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[研究論文]三平等の大あむしられの役割とその変遷 : 近世琉球における祭祀政策を中心に: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

[研究論文]三平等の大あむしられの役割とその変遷 :

近世琉球における祭祀政策を中心に

Author(s)

大城, 涼子

Citation

浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe City

Library(10): 55-67

Issue Date

1999-03-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/20631

(2)

〔研究論文〕

三平等の大あむしられの役割とその変遷

一近世琉球における祭杷政策を中心に一

はじめに 沖縄には琉球王国時代から伝わる祭杷・儀 礼があり、民俗学、人類学の分野において主 に研究が進められている。しかし、これらの 分野の研究では、現行の地万祭記や習俗の歴 史的背景への興味が薄く、また、王府祭枕へ の研究関心が弱い印象を受ける。王庁l祭犯と は、それ以前の地方祭柁を吸収して、王府が

r

'i:

l

家レベルの祭犯としたものだが、この王府 祭柁を]買点とする制度化された公的祭犯の地 域への浸透(公的司祭者による地域祭犯管轄、 王府の祭 m~統制政策)が進んだ結果、逆に地 方祭最

E

もその帯JI約・規定を強く受け、変容し ていったと言える[高良、

1

9

9

6

]

。王府の政 策・制度の問題といった政治行政の歴史的背 景の考察抜きに、祭礼1の問題は検討できない のではないだろうか。筆者は文献資料や先学 による王府の行政・制度の研究をもとに、近 世琉球の祭記{象を再構成したいと考えている。 本稿では、「三平等の大あむしられ

J

を素 材として、神女組織や王I{

f

の祭杷政策につい て検討する。

1

8

1

世紀に苔里王府によって編集 された、『女官御双紙

J

(以下『御双紙

J

、)

f

流泳国由来記j(以下[由来記

n

より、三 平等の大あむしられの祭柁を概括的に捉え、 彼女らが首里王府の行政組織の中でとのよう に位置付けられているか考察していく。 1 .三平等の大あむしられの概括 神女組織が確立したのは尚真王時代であっ たとされている。神女には「君々」と通称さ れる中央神女(三十三君)と、大阿母、ノロ などの地方神女がいる。その

m

占に開得大君、

大 城 涼 子

そして地方神女の統制役として三平等の大あ むしられが置かれ、組織のヒエラルキーが確 立された。これら神女たちは、辞令書により 任命されて就任し、ノロクモイ地を持つなと、 男性役人と問機の論理で制度化されたもので あった[高良、

1

9

8

7

]

0

三平等の大あむしられの三平等とは、首里 を三つに区分した行政区画の総称であり、南 風の平等(桃原・大中・当絞・鳥小堀赤口1・ 崎L[J)、真和志の平等(真和志・田

J

端 山 川 大鈍)11 .与那覇堂・:立岸・金j成・内金i成・寒 水)1 )1、

p

!iの平等(汀志良次・赤平 ヒ儀保 下儀{呆・久場)1 )に分かれていた。大あむし1 られはその各平等にいる「百隻の大あむしら れ(以下首里殿内 )J、「真援の大あむしられ (以

1

真壁殿内 )J、「儀保の大あむしられ(以 下儀保殿内

)

J

の神女のことで、三平等の大 あむしられとは総称である。三平等の大あむ しられは、各平等に殿内を持ち、火神を祭り 首里の祭犯を担当すると同持に、神女組織の 中では伺得大

1

3

F

で地方の神職を掌握する 役割を担っていた。

H

却双紙

J

によると、「王 府の名門の女子から任命され、祭儀の時最高 位、日常でも座敷衆の内儀より上」とランク されており、それぞれ旋のあむ、作事のあむ が一人ずつ付き、御扶持米一石五斗、雑穀一 石を王府から賜っていた。また、首里殿内だ けは別に「首里根神あむしられj という伴神 的な神女がついていた。

f

おもろさう

L

J

に は、首里ノ口、真壁ノ口、儀保ノロなどとい う神女が登場し、これらは後の三平等の大あ むしられと関係する神女と見られる。 三平等の大あむしられの共通の御援は、首

(3)

里城内の十御j設と園比屋武御巌である。それ 以外に各平等での御議があり、それぞれの管 轄間切、代相を行う大阿母について『御双紙

J

、 『由来記

J

5

の「城中御滋並首里中御滋年 中祭最

e

J

、巻

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1

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の「各処祭泥j に記 載されている(1) (表

1

、図

1)

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r

由来記

J

記載の三人の祭場を比較してみると、三人共 通の御巌「鴎比屋武御犠」は真和志の平等の 真和志村にある。三人の管轄の御議は、内金 城大獄・小獄、大獄前原の殺が巻

1

2

の真和 志間切に記載されている以外は、すべて首里 の各平等内にある。殿は「各処祭杷

J

の南風 原・真和志・西原の三間切の項に記載され る(2)。 間切管轄は図

l

でわかるように三分制の入 れ子構造になっている。それが

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世紀に編集 された、「聞得大君御殿御規式次第

J

(以下 「御規式J)では首里殿内が「中頭方並国頭間 切、伊江嶋、伊平屋嶋者、首霊殿内構二而候 事j、儀保殿内が「主

i

頭方者、儀保殿内構二 而候事」、真壁殿内は「島尻方、久米嶋きん はい者、真壁殿内構二而候事」とあり、管轄 の移動がみられる。 年中祭犯に関しては、御物参や弁の御獄行 幸なと、同じ儀礼を何度も繰り返している (表2)。三人の中でも、特別な役割を果たし ているのが首里殿内である。三人が各平等で 別々に行う祭泥も、首

I

I

殿内管轄の地域から の水取りが開得大君御殿に献上される等、特 殊性が際立つている。重要視される理由は、 王府祭記の聖地である知念・玉城を管轄地域 にしていることと関係しているようである。 首里殿内は王府祭杷の代表格にあたる。王府 は三平等の大あむしられ市)1を、祭泥沼からの 地方を統制する一手段としたのではないか。 では、具体的にいくつかの祭認を見ていき ながら、三平等の大あむしられの王府組織に おける位置付けを考察する。

2

.

