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ウィリアム・ペティの経済思想 : 研究序説

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ウィリアム・ペティの経済思想 : 研究序説

著者

大倉 正雄

雑誌名

経済学論究

67

2

ページ

23-51

発行年

2013-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/11314

(2)

ウィリアム・ペティの経済思想

研究序説

William Petty’s Economic Thought:

A Prologue

大 倉 正 雄  

William Petty was valued highly as ‘the founder of political economy’ by Karl Marx. Although Marx’s admiration had great influence on the early research of Petty’s economic thought, its worthiness is disputable. Recently new interpretations of his ideas have been given by several researchers, but most of them are defective and oppose each other considerably. An alternative interpretation is required now. To paint an accurate and vivid portrait of Petty, it is necessary to adopt an appropriate method of approaching his economic science.

Masao Okura

  JEL:B11

キーワード:ペティ、経済学の創始者、ウィッグ史観、ジョンソン、ハチスン Keywords:W. Petty, founder of political economy, Whig interpretation of

history, E. Johnson, T. Hutchison

はじめに

ウィリアム・ペティ(Sir William Petty, 1623-87)といえば、経済学に造

詣が深い人ならば、「経済学の父」という言葉を想い起こすであろう。彼は、

あの『資本論』を書いたマルクスにより「イギリスの経済学の父」(Vater der englischen National¨okonomie)と呼ばれたからである1)。ペティは実際のと 1) Vgl. Karl Marx, Zur Kritik der Politischen Oekonomie, Berlin, 1859, in Karl

Marx-Friedrich Engels Werke, Berlin: Dietz Verlag, Bd. 13, 1962, S.39. カール・

マルクス(杉本俊朗訳)『経済学批判』(大内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』

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ころ、そのような尊称で呼ばれるに相応しい人物であると思える。彼が経済学 の形成にさいして果たした役割と貢献は、きわめて大きいからである。経済学 の歴史をケネーやスミスが現れた18世紀の後半から記述し、それ以前のほぼ 150年にも及ぶ斯学の歩みを「前史」として顧みないような文献を別とすれば、 ペティの名は経済学の歴史を綴った書物においてたいてい登場する。しかも、 彼の学問的営為はそのような書物において、斯学の夜明けを告げた曙光の如き ものとして、高く評価されている。彼の経済学はまだ政策論の域を十分には脱 しておらず、議論の内容は粗雑で断片的であるけれども、それがこの新興科学 の形成の端緒を開く役割を果たしたことは、確かだからである。 しかしながらペティは、人々によって広く敬愛されるような人物ではないで あろう。確かに、ペティの優れた才能を称えた記述は多くある。彼は1647年 にサミュエル・ハートリブのサークルに加わったときに、ハートリブによりロ バート・ボイルに次のように紹介された。「24歳。ラテン語とギリシア語の他 にフランス語を完全に修得し、他の俗語にも熟達。稀にみる厳格な解剖学者。 数学と機械学とのすべての学識において傑出2)」。また、サミュエル・ピープ スはその1664年1月27日付の日記において、「ひじょうに筋道の立った会話 をする人で、考えているすべてのことを、彼ほどにきわめて明瞭かつ明確に 話せる人は稀である3)」と、ペティを評している。また、ジョン・イーヴリン はその1675年3月22日付の日記において、ペティに出会うまで「これほど の天才は他に知らなかった4)」と記している。さらに伝記作家ジョン・オーブ リーは、その『名士列伝』において次のように記している。「ペティは、賞讃 に値する、創意に富む頭脳と実践的な才能とをもっている人物である」。「彼は ひじょうに立派で、学識のある人物である。また、最高の栄誉ある地位に相応

2) Lord Edmond Fitzmaurice, The Life of Sir William Petty 1623-1687, London, 1895, rpt. London: Routledge/ Thoemmes Press, 1997, p.12.

3) Samuel Pepys, The Diary of Samuel Pepys, ed by R. Latham and W. Matthews, Berkley and Los Angels: Univ. of Caifornia Press, 1970-72, Vol. V, p.27. 臼田昭訳 『サミュエル・ピープスの日記』国文社、1987-2003 年、第 5 巻、43 頁。

4) John Evelyn, Diary and Correspondence of John Evelyn, F.R.S., ed. by W. Bray, London: George Routlegde, ?, p.346.

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しい、並外れて大きな実用的才覚ばかりか、そのような地位に対する廉恥心を ももっている5)、と。 ところがペティは、このような「経済学の父」という名に相応しい讃辞とは 裏腹に、実利主義者とかご都合主義者ともいって然るべき世俗的な相貌をもっ た人物でもあったようである。幾つかの逸話は、彼が人間性の疑われるような 性格の持ち主であったことをさえ伝えている。C・ウェブスターの示唆すると ころによれば、ペティがハートリブ・サークルに加わったのは、ボイルのよう にハートリブの禁欲的博愛主義の運動に共感したからではなく、立身出世とい う自分自身の世俗的な願望を叶えたいという、ただそれだけの理由によってで あった6)。松川七郎は、ペティが節操のないご都合主義的な性格を帯びた人物 であったことを、次のように伝えている。彼は1651年にオックスフォード大 学教授に就任したが、クロムウェルによりアイルランド派遣軍の軍医監に任命 されたその同じ年のうちに、教授職を退いた。彼がこのようにクロムウェルの 要請に即座に応じた理由は、実験や観察を重んじるベーコン主義者として自分 の学識をアイルランドで実践してみたかったからである。しかしそれ以上に大 きな理由は、教授職を捨てても社会的名声と財産を手に入れたかったからであ る、と7)。ペティの人間性に疑いを挟んだのは、このような後世の研究者だけ ではない。名誉革命期の政治算術家チャールズ・ダヴナントはその『公収入・ 交易論』(1698年)において、ペティが国王チャールズ二世に諂うために、イ ギリスの国力の大きさを実際よりも高く見せるように、意図的に偽って算定し たことを、知らせている8)。ペティのこのような世俗的な相貌は、マルクスに よっても伝えられている。マルクスは毀誉相半ばしながら、ペティを経済学の

5) John Aubrey, Aubrey’s Brief Lives, ed. by O. L. Dick, London: Secker & Warburg, 1949, rpt. 1958, pp.240-1.

6) Cf. Charles Webster ed., Samuel Hartrib and the Advancement of Learning, Cambridge: Cambridge Univ. Press, 1970, rpt. 2010, Introduction, p.39.

7) 松川七郎『ウィリアム・ペティ』(増補版)岩波書店、1967 年、第 3 章、参照。

8) Cf. Charles Davenant, Discourses on the Publick Revenues, and on the Trade of

England, London, 1698, Discourse Ⅰ, in Sir Charles Whitworth coll. and rev., The Political and Commercial Works of that Celebrated Writer Charles D’Avenant,

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創始者として評価したその『経済学批判』において、次のように述べている。 ペティは「まったく浮薄な一外科軍医であって、クロムウェルの庇護のもとに アイルランドで略奪する一方で、またチャールズ二世に取り入って略奪に必要 な従男爵の称号をかちえるのを憚らなかったほどである9)」、と。 ペティが表向きの秀麗な画像とは異なる、もう一つ別の顔を内に隠しもって いたことは、どうやら真実のようである。とはいえ念のためにいっておけば、 ペティが人間性に悖る忌むべき性格の持ち主であったからといって、そのこと は彼の著作や生涯を研究することの意義を少しも弱めるものではない。学史研 究の対象となる人物が、宗教的な信仰の対象となる人物のように清廉潔白でな ければならないという理由は、まったくないからである。また、或る人物の学 問的営為と成果を検討する意義があるかどうかという判断は、その人物の人格 や人間性とは直接的な関係をもたない、それらとは次元が異なる基準によって 下されるべきだからである。マルクスは、経済学の誕生がペティによって告げ られたことを示唆しながら、「経済学が独立の科学として分離した最初の形態 である政治算術10)」と述べている。17世紀の解剖学者が当の経済的分析方法 を考案することにより、やがて18世紀に開花することになる新しい学問の芽 を生みだした、というのである。このようなマルクスの解釈は妥当であるの か。妥当であるとすれば(妥当でないとすれば)、それはいかなる理由によっ てであるのか。これが新しい科学の誕生を告げるものであったとすれば、それ が生みだされたときの様相は、どのようであったのか。そのような事柄を検討 してみることの意義は、十分にあると思える。

