アジアの動向 中国 1968
著者
アジア経済研究所
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
シリーズタイトル
アジア動向年報
雑誌名
アジアの動向1968年版
発行年
1968
出版者
アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00052028
アジアの
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ア ジ ア 経 済 研 究 所この「アジアの動向
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<国別シリーズ) 1968年は,月刊『アジアの動向』を各国別にまとめ,総目次, 1968年の回顧,年表を
追録したものです。
アジア諸国の政治・経済・社会の動きを適確に把握する基礎 資料として,月刊『アジアの動向』とあわせて利用ください。
目 次
中国 −
1968年一 年 表(1968) ...折込 月 表(1968) ...巻末 〔月間概況〕 1月の動向... 1 2月の動向...43 3月の動向...81 4月の動向... 127 5月の動向... 167 6月の動向.ぃ...209 7月の動向...249 8月の動向...305 9月の動向... 361 10月の動向...433 11月の動向...507 12月の動向...569 〔主要事項〕 人民日報,解放軍報,紅旗3紙元旦共同社説 「プロレタリア文化大革命の全面的勝利を迎えよう」 C1月〕... 5 人民日報,“米国の危機”を論評C
1月)•••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 7 く大棄〉の陳永貴,毛思想活学活用の経験を語るC
1月)•••••••••••••••••••••••• 8 1月の人民日報国際評論(1月) þÿ0û0û0ûþÿ0û•••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 11 任立新,労働規律の遵守と派閥性打倒を呼びかけ(2月) •••••••••••••••••••••• 46 解放戦線の「テト攻勢」と中国の評価(2月〕...50 人民日報,紅旗,解放軍報共同社説「革命委員会はすばらしい」( 3月)•••••••••• 85 人民日報のドノレ危機に関する論評( 3月〉 •••••••••••••••••••••••••••••••••••• 87 ブダベスト会談に対する人民日報論評(3月) •••••••••••••••••••••••••••••••• 89 日本日中覚書貿易事務所代表,中国中日備亡録貿易弁事処代表の 会談コミュニケ(3月〉 .. 91 - 1ー目 次 文化大草命の新しい定義( 4月) ...•.. 131 派閥性に対して階級分析を加えよ( 4月) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ þÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û・ ・ ・ ・ ... 132 新華社,米大統領声明を論評( 4月) ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ þÿ0û0û0û0û0û・ ...•. 134 毛主席の黒人暴動支持の声明( 4月) ....•....•...•... 137 人民日報,佐藤内閣を激しく非難( 4月) ・ ・ ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ þÿ0ûþÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û・ .... ・ •... 139 天安門楼上に登場した要人の名簿( 5月) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ þÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û171 「人民日報
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,「紅旗J
,「解放軍報」 3紙共同メーデー記念社説(要旨) C 5月) .. 173 「通知」発表 2周年記念論文( 5月) ••....•...•...•... 175 人民日報社説「偉大なあらし」(要旨) C 5月) ...•...•... 177 「鞍鋼憲法」社会主義企業の偉大な綱領( 6月) ・ ・ ・ ・ ・ ・ .. ・ ・ ... 214 人民日報,仏共産党を激しく非難( 6月) ...•...•... 217 3紙,中共創立47周年記念共同社説( 7月) ・ ・ • ・ ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ • ・ ・ .. ・ þÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û253 人民日報26日付け国際論評「激化する帝国主義国家聞の貿易戦争」( 7月) ... 255 挑文元論文「労働者階級がすべてを指導しなければならない」( 8月) ... 308 ソ連現代修正主義の全面的破産(8月) ...•... 313 銃剣のもとでの取引き(8月) ...•...•..•...• 316 「人民日報」,「解放軍報」祝賀社説 「プロレタリア文化大革命の全面的勝利万才」(9月).•.••.••..•...•.•.• 366 「人民日報j,「紅旗J
両紙誌評論員論文 「知識人の再教育問題について」(要旨) C 9月〉 ・・・・・・・ー・・・・・・・・・・・・・・・・・ 367 第四回目の国慶節( 10月) ・ ・ • ••. ・ • • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ þÿ0û0û・ ・ ・ ・ .... ・ ... 436 国慶節祝賀社説( 10月) ...•...••...••...•... 437 整党に関する「紅旗」社説 (10月) ... 440 12中全会コミュニケ(11月) ...•..•...••....•...••..•...•...••.. 510 水爆実験のプレス・コミュニケ( 12月) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・. ・ ・. ・ þÿ0û0û0û0û0û0û0û0û0û0û573 〔 資 料 〕 周恩来総理発言要旨 C1月) ...•...•...•... 40 革命委員会の新しい指導部( 4月) ・ ・ • ・ ・ • • • ・ ・ • ・ ・ ・ ・ ・ ・ • ・ ・ ・ • ・ þÿ0û0û・ þÿ0û0û...•... 166 実権派の教育政策批判(8月) ...•••...•...•...•... 353 報道戦線における劉少奇批判(9月) ....•.•...•... 417 中国のみるアジアの武装闘争(9月〕... 428 中国代表権問題表決結果(11月) ..• ・ ... ・ ... 568 - 2ー中
国
- 1968
年 一
文化大革命,全面的勝利の年 文化大革命は早くも 3年目を迎えた。 67年において文化大革命は“決定的 な勝手J
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”をおさめたとされたが, 68年はさらにこの基礎の上に“全面的な勝 利”を勝ちとるべきことがうたわれた。 68年元旦の人民日報社説は, 68年の 課題のーっとして党の建設をあげたが,この党建設の課題こそ“全面的な勝 利”の最大の内容をなすものであった。 一方,中国をとりまく 68年の国際環境は67年に比べ急激な転換をみせた。 ジョンソン米大統領の北爆停止声明とパリ和平会談の開催は,ベトナム以後 のアジア情勢への対応および新たな米中対決への対応を中国に急がせるもの であった。さらにチェコ事件に端を発した中ソの軍事的対立の緊迫化は,中 ソ戦争の危機さえ予想されるに至った。 この中で,中国は「党の再建」の課題を中心に文化大革命の収拾への足ど りを早め,今年10月に聞かれた第 8期
