic, 1905-1922―Nationalisms,
Imperialisms, and Regionalisms in and after the Russian Empire, 2019, p137.
66 原暉之「クラスノシチョーコフと極東共和国」原暉之・藤本和貴夫編『危機の<社会主義>』1991 年
1 月、p274。
67 大浦敏弘「極東共和国形成についての一考察」『阪大法学』第 99 号、1976 年 8 月、p5。 68 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic, 1905-1922―Nationalisms,
Imperialisms, and Regionalisms in and after the Russian Empire, 2019, p137.
69 原暉之「クラスノシチョーコフと極東共和国」原暉之・藤本和貴夫編『危機の<社会主義>』1991 年
1 月、p275。
70 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.)
Монография, 2011, С. 84.
71 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic, 1905-1922―Nationalisms,
14 まずウラジオストクの極東臨時政府は、中道派によって組織されて共産主義者によって 容認された沿海州ゼムストヴォ参事会をその前身とした。この臨時政府は、1920 年 3 月 30 日の声明で自らの権力を極東諸州と中東鉄道接収地帯に拡大すると宣言し、これ以降、 同臨時政府は、公式に極東臨時政府と称するようになった72。もう一方のヴェルフネウジ ンスクの極東共和国臨時政府は、これもまた中道派と共産主義者の妥協によるプリバイカ ル臨時ゼムストヴォ政権をその前身とした73。このゼムストヴォ政権は、第一回ザバイカ ル勤労住民代表者大会を召集し、同大会は、1920 年 4 月 2 日に「ザバイカルと極東…… に独自の自治的政権を形成することが目的に適い、必要であると認める」との決議を採択 した74。同大会は、4 月 6 日に、ザバイカル州、アムール州、沿海州、サハリン州、カム チャッカ州を構成要素とする極東共和国の形成を告げる宣言を採択し、共産主義者のクラ スノシチョーコフをトップとする極東共和国臨時政府が選出された75。この臨時政府は、 共産党の軍事的指導を隠すために、1920 年 3 月 18 日に東シベリア・ソビエト軍を人民革 命軍に改称した76。共産主義者に主導された極東共和国臨時政府は、自らが統一された極 東共和国が形成されるまでの地方政府に過ぎないと主張した。その一方で、ロシア共産党 シベリア・ビュローは、この政府が未だ宣言されていない「極東共和国」の「中央政府」 であると表明し、極東臨時政府をその付属とみなした77。 これら二つの政府の形成の背景には、1920 年 4 月 4 日から 5 日に沿海州で発生した日 本軍による戦闘行動があった。この戦闘行動は、沿海州のソビエト化の可能性を危惧した 日本軍が実行し、沿海州及びプリアムールの諸地域で大規模に繰り広げられた78。この戦 闘では、日本軍が約500 人の戦死者を出し、ロシア軍が数千人の死傷者を出した79。事件 は、ロシア共産党に衝撃をあたえ、極東での緩衝の創設を後押しした。 ウラジオストクのロシア共産党極東地方委員会は、1920 年 5 月 14 日に、右派社会主義 者との協定を結び、極東諸州の統一と緩衝国の形成をなすとの共同声明を発した。この宣 言に基づき、新たに行政府の省官庁管理ソビエトが組織され、加えて、立法府の極東人民 72 原暉之「内戦終結期ロシア極東における地域統合」『ロシア史研究』第 56 号、1995 年、p32。 73 同上。 74 同上。 75 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 20.
76 Sablin I., The Rise and Fall of Russia’s Far Eastern Republic, 1905-1922―Nationalisms,
Imperialisms, and Regionalisms in and after the Russian Empire, 2019, p141.