第 1 章 研究史の回顧

マルクスは『経済学批判』第1章の「商品分析の史的考察」の箇所で、「ペ ティは、労働の創造力が自然によって制約されているということについて思い 違いをすることなしに、使用価値を労働に分解している。……素材的富の源泉 についてのこの見解は……彼を導いて、経済学が独立の科学として分離した最 初の形態である・政・治・算・術(politischen Arithmetik)に到達させた11)」、と述べ 9) Marx, a. a. O., S.39. 邦訳、38 頁。 10) Ebenda. 邦訳、36 頁。 11) Ebenda. 同上。

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ている。そしてこの叙述に付した注で、ペティを「経済学の父」と呼んでいる。 ペティが労働価値説を唱え、その命題に則して商品価値の分析をおこなったこ と、また彼が「政治算術」という経済分析方法を考案したことに着目して、こ のように呼んでいるのである。20世紀におけるペティ研究は、このマルクス によるペティの高い評価から大きな影響を受けながら始められたといえる。そ の草創期の研究は伝記的研究を別とすれば、マルクスの「経済学の父」という 評価によってほぼ全面的に方向づけられ、その研究のほとんどは、彼が注目し た二つの点のどちらかに焦点を合わせて進められた、といえる。 20世紀に入って、ペティの労働価値説に関心を寄せた最初の学史家は、H・ シューアルである。彼はスミス以前の価値論の歴史を、古代ギリシアにまで って顧みたその書物において、ペティの業績に注目しながら、「経済科学の ための前進は、17世紀の経験主義の著作家の仕事がなかったならば、不可能 であったであろう」と述べている。労働が富を生みだす源泉であるというペ ティの見解は、18世紀に「新しい経済学」が形成されるにさいして、大いに 貢献したというのである12)。またM・ベアーは、ペティが古来の効用価値説 に代わって、労働価値説という新しい学説を編みだしたことに注目している。 ベアーは、「労働が農・工業製品の価値の源泉であり尺度である」という原理 を最初に確立したという理由により、ペティを「イギリス古典派経済学の創 始者」と呼んでいる13) R・ミークは、ペティの価値論をもっと詳細に分析し て、それが「あと後に続くかなり多くの仕事の出発点をなしている」ことを、明ら かにしている。「商品の交換価値は、それを生産するのに必要な労働量によっ て決まる」という見解を表明することにより、ペティは古典派の立場に接近し

12) Cf. Hannan R. Sewall, The Theory of Value before Adam Smith, New York: Macmillan, 1901, rpt. New York: A. M. Kelley, 1968, p.69. シューアル(加藤一

夫訳)『価値論前史 アダム・スミス以前 』未来社、1972 年,90 頁。なお、ペティについ

ての最初の個別研究は、おそらく Wilson L. Bevan, Sir William Petty: A

Disserta-tion presented to the Faculty of Political Science of the University of Munich,

Ganterburg, 1893 である。

13) Cf. Max Beer, Early British Economics from the XIIIth to the Middle of the

XVIIIth Century, London: George Allen & Unwin, 1938, rpt. New York: A. M.

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たと指摘している14)。その価値論は未熟であるとしても、学史的意義は大き いというのである。またわが国では、渡辺輝雄がマルクスの解釈に依拠しなが ら、ペティの価値論を体系的かつ綿密に検討している。そこでは、富は生産物 一般であり、商品価値の大きさはその商品の生産に要する労働時間によって決 まるという古典的見解を、ペティが最初に表明したことが、明らかにされてい る。またそのような理由により、彼を「経済学の創始者」と呼んで然るべきで ある、と述べられている15) ペティの「政治算術」は、彼の価値論ほどには後世の経済学に大きな影響 を与えなかった。また、この経済的分析方法は、「私は政治算術をあまり信用 しない16)」というスミスの素っ気ないひとこと一 言が示しているように、『国富論』に よっては受容されなかった。この分析方法はグレゴリ・キング、C・ダヴナン ト、アーサー・ヤング、ジョージ・チャーマーズなど比較的多くの人物によっ て継承されたけれども、おそらくは18世紀末まで余命を保っているにすぎな い17)。とはいえ、この分析が「経済的思索の萌芽18)」として経済学の形成に 貢献したことは確かであり、幾人かの学史家はその意義を認めている。ドイツ 歴史学派のW・ロッシャーは、国力の「筋肉と神経」を数字にもとづいて正確 に把握しようとする「比較統計」であり、「歴史の流れの横断面」を描写するこ とを可能にする方法である、と賞讃している。もっともロッシャーがこのよう

14) Cf. Ronald L. Meek, Studies in the Labour Theory of Value, London: Lawrence & Wishart, 1956, p.35. ミーク(水田洋・宮本義男訳)『労働価値論史研究』日本評論社、 1957 年、33 頁、参照。

15) 渡辺輝雄『創設者の経済学』未来社、1961 年(『渡辺輝雄経済学史著作集』第 1 巻、日本経済

評論社、2000 年、所収)、第 1 章、参照。

16) Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, London, 1776, in The Glasgow Edition of the Works and Correspondence of

Adam Smith, Vol. I, ed. by R. H. Campbell and A. S. Skinner, Oxford: Oxford

Univ. Press, 1976, p. 534. 水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論』(3)、岩波書店、2000 年、66 頁。

17) Cf. Jacob H. Hollander, “The Dawn of a Science”, in Adam Smith, 1776-1926, 1928, rpt., New York: A. M. Kelley, 1966.

18) R. H. Tawney, Religion and the Rise of Capitalism: A Historical Study, 1922/26, rpt. Harmondsworth, Middlesex: Penguin Books, 1938, rpt. 1980, p.189. トーニー (出口勇蔵・越智武臣訳)『宗教と資本主義の興隆』岩波書店、1956 年、36 頁。

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に賞讃したのは、『経済学批判』よりも前に刊行された書物においてであった から、その賞讃はマルクスの評価からの影響によるものではない19) J・シュ ンぺーターは、「数量的事実」に即して推理を働かせながら、一般的命題を導 きだそうとする精巧な手法であると、高く評価している。それは統計的手法の 発達に「決定的な衝撃」を与えて、経済科学の進展を著しく促したというので ある20)W・レトウィンは、ペティがベーコン主義から影響を受けていたこ とを視野に入れながら、当の算術を入念に検討している。そしてペティがこの 科学的分析方法を考案し、その「新しい科学」にもとづいて獲得した知識を、 実践的な領域において応用したことの意義を強調している。レトウィンによれ ば、ペティは1750年以前における最も優れた経済学者であり、「近代的経済学 の創始者の一人」である21)