就任儀礼からみた三者の関わり 三平等の大あむしられの就任儀礼の記述は、 『御双紙

J

r

由来記

J

にある。いずれも一番初 めにこの儀礼が記載されている。『御双紙j に記載があるのは、首里殿内が、

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1

(康照

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)

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月、真壁殿内が

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7

0

4

(康男~43) 年 9 月、儀保殿内が、

1

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9

5

(康照

3

4

)

1

1

月であ る。 この就任儀礼を見ていくと、二つの儀礼に 分けられる。一つは、国王による任官の儀礼、 もう一つは、就任する大あむしられの神名つ けの儀礼である。 まず、辞令書拝受の三日前に、日撰が行わ れる。首里殿内は大勢頭の取次で伝えられる が、真壁殿内、儀保殿内の両名は首里殿内の 取次となっている(3)。やはりここでも、首 里殿内が上位に位置している。 任官儀礼の移動過程を追っていくと、就任 者の殿内→首息城(按司下庫理→大

l

車現+お すえんみこちゃ→大庫理)→関得大君御殿と なる。ここで注目したいのは、大あむしられ の就任に際して、国王より地位を安堵される 点である。大あむしられは辞令書を直接国王 から受け取っているは)。辞令書を王から受 け取ることは国王が神女の任命権を掌握して いるということを意味し、また聞得大君御殿 より先に玉城に赴いていることも、間

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早大君 直属の神女とされながらも実際の権力はすべ て国王にあったことを示している[高良、

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]

神名付けの儀礼は、御嫌に行って神名をつ ける。以下、『御双紙』首里殿内の記述をそ のまま抜粋する。 日撰次第、三平等の大あむしられ寄合、あか す森へ参り、首里殿内より御花一、御五水一 対、御楽、御いへの(御)前へ居上、真壁 殿内にて、御たかへ被成、神名なよかさのお やのろと相附祝なり

(4)

就任儀礼を通して、三人の関わり合いをみ ていきたい(表

3

。 注目したいのは神名を) つける場所である。首霊殿内は「あかす森j で行っているのに対して、真壁・儀保の両殿 内は「園比屋武御法

J

で儀礼を行っている。 あかす森が首里殿内の御綴であり、国比屋武 御j華は二三人共同の街Ij華である。なぜ首.!f!殿内 のみ神名つけをあかす森で行うのかは謎だが、 渡名喜氏は神女の神名と『由来記j記載の御 援の神名とが致していることを指摘してい る[渡名喜、

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]

。首.!f!殿内だけが自分の 御獄で儀礼を行ったことに特別な意味がある のか。神名付けの儀礼は本来i当分たちのそれ ぞれ碁捻になる御j設で行っていたのではない か。その根拠となるのは『由来記

l

j

$j:和志間 切茶

i

岳山付jの項記載の「内金城大獄」の神名 が「カネノ御イベO 又名モジリキヨノ大神」 であることである。この神名の 致は本来真 壁殿内の神名つけの儀礼が、「内金城大獄」 で行われていたことを想定させる事象である。 実際にこの「内金城大獄j と真壁殿内がどの ように関わっていくかは次章に譲るが、

f

義保 殿内も同様に、西原間切の地域の御j設と関わ り7うまあるのではないか。 また、真;壁殿内の他の二者の儀礼への参加 が多しL 首里殿内が最も重要であるのならば、 彼女が全てにおいて管掌しておればいいのだ が、実際はそうではない。池宮氏は真壁殿内 の地位の防Lt.を示唆している[池宮、

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5

]

。 実際に真和志の平等を重視する傾向が『御双 紙~

I

由来記jの時期に始まりつつあるよう である。 三平等の大あむしられの就任儀礼は、三平 等内の各村との関わりは一切述べられていな いc御新下りの儀礼でも、国家的な儀礼の中 で、各筒切の神女、役人との関係が現れてく る。他の神女らの就任儀礼での問題は後で述 べるが、大あむしられと首里三平等各村との 関係の希薄さは無視できないだろう。

3

.

稲穂祭での地域的関わり 次に、大あむしられと地域の関わりを、王 げjのIf

J

家儀礼として函 A的に整備された稲穂 祭から考察してみたい。 稲穂祭にはかつて、悶王と|謂{早大~との知 念・玉城への行幸があった。しかし、

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年 に行幸は廃止され、知念ー玉城間切は稲穂を 吉男に献上することにととまる。『由来記

J

によると、国旗開。Jの辺土大J11から{却水取り があり (5)、また真相志 南風原 l白原の三 間切から稲穂が献上されている。

f

{

前日双紙j 冒頭の記述によると、知念間切のさやは御滋 からも{却水取りが行われており、御水取りは いずれも首里殿内管轄間切である。この祭犯 でも

I

Z

里殿内が中心的な役割を果たしている。 祭犯の流れを追いつつ、三人の地域との関わ りを見てみたい。 水撫での儀式は、首里殿内が崎山樋)11、儀 保殿内が儀保JIIののろ井で行う。真壁殿内だ けが、異なる方法でツ

k

撫でを行う。 同日、真壁殿内より亀田村へ、みはな、御五 水もたせハ、向付のろ川、頭々にて御たかヘ イ士、水取。其次日に、かしら女房 人、真壁 殿内へ持参するなり。(中略)真壁の大あむ しられハ、亀岡村より持来醤'7

K

、早朝なで、、 あまえ御門よりのほり、君ほこり真正面の御 門に儀保の大あむしられつれて、ひかえ居c

(

r

御双紙

J

)

真壁殿内だけが亀田村より持ってこさせて いる。日召屋氏はこの規式より、真壁殿内の移 動を示唆しているが[照屋、

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]

、いずれ にせよ、亀田村との密綾な関係が分かる。 水撫での後、各々地頭が差し出した馬に乗っ て登城する。首里殿内は赤田御門(継正門) 真壁・儀保殿内はあまえ御門(歓会内)より 域内へ入り、域内ではiJtiの御殿(北殿)で三 平等同時に規式を行う。域内での規式の後は、 同燥の門を通って各平等に戻り、その村の地

(5)