77 Ibid, p141.
78 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 19. 79 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p530。
15 会議の選挙が行われた。この人民会議は、社会主義者、農民、自由主義者の雑居する議会 であったが、憲法制定会議の召集を経て極東の統一を行う点では一致していた80。7 月 25 日、極東人民会議は、沿海州の臨時政府を中心に極東の全諸州を統合することが必要だと する社会主義者ブロックの声明を承認した81。 他方のヴェルフネウジンスクの極東共和国臨時政府では、緩衝国創設の方針をめぐるロ シア共産党内部での対立が存在した。1920 年 5 月 5 日に、クラスノシチョーコフは、レ ーニン宛の電報で、緩衝創設の困難さ、ロシア共和国との連絡の不十分さや極東ビュロー との一致の欠如などについて伝えた82。5 月 14 日に、ロシア共和国のチチェーリン (Чичерин Г. В.)は、極東共和国の承認をする旨の覚え書きを送付し83、これにより、緩衝 国の創設の方針は、ひとまずモスクワ中央により支持された。8 月 13 日、ロシア共産党中 央委員会政治局は、「極東共和国に関する小テーゼ」を確認し、極東共和国の権力組織が ブルジョワ民主主義であること、共和国の指導勢力が共産党でなければならないこと、首 都がヴェルフネウジンスクか(白衛派から解放された後の)チタであるべきことを勧告した 84。ロシア共産党極東ビュローは、緩衝国推進派のクラスノシチョーコフを中心とするメ ンバーに改組され、極東共和国臨時政府を中心として極東全州を統一するための活動を展 開した85。それでも、次節で触れるように、緩衝国をめぐるロシア共産党内部の闘争は、 極東諸州代表者会議の後にも再燃した。
⑶「チタの栓」の除去
極東人民会議と極東共和国臨時政府は、それぞれ極東の統一を目指した。しかし、極東 諸州の統一は、ロシア極東の東西交通の要衝であるザバイカルのチタを占領していたセミ ョーノフ(Семенов Г. М.)率いる白衛派政権、いわゆる「チタの栓」の問題の解決を必要 とした。このセミョーノフなる人物は、アタマンを僭称して特別満州里支隊なる部隊を指 揮した白衛派コサック将校(階級は一等大尉)である86。日本軍は、シベリア出兵構想の一環 として、このセミョーノフに軍事的支援を行った。バールィシェフの研究によると、同軍 80 原暉之「内戦終結期ロシア極東における地域統合」『ロシア史研究』第 56 号、1995 年、p33。 81 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 85. 82 Ципкин Ю. Н., Орнацкая Т. А., Внешняя политика Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.), 2008, С. 49. 83 原暉之「クラスノシチョーコフと極東共和国」原暉之・藤本和貴夫編『危機の<社会主義>』1991 年 1 月、p277。 84 大浦敏弘「極東共和国形成についての一考察」『阪大法学』第 99 号、1976 年 8 月、p18。 85 同上、p19。 86 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p228。16 は、1918 年から 1920 年 7 月までに日本軍から、小銃 2 万丁・機関銃 60 丁・速射野砲 12 門とそれら弾薬からなる軍事的支援を受けていた87。セミョーノフは、ザバイカル州への 攻撃を繰り返し、1918 年 8 月からの日本軍の本格的干渉の際には、日本軍第七師団の支 援の下で同州に侵攻し、9 月にチタへ入城した88。セミョーノフは、その非道な振る舞い により、「誰にも頼られなかった」し、「ブルジョワでさえもその全員がアタマンから離れ るほど、極めて邪悪なコサック騎兵中隊の跳梁跋扈」であった89。 そのようなセミョーノフの体制は、日本の後援の喪失によって揺さぶられた。1920 年 8 月4 日、日本政府は、シベリア占領計画の断念と、沿海州政府との関係の改善の必要性に 関する決定を採用した。すでに、同年春には、日本軍は、アムール州から撤退しており、 8 月にはザバイカルからの撤兵が決定された90。セミョーノフは、日本の援助と共に自ら の体制が消え失せることを理解し、政治活動から引退せよとの右派社会主義者たちの要求 に応じて、自らが主導した地方人民会議を9 月 9 日に解散させた。チタでは、新たに 7 人 からなる臨時東部ザバイカル人民会議が創設され、その大多数は右派社会主義者が占め た。もっとも、人民社会党員のシレイベル(Шрейбер К. С.)が率いたこの人民会議は、実 質的な権限を有さず、ヴェルフネウジンスク政権は、この「議会」を交渉の対等な当事者 とは認めなかった91。 東部ザバイカルのパルチザンと人民革命軍部隊によって、チタへの攻撃が開始された。 10 月 22 日、パルチザン部隊と人民革命軍部隊の攻勢によってチタが陥落し、セミョーノ フは飛行機で逃走した92。10 月 25 日、極東共和国臨時政府は、チタに移った93。
