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〔資料〕京伏見 丹波橋 安養山勝念寺蔵『焔魔法王尊像縁起』翻刻と解題

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Academic year: 2021

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(1)

[解 題] 伏見丹波橋の安養山勝念寺は華頂山知恩院末の浄土宗寺院で、古くから 「かましきさん」 の通称で親しまれ、 近年は九月萩のころ境内を開放して 道行く人に 「 萩振る舞い」 する寺として知られている。 また天明五年 (一 七八五) 伏見奉行小堀政方の苛政を幕府に直訴して伏見町民の苦難を救い、 みずからは悲惨な最期を遂げた伏見義民七人の一人薪炭商柴屋伊兵衛の墓 所があることからも知れるように、伏見の街なかに所在する典型的な庶民 寺院である。 伏見は奈良時代から街道が整備され、水運も発達して大坂と京都を結ぶ 要衝として栄え、ことに豊臣秀吉が伏見城を築いて桃山文化を開花させ、 次いで徳川家康はこの地で幕府を開き、銀座を設け、高瀬川を拓いて京  伏見 大坂を一水路で結んで伏見港をわが国最大の河川港とするなど、京 の都と深くかかわりながらも独自の文化と歴史を形成してきた。 この伏見の地に天正十五年 (一五八七) 、安養山往生院勝念寺は安土宗論 で名高く織田信長が深く帰依した聖誉貞安上人によって開創された。貞安 上人はまた同じ年、正親町天皇の勅命によって織田信長 長子信忠父子の 菩提を弔うためとして信忠自刃の地である御池御所を寄進され、これを信 忠の法名大雲院仙巖居士に因んで龍池山貞安寺大雲院と号して開創してい る。勝念寺は大雲院に比してまことに小規模ながら、多難な時代の変遷を 今日まで穏やかに堪え忍んできた。知る人は少ないが当寺には信長ゆかり の什宝が伝えられている。このたびは『 魔法王 像縁 』及び関連史料 を翻刻紹介する。 ※ 貞安上人は天文八年 (一五 三 九) 三 月七日、 相 模国 三 浦郡黒沼郷 に 後北 条氏 の一 族 として生まれた。父は 北条能登守満教 、 母 は大 江 正時の 女 と伝 え、 二 親が 鎌倉海光 山長 谷 寺の 観世音 菩 に 祈請 して 懐胎 した子という。 四歳 で 母 を 亡 い、五 歳 で父が 討死 してみなし 児 となり 姨 母 に養 育 された。 天文十 四 年 (一五 四 五) 七 歳 の時、 叔 父にあたる小田 原稲 荷 山大 蓮 寺の一 蓮社堯 誉上人 還魯 文宗の 室 に 入 り、十一 歳 のとき 剃髪受 戒 した。天文 二 十 一年 (一五五 二 ) 師 堯 誉上人が 下総 国 飯 沼 の 寿亀 山 弘経 寺 六 世 に 晋 山する に 随従 したが、 給仕 すること 三 年にして 堯 誉上人が 没 し、 以 後 は同寺七 世 各 蓮社 見誉上人 退堂善悦 に 就 いて浄土の深 奥 宗 戒 両脈 を 禀 け、 弘経 寺の 伴 頭 となった。 元 亀 三 年 (一五七 二 ) 七月 二 十五日、 能登 国七 尾 の 宇賀 山 西 光 寺の十 世 住職 であった時、正親町天皇より 香衣 を 着 しての 参 内を 許可 する 綸旨 を 賜 わり、 二 日 後 の七月 二 十七日には上京し、知恩寺長 老 に連れられて御 礼 の ため 参 内した。上人 三 十 四歳 の時のことである。この時の「正親町天皇 綸 旨 」が大雲院に伝わり、 そ の 宛 名は「 西 光 寺 住 持 聖誉上人御 房 」とある。 な お 『 お湯殿 の上の日 記 』( 「 続群書 類 従 補遺 三 」所 収 『 お湯殿 の上の日 記 七』 ) 同年七月 二 十七日 条 に 「 廿 七日。 雨ふ る。 ( 中略 ) ち お ん ゐ んま つ 寺のとのさいくわう寺せいよしゆ つ せの御れいに。 ち やうらうい つ ものことく つ れてまいらる。 」とあって、 綸旨 を 賜 わった上人が直 ち に上京して 雨中 に 参 内したことが 確 かめられる。 天正 四 年 (一五七 六 ) 三 十八 歳 の時、 上 杉 謙 信の 能登 侵攻 を 逃 れて近 江 国伊 庭 の 繖 山 妙金剛 寺 へ移 った。上人の 智 行 抜萃 なるを知った織田信長は、 天正七年 (一五七九) 五月 二 十七日、 安土の 金 勝山 慈 恩寺浄 厳 院で行われ 学苑 資 料紹介 特集 号 第 九一 三 号 一七五 ~ 一九九( 二 〇 一 六 一一) 京伏見 丹波橋

安養山勝念寺



魔法王



像縁



』翻刻と

解題

松葉



口靜

〔資 料〕

(2)