頭、根神、根人らをつれて殿内、村単位の祭 犯を行うことになる。 では稲穂祭において、大あむしられがどこ の村と密接に関わっていくのか(表

4

)。表

l

と比較してみると分かりやすいが、首毘殿 内の関連村(人員の出所)は南風の平等崎山 村、南風原間切の新川村、真壁殿内は真和志 閉切真壁村 茶

i

岩崎村、儀保殿内は西原間切

儀保村である。真壁殿内の祭場となる内金城-t

のとのの両殿の所在は『由来記

J

の茶湯崎 村の項に記載がある。しかし、同名の「内金 城御様」に「首里之内金城中有之也

J

と注記 があるため実際の所在は真相日志の平等の内金 城村にあるのだろう。松川地頭は茶湯崎村の 地頭名である。さらに『由来記』の内金城小 巌には「松川根神

J

が登場している。祭場を 真和志の平等内金城村で行い、人員は茶湯崎 村の者が参加したのだろうか。同様の事例が、 儀保殿内でみられる。祭場である殿は西の平 等内にあるのに、石嶺地頭は西原間切の儀保 村に比定される。

f

由来記』の記載では首里 に存在する殿が間切の巻にあった。殿が年中 祭i砲の項目に記載されていることからも、殿 そのものの所在よりも、関わる人員の出身を 重用視したことがわかる。そのことから真壁 殿内は真和志間切真壁材、儀

f

呆殿内は西原間 切儀保村と関係がある。だが、三平等での祭 杷で、間切の地頭や百姓が関わりがあるのに は疑問が残る。稲穂祭は首車三平等と三間切 の関係を示す重要な祭犯である。首1ll.三平等 と三間切は祭枕上では区分がなかったのだろ うか。 三平等内の村で稲穂祭はどう行われていた のか。『御双紙』真壁殿内の項に「稲の穂祭 の時、三日御たかへとして真和志の平等村中 より、みはな、御五水、村渠さじ賞調持来る。」 とある。また儀保殿内は「稲の穂祭の時、三 日御たかへとして、西の平等五ケ村より、み はな、御五水、村渠作事、貫調持参にて、火 神の御前へ居、みはい仕jとある。両方とも 三日街iたかベの供え物を村渠作事が持参して くるのだが、記載はそれだけである。三平等 の大あむしられが行う稲穂祭は、三平等全体 で行うのではなく、村単位で行われている。 これは本来、彼女らの位置が首里のある一地 域のみに関わりを持った地縁約な神女である ことを示しているのではないか。 そのことを推測させる史料として、首里殿 内の伴神的存在である根神あむしられの稲穂、 祭の記述がある。首里殿内に従って祭最Eを行っ ているのに関わらず、首里殿内の項の記述よ りも詳細にあり興味深い。根神あむしられは、 首里殿内とは別に、稲穂祭の当日早朝、自分 のおえか地から稲を取り「御しろまし

J

を御 内原に献上している。また、「右同時、彼お ゑか地より、神酒ー樽相調、崎山の御縁へ居 候事

J

とあり、特別に崎I1j御議だけには、神 酒を供えているのである。このことから、根 神あむしられと崎山御獄とは密接な関係であ ることカぎ伺える。 根神あむしられはまた、大あむしられ三人 と同等に稲穂祭を行っている。特に首里城内 の規式では、大あむしられ三人の祭杷という よりも、根神あむしられも含めた四人で祭犯 が行われている。 即刻安城、美福門の内、西表へ被

f

日居候。日IJ 御時成候由、引の筑登之御使二被参候 問、 根神あむしられ先立て、首里の大あむしられ 列て、前の御前被備通、西(面)の殿御たも と四座の内、東の御たもとに、根神あむしら れ着座、西表へ三平等の大あむしられ着陸ニ て、{卸祭の御規式相勤後ニ御内原へ被為召候 刻も、如最前、前の御前被備通候。

(

W

御双紙j) 右同時、西の御たもと凶座、銘々へ御祝物と して、扇子一本、中紙一帖、唐苧ー斤宛、被 居置、面々へ被下候。且又、御はな二ツ、御 五水二対、御神酒二荷、境問俵ハ二飾ニ被居 置。一飾ハ首里の大あむしられ、根神あむし

(6)

られにて、半分ッ、被致拝領候。 す市ハ、真 壁の大あむしられ、儀保の大あむしられにて、 半分ッ、被致拝領候事。 以上より、根神あむしられは、三平等の大 あむしられと同格に扱われている。 先の就任儀礼との関係で言うならば、首里 殿内または根神あむしられは、崎IlJ村、南風 原間切の新川付、真壁殿内は内会j成村或いは 真和志向切の茶I長崎村ゃ真壁村と、儀

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呆殿内 は下儀保村、汀

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1

良次村、或いは西原間切の 儀保付との関係が深かったことが指摘できる。 特に、真壁・儀{呆殿内はその名に関係する村 とのつながりがあることから、その地域に校 ざした神女であったことを推測させる。 三平等の大あむしられの役割は次の二つに まとめられよう。一つは管轄の村の稲穂祭の 王宰者であること、もう一つは城内での国家 儀礼での主宰者であることである。また、域 外での立場は、人々の最上位であるのに対し て、域内では取次や案内といった王府の要請 に沿った行部Jをしている。域内祭杷の最上位 は当然国王であり、王を頂点とした王府組織 の中に大あむしられが取り込まれていたこと がわかる。更に、他の祭犯でも共通している ことだが、御たかべの内容には匡

E

E

礼賛が盛 り込まれている。稲穂祭を始めとした作物儀 礼は、作物豊穣祈願という目的の他に、中央 集権的イデオロギーを担ったものである[安 達、

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8

]

三平等の大あむしられは本来、首里の一地 域を地盤にした神女だったと推測する。しか し先に述べた論理のもと、地位の浮上がおき、 王府祭柁の拐し、手として、組織機構の中に組 み込まれていったのである。稲穂祭に見られ る二商性は、このことも示唆している。

4

.