第 2 章 研究方法の問題

草創期とそれに続くほぼ半世紀間とにおけるペティ研究に見られる、二つの 主な潮流は、以上のとおりである。これらのうち第1の価値論に焦点を当てた 研究について、少し検討を加えておきたい。このペティの労働価値説に関心を 寄せた学史家がおこなった研究は、接近方法の見地から見れば、概ね杉本栄一 が分類した経済学史の書物における三つの型のうちの第2のそれの相応する ものである、といえる。その理由はこうである。その 第2の型とは、「著者が 唯一の正しい理論と考える立場に立ち、過去の経済学史は、この唯一の真理に 向かって自己展開してきたものである、とみる型である22)。ここで紹介した

19) Vgl. Wilhelm Roscher, Zur Geschichte der englischen Volkswirtschatslehre im

sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert, Leipzig, 1851, SS.71-2. [原著は未見]

ロッシャー(杉本栄一訳)『英国経済学史論 一六・一七両世紀に於ける 』同文館、1929 年、

152-3 頁、参照。

20) Cf. Joseph A. Schumpeter, History of Economic Analysis, New York: Oxford Univ. Press, 1954, rpt. 1976, pp.210-1. シュンペーター(東畑精一・福岡正夫訳)『経済 分析の歴史』(上)岩波書店、2005 年、211-2 頁、参照。

21) Cf. William Letwin, The Origins of Scientific Economics: English Economic

Thought 1660-1776, London: Methuen, 1963, Ch.5.

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ペティの研究者は、もとより経済学の通史を書いているわけではない。けれど も、彼らは総じてマルクスの剰余価値学説に注目し、その学説を重視する立場 から、ペティの労働価値説にもとづく素朴で断片的な経済分析が、スミスの同 じ形態の精緻で体系的な分析に発展した、と理解している。ここでは剰余価値 学説を学史分析の基準としながら、ペティの商品価値分析が 『国富論』の 分析に先立って その学説の先鞭をつけたという理由により、高く評価され ている。したがって、ペティの価値論についての研究は、 方法的には第2の 型にもとづいておこなわれたといえる。このような接近方法によれば、斯学に おける理論・思想の発達過程や継承関係が、明瞭かつ体系的に把握されるかも しれない。学史家が正しいと考える「唯一の理論から遠いもの……を比較的未 発達な理論または夾雑物の多い理論とみなし……[これに比較的近い理論]を 比較的進歩した理論または純粋な理論と考え、諸学説を、未発達なものから発 達したものへ、夾雑物の多いものから純粋なものへ、という順序に並べて…… 経済学に関する一種の合理論的な観念史23)」を描きだすことができるかもし れない。実際のところ、ペティの価値論に注目した学史家は概ね、労働価値説 にもとづく商品価値分析が、ペティの素朴な分析からスミスの洗練されたそれ に ひいてはリカードウやマルクスのもっと精緻なそれに 向かってほぼ一 直線に進展した過程として、学史の流れを把握しているといえる。しかしなが ら、そのような学史の方法は杉本がいち早く指摘しているように、少なからぬ 難点を含んでいる。また比較的最近においても、A・フィンケルシュタインや R・バックハウスによって、これは妥当性を欠く方法であると批判されて退け られている24)。これらの学史家が指摘する当の方法が孕む欠陥は、次のように 要約される。第1に、唯一の理論が学史を解釈するための基準として選ばれる ことにより、学史は未熟な理論がその成熟した理論に向かって徐々にながらも 一直線に発達していく過程として、きわめて一面的に把握されるにすぎない、 23) 同上、2-3 頁。[ ]内は引用者が挿入。以下の引用文においても同様。

24) Cf. Andrea Finkelstein, Harmony and the Balance: An Intellectual History of

Seventeenth-Century English Economic Thought, Ann Arbor: Univ. of Michigan

Press, 2000, Introduction; Roger Backhouse, The Penguin History of Economics, London: Penguin Books, 2002, Prologue.

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という点。第2に、後世の理論が、それに先行する時代の理論を解釈するため の枠組みとして採用されることにより、学史はその展開の終着地点があたかも 予め決定されていたかのように、学史の流れが後方から逆行的に把握されるこ とになる、という点。こうして要するに、学史がもつ複雑で多面的な性質と、 紆余曲折しながら展開するその偶然的な性質とは、看過されることになる、と いう点である。 ところが、杉本が分類した当の学史記述の第2の型に相当する方法は、今日 に至るまで、17・18世紀の経済思想をめぐる研究において積極的に幅広く採 用されてきた。またその場合に、たいてい『国富論』がこの書物に先行する時 期に位置する理論・思想を解釈し評価するための基準として用いられてきた。 この第2の型の学史研究の例を、二つだけ見ておきたい。 E・ジョンソンは『アダム・スミスの先任者たち』において、スミスの登場 に先立って経済学の形成に貢献した人物を幾人か採りあげ、その学説を検討し ている。ジョンソンによれば、そのような検討はすでに19世紀におこなわれ ていた。しかしその旧来の検討においては、斯学の発達に貢献した経済学者を 選別するにさいして用いられたふるい篩 に欠陥があったので、良質の穀物までが籾 殻として吹き飛ばされてしまった。そのような篩のなかでも、重商主義者か否 かという選別の基準は、最悪のものであった。こうして彼は、優れた経済学者 を選り抜くための新たな基準を幾つか立てている。国民主義者・ナ シ ョ ナ リ ス ト 重金主義者・ブ リ オ ニ ス ト 順調貿易差額論者では・な・い人物という基準が、それである。しかし、これらの 基準よりももっと重要なものは、統一性・包括性を備えた体系的な経済学を構 築しようと努めた人物という基準である。ともあれジョンソンはこのような旧 来の基準に代わる彼自身の新たなふるい篩 を用いて、スミスに先立つ時代に活躍し た少数の良質な経済学者を選別している。それは16世紀のJ・ヘイルズから、 スミスと同時代のJ・ステュアートまでの10人の経済学者で、そのなかにペ ティは含まれている。 こうして選ばれたイギリスにおける先スミス期の優れた経済学者のなかで も、ジョンソンがとくに高く評価するのは、D・ヒュームとM・ポッスルス ウェイトである。その理由はこうである。ヒュームは、彼の時代までの「経済

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思想を取捨選択しながら、多様な見解を果敢に調和させて、散らばった項目を ひと塊まりの経済思想に統一しようとした25)」からである。つまり「過去と同 時代との思想の統合者」となった人物だからである。またポッスルスウェイト は、フランスのサヴァリ兄弟の事典をモデルにして『商業事典』を編纂するこ とを通じて、「経済思想を一つの体系に固く結合する腕試しをした」からであ る。しかるにジョンソンによれば、ヒュームは「過去から受け継いだ知見を捨 てるには、あまりに慎重で不本意であった」ために、またポッスルスウェイト はただ「早産の統合」を企てたにすぎなかったために、「惨憺たる失敗」26)」に 終わった。こうしてジョンソンが最も重視するのは、J・ステュアートである。 彼によれば、ステュアートは「『国富論』の刊行に先立って『経済学者』に最も 接近した」 人物である。「彼の『経済の原理』は、断片的な経済諸思想から一 揃いの原理を創り出すという、この熱烈な努力において、最高の水準に達して いる27)。ところがこれとは対照的に、ジョンソンのペティに対する評価は比 較的低い。その理由は次のとおりである。ペティは科学に関心をもつ統計学者 として、経済論議に新鮮な息吹を吹き込んだ。実験主義者(experimentalist) として、新奇な帰納法的アプローチを経済研究の領域に導入した。しかしなが ら彼の論説は、統一性・包括性という面では、ヘイルズ、マリーンズ、ミスル デン、マンによる、もっと早い時期の著作よりも劣っている。要するに、それ は「特定の経済問題に応えて書かれており、体系的研究といえるようなもので はない28)」から、斯学の形成にさほど貢献していないと、ジョンソンは解する のである。 ともあれジョンソンは、イギリスにおける初期の経済学を解釈するにさいし て、『国富論』の理論体系を究極的な基準として用いながら、その優劣を比較 しているといえる。その基準によって選り抜かれた経済学者を、統一的・包括 的理論体系である『国富論』の形成に貢献した「スミスの先任者」として、高

25) E. A. Johnson, Predecessors of Adam Smith: The Growth of British Economic

Thought, 1937, rpt. New York: A. M. Kelley, 1965, p.9.