12中総会において劉少奇を公然と断罪 し,党から除名するに至った。劉少奇に対するこの厳しい措置は,中国が今 後,社会主義建設において選択すべき道に対する毛・林首脳の非妥協的決意 を物語るものであると同時に,当面する厳しい国際環境に対しても同じよう な姿勢をもって対処しようとすることを示すものであろう。 この1年間, “全面的勝利”への足どりはけっして順調なものではなかっ た。左右への激しい動揺を繰り返し,数々のスケジューノレの遅れをみせた。 しかし多くの波i
闘があったにもかかわらず, 68年は,あらゆる分野において 文化大革命以降の新しい中国のあるべき姿への模索が真剣に追求され始めた 年といえよう。 以下,文化大革命の流れの中で, 1968年の動きを,段階をおって述べてみ よう。 - 17ー 一一 1-中 国 I 68年の文化大革命の展開 l 軍の主導による革命委成立 68年1月 1日の 3紙誌共同社説は, 68年の課題のーっとして「党の組織を 整え,党の建設を強化する」ことをあげた。同時にこの社説の中では「プロ レタリア文化大革命は,偉大な整党運動である」とあらためて文化大革命の 目的を規定している。このように文化大草命の目的とされた党の整頓と建設 が文化大革命の開始以来公然と掲げられたことは, 68年が党再建をめざして 文化大革命を収拾していく年となることを物語っていた。 謝富治副総理は第9回党大会を 5, 6月,おそくとも国慶節以前に開くと 67年の末に語ったと伝えられてたが,この発言を裏づけるかのように,党大 会開催の目やすとなる革命委員会の全国的組織化が新年早々から取り組まれ た。 草命委員会を成立させるにあたって,軍は全面的に主導的な役割を課せら れた。各地で「三支・両軍」 (左派支持,工・農業支援および軍事管理,軍 事・政治訓練)活動にあたっていた軍は,軍事管制の下でみずから「奪権」 を行ない革命委員会の成立をはかった。つまり軍は従来,造反派が大連合を 実行するよう「指導」と「援助」を与えるという役割から,より一層草命委 員会の組織化の「主力」としての役割が,強調されるようになったわけであ る。 一方,草命委の組織化と併行して, 67年末より「毛沢東思想学習積極分子」 の育成が花々しく行なわれた一 1月に入って以来,総参謀部,総後勤部など 各軍種別に積極分子の「代表大会」が相継いで開催されたが,この運動は, まず始めに軍の中に積極分子を育成し,この軍の積極分子の指導の下に工鉱 企業や地域,市単位に一般市民の積極分子を育成するという手順をふんでい た。この運動を通じて「毛沢東思想学習」がより徹底的・組織的に行なわれ たのはいうまでもないが,同時に積極分子の育成,つまり「核」となるべき 人材の発掘は,今後に予定される党組織の再建と新党員の採用に重要な役割 を
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旦うものであった。 1月以来の軍を中心とした革命委の組織化という動きの中で,この方針が 直面する最大の問題は造反派対策であった。革命委の組織化にあたって,軍 一− ll一ー 18-中 国 は行政経験のない造反派より旧幹部の方を優先的に吸収していく傾向に陥り がちであったが,これは当然,造反派の不満を強め,彼らはその不満の矛先 を軍に向けるようになった。 1月以来,全国的に「擁軍愛民」運動や軍の中 立化,つまり「左派支持,派閥不支持」がしきりに強調されたが,これは軍 が奪権闘争の前面におどり出た結果,造反派と対立したり,造反派の派閥闘 争にまき込まれたりする現実に直面することによって,不断に軍の「威信」 に傷がつくという事態が存在したことを物語っていた。 これらの混乱に加え,事態をさらに深刻にしたものは,生産面にまで無規 律な状態が波及したことであった。 2月9日,中共中央が鉄道労働者のサボ タージュを非難する告示を発表するなど,労働規律を守らぬような生産にお ける労働者の「無政府性」が無視しえぬ大きな傾向となった。 2月中旬から,北京で、は再び戚本高,王力,関鋒らの中央文革小組の“極 左グループ”に対する批判が激化した。これは,彼らを編集部にかかえる中 央理論誌「紅旗」が,すでに3ヵ月も休刊していることからも明らかなよう に,中央指導層の中においても,まだ極左派の整理が未決着であることを物 語るものであった。中央は当面,極左派の一掃を急ぐ一方,彼らへの大批判 を通じて大衆の中の左派の隊列の整理を行なった。 新年以来,中央の政策は左派への規制に向けられていたが, 3月下旬の「2 月逆流事件」を転機に,再び右派への攻撃に転じた。 「2月逆流事件」は67 年2月に謂震林(副総理兼農林弁工庁主任)が劉少奇の復活を企てた事件の 再版といわれる。同事件の主役は,楊成武総参謀長代理と余立金空軍政治委 員,伝崇碧北京衛戊区司令で,彼らは極左派排撃の波にのって江青文革小組 副組長に攻撃をかけ,文革小組の指導権を奪おうとしたという。さらに今回 の事件において軍の直接の責任者が関係しているということは,軍の大衆工 作において大きな誤りがあったことを物語るものであった。それは革命委員 会を成立させるにあたって,左派をおさえ旧幹部を吸収していくやり方が, 実権派幹部の翻案(名誉回復)を許すことになったという右寄りの誤りを犯 したことであった。 2月逆流事件は 3月下旬におこなわれた毛・林首脳らと軍幹部 1万人との 会見によって短期間でケリがつけられた。この会見において楊成武の総参謀 - 19
-中 国 長代理の更迭と黄永勝(広東省革命委員会主任〉の総参謀長就任,呉法憲(空 軍司令員)の副総参謀長就任などが決定された。 2月逆流事件の結着によって左右両翼の偏向を処理した中央は,この事件 以降,本格的な革命委員会の強化にとり組んだ。この間, 1月より毎月三つ の割合で各省に革命委員会が成立しており,これらの革命委員の主任は河北 省の李雪峰
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日華北局党委第1書記)を除いてすべてその地域に所属する軍 区の軍高級幹部が主任となっている。 3月
30日, 3紙誌は「革命委員会はすばらしい」と題する共同社説を発表 し,その中で毛主席の草命委のあり方に関する指示を明らかにした。その指 示によると,革命委は重複する行政機構をうち砕き,一元化の指導を行なう べきものとされ,従来の党と政府というこ元的な指導体制にかわってより全 面的な権限を持つべきことを確認している。さらにその指示では,革命委は 革命的幹部の代表,軍隊の代表,革命的大衆の代表による三結合によって構 成されねばならないこと,および革命委は精兵簡政(機構の簡素化と人員の 精鋭化)を行ない,より大衆に密着しなければならなし、ことが強調されてい る。これは一つに革命委は旧幹部を無原則的に吸収するも・のではなく,実権 派幹部の翻案(名誉回復)を許すものではないこと,二つに造反派に対して も,革命委の中で対等な地位を与えること,などの意味において, 1月以来 おこなわれてきた革命委成立過程における右派のなだれ込みに, とどめをさ そうとするものであった。事実, 2月逆流事件以降にできた革命委の役員の ポストは造反派および大衆の代表により多くふりむけられ,役員の約半数は 彼らによって占められるようになった。 4月より「人民日報」紙上には“右傾翻案風反対”のスローガンが公然と 登場した。しかしこれらの動きは,単なる左派への妥協ではなかった。 4月 27日に「紅旗」は「派閥性に対して階級分析を行なわなければならない」と 題する評論員論文を掲げ,左派に対し厳しい警告を行なっている。