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チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯 利用統計を見る

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チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」

の生涯

著者名(日)

隅田 正三

雑誌名

井上円了センター年報

9

ページ

135-165

発行年

2000-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002845/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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チヘット探検の先駆者哲学館で学んだ⊃能海寛﹂の生涯

隅田正ニ

ミきS§

はじめに  一世紀前の明治三十一年に仏教を世界に広めるには仏教の﹁英訳経典﹂を世に送り出す事が必要と、そのため には釈迦直伝のサンスクリット経典に最も近い﹃チベット語大蔵経﹄を求めて中央アジアへ探検に赴き不帰の人 となった学僧・能海寛は明治元年五月十八日島根県那賀郡波佐村︵金城町長田︶浄蓮寺で誕生した。  日本のチベット探検家十名の内の一人。明治十九年にチベット探検を発起し、爾来十二年にわたり語学、国 政、風俗、習慣、医療、気象、富士山登山など用意周到に体験学習を積み探検に赴いた。明治三十一年に中国に 渡ってから二年五カ月の中国滞在中に記録した日記、旅行行程記録、地誌、論文などが昭和六十一年八月と平成 八年十月の二回にわたり大量な文献が見つかり、現在約三千五百点に及ぶ能海資料が金城町歴史民俗資料館に保 管展示されている。  現在資料館に収蔵されているものに、能海寛が中国から将来したサンスクリット経典、チベット語大蔵経典、 など五十六巻。西蔵仏像︵触地印、ジャンバラ神、ミラレーパ、多羅菩薩及び小仏像多数︶。仏具︵デイルブ、小太鼓、 マニ車、カンリン︶。旅行許可証︵護照、博牌︶。石板額。硯。ルンタなどがある。 135 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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 また、能海寛直筆の普通教校、大学林、慶応義塾、哲学館時代の講義記録ノート及び研究ノート多数。英文日 記﹃知恵と慈悲﹄、﹃春秋日記﹄、﹃渡清日記﹄、﹃虎枕日記﹄及び﹁手帳﹂等の日記。﹃夏期旅行日記﹄、﹃東京南島 紀行﹄、﹃石見潟高嶋記﹄等の国内旅行記。﹃第一号﹄、﹃飛越關碑記﹄、﹃進蔵朝佛記﹄、﹃在漁日記﹄、第六号﹃西蔵 国地誌略﹄、﹃雨夜物語﹄、﹃丙第五号﹄、﹃第三号﹄等の海外旅行記等の旅行行程記録。﹃世界に於ける佛教徒﹄、 ﹃甘粛論﹄等の論文など研究素材が山積している。  これらの記録の中で、中国の研究者から一世紀前の中国の地名やスケッチ、風俗、習慣、民話などあらゆるジ ャンルで能海寛の記述した史実が見直されている。また彼の文章の文学的記述にも高い評価を受けている。現在 ﹁能海寛研究会﹂を中心とした全国研究組織で彼の業績が再評価される機運が高まってきた。  能海寛をより理解いただくためにチベット探検家﹁能海寛﹂の生涯について順をおって記述することとした い。 136 おいたち  能海寛は真宗大谷派天頂山浄蓮寺︵当時の檀家数三百九十戸︶で父法憧・母ユクノの次男として誕生した。寛は 生涯にわたって三人の父︵徳言・法瞳・謙信︶をもち、兄弟は︵兄の千代摩︵法言︶、寛︵法流︶、妹のハツ︵初子︶、弟 の斉︵斉入︶、義妹のスエ︵末子︶、弟の登︵皆乗︶︶の六人であった。  父の法瞳師は明治八年八月十六日、井戸の復興疲れで夏風邪を悪化させ永眠した。このため、同年十二月四日 には三番目の父謙信師が娘の末子を伴って有福村大金︵現浜田市大金町︶谷家から入寺したことにより、寛は広 島県山県郡芸北町の専光寺︵父の生家︶で養育されることとなった。