た浄土宗と日蓮宗との宗論に参加せしめた。その日、宗論決着の報告を受 けた信長は直ちに駿馬を駆って浄厳院に出御し、日蓮義を論破した上人の 活躍を、 「汝天下無雙之高僧」 と称讃して所持していた軍配団扇を手ずか ら下賜し、宗論の翌日には朱印状を送って「誠手柄無比類」と賞し、また 安土田中に龍亀山西光寺を建立して上人を止住せしめた。 しかし天正十年 (一五八二) 六月二日に起きた本能寺の変で庇護者信長 を失った貞安上人は翌十一年、西光寺を辞して上洛し東山小松谷にあった 平重盛の燈籠堂ゆかりの多門山浄教寺に移り、その八世住職として布教に 専心した。 同十三年正親町天皇の勅請で御所に参内し、 『選擇集』 を講じ て僧伽梨大衣を賜わり、翌十四年八月八日、七月二十四日に病没した誠仁 親王の二七日に当たるその夜、紫宸殿に招ぜられて説法し、故誠仁親王親 筆書写の「阿弥陀経」を下賜された。さらに同十五年には正親町天皇の勅 命により、信長 信忠父子の菩提を弔うためとして信忠自刃の地である御 池御所 (二条新御所) を賜わり、 勅を奉じて一寺を建立し、 これを信忠の 法名に因んで大雲院と号した。同時に天下人豊臣秀吉の城下町である伏見 丹波橋に一寺を開創し、これを勝念寺と号して布教の拠点とした。大雲院 の開創について『大雲院誌稿』 ( 明治二十七年 一八 九四 京都府庁刊 )は、 天正年間織田信長御池ノ宮殿ヲ修理シテ一ノ宮ト号シ誠仁親王ニ奉ル。 其後 明智反乱ニヨ リ テ 右 府 ハ 本能寺ニ 死 シ信忠 ハ 御池ノ御所ニ 於 テ 斃 ル。 已 ニシ テ明智ノ 黨誅 ニ 服 シ 禍 乱 静定 ナ ルニ 及ン テ正親町 帝 織田父子ノ 横 死 セ シ コ ト ヲ 深ク憐 ミ 之 ガ冥福 ヲ 祈ラサ ン 為メ 智 徳兼備 ノ 導師 ヲ 求 メラ レ シニ、 當 時浄 土ノ高 貞安洛東燈籠堂ニ ア リ テ 常 ニ 右 府ノ 尊 崇 深 カ リ シ故ヲ 以 テ 帝 貞安ヲ 宮中ニ 召 テ御池ノ御所ヲ賜 リ 勅シテ寺ト ナ シ信忠ノ 死 所 ナ ル故ニ信忠ノ法号 大雲院ト号シ織田父子ノ 追善 ヲ修 セ シ ム 。 と 要 を 得 た説明を 施 している。その後、大雲院は豊臣秀吉の 帰 信を 得 、命 ぜ ら れ て 寺町四条 南 に移 転 し 、 天正十八年 (一五九 〇 ) 六月十八日、 旧 に 倍 す る 結構 を 整え た。同年七月十六日後 陽成 天皇より勅 願 所の 綸旨 を賜わり、 翌十九年二月二日には天皇宸筆の勅 額 を賜わった。天正二十年 (一五九二) 二月、京都奉 行 前 田 玄 以 は大雲院に五 ヶ 条の 制札 を 掲げ た が 、それは 落 成 間 もな い大雲院 が す でに多 く の参 詣 者を集めていたことを 示 している。 慶 長二十年 (一六一五) 五月七日大 坂 城 が落 城し秀 頼 淀君 ら が 自刃し て間 もな い五月十六日、貞安上人は二条城で 徳 川家康 に 謁 して 殊遇 を受け た。同年五月二十七日には大雲院を法 嗣 の教 誉 貞 傳 に、六月には勝念寺を 高 弟 安 誉 貞 保 に 附属 す ると大雲院 境 内の 栖養 院に 隠棲 し、 元和元 年 (一六 一五) 七月十七日、 床頭 に阿弥陀 仏像 を安んじ、 端坐合掌 して安 然 と 遷化 した。法 臈 六十七、世 寿 七十七。創建寺院は大雲院 勝念寺はじめ 佐渡 長 栄 山大安寺 日 向佐 土 原 大池山 青 蓮寺高月院 近江彦根摂取 山 了 法寺 近 江 八 幡 無 量 山 海 雲寺 近江 八 幡蔡華 山 清 見寺 な ど 七 ヶ 寺。大雲院の 仏 殿東 南 、 羅漢 堂の後に 葬 られた。 な お 大雲院は 昭 和 四十八年 (一九七三) 、寺地 を寺町四条から東山山 麓 真 ヶ 原 に移している。 ※ 貞安上人は安土宗論で一躍名 声 を 博 した が 、しかしそれ 以 前 から正親町 天皇 や 織田信長らの 尊 崇 を 得 ていたのであって、ことに後 陽成 天皇 が 大雲 院を勅 願 所と す る 綸旨 を下賜される な ど 朝廷 の信 頼 には 篤 い も の が あった。 また貞安 伝 の 諸 本は一 様 に 太 閤 秀吉 が 上人の『 往生礼 讃』の講義を 聞 いて 帰 依 したと 伝 え 、また大雲院所 蔵 の 諸 資料 から も 、 徳 川家康 が 公 家 衆 と 催 した十 種香 に上人を招 く な ど 厚 遇 したこと や 、大名 衆 が 上人の法 談 を 聴 聞 に 訪 れていたこと、ことに日 向 国 佐 土 原 藩主島津 以 久 は上人 へ の 帰 信 篤 く 、 大雲院に 毎 年 米 一 〇〇 石 を 寄贈 し、 末孫 島津 忠 寛 は明治三年 (一八七 〇 ) 、 八 坂 感神 院 ( 現 、八 坂 神 社 ) にあった 室 町時 代延 徳 二年 (一四九 〇 ) 鋳造 の 梵 鐘 を 購入 し、当院 へ寄 進 している。 大雲院に 石 川 五 右 衛 門の 墓 が ある。京都 市 中を 荒 らしまわった大 盗だ が 、 豊臣秀吉の命により 前 田 玄 以 の手 勢 に 捕 え られ、三条 河 原 で一子とと も に 釜 りの 刑 に 処 されたという。その 実 在 が 疑問視 も される が 、寺 伝 では 文 禄 三年 (一五九四) 八月二十四日、 市 中 引 き 回 しの 途 中、 寺町四条 南 の大 雲院門 前 に 至 った 際 、貞安上人から 引 導 を 渡 されたと 伝 え る。 墓 碑 にその 法名「 融仙 院 良岳 寿 感 禅 定 門」 が 刻 されている。 京都 市 中京 区木屋 町 石 屋 町の 慈舟 山 瑞泉 寺は 関白 豊臣秀 次 とその一 族 の 菩提を弔うために、 慶 長十六年 (一六一一) 豪商角倉 了 以 が 浄土宗西山 派

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の立空桂叔和尚と建立したものであるが、境内に貞安上人ゆかりの引導地 蔵が今も祀られている。 謀反を疑われ賜死を命じられた秀次は文禄四年 (一五九五) 七月十五日高野山青厳寺で切腹した。秀吉は伏見で首実検し、 これを三条河原に梟首し、 八月二日、 その御首の前で若君四人 姫君一人  側室ら三十四人、合わせて三十九人が一人ずつ引き出されて処刑された。 このとき刑場の一隅に地蔵尊を運び込み、次々と首を討たれる子女たちに 引導を授け続けたのが貞安上人だった。 平成二十六年 (二〇一四) 八月、 民 間発掘調査会社イビソクが京都市下 京区貞安前之町 で 豊臣秀次 の 供 養塔 の 一 部 を 発見 し た ( 「産經新聞大阪本社版」 「京 都新聞 」、二〇一四 年八月 二二日 付朝刊 )。 五輪塔下の基礎部分で、 鞍馬産閃緑岩製の箱型石 (幅二十三㌢ 高 さ十六㌢) に、 文禄四年 禅昌院殿龍 道意大居士 七月十五日 と刻まれていた。この法名は瑞泉寺開創のとき深草山誓願寺中興教山上人 が秀次に贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」とは相違しており、供養塔 が出土した貞安前之町は大雲院の跡地であり、ここには今も貞安上人が住 持した多門山浄教寺が所在するので、この供養塔は貞安上人がひそかに秀 次の菩提を弔うべく建立したものと考えられる。秀次は羽柴姓のころの天 正十三年 (一五八五) 近江八幡城を築城した際、 貞安上人が住持する安土 西光寺を近江八幡に移転させて祈願所として以来親交があった。貞安上人 による秀次供養塔の建立も不思議ではない。 慶 長 四年 (一五九九) 九月十六日大雲院で 盛 大な 花 会が開 催 された。 東 福 寺の月 渓聖澄 『百瓶華序』 ( 「続 群書類 従 」十九 輯 下 ) に よると、 初代池坊専好 (一 六二一 没 ) が 弟 子の中から 選 りす ぐ った一〇〇名が出 瓶 し立 花 の 優劣 を 競 ったもので、この 百瓶華 会は 絶賛 を 浴 びたという。一〇〇名のうち八十名 ほど が 僧 で、その 他 が 武 士 や 町 衆 であった。貞安上人は 華 道にも秀でた人 で、また出 瓶 者 の 僧 たちは 宗派 を 超 えていたから上人の 度量 の大きさを 知 らし め た。 ※ 曲 に 威儀 を正して 坐 す貞安上人が 手 にする 団扇 は、安土 宗論 に 勝利 し たその日に 織田信 長 から下賜された 軍配団扇 である。上人の五十 回忌 に際 して大雲院五 世伝誉 上人 承阿退弘 が 述 した 『 大雲院開 師畧記 』 は、 「 汝 天下 無雙 之高 僧 、 仰云 、今所持 軍 團 扇 讓與 汝 、 夫 團 扇者 非取 平人 手 、 武 家 靜國家 之 亂治 世 、 佛家 退 邪魔 之 障 、 挑 一 宗 法 燈 僧 可 持之、 手 賜安 於 軍 團 扇 矣 軍 團 扇 大 雲院 庫 」と 伝 えている。 並 居る日 蓮 宗僧 を 論 破沈黙 させた貞安上人を 信 長 が「 汝 天下 無雙 之高 僧 」と 讃賞 し、その意 義 を 語 って 手 ずから 愛用 の 軍配団扇 を下賜したという一 事 は上人の 存 在を 決定的 なものにし、 信 長 の 上人に 対 する 厚 遇ぶ りは上人の名 声 を 飛躍 的 に 拡 大させた。 『 信 長 公 記 』 は 銀 子五十 枚 が下されたと 伝 え、 『 大雲院開 師畧記 』 は 軍配団扇 の ほ かに も「 信 長 公 亦 賜 勝 證朱印及 日 蓮 義 秘 書 法 器焉 」な ど 種 々の下賜 物 があった ことを 記 し、 勝 念 寺蔵 『 魔 法 王 像縁 』 にも、 其褒 賞 として 末 代 證 據 のた め 御 朱印 并 に 七 種 の 寶 物 を貞安 へ 下したまわり ぬ 七 種 は 魔 法 皇 尊 像 山 雪 石 狹 一 休 一 枚 起 玉澗 山 水 弘 法大 師 之 作 錢 大 黒板木 軍配 團 右 魔 法 皇 尊 像 ハ則當 寺の 什 物 殘 り六 種 は 洛 の大雲院の 什 物 たり 勝念寺蔵 貞安上人肖像 紙本著色 総 190×59cm 画 104×45cm

