こんにちは。写真家の畠山直哉といいます。フランス文学研究の学会に呼ん でもらえるなんて、初めてのことなので、少しうろたえているところもあるの ですが、まずはこの場に呼んでくれた関係者の方々に「ありがとうございます」 と申し上げなければなりません。 今日の話し合いの「カタストロフィを越えて」というタイトルは、昨年フラ ンス人作家のフィリップ ・ フォレストさんが来日した際に、立教大学で講演を された、その時と同じタイトルだと思います。フォレストさんを立教大学に 招いたのは、もちろん今日ここにお見えになっている、澤田直先生で、彼は、 フォレストさんが僕の仕事に関して書いた、いくつかのエッセイの日本語訳を してくださった、僕にとっては、とてもありがたい方なんです。フォレストさ んの文学に関しての具体的な言及は、さきほど澤田さんの方からありました …。 僕が呼ばれていること、そしてきょうが3 月の 10 日であるということから、 このシンポジウムは、7 年前に起きた、あの東日本大震災のことを思いながら、 進められてゆくだろうと思うのですが、僕は先ず、1 枚のドローイングをお目 にかけるところから、今日の話を始めたいと思います[図版1]。 じつはこのドローイングはもともと、いま話に出したフィリップ・フォレス トさんに向けて描かれたものだったんですね。僕は2007 年に、パリにある地 下採石場の様子を写真にしたことがありまして、その写真がまとまりつつある 頃に、誰か文学者と組んで、写真と文字とが組み合わさったような、ちょっと 変わった本にしてみたいと思ったんです。それでこのようなドローイングを描 いて、フランス著作権事務所のコリーヌ ・ カンタンさんを通じて、フォレスト
カタストロフィを越えて
畠 山 直 哉
さんの方に提案してもらった。彼も興味を持ってくれて、少し取りかかってみ てはくれたんですけど、自分の創作のスタイルとは、やはりうまく結びつかな かったようで、あまりはかばかしく進まず、けっきょく諦めましょうというこ とになった。 それで彼には申し訳なかったんですけど、その後別の作家の方に、やはりコ リーヌ ・ カンタンさんを通じて声を掛けて、それはシルヴィ・ジェルマンとい う方だったんですけれど、こうして出版物にすることができたんです。ジェル マンさんは「占星術師」という、とても魅力的なショート ・ ストーリーを書き 上げて、提供してくれました。日本語の翻訳は、管啓次郎さんがおこなってく れました。 じっさいの写真はどのようなものかというと、このようなものです[図版 2]。パリの地下採石場に対する興味は、僕が日本の石灰石鉱山を回り始めてい る間に生じてきたものです。日本の場合、石灰石は主に山を切り崩す形で採掘 され、その後セメントに加工されて、僕らの街を造るコンクリートになってい 図版 1 畠山直哉「シエル・トンベ」(2007 年)
ますが、パリの場合は、街の直下から切り出された石材、これも石灰石や石膏 なのですが、それがそのまま建築や道路の材料として使用されている。古くは 中世の頃から、何世紀にも亘って採掘したせいで、パリの地下はまるで「グ リュイエール・チーズ」のように穴だらけだと言われます。それを管理するパ リ市の地下採石場管理局は1777 年、革命の前から存在していて、いまでも活 動を続けているのですね。有名な観光地であるパリのカタコンブは、その採石 場の一角を利用して、市の再開発に伴って掘り出されてしまった600 万体もの 人骨を収めているものだということは、皆さんご存じのことと思います。 管理局の人たちと一緒に、採石場の跡を回っていた時に、彼らが時々「シエ ル・トンベ」という言葉を用いていることが、気になりました。聞いてみると、 地下採石場の天井部分が剥落している状態を指してそう呼んでいるのですね。 直訳すれば「墜ちた天」ということになります。この「シエル・トンベ」の状 態を放置しておくと、その落盤が地上にまで及んで、人間生活に害をもたらす ことになる。ですから市街地地下の「シエル・トンベ」は、徹底的に補修され ているのですが、僕の撮影した場所はヴァンセンヌの森にかかるところだった ので、地上に建物がなくて、この「シエル・トンベ」が、いくつか放置されて いたんです。 「シエル・トンベ」という言葉の持つ、神話的な響きに対する関心こそが、 図版 2 Ciel tombé #4511(2007 年)
