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〈滋賀県の民俗〉近江小幡人形小考

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近江小幡人形小考

   

  也

はじめに 近江湖東の木地師の里で知られる奥永源寺に源を発した愛知川は、肥沃な湖東平野を潤しながら琵琶湖に流れそ そぐ。その愛知川の左岸、西国第三二番札所の観音正寺が建立された繖山(観音寺山)の東に、近江商人の発祥の 地である五個荘が所在する。 とくに小幡の地は京と東国を結ぶ幹線道路の東山道が通るだけでなく、湖上交通の重要な湊である長浜や米原の 朝妻に近く、鈴鹿山脈を越えれば太平洋側へも直結しており、まさに交通の要衝であった。そのため中世から商業 活動が活発な地域であり、小幡商人の活躍は江戸時代には五個荘商人として受け継がれ、京・大坂だけでなく北陸 地方や太平洋地域・関東へも広く行商を行い、豪商として全国に名を馳せた近江商人の礎を築いていった。 近江商人たちは都市部に店をもっても、妻子は近江の本家に住まわせ往還していた。とくに、湖東商人たちは地 場 産 業 の 麻 布 を 扱 い、 京 織 物 な ど の 呉 服 を 商 う の で、 京 や 大 坂 へ の 出 店 が 多 か っ た と い う( 小 倉   一 九 八 〇 )。 現 在、これら近江商人たちの屋敷地は、中村準五郎邸や外村宇兵衛・繁邸、藤井彦四朗邸など街道筋から少し外れた 五個荘金堂地区を中心に町並が保全されており、平成一〇年一二月には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定さ れている。金堂地区に残る真宗大谷派弘誓寺の宝暦一四年(一七六四)に建立された本堂や、大城神社の巨大な石

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鳥居に近江商人の財の豊かさを偲ぶことができる(図 1 )。 こ れ ら 近 江 商 人 の 故 郷 と も い え る 五 個 荘 の 小 幡 は、 現 在 で は ひ っ そ り し た 旧 街 道 沿 い の 街 並 み と な っ て い る が、 江 戸 時 代 に は 幹 線 路 で あ る 中 山 道 と、 伊 勢 と 多 賀 を 結 ぶ 参 詣 路 で あ る 御 代 参 街 道 の 結 節 点 で あ り、 往 時 は 多 く の 旅 客 が 行 き 交 う 交 通 の 要 衝 で も あ っ た。 こ の 小 幡 の 地 で、 江 戸 時 代 か ら 伝 わ る 土 人 形 が 現 在 ま で 製 作 さ れ 続 け て い る。 地 域 の 人 々 が 愛 称 を こ め て「小幡でこ」と呼んでいる土人形である。 江 戸 時 代 も 半 ば 以 降 に な る と、 伏 見 人 形 が 全 国 各 地 で 節 句 人 形 と し て も て は や さ れ る よ う に な り、 伏 見 人 形 の 技 術 伝 播 に よ っ て 京 と 関 係 の 深 い 地 方 に 土 人 形 生 産 が 萌 芽 し 始 め て い た。 小 幡 人 形 は 近 江 湖 東 で 生 ま れ た「 伏 見 人 形 」 で あ る が、 時 代 と と も に 近 江 の 芸 能 や 習 俗・ 信 仰 を 映 し 出 す 独 自 な郷土玩具として発展してきたといえる。 こ の 小 論 で は、 小 幡 人 形 の 歴 史 や 現 状 を 明 ら か に す る と と も に、 小 幡 人 形が映し出してきた近江の様々な姿かたちについて、眺めてみたいと思う。なお、本稿は平成二九年一一月三日か ら五日までの長浜・中山道柏原宿・五個荘での調査と、一一月二三日から二六日までの朝妻・多賀・五個荘・近江 八幡での調査に基づいており、平成三〇年五月三日にも五個荘と筑摩で補足調査を行っている。 一   小幡人形の由来と継承 各地の土人形の由来があまり明確でないように、小幡人形についても不明な点が多い。現在、小幡人形を継承す 図 1 五個荘大城神社石鳥居 る細居家の伝えによれば、初代の細居安兵衛は元来、五個荘と京・大坂の商人を結ぶ町飛脚を生業にしていたとい う。 五 個 荘 と 京 と の 行 程 は 片 道 二 日 で、 頻 繁 な 往 来 に は 体 力 的 な 限 界 が あ る の に 加 え、 道 中 の 追 剥 な ど の 危 険 も 伴 っ た。 京 で は 大 坂 と の 通 商 の 拠 点 と し て 伏 見 が 重 視 さ れ て お り、 安 兵 衛 も 伏 見 を 何 度 も 訪 れ 伏 見 人 形 の 存 在 を 知ったようである。時に享保年間(一七一六〜一七三五)のころで、天下も大平となり、節句人形として伏見人形 が広く各地に売れ始めていた。伏見人形の近江への販路拡大を見込んで、安兵衛は飛脚業を廃業し「伏見人形」と して小幡での土人形造りを興したのが小幡人形の始まりと伝えている(奥村   一九七三) 。 このように、小幡人形の由来については口承しか残っておらず、その真偽性が疑われるところであるが、実際に 小幡人形には伏見人形の伝来型あるいは抜型が多く使われており、郷土玩具の研究者も伏見人形の模倣としてあま り注目してこなかったようである。昭和一五年に発表された有坂与太郎氏の『郷土玩具展望』には、彦根駅の郷土 玩 具 と し て「 小 幡 人 形 」 が あ げ ら れ て い る が、 「 創 業 を 江 戸 末 期 と 推 定 す。 小 幡 の 粉 本 た る 伏 見 の 発 達 過 程 が、 化 政 度 以 前 に 遡 り 得 ざ る た め な り。 細 井 の 初 代 を 安 兵 衛 と 云 へ ど、 人 形 製 作 は 四 代 源 助 に よ つ て 創 め ら れ し も の か、 當 主 文 造 を 八 代 と す。 種 類、 布 袋、 飾 馬、 天 神、 猿、 俵 持 等 二 百 餘 種 あ り。 」 と 記 さ れ、 創 業 を 幕 末 の 化 政 年 間 よ り遡らないと考えている(有坂   一九四〇) 。 四 代 目 の 源 助 が 人 形 造 り を 行 っ て い た 事 実 は、 天 保 一 三 年( 一 八 四 二 ) の『 小 幡 村 往 還 筋 商 人 名 前 帳 』( 小 幡 文 書 ) に「 原 助   右 之 者 近 年 よ り 土 人 形 小 売 致 申 候 」 と あ る こ と か ら も 証 明 で き る。 「 原 助 」 は 四 代 源 助 の こ と で あ ろう。ちなみに、同文書には土人形小売りとして「七之助」も記載されており、生没年不詳の二代七之助とは考え ら れ な い の で、 親 類 縁 者 で 土 人 形 の 店 を 商 っ て い た と 推 定 さ れ て い る( 五 個 荘 町 役 場   一 九 九 二 )。 小 幡 人 形 の 創 業を四代源助に求めるのも最もなことで、大蔵永常が『広益国産考』を著し、工芸品としての「雛」生産の在地へ の普及を奨励したのが一九世紀前半のまさにこの時期であり、天保五年(一八三四)に永常が三州田原藩に招かれ

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る細居家の伝えによれば、初代の細居安兵衛は元来、五個荘と京・大坂の商人を結ぶ町飛脚を生業にしていたとい う。 五 個 荘 と 京 と の 行 程 は 片 道 二 日 で、 頻 繁 な 往 来 に は 体 力 的 な 限 界 が あ る の に 加 え、 道 中 の 追 剥 な ど の 危 険 も 伴 っ た。 京 で は 大 坂 と の 通 商 の 拠 点 と し て 伏 見 が 重 視 さ れ て お り、 安 兵 衛 も 伏 見 を 何 度 も 訪 れ 伏 見 人 形 の 存 在 を 知ったようである。時に享保年間(一七一六〜一七三五)のころで、天下も大平となり、節句人形として伏見人形 が広く各地に売れ始めていた。伏見人形の近江への販路拡大を見込んで、安兵衛は飛脚業を廃業し「伏見人形」と して小幡での土人形造りを興したのが小幡人形の始まりと伝えている(奥村   一九七三) 。 このように、小幡人形の由来については口承しか残っておらず、その真偽性が疑われるところであるが、実際に 小幡人形には伏見人形の伝来型あるいは抜型が多く使われており、郷土玩具の研究者も伏見人形の模倣としてあま り注目してこなかったようである。昭和一五年に発表された有坂与太郎氏の『郷土玩具展望』には、彦根駅の郷土 玩 具 と し て「 小 幡 人 形 」 が あ げ ら れ て い る が、 「 創 業 を 江 戸 末 期 と 推 定 す。 小 幡 の 粉 本 た る 伏 見 の 発 達 過 程 が、 化 政 度 以 前 に 遡 り 得 ざ る た め な り。 細 井 の 初 代 を 安 兵 衛 と 云 へ ど、 人 形 製 作 は 四 代 源 助 に よ つ て 創 め ら れ し も の か、 當 主 文 造 を 八 代 と す。 種 類、 布 袋、 飾 馬、 天 神、 猿、 俵 持 等 二 百 餘 種 あ り。 」 と 記 さ れ、 創 業 を 幕 末 の 化 政 年 間 よ り遡らないと考えている(有坂   一九四〇) 。 四 代 目 の 源 助 が 人 形 造 り を 行 っ て い た 事 実 は、 天 保 一 三 年( 一 八 四 二 ) の『 小 幡 村 往 還 筋 商 人 名 前 帳 』( 小 幡 文 書 ) に「 原 助   右 之 者 近 年 よ り 土 人 形 小 売 致 申 候 」 と あ る こ と か ら も 証 明 で き る。 「 原 助 」 は 四 代 源 助 の こ と で あ ろう。ちなみに、同文書には土人形小売りとして「七之助」も記載されており、生没年不詳の二代七之助とは考え ら れ な い の で、 親 類 縁 者 で 土 人 形 の 店 を 商 っ て い た と 推 定 さ れ て い る( 五 個 荘 町 役 場   一 九 九 二 )。 小 幡 人 形 の 創 業を四代源助に求めるのも最もなことで、大蔵永常が『広益国産考』を著し、工芸品としての「雛」生産の在地へ の普及を奨励したのが一九世紀前半のまさにこの時期であり、天保五年(一八三四)に永常が三州田原藩に招かれ