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と信長の朱印状、それに付して七種の宝物の下賜があったと伝えている。 上記宝物のうち 魔法王尊像は勝念寺に現存し、他は大雲院に伝蔵されて いる。 大雲院所蔵のものは築達榮八編 『龍池山大雲院』 ( 平成六年九月、本 山龍池山大雲院刊 ) に写真図版が掲載されている。七種宝物の一斑を記しておく。 ・「信長朱印状」は、 今度於慈恩寺浄厳院、 法華宗与宗論之義、申付候処、 即遂問答、尤為勝、誠手 柄無比類、弥宗旨之励簡 要候也、 五月廿八日、信長(朱印) 教蓮社聖誉 とあり、 ウワ書に 「天正七年 安土 西光寺」 とあって、 これが宗論翌日 に出されたものと知れる。 ・「日蓮義秘書法器」 は 箱蓋表に 「江州安土宗論之書物/ 大雲院 / 方丈不出 /貞安」 と墨書された一箱に日尭編 『当家相伝法門抄』 日能編 『朗伝 抄』 『一大事相伝抄』 『安養宗下』 『天文三年甲午本中之相承大事秘書』 の五冊が収められている。貞安上人自筆の蓋裏書によると、宗論後に貞 安みずからがこれを日蓮宗衆僧から取上げたという。 ・「軍配團」 は上掲貞安上人の肖像画に描かれたもので、 竹製の細かな骨 に蓮華文を描いた和紙を貼り、竹柄に朱房を付けた軍配団扇で、伝存す る室町時代の団扇として貴重な資料である。 ・「山雪盆石」は「残雪」銘の盆石 (高一二 〇㌢、径二三 七×一四 五㌢) のこと。千利休の高弟山上宗二の著した『山上宗二記』に「末の松山ト 残雪ハ名石ナレハ、今ニ至リ賞 スル也」と伝える名石である。 ・「 狹盆」 (縦横共二一 四㌢、 高二 四㌢) は表を朱、 外側を青 漆 、 底 を 黒漆 塗 にしたもので、 表千家八代 啄斎 の弟 子稲垣 休 が文 化十 三年 (一八一六) に した 茶道 の 総合解説 書という べき 『 茶道筌蹄 』に「 此 盆 もと七 枚 箱に 入 て 若狭 の 浜辺 に 流 れ 寄 る 唐 物の盆なり」とある。箱書に 「 若狭 盆」 「 従織田 信長 公 拝領 大雲院貞安」の墨書がある。 ・「一休一 枚 起 」は 臨済 宗大 徳 寺 派 の一休宗 純 (一三九四 ~ 一四八一) が 法 然 の「 一 枚 起 請 文」 を書写したもの。 『大雲院 寶 物一 覽 』( 明治 十 五年五月、 大雲院 副 住職北條 泰 門 編刊 )に「 壹 枚 請 文 一 幅 、一休 禪師 書 并 画 賛 信長 公 寄 附 」と 見 える。 ・「 玉澗 山 水 」は 宋 末から 元初 にかけて 活躍 した 水 墨画家の 玉澗 の描いた 「山 水 図」 (紙本墨画。 縦四八 二㌢、 横九六 五㌢) で、 画 賛 に 玉澗 の 詩 「雪 白楊花 細 々風 /和 烟袞 入 硯 池中/ 却愁 勝 處憑誰 會 /著 箇 西 湖舊釣翁 」 を書 込んだ破 墨 系 山 水 図である。 ・「 弘 法大 師 之 作錢 大 黒 板木 」 は 『大雲院 開 師 畧 記』に「 弘 法大 師 書賜 虚 空 蔵大 黒 天 板 像也 毎 年 十 一月 子 日 像、 與望 人 」とあるもので、か つ ては 毎 年 十 一月 子 日 には 版 授 与していた。 その一 枚 ( 宮島コ レ ク ション 蔵 ) を掲げておく。 下方に 「 勅願 大雲院 霊寳 」、料紙 両端 に、 ( 右 ) 弘 法大 師 彫刻 之 板 行 也 織田 信長 公 御感得其 後 ( 左 ) 當 寺 開 山宗論之 依 テ 二勝利 ニ 一 フ 二 七種之 寳 物 ヲ 一 其 一種也 と 刻 されている。 ・「 魔法 皇 尊像」 七 種宝物のうち、 これのみ勝念寺が所蔵する。 掌 に 納 ま る ほど の 小 像 だ が、その 魔法王尊像に つ いて勝念寺五 世称 蓮社 専 誉 了玄 が 元 禄 九年 (一六九六) 五月に記し 置 いたものを、 十 四 世 一蓮社 諦 誉 隆阿 義 禅 が文 政 六年 (一八二三) 七月に 転 写記した 『 伏 見 安養山勝  木版 39.0×27.6cm