i

代相

J

からみた統治システム 大あむしられが地方の宇$女達とどのように 関わっていたか示してみたし、それぞれの管 轄の神女等との関わりが読みとれるのは、王 に代相の儀礼に関する事例だけである。その 他に臨時的関係がもたれたことしか触れられ ていない。その代相からみた、王府の神女統 制jの論理について考えてみたい。 まず、ノロの代相で、

f

御双紙j 儀保殿内 の項に、 代相の時、地頭衆よりおかす被刊:なりc言ヒ 相1斉ハ、文間切のさはくり、儀{呆殿内へ参、 作

I

かしのろくもい成為申段、主主上初済

f

展開、 何日にみはいさせへくと、兼て案内有之。

m

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干の

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ノ¥のろくもい、さはくり列て、儀保 殿│人jへ来り、仙香 結、みはな'ツ、御五 水対参、銭、火紙の御前へ御飾{士、。j卸 持一四ツ勤之。又、大庫理にて、御城へ│向て、 み は な ツ 、 御jj水 対 、 御 飾 仕 、 立 ミ は い 四ツ、勤之。畢、振廻(舞)会尺臼ーなり。 とあり、おかず書の存在がここに見える。 各間切のノロは地方役人の手によって推薦さ れ、前もって儀保殿内におかずr書が届けられ ている〉さらに就任の手続きとして実際にノ ロとさはくりが殿内に参上しているく

1

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年 からのノロの辞令書発給停止後でも、就任に 際して儀保殿│村(王府)の認可を必要とした という点で、ノロを官人として扱い、大あむ しられの各殿内が

J

窓口の役割を果たしている。 /口の就任については国王への件謁はない。 大[iiiJ母クラスになると登城し国王へ拝謁する。 三平等の大あむしられはそれぞれの担当する 大│巧母が現れたときは、首里城に一緒に登城 する。ここで注目したいのは、周辺離島の大 阿母の代中日及び上回である。伊平屋、久米島、 宮古、八重山の大同

H

まは

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年に上聞が禁止 され、名代さばくりが代わりを勤めることに なった。

H

卸双紙jが編纂された当時は、まだ各大 同母も首里に上っていたため、三平等の大あ むしられとも関わりがある。宮古・八重ILiの

(7)

大戸')[立がI度来してきたとき、戸jじ大問母職の 那覇の大阿ほが取り次ぎをして、真壁殿内に 引き合わせる。これは、伊平屋のあむがなし、 君南風には見られないことである。この南]大 ~'J 陪は自分の代相の時は、首里に上らなかっ たようである。八愛山の大阿母の項には、 「大阿母役代相之時、言ヒ相済旨、奉承知、 右:番並頭より践冗筆者を以当人申入れハ、大 あむ蔵元ヘ出、御朱印頂戴、みはい為て、目JI 在番の所へ為札参らる j とあり、在番頭らを 過して、大阿母に辞令書が拝受されているこ とがみてとれる。しかし、「御規式j では両 大阿母からの間待大君御殿への胡麻袋進とを 代理として頭と与人が出殿しているが、取次 は大親が行っている 161。同史料の君南風の 進上の場合は、真壁殿内カ三取次を行っている。 「御規式j では、真壁殿内の管轄には、宮古 八重山の大阿母は含まれていない。宮古・八 重山両大阿母の上国が禁止された時点で、真 壁殿内と両大阿ほの関係は切れてしまったの かもしれない。 以上、/口、大阿母の代相、或いは首里上 りについて、大まかにまとめてみたが、いず れも各殿内で行う白撲は各あむしられが行っ ていることも指摘できる。更に大阿ほクラス でも組織の中で序列があることもわかる。具 体的にはそれぞれの祭杷を朝日かく分析する必 要があるが、今回はシステムとして三平等の 大あむしられ帝JIが機能していることを指摘す るのみに留めておきたい。

5

組織成立の背景 三平等の大あむしられが王府組織の一員で あり、王府祭杷の担い手であること、また、 本来は首里の一地}戒に根ざした神女であった ことを前節で指摘した。では、三平等の大あ むしられが制度として確立し、王府祭市

E

を主 宰するまでにどのような背景があったのか。 三十三君とよばれた、中央神女との関わり、 さらに近世期の宗教政策の頭から述べてみた

三十三君をめぐる具体的状況については知 られていない。第二尚氏からは王族関係女性 の経済的待遇をはかるために設置され、しか も聞得大殺の他二、三職を除いて臨時的なも のであった[宮城、

1

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7

9

1,

r

おもろさうし

J

や金石文には、それらの名が受場していた。 近世になると状況が変化する。『球陽』に は、「康照之初議其数而今有数職存湾

J

とあ り、君々の削減が行われている 17)Q

r

御双紙j に経済的待遇が示されているのは、間得大君 のほか数名でしかなく、また待遇のある記述 でも、神女としての役割としてよりも、個人 としての待遇であったは)。待遇の変化が分 かるのは『球陽j

1

7

2

1

(尚敬王

9

)年.

1

7

2

6

(同 14)年の記事であるは)。前者が開得大君 の伴神である言]雲上の俸米の裁去で、

f

走者は 俸米の復活である。この事象は他の君々には I院も無く俸米がたたれていたのに対し、司雲 ヒは常置の神女で、開{号大君の伴神であると いう組織での役割カヨ作目されたことを意味す る。 三十三君が削減されたのは、ちょうと向象 賢の改革期に一致する。祭犯の簡略、合理化 が進められるなか、王1f

t

祭桶

E

を担い、且つ地 方の神女を統話する宮人としての三平等の大 あむしられが重要となってくる。高級神女に 代わり、三平等の大あむしられの地位が確立 していくのは、向象賢の改革と関わりが深い と考えられる。 向象賢は古琉球時代の政治と祭事が癒着し た神がかり的な祭杷形態を、合理的な祭肥や 組織形態に変えていった(10)。近世の神女組 織は弱体化しているものと解釈されているが、 神女の祭犯における権威や地位は弱体化しで も、組織そのものは王府の管理下で秩序つけ られていたはずである。三平等の大あむしら れ市JIは三十三君の削減と祭杷再編の影響を受 けているのだろう。三平等の大あむしられの 神女としての設置が尚真玉時代であったとし

(8)

ても、組様機能としての三平等の大あむしら 中頭、国頭という三分割の概念が行政組織の れ市Ijが確立されていくのはこの時期だと推測 概念として確立されてしミくじ できる。 では三平等の大あむしられが

1

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世紀の「御

6

.

