木庭・田井・上田・沖原:サッカーのゲーム分析のための原理論構築に向けたスポーツのゲーム構造論に関する研究 PNNOMMVNOS
サッカーのゲーム分析のための原理論構築に向けたスポー
ツのゲーム構造論に関する研究
―「身体運動競技(スポーツ)
」の基底詞としての「競技」概念の検討―
1 原著論文木 庭 康 樹
(広島大学)O田 井 健太郎
(東京医科歯科大学)P上 田 丈 晴
(横浜マリノス株式会社)Q沖 原 謙
(広島大学)RN A study of the structure of sports game for the analysis of soccer game - a consideration of the concept of competition in sport
-O Kohki KINIWA, University of Hiroshima, Graduate School of Integrated Arts and Sciences, NJT Kagamiyama N-chome, Higashi-Hiroshima, JAPAN, TPVJURON
P Kentaroh TAI, Tokyo Medical and Dental University, College of Liberal Arts and Sciences, OJUJPM Kohnodai, Ichikawa, JAPAN, OTOJMUOT
Q Takeharu UEDA, Yokohama Marinos LTD, M M21 Training Center , SJO Minatomirai, Nishiku, Yokohama, JAPAN, OOMJMMNO
R Ken OKIHARA, University of Hiroshima, Graduate School of Education, NJN Kagamiyama 1-chome, Higashi-Hiroshima, JAPAN, TPVJUROQ
Abstract
This study aims to clarify the structure of sports games in order to analyze soccer games. In this paper, we paid our attention to “gymnos agon (bodily movement competitions)” of ancient Greece that are the origin of sports, and particularly considered “agon (competition)” which is the basis of the meaning of this word.
We focused on the structure of “competition” as “play” to clarify the concept of “competition” that is the basis for the meaning of “bodily movement competition”. By doing so we were able to formulate the function of this structure by the following comparative function.
On a condition of r, AG = cf(a,b) = a>b, a=b, a<b
(where, r : rule, AG : agon, cf : comparative function, a : contestant, b : opponent, > : win, = : draw, < : loss)
In this paper, we put various functions that convert all bodily movement of contestants into the numerical formula in the above function of competition, using the concept of “nested functions (to put a function in another function)”, for the consideration of “bodily movement related to competition” that is our future topic of this study. We were able to connect the function of competition with “bodily elements” of sport structure that Tomihiko Sato had presented.
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Since the bodily movement of sport is prescribed by the above function of competition, it is not very effective to consider the bodily movement regardless of the “competition” by taking out the bodily movement from the sport. Our future topic is to consider the concept of “bodily movement” that is an attribute of “bodily movement competitions”, and the last aim of this study is to clarify the entirety of “bodily movement competitions (sports)” on the basis of the results considered in this paper.
Key words: play (game), comparative function, function of competition, nested functions, sport structure キーワード:遊戯(ゲーム),比較関数,競技関数,ネスト,スポーツ構造
はじめに
NVSU年のメキシコ五輪における銅メダル獲得 以来低迷を続けていた日本サッカーは,NVVP年 のJリーグ発足を機に,NVVU年フランスワール ドカップ初出場,OMMO年日韓ワールドカップ開 催,OMMS年ドイツワールドカップ出場などを経 て,着実に競技力を向上してきている.また, OMMR年に財団法人日本サッカー協会(JFA)に よって掲げられた「JFAOMMR年宣言」では,と りわけ,OMNR年までの中期目標として,日本代 表チームが世界のトップN M のチームになるこ と,さらに,OMRM年までの長期目標として, FIFAワールドカップを再び日本で開催し,日本 代表チームがその大会で優勝することなどが示 されているNF.ただし,現在,国際サッカー連 盟(FIFA)の世界ランキング(OMMV年O月NN日 発表)OFにおいて,日本は,全OMT加盟国中PT位 と,データ上では,およそ全体の上位 R 分の N に相当するに過ぎず,上に示されている目標へ 到達するまでの道のりが長く険しいものである こともたしかであろう. 他方,すでに我が国においては,サッカーは もちろんのこと,ラグビーやアメリカンフット ボールの研究者や指導者,選手などから構成さ れる,日本フットボール学会(JSSF)がOMMP年 に発足し,さらに,翌年のOMMQ年V月には,そ の日本フットボール学会が編集する国際(英 文)学術誌である「Football Science」が,オン ラインジャーナルとしてスタートしており,我 が国のサッカー界も,ようやくその科学的地歩 を固めつつあると言える. だが,その「Football Science」の過去の論文 一覧を見ても明らかなように,それらは,バイ オメカニクス,運動学,生理学,栄養学,実験 心理学などといった,自然科学的な手法を用い た研究がほとんどであるPF.あるいは,それら の研究対象もまた,キックやヘディング,パ ス,さらには,フィジカルやメンタルなどと いった,サッカーの部分的な構成要素に限定さ れていることがわかる.