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18 discontinued twice. The resurrection of the Palio required that the citizens of Asti reclaim their past history and rebuild the Palio. The historic

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広場における伝統スポーツの歴史的再構築と個性化:

イタリアの「アスティのパリオ」の事例

田 里 千 代

Historical Reconstruction and Individualization of Traditional

Sports in the Piazza : A Case Study of “Palio di Asti” in Italy

Chiyo Tasato

Key words

traditional sport, palio, piazza, historical reconstruction, individualization 伝統スポーツ,パリオ,広場,歴史的再構築,個性化

Abstract

Of all the summer festivals held throughout the various regions in Italy, there is one known as “Palio”. The original meaning of Palio is cloth or banner and the Palio banner was presented as a symbol of victory to the winner in regional competitions involving traditional sports. The Palio traditional sporting events differed according to districts and included events like horse racing, crossbow, and jousting tournaments. Past research has indicated that Palio, involving competition in cities and surrounding region, provided an opportunity for communities of people to confirm their identity and unity. This paper, however, will focus upon the venue or piazza where the Palio were held. It has been revealed that the Palio not only served to strengthen regional unity through practical displays of traditional sports, but also led to people developing a greater sense of pride and attachment for historical locations.

The case cited in this research is the horse race Palio, which was held in the region of Asti located in northwestern Italy. The race can trace its origins back to the 13 th century, when the horse race followed a course through the city in the medieval ages. Over the ages, the course itself was changed. From the period between modern times to the present, the venue was newly built to be more expansive and provide a better view for spectators, thereby offering a more impressive and engaging setting. In the latter half of the 1980 s, the setting was moved to a triangular-shaped venue, located in an historical district within the city. In the period between modern times and the present, the Asti Palio was 天理大学体育学部 Faculty of Budo and Sport studies

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はじめに イタリアが夏を迎えると,各地で祝祭に伴 う様々な催しが開かれる。中世の歴史的建造 物に囲まれた趣のある静かなたたずまいの街 は,このときとばかりに華やかな旗で飾られ て一気に祝祭のムードを醸し出す。中世の街 がより一層中世らしく彩られる機会に「パリ オ(palio)」という祝祭がある。12,13世紀 のイタリア自治都市が築かれた頃からの名残 で,軍事に必要とされた騎士たちの訓練が, 競技性とキリスト教の宗教性を併せ持つ伝統 スポーツの競技祭となったのである。かつて 中世の理想都市と称されたシエナで裸馬での 競馬のパリオが行われているため,パリオと いえば競馬とイタリアでも思われがちである。 しかし,パリオは競馬に限られたものではな い。現在でも,街によっては,競馬以外に石 弓,レガッタ競漕,競ロバ,馬上槍試合,綱 引き,手押し車の競走,竹馬競走などもあり, かつての多様な競技を伝統スポーツとして今 に再現している。 そもそも“palio”とは,「古代ローマ人が 身にまとっていたパッリウムという長方形の 布地」(篠:2011:524)をいい,中世になる と聖母マリアや街の守護聖人が描かれた旗を さすようになった。やがて,パリオはその旗 を巡る競技祭の名称となった。街やその周辺 地区の対抗戦であるパリオでは,優勝旗のパ リオを「今年こそ我が地区に」と願う人々の 応援にも熱が入る。競馬の場合,騎手はそれ ぞれの地区を象徴する旗のデザインをあしら ったウエアを着用し,観衆たちも自分が属す る地区の旗のスカーフを身につけて,旗を振 り声援をおくる。もともと,中世の都市を基 盤とした街では,地区の共同体の結びつきは 日常生活においても重要な役割を果たしてい る。このことから,パリオはその地区へのア イデンティティを再生産させるということが, これまでにも指摘されてきた(辻:2007,篠: 2011など)。 それに加え,本稿では,パリオが開かれる 広場という空間に焦点をあて,伝統スポーツ の実践による地域の結束のみならず,人々の 歴史的場所への誇りと愛着を生成させること につながっていることを明らかにする。パリ オは,たとえその競技が競馬や馬上槍試合で あっても,街の広場が舞台となる。年に一度 のパリオのために広場に砂が敷き詰められ, 観覧のためのスタンドがその周りに設営され る。 広場はイタリア人にとって生き方そのもの を映し出すと言われるぐらい,生活に根差し た空間である。中世以来,城壁に閉ざされた 空間の中で,広場は経済活動,宗教活動,政 治活動の実践の場としてあった。市民によっ て市が立ち並び,宗教者が信仰を説き,権力 者がその政治的な力を市民に知らしめるべく 閲兵式やパレードなどを開いた。ルネサンス になると広場を取り囲む建造物が統一される ことで人々の集中感を生みだし,広場は劇場 のような効果を生み出す空間となった。同時 に市民にとっての誇りであり象徴となってい ったのである。 本研究の事例であるアスティのパリオは, その起源を13世紀にまで遡る古くからの祝祭 であるが,競馬のレースは時代によってその コースを変えてきた。特に近代から現代にか discontinued twice. The resurrection of the Palio required that the citizens of Asti reclaim their past history and rebuild the Palio. The historical reconstruction process meant that the ”Palio di Asti” was imbued with a uniqueness not found in other cities. In the latter half of the 1980 s, the Palio venue was moved to a triangular piazza in a more historical part of the city. The Palio di Asti of today has acquired a venue which has an especially unique setting.