2 節.極東諸州代表者会議とロシア共産党
⑴極東諸州代表者会議の開会
ロシア極東の諸州は、極東の東西連絡を遮断していたセミョーノフが軍事的敗北を喫し たことで、単一「国家」の形態での統一と中央政府の創設に進んだ。1920 年 10 月 28 87 バールィシェフ・エドワルド「反ボリシェヴィキ諸勢力の内戦闘争と日本の軍事的な支援(一九一八~ 一九二二年)『ロシア史研究』第103 号 2019 年、p58-59。 88 原暉之『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』1989 年 6 月、p404。 89 Кузьмин В. Л., Ципкин Ю. Н., Эсеры и меньшевики на Дальнем Востоке России в период гражданской войны 1917-1922, 2005, С. 157. 90 Там же. 91 Там же. 92 Никифоров П. М., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963, С. 230. 93 大浦敏弘「極東共和国形成についての一考察」『阪大法学』第 99 号、1976 年 8 月、p21。17 日、チタで極東諸州代表者会議94が開会された95。代表者会議には、極東の諸州・諸地域の 代表団が集まった。内訳は、ヴェルフネウジンスク政府代表団6 人(共産主義者4 人、無所属 2 人)、アムール政府代表団5 人(共産主義者3 人、無所属 2 人、エスエル 1 人)、ウラジオスト ク政府代表団5 人(共産主義1 人者、無所属 1 人、メンシェヴィキ 2 人、エスエル 1 人)、東部ザバ イカル人民革命委員会3 人(共産主義者3 人)、チタ人民会議3 人(人民社会党1 人員、エスエル 1 人、無所 1 人属)、中部ザバイカル人民革命委員会1 人(共産主義者1 人)、サハリン人民革 命委員会1 人(共産主義者1 人)、カムチャッカ人民革命委員会1 人(共産主義者1 人)、ブリ ヤート人住民2 人である96。代表者会議のメンバーは、総数28 人のうち、共産主義者が 14 人、右派社会主義者が 6 人、無所属が 6 人、ブリヤート人が 2 人であった。すなわ ち、共産主義者が単独でその半数を占めた。 極東諸州代表者会議の議長には、ペトロフが選出された97。この代表者会議は、開会翌日 の10 月 29 日に、極東共和国の原則、領域、軍隊の指揮系統、憲法制定会議選挙、中央政 府、市民的自由、私的所有権についての宣言を採択した。この宣言では、「元ロシア帝国の バイカル湖から太平洋までの極東のすべての領土(ザバイカル州、アムール州、沿海州、サハリン 州、カムチャッカ州)は、単一不可分の独立共和国として宣言される(宣言第1 条)。全ての軍事 力は、中央政府の下にある統一司令部に従属する(同第5 条)。共和国の基本法は、普通、直 接、平等、秘密の投票原則に基づいて選出される憲法制定会議によって制定される(同第 7 条)。代表者会議は、そのメンバーから極東共和国政府を出し、その政府に全ての文民権力 と軍事権力の全権を委ね、政府は、憲法制定会議の召集までその権力を保持する(同第8 条)。 権力機関は、当然の民主主義原則が基礎となり、全ての市民的権利の実施に立脚する(同第 9 条)。私有財産制度は、勤労人民の利益の維持を目的とする若干の修正とともに、維持され る(同第10 条)」と規定された98。 この宣言が採択された翌日の10 月 30 日、ヴェルフネウジンスク政府代表団は、エスエ ルとメンシェヴィキの異議にもかかわらず、自らの権限を代表者会議に対して解除した。代 表者会議は、共産主義者のクラスノシチョーコフをトップとする 7 人の極東共和国臨時実 94 以降、原則として断りなく「諸州代表者会議」あるいは「代表者会議」と省略する。 95 Никифоров П. М., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963, С. 230. 96 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 28-29. 97 JACAR、Ref.B03051235600、第十七巻(1-6-3-24_13_21_017)、0099-0100。 98 Дальневосточная республика: Становление, борьба с интервенцией (февраль 1920 - ноябрь 1922 г.): Документы и материалы в 2-х частях, Часть 1, 1993, № 141, С. 305-307.