この作品をまとめる原動力になっていたと言っても、過言ではありません。ド ローイングの中には、この言葉から連想されるものごとが、メモとして書き込 んであります。その中に、確かに「カタストロフ」という字が見えます。接頭 語の「cata」は、ギリシア語で「下」という意味とのことだとか、「カタコンブ」 や「カタクリスム」の「cata」と同じだとか、書き込んであります。 僕は確かに、この「シエル・トンベ」の光景から、フィクション、あるいは ファンタジーとしてのカタストロフを想像しつつ、その頃は撮影に精を出し ていたと言えます。そんな当時の僕の頭の中にあったのは、たとえばドイツ、 ニュルンベルグの画家であった、アルブレヒト ・ デューラーが1525 年に描い た、彼が見た悪夢のドローイングなどです[図版3]。彼はある日、空から大量 の水が落下してくるという夢を見て、汗びっしょりで目を覚ましたといいます。 その夢を、文字による細かい記述と共に、水彩画に残している。 * ところで、陸前高田出身の僕が、明日は町に帰って追悼式に出席しようと 思っている僕が、このようにして「カタストロフ」、文学作品によく現れるよ 図版 3 アルブレヒト・デューラー「夢のヴィジョン」(1525 年)
うな「想像された」「カタストロフ」について話をしているのは、どこか奇妙 な感じが自分でもするのですが、皆さんにとってはどうでしょうか? この「シエル・トンベ」の本が東京で出版されたのは、2011 年の夏のことで した。編集作業は、震災の前からすでに始まっていましたので、僕はめちゃく ちゃになった陸前高田から東京に帰って来ては、ボンヤリした頭で、それでも デザイナーと仕事を続けていました。色校正や印刷工程の立ち会いなど、おこ なうべき作業があることに、少し自分の日常を取り戻したような安心感を覚え たりもしていた、そんな記憶があります。 大津波が実家を流し去り、肉親が命を落とし、親しんだ町が跡形もなく消え てしまった、中学の同級生たちも皆、同じような目にあっている、そんな出来 事が実際に自分の身に起こったということは、まったく否定できない事実では あるのですが、いまこうしてしゃべっている自分には、正直に言うと、時々そ のことが信じられなくなる瞬間があります。 僕にとって「カタストロフ」とはこのように、もはや想像上の「カタストロ フ」ではなくて、いわゆる「実存」つまり「現実存在」と重なってしまった、 ローカルでパーソナルな「カタストロフ」のことを指すものになってしまって いるのですけれど、それをこうして写真や言葉、いわゆる「表象」として「レ ・ プレザント」する度に、それは想像上の「カタストロフ」と、あまり差のな いもののように感じられてきてしまう、ということがある。それに気が付く度 に、僕の内部では、自分自身に対して、つまり、いわゆる「自己」に対しての、 分裂や乖離の感覚が、否応なく生じてきます[図版4, 図版 5]。 この感覚は、震災以降盛んに用いられるようになった「当事者」という言葉 にも、どこかでつながってくるもののような気がしています。ある出来事の後 に、何か内側と外側を分ける分断線のようなものが生じて、その内側にいると 目される人間、つまり「当事者」と、外側にいる「あなた」との間に、越えら れない溝のようなものが感じられるという…。 あいにくあの頃には、「震災ではとても大変なことがたくさんあったでしょ
図版 4 陸前高田市気仙町今泉 2004 年 7 月