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仏門への旅立ち  明治十年六月十二日には広島小教校へ入学し、三年間漢書を学んだ。桑門巌氏とは無二の親友として生涯に亙 って親交を深めた。その間に明治十二年十月二十八日︵十 歳︶で京都真宗東派本山本願寺住職大谷光勝法主か ら浄蓮寺衆徒伍授牒を授けられて得度した。得度の様子は﹁得度二付道中及入佛帳﹂により寛の利発な姿が浮か んでくる。収入の部、母、兄、檀家より二十七円三十八銭。支出の部、宿代十四銭、舟代十八銭、ぞうり代七 厘、汽車代二十銭、印かん代一銭、数珠代十五銭、記念写真代十五銭、笛代六銭、食事代六銭、下駄五銭、そば 二銭、経本五十六銭など小計十円十四銭五厘。と詳しく記述している。この得度の単身旅行が将来の冒険家とし てのスタートでもあった。  また、明治三十一年五月には、これまでに使用した経費を詳しく記している。明治十二年得度入費十一円四十 三銭五厘、明治二十八年余間継席十円、院家整理百四円、明治三十一年法衣新調五十円、明治三十一年法服七条 百二十五円五十銭、法衣新調七十円、合計三百七十円九十三銭五厘。明治十八年から三十一年四月までの経費九 百六十七円六十五銭五厘。総合計千三百三十八円五十九銭。と几帳面に記録している。  そして寛は、明治十四年に郷里に帰って来た。浄蓮寺では教導師としての義父・謙信から将来性を見込まれた 寛は後継住職としての期待を一身に担い厳しい教育を受けた。故郷にあっては四年間、法務に専念する傍ら毎年 の夏場には浜田町︵現浜田市︶の石見学場︵明清寺・浄慶寺など六力寺︶にて宗教家としての基礎的な勉強をした。 向学心に燃えて  明治十八年九月十六日に再び広島教校に入学した。 広島教校では、高僧和讃、三国伝、通縁起、十八史略など 137 チベノト探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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を学んだ。十二月二十日の試験を以て閉校となり、二十一日より六丁目桑門方へ寄留して越年し一月十五日まで 過ごす。帰郷したのは十九日から二十二日の四日間で、二十三日には広島迄と偽り浄蓮寺を発った。この時、寛 の手持ちのお金は十一円余りで父からも一円をいただいていた。途中専光寺で二泊、庄原喜作宅で一泊、桑門宅 で三泊した。  二十九日夜、広島港から﹁サヰキ丸﹂に乗船三十一日朝、大阪着、正午に京都・新町の友人桑門巌宅へ到着し 寄留する。三月五日の京都普通教校への入学を待つこととなる。京都普通教校の入学に当たっては豊島勝太郎氏 が請人となり明治二十二年十二月まで在京し英学、普通学、佛学等を学んだ。  三月十七日までは、車中筋御前道上ル分舎宿、十八日から本舎寄宿となり東寮三号室で伯書の垣山清、近江の 蚊野仙次郎、紀伊の小池智覚の四人が同室であった。  五月廿九日、寛は﹁反省有志會員﹂第八十五号として入会している。会の大意はコ 禁酒ノ事、一 狸褻ノ 場所二立入ル可ラス﹂とある。  六月十一日、コレラの流行により、学校は閉校となり、寛は一時、帰郷することとした。十二日、大阪港を発 ち翌十三日広島港へ到着。三丁目野田宅で二泊、道中庄原で一泊、専光寺で二泊、十八日に帰郷した。  再び、学校が再開されることとなり、九月十日出発した。広島までの途中は都志見で一泊。十一日、加計から 川舟で丁川︵ようがわ︶、現在の太田川を下り慈仙寺の鼻︵現在の平和公園︶と言われる広島の船着き場に着く。 十二日夜、広島港から乗船、十四日朝大阪港着。京都桑門宅で一泊。十五日に帰校した。  十月十日、反省会へ﹁誓約書﹂を出し、会員となりその後活発に活動する。学校が再開されて、そこで恩師と なる南條文雄博士に出会い、梵語学研究の触発をうけ、十九歳でチベット探検を公言し探検家﹁能海寛﹂として 138