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けては,2度の中断と復活を繰り返した。そ の間,パリオは一般的な競馬のコースをしつ らえた広い新設の広場を会場とするものの, その後小さな三角形の形をした歴史的地区の 広場に会場を移し現在に至っている。本研究 では,街の広場における伝統スポーツについ て,広場の空間的意味合いから考察する。パ リオを街の広場に移すまでの過程から,人々 が主体的に伝統文化を操作し,パリオを歴史 的に再構築させてきたことが読み取れる。こ の歴史的再構築は,「アスティのパリオ」と しての個性化につながる営みであることがみ えてきた。 広場という空間 (1)広場について 本稿では,人々が遊びとして興じている伝 統スポーツの舞台という観点からの考察を試 みるため,まずは「広場」について確認して おきたい。「広場」は,多様な活動が可能で, そこに集う人々の行き来が自由に行える場で あり,一時的もくしは継続的に人々を相互に 関係づける空間である(三浦:1993:38)。 また,多様な活動が可能であり,政治的,経 済的,宗教的,社会的,その他の目的のため にも,一時的もくしは継続的に人々を相互に 関係づける場として把握しておきたい。 中世のヨーロッパにおける広場は,現存す る都市にも多く残る特徴でもあるが,芸術性 を伴った建築物に周囲を囲まれた「建築的広 場」といわれる。これは,建築学者の分類に おいて,日本のように特定の空間は設けず, 神社の境内や辻などが人々の活動次第で「広 場化」する「場所的広場」に対比させた考え 方(前掲:23)である。ヨーロッパの広場は, 統一ある建築物に囲まれた閉鎖的な環境であ り,広場の内側と外側の境界線が明確である こと(前掲:37)を特徴としており,特に中 世都市においては民衆たちの安寧を保証し, 街への帰属意識を高める機能を果たした(前 掲:34)という。 (2)イタリアにおける広場の意味づけ 古代ギリシアや古代ローマ時代においては, スポーツを行う専用の空間としての競技場が 古代の文明都市にすでに設置されていた。古 代ローマでは,スポーツは「パンとサーカス」 という言葉で有名な政治的な手段として用い られた。歴代の皇帝たちは政治を自分の意の ままにするため,民衆の人気取りとして,娯 楽としてのスポーツとともに,競技場ではパ ンまでもが配給されたのである。人気もさる ことながら,この「パンとサーカス」は,民 衆らの政治的なるものへ関心から目をそらせ る手法であったといわれている。 当時人気を博した戦車競争や剣闘士の戦い などのために,大観衆を収容する専用の競技 場が各地に建てられた。現在ではローマ観光 の目玉としてあげられるコロッセオは,その 代表的なものである。古代ローマ以降,そう した競技場で継続してスポーツが行われたと いう記録は管見の限りない。ローマの象徴と されるコロッセオと呼ばれる円形闘技場も, 中世には大理石などの石材等が略奪に遭い, 貴族らの館に流用されたという。小規模の円 形闘技場についても,中世以降,住居として 用いられ,現在でも使われている。遺跡とし てかろうじてその姿を残しているトスカーナ 州のアレッツォの競技場のように,中世に修 道院として改修されたものが18例確認されて いる(黒田:2003:511)。また街中の競技場 で広場などに改修されていった例もある。ロ ーマの観光名所として名高いナヴォーナ広場 は,かつて戦車競走が行われていたトラック であったし,ルッカという街は,古代ローマ 時代の円形競技場を流用しながら街の広場に 据えた都市創りがなされた(亀永:2011:18)。 中世における都市では,円形競技場よりも 広場という空間が人々にとって生活に密接し た空間となった。そのため,既述のような広 い空間が不可欠であった闘技場も広場へと改 修された。広場は街の中核となる空間であり, 市庁舎は広場に面して建てられ,大聖堂や教

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区教会の前にも当たり前のように広場があっ た。中世の広場では,宗教的な祝祭のための 行列や催しに伴う市場が立ち,市庁舎前では, 政治的な集会が開かれた。中世の自治都市の 精神が受け継がれた現代イタリアでも,依然 として広場の公共性が重視されるのである。 人々は好んで戸外に出て広場で生活を営むと いわれるほどの時間を過ごす。イタリア語で の広場を意味する“piazza”に,「公の場所」 や空間に集う「民衆」の意味も付与されてい る。 このように,イタリアの中世都市で築かれ た広場は,市民にとってのまさに「生活の集 中点」(三浦:1993:14)であり,宇田川が 建築学者である芦原を引用しているように, 広場とは「生活のしかたであり,生活の考え 方」(宇田川:2004:335)が体現される場で あることがわかる。 (3)広場での伝統スポーツ イタリアの中世都市を基盤とした街では, 広場において,いわゆる季節の年中行事や宗 教的祝祭が生業のサイクルに組み込まれた形 で実施されている。春や秋には農漁業に関連 する祭,豊穣と多産を祝う行事が行われるこ とが多く,夏には歴史や伝統的な行事が開催 される傾向にある。なお,宗教的な祝祭や行 事については,教会暦に組み込まれた年中行 事として行われている。イタリアの伝統的な 祭について1,033件の調査を実施した研究者 によると,次の4つに分類されるという(池 田:2011:526)。!カルネヴァーリ・エ・フ ェステ・マスケラーテ:仮面祭,四旬節など のどんちゃん騒ぎをするような催し。"ガー ラ,リエヴォカツィオーニ・ストリケ,パリ オ,ジオストラ:競争,古式競技,競馬,馬 上競技,時代行列など。#フェステ・レリジ ョーゼ・エ・パトロナーリ:宗教的祝祭,守 護聖人のための祭,宗教的儀式に伴う行列な ど,地域に根ざした催し。$サグレ,フェス テ・ポポラーリ:農業,食文化,交易に関す る祭で,音楽・踊り・郷土料理などを伴う催 し。 これらの中でも,"については,伝統スポ ーツがメインイベントとして実施されるが, そのほかの祭でも付随するイベントとして伝 統スポーツが行われる場合も多々見受けられ る。 中世都市に築かれた広場でスポーツを展開 するためには,ある一定の広さを有すること が必要条件となる。また広場の多くは石畳と なっているが,競技によっては数十トンにも およぶ砂を運び入れ,石畳の上に敷き詰める。 そうした労力を惜しむことなく,伝統スポー ツが行われるたびにそうした作業が繰り返し 施される。 また,伝統スポーツは,もともとは街のイ ベントとして地区対抗であったり街対抗戦で あったこともあり,観衆のためのスタンドも 設けられる。簡易スタンドといえども,時に は小ぶりのスタジアム並みの競技場のように なる。なお,アスティのパリオでも約4,000 席が設けられ,それよりも規模の大きいシエ ナのパリオの場合では,アスティの数倍の座 席数が設置されると推測される。 なお,現在でも広場で行われる伝統スポー ツには,本稿で事例として取り上げる競馬, 石弓,馬上槍試合,古式サッカー,スリング ショット(投石),手押し車競争,旗振りの コンテスト,人間チェス試合などがある。 パリオとアスティ(Asti)について パリオという名称での祝祭のなかで,とり わけその名が知れ渡っているのが,かつての 中世の理想都市とも称されたシエナでのパリ オである。そのシエナで裸馬での競馬が行わ れているため,「パリオといえば競馬」とい う印象が強い。しかし,中には,競馬以外に も石弓やレガッタレースなど,過去にも遡る とその内容は多様であったことはすでに記し た。 伝統スポーツの多くは,その起源を中世の