うが、逆に何か良かったことはありませんか?」なんていう風に被災者に聞い て回るような、劣悪な文学に影響されているとしか思えないメディア関係者が 多数徘徊していましたので、いわゆる「当事者」も、そのような者たちに対し ては「お前なんかに何が分かる!」と、短く返さざるを得ない、というところ がありました。どうしても一瞬湧いてくる怒りに、抵抗することができないん ですね。 このような瞬間にも確かに、他者に対する「自己」への、分裂や乖離が生じ ていたと思います。自分はこんなことを言うような人間じゃないのに、という ような。僕が去年仙台でおこなった展覧会に「まっぷたつの風景」という、イ タロ ・ カルヴィーノの「まっぷたつの子爵」からもらった題を付けたのは、そ のような理由があるのです。 確かに「お前なんかに何が分かる」と言われてしまっては、外側にいる人は 沈黙せざるを得なくなるでしょう。こういった事態に対して、「表象に対する 現前の優位」といった、一般的な指摘を与えることも可能でしょうが、そう指 摘されたところで、何か状況が変化するわけでもない。この「優位」は、別に 人が知的努力によって得たものではなくて、状況によって「当事者」に与えら れてしまっただけの、相対的な「優位」に過ぎないわけですから、「優位」な んて他人から指摘されても、その当事者は、キョトンとしてしまうことしかで きないのです。今ここにいる僕が、まさにそうです。僕が「語り部」のように してカタストロフ、つまり震災について語っていることに、皆さんが幾ばくか の緊張や居心地の悪さを感じているとしたら、まさにそれは「現前」の「優位」 のなせるワザでしょう。でもそれは、僕が努力してそうしている訳ではないの です。 逆にその「優位」を曲解して、それをある種の「力」と見做すような人々も 世間にはおり、そのような人々は、あの頃「当事者」がおこなった、切羽詰 まった、時にナイーブな表現に対して、近代芸術史的な観点からの、冷静で 公平な、つまり情け容赦のない批評を浴びせたものでした。あれはひょっとし て、現前に対する表象側からの、ルサンチマンの発露ではなかったのかと、今 になってみると思われてきます。
* カタストロフに際して、文学には何が可能なのか? 今回のシンポジウムの テーマを受けて、僕は先月来、こちら駒澤大学の小黒昌文先生に、例のサルト ルの発言、「飢えて死にしつつある子供にとって、自分の《嘔吐》など何の意 味もない」という有名な発言の、出典に関する知識を与えてもらっておりまし た。それは1964 年の 4 月 18 日に「ル・モンド」紙に掲載されたインタビュー であったということなのですが、このサルトルの嘆き、あるいは諦念と同じ質 のものを、震災直後に被災地を訪れて、途方に暮れるしかなかった多くの芸術 家も、確かに抱いていたはずです。 それでも、途方に暮れてばかりではいけない、被災者のために行動しなけれ ばいけない、と、多くのプロジェクトが実行されました。僕も、建築家の伊東 豊雄さんと組んで、陸前高田に「みんなの家」を建設するプロジェクトに、参 加させてもらいました[図版6]。これをプレゼンテーションした 2012 年の ヴェニスビエンナーレ国際建築展では、金獅子賞をもらうこともできたのです [図版7]。ところで僕の実家の跡地をどうしたらいいのか?という僕自身が自 分で解決しなければならない問題は、今でも続いていますし、いったい僕は被 災者、当事者なのか、違うのか、という問題もありますが、その話は、最後に します…。 被災者を前にして「何ができるのか?」と考えた場合、衣食住や医療、義務 教育の継続、楽しみや安楽さといったものの回復が、震災直後はまず重要なこ ととしてありました。ですから、そういった分野の活動に関係する、芸術やデ ザインのプロジェクトは、歓迎される傾向があった。でも衣食住その他に直接 関わらない芸術分野というのもあって、たとえば文学などは、その代表じゃな いでしょうか。 飢えて死にかかっている子供には、まず食べ物が何よりも大切であるという ことは、誰の目にも明らかです。もし文学者が、飢えて死にかかっている子供 に一冊の小説を手渡すとしたら、その人はただの狂人と言えます。逆にもし文