26) Cf. ibid., p.13.

27) Ibid., p.9.

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く評価しているといえる。彼はこの点に触れながら、次のように述べている。 「200年余の研究と論争と単なる好奇心とが生みだした、十分に統合されていな い、山積みされた諸思想は……スミスがそこから自身の学問[=経済学]の宮 殿を建てるための良質の石を切り出したという点で、有益な残骸であった29) と。 『国富論』という建造物を構築するために、有益な建材として用いられ た、「先スミス期の経済的文献」が優れた著作であるというのである。いずれに せよジョンソンによれば、イギリスにおける初期の学史は、体系的に完成され た経済学である『国富論』に向かって斯学が自己展開していく過程であった、 ということになる。また、「スミスの先任者たちが『国富論』に至る道をどの ようにして整えたのかということを知る」 ことが、学史の目的であるという ことになる30) ジョンソンがその著書を刊行したときと同じ1930年代に、歴史家H・バター フィールドは、その頃支配的であったイギリス近代史における解釈を、「ウィッ グ史観」と呼んで批判した。その批判の要点は、次のようである31)。従来の歴 史家はほとんどが「プロテスタント的であり、進歩的であり、ウィッグ的であ り、また19世紀ジェントルマンの典型にほかならなかった」。彼らは「ウィッ グないしプロテスタント的な眼で主題を眺め」、「[近代]世界を進歩の敵と味方 という二つに分けて」、「進歩を促したものとそれを妨害しようとしたものとい う二つの部類に分けて」考えるという立場から、歴史を記述してきた。そこで は「全体の叙述がいつも同じパターンで描かれ」、「あらゆる歴史はウィッグ的 歴史に偏向していく傾きがある」かのような解釈が示されてきた。彼らの「歴 史解釈を大幅に修正する結果」を導きだした詳細な個別研究や、トーリー的な いしカトリック的立場に立つ研究の成果は、排除されてきた。また彼らは「過 去のなかに現在を求め」、「過去を現在との関連において研究する」という立場 29) Ibid., p.10. 30) Cf. ibid., p.3,10.

31) Cf. Herbert Butterfield, The Whig Interpretation of History, 1931, rpt. Harmondsworth, Middlesex: Penguin Books, 1973, pp.13-4, 17-8, 28. バターフィー ルド(越智武臣他訳)『ウィッグ史観批判 現代歴史学の反省 』未来社、1967 年、13、15-6、 18-20 頁、参照。

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を採った。20世紀の絶頂に立って、「過去におこった事柄でわれわれに関連が あり、意味があるのは、20世紀との関係においてのみである」という立場で ある。しかも、過去と現在とのあいだに「一筋の因果関係」があるかのように 錯覚しながら、近代イギリスの歴史を総じて「自然で緩やかな前進の歩み」と して叙述してきた。このようにバターフィールドが、彼の時代に支配的であっ た歴史解釈をウィッグ史観と呼んで批判するとき、彼の念頭にあったウィッグ 史家の中心人物は、アクトン卿である。 このようなバターフィールドによる近代史研究の分野での問題提起は、経済 学史研究とも深く関係していると思える。彼のウィッグ史観に対する批判は、 ジョンソンがおこなったような学史記述に直接的に向けられている、といって も過言ではない。バターフィールドによれば、20世紀の絶頂に立って、プロ テスタント的な眼で、歴史を進歩の過程として単純に把握したのが、ウィッグ 史観であった。これになぞら準 えるならば、ジョンソンの学史は『国富論』が刊行 された1776年の絶頂に立って、体系的理論を重視する眼で、学史を進歩の過 程として一面的に記述したスミス史観であるといえる。ウィッグ史観において は、プロテスタント的な基準にもとづいて、歴史的事象が人類の進歩を促した ものとそれを妨害したものとに分類された。ジョンソンにおいては、17・18 世紀の経済学が統一性・包括性という基準によって篩にかけられ、ヘイルズか らステュアートまでの10人が斯学の発達に貢献した経済学者として、また国 民主義者・重金主義者・順調貿易差額論者(→要約すれば重商主義者)がそれ に寄与しなかった人物として分類されている。ここでは、学史の展開が 『国 富論』に向かって一直線に進む進歩の過程として、きわめて単純に描かれてい るといえる。 従来の資本主義形成期の学史研究においては、体系的理論とともに自由主義 思想を重視する視点で、学史を把握したものが多い。そこで、ジョンソンと同 様に1776年の絶頂に立ちながらも、体系性・包括性ではなく自由貿易主義や レ ッ セ・フ ェ ー ル 自由放任主義を重視する眼で、17・18世紀の学史を記述したとしよう。その 場合には、ジョンソンによって選り抜かれた経済学者のほとんどが、斯学の発 達に貢献した人物とは見なされないであろう。この型の接近方法においては、

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基準や枠組みが異なることにより、登場人物とストーリーがまったく異なる学 史がそれぞれ記述されることになるからである。しかし、そのような学史記述 は、それぞれに異なる角度からではあるけれども、そのすべてが学史を進歩の 過程として捉えながら一面的に把握したものであるという点では、すべてが同 じ性質の記述であるといえる。 ところで、バターフィールドがウィッグ史観を退けている理由は、要する にその歴史解釈が踏まえている接近方法では、「歴史の過程」が誤って把握さ れるという点である。彼によれば、歴史はウィッグ史家が描いたような「自然 で緩やかな前進の歩み」として展開するものではない。歴史は、「複雑な運動、 諸問題との深い関わり、入り組んだ相互作用」を包含する、「複雑な過程」や 「変化の過程」を りながら押し進められる。このように彼においては、歴史 の歩みは複雑で変化に富んだ過程として理解されている。けれどもその場合、 歴史における「進歩の観念」が決して否定されているわけではない。彼におい ても、歴史の展開に進歩や進化はあると考えられている。ところが彼によれ ば、その歴史が る道筋は「進歩の道」ではあっても、ウィッグ史家が想定し ているような、過去から現在まで一直線で繋がっている、平坦で単調な道では ない。「気まぐれに、いたずらに曲がっている……目的地に真っ直ぐ続いてい るとはいえない……しばしば余所道にさ迷い込む」ような紆余曲折した道なのよ そ である32) バターフィールドが歴史の歩みに見た、それが る複雑な過程は、経済学の 歴史についても当て嵌まるといえる。政治的・経済的・社会的事象が織りなす 歴史は、複雑で変化に富んだ長い道程を りながら徐々に進展する。これと同 じように、さまざまな経済理論・思想が織りなす学史も、紆余曲折した段階を 経ながらゆっくりと進化する。学史の流れは、このように理解できるからであ る。高橋誠一郎は、バターフィールドがウィッグ史観を批判した1931年より も、ほんの少し前に上梓した『経済学前史』(1929年)において、次のように 述べている。「時勢は一直線を成して進むことなく、屡々円線を描きて移動す 32) Cf. ibid., p.22, pp.24-5. 邦訳、28、31 頁、参照。