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寺開山之由緒』は、 霊寳 ノ 之中 ニ 有 リ 二 閻魔王像 一。 長 ケ 一寸八分。 是 ハ 者摂州清 キヨ 澄 ス 寺 ノ 慈心坊 惠承安二年 壬辰 十一月 一日 ニ 死 ス 。翌 日 蘓 生 シテ 語 テ 曰、 我 レ 依 テ レ 請 ニ 到 テ 二閻宮 ニ 一 ル 二法華經轉 ノ 讀 勹 座 ニ 一 。退 去 スル 時、 閻王爲 シテ 二 施 ト 一 賜 フト 二 此 ノ 像 ヲ 一 。即 チ 出 ス 二手中 ヨリ 一 。世 ヨヽ 傳 ハツテ 信 長公有 テ 二 御 冬 持 一 。賜 フ 二 貞安 ニ 一 。安譽仰信 シテ 請 ヒ 二 受 ケ 之 レヲ 一 、今在 リ 二 當寺 ニ 一 。 とこの 魔法王尊像が勝念寺に伝えられた経緯を簡潔に記している。な お貞安上人がこの 魔法王尊像を二世心蓮社安誉貞保に譲与した折の慶 長二十年 (一六一五) 四月十四日付 「 閻魔十王像譲与状」 が勝念寺に所 蔵されている。それには大雲院開山聖誉安貞差出 西光寺安誉宛になっ ているから、貞安上人が本能寺の変後に西光寺を辞した後は安誉が西光 寺と 魔法王尊像等の什宝を護持していたのである。 ※ 貞安上人が信長から下賜された 魔法王尊像については、全国の浄土宗 寺院の沿革を元禄八年 (一六九五) から四年間を費やして調査記録した 『 門 舍 詞』 ( 「浄土宗全書」 続第十九巻所収 )の「西光寺」条に「 (天正七年) 同 信長 橇 命而建立一宇安土田中龍龜山西光寺則 貞安爲開山主寄附寺領朱印 并 閻魔 王之像」 とあり、 「 念寺」 条に 「一靈寳中有閻魔王像長一寸八分是攝州 淸澄寺慈心坊 惠承安二 壬 辰 年十一月廿一日頓死 日蘇生語云我依 到閻 宮列法花經轉讀會座 去時閻王 施賜此像 出手中世傳 一信長 橇 有御  持賜貞安弟子安譽」とあって、また勝念寺蔵『 魔法王 像縁 』の「什 寳物」 項 に 「 一 魔法王 像 冥  王直作御長一寸八分 」 と あるから、 こ れを所持していた信長自身がこれを慈心房尊恵伝来の閻魔法王自刻像であ ると認識していたことが窺い知られる。当初西光寺に安置されていたもの を元 和 元年 (一六一五) 七月十七日に貞安上人が 没 したあと、 勝 念寺二世 を 継 い だ 安誉貞保が 晋 山の 際 にこれを勝念寺に 移 したのである。 勝念寺は安 永 七年 (一七七八) 六月に 火災 に 遭 って本 堂 庫裏 本尊  過 去 帳 等 々 を 焼失 したが、 表境内 の 地 蔵 堂 と 釜敷地 蔵尊像  魔法王尊像 は 被災 を 免 れた。 文 禄四年 (一五九五) 建立の 地 蔵 堂 が土蔵 造 二 階 建の宝 物 庫 を 兼ね るものであったから、ここに収 め られていた 両 像は 難 を 逃 れた のである。 火災 二年後の安 永 九年 (一七八 〇 ) には 早く も本 堂 が 再 建され、 当時の 住職 念誉 義春 の 師僧洛東小松谷 清 涼 山正 林 寺 空 誉 義柳 上人の念持 仏 が本尊として 迎 えられたと伝える。 文 政三 年 (一八二 〇 ) 勝念寺第十四世 に 就 いた 隆阿義禅 は寺 誌 の 整理 に 専 心し、 洛東 一心山 専 念寺十七世 静 誉 順阿 上人 隆円 (一七五九 ~ 一八 三 四) の 寄附を 得 て 文 政 六年 (一八二 三 ) 七月、 『 伏見 安 養 山勝 寺開山之由緒』と 『 魔法王 像縁 』の二巻を 修補 している。 『 伏見 安 養 山勝 寺開山之由 緒』は主として開山貞安上人の 略歴 と 魔法王尊像の来 歴 を 略述 したもの で、 『 魔法王 像縁 』は 魔法王尊像の 詳 しい来 歴 と、 また所蔵什宝  勝念寺 歴代 等を記したものである。 右 の 両 書に記された 魔法王尊像の来 歴 譚 は、 『 平家 物語』 巻六 「慈心坊」 に 載 る、 い わゆ る慈心坊 説話 あるい は「冥 途 蘇生記」と 呼ば れるものの一伝本と 見 ることがで き る。しかし勝 念寺蔵『 魔法王 像縁 』は「冥 途 蘇生記」の 単 なる一伝本とい う に 止 まら ず 、「冥 途 蘇生記」 を下 敷 き として、 そこに 新 たな 説話 的 寺 誌 伝承を 付 加構成 していて 独 自の縁 起 譚 を 創 出している。 例 え ば 、縁 起冒頭 から、 勝念寺蔵 魔法王立像 松材製 高 6.6cm 同像部分影

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そのゝち太神宮へ參宮まし  下向道におもむき伊賀の國うへ野といふ に とゝまり此尊像を安置して 行おこたらすおハしける十王堂の聖と称して人 ミなたうとミけり終に此 ニてめてたく徃生のそくわひをとけたまひぬ までの文章はいわゆる「冥途蘇生記」とほぼ同内容のものであるから、信 長が閻魔像を入手した時、閻魔像に添えられていたものと思われる。それ に続く、 丗 を て織田の信長公此 へ鷹 有し時此尊像を拝見したまひ則寺領をな し給わり尊像を城内へ招 して厚く信仰まし  ける という一文は信長が尊恵伝来という閻魔像を入手した経緯を説明したもの で、おそらく信長周辺で語られていたものと思われ、あるいは信長自身も これを認容していたのではあるまいか。上引したように『蓮門精舍舊飼』 「勝念寺」 条 にも由緒正しい尊恵伝来の閻魔像が世に伝わって信長の所蔵 に帰した旨の記述があるから、その経緯を説明する右の一文を含んだ縁起 文は、貞安に下賜された閻魔像に添えられていたものと推量される。しか し右の一文に続く、 しかるに天正七年 己 夘 五月廿七日江刕安土浄厳院にして日蓮宗と宗論の事有し 信長公の命によりて貞安論談に及則貞安勝利を得給ふ 其趣具大雲院之記録 四ケ度論ニ 見タリ 其褒賞 として末代證據のため御朱印 并に 七種の寳物を貞安へ下したまわりぬ 以下巻尾までの文章は、安土宗論に勝利した貞安上人がその褒賞として御 朱印と七種の宝物を下賜されたことから始まり、閻魔像が二世安誉に譲ら れた経緯や貞安上人の略伝など勝念寺の記事に終始していることから、こ れが勝念寺で付加されたものであることは明らかであろう。 ※ 尊恵が伊勢太神宮に参詣し、その帰途伊賀上野に留まってそこで没した という伝承は、尊恵伝来閻魔像を祀る三重県伊賀市長田の天台宗平野山常 住寺の「閻王略縁起」はじめ、伊賀上野藩主羽柴伊賀守筒井定次が慶長七 年 (一六〇二) 常住寺で催したその 母 一 花妙 春 大 禅 定 尼 三十三 回忌会 の記 録である 唐 招 提 寺蔵 『慶長七 壬 寅 九 月六日伊 州 長田十王堂 供養 』や 、貞 享 四年 (一六 八 七) 菊岡如幻 が 編 じた伊賀 国 内の神 社仏閣 を 網羅 した 地誌 『伊 水温故 』 等 に見える。 例 え ば 、『閻王略縁 』( 墨刷 三 丁 無 刊 記 本 )の一 節 には、 律師毎 度太神宮 へ 參 籠 す。 折柄 此 にして 臨滅近 きことを 覚 へ給ひ 當 寺入 昼夜 護持 し給ふ冥 途 將來 の尊 像を 誰 か有 信の人に 授与 せ んとのふ 爰 に 百 田 何某靈 像を尊 崇 して 奉授 則 百 田院 に 堂 舎 を 建立 し 靈 像を安 置し て年 久 し 然 に伊 賀 乱 の 砌 堂 舎不殘兵火 に 燒失 すといへ 共 本 尊印章 等 ハ 火 災 を る 百 田 家 は此 時に 絶家 す 當 寺は 百 田 家 の 祈願 に し て 寺領五 百石 を 附 し て 長田山 百 田院 と 号 す物 かわり 星移 りて 委 しきゆ ゑ んは 知 る人ま れ な り 然 とも 本 朝 無 双 の 靈 像尊ふ に 尚 あ まり 有 國 鎮 りてのち 髙 山公 伊 兩 國を領し給ひ し時 大 通 院 殿 本 尊御 歸依 によ つ て 堂 舎 を 再 建 し給ひ寺 領 山 林 等 御 寄 附 有之 仍 御代 御 武運 長 久 の 祈 り 無 懈怠也 。 と、伊勢太神宮に参 籠 しその 死期 の 近 いことを 覚 った尊恵が常住寺に入寺 したこと、そのころ常住寺は 百 田 家 から寺領五 百石 を 受 けて長田山 百 田院 と称し 百 田 家 の 祈願 所であったこと、尊恵から閻魔尊像を 授与 された 百 田 家 は 百 田院に閻魔尊像を安置する堂 舎 を 建立 したこと、伊賀の 乱 で 百 田 家 が 絶家 したので閻魔尊像は常住寺が 護持 していること、時 移 り伊勢 伊賀 を領した 藤 堂 家 宗 家 二代 高 次 (一六〇二 ~ 一六七六、 法名 大 通 院 殿 ) の帰 依 を 受 けて堂 舎 が 再 建 され、以来 藤 堂 家 代 々 武運 長 久 の 祈願 所になっている こと 等 々 が 摘 記されている。 また 菊岡如幻 『伊 水温故 』( 岡 田 榮吉 編 、 昭和 八 年 十二月、伊賀 史 談 会 刊 )には、 野山 王寺 長田 庄 野 院 號 ハ常明院、 古ノ 本 堂ハ 羽 柴伊賀 ノ 侍從 定 造 立 、其 外鯢鐘 一 口 寄 。(略) 本  魔王 長一 寸 八 悋 ノ 木 像 王自 作 、 此 容 笏ヲ 持 シ ケ ル處 ニ參詣 ノ 群集散錢デ打 折 也 。 攝 州 淸澄 寺 ノ 侶慈心坊 惠 伊勢太神宮ニ詣 シ 、下 向 ニ 南京 禮 ノ 志 願 有 テ 長田 庄 百 田 ガ宅 地 ニ 宿ス 、 卒病 ニ 依 テ 期 臨 。 干 時 魔 ノ 像 ヲ 百 田 ノ 某 ニ 讓 リ、 金紙金字 ノ 妙 典 八 軸 ハ 淸澄 寺ニ 可謚ト言 畢寂 ス 。其 隨 言 法 華 八 部 ヲ 淸澄 寺ニ 本 ハ 累 代 百 田 氏 ガ 稱 護 念 佛 。 爾 處 ニ 比叡 山 松壽 院 寛 初 天ニ 靈