図版 6 陸前高田「みんなの家」2013 年 5 月
学者が飢えた子供に、小説ではなく食べ物を渡したら、それは「立派な文学者」 だった、というわけでもなくて、立派な、でもただの人間だったということで す。たとえ共感や同情が文学を通じて形成されるものであったとしても、共感 や同情の形成は文学だけではなくて、宗教や道徳・倫理にも可能なことなので すから、飢えた子供に食べ物を渡す行為、そのものは、文学とはそれほど関係 がない。僕はそう思います。 ですが文学は、このように単純に割り切って、文学を忘れて、その場を「た だの人間」として乗り切ってゆくことを、「文学的ではない」という風に考え る傾向があるのではないかと思います。この傾向は、文学の力が絶大なだけに、 他の芸術分野、たとえば視覚芸術の分野にも認められる傾向だと思います。で も、もしその傾向が、人間行動に影響力、つまり「力」を及ぼすようなものな ら、それは「イデオロギー」と呼ばれるに相応しい、ということにはならない でしょうか。僕自身のここ7年間の行動も含めて、震災直後の芸術家たちの行 動にまつわる「モヤモヤとしたもの」の正体は、この傾向を分析することに よって、いくらかは明らかになってくるのではないか。僕にはそう思われてな りません。 もちろん文学者には、飢えた子供にまず食べ物を渡して、それから一緒に小 説を渡して、「あと何年かして、もしあなたが楽になった時には、これを思い だして下さい」と言うことが、可能だと思います。あるいは災厄をいたずらに 招くような、悪しき政治形態が存在するとしたら、それを時間をかけて、文学 的な手つきで糾弾してゆくことも可能だと思います。でもそのために使うべき 「未来」の時間が、まったく保証されていない世界がある。 2011 年の東日本大震災とそれに伴う原発事故で出現した「カタストロフ」と は、あの時まさに、そのようなものであったことを、ここで思い起こしておく 必要があると思います。 * もう時間がなくなってきたので、最後にさっき話しかけた「僕は当事者なの
か」問題に戻って、話を終えようと思います。大津波に伴って生じたさまざま な出来事を、直接に体験している僕には、確かに「当事者」つまり「被災者」 意識は、ある。ないと言ったらウソになります。 あの、2011 年の大津波の後、政府のはからいとして「被災者の便宜を図る ために、被災者に関しては東北自動車道の通行料を無料にする」というものが あったのを、覚えてらっしゃる方もいると思うんですが、僕もそれが欲しかっ た。そしてその申請には「被災者証明書」というものが必要だったんですね。 それを申請しようと陸前高田市役所に行ったんですが、なんと、断られてしま いました。僕の現住所が東京なので、証明書は発行できない、と言われたんで す。ですから法的には、僕は被災者ではない、ということになります。 確かに、僕の姉を始めとして、地元であの数日を過ごしていた人々、たとえ ば黒い水に揉まれながら、木の枝に手が届いたので、九死に一生を得た、水が 引いたら自分は崖の上にいた、とかいった人を目の前にすると「僕なんか、こ の人たちと較べたら、外側の人間でしかない」と、感じざるを得ないんです。 さっきヴェニスビエンナーレで金獅子賞を取った話をしました。東京にいる 伊東豊雄さんや若手の建築家たちが「被災地に対して何ができるのか」という 風に自問して、陸前高田を始めとする東北各地に「みんなの家」を建てた。で も、ヴェニスで感じたのですが、イタリアの地でその「みんなの家」の展示 [図版8]を見る人たちにとっては、東京と東北の距離なんて、僅かなものにし か見えないのですね。地震と津波と原発事故でめちゃくちゃになった国の、同 じ国民といった風にしか見えない。ですから「みんなの家」の「みんな」の中 に、建築家たち自身も含まれているように、感じられてくるわけです。 ところが、じっさいに「みんなの家」を建てた時、それは僕らのアイデアで、 津波の塩水によって枯れかかっている、もう廃棄物と同じ扱いをされてしまう 運命の、地元の杉の丸太を利用して、家を建てようということになって、僕が 山林の持ち主に交渉したりしていたんですが、その山林は僕の生まれた町であ る「気仙町」にあったんです。そしてじっさい「みんなの家」が建つ、その敷 地に選ばれたのは、気仙川の向こうの「高田町」にある大石と呼ばれる地区で