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時代にまで遡る。そもそも,イタリアにおけ る中世という時代は,フィレンツェで花開く 華々しいルネサンスの時代を目前に控えた時 期であり,しばしば「暗黒の時代」とも称さ れる。しかし,多くの歴史家たちが指摘する ように,これまでの区分としての中世後期と ルネサンスの時代は重なっており,華々しい 次世代の芸術や技術を花開かせる土台となっ た。特に,中世のイタリアにおいては,都市 が築き上げられ,「都市の制度にキリスト教 文化を取り入れて利用しながら,都市市民に ふさわしいキリスト教社会をつくりあげてい った」(亀永:2011:3)。 同時に市民は,当時の封建的支配層から自 らの都市の自由と自治を守るため,「コムー ネ」1)と呼ばれる自治的な市民共同体を確立 させていった。そこでは度重なる戦争や外部 からの侵略に抵抗するために,城壁に囲まれ た都市という要塞を築く必要があった。 また,敵の領地に攻め込むため,騎士たち が活躍した時代でもあった。騎士達の巧みな 馬の乗りこなしや,時に馬上での武器の扱い, さらには武器を持たずして格闘する体力と精 神力などを競う機会があったことは疑う余地 がないであろう。騎士達の競技となることで, 「騎士道」という精神性がはぐくまれ,重視 されるスポーツとなっていった。とりわけ騎 士達の娯楽として楽しみごととして盛んにお こなわれたのは,馬を走らせながら小さな輪 に槍を突き刺すという「輪競争」であったり, 舟上にて槍で盾を突き合う競技なども行われ た。馬上槍試合や石弓,競馬,レガッタ競漕, それから「ハルパストゥム」2)と呼ばれる格 闘技の要素を含んだサッカー(現在の呼称は 「カルチョ・ストリコ」で歴史的サッカーと いう意味)などが軍事訓練として行われてい た。軍事訓練であっても,そこに競技の要素 がひとたび加わることで,兵士達は勇んで訓 練に取り組んだ。古代ローマの兵士たちが行 ったとされるパルパストゥスは,中世には貴 族,特にメディチ家のお気に入りの観戦競技 として,祝祭時には街全体が盛り上がりを見 せる競技となった。 パリオにおいても,伝統スポーツの競技に 先だって,街の市民たちが華やかな中世の衣 装を身にまとって時代行列として街中を練り 歩く。ブルクハント(1818―1897)は,著書 『イタリア・ルネサンスの文化』で記してい るが,もともと宗教的な聖者の行進を模した 行列が中世の前半には登場しており,「大き な教会祝祭と,中世の素朴さから多くの世俗 的な要素をとりいれた都市の行列の趣向」 (1974:141)となり,その方法や演出の仕 方にも様々な工夫が付け加えられていった。 やがて,そうした行列は,騎士を真似た市民 が担い手となっていった。後の時代行列とな る中世の都市の行列は,市民が主体的に祝祭 を楽しめる機会を与えたと同時に,メインイ ベントを盛り上げる演出にもなっていったの である。それは現代における伝統スポーツに 先立つ行事として,街の人々によって在りし 日の華々しき中世の時代を追体験し,見てい る人々も中世へと誘うような役割を果たして いる。この時代行列は,街の老若男女が織り なす壮大な「ごっこ遊び」といえよう。 本研究での事例はピエモンテ州のアスティ 図1 調査地概況 (http : //www.freemap.jp/europe/euro_italy_ kouiki_1.html より引用,一部加筆。)

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の競馬であり,調査は2012年夏のパリオの期 間に実施された。 イタリアの北西に位置するピエモンテ州は, 北にスイス,西にフランスの国境と接するた め,歴史的にも文化的にも諸外国の影響を受 けてきた地域である。ピエモンテ州の州都は 人口約90万人(2012年時点)を有するトリノ で,2006年には第20回の冬季オリンピック大 会が開かれた。アスティは人口約7万5千人 (2012年)が暮らす比較的小規模な街だが, 中世,まだトリノが小さな村であったころ, すでに中世都市としての繁栄を迎えていたと いう。現在,アスティとその周辺は,イタリ アにおける指折りの食材の宝庫として知られ ており,中でもワインとトリュフは有名で, 秋にはアスティの広場で国際見本市も開催さ れている。 アスティは,もともと古代ローマ帝国の植 民地であったが,すでにこの時期には自治都 市として認められており(紀元前49年),人々 はローマ市民権を得ていた。その後,6世紀 に北方からのロンゴバルド人の侵略や8世紀 にはフランク帝国に占拠されたが,司教勢力 と世俗の勢力の争いが絶えず続く中で,12世 紀になると,中世の自治都市としてのコムー ネを誕生させ,経済的に最も繁栄した時代を 迎えた。この時期には交易に欠かせない銀行 業が繁栄し,都市の経済的な潤いにより城壁 が築かれ自治都市に発展していった。12,13 世紀の隆盛をピークに,その後は様々な権力 者が代わる代わる街を支配することになった。 一時はフランスの統治下に置かれるが,16世 紀後半にはピエモンテに勢力を伸ばしていた サヴォイア家による支配を経て,その後イタ リア統一に至るまではサルディーニャ王国の 下に置かれた。 12,13世紀の繁栄を現代に伝えるのは,そ の街並みと歴史的建築物である。7∼8世紀 の間に建てられ,中世に拡張されたアスティ の守護聖人のための聖セコンド教会があった り,トロヤーナ塔,そのほか中世以降の貴族 らの館などが街中のいたるところに残ってい る。 アスティのパリオにみる広場という 空間とパリオの歴史的再構築 2012年9月に開催されたアスティのパリオ は,図2のように街の歴史的地区の拠点とも いえるヴィットリオ・アルフィエーリ広場 (Piazza Vittorio Alfieri,以降アルフィエ ーリ広場)で行われた。広場の名称は,18世 紀に活躍したイタリアで有名なアスティ出身 の劇作家の名前に由来する。特徴的な点は, 三角形をかたどっていることであり,その手 前に,パリオ広場(Piazza campo de palio) の空間が広がっている。実は,その名の通り, かつてパリオはこのパリオ広場で行われてい た。地図でもわかるように,その空間はまさ に競馬場がすっぽり入る長方形をしている。 駅前に位置していることもあり,普段は駐車 場として使われたり,市場としてにぎわうこ ともある。現在パリオが実施されているアル フィエーリ広場は,かつての会場であったパ リオ広場に比べると,競馬には到底適さない やや小ぶりの三角形の広場で,観衆達の視界 を遮るような木々も立ち並んでいる。 では,なぜパリオ広場という空間がありな がら,あえて競馬にはむかない小さめの三角 形の広場でパリオが開催されるのか。ここで は,パリオが開催された空間の歴史的変遷を

図2 アスティの市街地(Asti & il suo territorio :2011:24より抜粋。一部加筆。)