18 務幹部会を決定し、この機関には、暫定的に全国家的規模での全ての国家機能の遂行が委任 された99。この臨時実務幹部会は、代表者会議が18 票対 6 票と棄権 2 票の大多数で極東共 和国臨時政府を選出した11 月 10 日まで存在していた100。 1921 年 11 月 1 日、諸州代表者会議は、共産主義者 4 人、アムール州無所属農民 1 人、 ブリヤート人民族主義者1 人の 6 人からなる選挙法草案委員会を選任した。さらに討論の 後、代表者会議は、草案委員会に対して、二日間で選挙法草案を起草し、その選挙法が人口 5000 人に対して 1 人(極東全体で約400 人)の割合で議員を選出するものとなるよう決議し た101。議会の問題に関しては、遅れて11 月 8 日にチタに現れたウラジオストクのエスエル とメンシェヴィキは、各全権代表部から各20 人が入る予備議会の創設を提案した102。しか し、ロシア共産党極東ビュローは、11 月 9 日付の決議で、「予備議会の創設は、現実には、 エスエルとメンシェヴィキに、国家活動を拒否させ、それらを『議会反対派』に転換させう る」とし、予備議会の創設についての提案を完全に拒否するよう共産主義者に指示した103。 11 月 10 日、代表者会議は、予備議会の召集についての右派社会主義者の提案を否決した 104。1917 年の二月革命後に召集された予備議会105は、極東共和国では実現しなかった。 予備議会をめぐる議論の後、代表者会議は、極東共和国政府の形成についての問題を検 討した。もっとも、エスエルとメンシェヴィキは、その政府に加わらないと表明し、政府 は共産主義者5 人と無所属 2 人でもって形成された106。11 月 11 日、代表者会議は、選挙 法を検討して部分的な修正を加えたうえでこれを可決し、憲法制定会議選挙管理極東委員 会メンバーを選出し107、その活動を終了して解散した108。 他方、既に活動を開始していた臨時実務幹部会は、1920 年 11 月 4 日、全ての地方政府 の解散についての法「権力の受領について」を発した。そこでは、諸政府が極東共和国の 99 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 90. 100 Там же. 101 JACAR、Ref.B03051235400、第十七巻(1-6-3-24_13_21_017)、0051。 102 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 90. 103 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 31. 104 Там же. 105 1917 年 10 月 17 日から開催された予備議会については、例えば、池田嘉郎『ロシア革命 破局の 8 か 月』、2017 年 1 月。の p198 からの記述が簡便である。 106 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 31. 政府メンバーは、議長 クラスノシチョーコフ、ブレウソフ(Бреусов К. И.)、ルミャンツェフ(Румянцев Г. К.)、マトヴェー エフ(Матвеев Н. М.)、ニキフォロフ、クズネツォフ(Кузнецов О.)、イワノフ(Иванов Ф.)である. 107 JACAR、Ref.B03051235800、第十七巻(1-6-3-24_13_21_017)、0242-0245。 108 JACAR、Ref.B03051237400、第十八巻(1-6-3-24_13_21_018)、0343。
19 領域では「自らの全国家的機能を失っており、州統治の諸機関になっている」と述べられ た109。これに対して、沿海州の右派社会主義者は、代表者会議での決定に対する沿海州人 民会議の承認を条件とした110。沿海州の自治をめぐる議論の後、人民会議は、12 月 12 日 に「極東共和国への沿海州の参加についての法」を採択し、憲法制定会議の召集まで極東 共和国政府が中央政府として立法権力と行政権力の全ての完全さを有すると認めた111。 その間にも、チタの臨時実務幹部会は、1920 年 11 月 22 日、極東委員会の上申に則って 「極東憲法制定会議の召集の期日について及び選挙の日程の指定について」を決議した。こ れにより、極東憲法制定会議は1921 年 1 月 25 日に召集され、憲法制定会議選挙は 1921 年1 月 9 日に実施と定められた112。
⑵緩衝国をめぐるロシア共産党内部の闘争