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像ヲ江府ニモリ下リ、 民ヲ勸三間四面ノ本堂ヨリ 舍厨裏ニ至テ再興ス、 即チ 王寺ト改ム。古ノ佛塲ハ當寺ノ東二町餘去テ 地ニ有。 古來二季彼岸ノ中日ニ開帳。 とあり、 什物として陸臣忠筆 「十王十幅」 「高 高久兩將ノ寺領寄附 」  「慈心塚」 があると記して 「冥途蘇生記」 を添記し、 末尾に 「當寺ハ天台 宗勢 州 松院ノ下」 と結んでいる。 こ の 『伊水温故』 の所伝によれば、 慈心坊尊恵が閻魔王から 施された閻魔王自刻の閻魔法王像は、尊恵が伊 勢太神宮参詣の帰途に伊賀の豪族百田氏に宿してこれを託した。尊恵没後 百田氏は堂舎を建立して閻魔王像を安置し累代崇敬護持していたが、百田 氏が天正伊賀の乱 (一五七八~一五八一) で絶家すると、これを常住寺が引 き継いだという。 常 住寺の十王堂は慶長七年 (一六〇二) 羽柴伊賀守筒井 定次が現在地より東二町ほどの地に建立したが、 万治二年 (一六五九) に 破損したので、翌三年藤堂家宗家二代高次が生母松寿院の十三回忌供養と して現在地に再建し、 二十三回忌に当たる寛文九年 (一六六九) には松寿 院供養石塔を寺裏山に建て、十王図ならびに寺領九石二斗二升を寄進した。 また三代高久がその遺命によって元禄十六年 (一七〇三) 五月裏山に葬ら れたように、常住寺は藤堂家歴代によって手厚い外護を受けたのである。 なお『閻王略縁 』に百田氏は天正伊賀の乱の際に絶家したと伝えるが、 百田氏は信濃に れ、末孫は姓を桃田と改め、現在も新潟県長岡市平潟諏 訪神社を宮 司 として 管掌 せ られている。 ※ 勝念 寺 蔵 『 魔法王 像縁 』は「 世 を て 織 田の信長 公此 へ鷹  有し 時此 尊像を 拝見 したま ひ則 寺領をなし 給わ り尊像を 城内へ招 して厚 く 信 仰 まし  ける」 と 織 田信長が尊恵 将来 の閻魔像を 「伊賀の 國 う へ 野 」 で 入 手した 経緯 を至 極簡単 に記している。この一文はいかにもその閻魔像 が伊賀 上野 の常住寺に伝 来 したものであるような 印象 を 与 えるが、しかし 常住寺の閻魔像は寺外に 流失 したことはな く 、現在も豪 壮 な厨 子 内 に 祀 ら れているのであり、そも『 魔法王 像縁 』には「伊賀の 國 う へ 野 」と あるだけで、常住寺の閻魔像に つ いての記 述 はないのである。 勝念 寺の閻魔像と常住寺の閻魔像がともに松 材 で 彫 刻されていること、 長が一 寸 八 分 というのは 共通 するが、 勝念 寺の閻魔像は立像であるが、常 住寺の閻魔像は 坐 像なのである。 常住寺の閻魔堂は平 成 八年 (一九九六) に 大規模 な 修 理 が施され、 明和 八年 (一七七一) 当 時 の 姿 に 復 元された。 堂 内 には 禅 宗 様 の豪 華 な 須弥 壇 上 に三 重 の厨 子 が 設 えられ、その 最奥 に一 寸 八 分 の閻魔王 坐 像が安置されている。これが 坐 像であることは常住寺が か つ て 春秋 の彼岸中日に開帳した 折 に参詣 者 に 頒 布 した 御影ふ だによって も 明 らかである。 左掲 した 御影ふ だ( 宮 島コレク ション 蔵 )には閻魔王 坐 像が 描 かれ、 下 方 に寺 名 常住寺と閻魔王の 印 章 、 上 方 に慈心 房 尊恵が閻魔王より受けた 誓言 四 句偈 「 妻 子 王 位 財眷属/死 去 無 一 来 相親 / 常 隨業 繋縛我 / 受 苦叫 喚 無 邊 際」が記されている。 勝念 寺が 今 も参詣 者 に 授 与 して いる 魔法王の 御影ふ だは、下 方 に「 伏 見勝 寺」とあり、 上 方 に 常住寺の閻魔法王 御影 におな じ く 閻魔法王の 誓言 四 句偈 「 妻 子 王 位 財眷属/死 去 無 一 来 相親 / 常 隨業 繋縛我 / 受 苦叫喚 無 邊 際」が記 され、 摩 大 王像を 挟 んで、 ( 右 ) 閻 摩 大 王 請 慧 上 人聞 法手自 授 此 霊 像 ( 左 ) 織 田信長 公 賜 開山 貞 安 上 人 種 寳 物 是其 一 木版 29.3cm×16.5cm 常住寺閻魔堂内厨子