同論文は 誰が真の革命派であり,誰が口先だけの「革命派」であるかを見分ける必要 を述べ,その見分ける規準を三忠(毛主席に忠実,毛沢東思想、に忠実,毛主 席のプロレタリア革命路線に忠実〉か否か,および劉少奇ら実権派とあくま で戦うか否かにおし、た。そして派閥性は階級性の集中的表われであると規定 ー− lV - 20-中 国 し, 「非革命派」に対してはあくまで敵対的な階級矛盾として対処する決意 であることを明らかにしている。 5月 に 入 札 1日のメーデー記念 3紙誌共同社説は党再建について何らふ れられていなかった。これは,党再建を日程にのぼらせることが時期尚早で あること,つまり革命派の隊列の整頓と幹部の選別が順調にいかないことを 物語るものであった。 一方,月を追うごとに厳しさをます劉少奇批判の中で, 5月段階ではつい に「中国のフルシチョフら走資派は国民党反動派の利益を代表し,そのうち かなりの者が国民党反動派の手先である」と規定されるにいたった。 この間, 5月までに 1ヵ月に三つずつという革命委成立のスケジュールは 強行され,残る革命委未成立省|支は5地区のみとなった。 2 精兵簡政 5月末までに革命委が未成立である地域は,福建省,雲南省,広西チワン 族自治医,新彊ウイグノレ自治区,チベット自治区の5地区である。これらの 地区は,いずれも国防の第1線にあるか,あるいは少数民族地域であるため 文化革命をより慎重に進めているとみられ,そのため革命委の成立が遅れて いる。 6月に入って, 6' 7の 2ヵ月間は革命委の成立はストップし,それにか わって再び各地の混乱を伝えるニュースがふえることとなった。紅衛兵や造 反派の間の武闘による混乱が最も激しかったのは広東省や広西チワン族自治 区であった。広東省では紅衛兵の2大組織である「紅旗派」と「東風派」の 間の武闘が“内戦の危機”と表現されるほど激しく,広西では武闘のため鉄 道輸送が混乱し,北ベトナム援助が停滞したり,その援助物資が奪われる事 件まで発生した。7月には毛主席が武闘をただちに停止せよとの指示を発し, さらに7月29日には中共中央の「北ベトナム向け援助物資略奪を禁止するア ピーノレ」が発表されるなど深刻な事態になった。この時期に香港,マカオに 珠江をへて多数の死体が流れっき,広東,広西の武闘のすさまじさをあらた めて対外的に露呈した。 6, 7月段階における,これらの混乱をさらに深刻なものにした原因とし て, 6月末より起った南部地域一帯の大水害があった。この洪水は“歴史上 - 21ー 一一 V ー 『
中 国 未曽有の”あるいは‘' 100年来の”と表現されるほど大規模なもので,江西, 湖南,広東,雲南,広西などの地域で何千人という水死者を出した。これら の洪水による混乱は,革命委成立によって一応確立した秩序を破壊し,地域 や組織のエゴイズムを前面に追い出すことにもなった。 各地における武闘再発の原因はいろいろあるが,その一つの原因として, 広東省の例がそのよい典型であった。同省の二大紅衛兵組織のうち「東風派」 は黄永勝を主任とする省革命委により近い穏健なグループである。これに対 しあまりにもラディカルで、あるが故に省革命委という権力の座から遠ざけら れた「紅旗派
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というもう一つの造反組織があった。武闘再発のきっかけは, 「紅旗派」がこのような現状に不満をいだき,解放軍および省革命委をバッ クとする「東風派」に攻撃をかけたというのが原因といわれている。 67年の 段階とは異なりもはや紅衛兵の全国的な組織はなく,地方的に分断されかっ 新たな権力の座からしめ出された一部の極左的な紅衛兵グループにとって, 既成の秩序の転覆に期待をかけることにしか“反革命”のレッテルを貼られ るのをまぬがれる道はなかったわけである。 広東省などの武闘の激化をまえに,毛主席は 7月18日,全国の革命委に対 し,反革命分子の鎮圧を指示する一方,武闘にまきこまれやすい現地軍にか わって中央直属の「解放軍中央支左部隊」を現地に投入し,武闘の鎮圧を行 なった。この結果,各地の武闘も 7月末までにはようやく下火になった。 7月において,武闘鎮圧の努力と併行して「精兵簡政」運動が展開された。 この運動は3月末より毛主席の提唱によってすすめられてきたが,本格的に 行なわれたのは 7月11日の人民日報が典型として報道した河南省霊宝県革命 委の経験発表以降であった。同革命委の「精兵簡政」の経験とは,従来, 8 組 2室もあった革命委の機構を 4組のみに簡素化し,人員も従来の 100人か ら30人に減らしたことである。この簡素化の結果,同革命委はより大衆の要 求に密着し,精鋭化したといわれるO 「精兵簡政」は今年1月以来, 1ヵ月に三つの割合でその設立を強行して きた革命委の基礎を固めようとする動きであった。つまりこの運動は,一つ に革命委の隊列の中に右派分子ないし実権派がもぐり込んでいないかを点検 し,二つに革命委が新たな官僚主義に陥っていないかどうかを点検すること 一 一 Vl - - 22ー中 国 などを目的とし,革命委を旧党,政府機関とは異なる名実ともに洗練された 新権力機構としようとする試みであった。 8月に入り,まず 8月 1日の解放軍建軍41周年記念 3紙誌共同社説が,革 命委設立における軍の役割を最大限に強調したのに続き,5日の「人民日報
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社説が「多中心論」反対のキャンペーンIを始めた。 「多中心論J
の内容は各 地の地方分散的ないし「独立王国」的な傾向を指すとみられるが,この傾向 に対し同社説は, 「毛主席を頭とし林副主席を副とするプロレタリア司令部 こそが全国,全党,全軍の唯一の指導の中心である」と述べ,他にいかなる 指導の中心もありえない,と強調している。 このように「多中心論」に対する闘いの中で,残る革命委未成立地区への 工作が本格的に展開された。 8月11日,福建,広西,雲南,新彊,チベット などの地区の軍幹部が北京に呼び出され,毛主席の接見を受けたのを契機に, ついに 13日に雲南, 19日に福建, 26日に広西に現地の軍幹部を主任とする草 命委が成立した。 3 労働者階級を主役に党再建へ 8月中に革命委未成立地区に相ついで、革命委が成立し,全土に革命委が成 立するのはすでに時間の問題にすぎなくなった。この情勢を背景に,党中央 は文化革命の仕上げのための工作に本格的に着手した。 8月1313,毛主席は労働者階級が文化草命およびあらゆる工作の中で指導 的な役割を発揮すべきことを強調する指示を発した。この指示の意味するも のは,一つには文化革命を行なう主役の役割がすでに紅衛兵にはないことを 確認するものであり,二つには今後再建されるべき党および新たな体制を, より“プロレタリア”的なものにしていくという決意を示したものである。 さらに, 8月26日に「紅旗J
2号は,毛主席のこの指示に関して挑文元の 「労働者階級がすべてを指導しなければならない」と題する論文を発表した。 同論文は労働者階級が軍と協力して労働者毛沢東思想宣伝隊を組織し,この 宣伝隊によって教育改革を指導すべきことを明らかにした。 大学教育改革は「紅衛兵」対策であるとともに,今後,あらゆる上部構造 の分野で改革をやっていく上での基礎をなすものであった。大学教育改革は 67年より提起されていたが,従来,それは学内で処理されている限りにおい vu-中 国 て具体的な成果はなかった。今回,学外より労働者毛沢東思想、宣伝隊を導入 し,彼らを長期にわたって駐留させ,永遠に学校を指導させるということは, エリートを養成する大学教育の根を徹底的につぶそうという決意のあらわれ であった。 各工場の産業労働者からなる労働者毛沢東思想宣伝隊は,毛主席の直接の 指示をうけ, 7月27日に紅衛兵活動の中心地である北京清華大学に乗り込み 教育改革の指導を始めたが,これをかわきりに,宣伝隊は全国の各大学専門 学校に乗り込み,さらに中学校,小学校にも入ることになった。 一方,宣伝隊の活動と併行して, 「人民日報」や「紅旗」は各地の教育改 革の経験報告を発表しその普及につとめたが,これらの教育改革の具体化は 当面,理工科系から着手され始めた。さらに 8月より大学,中学の卒業生を 東北や内蒙古の辺境地域に就職させる運動が全国的に展開された。 9月に入り, 5日,新彊ウイグル自治区とチベット自治区に同時に革命委 が成立し,これによって全国的な革命委の組織化が完成した。これは 1967年