三平等の大あむしられ制の変動 三平等の大あむしられ制と行政側の概念と を追っていきながら、

f

御双紙

J

から「御規 式」に至る、三平等の大あむしられの管轄の 移動について考察する。 三平等を中心にした王国内を三分割させる 概念は、行政の区分において次第に変動して いく。ここでは、池宮氏と豊見山氏の二氏の 描いた概念像を提示し、三平等の大あむしら れの管轄の移動について考えていきたい[池 宮、

1

9

8

7

、豊見山、

1

9

9

7

J

。 まず、池宮氏はおもろ所出の地名と間切名 とを整理し、各巻との関係間切を示し、

f

御 双紙j の各殿内管轄との一致を指摘してい る(11)。おもろの分類は古琉球における地域 区分を反映しているはずだが、

i

r

,卸双紙

J

編 纂段階でも各殿内の管轄は古琉球の影響を受 けているのである。例外として北部地域は三 人で更に三分

L

ていた。北部地域は本島であ りながら周辺離島と同様に間接的な支配を受 けている。 豊見山氏は古琉球の概念から、近世の代官 帝Ij、取納奉行制まで政治構造からみた三分制 を明示している(図

2

、表

5

)。その中で薩 摩征服以前の沖縄島の地域構造というのは、 三分市Ijの入れ子構造になっており、

1

7

2

8

年の 取納泰行ができるころにはシンプルな三分市j となっているという(川。 豊見山氏の地域区分で分かることは、七代 官市)1では島尻を 2つにわけた首里殿内、真壁 殿内の管轄、及び池宮氏のおもろ地域区分の 島尻地域の区分にほぼ一致しているというこ とである。ここではまず、行政組織において も宗教組織の地域区分と共通する古くからの 地域区分があったことを指摘しておきたい。 更に、四代官、取納奉行の制度を絞て、島尻、 規式j段階で管轄の移動が行われているのは 何を示すのか。池宮r~ も指摘しているが、近 世末期になって行政の認識に同化していくか らであると考えられる。三平等の大あむしら れ制が王府の認識で設置されたものであり、 実際は別として表面的に行政の論理に引きず られていることを示している。 よって当然矛盾も生じる。「御規式

J

での 各殿内の管轄は、首里殿内部ち荷風の平等が 中頭地域、真壁殿内p.

P

ち真和志の平等が島尻 地域、儀保殿内p.

p

ち活の平等が田頭地域に対 応している。これは行政と祭犯の面でどちら を上位におくかという問題と関わる。行政で は真和志の平等、中頭地域が上位、祭杷では 首里の平等、島尻地域の東半分が上位となる。 三平等の大あむしられの移動は行政論理と祭 犯の実態との責めぎあいといえる。また、国 頭間切のみ首里殿内の管轄となったのは、国 頭方における図頭間切の拠点性も指摘できな いか。またその他、問辺離島や宮古八重山に ついてはとう三分割

l

と関わってくるのか、今 後の課題である。 おわりに 以上、三平等の大あむしられの王府神友組 織における位霞付けを分析した。三平等の大 あむしられの祭紀や管轄は、首里王府の行政 的な論理を反映したものであり、王府組織機 構の中に位置付けられている。 では、行政的な位置付けとはなにか。まず 国家的祭柁であり、地方f祭杷へ模範となる王 城祭柁を率先して行うと同時に、地方神女と 王府とをつなぐパイプ役であった点である。 近世に至って、祭柁が持つ本来の宗教的役割j の他に、王国を統治する為のシステムの一環 として祭把儀礼が利用されるようになった。 三平等の大あむしられは王府組織の一員であ

(9)

り、近世においては、宗教的意味合いを持つ 神女の役割の他に、行政組織のー官人である 位置も持つようになったのである。 最後に、近代における三平等の大あむしら れ市

J

I

の解体の過程について述べたい。

1

8

8

2

(明治

1

5

)

年の段階では、儀保殿内の存在は 確認できる川。三平等の大あむしられの廃 止は、開得大君御殿の尚家財産への編入の問 題が絡んでくる。明治

1

6

1

0

2

日の岩村県 令上申では、尚家の財産区分の必要性を述べ 開得大君御殿は私有化しでも社禄は継続して 付与することを訴えている。それに対して

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2

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日の「沖庶甲第

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J

で内務省は、私有 は認めているが、社録は当然、打ちきるという 見解を出し、明治

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1

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8

日の太政官回答 で社録打ち切りが決定する(川。以上の経過 を追っていくと、三平等の大あむしられの殿 内は間得大君の末社として存在しており(川、 開得大君御殿と同様の処分をうけたことが推 測できる。しかし、問得大君御殿の処遇が決 定するまでに県と内務省、とで見解のくい違い があり、単に「廃止jとしてかたづけられな い問題である。神女組織の解体を論じるとき に、明治政府に強制的に追い込まれたという 印象が強いが、直接的な原因は、首里王府と いう強力な後ろ盾が消えてしまったからであ る。三平等の大あむしられの消滅は、このよ うな状況を顕著に表している。 神女は現在もなお存続して残っている。一 般に国頭や離島に組織の保持が見られるが、 これは地域の祭杷との密着度に関係すると推 測できる。近世の祭犯再編は首里を中心に行 われている。政策の影響が希薄な遠隔地は地 域独自の祭犯と神女が深く結びつき、王国組 織崩壊の影響を受けにくかったのだろう。現 在の祭杷組織を考える時、時代背景からの視 点がやはり希薄である。近代になっても県令 や知事からノロ達へ静令書が発給されている。 この状況にはとのような論埋が働いているの か。近現代の神女組織の変遷も検討する必要 がある。 三平等の大あむしられ制は、祭市

E

統市IJにと もなう琉球王国のー制度である。地方祭杷を モデルにして整備された王府祭柁は、三平等 の大あむしられの地域祭犯の掌擦によって、 逆に公的祭杷として地域に浸透していく。今 後、王者市首里の拠点市IJを考える材料としても、 王府祭柁の影響力の分析は不可欠である。 〔ヲ問、参考文献〕

.

r

女官御双紙j

1

7

0

6

年([神道大系』神社編

5

2

r

沖縄」 神道大系編纂会

1

9

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1

年)