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と刻されていて、この尊像が法王の屈請を受けて地獄に行った尊恵にその 施として法王が手ずから授与した自刻像であること、時移りこれを所持 していた織田信長が安土宗論で勝利した貞安上人に下賜した七種宝物の一 つであると説明している。尊像は口唇にわずかな朱を残した温願である。 勝念寺にはまた織田信長から下賜されたと伝える「かましきさん」の通 称で知られる慧心僧都真作という地蔵菩 像が祀られている。その御影ふ だには下方に「伏見勝 寺」とあり、地蔵菩 立像を挟んで「代重 奔 地蔵 /慧心僧都真作」と刻まれている。勝念寺ではこれを身代釜敷地蔵尊と 称して大切に護持している。 『 魔法王 像縁 』「什寳物」項に、 一身代釜敷地蔵  惠心作立像御長 俗 ニ 獄中歩行之地蔵 ト 云 とあって、世俗に「獄中歩行之地蔵」と呼ばれていたという付記からする となにか物語が存したように思われる。 なお勝念寺の「閻摩大王」と「代重 奔 地蔵 」の御影ふだは、文政年間 (一八一八~一八三〇) に諦誉義禅の師僧である専念寺順阿隆円から贈 ら れ たものである 。 隆 円 は 京 都の人で法 名を託 静 と も称し、 閑 院 宮 家の帰 依を受 け和 歌に も通じ た学 僧で、 『地獄実有説』 『近世往生伝』等 の 著 作 が あ る 。 ※ 勝念寺十四世隆阿義禅が師隆円の助力を得て文政六年 (一八二三) 七月 に修補した 『伏見安養山勝 寺開山之由緒』 は元禄九年 (一六九六) 五月 一日に五世専誉了玄が記しおいたもので、あるいは了玄の自筆かと思われ、 『 魔法王 像縁 』 は 安永七年 (一七七八) の火 災で原 本が罹 災し た の で 義 禅 が 残 簡 や 寺 伝 等 をもとに 再 成 し 、 それに 什 宝 歴 代を付し て一 巻 としたも のと 推 量 される 。 な お 『 魔法王 像縁 』 は 兵庫県宝塚市 莱山清澄寺 の 伝 え る 『冥途蘇生記』 を 祖 本 と し て 派生 し た 別本 異 本 と 称 されるものの 一 つ で あ る が 、 慈 心坊尊恵 が 伊 勢太神宮 に 参 詣 し 、 そ の 帰 途 に 伊賀上 野で没し たという 他 にない 伝 承 を 載 せ て い る 。 こ の 尊恵参宮伝 承 は 常 住 寺蔵 『冥途蘇 生 記 』に記 載 はないが 、 同 寺 刊 『閻王 略 縁 』や『 伊 水 温 故 』に見え、ま た 常 住 寺蔵 『冥途蘇生記』 と 『 魔法王 像縁 』 はその 閻 魔 像 がともに 松材 製 一 寸 八 分 の 小 像 とするな ど共 通し、 両 寺の閻 魔 像の縁 起譚 は伝 承 圏 を 同 じ く すると 考 え ら れ る 。 し か し 伊賀上野 に と ど ま っ た 尊恵 が 「十王 堂 の 聖 」と 衆庶 に尊 崇 されたという 『 魔法王 像縁 』の伝 承 は 常 住 寺 周辺資料 に見 え ず、 ま た勝 念 寺の閻 魔 像は慈 悲相 の 立 像 であるが 、 常 住 寺 のそれは 忿怒 相 の 坐 像 であって 、 同 一の伝 承 圈 にあっても 閻 魔 像 各々 に 独 自の縁 起譚 が存し ていたと 知 れ る 。 ことに 『 魔法王 像縁 』 後半部 は、 応 和三年 (九六三) 八 月の清 涼殿 における 南 都と 北嶺 の宗 論の 際 に 松 室仲算 の 難業 に 恨み を 含 ん だ 慈恵僧 正 が 平 清 盛 に 化 生し て 南 都を 焼 き、 仲算 はその 報復 として 織 田 信 長 に 化 生して 叡 山を 焼 いたのだと記し、尊恵はその宗論の 因 縁によって清 盛 追善 の 施として閻魔王から自作像を授けられたのであり、貞安上人は安 土宗論の 施として信長からその閻魔自作像を下賜されたのであって、 因 縁 不 思 議 という ほ かはな く 、お そ ら く 貞安上人 は 尊 恵 の 再 来 なのであ ろ うと 一 話 を 結び 、 次 いで勝念寺の寺歴を 略 述 したもので、 「冥途蘇生記」 の 改 変展 開を 具体的 に 示 すきわ め て 貴 重でかつ 特 異な存 在 ということができる。 木版 25.0cm×17.8cm 木版 20.0cm×14.0cm

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伏見安養山勝



寺開山之由緒

」 知恩院末寺 山州伏見郷丹波橋石屋町 安養山勝 寺開山 敎 社 譽貞安之由緒 一姓 ハ  氏 ハ 北條生國 ハ 相州黒沼 ノ 郷 一剃髪 ノ  相州小田原 ノ 大蓮寺 七歳 ニシテ 爲 ナリ 二 堯譽上人 ノ 之弟子 ト 一 十一歳 ニシテ 祝髪受戒 一學文 ノ 檀林 飯沼 ノ 弘 寺 隨 ヒ 二堯譽 ニ 一 移 ツテ 二 弘 寺 ニ 一修学 シ 為 ナル 二 伴頭 ト 一 一移住 ノ  始 テ 住 二 ス 能登七尾 ノ 西光寺 ニ 一 織田信長公有 テ 二御歸依 一 建 二 シテ 江州田中 ニ 于西光寺 ヲ 一 ム 二 住持 セ 一 テ レ 今 ニ 有 リ 二寺領 ノ 之 御朱印 一 コロ 開 二 基 シテ 佐渡 ノ 大安寺 ヲ 一又還 テ 二 01 05 10

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江州 ノ 西光寺 ニ 一 居 ヲラシム 織田信忠郷 號 ス 二 大雲院殿 ト 一 於 テ 二 洛 ノ 室町御 ヲ 池 ノ 殿 ニ 一 薨 シ玉フカ 故 ヘニ 賜 ヒ 二 其 ノ 地 ヲ 於 貞安 ニ 一 テヽ 二 堂宇 ヲ 一 即 チ 號 ス 二大雲院 ト 一 其 ノ 後移 シテ 今在 リ 二 京四條寺町 ニ 一 復 タ 開 二 基 シテ 當寺 ヲ 一 讓 ラル 二 弟子安譽 ニ 一 一當寺 ノ 起立 天正十五 丁亥 年 至 テ 二 元祿九 丙子 年 一 百十年 一貞安遷化 元和元年 乙卯 七月十七日七十七歳 ニシテ 寂 ス 来歴 天正七年 己卯 五月廿七日應 シテ 二 信長公 ノ 命 ニ 一 於 テ 二江州安土浄嚴院 ニ 一 與 ト 二日蓮宗 一 論 シテ 二 邪正 ヲ 一 得 リ 二 勝利 ヲ 一 即 チ 爲 シテ レ 證 ト 賜 フ 二 御朱印 并 ニ 霊寳 多品 ヲ 一委事畧 ス レ 之 ヲ 時年四十一 霊寳 ノ 之中 ニ 有 リ 二 閻魔王 ノ 像 一 長 ケ 一寸八分 是 ハ 者摂州清 キヨ 澄 ス 寺 ノ 慈心坊 惠 承安二年 壬辰 十一月 一日  ニ ス 翌日 蘓生 シテ 語 テ 曰我 レ 依 テ レ ニ 到 テ 二 閻宮 ニ 一 ル 二法華經轉讀 ノ 勹 座 ニ 一 退去 スル 時閻王爲 シテ 二 施 ト 一 賜 フト 二 此 ノ 像 ヲ 一 即 チ 15 20 25 30

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出 ス 二 手中 ヨリ 一 世 ヨヽ 傳 ハツテ 信長公有 テ 二 御 冬 持 一 賜 フ 二 貞安 ニ 一 安譽仰信 シテ 請 ヒ 二 受 ケ 之 レヲ 一 今在 リ 二 當寺 ニ 一 天正年中奉 ウケタマハツテ 二 正親町院 ノ 之詔 ミコトノリヲ 一 於 テ 二 禁中 ニ 一 法 スルコト 數回 アマタヽヒ 元和元年乙卯五月十六日於 テ 二 二條 ノ 御城 ニ 一 奉 ル レ 拜 二 謁 シ 東照大権現 ニ 一 来歴詳 カニ 在 リ 二 大雲院 ニ 一 元祿九年 丙子 五月朔日勝 寺住持專譽 記二巻 トモ 花頂宮御院家 專念寺十七主也隱居後暢號也 常恭敬院殿静譽順阿上人隆円大和尚 修補代御 下 附 文政六年癸未七月 見住十四世 一 社 諦譽隆阿義禪代 」 35 40 45 50 51止