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た と き に、 興 産 事 業 と し て 土 人 形 の 模 倣 作 成 を 奨 励 し て お り、 「 元 形 と な る べ き 人 形 を 伏 見 と 名 古 屋 よ り 調 へ 模 し て 造 り し に、 伏 見 に も お と ら ず 出 来 し、 当 時 も つ は ら 婦 女 子 の 職 と な れ り 」 と 記 し て い る。 『 広 益 国 産 考 』 で は 伏 見人形からの抜型の方法や、伏見人形の作成手順が細かく解説されており、一九世紀前半に土人形の生産が全国に 広まったことを暗示しているのである。 た だ、 伏 見 人 形 の 生 産 と 流 通 は す で に 一 七 世 紀 後 半 の 元 禄 年 間( 一 六 八 八 〜 一 七 〇 三 ) に は 盛 ん に 行 わ れ て お り、一八世紀には京近郊の近江にも多くの伏見人形が流通していたと考えられる。そういう意味では、一八世紀前 半 の 享 保 年 間 に 安 兵 衛 が 小 幡 人 形 を 創 業 し た と す る 口 承 も あ な が ち 否 定 す る こ と も で き な い( 奥 村   一 九 七 四 )。 小幡人形にみられる製作技法の特性は伏見人形と非常に類似しており、それが京伏見から早い段階で技術伝播がな された結果なのか、一九世紀前半の『広益国産考』にみられるような伏見人形を原型とする土人形の広域な伝播に よるものなのか、判断が難しいのが現状といえよう。 現在、細居家に伝わる土型は、七代源助が所持していた伏見伝来型や抜型と、八代文造が創作した土型がほとん ど で、 小 幡 人 形 の 由 来 を 示 唆 す る 土 型 は「 二 十 番 人 形 安 」 と 箆 書 き さ れ た 初 代 安 兵 衛 所 持 と 伝 え る 飾 り 馬 の 土 型 と、 二 代 目 七 之 助 所 持 と 伝 え る 金 魚 土 型 の み で あ る( 財 団 法 人 滋 賀 県 八 日 市 文 化 芸 術 会 館 ほ か   一 九 九 一 )。 源 助 所持の伏見伝来型には懇意であった水島熊次郎から分与された土型がみられ、抜型には「本   明治三拾六年   七月   イ □   細 居 本 偶 製 造   所 用 」 と 箆 書 き さ れ た「 忠 臣 蔵 一 力 茶 屋( 寺 岡 )」 の 土 型 を 確 認 し て い る( 図 2 )。 ち な み に、源助の息子である文造氏は、後年に大八車で伏見まで行って土型をわけてもらい帰ってきた思い出を語ってい る。これらの事実から、少なくとも七代源助は伏見人形の技術を模倣しただけでなく、実際に伏見の人形師に師事 していたことも窺え、伏見人形と小幡人形が古くから深い関係にあったことを想定できるのである(東近江市近江 商人博物館   二〇〇九) 。 七 代 源 助 は 昭 和 一 三 年 に 亡 く な り、 そ の 後 を 継 い だ の が 八 代 文 造 で、 文 造 氏 は 小 幡 人 形 の 唯 一 の 継 承 者 と し て 多 く の 業 績 を 残 し た。 と こ ろ で、 先 代 の 源 助 の 時 代 か ら、 日 本 の 近 代 化 に 伴 い 新 し い さ ま ざ ま な 玩 具 が 登 場 し、 玩 具 と し て の 土 人 形 が 売 れ な く な っ て き た。 先 の 大 八 車 で 伏 見 人 形 の 土 型 を わ け て も ら っ た の も、 昭 和 に 入 っ て 伏 見 で も 多 く の 人 形 師 が 転 廃 業 に 追 い 込 ま れ た 結 果 と も い え る。 そ れ に 加 え て、 一 家 の 主 で あ る 源 助 が 亡 く な る と と も に、 太 平 洋 戦 争 の 雲 行 き も 怪 し く な り、 人 形 造 り ど こ ろ で は な く な っ て き た。 そ し て、 そ の よ う な 時 に 文 造 氏 に 軍 へ の 召 集 令 状 が き た の で あ る。 文 造 氏 は 従 軍 で 自 分 に も し も の こ と が 起 こ っ た ら、 小 幡 人 形 の 灯 が 途 絶 え て し ま う と 考 え、 夜 な 夜 な 子 孫 の た め に 人 形 の 絵 を 描 き た め て い っ た ( 1 ) 。 こ の 土 人 形 の 絵 は、 安 土 在 住 の 詩 人 で あ る 井 上 多 喜 三 郎 氏 や 彦 根 の 人 形 愛 好 家 で あ る 奥 井 清 二 郎 氏 の 勧 め で、 戦 後 の 昭 和 二 三 年 ( 一 九 四 八 ) に 小 幡 人 形 の 画 集 と し て 出 版 さ れ る こ と と な る( 細 居   一九四八) 。小幡人形を知るための、貴重なデータを提供したといえるだろう。 ま た、 文 造 氏 は 戦 後 の 混 乱 期 に 様 々 な 職 に つ き な が ら も 人 形 造 り を 再 開 し、 伝 来 の 土 型 だ け で な く 独 特 の ア イ ディアで創作物の土人形を次々と製作していった。細君の細居幸子氏の談によると、毎年ひとつは自分で新しい人 形を創作すると決意したとのことで、小幡人形独自の多くの創作人形が作られたのである。伏見人形の模倣といわ れていた小幡人形が、近江の郷土を語る土人形として生まれ変わっていったといえよう。新しい人形を製作するに は原型を製作する必要があるが、伝統的なデザインだけでなく子供たちに人気の「ドラえもん」人形も製作してお 図 2 「忠臣蔵」型銘文

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七 代 源 助 は 昭 和 一 三 年 に 亡 く な り、 そ の 後 を 継 い だ の が 八 代 文 造 で、 文 造 氏 は 小 幡 人 形 の 唯 一 の 継 承 者 と し て 多 く の 業 績 を 残 し た。 と こ ろ で、 先 代 の 源 助 の 時 代 か ら、 日 本 の 近 代 化 に 伴 い 新 し い さ ま ざ ま な 玩 具 が 登 場 し、 玩 具 と し て の 土 人 形 が 売 れ な く な っ て き た。 先 の 大 八 車 で 伏 見 人 形 の 土 型 を わ け て も ら っ た の も、 昭 和 に 入 っ て 伏 見 で も 多 く の 人 形 師 が 転 廃 業 に 追 い 込 ま れ た 結 果 と も い え る。 そ れ に 加 え て、 一 家 の 主 で あ る 源 助 が 亡 く な る と と も に、 太 平 洋 戦 争 の 雲 行 き も 怪 し く な り、 人 形 造 り ど こ ろ で は な く な っ て き た。 そ し て、 そ の よ う な 時 に 文 造 氏 に 軍 へ の 召 集 令 状 が き た の で あ る。 文 造 氏 は 従 軍 で 自 分 に も し も の こ と が 起 こ っ た ら、 小 幡 人 形 の 灯 が 途 絶 え て し ま う と 考 え、 夜 な 夜 な 子 孫 の た め に 人 形 の 絵 を 描 き た め て い っ た ( 1 ) 。 こ の 土 人 形 の 絵 は、 安 土 在 住 の 詩 人 で あ る 井 上 多 喜 三 郎 氏 や 彦 根 の 人 形 愛 好 家 で あ る 奥 井 清 二 郎 氏 の 勧 め で、 戦 後 の 昭 和 二 三 年 ( 一 九 四 八 ) に 小 幡 人 形 の 画 集 と し て 出 版 さ れ る こ と と な る( 細 居   一九四八) 。小幡人形を知るための、貴重なデータを提供したといえるだろう。 ま た、 文 造 氏 は 戦 後 の 混 乱 期 に 様 々 な 職 に つ き な が ら も 人 形 造 り を 再 開 し、 伝 来 の 土 型 だ け で な く 独 特 の ア イ ディアで創作物の土人形を次々と製作していった。細君の細居幸子氏の談によると、毎年ひとつは自分で新しい人 形を創作すると決意したとのことで、小幡人形独自の多くの創作人形が作られたのである。伏見人形の模倣といわ れていた小幡人形が、近江の郷土を語る土人形として生まれ変わっていったといえよう。新しい人形を製作するに は原型を製作する必要があるが、伝統的なデザインだけでなく子供たちに人気の「ドラえもん」人形も製作してお 図 2 「忠臣蔵」型銘文