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の旅立ちが始まった。  西寮二号室の親友である蚊野倦次郎氏︵滋賀県︶から﹁活眼﹂という激励文を受け取っている。この活眼には 寛の顔を描き、﹁活眼ヲ開テ君ガ成業ヲ待ツ勉メヨヤ勉メヨヤ﹂と書き、﹁明治十九年十月二十三日午后七時於西 京普通教校西寮第二号室、石見一傑士能海寛貴兄﹂とある。この文面が証明するように十月二十三日、普通教校 においてに南條博士の呼びかけに応えて能海がチベット行きを同僚を前にして公言したことが伺える。尤も南條 博士の裏付け資料として﹃能海寛遺稿﹄能海寛君略傳で﹁十九年本願寺派の普通教校に入りて、⋮⋮君の西蔵探 検の志は巳に此時より発起せり、⋮⋮﹂と述べている。 京都・普通教校時代  寛は、明治十九年十一月二十三日﹁ニュー・ナショナル第三読本﹂三十章までの英文を直訳している。引き続 き第二巻を十二月三十一日に終えている。この頃の寛には、可なりの英文力があったものと思える。  ﹃普通教校人士﹄の沿革記により略記すると﹁明治十八年四月十八日をもって西六條に開学する。教校の精神 は僧俗を問わず宗派を分かたず遍く佛弟子を教育して広く同胞の拡張せんとする。仏教学校に外国人を聰用す る。二十一年十二月二十五日大学林例の発布により学生の多くは四方八方に分散した。ましてや文学寮に残れる 者は甚だ少なく⋮⋮。﹂と述べている。明治十八年開学以来八二三名の学籍名簿を見ることができる。この名簿 の中には備後國の小林洵︵後の高楠順次郎︶、肥後國の東温譲、紀伊國の古川勇、越前國の中臣︵梅原︶融などの 同窓生がいる。  寛のチベット行きは、単なる思いつきではなかった。﹃世界に於ける佛教徒﹄第十六章の﹁仏典翻訳﹂で理路 139 チベソト探検の先駆者 Pt7館で学んだ「能海寛」の生涯

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整然と次のように述べている﹁英国の布教に於て、最も必要なるは仏典の翻訳なり。⋮⋮普及せる言語に由り て、翻訳を始むべし。⋮⋮国語多き中、予は、その第一着は英文に訳するにある⋮⋮全世界人口の ○分の↓以 上に及び就中英国中屈指の強盛なる英米の語なれば、これ最も必要なり。オルコット氏の仏教問答の如き、英文 を以て、成る故、巳に十五、六力国の文に訳せられたり。かくのごとく、一度仏典も英文に訳せられるときは日 ならずして、又諸国の語に訳せらるべし。⋮⋮﹂と、世界五億仏教徒の結束をと、広大な考えをもっていた。又 仏教を訳すには梵学と英学の二つに精通すべきであるとも述べている。  爾来、目的達成のため周到に語学と訓練に勤しんだ。明治二十年三月三日、寛は本科初年級へ編入となる。十 八年頃から寛は宗教雑誌﹃佛教﹄﹃教學論集﹄﹃日本之教學﹄等を購読しており、その掲載されている論文の主な る執筆者︵南條文雄、大内青轡、小栗栖香頂、井上圓了、島地黙雷、石川舜台など︶を見ることができる。寛は当時 の宗教界を担う人達に大きく触発され、自分も勉強して、将来は、これらの雑誌に寄稿したいと考えていたと思 える。  寛は、夏休みを利用して明治二十年七月十三日午後より摂津国島下郡吹田村の直海玄祐氏を頼って親驚の聖地 稲田の郷を訪問している。  二十歳で小栗栖香頂に﹁論教﹂を学び、二十一歳で哲学館館外員となり講義録を取り寄せ二年間哲学、英語、 梵語を学んだ。明治二十二年一月二十八日、寛は文学寮本科第二年甲生へ編入となる。二月一日には、第三十六 號﹁文学寮在学中豫備金﹂参圓也を納めている。寛は同年五月十日から故郷へ帰郷していた。帰郷している寛当 てにいろいろな手紙が届いた。五月七日付け笠原松二良氏から﹁真宗に能海あり⋮⋮﹂という激励の手紙を貰 う。五月三十日付け大学林文学寮からの手紙は﹁当地寄留人として徴兵応じ当地域の補充員規則によりて十二月 140