すなわち,我が国の サッカー研究の場合,研究方法に関しては,自 然科学的な手法が主流を占めており,他方,研 究対象に関しては,サッカー文化やサッカー ゲームそのものを統合的な視野のもとで考察す るような研究は,未だ極めて少ないと言えよう. もちろん,サッカーの人文社会学的な研究に 眼を移せば,我が国でも,サッカーと近代国 家,サッカーと資本主義,フーリガンやサポー ターなどといった,サッカーを取り巻く様々な 社会的要因や社会現象に関する研究が,西欧を 横目に盛んに行われているQ F.これらの研究 は,フィールドワークによる現地調査やアン ケート,インタビュー,もしくは,既存の社会学理論や経済学理論などを用いて,サッカーそ のものの本質よりも,むしろ,様々な社会や民 族や時代における人間にとってサッカーがどの ような意味や価値を持つのかを問うものであ る.それらは,個々の選手や監督さらにはチー ムや試合などに関する批評やエッセイの類のも のから,かなり抽象度の高い学術的なものまで 非常に多岐にわたっているが,このようなサッ カーとそれを取り巻く環境との関係を考察する研 究は,今後も数多く蓄積されていくであろうRF. ただし,西洋哲学の祖として知られるプラト ンの『メノン』のなかで,ソクラテスが,「あ るひとつのものが何であるかを知らないとした ら,それがどのような性質のものかということ を,どうして……しることができよう」SFと述 べているように,まずは実体であるサッカーそ のものの本質が問われなければ,社会における サッカーの意味や価値といった,実体としての サッカーに付随する性質も,正確には明らかと なってこないはずである.このことは,たとえ ば,我々が,「りんご」の定義を,その性質で ある「赤い」とか「丸い」とか「甘い」などと 規定したとしても,実体である「りんご」の本 質―つまりバラ科の落葉高木の果実である云々 ―に到達できないのと同じであるTF. とりわけ,スポーツ哲学の分野において, 「サッカーとは何か」すなわちサッカーそのも のの本質を問う哲学的な研究は,すでに奥岡や 上田によって部分的に着手されているもののUF, 未だその問いに対して全面的な解答を与えるよ うな研究は行われていない.もちろん,このよ うな本質的な問いの探究は,個々人が抱いてい るサッカー観を否定するものではないがVF,も しも我々サッカー関係者が,サッカーそのもの の本質について「無知の無知」のまま,サッ カーの研究や指導に携わるとき,冒頭にふれた ような日本サッカー協会が掲げた目標の達成は おろか,我々は,そのようなサッカーについて の知識ならぬ誤った思い込みを抱いたまま,い つの間にかサッカーとはかけ離れたものをある 種真面目に追い求めてしまうということも,十 分あり得るのではないか. たとえば,すでに指摘した「Football Science」 の過去の研究対象の多くが,キックやヘディン グ,パス,さらには,フィジカルやメンタルな どといった,サッカーの部分的な構成要素に限 定されているのも,おそらくこのことに端を発 している.あるいは,サッカーの指導者のなか にも,「自分は日夜一生懸命指導しているが, なかなか成果があがらない」などと,自らの サッカー観に対して自信を失い,自分自身に反 省を迫られている指導者も多いのではないか. 我々は,サッカーそのものの本質についての無 知を自覚し,ソクラテスの言う「無知の知」NMF の地平から「サッカーとは何か」という問いと あらためて向き合う必要があるだろう. とりわけ,我々サッカー関係者が,日々精力 を注ぎ,最も興味を抱いている対象が,サッ カーの試合すなわちゲームである.我が国の サッカー界でも,個々のゲーム現象の分析は, 現場であれ,実験室であれ,ごく日常的に行わ れている事柄である.ただし,研究者であるか 指導者であるかを問わず,過去や現在において 生起しているゲーム現象をより客観的に理解 し,それらに対する評価や反省を,現在や未来 のゲームへと役立てていくためには,サッカー ゲームの本質についての明確な理解と,個々の ゲーム現象を分析するための思考枠組みが,あ らかじめ用意されていなければならないはずで ある. 本研究は,サッカーのゲーム分析のための原 理論構築に向けて,サッカーゲームの本質を哲 学的に探究し,個々のゲーム現象を成立せしめ るゲーム〈構造〉を明らかにすることを企図す るものであるNNF.また,そのようなサッカーの ゲーム〈構造〉の究明によって,我々は,サッ カーゲームをより客観的な研究対象として浮上 させ,スポーツ哲学以外のスポーツ社会学やス
ポーツ史,スポーツ経営学,スポーツ教育学, スポーツ心理学などの人文社会科学,さらに は,バイオメカニクスや運動学,スポーツ生理 学,スポーツ栄養学などの自然科学の観点か ら,サッカーゲームを総合科学的に分析するこ とも可能となってくるように思われる. なお,サッカーに限らず,球技スポーツの ゲーム構造に関する研究は,これまでも数多く 行われてきているがNOF,従来の研究における「構 造」の意味は,あくまでも,個々のスポーツ種 目におけるゲーム,たとえば,サッカーなら サッカーのゲーム,バスケットボールならバス ケットボールのゲームに見られる共通の特徴や 形態を表すものであって,筆者が以下の研究方 法論で述べる,構造主義の〈構造〉とは明らか に異なる.この問題を含めて,次章では,サッ カーゲームの本質へと迫るためのルート探索を 開始してみることにしよう.
1.研究方法について
さて,サッカーゲームの本質すなわち「サッ カーゲームとは何か」についての究明が,本研 究の最終的な課題であるとしても,サッカー ゲームは,おそらく文化としてのサッカーに 見出される一つの局面であるしNPF,また,その サッカーは,通常,スポーツのなかでも球技ス ポーツに分類されるものである.「サッカー ゲームとは何か」が問われる前に,まずは「ス ポーツとは何か」,次に「球技スポーツとは何 か」,それから「サッカーとは何か」が順に明 らかにされるべきであるように思われる. ただし,その「スポーツとは何か」というス ポーツ哲学にとっての普遍的な問いに正面から 解答を与えることは,明らかに本研究の考察の 範囲を超えており,また,かりにその解答が得 られたからといって,たちまちそれがサッカー のゲーム分析の原理論構築に有効であるとは限 らないだろう.なぜなら,個人競技や採点競技 などを含めたスポーツに関する包括的もしくは 網羅的な理解は,サッカーのゲーム分析には直 接関わってこないと考えられるからである.つ まり,本研究では,あくまでも,「サッカーと は何か」や「サッカーゲームとは何か」が明ら かにされる程度に,あるいは,サッカーのゲー ム分析の原理論構築に資する程度に,「スポー ツとは何か」が明らかにされる必要がある. では,その「スポーツとは何か」を明らかに する方法について思索をめぐらしてみると,最 初に我々に思い浮かばれるのは,「スポーツ」 への語源的アプローチであろう.周知の通り, もともと「スポーツ」―「s p o r t (英)」, 「Sport(独)」 ,「sport(仏)」―は,ラテ ン語の「deportare(生活から離れる)」に由来 し,古代フランス語の動詞「desporter」(もの を運ぶのをやめる,働かない,はしゃぎ回るな どの意)や名詞「desport」(気晴らしをする, 遊ぶ,楽しむなどの意)を経て,現在の形に 至ったと言われる.だが,上の「desporter」や 「desport」といった語の意味からは,せいぜい スポーツの遊戯的な性格を窺い知ることができ るに過ぎず,現代の我々が,実際行ったりテレ ビや新聞で見たり聞いたりしている「スポー ツ」をイメージするには,やや具体性に欠ける と言ってよいだろう.明治期に西欧から日本に 移入された「スポーツ」の淵源へと立ち戻り, そこから「スポーツとは何か」すなわちスポー ツ概念の検討を行うには,「d e s p o r t e r 」や 「desport」とは異なり,しかも,ラテン語の 「deportare」よりも以前において,所謂「ス ポーツ」を指し示していた語に着目してみる必 要がある. それが,古代ギリシア語の「ギュムノス・ア ゴーンgymnos agon」である.この語は,古代 ギリシア語で「裸のからだの」という意味の形 容詞「ギュムノスgymnos」と「競技」を表す名 詞の「アゴーンagon」がそれぞれ合わさってで きた複合語であり,詩や演劇などのコンクール – –として存在した「文芸競技(ムゥシコス・ア ゴーンmusikos agon)」や動物を競争の手段と す る 「 馬 術 競 技 ( ヒ ッ ピ コ ス ・ ア ゴ ー ン hippikos agon)」などと並んで,古代オリンピ ア競技会などにおける一部門を指していた語で ある.