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り( 図3 )、 そ の 創 作 意 欲 に は 頭 が 下 が る 思 い で あ る。 そ し て、 こ れ ら の 努 力 が 実 を 結 び、 創 作 物 の 小 槌 乗 り 鼠 が 昭 和 五 九 年 の 年 賀 切 手 の 図 案 に 採 用 さ れ、 小 幡 人 形 が 全 国 的 に 有 名 な 土 人 形 と し て 周 知 さ れ る よ う に な っ た のである。 な お、 文 造 氏 は 創 作 活 動 だ け で な く、 郷 土 玩 具 の 愛 好 グ ル ー プ の 会 合 な ど に も よ く 出 席 し て 意 見 を 交 換 し、 店 を 訪 問 す る か た に も 気 軽 に 話 を す る な ど、 自 然 と 人 々 を 魅 了 す る 人 形 師 で も あ っ た。 そ の よ う な 魅 力 に 引 き つ け ら れ て、 小 幡 人 形 の 後 援 会 と し て グ ル ー プ 凸 が 昭 和 五 八 年( 一 九 八 三 ) に 地 元 で 立 ち 上 げ ら れ た こ と も、 今 後 の 伝 統 工 芸 の 継 承 を 考 え る う え で 特 筆すべきことである。 グ ル ー プ 凸 の 会 則 第 一 条 と し て、 「 こ の 会 は 近 江 の 地 に 伝 わ る 小 幡 人 形 の 過 去 現 在 に 至 る ま で を 研 究 し、 小 幡 人 形 の 伝 承 保 存 に 資 す る こ と を 主 た る 目 的 と し、 併 せ 地 域 の 伝 承 文 化 に つ い て の 記 録 及 び 研 究 も 行 な う 」 と あ る(小幡人形後援会グループ凸   一九九五) 。会報創刊号に掲載された第一回の議題は、 「一   小幡人形の後継者に つ い て 」・ 「 二   小 幡 人 形 の 保 存 に つ い て( 行 政 と の か か わ り )」 ・「 三   「 会 」 の 組 織 に つ い て 」・ 「 四   「 会 」 の 事 業 について」で、一一名の会員が集まったという。伝統文化を継承する当事者ではなかなか解決できない問題につい て、地元の有志が援助を行う体制が作られたのである。一の後継者問題についてはプライベートな問題でもあり細 居文造氏と話をするなかで考えていきたいと記されているが、実際に発足以降、会員が文造氏を訪問し、様々な話 を 伺 い な が ら 関 係 を 深 め て い く 様 子 が よ く わ か る。 そ し て、 結 果 的 に は 文 造 氏 の 息 子 で あ る 源 悟 氏 が 九 代 を 継 承 図 3 文造創作「ドラえもん」 し、現在の小幡人形につながっているのである。 また、二の行政とのかかわりについては、伝統文化産業の保存に対して行政が積極的に関わりにくい実態を会全 体で考えて共通認識とし、四のさまざまな事業を通じて地域の理解者やファンを増やすとともに、小幡人形の文献 収集・現状記録・技術継承・研究などを皆で行っていく旨が確認されている。そして、その活動は平成元年に文造 氏が亡くなるまで続けられ、手造りの会報が継続的に刊行されたのである。 グループ凸の活動は、細居文造という魅力的な人形師の人柄に魅かれて続けられたものであり、会員一人ひとり の 努 力 に よ っ て 会 が 継 続 で き た の で あ っ て、 伝 統 文 化 の 保 存 活 動 全 般 に わ た っ て 簡 単 に 適 用 で き る も の で は な い。 しかし、このような自発的な保存継承活動を地元で立ち上げることができれば、行政も付随して動きだすのは必然 である。文造氏が亡くなった二年後の平成三年に、水口・八日市・長浜・安曇川・草津の各県立文化芸術会館を会 場にして『近江の土偶―小幡人形―』の巡回展覧会が開催され、現在では五個荘近江商人屋敷の中江準五郎邸で郷 土玩具である小幡人形が所せましと展示されており、その魅力を訪れたかたがたに紹介している。 デジタル化が進む現在においては、再び伝統文化への社会的関心が薄れ、アナログな郷土玩具の継承が難しい時 代になってきている。しかし、時代がかわっても人がその手で造り出すモノの暖かさは変わらないと思う。今の時 代だからこそ、グループ凸の活動は一つの指針となるのではないだろうか。 二   郷土人形としての「小幡でこ」 明治から昭和初期にかけて、小幡人形は節句の人形を主体として製作されていた。細居文造氏への聞き取り調査 によれば、三月と五月は節句人形を多く作成し、その間の四月の春祭りや正月の天神飾りにも人形が多く売れたと の こ と で あ る( 石 沢   一 九 九 一 )。 雛 節 句 は 旧 暦 の 三 月 三 日 に 行 う と こ ろ も 多 く あ り、 三 月 か ら 四 月 に か け て は 内

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し、現在の小幡人形につながっているのである。 また、二の行政とのかかわりについては、伝統文化産業の保存に対して行政が積極的に関わりにくい実態を会全 体で考えて共通認識とし、四のさまざまな事業を通じて地域の理解者やファンを増やすとともに、小幡人形の文献 収集・現状記録・技術継承・研究などを皆で行っていく旨が確認されている。そして、その活動は平成元年に文造 氏が亡くなるまで続けられ、手造りの会報が継続的に刊行されたのである。 グループ凸の活動は、細居文造という魅力的な人形師の人柄に魅かれて続けられたものであり、会員一人ひとり の 努 力 に よ っ て 会 が 継 続 で き た の で あ っ て、 伝 統 文 化 の 保 存 活 動 全 般 に わ た っ て 簡 単 に 適 用 で き る も の で は な い。 しかし、このような自発的な保存継承活動を地元で立ち上げることができれば、行政も付随して動きだすのは必然 である。文造氏が亡くなった二年後の平成三年に、水口・八日市・長浜・安曇川・草津の各県立文化芸術会館を会 場にして『近江の土偶―小幡人形―』の巡回展覧会が開催され、現在では五個荘近江商人屋敷の中江準五郎邸で郷 土玩具である小幡人形が所せましと展示されており、その魅力を訪れたかたがたに紹介している。 デジタル化が進む現在においては、再び伝統文化への社会的関心が薄れ、アナログな郷土玩具の継承が難しい時 代になってきている。しかし、時代がかわっても人がその手で造り出すモノの暖かさは変わらないと思う。今の時 代だからこそ、グループ凸の活動は一つの指針となるのではないだろうか。 二   郷土人形としての「小幡でこ」 明治から昭和初期にかけて、小幡人形は節句の人形を主体として製作されていた。細居文造氏への聞き取り調査 によれば、三月と五月は節句人形を多く作成し、その間の四月の春祭りや正月の天神飾りにも人形が多く売れたと の こ と で あ る( 石 沢   一 九 九 一 )。 雛 節 句 は 旧 暦 の 三 月 三 日 に 行 う と こ ろ も 多 く あ り、 三 月 か ら 四 月 に か け て は 内

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裏 雛 の ほ か、 太 夫 や 子 守 人 形・ 「 高 砂 」・ 「 七 福 神 」 な ど の 縁 起 も の が、 五 月 節 句 に は 武 者 人 形 や 金 時 さ ん な ど が 出 たようである。五個荘周辺の三月節句は、女の子のいる家ではザシキに初節句の時に嫁の実家から贈られた雛人形 を飾るが、雛人形として「小幡でこ」を飾る事例がみられるのが特徴だと報告されており、四月節句として四月三 日にザシキにかざられることもあるという(五個荘町役場   一九九三) 。 湖東におけるこれら雛節句の実態調査については、藤野滋氏が詳細な現地調査を行っている。藤野氏は近江八幡 市の旧馬淵村千僧供と馬淵集落に残る土人形を調査し、旧暦三月三日に多くの土人形を飾る風習の実態を明らかに し た( 藤 野   一 九 八 四 )。 子 供 が 生 ま れ る と 男 の 子 あ る い は 女 の 子 の 節 句 の お 祝 い に 人 形 が 贈 ら れ る 風 習 が あ り、 節句には小幡人形のほか多くの人形が家々に飾られる。子供が大きくなっても今度は孫たちのために人形が飾られ 続け、次第に子供の成長を祝うという本来の目的よりも、長年にわたって子供たちの成長を見守り続けた人形たち を供養する祭りへと転換していく。それは、藤野氏が古い人形を祀る理由として家々で聞き取った以下の言葉に現 れている。 「雛祭りは年に一度、おもちゃを供養してやる日です」 「人形を出さないと子供が風邪をひくというから」 「人形には口があるから(祀らないと文句をいってたたるから) 」 小幡人形は、あくまで小幡で製作された「伏見人形」として売られ、人形も伏見人形にできるだけ似せることが 要求されてきたことから、郷土玩具の愛好家の間でも「小幡に古作なし」と言われていた。しかし、愛玩家たちに 注目されずとも小幡人形は子供たちの郷土玩具として、湖東の人々の生活の中に十分浸透していたのであり、戦後 に節句人形の伝統が衰退してからも、近江の文化を広く発信する郷土玩具として興味深い作品を残してきたといえ よう。次に、小幡人形が近江の郷土玩具として独自な存在感を発揮していった、それらの作品についていくつかみ てみたいと思う ( 2 ) 。 まず、商売繁盛のキャラクターとして広く知られる「福助」人形であるが、由来譚はいくつかある中で京都の呉 服屋で徳の厚い人物といわれる「大文字屋」主人を写し祀ったとするのが有名である。しかし、近江では中山道柏 原宿の艾屋「亀屋左京」の番頭「福助」の話も伝えられている。伊吹山麓は艾の名産地で中山道柏原には艾屋が軒 を連ねていたが、なかでも「亀屋」番頭の福助はいつも裃で身なりをただし、家訓を守って正直に艾の商いを続け た た め 店 が 大 繁 盛 し た と い う。 江 戸 時 代 後 期 の 歌 川 広 重 に よ る『 木 曾 海 道 六 十 九 次 』 柏 原 宿 に は、 「 亀 屋 」 の 店 先 に 飾 ら れ た 巨 大 な 福 助 人 形 が 描 か れ て お り( 図 4 )、 今 で も 二 代 目 に あ た る 巨 大 な「 福 助 」 人 形 が 飾 ら れ て い る( 荒 俣   一 九 九 三 )。 ま た、 「 亀 屋 左 京 」 の 艾 の キ ャ ラ ク タ ー に も 裃 姿 の 福 助 が 古 く か ら 使 用 さ れ て い る( 図 5 )。 福 助 の 出 で 立 ち は「 亀 屋 」 福 助 も 含 め て 裃 姿 で 正 座 と い う の が 一 般 的 で あ り、 小 幡 人 形 の「 福 助 」 に は 近 江 商 人 と の 関 係 か ら 羽 織 袴 姿 の も の が 多 い こ と か ら、 柏 原 宿 の 福 助 を 意 識 し た わ け で は な さ そ う で あ る 図 5 「亀屋左京」の艾 図 4 『木曾海道六十九次』に描かれた柏原宿亀屋