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まで当地を去ってはならない。﹂と通告を受けている。七月十九日付け西依金次郎氏からは﹁貴君この頃困難の 地に隠れ良師を得て仏教の奥義を討究せられ居り由羨ましきの至り⋮⋮﹂。七月二十七日付け摂津国の上田繁丸 氏からは突然の帰郷による真意を知り﹁貴兄は将来必ず社会に知られる人となりて、以てまさに西山に衰滅せん とする仏教をして今日の基督教の如く仏教をして東山に口力せんとする↓人なりと余は常に信ぜり。﹂と激励し ている。  どうしても大学林高等科を卒業したいと考えを持つ寛は故郷の檀家一統と後継住職となる契約︵﹁学資金募集二 付訂約書﹂︶を九月四日付けで結び、向こう四年半の学資金の支援︵二七〇円の確約︶を得て再び上京した。九月 十四日文学寮北寮第六号室に入寮する。同室者は五名で、美濃国の久富米次郎、播磨国の村上寅吉、筑前国の西 原荘十郎、阿波国の平尾一夫であった。  九月二十二日、寛は﹁河口君︵慧海師︶と会い﹃英文会﹄のこと一寸話す﹂と﹃春秋日記﹄に記している。堺 の河口師とはいち早く京都で接触していたことが日記で読み取れるのである。この﹁英文会﹂とは能海寛が志し のある友人を集め興した﹁英作文会﹂︵イングリュッシュコンポレーショナルソサイテー︶のことである。機関誌と して﹃文学﹄︵レクチャー︶と称する毎週英作文集雑誌を発行していた。朋友間では手紙に英文を用いることを申 し合わせ実践していた。能海寛はめきめきと英語力がついていった。  九月二十五日付の寛の日記では一週間のカリキューラムが記録されている。その中で外国人教師のセッパード 氏、ランバート氏などの名前を見ることができる。 141 チベソト探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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慶応義塾時代    w々’バ 「  〉燈t 無べ    ’Stグ

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『Wisdom&Mercy』(智恵と慈悲)

行・三省堂に英文印刷を持ち込むも断られる︶している。 時、この予は独り段々考へ実業も盛なるに、又必要なるに金のみ使うて長々勉強せしめて末へ望みなきかな。  この頃、友人たちは次々東京の大学で勉強するために上京し ていた。寛も故郷で学資金の援助の目安もできたため、明治二 十三年一月に東京に出て慶応義塾に入学した。後に父謙信に宛 てた﹁繊悔の信書﹂で父に丁寧に詫びを入れていることから東 京行は独断でのことであったと、ことの経緯を知ることができ る。  明治二十三年一月十七日付け父謙信師からの手紙は﹁慶応義 塾への転学は世評として浄蓮寺住職としては宗学に志しなきは 畢寛︵結局︶檀家教導の志しなきの証なり等檀家総代始め世評 不聴。住職たる証が必要⋮⋮﹂と父の苦しい立場を伝えてい る。  明治二十三年の﹃春秋日記﹄第四号、一月二十八日の記述で は﹁英文を作り主義を述せんとす﹂と記し、翌二十九日の項に は﹁英文を以て主義とすべし﹂と実践を開始して﹃綱訪匹oヨ陣 呂雲o邑︵﹃智恵と慈悲﹄︶という英文日記恥1を草稿︵毎月発   一月三十日∼三十一日の﹃春秋日記﹄の記述によると﹃六       一 142