.

r

琉球国由来記j

1

7

1

3

年([定本琉球因由来 記

J

角川書活

1

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7

年) . [球陽j

1

7

4

3

年(球陽研究会編 角川書庖

1

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7

4

年)

.

r

間得大君御殿並御城御規式御次第 j

1

8

7

5

年 ([神道大系

J

前掲書) . [沖縄県史j11巻・

1

3

巻(琉球政府編

1

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6

6

年) -安達義弘「国家儀礼と地方儀礼一琉球王府 の王i成作物儀礼をめぐって-

J

([哲学年報j 第

4

7

輯 九 州 大 学 文 学 部

1

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8

年) -池宮正治「地方おもろの地域区分

J

(福田 晃・湧上元雄編 『琉球文化と祭配j ひる ぎ社

1

9

8

7

年) -池宮正治 r[おもろさうし

J

の世紀一歌謡 が語る琉球の中世

J

(網野善彦・石井進編 『東シナ海を閤む中世世界』 新人物往来社

1

9

9

5

年) ・小島瑛櫨 『日本の神々神社と聖地

1

3

南西 諸島』 白水社

1

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8

7

年 -高良倉吉 『琉球王国の構造

J

古川弘文館

1

9

8

7

年 -高良倉吉 「琉球史研究からみた沖縄・琉 球民俗研究の課題

J

([民族学研究j

6

1

号 日本民族学会

1

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9

6

年) -照屋正賢 「真皇室殿内の移動について」 ([神・村・人一琉球孤論』 第一書房

1

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年)

(10)

. !i主名喜明 「首里三平等の大あむしられの 神名と就任儀礼

J

(

i

沖縄民俗研究

J

7

号 沖縄民俗学会

1

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5

年) -豊見

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J

f

'

1

i

1

1f球国の地域的構造につい て ( 縞 野 善 彦 石 井 進 鈴 木 稔 編 『中世 日本列島の地域性 考古学と中世史研究

6

J

:g,著出版

1

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年) -宮城栄昌 『沖縄のノロの研究

J

古川弘文 官官

1

9

7

9

"1二 〔圧〕 (1)

i

御双紙j記載の三平等の大あむしられ 管轄の御獄及び間切、大阿母は以

F

の通り。 首虫殿内(御獄)弁の

i

卸j華

あかす森-t

i

i

l

ヰJj成{在日採・崎山御j設・阿

i

難川御獄・件!主 二御j託(間切)南風原・大J1

t

・佐敷知念・ 玉城・具志頭・金武・大宜味・罰頭ー恩納・

i

1f江島・伊平屋島(大阿母)伊平原のあむ がなし・一:カヤ回のあむ・今帰仁あふりや し、。 真壁殿内(街l獄)めずら滋おがみ・後原 拝ー見上森 内金城(間切)真和志・豊 見城・小禄・東風ユ

F

・兼城 高嶺・喜屋武-r.~f. 文仁真壁北谷・読谷・名護久志 久米島・宮古島・八重山(大阿ほ)楚辺の 大あむ・泉崎の大あむー那覇の大あむ宮 古の大あむ・八重山の大あむ・久米島君南 風。 ・儀保殿内(街i滋)西森ー金森ー白かね御 獄 くもて森・あすい森・あむと獄(間切)

l

i

原 浦 添 ・ 立 野 湾 中j成 越 来 ー 美 里・ 具志川 勝連・与那城・平]地本部・今帰 仁・慶良間二間切 粟国島・波名喜島(大 阿母)泊の大あむり (2) f付金城大濠・ノj、援は「首里之内会城村中 有之j という注記があるため、本来は]真手口 志の平等のほうにあるのだろうじまた、大 法・前原之獄は真壁村にある。真壁材は、

1

6

8

0

年に真和志の平等から真和志間切は移 管されており、村ごと管轄が変わったにす さない"しかし『御双紙

J

と対応する御滋 がないのは不自然である。同様に『御双紙j

f

由来記jで対応しない御法は雨乞/緑と 後!車持、金森である。後原村は小島氏が真 和志森のことであると指摘している(小島、

1

9

8

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)

。 (.3)

r

j,卸双紙jの首里殿内の項に「首里の大 あむしられ任職日撲次第、御拝iJ

J

相勤l封、 御i初登御使きほの捻のあむ、表の御使平等 所筆者、言上馬持来、みはし、の日撰、三日 前二大勢頭部御取次ミおみのけ

J

とあるo J方、真壁殿内は「三日前二、しよりの大 あむしられ御取次、奉言

I

J

とある。儀保 殿内も同様である。 (4) 首型殿内を例にあげると「大勢頭部御使 にて、おすゑんみきふちゃへ御呼あれハ参 上、美御待拝、天嘉那;tt美御 iiIJ御tt¥座、御 印判、御

E

拝領し泰り、御印判ハ頭へさし、 立みはい間勤之畢j と、直接国王から辞令 書を受けている。 (5)

i

由来記』巻一。「御規式」には「前日、 辺土之美御水首

w

.

殿内より被差上候j とあ るc (6)

r

御規式」に「両先嶋大あんより胡麻袋 進上之時、頭、与人、色衣冠二而出殿、大 親御取次、大親よりあむしたれ御取次、三 日前御案内。

J

とあり、同時に「毎年八月、 久米嶋きんはいより、真家之大主部{卸売記次 (i走路

)

J

とある。

(

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I

双紙j で三十三君の記事はほとんど なく、実態について忘れられている。[j~~ 双紙j巻末に「以上、三十三君の御事、戎 ハ中山1tl鏡、中山世諮を証し、戎ハ諸庄の 家諸方所の書記に拠て、書戴侍るものなりc 名J'iーありて人体知れさる御裂は、註脚を斉 ることあたハす。略駕j とある。 (8) 経済的待遇について特に記載があるのは、 間待大詰以外に l;u)I,6理屋恵、佐司笠、首泉 佐司笠按司加

m

¥

志、首里大君、大西大君按 司、可雲上がし、る。(今帰仁何応理屋恵、

(11)