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魔法王



像縁



山城國



伊郡伏見丹波橋

安養山勝



」 抑當寺 魔法王尊像のゆらひをくわしく 尋奉るに攝州に清澄寺といふ山寺有俗に きよし寺ととなへける其寺に慈心坊尊惠とて 貴き聖おハしけるもとハ叡山の学侶ニていみし き法華持 の人なりしか道心をおこし離山し て此寺にすまれける人ミな歸依しけるとそ承 安二年 壬 辰 十二月廿二日の夜常の佛前にて法華 讀奉られける 冬 に夢ともなく現ともなく浄衣 に立ゑほし着たる男の立文を持て來ル尊惠あ れハいつくよりの人そととわれけれハ 魔王宮 よりの御使なり告文候とて尊惠にわたす 披見せらるゝに 」 崛請 閻浮提大日本國攝津國清澄寺慈心坊 右来 ル 廿六日於 二 魔廳 一 以 二 十万人之持 者可 レ レ 轉 二讀十万部之法 勁 一 冝 レ 被 二 喜 一 者依 001 005 010 015

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王宣崛請如件 承安二年 壬 辰 十二月廿二日 丙辰丑時 魔廳 とかゝれたり尊惠いなミ申へきにあらねハ領掌の 請文を書て奉ると見て覚にけり例時の程に なりけれハ寺へ出て 行おハりて院主の光 陽 その外老僧一兩人に此趣をかたられけれハ 聞人身の毛よたちて昔もさるためし云傳へたり 其用意有へしと有けれハ其後ハひとへに臨 」 終のおもひをなし口に佛名をとなへ心にゐんせうの 悲願を念しいよ  おこたらす 行したまふ 万僧きそひ來りてとふらひ申けるすてに廿五日 の夜に入て心地れいならす丗中心ほそくおほえて 打 けれハやかて息絶にけり扨次の日午の 時はかりにいきかへりて 持法 官 其心甚清 浄の偈を此五行ほと誦せられつゝ其後起あ かりて冥 の事共かたられけり 怨 ともなく 現ともなくさきの男來りて早參せられよ とすゝむ尊惠參詣せんとするに衣鉢なし 如何とおもふに法衣しせんと身にまとひ天 よりこかねの鉢を下し二人の従僧二人の童 」 子十人の下僧七寳の大車寺坊のまへに現す 則乘車して西北にむかふて空をかけるとおもへ ハ程なく 魔羅城に至る王宮の躰をミるに 外廓渺 として其内廣 たり其中に 020 025 030 035 040

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七寳 成の大極殿有高廣金色にして更に 夫の眼に及かたし大極殿の内四面中もんの 廊に十人の冥官有て十万人の持 者を  分して各一面に着座せしむ講師讀師高 座に上 り 餘僧法用して大行道し畢て開白 説法して十万人僧 王轉讀す其聲冥 界にひゝき罪垢をあらふ獄囚は湯鑵を いて罪人枷 を免かれたり 王玉座にざし 」 冥衆階下 ニ 列て聽聞有轉讀既畢て十万僧 供養をのふ供養終りて諸僧歸り去ぬ 王尊 惠をめしてしとねをもうけてすへらるゑん王ハ 毋屋の御蘆の内におハし冥官冥衆ハ大床に つらなれりさま  の問答す尊惠千部の法 官 を冥衆へ勧進のついて日本の將軍大政入道 清盛攝津の國和田の御崎にして千人持 者 を請して丁寧の讀 説法侍りき殆とか の十万僧會のことくなりきと奏せられけれは 王随 感 肭 して曰我其の僧讀 の時は 影向衆として聽聞せしき淸盛入道ハたゝ 人にあらす慈惠僧正の化身也故に我毎日 」 三度つゝ礼をなすとて偈を授給ふ 敬礼慈惠大僧正 天台佛法擁護者 示現再生將軍身 悪業衆生同利益 045 050 055 060

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汝此文を彼大相國入道にまいらすへしとていとま たひて歸るとおもひて覚ぬとそ此むね大相國 入道へ申入られけれハなのめならすもてなしさま  布施をひき律師にそなしたまひけるその 後養和元年三月十六日いつものことく讀 し給ふ まへのことく使の男來りて告文を渡す披見す るに十八日に可來集之 也けるにそさきの ことくして心に待もうけらる十七日のよにいり 行せられしにしきりに睡眠に催されて 」 住 に けれハ又おの  來りて早參をすゝ む則乘車して 王宮にいたり十万僧につら なり法 官 轉讀すかたハらの僧語て曰大政入 道淸盛罪悪深重によりて無間地獄に墮せり 其因 は人皇六十二代村上天皇の御宇應和三年 禁裏淸凉殿にして南都山門の碩学をめし宗 論の事有し慈惠僧正兩度すくれ玉へり南都松室 の仲 判者として參内せられけるか此兩人言談 理義明らか也とて褒賞有ける慈惠仲 いつれも 權者の事なれハ宗 の奥儀を極給ふ事いつれお ろかハなかりけるとそ退座の後仲 文をも つて慈惠に論談有けれハ慈惠閉口して本意なく 」 おもひ一 の恨ミを含給ふ大政入道と生れたまひ 南都の佛宇を燒拂給ふも此因 によるすへて 此大政入道悪業莫大なりといへとも善根又莫大也 065 070 075 080 085

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しかるに入道逝去の日より佛事作善のいとなミなく 一もんけんそく合戦闘争をことゝし罪惡煩悩にくるし む 王あわれミたまひ此度の讀 は此入道の為 の結 と承るとかたりぬ轉讀畢ておの  本 國に歸り去ぬ尊惠は中もんに立てはるかの大極 殿を見わたせは冥官冥衆 王の御前にかしこ まる有かたき參詣也此頃年に後生の罪障を尋申さ むとおもひ歩ミむかふ従僧童子下僧例を引て歩 ミちかつくときに 王座より立冥官冥衆悉ク 」 おりむかふ 王のたまわく諸僧皆歸り去御  一人殘來る事いかんと尊惠答て我 年より法 官 轉讀毎日怠る事なししかりといへとも後生の罪障 いまたしらす尋申さんか為也と 王答て曰徃生 と不徃生は人の信不信に有といへとも夫法 官 は 三丗の諸佛出丗の本懷衆生成佛の直道也一  しんけのくとくハ五波羅蜜の行にもこへ五重てん  の隨 のくとくハ八十ケ年の布施にもすくれ たりされハ汝かのくりきによりて都卒の内院に 生すへしと又冥官にちよくして仰けるハ此人の 一期の行作善之文箱に有取出て化他のひもん 見せ侍れと仰けれハ冥官かしこまり取出てふ 」 たを披て讀立る一期か間おもひとおもひせし とせし事をつとしてあらわれすといふ事なし 尊惠悲 涕泣してねかわくは出離生死の要 法證大菩提の直道をしめしたまへと申されけれハ 100 110 105 095 090

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あいみんけうけして偈を咒して曰 妻子王位財券属 死去無一来相親 常隨業 繋縛我 受苦叫喚無 際 此偈をふそくし又そはなる松を剪て 王ミつ からの尊像を制作し今日の 施とてたまわ りしめして曰攝津の國に淸浄の地五 ケ 有 り 淸 澄寺其中の一也汝順次徃生の業をはげまし 衆生済度すへしとていとまたひて南方の中門 」 をいつる藥王菩 ゆせ菩 は二人の従僧と成多門 持國は二人の童子と現十羅刹女は十人の下僧 と 操 して隨逐給仕して車を東車にむかひ 空をかけりて程なく歸りぬとおもへハ 怨 の心地 して覚たり左手を開き見れハ此尊像を掌 中に握りましませる也竒特成し事ともなり 夫より晝夜此尊像を尊敬しいよ  道心堅固 ニ して誦 行はけまされけるそのゝち太神宮へ 參宮まし  下向道におもむき伊賀の國うへ 野といふ にとゝまり此尊像を安置して 行おこたらすおハしける十王堂の聖と称して 人ミなたうとミけり終に此 ニてめてたく徃 」 生のそくわひをとけたまひぬ丗 を て織田の 信長公此 へ鷹墅有し時此尊像を拝見したまひ 則寺領をなし給わり尊像を城内へ招 して 厚く信仰まし  けるしかるに天正七年 己 夘 125 130 135 120 115