代表者会議の閉会後の1920 年 11 月 22 日から 28 日に、第一回ロシア共産党極東代表 者会議が開会された。会議の参加者の一部は、この頃に並行して進んでいた白衛派ウラン ゲリ軍の撃破と干渉勢力及び白衛軍からのクリミアの解放を踏まえて、極東共和国の創設 の中止とロシア共和国への極東の即座の再統合を要求した。しかし、党代表者会議は、こ の「反緩衝の」動議を大多数の票で否決し、極東の共産主義者の義務が、極東で「ロシア の労働者・農民の諸活動の防衛のための堅固な障害物」の創設に関する活動を続けること だと決議した113。その一方で、決議では、「ロシア共産党とソビエト権力が、……極東共 和国の創設という自らの任務の実行を否定することは、有り得ないことではない……」114 と、緩衝国政策の中止の可能性が維持された。その他、党代表者会議の代表たちは、諸州 代表者会議によって採択された選挙法を承認した115。 党代表者会議の決議に表れているように、緩衝国の創設に対する共産主義者の方針は、 一貫したものではなかった。党代表者会議の後、緩衝国支持派のニキフォロフが報告のた 109 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 91. 110 Никифоров П. М., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963, С. 232. 111 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 92. 112 Собрание узаконений и распоряжений правительства Дальне-Восточной Республики, no. 1, 1922, С. 14.; JACAR、Ref.B03051235900、第十七巻(1-6-3-24_13_21_017)、0260。 113 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 92-93. 114 Борьба за власть советов в Приморье (1917-1922 гг.), Сборник документов, 1955, № 380, С. 534. 115 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 93.20 めにモスクワに発ち116、クラスノシチョーコフが重病で不在の間に、ロシア共産党極東ビ ュローのズナメンスキー(Знаменский А. А.)とトリリッセル(Трилиссер М. А.)は、12 月 20 日、極東のソビエト化を検討するために、グロスマン(Гроссман С. Я.)とヂェリビク (Дельвиг М. Э.)と共に会議を開催した。会議は、緩衝の必要性を否定し、緩衝の民主主 義的性格が今後のソビエト体制への移行への深刻な障害になるとの、緩衝国の廃止と極東 のソビエト化を推進する決議を採択した。1920 年 12 月 25 日、上述の決議についての照 会が、共産党中央委員会に送付された117。 しかし、この反緩衝の方針は、党中央によって否定された。1921 年 1 月 4 日のロシア 共産党中央委員会全体会議(議長レーニン)は、「極東共和国のソビエト化の承認は、断固と して現在は容認しがたい」との決議を全会一致で採択した118。もっとも、緩衝国の創設を めぐる共産党内部での闘争は、その後も継続した。憲法制定会議選挙後の1921 年 1 月 21 日にも、クラスノシチョーコフは、レーニンらに宛てた電信で、対外平和のために極東共 和国が「独立国」であると承認するよう要請し、緩衝反対派を非難した119。 116 Никифоров П. М., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963, С. 234. 117 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С. 55. 118 Никифоров П. М., Записки премьера ДВР - Победа Ленинской политики в борьбе с интервенцией на Дальне Востоке 1917-1922 гг., 1963, С. 235-236. 119 Ципкин Ю. Н., Орнацкая Т. А., Внешняя политика Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.), 2008, С. 51.