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てみたいと思う ( 2 ) 。 まず、商売繁盛のキャラクターとして広く知られる「福助」人形であるが、由来譚はいくつかある中で京都の呉 服屋で徳の厚い人物といわれる「大文字屋」主人を写し祀ったとするのが有名である。しかし、近江では中山道柏 原宿の艾屋「亀屋左京」の番頭「福助」の話も伝えられている。伊吹山麓は艾の名産地で中山道柏原には艾屋が軒 を連ねていたが、なかでも「亀屋」番頭の福助はいつも裃で身なりをただし、家訓を守って正直に艾の商いを続け た た め 店 が 大 繁 盛 し た と い う。 江 戸 時 代 後 期 の 歌 川 広 重 に よ る『 木 曾 海 道 六 十 九 次 』 柏 原 宿 に は、 「 亀 屋 」 の 店 先 に 飾 ら れ た 巨 大 な 福 助 人 形 が 描 か れ て お り( 図 4 )、 今 で も 二 代 目 に あ た る 巨 大 な「 福 助 」 人 形 が 飾 ら れ て い る( 荒 俣   一 九 九 三 )。 ま た、 「 亀 屋 左 京 」 の 艾 の キ ャ ラ ク タ ー に も 裃 姿 の 福 助 が 古 く か ら 使 用 さ れ て い る( 図 5 )。 福 助 の 出 で 立 ち は「 亀 屋 」 福 助 も 含 め て 裃 姿 で 正 座 と い う の が 一 般 的 で あ り、 小 幡 人 形 の「 福 助 」 に は 近 江 商 人 と の 関 係 か ら 羽 織 袴 姿 の も の が 多 い こ と か ら、 柏 原 宿 の 福 助 を 意 識 し た わ け で は な さ そ う で あ る 図 5 「亀屋左京」の艾 図 4 『木曾海道六十九次』に描かれた柏原宿亀屋

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が、近江商人と「福助」の浅からぬ縁を感じさせる人形となっている。 一方、近江独自の祭礼や信仰に関わる人形も多く製作されている。米原市朝妻筑摩に鎮座する筑摩神社では、毎 年 5月 3日 に 日 本 三 大 奇 祭 の 一 つ と も 称 さ れ て い る 鍋 冠 祭 が 行 わ れ て い る( 図 6 ・ 7 )。 古 く は 氏 子 の 女 性 が 付 き 合った男性の数だけ鍋釜をかぶって神輿に従うことを慣例したが、江戸時代に改められ現在では可愛い童女が狩衣 姿 で 参 列 す る。 こ の 祭 礼 の 歴 史 は 古 く、 『 伊 勢 物 語 』 第 百 二 十 段 に「 近 江 な る 筑 摩 の 祭 と く せ な む   つ れ な き 人 の 鍋 の 数 見 む 」 と 歌 わ れ て お り、 平 安 時 代 中 ご ろ に は こ の よ う な 奇 祭 が 執 り 行 わ れ て い た こ と が わ か る( 合 田   二 〇 〇 六 )。 小 幡 人 形 で は こ の 可 愛 ら し い 童 女 の「 鍋 冠 乙 女 」 が 独 自 に 製 作 さ れ て お り、 こ れ は 昭 和 の 初 め に 朝 妻 筑 摩 の 木 彫 作 家 で あ る 真 野 正 三 氏 が 原 像 を 作 成 し、 型 を お こ し て 創 作 し 納 め ら れ て い た 人 形 だ と い う( 浅 見 ほ か   二 〇 〇 四 )。 細 居 源 悟 氏 が 父 文 造 氏 よ り 聞 か さ れ た 話 に よ る と、 鍋 冠 祭 り の 乙 女 人 形 に 込 め ら れ て い る の は、 女 の 子 た ち が 周 り の 様 々 な 誘 惑 に 惑 わ さ れ ず 深 く 鍋 を 被 り、 足 元 だ け を し っ か り 見 て 真 っ 図 7 鍋冠祭の童女 図 6 朝妻筑摩神社 直ぐな人生を歩くようにとの願いであり、人形も深々と鍋を被り目は表現しないか、ほとんど見えないように作っ ているとのことであった(図 8 )。 神社の祭礼に関係する人形としては、多賀大社にまつわる人形たちも興味深い。多賀大社は湖東地域を代表する 古社で、 『新抄格勅符抄』によれば天平神護二年(七六六)に田鹿神に神封六戸が与えられており、 『延喜式』では 犬 上 郡 に「 多 何 神 社 二 坐 」 と あ る 式 内 社 で あ る。 『 古 事 記 』 で は 伊 邪 那 岐 大 神 が「 淡 海 之 多 賀 」 に 隠 れ た と あ る こ と か ら、 後 に は 祭 神 と し て 皇 祖 神 の 親 神 で あ る 伊 邪 那 岐 神 と 伊 邪 那 美 神 を 祀 る よ う に な り ( 3 ) 、 江 戸 時 代 に は「 お 伊 勢 参 ら ば お 多 賀 へ 参 れ   お 伊 勢 お 多 賀 の 子 で ご ざ る 」 と 詠 わ れ る よ う に 全 国 か ら 信 者 を 集 め る よ う に な っ た( 図 9 )。 こ の よ う に 由 緒 あ る 多 賀 大 社 の 古 例 大 祭 は「 馬 ま つ り 」 と も 呼 ば れ、 祭 礼 当 日 に 馬 上 束 帯 姿 の 馬 頭 人 と 御 使 殿 を 中 心 と し て、 行 装 を た だ し た 騎 馬 や 御 神 輿 な ど の お 渡 り が 執 り 行 わ れ る。 小 幡 人 形 で は 昭 和 四 五 年 ご ろ か ら 安 産 の お 守 り で あ る「 腹 帯 馬 」 を 製 作 し 多 賀 大 社 に 納 め て い た が( 浅 見 ほ か   二 〇 〇 四 )、 こ 図 9 多賀大社鳥居 図 8 鍋冠乙女の表情(近江商人博物館蔵)

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直ぐな人生を歩くようにとの願いであり、人形も深々と鍋を被り目は表現しないか、ほとんど見えないように作っ ているとのことであった(図 8 )。 神社の祭礼に関係する人形としては、多賀大社にまつわる人形たちも興味深い。多賀大社は湖東地域を代表する 古社で、 『新抄格勅符抄』によれば天平神護二年(七六六)に田鹿神に神封六戸が与えられており、 『延喜式』では 犬 上 郡 に「 多 何 神 社 二 坐 」 と あ る 式 内 社 で あ る。 『 古 事 記 』 で は 伊 邪 那 岐 大 神 が「 淡 海 之 多 賀 」 に 隠 れ た と あ る こ と か ら、 後 に は 祭 神 と し て 皇 祖 神 の 親 神 で あ る 伊 邪 那 岐 神 と 伊 邪 那 美 神 を 祀 る よ う に な り ( 3 ) 、 江 戸 時 代 に は「 お 伊 勢 参 ら ば お 多 賀 へ 参 れ   お 伊 勢 お 多 賀 の 子 で ご ざ る 」 と 詠 わ れ る よ う に 全 国 か ら 信 者 を 集 め る よ う に な っ た( 図 9 )。 こ の よ う に 由 緒 あ る 多 賀 大 社 の 古 例 大 祭 は「 馬 ま つ り 」 と も 呼 ば れ、 祭 礼 当 日 に 馬 上 束 帯 姿 の 馬 頭 人 と 御 使 殿 を 中 心 と し て、 行 装 を た だ し た 騎 馬 や 御 神 輿 な ど の お 渡 り が 執 り 行 わ れ る。 小 幡 人 形 で は 昭 和 四 五 年 ご ろ か ら 安 産 の お 守 り で あ る「 腹 帯 馬 」 を 製 作 し 多 賀 大 社 に 納 め て い た が( 浅 見 ほ か   二 〇 〇 四 )、 こ 図 9 多賀大社鳥居 図 8 鍋冠乙女の表情(近江商人博物館蔵)