伊平屋のあむがなし、久米烏の君南風も三 十三君だが、ここでは含めない)例えば 「島尻さすかさ按司加那志jの尚豊王二女 は真壁惣地頭職、「首豆大君

J

尚豊玉一女 も玉城惣地頭職を賜っている。これは王女 という特定個人に与えたものとして判断で きる。 (9) 河雲上按司俸米並馬氏恵、根按司切米自往 昔持従開得大君加那芝、多有女官俗称若君而 鉦有其事職由是前有題奏以裁其俸米時司雲 上俸米未有裁去至子是年始裁其俸米(後略

)

J

(

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球陽』尚敬ミ

E9

年)

r

i

乃賜俸米子司雲上 自往古時賜俸米三石米一石雑穀一石子司雲 上玉三康烈庚子因倹約裁去其俸米然而可雲上 恒従聞得大君毎幸知念玉城等或以祈雨或祈 福時必為雇従而行駕由是朝議の賜其俸米三 石

J

(

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球陽

J

尚敬玉14年) (10)

r

向象賢路線jで顕著なのが、

1

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6

7

年に 間得大君の位階を王妃の次位にし、社会的 地位を下げたり、また、同年にノロ職が辞 令書の受給資格外におかれたということで ある。彼以後察温に

E

E

るまで、伝統的祭杷 の廃止、改変が行われ、祭杷組織の近世化 が進んでいく。 (11) 池宮氏の指摘は主に以下のことにまとめ られる。 1南風原 真和志・西原の各間切 は各殿内の所属の初めに書き出され、:f府 祭杷の重要な間切であることがわかり、か つての玉府直轄の地域であった。 2おもろ でいう「中城・越来

J

(巻

2

)・「勝連・具 志川

J

(巻

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)

・「米須おもろ

J

(巻

2

0

)

ー 「久米島

J

(巻11)、は『御双紙

J

も同じく 完全にひとまとまりになっている。 3巻15 の浦添・北谷読谷山は浦添と宜野湾、 北谷と読谷山と南北に二分されている。

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の玉城間切と巻

1

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の知念・佐敷・花城 (具志頭)は大里をふまえてひとまとまり であったらしい。

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1

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r

,恩納より上jつ まり国頭地方は三分されて入っている。

(

1

1

6

6

0

年代頃までの七代官統治のときは、 首里の三平等と南風原間切、真和志間切、 西原間切の地域が「首里之平等代官

J

とい う第Iの地域区分が存在することを、豊見 lお氏は指摘する。さらに第IIの地域区分と して「東代官

J

r

島尻代官

J

r

浦添代官j、 さらにその外側には皿の地域区分として残 り三代官がある。この七代官で指摘できる のは、島尻を東と島尻と二区分しているこ とである。四代官制

l

になるとそれが一つに まとめられて島尻代官となる。 日3)

r

沖縄県日誌

J

(

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沖縄県史j11)

r

二月一 日旧十二月十三日(天気気混略)儀保神社 大アムシラレ回場ツル出願ス(中略)安村 ウト右儀保神社西ノ錠アム

i

度久川ウシ死去 ニ付後役被仰付度旨ヲ請フ図テ首里役所長 三等属滝脇信敏該願書ヲ添へ進達ス」 ( 14)

r

旧琉球藩王尚泰私有財産区分之儀何」

(

r

沖縄県史j13)で「旧琉球藩王尚泰私有 財産区分ノ儀廃蒋以来未タ確定セス然ルニ 其未定物件中県用ニ供スルモノアル等ニテ 尚氏一家疑飼慢ヲ懐クノミナラス往々物議 ヲ来シ人心ニモ関係致シ候ニ付速ニ其官私 ヲ区分シ以其所有ヲ明ラカニセサルヘカラ スjという理由で「二仲間得大君御殿及円 覚寺外四ケ寺ノ、本作jノ如ク後許可相l制度ト モ其俸禄等ハ一般社寺向様給与可相成積モ リ二有之候」とある。 (15)

r

華士族金禄外五件処分ノ件

J

([沖縄県 史j13) の第二附属書 2神社取調表に「右 /外可雲上神社首里神社真壁神社儀保神社 (以

k

四社ハ関得大君神社ノ末社)とある。 付記 本稿は、

1

9

9

7

年度琉球大学法文学部人 文学科提出卒業論文「近世流球の祭杷像 首里三平等の大あむしられの王府神女組織 における役割 jを加筆、修正したもので ある。発表の機会を与えて下さった方々に 心より感謝の意を申し上げる。

(12)

表 1

i

御双紙j

r

由来記j記載の御獄、殿

f

f

卸双紙

j

f

白来記

j

5

f

由来記』巻

1

2

1

3

1

4

1

1

排 の 糊 菟大様・小銭(鳥小堀村) 首 あかす森 アカス森ノ御イベ(党蔵村) 国中城御

j

訣 問中城ノアマフレダケノ 里 御イベ(党蔵村) 崎山

1

.

P

i

設 崎山ノ

j

華(崎山村) 民 主 「巧滋川!街

1

j

1O; 安谷川

l

ノ滋(党蔵村

1

! 大

j f

中堅二御

j

中里大様・ノ

j

、厳(大中村)

H

財乞ノ録(崎山付) 干和志

t

功村れ

)

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l

i

新川之殿(新川村) ソノヒヤブノ御

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ベ(真 真 めずら

j

訣おがみ メスラダケノ御イベ(真 後原拝 竪 見上森 見ヒ森ノ御イベ(金城村) 内金

j

J

i)( 内金城大獄・

4

、嵐(首里内会

J

J

i)(

HJ

殿 大主義(真壁村

j

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J

前!京之録(真壁村) 内金

j

成之殿ー向上之殿(茶渇

"

1

奇付) 真壁之殿・問所殿(真里雪村) !羽森 自森ノ御イベ(干儀

l

Jl

HJ)

儀 ゴノ~木討に本 白かね御

j

設 日金ダケノ御

f

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T

志良次村) 保 くもて森 クムデ森ノ御イベ(汀芝、良次村) ~~ あすい森 アスイ森/御イベ

(

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志良次村) あむと

j

アモトダケノ御イベ(汀志良次村) 内

1

1

之殿

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中之殿 表 2 三平等の大あむしられの祭杷 正月 元日 十五日朝の御拝 正月初御願 百人御物参 弁の佐