した。その「みんなの家」が完成した後のことですが、ある日管理人が、僕の 町である「気仙町」のある人から、「ウチの木を使って、あんたの家を建てた んだな」と、嫌みを言われた、という事実があります。これは東京から来てい る建築家たちにとっては、「同じ市なのに!」と、信じられないような意見に 聞こえるでしょうが、僕はそれぞれの人物を知っているから、彼らの気持ちが 分からなくもない。 僕が米国で、震災以降の自分の活動に関して話をした時、この「当事者」あ るいは「当事者性」という言葉は、翻訳者によって「positionality」という、辞 書には載っていないような言葉に訳されていました。なるほど、内側にいる人 間と、外側にいる人間という二つの項があるように見えるが、それぞれは、あ る「位置関係」において存在しているに過ぎない。 極端に言えば、全ての人間がこの「位置関係」において震災と関わっている のであると思います。人が誰かの前に立てば、そこにはその時々の「位置関係」 図版 8 ヴェニスビエンナーレ国際建築展日本館 2012 年 8 月
が、自ずと出現してしまう。自分が内側にいると思っても、相手次第でそれが 反転して、外側に出てしまったり、また逆のことも起こります。 内側と外側を分ける境界は、相対的なものと言えます。ですからこの境界は、 時と場合に応じて、常に動くものである。なにか、明るい部分からグレーに、 そして真っ黒にとグラデーションを描く、一本の線のようなものが想像されて きますが。その両端にいるのは誰なんだろう? という気がしてきます。 もちろん、グラデーションが暗さを増してゆく、その一番端っこには、死者 がいると言わざるを得ない。津波から九死に一生を得た人たちが「オレのよう なものが助かって、あんな立派な人たちが死んでしまった」と、嘆いている姿 を前にすれば、そのことは、はっきりと理解できます。 ではもう一方の端には誰がいるのか? と考えます。世界の端っこで、テレ ビもネットもないようなところで暮らしている人間たちなのか? そうではな いような気もします。これは僕だけの想像かもしれないんですが、そこには、 まだこの世に生まれていない人々、これからこの世をつぶさに眺めることにな る、未来の人々がいるのではないか。そんな風に思われて仕方がないんです。 * 神話の世界、あるいはキリスト教の世界には「リンボ(limbo)」、フランス 語で「les Limbes」と呼ばれる場所が存在しているらしいですね。キリスト者 ではなかった人々(でも善人に限る)や、洗礼を受けなかった子供の、死後の 霊が滞留している、地獄と天国の間にある「辺土」であると、説明されていま すが、転じて「忘却の淵」とか「中間領域」といった意味で使われることがあ る。 この「limbo」という言葉もまた、僕が米国で話をした時、自分の定まらな い「位置関係」に関して話していた時に、図らずも翻訳者の口から出た言葉で した。そして僕は、自分が死後の世界に住む霊と同様の扱いをされていること に、その時それほど違和感を抱きませんでした。むしろ、僕を含むすべての生
者は、グラデーションを描きながら、この「Limbo」、「Les Limbes」のどこか にいるのではないか、という極端なファンタジーが、心に浮かんでいました。 「カタストロフ」という言葉は、そのように極端な想像を僕らに強いてくる ような、そんな出来事を指す言葉ではないのか。明日の早朝、陸前高田に出か けようとしている今の自分には、そのように思われてなりません。 ありがとうございました。 (写真家)