とくに,現在の日本語のみならず,ドイ ツ語や古代ギリシア語などにおいても,複合語 の場合,前に置かれた語が修飾の機能を持つ 「限定詞」であり,後の語が意味の基幹を担う 「基底詞」であることは,文法上,共通した特 徴 で あ る . ま た , 通 常 , 古 代 ギ リ シ ア 語 の 「ギュムノス・アゴーン」は,日本語で「運動 競技」と訳されるが,本研究では,とくに,古 代ギリシア語の「ギュムノス」という形容詞が 「アゴーン」や「テクネー(技術)」NQFとの関 わりにおいて担っていた意味内容をできるだけ 忠実に日本語へと反映させるために,「ギュム ノス・アゴーン」を「身体運動競技」として訳 出しNRF,この「身体運動競技」という複合語か らスポーツ概念へと迫ってみることにしたいと 思う. そして,上のような複合語の構成法からすれ ば,「身体運動競技」は,基底詞である「競 技」に,限定詞である「身体運動」が付与され てできた語であり,意味の根幹は,「身体運 動」ではなく「競技」の方に存在する.つま り,上の「身体運動競技」のうち,限定詞にす ぎない「身体運動」をいくら詳細に考察したと しても,基底詞である「競技」に対する概念的 検討が等閑にされたままであるなら,「身体運 動競技」という複合語の概念を総体として明ら かにすることはおそらくできないだろう.した がって,このことからも自ずと明らかなよう に,本研究における「スポーツとは何か」につ いての考察は,「競技そのものについて」の 考察,「競技に関わる身体運動について」の 考察,「身体運動競技すなわちスポーツにつ いて」の考察といった手順ですすめられること になる. では,その「スポーツとは何か」という問い に対して,具体的にはどのような手立てによっ てアプローチしていけばよいのだろうか.上で も少しふれたように,スポーツは,国や時代, 集団や個人それぞれの種目の別,さらにはプロ やアマなどの違いによって千差万別であり,そ うした現実に無数に生起しているスポーツのす べてに共通する本質を描き出すことは,非常に 困難な作業であるように思われる.我々のス ポーツ観やサッカー観が個人によってそれぞれ 異なるのもこのためである. これに対して,言語や婚姻制度,神話などと いった文化の根底に無意識的な〈構造〉が存在 することに着目し,時や所によって多様に生起 している文化現象の「深層構造」を抽出するこ とで,そうした表層での社会的特殊性もしくは 個人の意思や態度による主観性をおよそ無化す ることに成功したのが,ソシュールやレヴィ・ ストロースなどに代表される構造主義である. もちろん,一口に〈構造〉と言っても,構造主 義内部での意味の違いには注意を要するが,一 般的に構造主義の言う〈構造〉には,次のよう な四つの特徴が認められている.すなわち,第 一に「体系性」―ものを統一する相互連関―, 第二に「機能性」―体系内部での働き―,第三 に「対立性」―二項対立の変換システム―,第 四に「中和性」―自動調整機構―である.な お,これらについての具体的な説明は,文化と してのスポーツ〈構造〉を事例にして,本稿の第 三章で行う予定であるが,上のような構造主義の 〈構造〉と一般に言われる「構造」との意味の混 同を避けるために,以下では,ソシュールの提示 した「形相(forme)」と「実質(substance)」 の区別を見てみたいと思う. スイスの言語学者,ソシュールは,個々の言 語における文法や語形などの歴史的変化の研究 に従事していた,従来の通時言語学に対して, 言語の機能そのものに着目しつつ,そのような 言語の歴史を捨象し,ある時点に釘付けした言 – – –
語の秩序を扱う,共時言語学を展開している. ソシュールによれば,人間のコトバは,「ラン ガージュlangage」と呼ばれる「シンボル化能 力」NSFが,英語やドイツ語,フランス語などと いった,差異の体系(システム)である「ラン グlangue」を生み出し,その「ラング」にもと づいて,個々の発話である「パロールparole」 が現実化するという〈構造〉を持つ.とくに, その「ラング」の体系を構成する記号としての 「シーニュsigne」は,音声印象である「シニ フィアンsignifiant」と意味内容である「シニ フィエsignifie」との結びつきによって成立し, また,両者の結合は,自然的根拠を持たず,完 全に恣意的であるとされる.さらに,「シニ フィアン」は,他の「シニフィアン」との差異 にもとづく対立関係によって,他方「シニフィ エ」も,他の「シニフィエ」との差異にもとづ く対立関係によって,それぞれ決定されるた め,「ラング」は,ソシュールによって,完全 に恣意の体系であると見なされている. た と え ば , 日 本 語 の 「 犬 」 と い う 「 シ ー ニ ュ 」 を 例 に 挙 げ て み る と , 「 犬 」 と い う 「シーニュ」は,「古くから家畜化されている 哺 乳 類 で , 『 ワ ン ワ ン 』 と 鳴 く 動 物 で あ る 云 々 」 と い う 「 シ ニ フ ィ エ 」 が , 「 猫 」 や 「狼」といった別の「シーニュ」の意味内容と 区別され,また他方,‘i n u ’という「シニ フィアン」が,‘isu’や‘ine’といった別の 「シーニュ」の音声印象と区別された結果,両 者が結合してできたものである.ちなみに,こ の「犬」という「シーニュ」が機能するのは, 日本語という「ラング」においてのみであり, 英語やドイツ語などのそれにおいては不可能な のである. とりわけ,ここで重要なのは,「シニフィア ン」と「シニフィエ」が両者とも心的存在であ り「ラング」内の要素であって,たとえば,前 者が言語対象で,後者が物質音であると考えて はならないということである.つまり,個々の 言葉や記号が如何なるものであるかは,「ラン グ」の記号システム内部の論理によって決まる ため,音やインクなどの素材には左右されない のである.そして,ソシュールは,この「ラン グ」の記号システムを「形相(forme)」と呼 び,その「形相」を通して物質化ないし感覚与 件化された素材を,「実質(substance)」と呼 んでいる17F.個々の言語行為であり言語現象で ある「パロール」は,まさに,この「実質」と して発現してくるのである. したがって,このソシュールによって提示さ れた「形相」―「実質」という対立概念は, 「ランガージュ(言語能力)」―「ラング(言 語)」―「パロール(言語行為)」といった重 層的な概念とともに,多種多様に生起するサッ カーのゲーム現象を,個別的なレベルから普遍 的なレベルに至るまで統合的に把握するための 分析概念として機能すると見なすことができる ではないだろうか.すなわち,本研究の方法論 的な観点から言えば,我々が普段目にしている サッカーのゲーム現象は,現実に多種多様な形 でしかも無数に生起しているが,それらは,あ くまでも,個々のサッカーの実践者や用具や環 境条件などの素材をまとった「実質」(パロー ル)である.むしろ,我々は,そのような「実 質」(パロール)としてのサッカーのゲーム現 象ではなく,個々のサッカーのゲーム現象を成 立せしめている「形相」(ラング)の方に着目 することで,南米スタイルやヨーロッパスタイ ルといったサッカーの社会的・地理的・民族的 な特殊性や,ジーコやマラドーナといった個人 の意思や態度による主観性をおよそ捨象した, サッカーのゲーム〈構造〉へと迫ることができ るだろう. 以上のように,本研究では,まず,「サッ カーゲームとは何か」という問いに答えるため の「スポーツ構造論」を構築した上で,その 後,スポーツの空間論,スポーツの時間論,ス ポーツの用具論などの素材的対象を扱う研究と
して,スポーツする主体を問題にする現象学も 含めた「スポーツ現象論」を展開していく予定 である.なお,先にも述べたように,本研究 は,「競技そのものについて」の考察, 「競技に関わる身体運動について」の考察, 「身体運動競技すなわちスポーツについて」の 考察といった手順で検討をすすめていくことに するが,とりわけ,本稿では,の「競技その ものについて」の考察,つまり「身体運動競技 (スポーツ)」の基底詞としての「競技」概念 の検討を重点的に行い,の「競技に関わる身 体運動について」との「身体運動競技すなわ ちスポーツについて」の考察については,紙面の 関係上,今後の課題とすることにしたいと思う.