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月の「上海 1月革命」に始まる奪権闘争の一応の完了を意味するものであ ったが, 9月 7日の「人民日報」の祝賀社説は,全土にわたる革命委の成立 を「全面的勝利」をかちとるうえでの大きな足ががりであると評価した。同 社説はさらに,文化革命がすでに全国的な範囲で「闘争・批判・改革」の段 階に入ったと述べている。この意味は,毛主席の指示である「三結合の革命 委員会をつくること,大批判,階級隊列の純潔化,党の整頓,機構を簡素化 し,不合理な規定や制度を改革し,非生産要員が生産現場におりること」な どを全国各地域にわたり末端組織に至るまで同一歩調で展開することであっf
こ。 このような各工作は,今後に予定される党再建に向けて下部組織を整備し 固めていこうとする試みであるが,党再建の課題との関連で特に重要なのは 「階級隊列の純潔化」工作である。この工作は,党組織を回復していくうえ で,新たな状況に適応しえない幹部,右派分子,実権派など「三忠」を規準 に,再び徹底的に摘発していくことである。その意味で「隊級隊列の純潔化J
は“毛沢東の党”を作る重要な役割を担うものであった。 「隊級隊列の純潔化」とともに, 9月より知識人の再教育の課題が提起さ v - 24ー中 国 れ始めた。
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月1
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日の「人民日報」と「紅旗」の共同論文は,労農兵に奉仕 するプロレタリア階級の知識人をつくる必要性を強調している。このプロレ タリア階級の知識人をつくるのに二つの道があった。一つは徹底した教育革 命を通して,労農兵の中から新しい技術者ないし知識人を養成する道である。 二つめは労働者を中心とした新たな体制の中で,はみ出す従来の知識人に対 して,労農兵の中に入らせ,労農兵を教師として教育し直し,それを受け入 れる者のみをプロレタリア階級の知識人として吸収していこうとするもので ある。 この知識人の再教育問題は,ひき続く大学,中学卒業生の農村や辺境地域 への就職運動とともに, 10月に入って, 5日に毛主席が行なった「幹部は下 放し労働せよ」という指示にもとづき展開された幹部の下放運動につながっ ていった。 10月に入り, 1日の建国19周年国慶節記念式典において,天安門楼上には 労働者の代表が中央の各首脳と並んで登場した。さらに大衆の行進の順序が 労働者,解放軍,紅衛兵の順であったことは,時の流れを表わすものとして 象徴的なことであった。天安門楼上に並ぶ中央要人の序列もまた従来の序列 と異なる特徴をもっていた。それは毛沢東,林彪,周恩来,陳伯達,康生, 江青,張春橋,挑文元,謝富治,黄永勝,呉法憲,葉群,I
玉東興,温玉成ら 中央文革小組と軍幹部のみで, トップ。グループの 14人をしめたことであるO そしてこの 14人の中では江青・毛夫人と葉群・林彪夫人の躍進がとくにめだ っている。さらに, トップ12人の後に29の省・市・自治区の革命委員会の責 任者と労働者の代表が名をつらね,朱徳,李富春,陳雲ら中共中央委員はそ の後にしりぞけられている。これらの序列は中央首脳の人事が文化革命にお いて果した功労に応じて編成されてきているいうことを如実に示すものであ った。 10月1LI凶慶節記念の3紙誌共同社説は当面の闘争・批判・改革の運動の 中で,党の整頓,党の建設をきわめて重要な位置におかなければならないこ とを強調したが,党建設への動きは予想以上の早さで進行していた。 16日に 「紅旗」 4号は, 「プロレタリア階級の新鮮な血液を吸収しよう」一一党整 頓の工作における重要な問題ーーと題する注目すべき社説を発表した。同社 円 山 x中 国 説は,再建されるべき党のあり方をより具体的に提起している点,整党工作 がより煮つまっていることをあらわしていた。同社説は,整党工作の中で注 意を促す必要のある問題として,「吐古納新」(古いものをはき出し,新しい ものを取り入れる〉の原則を明らかにした。つまり反革命分子,走資派,階 級異分子,革命の意志の衰えた者を党からはきすて,一方,産業労働者の中 の先進分子を党に吸収すること,および優秀な共産党員を選び出して各級党 組織の指導の活動に参加させることなどを提起している。 さらに,劉少奇の建党路線を批判して, 「劉少奇は党建設にあたってとく にブルジョア知識人に依拠してきた」と述べ,彼の党に関するいわゆる「六 つの理論」一一「階級闘争消滅論
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,
「従順な道具論」, 「大衆立ち遅れ論J
,
「入党出世論J
,「党内平和論J
,「公私融合論」一ーのうち, 「階級闘争消滅 論」と「従順な道具論」の二つに徹底的な批判を集中した。 同社説の中で,中国のフノレシチョフはとっくに草命によって党内外のすべ ての権力と職務をはく奪されてしまっていると述べられているが,中国のフ ノレシチョフ一一劉少奇の党からの除名は,中共第 8期12中総会の公報によっ て確認された。 4 劉少奇失脚の意味するもの 中共第8期中央委員会第12回拡大総会は10月13日から 31日まで北京で聞か れ, 31日に総会公報が発表された。この総会は毛主席が主宰したとされてお り,第8期11中総会の時と同じく出席者数やその氏名も公表されていない。 出席したメンパーとしてあげられているのは中央委員候補,中央文革小組, 各省・市・自治区革命委の主な責任者,解放軍の主な責任者となっている。 今回の革命委の責任者と軍の責任者の参加は 8期日中総会の場合の参加者で ある「各中央局と各省・市・自治区党委員会の同志」および「首都の大学・ 高等専門学校の革命的教師・学生の代表」と比べ,一つの対照をなすもので あり,同時に,この参加者の違いは,文化革命の段階の違いを物語るものと して象徴的なことである。 12中総会公報によると,今回の総会で、は次の二つの大きな決定を行なった。 一つは, 「総会は文化大革命の嵐をへて,すでに思想上,政治上,組織上 から,党の第9回全国代表大会を聞くための十分な条件がととのったことを ー− X - 一 也26』 ー中 国
確認し,適当な時期に第 9回大会を開くことを決定した」ことである。 二つ目は“裏切り者,敵のまわし者,労働貴族”劉少奇を永遠に党から除 名し,その党内外におけるあらゆる職務を解任したことである。同じく劉少 奇に関して,総会は中央専門案件審査小組の「裏切り者,敵のまわし者,労 働貴族,劉少奇の罪悪行為についての審査報告」を批准した。その中では「劉 少奇がおびただしい罪悪行為をかさね,帝国主義,現代修正主義,国民党反 動派の手先であることを十分な証拠をあげて明らかにしている」と述べてい る。審査小組の報告は,後に伝えられるところによると, 1949年の中共政府 成立に至るまで,劉少奇が党を裏切り国民党と米国のスパイ行為を働いてい たということを暴露する厳しい内容のものであるという。 劉少奇に対するこの厳しい措置は, 11月に入って明らかにされた中国共産 党史を貫く「毛主席を代表とするプロレタリア革命路線」と「劉少奇を代表 とするブルジョア反動路線」の闘争の一つの結着を物語るものであった。つ まり 8期12中総会が終って以降の 11月25日「紅旗」 5号は毛主席の「中共第 7期 2中総会での報告J