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二章 極東共和国憲法制定会議選挙
1 節.憲法制定会議選挙の実施に向けて
⑴「憲法制定会議選挙についての法規」
本項では、少し時間を遡って、極東諸州代表者会議によって承認された120、「憲法制定 会議選挙についての法規」121を概観する。一般に選挙法は、「総則」、「選挙権及び被選挙 権」、「選挙に関する区域(選挙区)」、「選挙人名簿」、「選挙期日」の諸項目からなり122、選 挙の手続きと秩序を規律する規範的な性格を有する。同時に、選挙法は、選挙権、議員定 数、選挙区割り、選出方法(多数代表、比例代表)、選挙管理委員会の権限等の内容によって は、選出された議員が参集する議会・代議制機関の民族構成や党派構成といった根本的性 質を左右する政治的な性格を帯びる。例えば、ゲリマンダリングは、特定の候補者や政党 に有利な選挙結果を生みだす特殊な選挙区割りをするものとして政治学ではよく知られて いる123。本項では、選挙の基礎となる選挙法がいかなるものであったか概観する。 選挙法は、少なくとも77 ヵ条124で構成された。第一章「総則」では、選挙権と選挙区 が設定された。憲法制定会議は、普通選挙、性差なし、平等な選挙権に基礎をおき、直接 選挙と無記名投票を介して、比例代表方式125を適用するとされた(選挙法第1 条)。つま り、少なくとも選挙法では、「普通、平等、直接、秘密選挙」の四原則は、1920 年 7 月頃 にレーニンがクラスノシチョーコフの「選挙の原則(四項目は許されるか?)」との質問に肯 定を返した126とおりに認められた。エスエルとカデットは、多段階選挙の実施を主張した 127が、これは退けられた。軍隊と艦隊は、選挙の時には所在地で文民住民と平等かつ共同 で投票を行うとされた(同法第1 条の注)。 120 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 90. JACAR、Ref.B03051235800、第十七巻(1-6-3-24_13_21_017)、0242-0245。 121 以降、原則的に断りなく「選挙法」あるいは「同法」と省略する。 122 例えば、日本国の「昭和二十五年 法律第百号 公職選挙法」。e-Cov 法令検索 https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=325AC1000000100。 123 例えば、森脇俊雅「ゲリマンダリングについて―アメリカの現状分析を中心に―」『法と政治』45 巻、4 号、1994 年 12 月、p571(3)-572(4)。では、党略的選挙区割りのテクニックが紹介されている。 124 構成は、第一章「総則」、第二章「選挙法について」、第三章「極東憲法制定会議選挙の実施を管理す る機関」、第四章「選挙人名簿について」、第五章「候補者名簿」、第六章「選挙人メモについて」であ る。同法第1 条から第 47 条は、Воля, 1920. ноябрь. 28, № 177, С. 3-4.に所載されている。同法第 48 条 から第77 条は、Воля, 1920. декабрь. 23, № 191, С. 2.に所載されている。 125 日本側史料も、「連記遁減譲渡法による」としている。(JACAR、Ref.B03051236700、第十八巻(1-6-3-24_13_21_018)、0104-0113。) 126 レーニン В. И.著『レーニン全集』第 42 巻、1967 年 9 月、p265-266。 127 Кузьмин В. Л., Ципкин Ю. Н., Эсеры и меньшевики на Дальнем Востоке России в период гражданской войны 1917-1922, 2005, С. 160.22 1917 年の全ロシア憲法制定会議選挙では、議員は、「性差のない普通・平等の選挙権、直 接投票、投票の秘密の保護」に基づく比例代表制選挙のもとで選挙され、現役軍人にも選挙 権が認められていた128。そのため、一部の先行研究や一次史料にある、1917 年の選挙法規 の規定が使われた129、あるいは準用された130との記述は、完全な間違いとは言えない。し かし、これは恐らく説明としては不十分である。選挙法は、ソニンが「勤労者の声(Голос трудящихся)」紙 (1920 年 11 月 24 日付)に所載の「分析」をもとに検討したように、「全ロ シア憲法制定会議選挙についての法規」(1917 年)、「極東臨時人民会議選挙についての法規」 (沿海州ゼムストヴォ参事会が1920 年 5 月に採択)、「極東共和国権力の地方諸機関の選挙につい ての法規」(1920 年 6 月 3 日付)に基づいて起草された131とみなすべきだろう。 次に、選挙区をみていく。通例選挙では、細かな選挙区が設定される。憲法制定会議選 挙では、選挙法の規定により、選挙の実施のための以下の選挙地区132が極東諸地方に形成 された(同法第2 条)。なお、本節以降では、原則として、以下のような地区の日本語表記 とロシア語表記の併記を行わず、日本語の地区表記のみを示した。