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るを見る。洵に歴史は循環す。而も其の円心は又た常に移動しつつあるなり。 経済思想の流れも、往々にして循環し反復す。而して新たなる経済学説が、時 代を異にせる過去の其れを継承し祖述するの観あること屡々なり。而も仔細に 之を観れば、斯くの如きものも、過去に存したる思想の単純なる祖述反復に非 ずして、其の当時の社会的経済的事情より直接に発生し来れるもの多きを知る なり33)、と。歴史は循環し反復しながら、しかも循環の中心軸を移動させな がら、反復の規則性を内包することもなく無秩序に進行する。このような歴史 一般における進展の仕方は、学史の歩みにおいてもまったく異ならない。この ように高橋は学史の流れを理解するのである。 いずれにせよバターフィールドは、歴史を複雑で紆余曲折した道筋として捉 えながら、直線的な進歩の過程であるとそれを解釈したウィッグ史観を退けた のである。ところが彼は、この支配的な解釈をただ批判しただけではない。さ らに歩を進めながら、その解釈が踏まえていた接近方法に代わって用いられる べき、別の方法を提案している。それは「物事をその文脈において捉え」、「歴 史の或る時点を微視的に眺める」という接近方法である。ひいては、そのよう な方法を用いた、専門的な歴史家による詳細な個別研究である。このような接 近方法だけが歴史が る複雑な過程を把握できるのであり、その方法を用いた 個別研究だけが、「歴史的変化の背後にある、いろいろな複雑な動きを真に浮 かび上がらせることができる34)」と、彼は述べている。ところで高橋が指摘し ているように、経済学史・思想史の歩みは歴史一般における場合と同様に、単 純に直線的にではなく、複雑に循環し反復しながら無秩序に進行する。そうで あるとすれば、接近方法をめぐる問題は、経済理論・思想の展開を把握する場 合においても、歴史一般のそれを把握する場合と事情は異ならない。学史・思 想史の流れを把握するにさいしても、その複雑で紆余曲折した流れを把握でき る方法が採用されなければならないことは、いうまでもない。また、ジョンソ 33) 高橋誠一郎『経済学前史』改造社、1929 年、36 頁(『高橋誠一郎経済学史著作集』第 1 巻、創 文社、1993 年、所収、18 頁); 大倉正雄「高橋誠一郎の重商主義論」(『三田学会雑誌』102 巻 4 号、2010 年、掲載)、参照。

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ンが用いたような接近方法(→第2の型)にもとづいて、そのような複雑な流 れを把握できないことも、確かである。杉本は、学史の第2の型が孕む弱点を 補完しそれを克服する別の接近方法として、「それぞれの経済学説を、それが 生いたった社会の、全体としての歴史状況に照応させて理解する35)」という、 第3の型を挙げている。この学史の方法における第3の型は、バターフィー ルドが提案している歴史研究の方法に相応するものであるといえる。 こうして、ジョンソンが採った学史記述の方法は難点を含んでいるけれど も、それと同じ類型の記述が最近のペティ研究においても見られる。タ イ プ A・マー フィーは「マクロ経済学の発見」を目的とするその著書において、18世紀前後 の著作をマクロ経済分析の視点から検討している36)。マクロ経済学は 1930年 代に形成されたという通説を退けながら、この経済学がペティによって創始さ れH・ソーントンによって確立されるに至るまでの学史の流れを記述している。 マクロ経済学が自己展開した過程を描いたこの記述において、ペティが占める 地位は高い。しかしここで眼が注がれているのは、『租税貢納論』(A Treatise of Taxes & Contributions, 1662)や『政治算術』(Political Arithmetick, 1690) のような彼の主著ではなく、小冊子『賢者には一言をもって足る』(Verbum Sapienti, 1691)である。その理由はマーフィーによれば、この『賢者』はマ クロ経済学の「雛形」をなしている書物だからである。この小冊では、J・グ ラントが概算した人口600万人にもとづいて国民支出400万ポンドが算出さ れているが、そのような作業はマクロ経済学の基本的概念を踏まえておこな われたものだからである。ここでは、富の ス ト ッ ク 存在量と所得の フ ロ ー 流れとが区別され、 国民所得と国民支出とが等しいことが明らかにされているが、これは学史のう えにおける最初の画期的な試みだからである。このようなマーフィーの解釈は 意義があり、この限りにおいて、その理解それ自体に異論はない。ところが、 マーフィーはマクロ経済学を分析基準にして学史を記述することにより、その 35) 杉本、前掲書、6 頁。

36) Cf. Antoin E. Murphy, The Genesis of Macroeconomics: New Ideas from Sir

William Petty to Henry Thornton, Oxford: Oxford Univ. Press, 2009,

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第2の型の接近方法が孕む危険な罠に嵌っているといわねばならない。彼は 『賢者』の分析を「巨匠の偉業」と呼んで讃美しながら、ペティが学史のうえ に「最も偉大な貢献」をなしたのは、この「透き通った輝きを放つ著作」を公 にしたことによってである、と述べている37)。これが常軌を逸した軽率な解 釈であることは、否めない。マクロ経済学の狭い枠組みで視界が閉ざされた彼 の眼に、ペティのもっと重要な優れた諸著作は入らなかったようである。いず れにせよマーフィーによれば、科学としての経済学は、マクロ経済分析の雛形 を作ったペティによって生みだされたことになる。しかしながら、彼が描きだ したペティに始まる学史が、経済学の形成史のほんの一面を捉えたものにすぎ ないことは、いうまでもない。

第 3 章 系譜の問題

学史研究の大きな課題の一つに、経済学における系統樹を描くということが ある。堅実な学史研究にあって、この課題をまったく無視したものはないであ ろう。経済学の諸分野にあって、斯学の理論的・思想的系譜を描くことができ るのは学史研究だけであり、この研究の独自性の一つはこの点にあるといって も過言ではない。この学史研究の重要な課題を担うことができるのは、いうま でもなく第2の型の方法である。この第2の型を措いてほかに、この課題を 直接的に積極的に応じることができる手立てはない。とはいえ実際のところ、 経済学の系譜を描くということは、さほど容易な作業ではない。その個別的理 論・思想に限ってさえ、その継承関係を明らかにすることは容易ではない。少 なくとも、第2の接近方法だけを用いて継承関係を十分に把握することはでき ない。このことは、第2の方法が孕んでいる難点とも関係している。そこで、 この系譜の把握に関する問題を、具体例を引きながら少し検討しておきたい。 ペティは王政復古期の1662年に刊行した『租税貢納論』で、ホッブズの影 響を受けながら、租税利益説にもとづいて内国消費税(とくに必需品課税)をエ ク サ イ ズ 公平で公正な租税であると讃美した。そして主権者(チャールズ二世の政府) 37) Cf. ibid., p.30, 35.