(1949年 3月〉を再掲し,さらに同日,「人民日報」 など3紙誌はこの報告に関して, 「二つの路線の闘争の歴史を真剣に学習し よう」と題する社説を発表し,その中で劉少奇失脚を契機に中共党史の総括 を行なっている。 その中で強調されていることは,中国共産党の歴史は常に二つの路線の闘 争史であるという見方である。そしてこの闘争史の中でも,とりわけ劉少奇 に代表されるプノレジョア反動路線との闘争は長期にわたって反復されてきた という。文化革命はその意味では毛沢東路線と劉少奇路線との長期にわたる 闘争の“大決戦”であると規定されるわけである。 劉少奇は新民主主義革命の段階にまでさかのぼって毛主席の路線に反対し たとされるわけだが,この時期の劉少奇の罪状として上げられていることの 一つに,彼は抗日民族統一戦線における独立自主の方針に反対し,国民党と 妥協を計ったということがある。さらに社会主義革命の段階での劉少奇の誤 りは 7期2中総会において毛主席が,今後の社会主義革命における基本的矛 盾は労働者階級とブルジョア階級の矛盾にあると規定したのに反して, 「階 級闘争消滅論」をとなえブルジョアジーを保護したというところにある。 - 27ー 一一 Xl ーー中 国 劉少奇批判の中で問題となるべきことは,彼が果して本当に国民党の「手 先」であったか否かにあるのではなく,かつての国民党との統一戦線政策に 対する再評価が行なわれているということであろう。つまり,統一戦線にお いては,より一層共産党の独自性とヘゲモニーが確立されねばならないとい う問題が強調されるわけである。さらに,社会主義革命の段階では,ブルジ ョアジーの平和的改造と彼らとの協力による社会主義建設という道より,彼 らとの非妥協的な階級闘争を通じての社会主義建設という面がより強調され る。 このように党史のfl}評価を通じて出されてくる結論は,新民主主義革命の みならず,社会主義建設の段階においても両者の区別なく適用される劉少奇 路線との「階級闘争」の一面的な強調である。 この階級闘争の強調という面に関しては, 4月10日の「人民日報
J
,「解放 軍報」共同社説が発表した毛主席の文化大革命に関する次のような定義が興 味ぶかしら 「プロレタリア文化大革命は実質的には,社会主義の条件の下で プロレタリア階級がプノレジョア階級とすべての搾取階級に反対する政治的大 革命であり,中国共産党およびその指導下における広範な革命的人民大衆と 国民党反動派との長期にわたる闘争の継続であり,プロレタリア階級とブノレ ジョア階級との階級闘争の継続である。」この定義の特徴は,文化大革命が“社 会主義の条件のもとで”という限定がされる中で, “国民党反動派との闘い の継続である”という新民主主義革命の課題を現在にまで延長していること である。この定義をいいかえると,新民主主義革命において解決のつかなか った問題,つまり劉少奇との「階級闘争」 (これは国民党との階級闘争の一 環である〉が社会主義建設の段階にまでもち越され,そして,それは文化大 革命において結着がつけられたということであろう。 文化大革命に至るまで劉少奇との「階級闘争」が一貫して続いてきたとい うとき,その言葉の背後には 1949年以降の社会主義建設の過程が毛主席にと って不満足なものであったという認識があろう。階級闘争の強調,つまり, 「過渡期の階級闘争」理論それ自体は,毛主席のこの「不満足」さをあくま で階級闘争の問題としてとらえかえそうとする所に存在するものであろう。 このように社会主義建設における路線の違いを,認識や思想、の違いとして 一−X U一一 QU中 国 とらえるところに,毛主席の実権派に対する非妥協的な姿勢をみることがで きる。 11月27日の「紅旗」 5号が全国解放直前の1943年 3月に発表された毛 主席の「7
期
2中総会報告jを再掲した意味も,蒋介石を倒し社会主義革命 に入る段階に,劉少奇を倒した現時点で、のイメージを回帰させていることを 物語るものであろう。つまり 49年から現在までに果してきた実権派の業績を 全面的に否定してまでも,社会主義革命をやり直そうという(正確には“た て直す”であろう〉というのであろう。 劉少奇なき後の中国の社会主義建設において問題となることは,新しい「皮 袋」にどんな「酒」をつぐかということであろう。劉少奇の失脚は,中国の “ソ連修正主義化”への道を断ち切ることであった。しかし, “ソ連修正主 義”に対置するものとして出されてくるものが,たとえ米ソ両国による厳し い包囲という条件があるにしても,単なる根拠地経済ないし新民主主義革命 の段階の経験への回帰にすぎないならば,歴史へ逆行として,文化大革命は 永遠に反復しなければならなくなろう。つまり中国は一つの国家として存在 する限り,国内において近代工業国家化を要求する声は断えないであろうが, 従来の経験による限り,近代工業国家化への過程自体は,不断に実権派を養 成するという矛盾をもっ。 1949年以降の中国の社会主義建設の過程がそれを 物語っている。実権派の社会主義建設路線に対置すべき確固たる戦略がない かぎり,実権派の存在基盤はなくなるまい。 現在,教育,行政,生産,文化など各分野で,新たな社会主義を目指し改 革が進められつつある。これらの改革の今後の動向に注目したい。I
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実権派経済政策の否定を通じ新たな躍進へ l 生産秩序回復への努力 67年の中国経済は,相続く武闘の混乱の中で計一両目標を達成できないなど の数多くの後退があった。しかし中央の混乱収拾への懸命な努力と農業の大 豊作によって救われ,なんとか危機を乗りきることができた。もっともこの 後退はやむをえないことであったし,計算ずみのことでもあった。しかし今 年の場合,文化革命が“全面的勝利”をめざして収拾を行なっていくために は,経済を正規の車L
道に乗せていくことが不可欠な課題であった。このこと Q U ー−Xlll一一中 国 は今年の元旦社説が,経済に関する政策について, 67年の元旦社説に比べよ り多くのスペースをさいて細かく述べていることからもうかがえる。 今年の元旦社説は, 「革命に力を入れ,生産を促し」の他に新たに「仕事 を促し,戦争への備えを促す」という課題をつけ加えた。この課題がつけ加 えられたことは,今年の中国をとりまく国際環境に対する中国首脳の厳しい 認識を示すものであると同時に,今後,あらゆる事態にも耐えうるようなも のに中国経済を変えていこうという長期のプランからくるものでもあろう。 元旦社説は「1968年の工農業生産はいっそう大きな発展をとげることであ ろう」と述べた。しかしながら 68年の中国経済は,新年早々からの工業生産 の混乱によって幕があけられた。 1月に入って大きな問題となったことは,工業生産の面で労働者の生産に 対する無関心や労働規律を守らないア十キーな風潮が一般化し始めたことで あった。さらに工場企業内の労働者組織の問の派闘争いも絶えなかった。 このような風潮をおこす背景は,昨年のあらゆる機関,組織における奪権 闘争が従来の指導者や管理者の権威を失遂させ,既成の管理秩序を破壊させ たことに求められる。指導者の権威の失墜の中で, 「造反精神」に目覚めた 労働者はより“経済主義”的に自己の権利を主張するようになり,また労働 者の造反組織は新しい権力の座を求め,絶えまない闘争をくり返すこととな った。幹部も批判を恐れ敢て口出ししようとはしなかったために,この風潮 に対する歯止めはどこにも存在しなかった。 混乱の最も激しかったのは鉄道輸送であった。中共中央は早くも 1月 5
日
に「全国鉄道系統“革命に力を入れ,生産を促す”会議」を招集し,鉄道輸 送秩序の正常化の呼びかけと鉄道輸送が経験交流旅行に利用されることを禁 止することなどの措置をとった。 鉄道輸送と並んで生産の混乱の激しかったのは石炭生産である。中国産業 のエネノレギー源の90%を占める石炭の不足は,輸送の渋滞と重なって各方面 の生産に深刻な影響を与えた。鞍山,武漢等の鉄工業の生産は低下し,消費 材の面でも各地の市場で品不足がおこった。1