2.競技そのもののについて
a) 「競技」体系の基盤としての遊戯〈構造〉 では,いよいよ「身体運動競技」の基底詞を 担う「競技」そのものの考察に入っていくこと にするが,先に我々は「スポーツ」の直接の語 源である古代フランス語の「d e s p o r t e r 」や 「desport」といった語の意味からスポーツの遊 戯的な性格を窺い知ることができたように,ま ずは「競技」をその遊戯性の観点から把握して みることにする.遊戯論については,その先駆 者であるホイジンガ,さらに,彼の批判的継承 者であるカイヨワ,そして,両者とは異なる立 場から「遊び」を論じたアンリオの順に検討を 行うのが一般的である.ただし,本研究では, 従来の代表的な遊戯論を,上のような時系列に 即して見ていくのではなく,むしろ,遊戯とし ての「競技」の〈構造〉が明らかにされるよう な仕方で見ていく必要がある. つまり,本研究において着目すべきは,鬼 ごっこやブランコ,ままごとなどの子供の遊 び,さらには,チェスやトランプ,宝くじや ルーレット,スポーツや芸術などといったすべ ての遊戯現象を成立せしめる遊戯〈構造〉であ る.とりわけ,その遊戯〈構造〉に含まれる 「ラング」としての「遊び」の体系(システ ム)が明らかにされるならば,その体系の内部 に差異化されて存在する「競技」の体系の基盤 もまた,自ずと明らかになってくるはずである. たとえば,先に見たソシュールの「ランガー ジュ(言語能力)」―「ラング(言語)」― 「パロール(言語行為)」という分析概念を遊 戯論の考察に援用してみると,英語で“I play soccer.”と言う場合,その意味は「私はサッ カー(という遊びあるいはスポーツ)をする (遊ぶ)」ということになるが,上の文の中で 言われている「遊び」(サッカー)と「遊ぶ」 の間には,人間のコトバの場合と同様に,ある 種の〈構造〉が介在していることがわかる.す なわち,ちょうど我々が日本語を話そうとする とき,この「話す」という行為(パロール)に 先立って,日本語のシステム(ラング)が存在 していなければならないように,上の文の中 で,私によって遊ばれている「サッカー」(ラ ング)は,私自身の「遊ぶ」という行為(パ ロール)に先立って存在していなければならな いだろう. また他方,その「ラング」としてのサッカーが 一つの体系として存在するためには,人間の 「シンボル化能力」の一つである〈遊ぶ〉(ラ ンガージュ)が,実存的なレベルにおいて存在 していなければならないはずである.フランス の実存主義哲学者,アンリオは,遊び手の内部 における意識の二重性を実存論的に主題化し, 〈遊ぶ〉主体の「二重構造」を提示している. アンリオによると,〈遊ぶ〉主体としての人間 は,「要するに遊びにすぎないのだという確信 のもとに,自分の現にしていることをおこない つつある自分を,自分で眺めているとでもいう 具合」NUFに「二重に分身」した存在なのである. 「遊ぶことのできる存在として措定される存 在は,自己自身の今あるがままの存在に対して みずから距離を設定することができなければならない」NVF.そして,この自己自身に対する 距離設定(余白としてのあそび)によって, 「遊び」の世界の「非実在化」が生じ,さらに は〈遊ぶ〉主体の内部で,現実の覚醒を失うこ となく「ふりをする」というイリュージョンの 志向が働いて(「遊び」の世界への加入),編 成された「遊び」が創設されるのであるOMF. そして,上のようなアンリオの言う主体内の 〈遊ぶ〉を,編成された「遊び」―すなわち体 系的な構造としての「遊び」―へと位相転換さ せる過程を,別の観点から説明しているのが, ヘーゲルやマルクスによって提唱された「疎外 Entfremdung」という概念である.かれらの言 う「疎外」とは,あるものが自ら造りだしたもの によって逆に支配されるといった関係様態のこ とであり,また,この「疎外」によって実体化 し,個々人から独立した構造体として存在する のが,「疎外態」である.たとえば,この「疎 外」については,大塚が「群集の比喩」を用い て説明しているように,スポーツの観戦などに 見られる「群衆」の力は,そこに集まった諸個 人の力の総和であるにもかかわらず,その「群 集」を形作る諸個人からは独立し,むしろ対立 するものとなっているONF.つまり,「群集」の なかでは,諸個人の意思や態度はほとんど無化 され,皆が「群集」の力や流れに身を任せるし かなくなってしまう.そして,この「群集」と同 じように,言語や芸術,宗教,スポーツといっ た様々な文化も,もともと我々人間が生み出し たものであるにも関わらず,まさに「疎外」に よって実体化し,個々人から独立した構造体― すなわちソシュールの言う「ラング」として― 我々を支配するに至っているのであり,それらも また「疎外態」と見なすことができるのである. とくに,マルクスは,『経済学・哲学草稿』 のなかで,ヘーゲルが『精神現象学』の自己意 識の段階で述べている「類」の自覚を念頭に置 きながら,人間を「類的存在 Gattungswesen」 と見なし,人間の「類」による自己把握や対象 化能力について,次のように述べている.「人 間は一つの類的存在である.というのは,人間 は実践的にも理論的にも,彼自身の類をも他の 事物の類をも彼の対象とするからである」OOF. 一方,「動物はその生命活動と直接的に一つで ある.動物はその生命活動から自分を区別しな い.動物とは生命活動そのものなのである.人 間は自分の生命活動そのものを,自分の意欲や 自分の意識の対象にする.彼は意識している生 命活動をもっている」OPF.それゆえ,人間は, 動物とは異なり,自分の生命活動に必要なもの だけではなく,全自然を対象とし,意識的かつ 自由に,その対象的世界を加工することができ るのであるOQF. これに対して,マルクスが述べているよう に,疎外された労働は,この類生活すなわち自 由な活動を単なる生命活動の手段へと引き下げ てしまう.もちろん,このことが,マルクスに とって資本主義経済への批判的論拠となってい るのであるが,むしろ,先のアンリオとの関係 において重要なのは,マルクスが,「人間は, たんに意識のなかでのように知的に自分を二重 化するばかりではなく,制作活動的,現実的に も自分を二重化する」ORFと述べていることであ る.というのも,この「自己の二重化」によっ て人間は,自らによって創造された世界,すな わち,疎外態のなかで自己自身を直観すること ができるからである. したがって,もう一度,アンリオの遊戯論に 立ち戻ってみるならば,アンリオの言う〈遊 ぶ〉主体の「二重構造」は,上でマルクスが述 べているような,人間の意識における「自己の 二重化」を意味するものであり,また他方,そ の「自己の二重化」は,ソシュールの言う「ラ ンガージュ」としての「シンボル化能力」であ ると見なすことができるのではないだろうか. つまり,アンリオの言う「遊び」の創設とは, 主体内で距離化された自己と自己の分身による 〈遊ぶ〉を,編成された「遊び」すなわち体系