選挙法に規定されてい ない追加の地区の名称は、初出の時に日本語表記とロシア語表記を併記した。位置関係を 分かりやすくするために、カムチャッカ州が欠けているが、本稿末尾に極東共和国の地図 を載せた。 Ⅰ.沿海州:ウラジオストク市域(Владивостокский городской)、ニコリスク・ウスリー スク市域(Никольск-Уссурийск городской)、バラバシュ(Барабашский)地区、ジャリ コフスキー(Жариковский)地区、チェルニゴフスキー(Черниговский)地区、ヤコブ レフスキー(Яковлевский)地区、ゼニコフスキー(Зеньковский)地区、ヴェデンスキ ー(Веденский)地区、ハバロフスク市域(Хабаровский городской)、ハバロフスク農村 地区(Хабаровский сельский)、ノヴォネジュノ(Новонежинский)地区、キエフ (Киевский)地区。 Ⅱ.アムール州:ルフロフスキー(Рухловский)地区、マグダガチンスク (Магдагачинский)地区、レイスク(Лейский)地区、マザノフスキー(Мозановский) 128 新美治一『全ロシア憲法制定会議論』2011 年 3 月、p273。 129 上田秀明『極東共和国の興亡』1990 年 11 月、p132。; Воля, 1921. январь. 13, № 205, С. 2. 130 Шерешевский Б. М., В битвах за Дальний Восток 1920-1922, 1974, С.43. 131 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 93. 132 本稿の日本語表記では、『район』は「地区」、『городской район』は「市域」、『сельский район』 は「農村地区」、『заводский район』は「工場地区」で統一した。
23 地区、シマノフ(Шимановский)地区、スロボロ・ウスペンスク(Слободо-успенский) 地区、ヴォツカレフ(Бочкаревский)地区、イワノフ(Ивановский)地区、ポルタフス ク(Полтавский)地区、ザビチンスク(Завитинский)地区、オブルチエフスク (Облучьевский)地区、アルハリンスク(Архаринский)地区、ブラゴベシチェンスク (Благовещенский)地区。 Ⅲ.東部ザバイカル州:チタ市域(Читинский городской)、チタ農村地区(Читинский сельский)、シルキンスク(Шилкинский)地区、ネルチンスク(Нерчинский)地区、カ ザーク(Казаковский)地区、スレテンスク(Сретенский)地区、バグダンスク (Богданский)地区、ネルチンスク工場地区(Нерчинский заводский)、アレクサンドロ 工場地区(Александро-заводсксий)、バルジン(Борзинский)地区、オロビャンスク (Оловянский)地区、アジンツク(Агентский)地区、アクシンスク(Акшинский)地 区。 Ⅳ.西部ザバイカル州:ヴェルフネウジンスク市域(Верхнеудинский городской)、ヴェ ルフネウジンスク農村地区(Верхнеудинский сельский)、ペロトフスク工場地区 (Петровско-заводский)、ビツルスク(Бичурский)地区、クラスノヤルスク (Красноярский)地区、トロイツコサフスク(Троицкосавский)地区、クリスク (Кульский)地区、モグゾン(Могзонский)地区、バルグジン(Баргузинский)地区。 Ⅴ.サハリン州:ニコラエフスク・ナ・アムーレ市域(Николаевский на Амуре городской)、アレクサンドロフスク(Александровский)地区。 Ⅵ.カムチャッカ州:ペトロパウロフスク(Петропавловский)地区、オホーツク (Охотский)地区。 憲法制定会議のメンバーは、これら51 個の選挙地区から選出されることを必要とした (同法第2 条)。上述の選挙地区133(地区、市域、農村地区、工場地区)は、票の提出のために、 さらに小さな複数の区134に分割された(同法第2 条)。ただし、選挙実務をみると、上記の 選挙地区とは別に、追加の選挙地区が設置されていることがわかる。具体的な事例は、時 節で挙げる。追加の地区の設置は、(後述の)州委員会によって行われた。選挙は、中国の 領域を通る中東鉄道接収地帯でも行われた135。加えて、人民革命軍兵士の選挙参加のため 133 『район』。本稿での日本語表記は、「地区」で統一した。 134 『участок』。本稿での日本語表記は、「区」で統一した。 135 Сонин В. В., Государство и право Дальневосточной Республики (1920-1922 гг.) Монография, 2011, С. 95.