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の財政的基盤を固めるために、この租税を積極的に採用すべきであると提案し た。また、第二次オランダ戦争の最中に書いた『賢者』においては、この戦争さ な か の遂行に要する経費を、この租税の大幅な導入によって調達すべきである、と 提案した38)。ダヴナントは名誉革命後の1695年に刊行した『戦費調達論』で、 内国消費税が広範な諸階級に隈なく課せられる大衆課税であるという理由によ り、これを豊富な上がり高を国庫にもたらす公平で公正な租税である、と讃美 した。そして、その頃新政府が突入していた九年戦争の遂行に要する経費を、 主にこの租税の導入によって調達すべきであると提案した。また、この対仏戦 争の終結後の1698年に刊行した『公収入・交易論』では、この戦争が原因で 累積していた債務を返済するために要する国債費の一部を、エクサイズの採用 によって賄うべきであると提案した39)。こうして 17世紀後半における租税論 の展開を、消費税讃美論におけるホッブズ→ペティ→ダヴナントという継承関 係の進展として把握することができるだろう。この場合、ペティとダヴナント とは国力強化の政策立場から、この租税の導入に賛成であったという点でも、 継承関係にあるといえる。しかしながら、もっと詳細に検討すれば、この関係 はさほど単純ではないことが分かる。まず、後者には利益説の主張が見られな い。また双方の讃美論のあいだには、それぞれの主張が背後にもつ文脈に関し て、幾分かの隔たりがある。ダヴナントのエクサイズ讃美論は、健全財政を信 奉する政策立場から示された見解である。彼が『戦費調達論』を書いていたと き、政府は国債の発行によって戦費を調達していた。彼は健全財政の立場か ら、この赤字財政の立場にもとづく調達方法を批判した。そして、戦費を国債 ではなく消費税によって調達し、その経費を年内に支弁するように要請した。 また『公収入・交易論』を書いていたとき、戦費が国債で賄われたことが原因 で、巨額の債務が累積していた。健全財政(=租税中心主義)の立場に立つ彼 38) 大倉正雄「初期啓蒙とペティの経済科学」(田中秀夫編著『啓蒙のエピステーメーと経済学の生 誕』京都大学学術出版会、2008 年、所収); 同「ウィリアム・ペティの租税国家論 『租税貢 納論」の視界 」(『拓殖大学論集(政治・経済・法律研究)』[283/286]第 14 巻第 1・第 2 号、2011/12 年、掲載)、参照。 39) 大倉正雄『イギリス財政思想史 重商主義期の戦争・国家・経済 』日本経済評論社、2000 年、第 2 章、参照。

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は、この巨額の未償還債務に危惧の念を抱きながら、その債務を消費税の導入 によってすみやかに償還するように要請した。ところがペティのエクサイズ讃 美論には、その見解の背後に、ダヴナントにおけるような積極的な健全財政の 主張は見られない。ペティの時代には、国家経費が借入金で賄われることは稀 であったから、彼にとって健全財政の立場をことさら強調する必要はなかった と思える。 ウォルポール首相は1732年に塩税復活を目論む議会演説で、ホッブズ以来 の伝統的な利益説と、広範な諸階級に幅広く課せられる大衆課税が妥当である というダヴナント流の見解とに依拠して、塩税を讃美した。そして1730年に 廃止されていたこの消費税を、再び導入した。この政策史の一齣を見る限り、 ウォルポールの名を、ホッブズ以来のエクサイズ讃美論の系譜に新たに加える ことに、異論はないように思える。ところが事実は逆で、この首相は財政政策 の立場においては、この系譜を引き継いできた論客とは対立した関係にあっ た。彼が塩税を復活させた意図は、その租税による収入を担保にして、国債を 新規に発行しようという点にあったからである。すなわち、彼がエクサイズを 讃美してそれを導入したのは、ペティやダヴナントとは対極的な赤字財政の政 策立場にもとづいてであったからである。したがって財政政策の大きな流れか ら見れば、ウォルポールによるエクサイズの採用に、健全財政の立場から異を 唱えた反政府派の代表W・パルトニの方が、むしろ旧来の租税中心主義に近 い系譜に属する論客であるといえる40) スミスは『国富論』第5編で、租税が近代国家の財政を支える妥当な手段で あるという健全財政の立場から、さまざまな種類の租税を列挙して詳細に検討 している41)。租税はここでは、終局的にどのような収入によって支払われる のかという転嫁論の観点から、大きく4種類に分けられている。内国消費税は それらのうち「すべての種類の収入に無差別にかかることを目的とする税」に 40) 同上、第 3・第 4 章、参照。 41) 小林昇『国富論体系の成立』(増補)未来社、1977 年(『小林昇経済学史著作集』第 1 巻、未来 社、1976 年、所収)、第 9 章; 星野彰男・和田重司・山崎怜『スミス国富論入門』有斐閣、1977 年、第Ⅴ章、参照。

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分類されている。そしてこの消費税は、彼の挙示する租税四原則に鑑み、また 生産力と租税転嫁との視点から検討しても、地代税とともに最も適切な租税で あることが明らかにされている。しかもエクサイズは、下層大衆を含むすべて の身分に幅広く課せられるから、国庫に豊富な収入をもたらすという点でも適 切である、と解されている。このような見解を眼にする限り、スミスはペティ やダヴナントのエクサイズ讃美論を継承する立場にあるように思える。ところ が留意すべきは、彼はこれ以外の点では、伝統的な立場とかなり見解が異なっ ている。まず、消費税は第1の租税原則(公平)に合致すると解されている が、その原則は課税の妥当性の根拠を、納税者が政府活動から享受する利益に 見いだす利益説ではなく、その支払い能力に見いだす能力説を唱えたものであ る。つまり彼はペティとは異なり、主に能力説にもとづいてエクサイズを讃美 している。また、彼が積極的に讃美するエクサイズは、必需品ではなく奢侈品 に課せられる消費税であり、この点でもペティとは異なる。さらにいうまでも なく、彼の財政論の背後に、ペティやダヴナントが抱懐していた重商主義的な 国力強化の思想は見られない。 こうして斯学における系統樹を描くことは、17・18世紀の租税論という狭 く限定された領域においてさえ、容易ではないということが明らかであろう。 17・18世紀の租税論を理解するにさいし、後代の体系的に整理された財政学 の理論・概念・用語を分析の枠組みや用具として用いることは、むろん有益で ある。しかしながらそのような手法だけによって、当該期の深遠で厚みがある 理論・思想を的確に把握することはできない。ましてや、そのような理論・思 想のさまざまな論客のあいだでの継承と乖離と断絶との複雑な関係を的確に捉 えることはできない。要するに、経済学形成期における斯学の系譜を、第2の 型の方法だけによって描くことはできないのである。それを描くためには、そ の方法と並行して、対象となる理論・思想の背後に存する文脈を把握すること が可能な、別の方法を用いなければならない。それがどのような方法であるか ということを明確に示すことは難しい。けれどもそのような方法として、少な くとも次のような二つの具体的な手立てを掲げることができるであろう。 その一つは、検討の対象となる理論・思想を、それらが表明された書物全体

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の文脈にそって その文脈から切り離さないで 解釈するという方法。これ は大森郁夫がその理論史研究で用いたアプローチ、すなわち「各理論的認識が 一人の経済学者の築きあげた理論体系のなかで占める位置と役割と相互関連と を明らかに42)」するという接近方法に、ほぼ等しい。この方法は、何よりも一 次文献を丁寧に隈なく読むという作業を重視するものである。その作業とは、 高橋の言葉を借りれば、「出来得る限り本源の資料に頼らんことを努め」、「得 るにしたがって読み、読むに随って抄訳抜録せる手稿」を作る、というもので ある43)。したがって、このような作業を重視するこの方法は、書物の全頁に眼 を通すのではなく、後世の枠組みを用いて選り抜かれた箇所だけを拾い読みす るという傾向に陥りやすい、第2の方法が孕む難点を克服するであろう。 もう一つの手立ては、検討すべき理論・思想を、それらがどのような政治 的・経済的・社会的事象を背景にして表明されたものであるのかという点を考 慮に入れ、そのような政治的・経済的・社会的文脈に 租税論を把握するに さいしては、とりわけ財政史的文脈に 照らして理解する、という方法。こ れは杉本のいう第3の型の方法である。またW・スタークの言葉を借りれば、 「経済学の発展を……社会発展との関係で解釈する」、「過去の思想をその時代 の諸条件に照らして解釈する」という方法である。さらに小林昇が実践した、 経済史研究と学史研究という「二つの学問領域のあいだでの試行錯誤的往反」 という方法である44)。なおペティ研究の分野で、継承関係を的確に把握する方 法、ひいてはもっと幅広い学史の適切な方法に関し、最も優れた模範を示して いるのは松川七郎の『ウィリアム・ペティ研究』であると思える。そこでは、 ペティによって新しい科学が生みだされた様相を、さまざまな分野の研究成果 を積極的に援用しながら、多面的な角度から描きだそうとする試みがなされて 42) 大森郁夫『ステュアートとスミス 「巧妙な手」と「見えざる手」の経済理論 』ミネルヴァ 書房、1996 年、5 頁。 43) 高橋誠一郎『経済学史研究』大鐙閣、1920 年、6 頁; 同『重商主義経済学説研究』改造社、1932 年、一頁(『著作集』前掲書、第 2 巻、1993 年、所収、序、Ⅴ頁)、参照。