的な構造としての「遊び」へと位相転換するこ とであった.このことを,ソシュールやマルク スの言葉で言い換えるなら,主体内の「自己の 二重化」による〈遊ぶ〉(ランガージュ)が, 対象化され,外化されることで,疎外態として の「遊び」(ラング)へと顕在化されるという ことになるのである. ところで,西村は,上のようなアンリオの言 う〈遊ぶ〉主体を念頭に置きつつ,現象学的な 観点から〈遊び〉について論じている.西村に よれば,〈遊び〉とは,「ある特定の活動とい うよりも,ひとつの関係であり,この関係に立 つものの,ある独特のありかた,存在様態であ り,存在状況である.それは,ものとわたしの あいだで,いずれが主体とも客体ともわかちが たく,つかずはなれずゆきつもどりつする遊動 のパトス的関係である」OSF.つまり,シーソー やブランコ,赤ん坊の「がらがら」などに見ら れる,宙づりの相互期待と同調という共有関係 の枠組みこそが,遊び手と遊び相手という両項 の間の遊動―すなわち,ゆきつもどりつする往 還運動―に存在する,遊びの構造の最も単純な 骨組みでありOTF,また,そのような遊びの基本 構造は,鬼ごっこやかくれんぼ,花いちもんめ などに見られる遊戯関係の応答(かけ合い), 解の宙づり(指名),役割交替(交換)にも はっきりと観察されるものなのであるOUF.そし て,「遊ぶ子どもは,この関係図式のなかで, けっして自由ではない.しかしそれだからこ そ,かれらは鬼ごっこの鬼と子の役割のよう に,あるいはシーソーの両端のように,この関 係図式の各項,それぞれの役割を自由にとりか え,いれかわることができる」OVFのである. このように,西村の言う〈遊び〉の関係構造 は,「ラング」としての「遊び」ではなく,む しろ,アンリオの言う〈遊ぶ〉主体の二重構 造,すなわち「ランガージュ」としての〈遊 ぶ〉に近いことがわかるPMF.つまり,アンリオ の場合には,「自己(主体)」とそれによって 「対象化された自己(客体)」との関係を論じ ていたが,西村の場合には,そのような「主 体」と「客体」との関係に加え,両者の能動性 や受動性を問題にしているのである.しかも, 西村の言う「主体」と「客体」,もっと具体的 に言えば,遊び手と遊び相手は,両者の間の往 還運動によって相互に交替し,両者がともに 「遊ぶもの」であると同時に「遊ばれるもの」 になっているのである. また,上のような西村の言う〈遊び〉の関係 構造は,物的存在である玩具に対しても言われ ている.西村によると,「玩具の玩具性とは, 遊びの隙,遊びの場所を遊びに提供し,そこ で,あるいはそれに即して,遊び関係が,遊動 の同調の輪がひとつにむすばれるように遊び手 にそそのかす,いわば『相即性』とでもいうべ き存在性格にある」PNF.ただし,西村が注意を 促しているように,遊びをそそのかす玩具の呼 びかけに応えて,遊動の同調の輪をひとつにむ すぶ遊び関係のむすび目は,遊び手である.玩 具自身が,このむすび目ではありえない.だ が,一旦この関係が成立するときには,つま り,遊ぶものは同時に遊ばれるという,遊びの 存在の中動相―すなわち,主・客の分かちがた い再帰的な事態―にあっては,玩具もまた,こ の相互に交換可能な遊びの関係の一項として, それ自身一個の遊び相手なのであるPOF. そして,ここでもう一度アンリオに立ち戻っ てみると,先にも指摘したように,アンリオの 言う「遊び」の創設とは,主体内で距離化され た自己と自己の分身による〈遊ぶ〉を,編成さ れた「遊び」すなわち体系的な構造としての 「遊び」へと位相転換することであった.ま た,このことを,ソシュールやマルクスの言葉 で言い換えるなら,主体内の「自己の二重化」 による〈遊ぶ〉(ランガージュ)が,対象化さ れ,外化されることで,疎外態としての「遊 び」(ラング)へと顕在化されると言うことが できたのである.ならば,上で見たような西村
の言う〈遊び〉の関係構造もまた,編成された 「遊び」すなわち体系的な構造としての「遊 び」へと位相転換され,「遊び」の体系(シス テム)として顕在化していると考えられるので はないだろうか.つまり,遊び手と遊び相手の 間 の 往 還 運 動 を 支 え る 〈 遊 ぶ 〉 ( ラ ン ガ ー ジュ)の関係構造が,疎外態としての「遊び」 (ラング)へと外化されるとするならば,その 疎外態としての「遊び」(ラング)の中にも, 遊ぶものは同時に遊ばれるという関係構造が内 在していなければならないはずである.という のも,先に見たマルクスの言に擬えるならば, 〈遊ぶ〉主体は,まさに,自らによって創造さ れた「遊び」,すなわち,疎外態としての「遊 び」のなかで自己自身を直観することができる からである. b) 「競技」の関数定義 さて,以上のように,本研究は,アンリオや 西村の遊戯論をマルクスの疎外論やソシュール の構造論の観点から見てきたわけであるが,そ もそもの目的は,すべての遊戯現象を成立せし める遊戯〈構造〉であり,とりわけ,その遊戯 〈構造〉に含まれる「ラング」としての「遊 び」の体系(システム)であった.そして,こ れまでの考察により,その「ラング」としての 「遊び」には〈遊ぶ〉主体の関係構造が顕在化 していることが示唆されたのである.つまり, 「ラング」としての「遊び」の内部には,「遊 ぶもの」と「遊ばれるもの」という二項対立関 係が存在する.しかも,両項は,役割交替が可 能であるから,二項対立の変換システムを構成 し,また,それぞれの項が,互いに能動として も受動としても働くので,相互規定性を持つこ とがわかる.言わば「ラング」としての「遊 び」は,「働きかけるもの」と「働きかけられ るもの」によって成立する統合的なシステムな のである. とりわけ,そのような遊戯〈構造〉に含まれ る「ラング」としての「遊び」の体系(システ ム)は,そのシステムの内部に差異化されて存 在する「競技」の体系の基盤となる.では実際 に,その基盤としての「遊び」の体系は,どの よ う な 形 で 表 現 さ れ う る の で あ ろ う か . ソ シュールやレヴィ・ストロースに代表される構 造主義は,言語や婚姻制度,神話などといった 人為の領域において,自然法則に還元不能な独 自の必然的な法則が存在することを示し,その 法則を数式化することに成功し得たのである が,本研究も,同じように,今問題にしている 「ラング」としての「遊び」の体系を,何らか の形で数式化してみる必要があるだろう. つまり,結論から言えば,「ラング」としての 「遊び」の体系は,以下で述べるような「比較関 数」によって表される.「比較関数comparative function」とは,cf(a,b) が,a>b, a=b, a<b の Pつの値に写像する関数のことである.それ は,一般の数学ではあまり聞かれない言葉であ るが,コンピュータのプログラミング言語にお いては,しばしば使用され,論理関数(論理を 組み立てて返ってくる答えを選択させる数式) の基本要素となるものである.そして,その論 理関数は,我々が普段コンピュータで表計算に 使用するマイクロソフトのエクセルにも,その機 能の一つとしてそなわっているPPF.すなわち, エクセルにおいて,論理関数は,比較演算子 (<,>,=,≠,≦,≧,etc.)を用いて, 式の左辺と右辺を比べる数式を意味する.その 数式の右辺と左辺の関係―たとえば,セルA-P とセルC-NMの関係―が,比較演算子通りであれ ば,論理関数は,論理値「TRUE」を返し,比 較演算子通りでなければ,論理関数は,論理値 「FALSE」を返す.要するに,エクセルにおい て使用される比較関数とは,検索,位置指定, 選択コマンド,および,検索条件登録コマンド の中で,ある項目値と比較する対象値と比較 方法を指定するために使用される関数なので ある.