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振り返りながら,パリオと空間との関わりに ついて見ていきたい。 (1)開催場所を巡るパリオの歴史的変遷に ついて ! パリオの発祥時期 そもそもパリオの起源として伝えられてい るのは,1275年の記述によれば,アスティが 敵対する近隣のアルバという街の城壁の外側 で馬を乗り回し,ぶどう園を踏み荒らすこと で敵に屈辱を与える行為であったといわれて いる。ヨーロッパの中世史に詳しい池上の研 究によると,これは中世のイタリア中部や北 部にみられた「都市社会にくすぶる敵意と暴 力の儀礼化」であり,馬を走らせて攻略した 相手の都市を侮蔑し馬鹿にする慣習があった という(池上:1994:135)。池上は,「おそ らく攻撃下にある都市が自分の領土にたいす るコントロールを失ったばかりか,都市的な 特権をも失ったことを公然と示す意図のある 慣習」(前掲:135)であったと述べ,1264年 にはピサ人がルッカの市壁下で,1289年には フィレンツェがアレッツォの地で,1325年に はルッカが仕返しにフィレンツェの城下を3 周走ったことを文献から明らかにしている。 アスティのパリオの場合にも,他都市との領 地の攻防の際,戦時の慣例に基づいて行われ たことがその起源と考えられる。征服した街 の城下の距離が様々であるため,レースの距 離やその周回数などは定められていなかった のであろう。その点,1325年のルッカがフィ レンツェの城下を3回走ったという記録は注 目に値する。シエナでも,アスティでも,コ ースを3周回ることは現在なおルールとして 定められているからである。 また,アスティの守護聖人である聖セコン ドの祝日である3月30日の饗宴に際してパリ オが行われていた。中世の都市では,それぞ れの守護聖人らの祝祭に,パリオが催された ことが記録に残っている。したがって,パリ オは,戦争に勝利した暁に,敵対する街を侮 辱する意味が込められたレースであったり, 祝祭時に行われるにも格好の催しものであっ たことがわかる。また,ブルクハントによる と,新たな領主等の凱旋入場式にもこうした 催しが行われたとの記録がある。 " 中世から近世 14世紀になると,アスティの街もその支配 を巡り混乱の時代を迎えたが,パリオは変わ らず行われた。現在のアルフィエーリ広場と リヴェラータ広場の周りを周回するコースで あった。1382年には,領主であったミラノの ヴィスコンティ3)が軍事力強化のために要塞 の街を築いた際,パリオは周回ではなく,街 から2.5キロ離れた境界標識としての橋脚を スタートとし,サンピエトロ門を通過し,ア スティの中心を貫くように現在のアルフィエ ーリ通りを通ってガウティ・ディ・ベスター ニョ宮殿,オットレンギ宮殿をゴールとする 全長約2キロの直線コースとなった。このコ ースには難所が二か所あり,一つは出発地点 のサンピエトロ門の間の橋を渡ること,もう 一か所は城壁内の道にあった側溝であったと いう(辻:2007:37)。 1387年には,アスティとその周辺地域がフ ランス領となり,その後長年に渡りフランス 軍の基地がおかれたが,パリオは開催され続 けた。15,16世紀には,領主は変わったがパ リオは行われており,年に2回のレースが催 された。1529年にはサヴォイヤ家が実権を握 るが,パリオが中止に追い込まれることはな かった。 アスティ市の評議会が1688年3月20日に定 めたルールには,パリオの賞4)について明記 されている。それぞれの優勝賞品は,優勝者 への優勝旗,2着に金貨が入った袋,3着に 拍車,4着に雄鶏,最下位の騎手にはアンチ ョビサラダといったものになっている。最下 位の騎手への賞は,敗北の屈辱を味あわせる ためのアスティ独自の不名誉賞である。 1718年には1688年制定のルールの改定がな され,パリオには「去勢されていない馬を使

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うこと」,「馬にはサドルを付けず簡単なはみ をかませるのみで,2本の手綱以外の装着物 はつけないこと」が明確に定められた。また, 騎手はレース中に馬のたてがみを編み込むこ とや輪で結ぶことも禁じられていた。 慣例では,アスティの支配者が2枚の旗を 用意するという名誉ある役割を担うことにな っていた。一つは聖人である聖セコンドに奉 納するために,もう一つが勝者に贈られる優 勝旗であった。この慣例は現代でも引き継が れ,毎年2旗が用意されており,その旗をデ ザインする芸術家(通称パリオのアーティス ト)も選考により決まる。聖セコンドのため の旗は,聖セコンド教会に奉納され保存され ている(写真1)。 ! 近代から現代 1861年にイタリアが統一され,アスティに 新たな市場広場(後のエマヌエーレ・フィリ ベント広場で,現在のパリオ広場)が造られ たことを記念し,周回形式のレースが行われ た。しかし,1863年にはパリオは伝統的な儀 礼性を失った世俗の競馬と化し(Asti : la sua storia, il suo Palio : 33),それ以降中断して しまう。中断理由について明らかにしてくれ る資料は管見の限りない。恐らく,宗教的な 儀式や地域とのつながりを欠いた,パリオと いう名の競馬に化したのではないかと推測す る。 パリオが復活されたのは1929年のことで, かつての中世のパリオにこだわり,街中を貫 く約1,300メートルのコースが使われた。街 中のダンテ通りからやや登りとなるコースで, アルフィエーリ通りからヴィットリオヴェネ ト広場に至るルートを通った。この復活の際 に中世の伝統に倣って直線コースとしたこと は,恐らく,1861年の市場広場でのレースが 近代競馬と化してしまった反省を踏まえたも のと推測される。 1929年に復活を果たしたパリオも,7年間 行われた後に,1936年以降ふたたび中断を余 儀なくされた。1931年には7万人もの観衆を 集めたにもかかわらず中止された理由につい ては,諸説あげられているが,確定にはいた っていない。一説には,復興されたパリオの 盛り上がりによって,パリオの発祥を誇示す るシエナとの関係が悪化,パリオの名称の使 用を禁止する通達が当局から出されたという 説や,一方で,当時はファシスト政権下にあ り,ムッソリーニが長年サヴォイア家の庇護 下にあったパリオを快く思わなかったため中 止に追い込んだとの説もある。また,ムッソ リーニがパリオをより勇ましいコンテストと しての馬上槍試合に変更すべしと命じたため ともいわれている。いずれにせよ,1936年以 降,第二次世界大戦および戦後の復興期に, アスティでは大々的に銘打った祝祭としての パリオは行われることがなかった。しかし,20 年に渡るファシズム政権下においても,パリ オそのものは7回実施されたともいわれてい る(toripos : 2013)。加えて,アスティから エチオピアへと出征した兵士達が,現地でロ バを使ったパリオを行ったことも伝えられて いる(Asti : la sua storia, il suo Palio : 54)。 " 1967年の復活以降 戦後の復興期を経て,1960年代に入るとア スティにおいても伝統を再構築する議論が沸 き始めた。特に第二次大戦をまたぐ30年間の 中断を経て,パリオについての記録を掘り起 こすことで復活が果たされた。モンフェラー ト侯爵家の創設千年を祝って,かつて用いら 写真1 聖セコンド教会に奉納されたもう一つ のパリオの旗(撮影者:渡邉昌史氏)

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れた市場広場から名称を変えたエマヌエー レ・フィリベント広場(現パリ オ 広 場)5) で,5千人のスタンドも設置され,1967年に は総勢約10万人に達する人々が訪れたという。 この広場は,既述のように1861年に新たに建 てられた広場であり,写真2でもわかるよう に,一見してその形はいわゆる近代の競馬場 である。したがって,レースは競馬に酷似し, 観客にも見やすいスタンドから観戦すること ができたであろう。 しかし,この広場での開催は10年間であり, 1988年からは現在のアリフィエーリ広場へと 開催場所を移動させている。繰り返しになる が,アルフィエーリ広場の最大の特徴は,三 角をかたどった形である。現在の市庁舎が入 る M.パッサンティ館という建物を底辺と し,街のメインストリートであるアリフィエ ーリ通りと接するのが三角形の頂点(写真 3)にあたる。頂点から2点に下した左右に は同じような回廊を持つ17世紀からのバロッ ク形式の建物があり,回廊沿いにはレストラ ンや店が並ぶ。1987年まで実施されていたパ リオ広場に比べると,その空間も狭く収容人 数もそれまでよりも少なくなる。また,アリ フィエーリ広場の内側に大きな樹木が並び, 視界は良くない(写真3)。なにゆえに,あ えてこうした立地条件の広場に実施場所を移 写真2 1987年までのパリオの会場であったエ マヌエーレ・フィリベント広場