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れらは多賀大社の古例大祭に相応しく、鮮やかな鞍飾りと清らかな白馬の色彩が対照的で美しい人形であった(図 10)。 ま た、 平 成 二 五 年 の 第 五 五 回 日 本 民 芸 公 募 展 で 優 秀 賞 を 受 賞 し た「 馬 乗 り 天 神 」 も、 細 居 源 悟 氏 の 話 に よ れ ば 多 賀 大 社 の 古 例 大 祭 で 行 装 す る 馬 頭 人 と 御 使 殿 が モ デ ル に な っ た の で は な い か と の こ と で あ る( 口 絵 写 真 63)。 御 代 参 街 道 と 中 山 道 沿 い の 結 節 点 で 製 作 さ れ る 小 幡 人 形 と、 「 馬 ま つ り 」 で 有 名 な 多 賀 大 社 と の 浅 か ら ぬ 縁 を 感 じ させる人形たちといえよう。 さらに、西国第三二番札所である観音正寺にゆかりある人形も、小幡人形で製作されている。享保一九年(一七 三 四 ) に 編 纂 さ れ た『 近 江 輿 地 志 略 』 に は、 観 音 正 寺 創 建 の 寺 伝 と し て 人 魚 伝 説 が 語 ら れ て い る。 聖 徳 太 子 が こ の 地 を 通 り か か っ た と き、 葦 原 の 中 に 人 面 で 魚 の 姿 を し た 異 形 の 人 魚 が あ ら わ れ、 自 分 は 琵 琶 湖 で 漁 業 を 生 業 と し て い た 漁 師 で あ り、 殺 生 の 業 に よ っ て 人 魚 と な っ て し ま っ た と 救 い を 求 め て き た。 太 子 が 人 魚 の た め に 伽 藍 を 建 立 し、 千 手 観 音 を 安 置 し て 菩 提 を 弔 っ た と こ ろ、 こ の 人 魚 は 聖 者 の 御 修 法 に よ っ て 昇 天 す る こ と が 図 11 観音正寺の人魚土鈴(近江商人博物館蔵) 図 10「腹帯馬」と「駆馬」(近江商人博物館蔵) できたという。この人魚伝承をモチーフとした人形と鈴(図 11)を細居文造氏が創作し、昭和四〇年ころから観音 正 寺 に 授 与 品 と し て 納 め て い た の で あ る( 浅 見 ほ か   二 〇 〇 四 )。 そ の 艶 め か し く 美 し い 姿 は 独 創 的 で も あ り、 昇 天する人魚の神々しさを感じさせる作品となっている。 以上みてきたように、小幡人形は決して「伏見人形」の代用として製作されただけではない。湖東地域の節句人 形として人々の生活の中に溶け込み、独自な郷土文化を表現してきた重要な「伝統的工芸品」なのである。その背 景には七代目細居源助から伝統を引き継いだ、細居文造氏そして源悟氏の絶え間ない工夫と努力があったことを忘 れてはならないであろう。 三   小幡人形の製法と現状 小 幡 人 形 が 他 の 多 く の 土 人 形 と 同 様 に、 あ る い は そ れ 以 上 に 伏 見 人 形 を 意 識 し て 製 作 さ れ 始 め た の は 間 違 い な く、製作技法もほとんど伏見人形と共通する。実際に小幡人形を観察すると、独特な色彩を除けば伏見人形と見ま がうものばかりである。これも小幡人形がもともと伏見人形の模倣から始まった土人形であり、現在でも多くの伏 見人形の土型と抜き型が残されていることからも判断できる。 しかし、時代の流れにしたがって土人形の製作技法にも細かいところで変化が起こっているのも事実である。こ れは決して技術的退化の方向ではなく、伝統を継承するための工夫と捉えるべきであり、このような変化は土人形 だけでなく様々な伝統工芸品でも直面する問題ともいえよう。伝統工芸品を今後も末永く次世代に継承していくた めにも、時代に即した細かい変化を記録しておくことも大事だと考えている。ここでは、現在まで継承されてきた 小幡人形の現状について、製作技法に着目して考えていきたい。 まず、先代の文造氏までの製法であるが、近江商人博物館で発行した『小幡人形』図録に掲載された製法を以下

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できたという。この人魚伝承をモチーフとした人形と鈴(図 11)を細居文造氏が創作し、昭和四〇年ころから観音 正 寺 に 授 与 品 と し て 納 め て い た の で あ る( 浅 見 ほ か   二 〇 〇 四 )。 そ の 艶 め か し く 美 し い 姿 は 独 創 的 で も あ り、 昇 天する人魚の神々しさを感じさせる作品となっている。 以上みてきたように、小幡人形は決して「伏見人形」の代用として製作されただけではない。湖東地域の節句人 形として人々の生活の中に溶け込み、独自な郷土文化を表現してきた重要な「伝統的工芸品」なのである。その背 景には七代目細居源助から伝統を引き継いだ、細居文造氏そして源悟氏の絶え間ない工夫と努力があったことを忘 れてはならないであろう。 三   小幡人形の製法と現状 小 幡 人 形 が 他 の 多 く の 土 人 形 と 同 様 に、 あ る い は そ れ 以 上 に 伏 見 人 形 を 意 識 し て 製 作 さ れ 始 め た の は 間 違 い な く、製作技法もほとんど伏見人形と共通する。実際に小幡人形を観察すると、独特な色彩を除けば伏見人形と見ま がうものばかりである。これも小幡人形がもともと伏見人形の模倣から始まった土人形であり、現在でも多くの伏 見人形の土型と抜き型が残されていることからも判断できる。 しかし、時代の流れにしたがって土人形の製作技法にも細かいところで変化が起こっているのも事実である。こ れは決して技術的退化の方向ではなく、伝統を継承するための工夫と捉えるべきであり、このような変化は土人形 だけでなく様々な伝統工芸品でも直面する問題ともいえよう。伝統工芸品を今後も末永く次世代に継承していくた めにも、時代に即した細かい変化を記録しておくことも大事だと考えている。ここでは、現在まで継承されてきた 小幡人形の現状について、製作技法に着目して考えていきたい。 まず、先代の文造氏までの製法であるが、近江商人博物館で発行した『小幡人形』図録に掲載された製法を以下

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に引用して確認しておきたい(東近江市近江商人博物館   二〇〇九) 。 採土   砂利や不純物の混らない埴土を求め採土するが、かなり以前から近江八幡市より土を取り寄せて使用して いる。同地は古くから八幡瓦の産地で知られている。 土練り   適当な湿気を含ませた粘土をよく練り上げ、更に臼に入れて杵で搗いたりして、充分な粘りが出るまで 行う。 型 押 し   よ く 練 り あ げ た 土 を 手 の ひ ら で ひ ろ げ て 延 ば し、 板 の 上 に 載 せ て 適 度 の 厚 み に す る。 ( 伏 見 な ど で は 練 棒を使って延ばすところが多いが、小幡では練棒は使用しない)それを雌型の内側に押し込み、その上に木綿布を あ て て、 て い ね い に 指 先 で 隅 々 ま で 押 し て い く。 こ れ も 現 在 の 伏 見 で は 布 を 用 い な い で、 直 接 指 押 し が な さ れ る が、かつては布押しをした作者もあったようである。 (後略) 型抜き   このようにして型押しされたものを前後合わせて型から抜き出し、合わせ目を手直しする。大型の人形 になると、前後を別々に型からはずして、固まらないうちに前後を合わせ、その合わせ目によく溶いた粘土(土の り)で補強し手直しする。 乾燥   このようにして出来上った人形素地は、よく日光にあてて充分に乾燥させる。少しでも水分が残っている と窯の中で破裂し、他の人形素地にまで被害が及ぶのである。 焼 成( 窯 だ き )  よ く 乾 燥 し た 素 地 が、 か な り た ま る と 窯 入 れ 作 業 が な さ れ る。 窯 は 素 地 窯 で、 鉄 砲 窯 と 呼 ば れ る天井のない短い円筒形をしていて、底に焚き口がある。窯詰めが終ると六〜七時間焚き続けるが、燃料は薪に豆 炭も使用している。火力は七〇〇〜八〇〇度位で、余り高温度になると素地に胡粉がよくのらない。 窯だし   このようにして焼き上った人形素地はよく冷えるのを待って窯からとり出し、素地置場で貯えられる。 彩 色   い よ い よ 彩 色 仕 上 げ で、 最 初 全 面 に 胡 粉 を か け、 そ の 上 に 顔 料 を 膠 で 溶 き な が ら て い ね い に 彩 色 さ れ る。 特別なもの以外、背面は彩色されないのが普通である。これはかつて絵具が高価なため節約したのだという。伏見 人形などでも同様で「伏見人形つらばかり」と言われた。 以上がこれまでの製作技法の概略であるが、現状では若干の合理化が進められている。以下に九代目細居源悟氏 ( 昭 和 一 四 年 一 月 二 七 日 生 ま れ ) へ の 聞 き 取 り 調 査 の 内 容 を 記 録 し て お き た い と 思 う。 話 の 内 容 と し て は 小 幡 人 形 の 昔 の 思 い 出 や 現 在 で の 製 法、 そ し て 小 幡 人 形 に 込 め ら れ た 思 い な ど を 語 っ て い た だ い た。 お 話 を 伺 っ た の は、 平 成 二 九 年 一 一 月 五 日 と 平 成 三 〇 年五月三日である。 人 形 造 り は 寂 し く な る 一 方 だ。 ど こ の 人 形 作 り の 職 人 さ ん も 同 じ こ と を 言 っ て い る。 昔 は た く さ ん の 注 文 が 入 っ て、 季 節 ご と に 夏 は 型 押 し、 冬 は 彩 色 と 多 く の 人 形 を 造 っ て い た が、 現 在 で は 注 文 も 減 っ て 干 支 物 で も あ ま り 造 り す ぎ な い よ う に、 ぼ ち ぼ ち と 製 作 を 続 け て い る。 ご 入 り 用 の か た が い れ ば、 事 前 に 連 絡 し て い た だ け れ ば と 思 う。 た だ、 心 を こ め て 型 か ら つ くるので、お客さんの手元に届くまで少し待ってもらっている。 家 系 図 に も あ る よ う に、 小 幡 人 形 の 歴 史 は と て も 古 い。 家 の 前 が 中 山 道 や け ど、 自 分 が 二 つ か 三 つ の こ ろ、 表 で 兵 隊 さ ん が 何 百 人 も 行 軍 し て い る の を 見 た こ と が あ る。 銃 を 構 え た り 大 砲 を 押 し て い る の を、 日 の 丸 の 旗 を 図 12 中山道と御代参街道の分岐の道標