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層哲学館に入り来年は卒業せしめ、よければ福沢の大学︵慶応義塾︶に入りやめれば返る。又哲学の方なれば金 安く仏友も出来種々よし。福塾︵慶応義塾︶も大学に入る目的なりは。何は予に望みなし。予は、これに入る は、只一寸位置のみ得たきなり。年限も、およそ五∼六年は必定なれば⋮⋮井上︵哲学館︶にゆけば兄にはよ し。内へも。但し、哲館を悪く言うか。﹄翌三十一日には、﹃今朝四時過ぎより眠られず、只将来の方針のみ考え 一考す。案ずるは、決め哲館に入るべからず。やはり福の大学︵慶応義塾︶を卒業すべし。文学寮に対しても、 又将来の目的についても父母有志へ対しても二十六年には充分卒業すべし。何も小生に案じて哲館に入る考え出 せしや。今後満四年は郷より資本出す約束後二年は本山に仰ぐのみ勤よやつとめよや。その為には予科にもよろ し。正科に入るべし。来月は其決心。﹄と記述している。﹁哲学館か、福沢の大学か﹂と、父の手紙を頭に持ちな がら迷ったあげく慶応義塾に決したと記している。しかし、慶応義塾は五∼六年は必定と問題点︵檀家と約束の 四年間をオーバーすること︶を挙げている。  二月一日漸く慶応義塾で試験を受け、二月三日には﹁豫科二番の一﹂に入り授業を開始した。﹁⋮⋮福沢塾の 后ヨリ富士ヲハルカニ望シテ実二白雪在派人彼レノ如ク秀テザル可ラス⋮⋮﹂。二月十日の項では﹁予学成就ノ 上ハ佛教大学ヲハ設立シ諸宗合同シテ南條君ヲハ校長二命シ文学科ヲオク撰科ヲヲキテ佛学専門トナス生徒ハ僧 俗ヲ撰バス資本ハ総本山及ビ仏徒トス﹂と将来展望も描いていた。二月十九日﹁エドウヰン・アーノルド令嬢ト 共二福沢先生等数名来⋮⋮﹂。二十日﹁クライブ傳十から音読ロイド﹂。二十一日﹁クライブ博十より音読ウヰリ アム氏﹂。二十四日﹁物理クライブ會話︵今日は綱而ω9コ英国人ニシテ種々話タリキ︶⋮⋮﹂。二十五日﹁物理クライ ブ音読︵今日ハブ日9一切ト云宣教師ニテ首二金ノ十字ヲカケ教授セリ︶⋮⋮﹂。二十六日﹁物理クライブ音読︵ウエス トン君︶⋮⋮﹂。二十八日﹁物理クライブ音読︵ウエストン新聞ヲモチ来リ追々二日本モ英字新聞ハロニナルコトナレ 143 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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ハ読ミナルベシトテ良文ナリトテ英国ノダービシヤー縣ノ新聞ヲモチ来リヨマセシコトヲ語々ハナス︶⋮⋮﹂これらを総 合して考えると、福沢氏は慶応義塾に外国の宣教師を招き授業を行わせていたことが判るのである。  寛は、慶応義塾において福沢諭吉から大学を創設した本質について直接薫陶を得た。教官W・ウエストン︵英 国人︶にはクライブ伝を学び授業中に世界共通語としての英語の重要性を再認識︵﹃春秋日記﹄に記載︶させられ ている。E・アーノルドには個人的に親交を深め寛の漢詩を英訳して添削を仰ぎ四箇所の添削を受け、アーノル ドからは三月三十日に日本の宗教に関する感想を述べた英詩文︵﹃世界に於ける佛教徒﹄に記載︶を頂戴している。 実際アーノルドから戴いたノート用紙にペンで書いた英文の詩の裏に寛は、  ﹁英国大詩人アーノルド伯日本渡来東京滞在ノ節予も  在京中ニテ飯倉之寓居ヲ訪ひ数語之後天下和順之経文  英訳ヲ示シ此時二於テ此詩を直二作リ予二与ヘラル・  ものなり伯ノ直筆口口有難き物なり﹂能海寛誌 と、記載しており、戴いたものは弟の斉入︵妙蓮寺住職︶に届けていた。  またA・ロイドからは英文を学んだ。これらを総合して見ると寛が従来考えていた世界に共通する英語をマス ターすることと、外国人と直接生きた英会話を学ぶため慶応義塾に入学した姿勢が読み取れる。  明治二十三年十一月五日には、﹁英語夜學会﹂に入会している。入会金壼円、授業料壼円、校費拾銭を支払っ て英語の勉強も精力的に行っていた。  明治十九年十月改正の﹃慶鷹義塾社中之約束﹄によると正科︵学業︶を﹁豫科﹂と﹁本科﹂に分かつ。豫科終 わりて後本科に入らしむ。﹁正科﹂卒業まで凡そ五ケ年とし、一年を三学期になし、一学期︵−/11∼4/25︶、 144