(Asti : la sua storia, il suo Palio :2006:p62 より抜粋。) 写真3 前日の試走時のアリフィエーリ広場。 右が三角コーナー部分 (これ以降の写真撮影者:渡邉昌史氏) 時代 開催場所 距離 注目すべき点 1275年∼ 敵のアルバの城壁をま わるコース 不明 敵を侮辱するようにブドウ園を壊 滅状態にするためのレース 13世紀∼1860年 街中の道路の直線的 2,500メートル 街を貫く直線コース 1861年∼1863年 新設の市場広場の周辺 (後のエマヌエーレ・ フィリベント広場,そ の後パリオ広場へ) 周回コース一部 街中,距離は不 明 近代競馬に類似するコース(後の パリオ広場) 1929年∼1935年 街中のコースを使用 1,300メートル 中世の伝統の復活 1967年∼1987年 エマヌエーレ・フィリ ベント広場 周回コース距離 は不明 近代競馬に類似するコース,5,000 のスタンド席(後のパリオ広場) 1988年∼現在まで アリフィエーリ広場 1,350メートル 正三角形のコース(一辺が450メ ートル×3周 表1 時代別にみるパリオ競馬のコースの変遷

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したのか。 まずは,次項で現行のパリオについて概観 しておきたい。 (2)パリオの現在(2012年の調査より) 2012年は第三日曜日である9月16日がパリ オ“Palio di Asti”の開催日であった。街全 体が盛り上がりを見せていた。旧市街地に車 を乗り入れると,それぞれの地区を象徴する 旗が飾りつけられ(写真4),別の地区に入 ると,旗の模様ががらりと変わる。前日の15 日からすでに街中はお祭りムードであり,そ れぞれの地区ごとに屋台(写真5)が出され, 地区の旗や関連するグッズを売ったり,パリ オ向けの広報誌を配布していた。 夕方,パリオの会場となるアリフィエーリ 広場で,馬の試走が行われた。当日はコース を取り囲む観覧スタンドは有料(コースの内 側での観覧には料金を払う必要はない)とな るが,前日の試走の観覧は無料で出入りも自 由であった。試走の様子を見に来ていた街の 人々は,今年の自分の地区から出ている馬や 騎手らのコンディションを気にかけている様 子であった。夜には,食事会がそれぞれの地 区の広場で開催されており,翌日のレースに 向けて地区全体でその結束を確認し強化すべ く,賑やかに行われていた。 当日の日程は,次の通りである。 10:00am 地区の教会にてパリオでの健闘 を願う祈りが騎手と馬に捧げら れる。 11:00am サンセコンド広場において,ア スティの伝統的旗振り協会によ る旗振りのパフォーマンスが披 露される(写真6)。 12:00pm サンセコンド広場前の市のホー ルにて騎手と馬の参加登録。 14:00pm 大聖堂広場から1,200人による 中世の時代行列の出発。街を巡 ってアルフィエーリ広場まで (写真7)。 16:00pm アルフィエーリ広場での予選レ ース(3レース)。 17:00pm 同広場のコース上での旗振りの パフォーマンス。 18:00pm 同広場にて最終レース(写真8, 9,10)とパリオの勝者への受 賞式。 写真4 街のそれぞれの地区を象徴する旗 写真5 パリオ前日に各地区の屋台が建ち並ぶ 広場

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パリオへの参加チームは,全21地区(街の 歴史的地区から6地区,第二城壁で囲まれて いた8村,周辺の7町)で,7チームごとに 予選が3回行われる。それぞれの予選の上位 3チーム,合計9チームによって最終レース が競われる。レースの距離はアルフィエーリ 広場の三角の1周450メートルのコースを3 周する1,350メートルである。伝統的なルー ルに則り,馬には鞍や鐙はつけずに裸馬にま たがり,はみと手綱を使っての競馬が繰り広 げられる。 スタートは,馬の前にはられたロープが合 図とともに下ろされた瞬間となるが,すべて の馬を横一線に並ばせることに手間取る。あ らかじめスタート位置が決められ,地区名が 呼ばれた順番に馬はスタートラインに移動し ていく。しかし,通常の競馬と異なりゲージ で仕切られていないため,馬同士が嫌がりじ っとしていなかったり,騎手らがレースの駆 写真6 広場での旗振りパフォーマンス 写真7 1,200人による時代行列 写真8 アルフィエーリ広場でのレース 写真9 熱心に応援する人々 写真10 裸馬を乗りこなす騎手の技と駆け引き

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け引きのためになかなかスタートラインにつ こうとしない。そのため,馬がタイミングよ く一斉にスタートできずに,何度もスタート が繰り返される。タイミングが合わなければ すぐに2度の空砲が放たれ,幾度となくスタ ートのやり直しが続く。コースを3周駆け抜 けるレース自体は,スタートをしてしまえば 1分30秒程度で決着がつく。しかしながら, 2012年の場合にも,最終レースは予定通り18 時から開始されたものの,なかなかタイミン グが合わずに,結果的に19時を過ぎてのレー スでようやく決着をみた。今回の勝者は,サ ンマルティーノ・サンロッコ(San Martino SanRocco)地区で,その晩は地区の人々が マーチングバンドを先頭に街中を遅くまで練 り歩く姿がみられた。 (3)広場の役割と遊びとしてのパリオの意 アスティのパリオは,現在のような三角形 のアルフィエーリ広場が会場となるまで2度 の中断の時期を経験した。一度目の中断後の 復活では,中世からの伝統を意識した街中心 部を貫く直線コース,二度目の復活の時には 長方形の広場において近代競馬に酷似したコ ースであった。近代競馬同様の広さを求めれ ば競馬はよりスピーディーに展開されること が期待できるし,観衆たちも広々とした空間 を眼前に見通しよく観戦できる格好の競馬場 といえよう。現在,アルフィエーリ広場では 図3のように,観覧席は有料となっている。 広場には街路樹が並び,全体のコースを見渡 すことはできない。そのため,見通しの良さ とスタート/ゴール地点に近いことなどの条 件によって,料金体系も異なっている。いわ ゆる国際スポーツを開催する際には,より多 くの観客をスタジアムに動員することで収益 も見込まれるといった,コストを重視する傾 向にある。こうした方向性とは逆行する形で, より狭く,多くの観客も収容できない,しか も全体のレースの行方を見ることができない 場所を選んだことの理由は他に求めることが できよう。 1988年から現行のアルフィエーリ広場を会 場とするのだが,資料を見る限りでは,いず れも「よりよい空間」(Raviola : 2006 : 67) であったり,「都市の中心地」,「中世の宮殿 という魅力的なセッティングにおいて伝統と してのパリオの復活」(Comitato Palio Borgo San Pietro : 2013)という理由だけが述べら れる。したがって,ここから広場において伝 統スポーツが行われる意味について,都市空 間における広場の役割を遊びとの関連性から 読み解いていきたい。 ! 広場の構造と伝統スポーツ アルフィエーリ広場でのパリオは,人々を 内側に向かって求心的にまとめていく空間的 仕掛けとなっている。一つは,アルフィエー リ広場は典型的な建築的広場であり,正三角 形の空間を取り囲む建築物が三辺となってい る。もともと中世の城壁は,外部からの侵入 図3 パリオの観覧席と料金体系 (Palio di Asti :2012年パリオ公式パンフレット より抜粋。)