I

j

託行幸 !車棋の御願 ←」月 長月の御たかへ 麦の穂祭 二月 白人御物参 限度御物参 麦大祭 「四玉月月 百人御物参 弁の

f

j

託行幸 稲の穏祭 六月 稲の大祭 七月 トニ日御施餓鬼 十五日円覚寺先王かなし御霊前へ焼香 八月 î~ 人御物参 四度御物参 九月 弁 の 御

j

託行幸 麦初稜子。 百人御物参 四度 f~lJ物参 十月 篭廻 十一月 冬至車月の御

J

1

一月

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Jlほとき 君々街i玉己主 ;苦煤 そ の 他 法事 雨乞 風凧静1[

l

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卸新下り 二平等御願 婚 礼 代相 毎月朔日十五日火神拝み 臨時

(13)

表3 就任儀礼関係一覧 就任者 登城の付添 神名つけの場所 神 名 御たかベ 首里殿内 真壁殿内 あかす森 なよかさのおやのろ 真昼主殿内 真庭殿内 首里殿内 画比屋武御j証 みちりきよふ大神 首里殿内 儀保殿内 儀保殿内 真援殿内 閤比屋武御j華 にぢれきう大主こてろま大 首里殿内 神 真壁殿内 表4 稲穂祭関連事項 殿内名 地頭名 関 係 村 祭 士碁 名 祭 場 所 在 村 落 首里殿内 崎山地頭 首里崎山村 崎山

f

卸獄 首里崎山村 新川

i

地頭 南風原新川村 新日!のとの 南風原新川村 亀田地頭 真和士、真壁村 亀田の東の殿・西の殿 真和志、亀田(真壁)村 真壁殿内 松川地頭 真和;志茶I碁崎村 内金城 首塁内金城村 上のとの 儀保殿内 石嶺地頭 西原儀保村 儀保里中の殿 首里下儀保十

J

汀志良次の殿 首里I丁志良次村 安嘉須森桂lいベ 首里当蔵村 首里根神 所の地主員 首里崎山村 崎山御家 首里崎山村 新川地頭 南風原新川村 新川のとの 南風原新川村 表5 代官制について(豊見山氏の論文と『由来記』よりまとめた) 七代宮市JI (成立不明

-1660

年) I 首里之平等代官 真平日志・南風原ー西!京 東代官 大里・佐敷・知念・玉城 宜 島)元代官 具

J

E

、頭・東風平・摩文仁・喜屋武・真壁ー高嶺・豊見城 浦添代官 浦 添 中 城 ・ 北 谷 越来代官 越来・読谷山 具志川・勝連 回 今帰仁代官 金 武 ・ 名 護 羽 地 ・ 今 帰 仁 ・ 国 頭 久米代官 久米・慶良間・粟国・渡名喜 田代宮制 (1

6

6

0

-1728

年) I 無し 真和志之平等 南風之平等・西之平等 島尻方代官 真 和 志 南 風 原 ・ 大 里 佐 敷 知 念 玉 城 具 志 頭 東 風 平 ・ 摩 文仁 ・ 喜 屋 武 真 壁 ・ 高 嶺 小 禄 豊 見 城 E 中頭方代官 勝連・与那城西原 浦添・宜聖子湾・中城・北谷・越来・読谷山・美里・具志川・ 国頭方代官 思納・金武・名護・本部・羽地・今帰仁・大宜味・大宜味・国頭久走.:. jtli工・伊平屋 田 久米方代官 久米・慶良問・粟国ー渡名喜 取納奉行市JI (1

7

2

8

年-) 鳥尻方 取納奉行 中頭方 国頭方 御物奉行 宮 古 八 重 山

(14)

図1

ぐ豆I)

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{

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首豆大あむし勺れ 滋

2

君 臨 大 恥 し り れ 仁 コ 制 大 あ む し り れ U主u 三平等の大あむしられの管轄区域 ど

L

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名真之

i

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首里城の歴史)政治

J

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匙る首里城 歴史と復元

J

1993年より) 七代官統治概念凶 古f琉球の王府区分概念図 ITY代官統治概念図 盲 目 標 色セ蒔 図2 久 米 方 1ft .. 王府統治概念図(豊見山論文より引用) J,1I:1Ht冒 1 包包 J、m<C

表 1 i 御双紙 j r 由来記 j 記載の御獄、殿 f f 卸双紙 j f 白来記 j 巻 5 f 由来記』巻 1 2 、 1 3 、 1 4 1 1 排 の 糊 菟大様・小銭(鳥小堀村) 首 あかす森 アカス森ノ御イベ(党蔵村) 国中城御 j 訣 問中城ノアマフレダケノ 里 御イベ(党蔵村) 崎山 1
表 3 就任儀礼関係一覧 就任者 登城の付添 神名つけの場所 神 名 御たかベ 首里殿内 真壁殿内 あかす森 なよかさのおやのろ 真昼主殿内 真庭殿内 首里殿内 画比屋武御j 証 みちりきよふ大神 首里殿内 儀保殿内 儀保殿内 真援殿内 閤比屋武御j 華 にぢれきう大主こてろま大 首里殿内 神 真壁殿内 表 4 稲穂祭関連事項 殿内名 地頭名 関 係 村 祭 士碁 名 祭 場 所 在 村 落 首里殿内 崎山地頭 首里崎山村 崎山 f 卸獄 首里崎山村 新川 i 地頭 南風原新川村 新日!のとの 南風原新川村
図 1 伊 平 手 グ喜晴名島合 ぐ豆I) ,  川 &#34; '一口組魯{ご3 首豆大あむし勺れ滋2君 臨 大 恥 し り れ 仁 コ 制 大 あ む し り れU主u 三平等の大あむしられの管轄区域 ど L (a 名真之 i ( 首里城の歴史)政治 J r 匙る首里城 歴史と復元 J 1 9 9 3 年より) 七代官統治概念凶 古 f 琉球の王府区分概念図 I T Y 代官統治概念図 盲 目 標 色セ蒔 図 2 久 米 方1ft .. 王府統治概念図(豊見山論文より引用) J , 1 I : 1 H

参照

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