44) Cf. Werner Stark, The History of Economics; In its Relation to Social

Develop-ment, London: Kegan Paul, Trench, Trubner, 1944, p.5. スターク(杉山忠平訳)『社 会発展との関連における経済学史』未来社、1973 年、5 頁;小林昇『経済学の形成時代』未来 社、1961 年、17 頁(『著作集』第 1 巻、前掲書、所収、18 頁)、参照。

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いる。この松川の著書は、フィッツモーリスやシュトラウスの優れた伝記的研 究とともに、ペティ研究のきわめて貴重な遺産であるといえる45)

第 4 章 最近の研究と解釈

ペティ研究は20世紀末以降も、緩慢ではあるが倦むことなく重ねられてき ている。そればかりか、さまざまな関心を抱く比較的多くの研究者により、さ まざまな角度からさまざまな手法で進められて、それなりに着実な成果があげ られている。こうして研究は近年、新たな局面に入って画期的な様相を呈して いるといっても、過言ではない。そのような研究動向を伝える、幾つかの例を 挙げることができる。A・ロンカッリア、T・アスプロモス、T・マコーミック のような、ペティに大きな関心を寄せて研究を始めた学史家が相次いで登場し た46) L・マグヌソン、A・フィンケルシュタイン、S・ライナット、G・マイ フレーダのような、ペティを含む重商主義期の経済学者を、従来とは異なる独 自の視点で解釈しようとする意欲的な学史家・思想史家が幾人か現れた47)。さ らにM・プーヴィやB・シャピロのような、知性史・科学史の立場からペティ に一瞥を加えて有益な示唆を与えている思想史・科学史家も、少なくない48)

45) 松川、前掲書、参照。Cf. Fitzmaurice, op. cit.; Erich Strauss, Sir William Petty:

Portrait of a Genius, London: The Bodley Head, 1954.

46) Cf. Alessandro Roncaglia, Petty: The Origins of Political Economy[1977], trns. by I. Cherubuni, New York: M. E. Sharpe, 1985[ロンカッリア(津波古充文訳)『ウィリアム・ ペティの経済理論』昭和堂、1988 年]; Tony Aspromourgos, On the Origins of Classical

Economics: Distribution and Value from William Petty to Adam Smith, London:

Routledge, 1996; Ted McCormick, William Petty: And the Ambitions of Political

Arithmetic, Oxford: Oxford Univ. Press, 2009.

47) Cf. Lars Magnusson, Mercantilism: The Shaping of an Economic Language,

London: Routledge, 1994[マグヌソン(熊谷次郎・大倉正雄訳)『重商主義』知泉書館、 2009 年]; Finkelstein, op. cit.; Sophus A. Reinert, Translating Empire:

Emula-tion and the Origins of Political Economy, Cambridge, Massachusetts: Harvard

Univ. Press, 2011; Germano Maifreda, From Oikonomia to Political Economy:

Constructing Economic Knowledge from the Renaissance to the Scientific Rev-olution, Farnham, Surrey: Ashgate, 2012.

48) Cf. Mary Poovey, A History of the Modern Fact: Problems of Knowledge in

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こうしてペティ研究は今日、それぞれに関心が異なる数多くの研究者により、 幅広い分野で多面的な角度から盛んに進められて、ペティの新たな画像が描き だされようとしているといえる。ところが、このように研究が多方面に向けて 精力的に進められてきた反面、解釈は多彩を極めて混乱した状態にあることも 確かである。ペティの画像は、無秩序に修正が加えられて歪んだ状態にある、 といっても過言ではない。そこで、幾つかの主要な解釈を採り上げ、それらを 検討することを通じて、最近の研究がおかれている状況を窺ってみたい。 1980年代以降の研究で、最初に採り上げるべきはT・ハチスンの大冊『ア ダム・スミス以前』におけるペティ論である。ハチスンは、ペティを「近代的 経済学の創始者」と捉えるマルクスの解釈に疑問を抱いている。ただしそれ は、ペティの功績が小さいという理由によってではない。或る一人の人物だけ を斯学の創始者と見なすことはできない、という理由によってである。ハチス ンによれば、ペティの学史的貢献と意義はきわめて大きい。また、「ペティは 17世紀における経済学の進展に、目覚ましい創造的勢いを与えた49)」という、 マルクスの洞察は意義がある。ハチスンはとりわけ『租税貢納論』を高く評価 している。彼によれば、この書物が刊行された1662年は、「経済思想史のうえ に新時代の開始を刻んだというに無理なく相応しい重要な年50)」である。彼 が『租税貢納論』を評価する理由は、古典派経済学の理論的起点をなす経済的 剰余の観念が、この書物に見られるからではない。「挑戦的で根源的な方法論

Press, 1998; Barbara J. Shapiro, A Culture of Fact: England, 1550-1720, Ithca and London: Cornell Univ. Press, 2000. わが国においては、1980・90 年代に小林昇、竹 本洋、大森郁夫、渡辺邦博、大友敏明らを中心にして J・ステュアート研究が精力的に進められ、 大きな成果が生みだされた。しかしその研究により、ペティを含む重商主義期の他の経済学者に 対する関心が呼び起こされることはなかった。重商主義(期)の経済学の研究はわが国におい て、かつてはひじょうに盛んであったが、1980 年代以降は長期的な低迷状態に陥った。ところ が今世紀に入り、久しく下降の一途を ってきた当の研究に、復活の兆しが見えてきたといえ る。海外での研究から刺激を受けながら、また社会思想史研究との交流を深めながら、さらに若 い世代の研究者を迎えて、斬新な手法にもとづく従来とは異なる角度から、この分野を開拓しよ うとする新たな動きが見られるからである。

49) Terence Hutchison, Before Adam Smith: The Emergence of Political Economy,

1662-1776, Oxford: Basil Blackwell, 1988, p.3.