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を防ぐという意味で街の防御的機能を果たす 一方,城壁の内側に暮らす人々にとっては, 外界から遮断された空間として,外と内とい う境界を意識して内側に向かって求心的に秩 序を整えていくという機能も併せ持つ(三 浦:1993:37)。城壁の内部における広場も, 「境界線から求心的に収斂される空間」であ ると三浦は指摘する(前掲:37)。つまり, 中世都市の趣きを色濃く残すアスティの広場 もいわば二重の求心性を有することになる。 そもそもパリオは,アスティが他の地域へ の優越性を示すために,敵対する街の城壁を 馬のレースをして廻ったことが由来となって いる。その後,祝祭や領主の入場式等に催さ れる街のなかの地区対抗レースであった。中 世には,既述にように広場でのレースではな く,街の中心部を貫く直線コースであった。 当時の状況を鑑みれば,街の城壁内にいるの は「市民」に限定されていたわけで,今でい う街の外からの訪問者は特別な地位の人々や 交易に関わる商人らに限られていたと考えら れる。したがって,あえて小さな空間となる 広場でのレースではなく,真っ直ぐ街を貫く 道をコースとすれば,よりスピーディーかつ エキサイティングなレース展開を楽しめたこ とだろう。また,市民が日々生活を営む街中 の道で開催すれば,沿道の家々の2階のバル コニーや側道からでも十分に余裕をもって観 戦することが可能であった。加えて,当時馬 を所有することは限られた富裕層にのみ許さ れ,そうした馬を現在のような狭いスペース でのレースに参加させることは馬を傷つける リスクも伴う6)。中世には,馬を飼育,管理, 調教するにはかなりの経済的な負担がかかっ た。丹精込めて飼育した馬に支障がないよう に注意を払ったことが考えられる。また,何 よりも馬は騎士の社会的地位を映し出すもの であったため,より足の早い馬を生産しよう としていた(ブルクハント:17)。そしてそ の成果を試す格好の機会がパリオのような競 技であったといえる。したがって,直線かつ 長距離にした方がその早さが分かりやすかっ たことが考えられる。 現在のアスティの街は,外部との障壁であ る城壁はすっかり取り払われ,人々も自由に 出入りができ,当然のごとく誰でもが街に入 ってくることができる。また,街は郊外へと 広がりをみせ,そうした地域との関係も深ま っている。アスティ市も旧市街地だけにとど まるものではない。それは,パリオの参加地 域をみても明らかである。21地区の参加のう ち,15地区がアスティ市外からの参加である。 地域からの参加者や応援に駆けつける人々, 観光客も街を訪れる状況において,これまで の城壁に閉ざされた空間での共同体という意 識の醸成は,開かれた時代と社会,さらには パリオのようなイベント時でも競馬場のよう な空間ではなかなか代用できなかったのかも しれない。そこで,仕掛けとして,それまで よりも狭い建築的広場を用いて,地区の人々 が顔と顔をつきあわせることができる範囲に 押しとどめることが必要だったのでないだろ うか。 地区という共同体での人々のつながりは, 広場での閉鎖的状況において敵対関係が表出 されるパリオを通じてより結束が高まる。 人々の生活基盤である各地区が競争という遊 びの中で,真剣に勝負を楽しむのである。池 上が指摘するように,中世から現代にいたる まで「遊びは特別のコードをもって既存の社 会的結合関係を繰り返し繰り返し確認しつつ, 保存・継承していく機能」(1994:176)をア スティのパリオでも活用し続けているといえ よう。そこには閉鎖的空間において,地域を 集結させるような仕掛けが展開される空間が 求められたのである。 ! 都市の再生と伝統スポーツの復興 1970年代前半から,イタリアを覆った深刻 な経済危機にもかかわらず,近代都市計画を 見直し,伝統的な街並みを「すぐれた生活空 間として見直し再生する機運」が高まった(陣

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内:1992:21)。戦後から1960年代半ばまで の経済成長により,ニュータウンや郊外住宅 地の造成が盛んに行われる一方,街の中心に ある歴史的地域には経済力のない人々が半ば 置き去りにされた状態で寄り集まり,スラム 化に近い荒廃が見られ始めた(陣内:2005: 223)。歴史的地区を再生し,個性的な生活環 境を実現することで街が魅力的な求心力を取 り戻すため,1980年代には,街の歴史的地区 について「歴史的建築や景観が文化的遺産や 観光資源としての再評価」(黒田:2011:74) がなされ,より積極的な歴史的地区の再生と 保存が促進された。その中心となったのが, やはり歴史的に街の象徴となってきた広場で あった。 「家に住む」よりも「街に住む」という感 覚が強い(陣内:2005:108)とされるイタ リアでは,広場はまさに人々にとって心地の 良い居間であり,日々,情報交換を行い,祈 り,食し,主張し,楽しむ憩いの場であるこ とはすでに述べた。イタリアの中世からの自 治都市にある広場は,人々が誇りに感じるよ うな歴史的建造物や芸術的なモニュメントと いう仕掛けにより,「市民が主体的に使いこ なす親しみを持たれる」(陣内:2005:210) 魅力的な空間に仕上がっているのである。 日々の暮らし以外に,広場に人々を誘う動 機としての「広場化」という仕掛けのイベン トもしくはアクティビティが必要となる。三 浦は,それらの仕掛けを次の4つに分類して いる。「!その場所との結びつきが強いもの, "アピール性が強いもの,#万人に受け入れ やすいもの,$連帯感のあるもの」(1993: 195)。アスティにおけるパリオは,まさにこ れら4つのいずれにもあてはまるイベントな のである。 繰り返しになるが,1967年に復活したパリ オ広場は,19世紀末に新設された市場のため に造られた,いわば広く無機質な長方形の空 間であり,初めに使われたのは1861年のパリ オで,周回形式のレースが行われた。その後, パリオ自体が途絶えてしまうが,その理由に ついては,宗教的なものから世俗的なものへ と変化したことのみが公式パンフレットなど で伝えられている。先の三浦が分類した4つ の仕掛けに照らし合わせたとき,恐らく!の 「その場所との結びつきが強いもの」という 条件が欠如していたことが考えられる。第二 次大戦後の1967年に再度復活を果たすが,10 年という期間を区切りに,1988年から現在の 開催場所であるアルフィエーリ広場に移した ことは何度となく述べてきた。この広場は歴 史的建築物に取り囲まれ,主要な街路に接し ている。建物の一階には,日常的に立ち寄る 店やレストランが軒を連ね,人々が日常的に 集う場所なのである。つまり,街の象徴とし ての歴史性はもちろんのこと,生活とのつな がりが深い空間といえる。定期市場が開かれ る以外,通常は駐車場として用いられている パリオ広場の無機質な空間とは対局にあると いえる。 加えて,伝統的なスポーツとしてのパリオ という仕掛けによって,地区や街への連帯感 だけでなく,より歴史的な場所とのつながり を強く実感させることになる。中世からのル ールに則った競技,旗をあしらった騎手のウ エアなど競馬はもちろんのこと,レースをお 膳立てする旗振りや1,200人もの時代行列は その極みと言えよう。あたかも中世の時代に 戻ったように1,200人の市民が中世の日常生 活の場面や歴史的出来事を演じながら街路を 練り歩く。そのゴールがアルフィエーリ広場 である。演じる人々も観衆としてスタンドか ら見ている人々も,広場という空間に抱かれ て中世という歴史に思いを馳せ,街への愛着 を増していくのである。まさに,パリオの舞 台となるアルフィエーリ広場は,“salotto buono”(「良い居間」)なのである(Asti & il sou territorio : 2011 : 30)。