月中,北京や上海では投機, やみ取引に対する警戒が呼びかけられていたが,これは消費材の不足からや み市場が出現していることを物語るものであった。 一一XlV一 司 -30-中 国 2月に入札人民日報は本格的に「労働規律の遵守,無政府主義反対」の キャンペーンを展開した。中共中央は解放軍を各企業や組織に大々的に駐留 させ監督を強める一方,労働者の中に「毛沢東思想学習班」を組織し,思想 面から労働者の集中強化を計った。 この間,人民日報は連日,石炭節約キャンペーンを展開し,ボイラーを改 造することによって石炭の消費量を低下させたりするなどの技術革新によっ て石炭不足を補うような指導を行なった。 このような工鉱業生産における混乱は,中央の混乱収拾の努力にもかかわ らず,上半期の間続いた。
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月,中央は本格的な収拾にのり出した。5
月上旬,石炭の面では石炭工 業部主催の「石炭節約と革命をやる会議」が聞かれ,鉄道輸送の面では「全 国鉄道・交通会議」が北京で、開かれた。この「全国鉄道・交通会議」は毛・ 林首脳が自ら招集したものであり,中共中央と中央文革小組の直接の指導の 下に行なわれたという。5
月8
日,毛・林・周首脳らはこの会議に参加した鉄道労働者代表を接見 し,さらに5月20日と6月30日の2回,同じく炭鉱労働者代表を接見するな ど,自ら混乱収拾の努力を行なっている。 5月に入って武漢,長春,洛陽,鞍山などの重工業都市およびそこにおけ る各企業で,革命委員会が成立した。 6, 7月頃より鉄道運輸や石炭生産の 上昇を伝えるニュースが「人民日報」紙上にふえ始めた。 7月14日の「人民 日報」は,石炭工業部直属の大型炭鉱の70%以上に革命的三結合が実現した と述べた。 このような生産の正常化への動きは,党中央の混乱収拾への懸命な努力の 結果であったが,同に各工場,企業に新しい管理秩序が形成されつつある結 果であることも見逃せない。 (これについては次節において述べる〉そして この新たな管理秩序のもとで広範に技術革新運動が展開されたが,下半期よ りこの技術革新の成果を基礎として,中国経済の「新たな躍進が強調される ようになった。 一方,鉄道輸送の面では5月以降,各鉄道局の革命三結合の成立や輸送成 績の上昇が報道されていたが, 6, 7月,南部地域におこった大水害と,各 - 31- 一 『xv一ー中 園 地でおこった武闘の結果,再び輸送の渋滞が起きた。広西チワン族自治区に おいては,大洪水と造反派の武闘から窓祥=湛江間の鉄道がストップし,北 ベトナム援助輸送が中断したと伝えられている。 鉄道輸送が正常に戻ったのは 9月以降であった。 9月26日の「人民日報」 は,全国の各鉄道局や分局では僅かな単位を除き,すべて三結合の草命委員 会が成立したと鉄道輸送の正常化を示唆した。 以上のような,
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月以来の工業生産と輸送の混乱とその収拾の過程は,対 外貿易の面にも端的にあらわれていた。今年1月より 7月頃まで,中国の対 外貿易は輸入が輸出を上廻った。たとえば,中国の対香港輸出は, 1∼
4月 に昨年同期に比べ約21%も減少し, 7月を最低として 8月頃より回復に向か った。この傾向は工業生産と輸送の混乱から内需が増大し,輸入がふえた反 面,輸出は減退したことからくるものであった。 8月以降, 「労働者階級は一切を指導しなければならない」というテーゼ が出され,工業は生産秩序の回復もまもないうちに,新たな負担を担わせら れることとなった。 7月末より産業労働者からなる「労働者毛沢東思想宣伝 隊」は学校,その他の上部構造の各分野に大量に送り込まれた。その数は, 紡織業の例をとると,各企業内の10%
前後の労働者が「宣伝隊」にさかれて いる。労働者の中の優秀な分子が大量に,しかも長期にわたって職場から離 れることは,生産に全く影響を与えないはずがなかった。事実,「人民日報」 は各企業で労働不足の現象があることを伝えている。このため,個々の労働 者の自発的な負担の増加や役員の生産現場への下放が強調されており,同時 に労働力節約の手段として,技術革新や合理化が強調されていることはいう までもない。 年末に, 「人民日報」は今年の工業生産についての総括記事を発表した。 その中では,生産実績についての指標は何ら明らかにしていないが,いずれ も技術革新の成果の強調が目立っている。 いずれにしても,今年の中国の工業生産は下半期より立直り,技術革新の 成果を中心に「新たな躍進」の局面に入ったとされたが,これらの熱狂的な 技術革新の成果がどこまで根づくかはまだ未知数に属する問題である。 農業生産に関しては, 12月 4日の「人民日報」が今年の農業生産について 一 −XVI一一 32-中 国 総括的な記事を発表している。それによると穀物収穫高に関して,湖南,北 京,上海では“史上最高”を記録,安徽,江西,貴州および上海と北京の郊 外区では“昨年よりかなり大幅”にふえ,南部の主要な穀物生産地その他16 の省・自治区では, “豊作あるいはかなりよい収穫であったという。つまり 中国の穀物の 3分の 2を生産する地域については,昨年の“空前の全面的大 豊作”という表現に比べて,かなり地味的な表現が使われているわけである。 このことは今年の農業生産状況を見る上での一つの指標として注目される。 文化革命の中で,農村は一応その圏外に置かれ,混乱が農村に波及するの をおさえられていたが,今年もまた文化革命が直接に農業生産に混乱を与え たという徴候はない。その意味で67年の「大豊作」は順調な天候に負うとこ ろが大きいが,今年の場合,天候は決してよくなかった。 今年の自然災害で大きなものは, 67年の冬から今年に春にかけて続いた, 東北,華北,西北部の早ばつおよび冷害,今年の 6∼ 7月に揚子江,珠江, 准河などを中心におこった南部の大洪水がある。この洪水はかなり大規模な もので,夏作や早稲に大きな損害を与えたものと思われ石。 今年の農業生産状況を見る上で,工業面での混乱が農業に与えた影響を考 慮に入れざるをえない。上半期における工業生産の混乱と鉄道輸送の混乱は 農業への農業関連資材の提供を減じさせた。特に大きな影響を与えたものと して,肥料の不足があったものとみられ,事実,今年春頃には「人民日報
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でも「自家肥料」の利用を強調する記事がめだった。 しかし,今年の農業生産にプラスの影響を与えたものとして,大々的な援 農活動がある。昨年にひき続き,解放軍は「三支」活動(左派支持,工,農 業支援)にもとづき,農業生産秩序の維持と農作業支援に大きな役割を果た し,また多くの都市の学生や知識人も,下放運動によってその労働力を提供 した。 「人民日報」は解放軍の支援と各級革命委員会の強力な指導を,農業生産 に大きな影響を与えたものとしてあげている。さらに,農村での奪権闘争が 人民公社段階にとどまり,生産大隊,生産隊にまで波及していないこと(生 産大隊については一部に革命委員会を作っているところもある〉なども農業 生産の混乱を救った背景と思われるO - 33ー 一一xvu-中 国 9月以降, 「新たな躍進へ」のかけ声のもとに,生産成績の上昇がより強 調されたが,農業生産の面でも,秋作は天候にも恵まれ順調な成績を収めた 模様である。秋作物は年間を通じ,生産量の3分の 2程度を占めるだけに, 秋作物の好調が夏作や早稲の減産をカバーした。因みに FAQの維計による と,史上最高とされた67年の食糧生産を 2億1500万トンと推計しているが, これから考えて, 68年の食糧生産は 2億トン前後という観測もある。 今年の農業生産の特徴として,各地で多毛作化が進められたこと,さらに 農業生産物の多角化や省・地域毎に食糧自給化が強調されていたことなどが 目だっているO 今年秋頃より都市の学生,知識人を大量に農村へ定着させる 運動が展開されているが,これは文化革命以降の農村における農業機械化や 近代化の展開に大きな役割を果していくものと思われる。 2 技術革新運動の展開 「革命に力を入れ,生産を促す」のスローガンのもとにすすめられた文化 革命下の.中国経済は3年目を迎えた。今年は政治的には文化草命の“全面的 勝利”をめざ