したがって,「ラング」としての「遊び」の 体系内部において,独立変数となる「遊ぶも の」と「遊ばれるもの」という二項対立の変換 システム,すなわち,遊戯関数は,比較関数: cf ,独立変数:a, b(遊動項),比較演算子: >,<,=,≠,≒,条件:|,ルール:r,に よって以下のように表すことができるだろう.
cf(a,b) = a>b, a=b, a<b,a≠b, a≒b | r
ただし,これは,まだ「ラング」としての 「遊び」の体系を表す,遊戯関数であるにすぎ ない.むしろ,本研究が明らかにすべきは,あ くまでも,その「ラング」としての「遊び」の 体系内部に差異化されて存在する「競技」の体 系,すなわち競技関数の方であるから,「ラン グ」としての「遊び」の体系内部をさらに詳細 に把握するために,次のようなカイヨワの「遊 び」の分類を見ておく必要がある. フランスの社会学者,カイヨワは,ホイジン ガの「遊び」の定義,すなわち,「自由性ある いは自発性」「時間・空間的制限性」「規則 性」「虚構性」「自己目的性(没利害性)」な どの要素から構成される「カテゴリーとしての 遊び」をほぼ踏襲しつつ,それらに「未確定 性」を加え,よく知られている「アゴーン(競 技)」―競争的・競技的な遊び―,「ミミク リー(模擬)」―物真似あるいは変装の遊び ―,「アレア(運)」―賭けごとなどの,運あ るいは偶然による遊び―,「イリンクス(眩 暈)」―眩暈あるいは知覚の不安定化による遊 び―といった類概念を,個々の遊びの活動形態 を整理する軸として導入している.このカイヨ ワの「活動形態としての遊び」は,ホイジンガ の「カテゴリーとしての遊び」とは異なり,あ る対象を分析するための視点・視座として機 能するものではないがPQF,「ラング」としての 「遊び」の体系内部で差異化される活動形態を類 型的に把握する際には,有効な分類基準となる. たとえば,上のカイヨワの「遊び」の分類を それぞれ,先に提示した遊戯関数に当てはめて 考えるならば,まず,物真似あるいは変装の遊 びとしての「ミミクリー(模擬)」は,コピー として「真似するもの」(遊動項)と,そのモ デルとして「真似されるもの」(遊動項)を比 較して,「似ているか,似ていないか」を判定 するシステムであるから,そのような模擬関数 を,次のように表すことができる.
cf(aN, bN) =aN≒bN,aN≠bN | rN
また,賭けごとなどの,運あるいは偶然によ る遊びとしての「アレア(運)」は,賭けの選 択肢としての「賭けるもの」(遊動項)と,賭 けの対象としての「賭けられるもの」(遊動 項)を比較して,次のように「当たったか,当 たらなかったか」を判定するシステムである.
cf(aO, bO) =aO=bO,aO≠bO | rO
そして,本研究の考察対象である競争的・競 技的な遊びとしての「アゴーン(競技)」は, 「競技者」(遊動項)と「対戦相手」(遊動 項)の力量を比較して,「勝ち,引き分け,負 け」といった優劣をそれぞれ判定する,以下の ようなシステムとして表すことができるのでは ないだろうかPRF. cf(aP, bP) = aP>bP, aP=bP, aP<bP | rP ただし,これは,あくまでも,スポーツだけ でなく,チェスやトランプ,将棋なども含んだ 「アゴーン(競技)」の関数定義であることに 注意する必要があるが,とりわけ,スポーツを こうした優劣判別のシステムとして捉える考え 方は,すでに他のスポーツ研究者によっていく つか提起されている.たとえば,寒川は,必ず しもスポーツという語で表されることはないに
しても,様々な形で運動競技というものが社会 に存在すると述べた上で,「生命の安全をとり 決め合った空間の中で,一定のルールに従って 進行する優劣判別の文化装置」にスポーツの同 一性を見ているPSF.また,川谷も,カントの哲 学の観点からスポーツ倫理学を展開しつつ, 「競技概念は,私たちが『強さ』という事実を 構成し,解釈する枠組み(形式)として働いて い」PTFると述べて,スポーツを,「相対的身体 能力としての強さの比較」PUFと見なしている. この川谷の捉え方は,上の寒川のそれと極めて よく似ていることがわかるだろう. さらに,海外へ目を移してみると,エラン ベールは,サッカーのフーリガンがなぜ生ずる かを論じる際に,スポーツのゲームを「平等か ら出発して,最終的に不平等に達する過程」と 言い表し,すべてのスポーツは平等→不平等 「M→+/−」が,そのゲームを支配している と解釈する.エランベールの論旨は,このス ポーツにおける「M→+/−」という記号モデ ルが,近代社会が原則的に平等であるとして も,現実には避けられない不平等があることと 同型であると見なし,そこに人々がスポーツを 好む理由を見出そうとしているところにある. つまり,現実社会における富,身分,性などの 不平等(マイナス)の価値に対し,スポーツと いう遊戯的な事象を通して,自分たちが支持す るチームのプラスを,自分たちの平等(プラ ス)の価値へと転じようとする願望であるPVF. また,このエランベールの解釈に対して,多 木は,近代スポーツが,上の「M→+/−」の あとに,もう一度0に復帰することを常に主張 してきたとして,「+→M/−→M」がゲームの 過程を示すだけではなく,スポーツを社会的な 理想の実現のように見せかけていると主張して いるQMF.たとえば,ラグビーにおいて,「試合 終了」を意味する「ノー・ サイド(敵味方な し)」がそれである(ただし,エランベールや 多木には,「M→M」という「引き分け」のケース が見落とされている).エランベールや多木の ように,上のようなスポーツにおける「M→+ /−」や「+→M/−→M」という記号モデルに 社会的関係との同型性や近代スポーツのイデオ ロギーを看取するという点の当否は別として も,スポーツを,「勝ち(+)」「引き分け (M)」「負け(−)」といった優劣を判定す るシステムとして見なす,彼らの視点は,ス ポーツを比較関数として見る本研究の立場を補 強するものと考えられる. したがって,「ラング」としての「遊び」の 体系内部に差異化されて存在する「競技」の体 系は,競技関数:AG = cf(aP, bP) = aP>bP, aP =bP, aP<bP | rP,によって表すことができるの であり〔A G :アゴーン(競技)〕,これに よって,本研究は,「身体運動競技」の基底詞 である「競技」を,一つのシステムとして,言 わば「形相」的に把握することが可能となって くるのである.なお,この競技関数について は,まだいくつか注意すべき点が存在するの で,以下において,それらを確認してから,本 章をしめくくりたいと思う. まず,競技関数:AG = cf(aP, bP) = aP>bP, aP=bP, aP<bP | rP,のうち,条件(|)として存 在するルール(rP)についてであるが,ここで 言うルールとは,ルールブックや競技規則,大 会規則などの具体的なルール現象とは異なる. それらのルール現象(パロール)は,先に見た サッカーのゲーム現象の場合と同じく,紙やイ ンクなどの素材をまとった「実質」である.他 方,競技関数の内部のルールは,あくまでも 「形相」(ラング)の世界におけるルールとし て,それらのルール現象を成立せしめる機能な のである. たとえば,「ラング」としてのサッカーの ルールは,これと近接するであろう他の「ラン グ」としてのラグビーのルールやアメリカン フットボールのルールとは区別された差異の体 系として存在する.「ラング」としてのサッ