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! 「アスティのパリオ」であるという個性 としての広場 イタリアでパリオといえば,多くの人はシ エナで行われるパリオを思い浮かべる。シエ ナはトスカーナ州に位置する中世からの街で, 13,14世紀にかけてはフィレンツェと肩を並 べるほどの繁栄を果たした。現在でも観光客 が絶えないこの街の中心であり象徴となって いるのが,カンポ広場である。中世において, すでに見事なまでの都市設計がなされ,地形 を生かしたすり鉢状かつ扇型をした,まるで 古代ギリシアの野外劇場のような広場が整備 された(片山:2011:40―41,72―73)。広場の 最も低い位置にゴシック様式で建てられた市 庁舎がそびえ立ち,まわりの建築物の様式は すべて統一されており,中世都市計画の最高 傑作の一つとして名高い広場である。中世の 自治都市にとっては,市庁舎の前の広場は最 も権威を示す空間であったため,威厳を損な う行為や,秩序を乱すような行為も禁止され ていたという(徳橋:2008:42)。 シエナでパリオが行われたのは,一説には 12世に遡るともいわれているが,13世紀とい うのが定説になっている。1260年にはシエナ の守護聖人の聖母マリアに捧げる祭であった という。17世紀頃には現在のようなルールが 成文化され,その後わずかな変更は見られる ものの,当時の歴史と伝統を守り続けている。 現在では17地区からの騎手と馬で競われてお り,それらの地区はすべてシエナの街に属し ている。歴史的にも地区の間での対抗意識は 強く,応援にも熱が入る。現在でも7月と8 月の年2回,5万人もの観衆の前で盛大にパ リオが行われている。なお,シエナのパリオ が中断したのは,1915年から1918年,1941年 から1944年のそれぞれ3年間のみであり,い ずれも第一次と第二次世界大戦の最中であっ た。再開の翌年には,年に3回もパリオを催 した(辻:2007:38)というほどで,市民た ちがいかにパリオに渇望していたかがわかる。 また,レースに先立つ時代行列についても15 世紀のやり方を継承しながら執り行われる。 辻はアスティとシエナの時代行列の大きな違 いについて指摘しており,シエナの場合には 男性のみで,役割,人数,順番などもすべて 15世紀のしきたりに則っているという(前 掲:40)。 一方,アスティのパリオはシエナと起源を 同時期とされ,シエナと肩を並べるほどの長 い歴史がある。しかし,17世紀から現在まで 街の中心の広場で綿々と繰り広げられてきた シエナのパリオに比べると,アスティは中世 から近代にいたるまでは街路を用い,そのコ ースもたびたび変更されてきた。伝統の継承 という点で,シエナのパリオと決定的に異な るのが,近代から現在にいたるまでの中断の 時期の長さである。1988年になってようやく 街の歴史的中心となるアルフィエーリ広場で の開催に落ち着いたのがアスティのパリオで あった。 しかしながら,この歴史的な背景の違いを 逆手にとって,アスティのパリオをより柔軟 かつ創造性に富んだ祝祭に変容させた点は注 目に値する。また,歴史的な背景に鑑み,ア スティのパリオの担い手や行政側が,シエナ のパリオに対抗意識を抱いてきたことをうか がわせる内容がパンフレットなどで記されて いる。その出来事は,1930年代に入ってから 7年間のみ行われたパリオが中断させられた ことに関係している。ファシズム政権下にお いて,「パリオに代わるより男らしい馬上槍 試合をすべし」との通達の背景には,「パリ オという名称は最も古くから絶やすことなく 厳格に執り行ってきたシエナのみが使い,他 の都市では使わせない」と伝えられているこ とにある。事の真実についての検討は今後に 譲るが,注目すべきは,そうした説明書きが アスティのパリオに関連して記されるという 点である。中世においても,アスティは,そ の繁栄の規模もシエナに劣るし,パリオの盛 大さや厳格さについても同様であろう。あえ て,シエナのパリオ関係者が,アスティのパ

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リオを中止させるような圧力をかけるだろう か。あるいは,アスティのパリオを当局が中 断させようとしただろうか。むしろ,アステ ィ側の人々が,後になって中断した理由とし て,あえてシエナのパリオを持ち出した可能 性も考えられる。 いずれにせよ,1988年のアルフィエーリ広 場への変更により,シエナに劣らぬ歴史的広 場において,三角形という難関かつ個性的な コースでのパリオが実現したのである。辻は シエナとアスティのパリオを比較し,伝統あ るシエナでは時代行列にして「参入障壁を高 くしても,是非それに参加したい,と考え若 者が精進することを期待」(辻:2007:40) でき,アスティでは「伝統は単に復活させた というより,再構築せねばならず,そのため には,できるだけ各地区の若者が参加できて, 参加することによって,パリオを自分達の伝 統として意識させ,地区を活性化し,連帯感 を高めるプロセスが必要であった」(前掲: 40―41)と指摘している。 しかし,実はこの再構築のプロセスこそ「ア スティのパリオ」として個性化させることに もつながっていると筆者はみている。つまり, パリオを再構築する過程においては,自らの 伝統文化を客体化する試みが必然となる。中 断の時期が約100年と長かっただけに,その プロセスは自らの街のパリオの歴史を再び掘 り起こすことから始まり,どのような要素を 現代のパリオ復活において含めていくか,ま た後生に残すべき価値ある伝統文化は何か問 いながら,自らが主体的に伝統文化を操作し ていく営みがあったと考える。 自らの文化を操作することには,文化を創 造する意味合いもあろう。それまでの歴史的 な文書や慣習を厳格になぞらえながらのシエ ナに対し,復活に際し繰り返しコースを変更 させながら現在の広場に至ったアスティの経 緯を見ると,アスティのパリオのより柔軟か つ軽やかな文化の創造性を感じることができ る。これまでになかった三角形の広場を舞台 とすることは,シエナにはないアスティの個 性であるし,そこにはよりエキサイティング な遊びの仕掛けが組み込まれているのである。 1988年からのアルフィエーリ広場でのパリ オにより,アスティのパリオは歴史性および 創造性に富む「伝統スポーツ」となった。ア スティの人々によるパリオの再構築は,より 主体的にパリオの歴史や新たな文化的要素を 付与していくことで,自らの街への誇りとと もに結束を強めることになっていった。この 三角形のアルフィエーリ広場は,アスティの パリオの個性的な顔となったのである。 おわりに 中世への憧憬,もしくはノスタルジーとい う思いをはせながら,時代を遡り再構築され たパリオは,街の人々も参加する,見せる, あるいは演じることでいわば「歴史を遊ぶ」 ものでもあった。その舞台となったのが,広 場という空間である。芦原が述べるように「広 場は市民の生活の場であり,賑わいのある生 きた空間であり,単なる閉鎖的空間ではな い」ことは,日常生活においても,また,パ リオのような非日常のいわばハレの場におい てもいえることであろう。普段は居間のよう に安心して包み込まれる感覚を抱き,祝祭で の伝統スポーツの際には街の歴史を改めて思 い返しながら街との結びつきを確認する。街, そして広場という空間が街の市民としての 「精神文化」をも醸成してきたといえよう。 ヨハン・ホイジンガはかつて,「真の文化 は何らかの遊びの内容を持たずして存続して ゆくことができない」(1973:426)と『ホモ・ ルーデンス』の中で述べている。伝統的社会 の中で,スポーツはまさに「技芸,力,忍耐 の競争は,古くから,ときには祭祀と結びつ けられ,またときには単なる子供の遊び,祭 礼の余興として,どんな文化の中でもいつも 重要な位置を占めてきた」(前掲:396)とい い,スポーツの偶発的な楽しみだったり,ス ポーツによって社会の共同生活のなかでの連