(18)

五月廿七日江刕安土浄厳院にして日蓮宗と宗論 の事有し信長公の命によりて貞安論談に 及則貞安勝利を得給ふ 其趣具大雲院之記録 四ケ度論ニ見タリ 其褒賞として末代證據のため御朱印 并に 七種の寳物を貞安へ下したまわりぬ七種は 魔法皇尊像 山雪 石 狹  一休一枚起  玉澗山水 弘法大師之作 錢大黒板木 軍配團 」 右 魔法皇尊像ハ則當寺の什物殘り六種は 洛の大雲院の什物たり されハ慈惠僧正は天台の佛法を擁護のため平相國 入道と生れ南都の佛宇を燒拂給ふも修悪 ク 性 悪としめし給ふものならむかこれによりてこれを おもへハ信長又叡山を燒拂給ふもたゝ事には あらし仲 師の再來ともいわむか示現再生將軍 身を示し給ふか慈惠は観音の垂跡仲 又 権者の化現淸盛といひ信長といひいつれも悪業 衆生同利益の為ならんしかれハ大権方便の慈悲 をもつて實業の衆生を濟度せんかために造罪 招善のむねをしめし盛者必衰の理を顕し 」 給ふにや悪業も善根もともに劫をつむて 丗の為人のため自他の利益をなし給ふと 見えたり貞安和尚此尊像尊敬し奉られけるを 子安誉渇仰他にことなるによりて安誉へ ふそくし給ふ授与の文 140 145 150 155 160

(19)

従織田信長樣我等 ニ 被下置候十王雖為重 岨 令譲与 子心蓮社安誉候畢能 奉敬 可有衆生濟度者也仍而如件 大雲院開山教蓮社聖誉 慶長廿年 夘 夘 月十四日 貞安判 西光寺安誉 参 右授与の文貞安和尚直筆則當寺有之 」 同年五月十六日 東照宮の依招 二条御城 内におゐて拝謁法談し給ひ月すへより異例 の心地有により安誉を招たまひ當寺をふそ くし住持候へとのたまふ故安誉有 く領承 して則西光寺より當寺へ移住し什物等 将來候也夫より此 魔法王尊像 一の什物と して諸人に結 せしむるもの也尤當寺は 天正十五年に貞安上人開基建立して慶 長廿年まて廿九年の間上人兼帯の隱室 たり慶長廿年六月に 子安誉へ譲り 七月十七日に示寂したまひけり 日本一州 貞安聖人の事しらさる人もなし又この 」 十王尊像の事ハ宗論の因 によりて平の淸盛公 追善の 施として冥主 王御直作の尊像 閻浮に出現数百年を て平氏信長公の 御手に入そのうへ宗論の 施として貞安 聖人へ下給わるもしかるへき因縁ふしきといふ 170 175 180 185 165

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へきもの 篝 聖人は尊惠の再來かしらす 本朝無双の尊像仰てもあほくへく貴て□ たうとむへし極悪深重の衆生値遇の結 を なし二丗の悉事をいのり奉るへきもの也 」 教 社聖誉上人貞安大和尚の初生ハ相 模の國黒沼郷平家北条何某の子にてそ 有ける七歳の時同國小田原大蓮寺堯誉 上人を師として入寺せしめらる十一歳に して祝 受戒し給ふ学文の檀林は飯沼の 弘 寺堯誉弘 寺へ轉住有ける故則師に 隨て移住したまひ修学して伴頭たらしむ 能登の國七尾といふ 西光寺より招 に よりて始て住寺し給ふ織田信長公歸依に より江州田中といふ にて西光寺といふ を建立して住職せしめ給ふ其後佐渡 の國に渡り大安寺といふを開基建立し たまひ又江刕西光寺へ還住し給ふ織田 信長公明智日向守為に薨去なりしその地を 貞安へたまわり堂宇を建立して大雲院 と号す 室町御池の御殿也今京極四条移 ス 190 (空行) 195 200 205

(21)

則住職したまひ西光寺は安誉に住持せしめ給ふ 當今正親町院奉勅詔禁裏におゐて説法 あまたゝひなり堂上堂下歸依したまひて 衆生濟度の利益も廣かりける其後天正 十五年當寺を建立して隱室として 慶長廿年まて住持したまひける同とし 五月十六日 東照神君の招請により二条の 御城内におゐて拜謁法談したまふ五月末つ かたより病の床につきたまひしか心地例ならす 終焉程あるましとて安誉を招たまひ遺 言等申置たまひ形見にとて直筆の法名 を安誉に授与したまひそのうへ予は江刕 に西光寺佐州に大安寺洛に大雲院を 開基せしめぬれは此寺は汝開山となりて 衆生済度すへしとて授与し給ふにより 安誉有かたく領承して當寺へ移住し たまひける終に七月十七日臨終の期ち かつきぬとて称名 佛をはけまし目出 度徃生の本意を遂たまひけり 210 215 220 225

(22)

南無阿弥



諦誉隆阿敬拜書 什寳物 一本 阿弥陀如来 惠心作 簧 像御長 二菩薩新佛 專誉 立 御燒失 一 魔法王 像 冥  王直作御長一寸八分 貞安自筆安誉 江 譲 添 一身代釜敷地蔵  惠心作立像御長 俗 ニ 獄中歩行之地蔵 ト 云 一金銅像観世音 天竺佛 簧 像御長 一毘舎門天王 惠心作立像御長 一聖德太子七歳御影 御直作立像御長 一阿弥陀如来 鳥佛師作 立像御長 貞安上人安置佛 一門出八幡宮 傳教大師作 立像御長 右仝 230 235 240 250 245

(23)

一二十五菩  惠心作 厨子高 サ 右仝 一持 華 作不知髙 サ 圓光大師御 冬 持貞 安 持 一浄 曼陀羅 惠心之筆 燒失 本紙天地 一涅槃像 唐佛 燒失 本紙天地 」 當寺住職代々 貞照院方誉 西居士 安養院西誉妙敎大  貞安上人二親法名 教 社聖誉上人貞安大和尚 壽七十七才 元和元年 乙 卯 七月十七日示寂 天明五年  百七十 壱 ● 年 心 社安誉上人貞保和尚 万治九年 戊 戍 七月廿二日示寂 壽九十三才 安 社養誉上人貞辨和尚 延宝九年 辛 酉 二月五日示寂 右代々弟子譲法脉相續 」 定 社辨誉上人龍越和尚 元禄十年 丁 丑 五月五日示寂 社專誉上人了玄和尚 正德六年 丙 申 二月一日示寂 澤誉上人 江府移住 255 260 265 270 275

(24)

観 社察誉上人順慶和尚 享保八年 乙 夘 十一月廿八日示寂 観誉上人 冨田林 ヘ 移住 光 社澤誉上人白龍和尚 再住後又當麻 佛院 ヘ 轉住 ニテ 化 享保十六年 辛 亥 九月十七日示寂 善 社勧誉上人舜長和尚 當住 之 遠誉上人當代本堂庫裏燒失 于時安永七年 戊 戍 六月 過去帳焼失 地藏 藏殘リ 御本 燒失 當寺本 者小松谷義柳上人念持仏也 安永九年庚子本堂再建 念譽代 安永九年六月十一日 深 社念譽上人義春和尚

文政六

癸 未

年七月修補之

見  十四世

諦譽義禪

(花押) 280 285 290 292止

(25)

従織田信長樣我等 ニ 被下置候十王雖為重 宝令譲与 子心蓮社安誉候畢能  奉敬可有衆生濟度者也仍而如件 大雲院開山教蓮社聖誉 貞安 (花押) 慶長廿年卯月十四日 西光寺安誉 参 (まつば しゅんみょう 安養山勝念寺住職) (せきぐち しずお 歴史文化学科)

閻魔十王像譲与状

参照

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