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,経済的には“新たな躍進”が試みられた。そしてこの“新 たな躍進”を生み出す基礎として工業の技術革新運動が広範に展開され,か っその運動の中で新たな工業企業管理の方法が模索されつつある。 今年,新たな改革を試みる土台として,劉少奇の経済路線に対する徹底的 な批判が執劫に繰り返し行なわれた。つまり,すでに既成の事実,あるいは 既得の権利となっている実権派経済政策のもたらした結果を,大衆が「悪」 として認識するようにならない限り,新たな改革の意欲は出てこないが故に 劉少奇批判は繰り返し行なわなければならないわけである。 昨年秋より農村や工場の各単位では, 「毛沢東思想、学習班」が組織されて いた。この学習班の中で,農業に関しては「三自ー包」, 「機械化先行論」, 「四大自由論」などが,工業面では「技術第一J
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「専門家優先」, 「物質的 刺激」, 「利潤第一」, 「外国技術の模倣」論などをまな板にのせて,劉少奇 路線に対する批判が繰り返された。そして「人民日報」にはこの大批判運動 の中で“ブルジョア技術権威者が不可能とみていた”技術革新に成功した, といった報道が今年に入って増え始めた。これらの技術革新ば,今年上半期 においては石炭不足などからくる原料資材の節約を主とした目的として展開 一− XVlll一
34-中 国 されていた。しかし, 5, 6月頃より工業生産が正常化し,各工場などに革 命委員会が成立するにともない,技術革新運動は新たな展開をとげることと なった。 6月 7日の「光明日報」は「鞍鋼憲法は社会主義企業の偉大な綱領」と題 する論文を発表し,工業企業管理のあるべき姿についての一つの主張を展開 した。その中で,宰J1少奇はソ連のマグニトゴyレスク鉄鋼コンビナートの憲法 を教典として「工場長単独責任制」や「専門家による工場の管理」を実行し, 「政治による統帥」や大衆の積極性に依拠するというやり方を無視したと批 判している。そして,この劉少奇路線に対抗するものとして,毛主席が1960 年に自らまとめた鞍鋼憲法の 5原則(①政治による統率の堅持,②党の指導 の強化,③大々的な大衆運動,④両参ー改三結合の実行,⑤大々的な技術革 命)を主張している。 勿論,事1J少奇は表面的には毛主席の工業企業管理に反対せずに,毛主席の 路線の革命的内容を去勢しようとしたのだと述べられている。つまり劉少奇 は生産成績や能率をあげるかぎりでのみ「両参一改三結合」 (幹部は集団労 働へ参加し労働者は管理に参加すること,不合理な規則・制度を改めること, 労働者・指導的幹部・技術要員の三者が結合すること〉の方針に反対はしな かったが,彼にとって「両参ー改三結合」は,技術問題解決の一つの方法で しかなかった,というわけである。 このような劉少奇批判の背後には, 「両参一改三結合」が単なる「方法」 なのか,それとも生産活動や企業運営に関する「根本なあり方」なのか,と いうことについての意見の対立がかつてあったことを物語っている。 「大躍 進
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期より始まった「両参ー改三結合」は,その当初においてはこの「方法」 と「根本的なあり方」の妥協の産物であったかもしれない。 現在,工業企業管理のあるべき姿としてこの「両参ー改三結合」が再び強 調されている。それは,政治の絶対的優位と大衆の積極性への依拠という理 念をより前面におし出すことによって, 「方法」と決定的に訣別しようとい うところに特徴があろう。 文化革命の中で各工場には,長期にわたる常設の組織として革命委員会が つくられた。この革命委は,その工場に関する権力を全面的に掌握するとさ - 35ー 一−xix−一中 国 れ,その意味では従来の「工場長単独責任制」にとってかわるものである。 革命委の構成は,革命的幹部,技術者,労働者大衆の三者代表によって成っ ている。労働者代表が公然と工場の管理機構に参加を許されたということは, 従来,労働者の役割が企業管理に対して“意見を反映しヘ幹部に対する“監 督を行なう”ということにとどまり,直接的な企業管理への参加を許されて いなかったのに比べ一つの前進であろう。同時にそれは「両参ー改三結合」 を実行する上での制度的な保障といえる。 以上のような管理方式の下で,技術革新運動は次のような特徴をもっ。た とえば 7月22日付の「人民日報」は「上海工作機械工場に見る技術者養成の 道」と題する調査報告を掲載している。それによると,従来は大学卒業生を 中心とした「専門家」が外国の技術を模倣して設計を行ない,労働者は「専 門家」の指令の下に製作を行なう,というノξターンであった。これに対して 第1の特徴は,まず労働者・幹部・技術者の三者が平等な結合を実行したこ と,その中では一般の労働者も設計に加わり,他方「専門家」も生産の第一 線で実際の作業にたずさわって理論と実践との結合を計ったことである。第 2の特徴は,労働者ないし 2, 3年の実際労働の経験をもっ初級・高級中学 卒業生を基礎単位の中から選抜し,大学・専門学校に送って学ばせ技術者と して養成する,ということである。 このように,高級技術者の労働大衆化と労働者の知識人化を通して行なわ れる中国の技術革新運動に対し,西洋的な技術革新運動の常識からその良し 悪しを評価することはできまい。今後,中国のこの技術革新運動が基礎理論 の不足や外国の先進技術からの隔離という条件の中で,どこまで中国経済の 「新たな躍進」への突破口になりえるか否かを断判できるのはまだ先のこと であろう。しかしこの技術革新運動の成果が結実するのに,たとえ多くの無 駄と時間を消費しようとも,中国が「自力更生」と厳しい人間変革を追求し ようとする限り,現在の技術革新運動は永遠に続けられることとなろう。 今年,工業面にあらわれた以上のような改革に比べ,農業面における改革 はまだ表面化されなかった。人民公社,生産大隊,生産隊の三級所有制を廃 止する具体的な徴候は見られない。 しかし,農村における「三自ー包」や 「四大自由」 (土地売買の自由,土地を小作に出す自由,雇用の自由,貸借 一 一xx- 36
-中 国 の自由〉に対する徹底的な批判運動は,事1]少奇が調整期に行なった農業政策 の何らかの転換をまねかないはずがなかった。中国に滞在している日本人特 派員の断片的な報道によると,大都市近郊の先進的な人民公社などでは,自 留地が生産隊の中の集団管理にまかせられていること,および生産大隊の権 限が従来より拡大されているという。さらに工業面と同様に,労働点数の算 出の基準が従来の「出来高払い」制から,より個々の労働者・農民の政治・ 思想、情況の良し悪しを規準とするものに重点がかけられるようになったとい う情報もある。しかし,これらの動きが都市近郊の先進的な農村から地方の 農村に至るまで行なわれているかどうかについては甚だ疑問である。 いずれにしても,農村におけるこれらの動きは,調整期の農業政策の抜本 的改革にはほど遠い。工業に比べ農業面における改革はより穏歩であり慎重 である,従って当面,急激な変化をF予測することはできない。