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帯の精神を高める役割を果たすことで新たな 文化を生起させてきたと論じている。 一年を通じて,イタリアでは多様な伝統ス ポーツが大都市やかつて中世の時代に栄えた アスティのような小規模な街でも行われてい る。それらの伝統スポーツの多くは,中世に おいて形づけられたイタリア都市を象徴する ような文化的特性を色濃く残している。伝統 スポーツには,ホイジンガが論じた社会との 共同生活における人々との連帯精神を培い, 宗教的な祝祭との関わりをもつものとして, 中世から,都市の構築に深く関わり継承され てきた。それぞれの時代を生きる人々が,日々 の営みや祝祭のなかで,街の歴史の連続性を これからも紡いでいくのである。 <注> 1)「コムーネ」とは,現在のイタリアの行 政区分での呼称で,地方自治体(市・町・ 村)に相当する。元々は,中世の自治的 市民組織をいう。 2)16世紀には,すでに「カルチョ」と呼ば れ,フィレンツェでの祝祭の行事として 華々しく行われていたが,この時期にカ ルチョは古代ギリシア,そして後の古代 ローマにおける鍛錬であったという起源 説が登場した。ギリシア語では「スフェ ロマキア」,ラテン語の「ハルパストゥ ム(足球)」をその起源であるとする説 である。背景には,フィレンツェという 都市国家において他には見られない固有 のカルチョという競技を古代競技の遺産 と位置づけることで,「偉大なる古代都 市」とのつながりとともに,カルチョの 価値を高めようとしたねらいがあったと いわれている。詳しくは,ブレーデカン プ(2003)を参照のこと。 3)ヴ ィ ス コ ン テ ィ(Gian Galeazzo Visconti : 1351―1402)は,14世 紀 に ロ ンバルディア地方に強い影響を持ちなが ら徐々に勢力を拡大,その後ミラノ公国 を成立させた。フィレンツェをも掌握し ようと試みるが失敗に終わっている。 4)中世には2つの賞のみが存在した。優勝 者へのパリオの旗と2着に雄鶏が与えら れた。これらの2つの賞は象徴的意味が あり,1着の旗は非常に価値あることで あり,2着の雄鶏は事実上価値がないこ とを示したものであった。 5)エマヌエーレ・フィルベントという名称 は,1545年にアスティの街の摂政に就任 した人物で,パリオの伝統を記録に残し, 彼とその子孫は永久にパリオの実施を約 束した。 6)アスティのパリオ会場の外では,レース の間中,動物愛護団体の座り込みの抗議 行動が見られた。シエナのパリオでもそ うだが,広場での競馬は競馬場と異なる 形状で,特にアスティの場合には三角形 という馬にも騎手にも大変難しいコース となっている。そのため,コーナーで曲 がり切れずに,壁に激突してしまう馬も いるようで,コーナーには分厚いクッシ ョン材が張り巡らされていた。公式パン フレットでも,動物愛護団体からの抗議 を意識してか,コーナーにクッション材 を張り巡らせていること,また広場の石 畳に敷き詰められる砂は特別に配合され たもので馬を傷つけない配慮がなされて いることが明記されている。 抗議デモでは,壁に激突して馬が傷つ いた様子の写真やプラカードを掲げて, パリオの中止を訴えていた。その周りを 警察は取り囲むように様子を見ていたが, 特に混乱には至らなかった。ちなみに, 2012年のレースにおいては,落馬も含め て馬が傷つくような事故も起こらなかっ た。 <参考・引用文献> 芦原義信(2011)『街並みの美学』岩波書店 池上俊一(1994)『賭博・暴力・社交:遊び

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からみる中世ヨーロッパ』 講談社 池田匡克(2011)「イタリア各地のお祭り」 『イタリア文化事典』(イタリア文化事典 編集委員会編) 丸善出版 pp.526―527. 市川宏雄(2007)『文化としての都市空間』 千倉書房 宇田川妙子(2004)「広場は政治に代われる か:イタリアの戸外生活再考」『国立民族 学博物館研究報告』(国立民族学博物館編) 28(3)pp.329―375. 遠藤紀勝(1977)『ヨーロッパの祭』駸々堂 出版 斉藤寛海,山辺規子,藤内哲也編(2008)『イ タリア都市社会史入門』 昭和堂 篠利幸(2011)「パリオについての薀蓄」『イ タリア文化事典』(イタリア文化事典編集 委員会編) 丸善出版 pp.524―525. 片山伸也(2008)「シエナ」,「広場の造形」『イ タリア文化事典』(イタリア文化事典編集 委員会編)丸善出版 pp.40―41,72―73. 亀永洋子(2011)『イタリアの中世都市』 山川出版社 北原敦(2008)『新版世界各国史15 イタリ ア史』山川出版社 黒田泰介(2003)「円形闘技場のクネオの転 用状況について」『日本建築学会大会学術 講演梗概集』社団法人日本建築学会 http : //ci.nii.ac.jp/naid/110006642919 (アクセス日2013/09/2) −(2011)「都市の保存再生」『イタリア文 化事典』(イタリア文化事典編集委員会編) 丸善出版 pp.74―75. 陣内秀信(1992)『東京の空間人類学』筑摩 書房 −(2005)「都市の歴史と空間文化」『公共 空間としての都市』(植田和弘他編) 岩波書店 pp.207―233. 辻昌宏(2007)「アスティのパリオ」『人文科 学論集』第52・53輯合併号(明治大学) https : //m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream /10291/13008/1/jinbunkagakuronshu 52―53_29.pdf(アクセス日2012/7/20) 徳橋曜(2008)「第2章 都市の景観と環境」 『イタリア都市社会史入門』(斎藤他編) 昭和堂 pp.30―50. 藤内哲也(2003)「第6章 イタリアの祭」『ヨ ーロッパの祭たち』(浜本隆志,柏木治編 著)明石出版 pp.245―285. 浜本隆志,柏木治編著(2003)『ヨーロッパ の祭たち』明石書店 ブルクハント(1974)『イタリア・ルネサン スの文化(下)』 (柴田治三訳) 中央公論新社 ブレーデカンプ,ホルスト(2003)『フィレ ンツェのサッカー:カルチョの図像学』 (原研二訳) 法政大学出版局 ホイジンガ,ヨハン(1973)『ホモ・ルーデ ンス』(高橋英夫訳) 中央公論社 三浦金作(1993)『広場の空間構図』鹿島出 版会

Asti & il sou erritorio (2011) Promo Pubblicita

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参照

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