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彩 色   い よ い よ 彩 色 仕 上 げ で、 最 初 全 面 に 胡 粉 を か け、 そ の 上 に 顔 料 を 膠 で 溶 き な が ら て い ね い に 彩 色 さ れ る。 特別なもの以外、背面は彩色されないのが普通である。これはかつて絵具が高価なため節約したのだという。伏見 人形などでも同様で「伏見人形つらばかり」と言われた。 以上がこれまでの製作技法の概略であるが、現状では若干の合理化が進められている。以下に九代目細居源悟氏 ( 昭 和 一 四 年 一 月 二 七 日 生 ま れ ) へ の 聞 き 取 り 調 査 の 内 容 を 記 録 し て お き た い と 思 う。 話 の 内 容 と し て は 小 幡 人 形 の 昔 の 思 い 出 や 現 在 で の 製 法、 そ し て 小 幡 人 形 に 込 め ら れ た 思 い な ど を 語 っ て い た だ い た。 お 話 を 伺 っ た の は、 平 成 二 九 年 一 一 月 五 日 と 平 成 三 〇 年五月三日である。 人 形 造 り は 寂 し く な る 一 方 だ。 ど こ の 人 形 作 り の 職 人 さ ん も 同 じ こ と を 言 っ て い る。 昔 は た く さ ん の 注 文 が 入 っ て、 季 節 ご と に 夏 は 型 押 し、 冬 は 彩 色 と 多 く の 人 形 を 造 っ て い た が、 現 在 で は 注 文 も 減 っ て 干 支 物 で も あ ま り 造 り す ぎ な い よ う に、 ぼ ち ぼ ち と 製 作 を 続 け て い る。 ご 入 り 用 の か た が い れ ば、 事 前 に 連 絡 し て い た だ け れ ば と 思 う。 た だ、 心 を こ め て 型 か ら つ くるので、お客さんの手元に届くまで少し待ってもらっている。 家 系 図 に も あ る よ う に、 小 幡 人 形 の 歴 史 は と て も 古 い。 家 の 前 が 中 山 道 や け ど、 自 分 が 二 つ か 三 つ の こ ろ、 表 で 兵 隊 さ ん が 何 百 人 も 行 軍 し て い る の を 見 た こ と が あ る。 銃 を 構 え た り 大 砲 を 押 し て い る の を、 日 の 丸 の 旗 を 図 12 中山道と御代参街道の分岐の道標

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振って見送ったのを覚えている。中山道は東海道と一緒で日本の動脈だった。昔は丁髷姿の人がたくさん通ってい たと思う。五個荘小幡町は中山道だけでなく御代参街道との起点になっており、分岐点には現在でも石碑が残って いる(図 12)。 戦中戦後の子供のころは、人形作りなんてやってる場合ではなかった。日本中が大変な時代で余裕もなく、人形 を作っても売れるものではない。父(文造)も戦争に行っていたが、帰ってきてからしばらくは勤めていた。落ち 着いて人形作りができるようになったのは、東京オリンピックが終わったころで、父が亡くなった時に新聞には人 形 作 り 一 筋 に と 立 派 に 書 か れ て い た が、 そ ん な に 楽 な も の で は な か っ た。 父 は 戦 後 に『 小 幡 土 偶 』 と い う 画 集 を 出 し て い る が、 こ れ は 戦 時 中 に 赤 紙 が 来 た と き、 も し も 戦 争 に 行 っ て 死 ん で し ま っ た ら 何 も わ か ら な く な る と い う こ と で、 父 が 図 案 を 描 き 溜 め て い た。 そ れ ら を 戦 後 に 出 版 し て も ら っ た も の だ。 裸 電 球 の 下 で、 夜 な べ し て 父 が 描 い て い る 姿 を 今 で も 覚 え て い る。 昭 和 三 九 年 あ た り か ら テ レ ビ が 普 及 し 始 め て、 地 方 の 名 産 を 紹 介 す る い ろ ん な 取 材 が 入 る よ う に な り、 土 人 形 作 り も う ま く 波 に 乗 れ た と 思 う。 昭 和 五 九 年 に は「 小 槌 乗 り 鼠 」 の 人 形 が 年 賀 切 手 の モ デ ル に な っ た と い う こ と で、 小 幡 人 形 が 滋 賀 県 だ け で な く 全 国 放 送 で も 紹 介 し て も ら え た( 図 13)。 す る と、 全 国 か ら 小 幡 人 形 を 手 に 入 れ た い と い う 注 文 が ハ ガ キ で た く さ ん 入 る よ う に な り、 注 文 に 間 に 合 わ な い く ら い 忙 し く な っ た。 テ レ ビ の ニ ュ ー ス は 新 聞 と か と は 違 っ て 凄 い 力 が あ る の で、 そ れ で 小 幡 人 形 が 全 図 13 「小槌乗り鼠」年賀切手 国に知れ渡って波に乗れた。それに加えて奥村先生(奥村寛純)など、このような土人形を研究されている方々が 情報を発信してくれたのも大きいと思う。 私は長男だったけど、父から人形作りをやれとは一言もいわれなかった。だけど、子供のころから馴染みのある 土人形を、いつかは継ぐものだと思っていた。田んぼもあるし近くの会社に勤めていたので、いつでも帰ってくる ことができた。野良仕事もあるので家に帰ってきて父の仕事をみてきたし、今日までの長い伝統を消してしまった ら小幡人形が絶えてしまうので、将来的にはやりたいと思っていたら父が亡くなり、一から自分でやらなければな ら な く な っ た。 こ れ ま で 簡 単 な 型 押 し を し た り 粘 土 の 配 合 の 仕 方 な ど も み て き た が、 実 際 に や っ て み る と 粘 土 を 捏 ね る だ け で も 大 変 難 し い。 悪 戦 苦 闘 し て 人 形 作 り を し て い た 時、 平 成 四 年 に 桃 持 猿( 図 14) を 年 賀 切 手 に と 採 用 が 決 ま っ た。 そ れ で、 九 代 目 が や っ て い る と い う こ と が、 愛 好 者 の 間 に 知 れ 渡 り 今 日 に 至 っ て い る。 桃 持 猿 の 型 は 古 く か ら 伝 わ る も の で、 伏 見 人 形 の 型 か ど う か は わ か ら な い が、 奈 良 や 京 都 の お 寺 に も み ら れ 図 15 「雲に龍」原型 図 14 「桃持猿」

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国に知れ渡って波に乗れた。それに加えて奥村先生(奥村寛純)など、このような土人形を研究されている方々が 情報を発信してくれたのも大きいと思う。 私は長男だったけど、父から人形作りをやれとは一言もいわれなかった。だけど、子供のころから馴染みのある 土人形を、いつかは継ぐものだと思っていた。田んぼもあるし近くの会社に勤めていたので、いつでも帰ってくる ことができた。野良仕事もあるので家に帰ってきて父の仕事をみてきたし、今日までの長い伝統を消してしまった ら小幡人形が絶えてしまうので、将来的にはやりたいと思っていたら父が亡くなり、一から自分でやらなければな ら な く な っ た。 こ れ ま で 簡 単 な 型 押 し を し た り 粘 土 の 配 合 の 仕 方 な ど も み て き た が、 実 際 に や っ て み る と 粘 土 を 捏 ね る だ け で も 大 変 難 し い。 悪 戦 苦 闘 し て 人 形 作 り を し て い た 時、 平 成 四 年 に 桃 持 猿( 図 14) を 年 賀 切 手 に と 採 用 が 決 ま っ た。 そ れ で、 九 代 目 が や っ て い る と い う こ と が、 愛 好 者 の 間 に 知 れ 渡 り 今 日 に 至 っ て い る。 桃 持 猿 の 型 は 古 く か ら 伝 わ る も の で、 伏 見 人 形 の 型 か ど う か は わ か ら な い が、 奈 良 や 京 都 の お 寺 に も み ら れ 図 15 「雲に龍」原型 図 14 「桃持猿」