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能海寛の哲学館時代の受講記録 二学期︵5/1∼7/31︶、三学期︵9/11∼12/25︶とす。寛 は学業の区切りを以て十二月に退学したのである。また教員の 職務の中に、﹁毎期の末大試業を為し其期中の勤惰表を編成 す。﹂とある。 チツ序組織ヲ要ス 之二就テハ従来一ケノ学科タラザルユエ他日立派ノモノトナルベシ。﹂ 来は確立することを念願していたと思える。寛は井上博士から民俗学的な考え方や影響を受け中国に渡っても旅 哲学館時代  しかし、チベット行きを目指す寛は本分とする東洋文化史を 学ぶため哲学館︵現在の東洋大学︶へ明治二十四年一月に転入 学し三年間学んだ。哲学館では井上圓了館主に見込まれ生涯に 亙って親交を深めることとなる。寛の筆記している﹃講義口述 録﹄︵明治二十四年∼二十六年︶には﹁起信論達意﹂、﹁馬氏思想 学﹂、﹁開化及幸福關係論﹂、﹁雁用心理學﹂︵M二十五・九・二十 一) A﹁忠孝活論﹂、﹁教育宗教関係論﹂、﹁妖怪學﹂、﹁実験教﹂な ど井上圓了博士の講義を記述したものがあり、特に﹃妖怪學﹄ ︵M二十六・四∼五︶の口述では﹁妖怪ハ学科ナルカ何科二属ス ルカ 学術上ノ原理ヲ応用シテ未明ヲ説明スルモノユへ学問之       とあり、妖怪学が将 145 チペット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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行日記には民俗学的な記述が多いいのもそのためと思える。﹃春秋日記﹄第十六号の三月十一日﹁雪二寸斗リフ ル麹町行ヲヤメ欠席セリ出時風邪 昨日井上圓了ノ巡回︵北海道︶ノ話シアリ⋮⋮﹂、四月十八日には、井上圓 了日ク﹁学問ハ即チ品位高尚ニナスナリ﹂と講義の様子など日記に度々井上博士の名前が出てくる。  明治二十四年三月二日付け父謙信からの送金された手紙の余白に寛は﹁この書面仏説也頂拝敬礼す﹂と受領後 に書き込み素直な気持ちを表現している。哲学館に転学したことを特別答めなかった父に内心安堵と感謝の心が 素直に表されている。兄法言からの手紙も同封され﹁慶応義塾転学を惜しみつつも哲学館は是非卒業を⋮⋮﹂と 伝えている。七月一日には﹁普通科﹂の聴講を修了した。  同年夏には富士山へ単身登山を行い、山頂で尺八を吹いた様子を次の和歌で詠んでいる。 146 富士の峰に 去りなき月も   見る人の ふく笛の音も いまは絶へなる  同年十月六日には哲学館内に﹁哲學研究會﹂が設立され寛は、第一期会員として入会している様子が﹁謹票﹂ 第一五〇號により確認できる。明治二十五年七月一日には﹁高等下級﹂の聴講を修了。また、明治二十六年二月 四日には學話を聴講し﹁純正哲學自解﹂などを著述している。  明治二十六年七月七日には﹁高等上級﹂の聴講を修了して、卒業論文﹁世界に於ける佛教徒﹂を発表する。そ れは、一世紀後も洞察する格調ある論文であった。