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的革新」が、そこで実践されているからである。政策提言が、それ以前の経済 論説には見られなかったような「明確な方法論的基準と理論的基礎」にもとづ いて示されているからである51)。もっともハチスンによれば、ペティの方法 論的立場は明確ではない。彼には、「経験的・数量的アプローチ」と「先験的 な幾何学的・演繹的態度」とのあいだでの葛藤が見られる。ともあれ、ペティ が方法論の点で学史のうえに残した功績はきわめて大きいというハチスンの解 釈は、それなりに明解で分かりやすい。ところが、ペティの経済思想の根幹に 触れる事柄をめぐる彼の解釈には、混濁が見られる。 ハチスンによれば、ペティは政府の経済的任務に関し、対外的領域と対内 的領域とのそれぞれの場合において、異なる見解を示している。一方でペティ は、政府が対外的領域に過度に干渉することには、異を唱えている。対外的経 済関係に関して、厳しい規制が設けられることには反対している。その理由は こうである。統治者の政策を医者の治療と性質が同じものと捉えながら、統治 者が「自然の運動」に逆らって、患者を過度に弄ぶ医者のように、国家社会を 過度にコントロールするならば、その社会の健康はいっそう悪化する、と考え ているからである。ところがペティは他方で、政府の国内での活動に関して は、これとは背反する見解を示している。政府は貧民や失業者を積極的に保 護・救済し、公共事業を大いに推進すべきである。また非自発的失業者に雇用 を提供するためなら、無用なピラミッドでさえ建設して然るべきである。この ような提案をおこなって、政府が国内で果たすべき役割を力説している。その 力説の理由は、彼においてはスミスとは異なり、完全雇用を創出する自己調整 機構が、経済社会に備わっているとは考えられていなかったからである。こう してハチスンは、ペティが政府の役割に関して、対外的と対内的領域とで相反 する見解を示していると述べることにより、その政策思想をめぐる解釈におい てジレンマに陥っているといわねばならない。ペティが政策思想史のうえに占 める位置を、二つの対極をなす地点に定めているといわねばならない。ハチス ンはペティを「『重商主義的』自由主義者」と不可解な言葉で呼ぶことにより、 51) Cf. ibid., p.7.

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その経済思想の根幹に触れる解釈を混乱させている52)

A・マーフィーもハチスンと同じような混乱に陥っている。ペティの政策思

想に関する彼の見解は、次のとおりである。ペティは『租税貢納論』で自由放 任主義的アプローチを採っている。その序文におかれた〈彼の欲するがままに 歩む〉(vadere sicut vult)というラテン語の警句が、そのことを象徴的に示し ている53)。ところが、ペティはこのようなアプローチを採っているにもかかわ らず、政府が経済領域に幾らか干渉することを奨励している。失業者に雇用を 確保するための積極的な活動を提案している。しかもその提案には、ケインズ 政策を彷彿とさせるような見解が窺える。ケインズの乗数理論に似たような考 えにもとづいて、失業者の救済を意図する公共事業計画を提示している。この ように述べることにより、マーフィーも二つの対極的な経済思想のあいだにペ ティを追いやって、その政策立場をめぐる解釈を宙吊りにしている。ペティが 究極的にどのような政策立場に立っていたのかという肝要な問題は、ここでも 深く追究されることはなく、なおざりにされている、といわねばならない54) 最近の研究における解釈の混乱は、ペティの政策思想だけではなく、その方 法に関しても見られる。T・アスプロモスは、「ペティが知的気質を形づくる にさいして、決定的に重要な役割を担ったのはトマス・ホッブズ55)」であっ たという、斬新な解釈を下している。ペティは、ホッブズが掲げた「平和と豊 富」という政策目標を眼前に見据えて、経済的論究を始めたという解釈である。 それだけではない。研究のテーマだけではなく、その方法に関してもホッブズ から重要な影響を受けていると解している。「ペティの企画を方向づけた方法 論的および政治的見地は、主にホッブズに由来する56)」と、彼は述べている。 ペティは方法論的にベーコンではなく、ホッブズから決定的に重要な影響を受 けたという解釈は、おそらくこれが初めてである。確かにアスプロモスは、ペ 52) Cf. ibid., pp.30-1.

53) マーフィーは、この警句を ‘let things go as they will’ と英訳しているが、直訳すれば ‘to walk as he wants’ となる。

54) Cf. Murphy, op. cit., Ch.Ⅰ.

55) Aspromourgos, op. cit., p.7.

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ティが「ベーコンの鼓吹する経験的自然哲学の帰依者57)」であったというこ とを認めている。ところが彼は、「ペティが開拓した経済学に影響を与えてい る基本的な方法論的および政治的信念は、ホッブズに、そしてほんの僅かだけ ベーコンに、触れたことによるものである58)、と理解するのである。アスプ ロモスは、ペティが用いた科学的方法を「代数学的・数量的方法」と呼んでい る。これは、ペティがパリでホッブズに出会って知的な影響を受けたことが動 機となって考案された、厳密な演繹法である。彼は『租税貢納論』において、 当の方法を経験的・経済的現象の把握に適用して、抽象的モデルを構築するこ とを試みている。そのような演繹的な組織的方法を駆使して、ホッブズが科学シ ス テ ム の範型とみなしたような一般的原理を導き出そうと試みている。アスプロモス はこのような理由により、『租税貢納論』を方法論的な視点から、ペティの最 も重要な著作であると理解している。 T・マコーミックはアスプロモスよりももっと斬新なペティ像を描いている。 その画像はアスプロモスが描いたそれとまったく重ならないし、その細部の幾 つかは、従来の研究が整えてきた輪郭から位置が著しくずれている。マコー ミックは「政治算術の野望」という副題を付したその『ウィリアム・ペティ』 において、当の算術を編みだしたペティに焦点を当てている。この算術が何を 意図していたのかということを、伝記的研究を踏まえて、その史的背景に照ら しながら詳細に検討している。したがって、ここではペティの経済科学が方法 論の観点から検討されているように思える。ところが、マコーミックの問題関 心はそれとはまったく異なる。そもそも彼によれば、ペティの政治算術は、国 家の援助を目的とする「政治的プログラムと関わりがあるもの」であり、経済 の記述を目的とする「中立的な経済分析のモデル」といえるようなものではな い。確かに、ペティの著作には「数量的方法の経済問題への適用」が見られる。 しかし、そのアプローチはそれ自体が政治算術ではなく、「政治算術の遺産の一 部」をなすものにすぎない。ペティが当の算術を駆使するにさいして、大きな 関心を寄せている事柄は、アイルランド問題である。彼は数量的方法を踏まえ 57) Ibid., p.9. 58) Ibid., p.57.

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て、この緊急を要する政治問題と取り組み、イギリス帝国内において教会と国 家が、永続的に安定した状態におかれることを促す戦略を立てている。それは 主に宗教的寛容政策によって、帝国内における住民の民族的・宗教的相違を取 り除き、政治的安定を取り戻そうとする戦略である。いずれにせよ、ペティの 政治算術が主に関心を寄せているのは政治的安定であり、その安定を実現する ための経済発展である。こうしてマコーミックにおいて、当の算術は「人的・ 自然的資源の数量的分析、経験的基準にもとづく経済的・社会政策の唱道、基 幹施設・農業・工業・商業を改善するための数多くの実践的企画59)」をおこ なう「統治術」であった、と理解されている。またペティは「科学的……真理 を、広い世界に対して明かす」純粋な科学者ではなく、「経済的・政治的・社 会的企画を……権力をもった人々である読者に売り込むことを意図する……企 画者」であった、と理解されている60) このような政治算術の解釈は、ユニークで目新しい。しかしこのマコーミッ クの解釈が、次のような疑問を抱かせる点を含んでいることは否めない。ベー コンの帰納法からの影響が看過されている。ペティ自身が学究的観点からおこ なった当の算術の定義とは、色合いが著しく異なる。経済科学の形成を促した 役割が過小評価されている。『賢者』における課税に関する数量的分析と、『政 治算術』における列強間での国力比較分析とが、無視されている。この算術の 背後に存する国力強化の政策立場は、看過されている。これらの点はいうまで もなく、この解釈が少なからぬ欠陥を含んでいることを示している。いずれに せよマコーミックによれば、ペティは政治算術という統治術を用いて、帝国内 における政治的安定を図るための構想を示した企画者であった、ということに なる。しかし、これはペティの局部的な画像にすぎない。

むすび

将来的展望

最近の研究成果を概観して導きだされる最終的結論は、ペティの経済学者と しての画像がまだ定まっていないということである。この結論は、長年の研究

59) McCormick, op. cit., p.59.

参照

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