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るようでルーツは中国にあると思う。 小幡人形の型は創作物や伏見伝来・抜型のものも含めて、すべて土型を使っている。石膏型は使っていない。数 えきれないほどの土型が残っており、原型もある。創作物の「雲に龍」 (図 15)は豊郷町の瓦職人に原型製作を依頼 したことがわかっており、他にも「花咲爺」 ・「お福と福助の憩い」 ・「三代虎」などの原形があり七代源助以前のも のと伝えている。これらは小幡人形の宝だと思う。注文に応じて土型を探してくるが、探し出すのが大変な作業で ある。時には表面しか残されていない土型による大型人形の依頼もくるが、後ろがないことを断ったうえで創意工 夫 し て 造 っ た り も し て い る。 粘 土 は 最 初、 近 江 八 幡 か ら 父 が 取 り 寄 せ た 粘 土 を 使 っ て い た が、 土 練 り が 大 変 で 継 承 し た 当 時 は 腰 痛 に 悩 ま さ れ た。 現 在 は 信 楽 に 大 き な 粘 土 屋 さ ん が あ る の で、 そ こ に 粘 土 の 状 態 な ど を 伝 え て 買 い に 行 っ て いる。 型 押 し は 粘 土 を 広 げ て の ば し、 適 度 な 厚 み に し て 土 型 に 押 し 込 み、 木 綿 布 で 丁 寧 に 隅 々 ま で 押 し て い く。 土 型 に は あ ら か じ め キ ラ 粉 を ま ぶ し て お き、 製 品 が 土 型 か 図 17 工房裏の近江鉄道の土手 図 16 作業場の細居源悟氏 ら離れやすくする。型押しに木綿布を使うのは、伏見でもあまりみられず珍しいという。片面ずつ型押ししておく と、土型なので二時間くらいで型が水を吸って土人形を取り出すことができる。そして、取り出した表と裏の人形 を、水で溶かした粘土を土のりとして接合して仕上げる。足など一つの土型でできないものは、別に小さな土型で 製作して土のりで接合したりする。型押しのやりかたは昔から変わっていない(図 16)。 型 押 し し た 後 は、 家 の 脇 を 走 っ て い る 近 江 鉄 道 の 土 手 に お い て よ く 自 然 乾 燥 し( 図 17)、 小 さ な 灯 油 窯 で 焼 成 し ている。昔は作業小屋の横に鉄砲窯とよばれる素焼き窯があって父はこの窯で焼成していたが、火の加減がとても 難しい。引き継いだ当初は知り合いの窯で素焼きを頼んでいたが、やはり自分で焼成するのが良いので小さな灯油 窯 を 購 入 し た。 そ れ で も 火 加 減 が 難 し く、 と き ど き 人 形 が は ぜ て だ め に な っ た り す る。 鉄 砲 窯 は 平 成 二 二 年 ま で 残っていたが、作業小屋の改築のときに取り払ってしまって今はない。 焼きあがった人形は、下地の胡粉を塗ったあとに彩色作業となる。小幡人形の色彩は昔から中間色のぼやかした 色がなく鮮やかなのが特徴で、原色だけど嫌らしさがない。顔料については父は擂粉木で作っていたが、今ではと いだ顔料を買って好きな色を調合して使っている。また、九代目の作品とわかるように、彩色後に少しラメを振り かけて仕上げている。人形作りの彩色で一番難しいのは、やはり顔だ。お客さんは表情が私に似ているとよく話さ れるが、顔の表情を描くときが一番緊張する。眉一本の描きかたで人形が生きたり、死んでしまったりする。 九 代 目 を 継 い だ 最 初 は 問 い 合 わ せ が 週 に 二 ・ 三 本 あ り、 そ れ に 返 事 を 書 い た り、 注 文 に 応 じ て 型 を み て い た だ い て作るなど忙しかったが、四〜五年前から注文が激減している。土人形のような伝統的な産業は地元の後援がとて も大事だと思う。平成二四年三月二八日には東近江市の無形文化財に指定され、先日の平成二九年一一月三日には 伝統工芸品の技術継承者として表彰状をいただいた。滋賀県は早く伝統工芸品に指定してくれたが、ようやく地元 でも評価していただいたので、これを機に広く小幡人形をアピールしてもらいたい。技術継承も後押しの制度がな

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ら離れやすくする。型押しに木綿布を使うのは、伏見でもあまりみられず珍しいという。片面ずつ型押ししておく と、土型なので二時間くらいで型が水を吸って土人形を取り出すことができる。そして、取り出した表と裏の人形 を、水で溶かした粘土を土のりとして接合して仕上げる。足など一つの土型でできないものは、別に小さな土型で 製作して土のりで接合したりする。型押しのやりかたは昔から変わっていない(図 16)。 型 押 し し た 後 は、 家 の 脇 を 走 っ て い る 近 江 鉄 道 の 土 手 に お い て よ く 自 然 乾 燥 し( 図 17)、 小 さ な 灯 油 窯 で 焼 成 し ている。昔は作業小屋の横に鉄砲窯とよばれる素焼き窯があって父はこの窯で焼成していたが、火の加減がとても 難しい。引き継いだ当初は知り合いの窯で素焼きを頼んでいたが、やはり自分で焼成するのが良いので小さな灯油 窯 を 購 入 し た。 そ れ で も 火 加 減 が 難 し く、 と き ど き 人 形 が は ぜ て だ め に な っ た り す る。 鉄 砲 窯 は 平 成 二 二 年 ま で 残っていたが、作業小屋の改築のときに取り払ってしまって今はない。 焼きあがった人形は、下地の胡粉を塗ったあとに彩色作業となる。小幡人形の色彩は昔から中間色のぼやかした 色がなく鮮やかなのが特徴で、原色だけど嫌らしさがない。顔料については父は擂粉木で作っていたが、今ではと いだ顔料を買って好きな色を調合して使っている。また、九代目の作品とわかるように、彩色後に少しラメを振り かけて仕上げている。人形作りの彩色で一番難しいのは、やはり顔だ。お客さんは表情が私に似ているとよく話さ れるが、顔の表情を描くときが一番緊張する。眉一本の描きかたで人形が生きたり、死んでしまったりする。 九 代 目 を 継 い だ 最 初 は 問 い 合 わ せ が 週 に 二 ・ 三 本 あ り、 そ れ に 返 事 を 書 い た り、 注 文 に 応 じ て 型 を み て い た だ い て作るなど忙しかったが、四〜五年前から注文が激減している。土人形のような伝統的な産業は地元の後援がとて も大事だと思う。平成二四年三月二八日には東近江市の無形文化財に指定され、先日の平成二九年一一月三日には 伝統工芸品の技術継承者として表彰状をいただいた。滋賀県は早く伝統工芸品に指定してくれたが、ようやく地元 でも評価していただいたので、これを機に広く小幡人形をアピールしてもらいたい。技術継承も後押しの制度がな

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いと、若い人たちが継承できない。実際にこれだけでは食べていけないのが現実だ。このような伝統は一度途絶え ると、再興はとても難しいので、国や地方の行政が技術継承について真剣に取り組んでもらいたい。 土 人 形 は 時 代 の 風 俗 を 示 し て い る の で と て も 面 白 く、 様 々 な 昔 の こ と を 知 る こ と が で き る。 た と え ば、 「 野 球 学 生 」 の 人 形 は 袴 姿 の 学 生 が ボ ー ル と バ ッ ト を 持 っ て お り、 野 球 が 日 本 に 入 っ て き た 当 時 の 様 子 を 表 し て い る。 ま た、 「軍人と唐人」の人形(図 18)は、軍人が中国人を押さえつけており、戦争当時の生々しい歴史を伝えている。 こ の よ う な 風 俗 物 が 売 れ た の だ ろ う が、 ま さ に 人 形 は 歴 史 や 風 俗 を 語 る 重 要 な 資 料 に な る。 注 文 の 人 形 だ け で な く、 自 分 で 面 白 い 型 を 探 し 出 し て は 作 っ て い る。 誰 か が 作 っ て お か な い と、 こ の よ う な 人 形 も 忘 れ 去 られてしまう。 さ ら に、 風 俗 物 だ け で な く、 節 句 人 形 や 信 仰・ 説 話 物 も 面 白 い。 五 月 人 形 の「 松 曳 き 金 時 」 や「 桃 太 郎 」 な ど は、 男 の 子 に 力 強 く 育 っ て ほ し い と い う 親 の 思 い が 込 め ら れ て い る し、 そ の 意 味 を 子 供 た ち に 伝 え る こ と が 重 要 だ と 思 う。 聞 い た 時 に は わ か ら な く て も、 大 人 に な っ て 思 い 出 し て そ の 図 19 「筍掘り」と「甕割り童子」 図 18 「軍人と唐人」 意味に気付くことが大事なのだ。また、二十四孝の「筍掘り」や「カメ割り童子」 ・「養老の滝」など、親孝行にま つわる話や人の命の大切さを題材とした土人形も、その物語を親から子へそして孫へ語り継ぐことで、生きる意味 を 伝 え る 奥 深 い も の と な る( 図 19)。 土 人 形 に は 素 朴 な が ら ス ト ー リ ー が あ る。 技 術 の 継 承 も 大 事 だ が 土 人 形 に 込 められたストーリーを語り継ぐことが重要だと思っている。 ナイロン系やプラスチック系の玩具は大量生産でき安価であるが、一つひとつの手造り作品の一品は作り手の心 が入ったものだと思う。私はご希望により作品裏にたとえば子供の名前などを刻んだりして、世界中の一品と喜ば れている。平成から新たな年号に替わる今、日本の伝統文化や産業を守る法案を造っておくチャンスだと思う。 細居源悟氏のお話は、伝統工芸品としての小幡人形を継承する強い意志と、土人形に触れることで始まる親子の 対 話、 そ し て 世 代 を 超 え て 引 き 継 が れ る 心 の 教 育 へ の 篤 い 思 い に 溢 れ て お り、 伺 っ て い て 胸 を 打 つ 思 い で あ っ た。 製法では採土や焼成窯、絵具など確かに現状に即した変化が認められる。しかし、彩色におけるラメの使用など独 自の工夫を取り入れることで小幡人形に新しい息吹が育まれており、何よりも人形造りに込められた熱い思いは先 代からの伝統を越えて見事に引き継がれていると思う。 源悟氏が語るように、現在は何でも安易に手に入る時代であるが、便利さの中で失われつつある人と人との心の 交感こそが今まさに大事なのではないだろうか。現代人の心の喪失が懸念されて久しいが、伝統工芸品は人が丹精 をこめて作るものだからこそ、触れる人々の心を通いあわせることができるのであり、今まさにその価値を見直す 必要があると感じるのである。