カーのルールの内部には,空間や時間などの 「環境要因」,ボールやゴールなどの「用具要 因」,ゲームの勝敗を決定する「目標要因」, ゲームを判定する「審判要因」(もちろん,こ れは,具体的な審判員や計測機器を意味するも のではない)などがそれぞれルール化の機能と して内在しており,これらの機能によって, 我々は,一般の競技規則にないオリジナルルー ル(少年サッカーや女子サッカーのルールな ど)や遊びのルール(サッカーのミニゲームや パスゲームのルール,ストリートサッカーの ルールなど)を「実質」(パロール)として無 限に生み出すことができるのである. また次に,競技関数:AG = cf(aP, bP) = aP >bP, aP= bP, aP<bP | rP,によって導き出される 比較値のあり方についてであるが,競技関数に おけるaPとbP(競技者と対戦相手)の項の比較 値は,あくまでもaP(競技者)の項がbP(対戦 相手)の項と対立する限りにおいて決定され る,関係的あるいは相対的な結果であって,実 体的あるいは絶対的な結果ではない.aP(競技 者)の項がbP(対戦相手)の項との対立によっ て決定された比較値,すなわち,aP>bP, aP= bP, aP<bPは,あくまでもaP(競技者)の項がbP (対戦相手)の項と対立する限りにおいて得ら れた値なのである.もしaP(競技者)の項が, bPの項とは異なる別のcP(対戦相手)の項と対 立したときには,当然のことながら,先の比較 値,すなわち,aP>bP, aP= bP, aP<bPは,あま り意味をなさない.比較関数の便利な点は,aP やbPの項のほかに,cPやdPやePやfPなどの項を加 えて,それぞれのすべてを比較すること―たと えば,複数の競技者によるコンテストやレース を成立させること―ができる点であるが,その ようにいくら項を増やしたとしても,ある特定 数の項による比較値は,その当該の項の間でし か意味をなさないのである. したがって,「より高く,より速く,より強 く」は,近代オリンピックの父であるクーベル タンが提唱したスローガンであるが,このス ローガンは,上で指摘したような「競技」にお ける相対的な事態の半面しか語っていない.な ぜなら,競技関数の比較値によって表されるス ポーツの結果は,あくまでも当該の対戦相手や ルールなどのシステム全体があってのことなの であり,筆者の立場から見れば,上のスローガ ンは,「より高く」,「より速く」,「より強 く 」 の 一 方 に , そ れ ぞ れ 相 対 的 な 「 よ り 遅 く」,「より低く」,「より弱く」が存在する ことを見落としていると考えられるからであ る.そして,このことは,NVUS年のメキシコ ワールドカップで優勝したアルゼンチン代表 チームとOMMS年のドイツワールドカップで優勝 したイタリア代表チームの強さの比較があまり 意味をなさないことを物語っている.それは, それぞれのチームが優勝した大会のルールや対 戦相手,用具,環境などがすべて異なっている からである. そして最後に,競技関数:AG = cf (aP, bP) = aP>bP, aP= bP, aP<bP | rP,のうち,独立変数 として存在するaPおよび bP(競技者と対戦相 手)の項について補足を加えてみると,本研究 でaPとbPを「項」として捉えるのは,それなり の意味があってのことである.なぜなら,aPと bPという独立変数の各々が必ずしも「人称性」 を持つとは限らないからである.つまり,この ことは,先に見たように,玩具による一人遊び が可能であったのと同じである.もしaPとbP を,それぞれ独立的な人物(個別的存在者)と してのみ捉えるのであれば,当然のことなが ら,aPとbPは別個の存在者でなくてはならない ことになり,一部の「個人競技」が成立し得な いことになってしまう.しかし,aPやbPのそれ ぞれを抽象的な「項」として見るならば,各々 には,「人称」だけでなく,コンピュータや記 録などの「物理的存在」や「抽象的存在」も, それぞれ変換することが可能となってくるので あり,また,これによって,我々は,上のよう
な競技関数がすべての「個人競技」を包括でき るものとして設定することも同時に可能となっ てくるのである. 以上,本章では,「身体運動競技」の基底詞 を担う「競技」概念を明らかにするために,遊 戯としての「競技」の〈構造〉に着目しつつ, これを,競技関数AG = cf(aP, bP) = aP>bP, aP = bP, aP<bP | rP,によって定式化することがで きた.今後の課題は,「身体運動競技」の限定 詞である「身体運動」についての考察である が,その限定詞としての「身体運動」は,「教 育」や「芸術」などとの関わりにおいてではな く,あくまでも「競技」との関わりにおいて立 ち現れてくる「身体運動」でなければならない はずであるQNF.本稿では,最後に,そのような 「競技に関わる身体運動」についての考察に向 けて,一度,佐藤の言う「スポーツ構造」と, 競技関数や「身体運動」との関連性を確認して おくことにしたいと思う.
3 .競技関数とスポーツ構造における
「身体的契機」について
さて,本研究は,これまで構造主義の方法を 用いて,スポーツすなわち「身体運動競技」の 基底詞である「競技」の考察を行ってきたが, このような所謂「スポーツ構造論」について は,本研究に先立ち,佐藤や内山,河野,高根 らQOFによってもすでに試みられている.とりわ け,佐藤は,われわれの目に運動として映じて いる「スポーツ現象」と,その現象の背後に あってそれをまさにそのように生起させている 「スポーツ構造」とを峻別し,「構造―現象」 という概念的二層化を行った上で,そのスポー ツ構造を,「知的契機」,「感性的契機」, 「身体的契機」といった三つのエレメントがそ れぞれ有機的に関連し合いながら自律的に存在 している複合的構成体として規定しているQPF. 佐藤によれば,これら三つのエレメントのう ち,「知的契機」は,技術や戦術,ルール,用 具,トレーニング法などの「知的営為の所産」 を,また,「感性的契機」は,ジェントルマ ン・シップや士道的な倫理観・美観など,個々 のスポーツ種目において倫理的にあるいは美的 に何を是とし何を非とするかの「価値観」を, そして,「身体的契機」は,個々の身体の使用 法やフォームやスタイルが客観化された身体技 法である「身体運動様式」をそれぞれ表してい るのである. また,ここで一度,先の研究方法論において 指摘した,構造主義が言う〈構造〉の「体系 性」―ものを統一する相互連関―,「機能性」 ―体系内部での働き―,「対立性」―二項対立 の変換システム―,「中和性」―自動調整機構 ―といった四つの特徴を想い出しながら,「知 的契機」,「感性的契機」,「身体的契機」か ら成るスポーツ構造を,サッカーを事例にして 簡単に説明しておくと,たとえば,サッカー構 造は,オフサイドやゾーンディフェンスなどを 生起させる「知的契機」,インステップキック やオフザボール(ボールを持たないとき)の動 き の フ ォ ー ム な ど を 生 起 さ せ る 「 身 体 的 契 機」,北欧神話の英雄像QQF,ジェントルマン・ シップ,マリーシアQRFなどを生起させる「感性 的契機」といった三つのエレメントが,それぞ れ互いに対立し合うことで独自の機能を発揮し (対立性および機能性),かつ相互規定的に統 一されたシステムとして存在する(体系性). つまり,インステップキックやオフザボール の動きのフォームなどを生起させる「身体的契 機」の機能から独立して,オフサイドやゾーン ディフェンスなどを生起させる「知的契機」 は,ルール化や戦術化の機能を果たすが,その 一方で,一旦「知的契機」によってオフサイド のルールが設定されると,「身体的契機」のな かには,「敵のオフサイドラインとゴールキー パーの間へ正確かつ迅速にスルーパスを通すた めの新しいキック」や「フォワードが敵のオフサイドラインのぎりぎりを掻い潜って味方から パスを受けるためのオフザボールの動き」の フォームがそれぞれ体系化されてくる.