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中国外交一一外交復活への胎動 中国外交にとって1967年が“外交不在”の年であったとすれば, 68年は新 たな外交への“胎動”がしだいに大きくなりつつある 1年であった。 この動きは,基本的には国内における文化大革命の展開・収拾過程に対応 しているが,中国をとりまく国際環境が,この動きをいっそう促進したもの とみることができる。まず外交問題処理の任に当たる「外交部」についてい えば,はげしい批判にもかかわらず,陳毅外相はきびしい審査を経て依然健 在であり,周思来=陳毅ラインが68年の中国外交を処理してきた。中国の各 国駐在大使たちは“学習”のため帰国したままで,まだ第1線に復帰しては いないが,いずれにせよ,新旧大使の第 1線への登場はもはや時間の問題で あろう。 国際環境について特に重要なのは,第 1にソ連のチェコスロパキアに対す る軍事介入であり,第2にベトナム戦争に関するパリ和平会談の開催である。 以下,この二つの柱を中心に68年の中国外交をみていくことにしよう。 l 中ソ対決,ぬきさしならぬ段階へ 文化大革命は中ソ関係をぬきにしてはとうてい語りえないほど,最も根本 的な点で深くかかわっている。文草のきっかけのひとつが,対ソ政策をめぐ - 37 - 一−xx1-中 国 る対立にあったばかりではなく,文革の展開過程そのものが, “中国の内な る”ソ連を排除する過程であったということもできょう。ここで“中国の内 なるソ連”と呼ぶのは,ソ連式の社会主義建設理論および国際共産主義運動 に関する理論のすべてを指すのであるが,これに中国が対置したのはいうま でもなく毛沢東思想である。 文革を対ソ社会主義との関係で以上のようにとらえるとすれば,文草の展 開過程そのものが中ソ対立の激化の過程であったことは自明の理である。 このような決定的な中ソ対立は, 1968年に入ってますます激化した。それ をかんたんに跡づければ次のごとくである。まず世界共産党・労働者党協議 会議(2月26日∼ 3月 5日〉を中国は「ブダベストの茶番劇」 (3月13日人 民日報評論員)と論じ,ソ連修正主義指導部の努力にもかかわらず,反中国 合唱にこたえたのは,客々たるものであったと述べた。ジョンソン米大統領 の「北爆縮小」声明(3月31日〉をきっかけとして動きはじめたパリ会談に 対して,中国は“米ソの結託”によるもの,とソ連を非難し,ソ連もまたパ リ会談に対する中国の態度をパリ会談に水をさすものと非難した。この間, 中国のアジア・アフリカ連帯委員会関係者の1人がカイロからソ連へ亡命す る事件(3月初旬),ソ連船が旅大(大連〉でスパイ容疑で拘留される事件 (4月), 中国人専門家のソ連からの追放(4月〉などがあったが, 中ソ対 決を決定的に促進したのは,いうまでもなくソ連軍(ワルシャワ条約軍)の チェコ占領であった。 東欧のいわゆる“自由化”について,中国は4月に,アノレパニア紙の論説 (修正主義指導者同士の犬のケンカみたいなものだというもの)を転載(26 日付け〉しただけで、沈黙を守っていた。しかし, 8月20日,ワルシャワ条約 軍がチェコに軍事介入を始めるや, 22日,陳毅外相が駐北京ルーマニア大使 と会談し,翌23日,周恩来首相はルーマニア建国記念日レセプションで「ノレ ーマニアはいま,外音防、らの干渉と侵略の危険に直面している。中国はルー マニアの立場を支持する
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と述べた。同日の人民日報は, 「ソ連現代修正主 義の全面的破産」と題する評論員論文を掲げ,ソ連の軍事占領は,ヒトラー のチェコ・ズデーテン地民占領,アメリカ帝国主義のベトナム侵略と全く同 じであり,ソ連は「すで、に社会帝国主義になりさがっているJ
と主張した。 一一 xxu 一一 38-中 国喝 ソ連・チェコ会談については, 「銃剣のもとでの取引き」 (8月27日人民日 報評論員〉だとして,ソ連・チェコ両“修正主義裏切り者集団”を批判し, 中国人民はチェコおよびソ連の革命的人民の側に断固として立っと,強調し Tこ。 ソ連を単なる修正主義ではなく, 「社会帝国主義」と規定して以後,中国 の対ソ非難はいっそうはげしくなり,人民日報は「ソ連修正主義は東欧人民 の頭上に君臨する新しいツアーである」と題する論文(11月10日〉まで掲げ るに至った。ソ連の中国非難もまたエスカレーションした。 チェコ事件をきっかけとして,アルパニアはワルシャワ条約機構からの脱 退を決議( 9月12日〉したが,中国はこれを全面的に支持し,脱退は「ソ連 修正主義裏切り者集団に痛打を浴びせたものであり,現代修正主義に反対す る東欧各国人民の闘争を大いに励ますもの」と強調した(9月20日人民日報 社説〉。 アyレパニアのこのような動きに対して, ソ連はブノレガリアに軍隊を 集結させ,アルパニアに対する軍事的脅威を強化していると伝えられたが, 中国は「アノレパニアの闘争を自己の闘争とみなし,アルパニアの勝利を自己 の勝利とみなす」と宣言した(29日付け人民日報,解放軍報社説〉。 一方,中国外交部は 9月16日,ソ連軍用機の中国領空侵犯(黒竜江省〉に 厳重な抗議を発した。また周恩来首相は同29日,「ソ連は中・ソ国境と中国・ モンゴル国境に大量の軍隊を進駐させ,中国領空をくり返し侵犯している」 と非難した。中・ソ国境の緊張については西側も注目しており,たとえば, 英紙はソ連がモンゴノレに大量の対中ミサイル基地を建設しつつあり,それら のミサイノレは
NATO
軍によってスキャンプス,スクルージと呼ばれている と報じた(10月 6日サンデー・タイムズ〉。 建国19周年の国慶節は,外交面ではベトナム人民との連帯を除けば,パノレ ク副首相兼国防相を団長とするアノレパニア代表団に対する大歓迎が象徴する ように,アノレパニア人民との「戦闘的友誼」が最も強調された。同代表団が 核実験場のあるウノレムチを外国人として初めて訪問したのも,反ソ統一戦線 の展開の上で重要な意味をもつものであろう。 10月
6日,アノレパニア代表団 の送別宴で周恩来首相は「世界各国人民の米帝国主義とソ連修正主義に反対 する闘争は,いま新たな歴史的時期に入ったJ
と強調したが,これは文革に - 39ー 一−XXlll −ー中 国 よって園内を固め,新たな外交攻勢の展開を意図している中国の自信と決意 を表明したものといえよう。チェコ占領の事態に際し直ちにルーマニア支持 の態度を表明し,ユーゴ批判も手控えるなど中国外交はかなり柔軟性をとり 戻しつつあるようだ。 11月末のアノレパニア解放24周年記念日に際しては,中国は黄永勝総参謀長 を団長とする党・政府・軍代表団を派遣する一方,アノレパニアに大量の経済 援助(冶金コンビナート,総合精油工場,水力発電所,印刷工場,選鉱工場 など〉を与えた。 中国・アノレパニア両国の戦闘的友誼の深まりの意味するもの一一一それは逆 にいえば,中ソ対立がよりいっそう激化したことである。ソ連にとってアル パニアはソ連圏の中に打ちこまれた中国のクサピであり,これをいかに封じ 込めるかが対東欧政策の重要な柱の一つである。また,中国にとってはこの クサピをいかに固守しうるかが対ソ政策の重要な鍵をなすものであろう。ソ 連は67年にすでに中国を仮想敵国とした“ドニエフ。ノレ作戦”という名の対ゲ リラ作戦の演習を行なっていると伝えられ,一方,台湾の国民政府国防部筋 によれば,中国は対ソ国境の軍事力を強化しているという(10月31日朝日〉。 また米紙は,ソ連政府の高官が非公式に 10月に台湾を訪問したと伝えている。 ソ連の中国封じ込めは,いまやインド,マラッカ海峡を経て,台湾さえその 一環に加えようとしているようだ。チェコに対するソ連の軍事介入は,もは やメンツにこだわってはいられないほどのソ連の東欧圏政策の危機感を物語 るものであったが,同じように,ソ連が社会主義国としてのメンツを捨てて まで台湾に接近するということは,中ソ対決がもはやぬきさしならぬ決定的 な段階にあることを示唆するものであろう。 2 パリ会談と中国 ベトナム戦争は南ベトナム解放民族戦線のテト攻撃で68年の幕を開けた。 人民日報は連日,闘争のもょうをくわしく報道しその勝利を讃えた。だが, 3月末のジョンソン声明については, 4月5日の新華社通信がアメリカの和 平提案をペテンときめつけるだけで, 3日のベトナム民主共和国声明(「北爆 無条件停止の話合いのため米代表と接触する用意がある」)には,なんら言及 しなかった。同15日付け人民日報は評論員論文を掲げ,和平交渉の「接触地 ー−XXlV 一ー - 40ー