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意味に気付くことが大事なのだ。また、二十四孝の「筍掘り」や「カメ割り童子」 ・「養老の滝」など、親孝行にま つわる話や人の命の大切さを題材とした土人形も、その物語を親から子へそして孫へ語り継ぐことで、生きる意味 を 伝 え る 奥 深 い も の と な る( 図 19)。 土 人 形 に は 素 朴 な が ら ス ト ー リ ー が あ る。 技 術 の 継 承 も 大 事 だ が 土 人 形 に 込 められたストーリーを語り継ぐことが重要だと思っている。 ナイロン系やプラスチック系の玩具は大量生産でき安価であるが、一つひとつの手造り作品の一品は作り手の心 が入ったものだと思う。私はご希望により作品裏にたとえば子供の名前などを刻んだりして、世界中の一品と喜ば れている。平成から新たな年号に替わる今、日本の伝統文化や産業を守る法案を造っておくチャンスだと思う。 細居源悟氏のお話は、伝統工芸品としての小幡人形を継承する強い意志と、土人形に触れることで始まる親子の 対 話、 そ し て 世 代 を 超 え て 引 き 継 が れ る 心 の 教 育 へ の 篤 い 思 い に 溢 れ て お り、 伺 っ て い て 胸 を 打 つ 思 い で あ っ た。 製法では採土や焼成窯、絵具など確かに現状に即した変化が認められる。しかし、彩色におけるラメの使用など独 自の工夫を取り入れることで小幡人形に新しい息吹が育まれており、何よりも人形造りに込められた熱い思いは先 代からの伝統を越えて見事に引き継がれていると思う。 源悟氏が語るように、現在は何でも安易に手に入る時代であるが、便利さの中で失われつつある人と人との心の 交感こそが今まさに大事なのではないだろうか。現代人の心の喪失が懸念されて久しいが、伝統工芸品は人が丹精 をこめて作るものだからこそ、触れる人々の心を通いあわせることができるのであり、今まさにその価値を見直す 必要があると感じるのである。

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四   小幡人形と千体地蔵 今 回、 小 幡 人 形 を 調 べ ま わ る こ と で、 こ の 地 域 に 小 幡 人 形 の 地 蔵 尊 を 祀 っ た 千 体 地 蔵 が 多 く あ る こ と が わ か っ た。 こ れ ら の 地 蔵 尊 に は 江 戸 時 代 後 期 に 遡 る も の が 多 く 認 め ら れ、 小 幡 人 形 の 系 譜 を 考 え る う え で 重 要 な 資 料 と なっている。最後に、小幡人形を祀る千体地蔵について紹介しておきたい。 ま ず は、 地 元 の 五 個 荘 に 残 さ れ た 西 照 寺 の 千 体 地 蔵 で あ る。 西 照 寺 は 東 近 江 市 五 個 荘 五 位 田 町 に あ る 延 宝 八 年 ( 一 六 八 〇 ) 開 基 の 浄 土 宗 寺 院 で、 元 禄 一 六 年( 一 七 〇 三 ) に 現 在 地 に 移 転 し た。 境 内 に 明 和 元 年( 一 七 六 四 ) に 建 立 さ れ た 地 蔵 堂 が あ り、 天 保 一 一 年( 一 八 四 〇 ) に 改 築 さ れ た と い う が、 現 在 の 堂 は 昭 和 五 〇 年 ( 一 九 七 五 ) に 再 建 さ れ た も の で ある(図 20)。 堂 内 に は 千 体 地 蔵 と し て 二 〇 〇 体 あ ま り の 土 人 形 が 残 さ れ て い る ( 図 21) が、 古 い 大 地 蔵 像「 お ぼ と け 」 の 背 面 に は 供 養 さ れ た 子 供 の 戒 名 が 記 さ れ て お り、 同 時 期 に 製 作 さ れ た と 考 え ら れ る 小 地 蔵 「 こ ぼ と け 」 に 天 保 三 年 ( 一 八 三 二 ) や 嘉 永 七 年 図 21 千体地蔵細部 図 20 西照寺千体地蔵堂 ( 一 八 五 四 ) の 墨 書 が 認 め ら れ る。 寺 伝 で は こ れ ら 江 戸 時 代 後 期 の 地 蔵 尊 は、 細 居 家 の 二 代 七 之 助 あ る い は 三 代 五 左衛門の作と伝えるが、時期的には『小幡村往還筋商人名前帳』に「土人形小売」を行っていた四代源助のものと 考 え ら れ る。 な お、 昭 和 六 二 年 に は 八 代 目 細 居 文 造 氏 が、 「 お ぼ と け 」 五 体 と「 こ ぼ と け 」 五 体 を 製 作 し 奉 納 し て おり、小幡人形と縁の深い地蔵尊であることは間違いない。地蔵尊の参拝を快く承諾していただいた住職の堀立瑛 氏のお話によれば、毎月二三日におばあさんたち女性が集まって地蔵さんをお祀りしているとのことである。 また、近江八幡市安土町東老蘇の福生寺にも、江戸時代に遡る土人形の千体地蔵尊が残されている。東老蘇集落 の 北 側 に 広 が る 老 蘇 森 は 平 安 時 代 よ り 和 歌 に 詠 わ れ た 名 所 で、 そ の 南 に 中 山 道 が 通 る が、 文 化 三 年 ( 一 八 〇 六 ) に 描 か れ た『 中 山 道 分 間 延 絵 図 』 に よ る と、 中 山 道 の 轟 川 に か か る 橋 の た も と に 千 体 地 蔵 を ま つ る 地 蔵 堂 が 建 て ら れ て い た。 そ の 後、 明 治 時 代 に な り 轟 川 の 改 修 と 轟 橋 の 架 け 替 え 工 事 に よ っ て 福 生 寺 に 移 築 さ れ た と い う。 福 生 寺 は 天 正 一 六 年( 一 五 八 八 ) 開 基 と 伝 え る 浄 土 宗 寺 院 で、 本 堂 は 明 和 年 間 の 火 災 後 に 代 官 根 図 23 福生寺千体地蔵細部 図 22 福生寺本堂

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( 一 八 五 四 ) の 墨 書 が 認 め ら れ る。 寺 伝 で は こ れ ら 江 戸 時 代 後 期 の 地 蔵 尊 は、 細 居 家 の 二 代 七 之 助 あ る い は 三 代 五 左衛門の作と伝えるが、時期的には『小幡村往還筋商人名前帳』に「土人形小売」を行っていた四代源助のものと 考 え ら れ る。 な お、 昭 和 六 二 年 に は 八 代 目 細 居 文 造 氏 が、 「 お ぼ と け 」 五 体 と「 こ ぼ と け 」 五 体 を 製 作 し 奉 納 し て おり、小幡人形と縁の深い地蔵尊であることは間違いない。地蔵尊の参拝を快く承諾していただいた住職の堀立瑛 氏のお話によれば、毎月二三日におばあさんたち女性が集まって地蔵さんをお祀りしているとのことである。 また、近江八幡市安土町東老蘇の福生寺にも、江戸時代に遡る土人形の千体地蔵尊が残されている。東老蘇集落 の 北 側 に 広 が る 老 蘇 森 は 平 安 時 代 よ り 和 歌 に 詠 わ れ た 名 所 で、 そ の 南 に 中 山 道 が 通 る が、 文 化 三 年 ( 一 八 〇 六 ) に 描 か れ た『 中 山 道 分 間 延 絵 図 』 に よ る と、 中 山 道 の 轟 川 に か か る 橋 の た も と に 千 体 地 蔵 を ま つ る 地 蔵 堂 が 建 て ら れ て い た。 そ の 後、 明 治 時 代 に な り 轟 川 の 改 修 と 轟 橋 の 架 け 替 え 工 事 に よ っ て 福 生 寺 に 移 築 さ れ た と い う。 福 生 寺 は 天 正 一 六 年( 一 五 八 八 ) 開 基 と 伝 え る 浄 土 宗 寺 院 で、 本 堂 は 明 和 年 間 の 火 災 後 に 代 官 根 図 23 福生寺千体地蔵細部 図 22 福生寺本堂

図 1  五個荘大城神社石鳥居る細居家の伝えによれば、初代の細居安兵衛は元来、五個荘と京・大坂の商人を結ぶ町飛脚を生業にしていたという。五個荘と京との行程は片道二日で、頻繁な往来には体力的な限界があるのに加え、道中の追剥などの危険も伴った。京では大坂との通商の拠点として伏見が重視されており、安兵衛も伏見を何度も訪れ伏見人形の存在を知ったようである。時に享保年間(一七一六〜一七三五)のころで、天下も大平となり、節句人形として伏見人形が広く各地に売れ始めていた。伏見人形の近江への販路拡大を見込んで、安兵衛は飛脚
図 2  「忠臣蔵」型銘文
図 2  「忠臣蔵」型銘文
図 5  「亀屋左京」の艾
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