あるい は,英国発祥のスポーツであるサッカーの場 合,リードしているチームが残り時間の少ない なかで時間稼ぎをするのは,「感性的契機」に おける北欧神話の英雄像やジェントルマン・ シップに照らし合わせると,「勇ましくない弱 虫で,非紳士的である」などと見なされ,「感 性的契機」が「知的契機」に影響を与えて, 「ディフェンダーからのバックパスをゴール キーパーが手で処理することはできない」とか 「ゴールキーパーはS秒以内しか手でボールを 保持できない」などの規則が,「知的契機」に よって新たにルール化される.さらに,後者の ルールによって,ディフェンダーは,自陣ゴー ル近くで敵からボールを奪った場合,ゴール キーパーへのバックパスが非常に危険であるこ とから,「自陣ゴール方向に向いたディフェン ダーが背後の敵をかわして反転する動き」の フォームが,「身体的契機」のなかに対象化さ れてくるのである.こうした「知的契機」, 「感性的契機」,「身体的契機」の相互規定性 は,まさに〈構造〉の自動調整機構(中和性) にもとづくものであることがわかる. では,このようなスポーツ構造の,「知的契 機」,「感性的契機」,「身体的契機」といっ た三つのエレメントのうち,前章で明らかにし た「競技」構造としての競技関数は,いったい どのエレメントに位置づくのだろうか.高根 は,この佐藤のスポーツ構造論をベースにしつ つ,スポーツにおける審判という機能を成立せ しめる「審判構制」について明らかにしてい る.高根によれば,「審判構制」とは,スポー ツのゲームにおいて審判という現象をルールに もとづいて生起させる構造的仕組みのことで あるQSF.つまり,高根が指摘しているように, ゲームにおける審判という現象は,多種多様な 個別的事象である競技者の行為を対象にして, 普遍的特質を持つルールにもとづいて生起する が,個別的存在者である審判員の存在の有無に は関わらない.たとえば,審判員を設置しない サッカー,すなわち,遊びのサッカーやスト リートサッカーなどにおいては,個々のプレイ ヤーの自己審判によって,ゲームは成立し得 る.このように,審判員の存在の有無にかかわ らず,ゲームが成立するのは,スポーツ構造の なかに,競技者の行為に対して審判を可能にす る「審判構制」という構造的仕組みが本来的に そなわっているからなのであるQTF.そして,高 根は,この「審判構制」が,ルールすなわち 「知的契機」の一機能にもとづくものであると 見なしていることから,先に見た佐藤のスポーツ 構造論を拡張および発展させていると言えよう. ただし,高根の場合,ゲームについては,そ れが,継続的で,質・量ともに充分な練習や準 備をして行われるという「凝集性の高い場」, さらに「身体能力の最大の表出の場」や「情動 の直截的な表出の場」としての表現論的な機能 を持つ,一回性の刻印を帯びた特別な場である と見なして,これを現象形態として捉えるのみ にとどまっているQUF.だが,これに対し,本研 究では,前章の考察によって,すべてのゲーム 現象を成立せしめる「競技」構造が,競技関 数:AG = cf(aP, bP) = aP>bP, aP= bP, aP<bP | rP,によって表わされるとともに,この二項対 立の変換システムが,やはり高根の言う「審判 構制」と同じく,ルール(rP)を条件(|)とし て成立するのを見たのである.したがって,と りあえずのところ,本研究では,スポーツにお ける個々のゲーム現象を生起せしめる競技関数 は,佐藤の言うスポーツ構造における「知的契 機」に位置づくと見なして考察をすすめること にしたいと思う. ところで,その「知的契機」の一機能として の競技関数は,他の「感性的契機」や「身体的 契機」とどのような仕方で関わっているのだろ うか.先に高根が,スポーツのゲームを,「身
体能力の最大の表出の場」や「情動の直截的な 表出の場」と見なしていたように,本研究で も,そうした「身体的契機」や「感性的契機」 を「知的契機」の一機能である競技関数へと関 連づけ,競技関数に対しても,それら別のエレ メントが働く可能性や余地を見出しておく必要 がある.というのも,もしそれら両エレメント を競技関数へと関連づけることができなけれ ば,基底詞としての「競技」に限定詞としての 「身体運動」を関連づけ,さらには,両者の複 合語である「身体運動競技」すなわちスポーツ を総体として明らかにするという道も,おそら く閉ざされてしまうからである. そして,本研究において,この問題を解決す るために重要となってくるのが,次に説明する 「ネストnest(入れ子)」という概念である. 「ネスト」は,先の競技関数の規定に使用した 比較関数と同じく,コンピュータのプログラミ ング言語であり,とくに,構造化プログラミン グにおけるプログラムの構築手法の一つを表 す.つまり,複数の命令群をひとまとまりの単 位にくくり,何段階にも組み合わせていくこと でプログラムを構成する,このまとまりを「ネ スト」と言う.主なネストの種類は,条件分岐 (C言語などでは「if」文),一定回数の繰り 返し(C言語などでは「for」文),および条件 つき繰り返し(C言語などでは「while」文)で ある.また,ネストの内部に別のネストを何段 階にも重ね,入れ子構造にしていくことを指し て「ネスト」や「ネスティング」と呼ぶことも ある.すなわち,端的に言って,「ネスト」とは 「関数の中に関数を入れること」なのである. したがって,この「ネスト」を使えば,先の 競技関数:AG = cf(aP, bP) = aP>bP, aP= bP, aP<bP | rP,の中に,別の関数を何段階にも重 ね,入れ子構造にしていくことが可能になる. つまり,競技関数におけるaPや bP(競技者と対 戦相手)の項の変換に際して,それらの項の値 を求めるための関数をいくらでも増やし,aPや bPの項の変換システムを,並列的かつ重層的に 構造化していくことができるということであ る.つまり,「身体的契機」によって立ち現わ れてくる個々の身体運動現象,たとえば,「弧 を描くループシュート」という行為で言うと, チップキックによるボールのインパクトの強度 や摩擦,加速度,落下速度,空気抵抗,また他 方,それらに対立する項(対戦相手としての ゴールキーパー)の側では,キーパーの反応速 度やジャンプの速度,パンチングの強度など が,バイオメカニクスや運動学などでしばしば 使用される,運動摩擦力方程式や加速度方程 式,放物線方程式,落下方程式などの関数に よって数式化すなわち計量化されることになる. たとえば,最も単純な例で言うと,aPという ペナルティキックのキッカーが,その対戦相手 のゴールキーパーである bPのセービングの運動 よりも速いシュート(すなわちボールの運動) をゴールに決めた場合,その比較式,aP>bP は,それぞれの運動の「最終速度」を求める関 数をネストとして組み込んだ,aP=vfN=viN+ xNt,bP=vfO==viO+xOt,最終速度:vf,初速度: vi,加速度:x,時間:tによって求めることが できる.なお,これらの「最終速度」を求める 関数(最終速度=初速度+加速度×時間)に は,「初速度」や「加速度」を求める別の関数 が,さらにネストとして組み込まれることにな るのである. 他方,「感性的契機」に関しては,勝者や敗 者のメンタリティやパーソナリティ,どのよう なプレーを好みあるいは嫌うかといった美的感 覚,勝利や楽しみなどの目的を選択する価値観 などが,ルール(rP)にもとづきながら,同じ く計量化される.ただし,こうした感性的現象 の計量化や比較化は,上の身体運動現象の場合 のように厳密な計算ではなく,おそらく,大か 小か,高か低か,重か軽か,強か弱かなどと いった,おおよその計算であると考えられる が,この点については,一応ここでは問わない