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チヘッ下探検の具現化を目指す  寛は明治二十六年十一月に哲学書院より﹃世界に於ける佛教徒﹄を自費出版し、内務省の版権登録を取得す る。本誌には大内青轡氏が序文を寄せている。これは大内氏に共感する格調高い内容があったからであろう。寛 は、﹁旧佛教破壊的文字﹂の文中において、﹃世界に於ける佛教徒﹄の﹁第六章道徳上の佛教﹂並びに﹁第十七章 本山政論︵理論の方︶﹂を特に重要視していた様子や﹁固ヨリ一宗一派二就テ論スルニ非ス﹂と数年後に述べて いる。  この間においても東北紀行︵二十三年七月︶、富士山単身登山︵二十四年七月︶、伊豆七島めぐり︵二十五年八月︶ などチベット行きを想定しながらの訓練と体験を積んだ。寛は、富士山登山以来精力的に西蔵国の調査を再開し た。また、明治二十四年から二十六年までの哲学館での時代は南條博士の私宅において学外勉強として梵語学に 着手していた。  ﹁予と西蔵﹂︵M三十・五・九付︶に﹁西蔵入蔵目的は仏教経典の原本を得るため﹂﹁原本考究、歴史の探索は実地 にすべきで、とくに釈尊正伝あるいは仏説を明らかにするためには仏教が滅んだインドよりも、むしろチベット へ行くべきである。﹂という。﹁インドに赴いている仏教研究者のほとんどは入蔵の志しをもっているが、成功し た人がいない。自分はこれと違って四川省の道から入蔵を試みるのだ。︵仏教が伝播した逆方向からたどることの意 義を説く︶﹂。﹁欧米の学者はすでにチベット仏教を盛んに研究しているけれども日本の仏教者こそ、この方面の 研究に取り組むべきで、早急にチベット探検をしなければならない﹂。﹁国際紛争の中でチベットは危急の渦中に あり、これを救済すべきは同じ仏教徒の日本人だ﹂と説く。﹁英・露・仏・支が衝突すればチベットは滅亡し、千 年の伝統をもつ文化も廃れるだろう。人類学見地から人種、言語、風俗、政体などを研究するためにチベットに 147 チペット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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行かなければならない﹂。とのべている。明治二十年以来、時代の気運は盛り上がり、そうした風潮に影響され、 自分もチベット探検を決心した。と記述している。  探検家の立場から世界の地理学上から最闇地帯のアフリカ中央部アジアの中央部であったが、アフリカは探検 されたので、残る中央アジアのチベットこそ探検されなければならないと述べている。  明治二十七年一月三日、寛は人生の岐路に立ち郷里の寺で正月を過ごした。﹁口代︵クチガワリ︶﹂という遺書 にもとれる和綴じ本にチベット探検の心情を切々と記した。  ﹁二、予は全く名利の為にあらず、愛国護法の精神よりして、この決心をなす。由て一つは国家の為にして、 一つは仏法の為なり。この二大義務は成年にあらずしては、容易に成し得られず。由て通じて国の為法の為に為 す。予の一生中の業は只この一事にして、その後に於けるは、一地方、一区域に限る国の為、法の為に尽力致す 考えなり。﹂、﹁六、予今、この業中差し向き、この寺の維持に因る事なき明らかなり。父老いたまいたりと言え ども、未だ六十を越えず世話盛りなり。一身を法の為に尽くす僧分何ぞ早く一身の為に、未だ隠居すべき時にあ らず。躰太とり舟重く歩行難しといえども、未だ名義飢えの住職、仕難き年齢にあらず。而して、兄のあるあり て父を助け、御堂の事といい法務の事といい。その他の庫裡に於ける世話行き届き、未だ、予の在寺せずは、必 要にやれざるの時にもあらず。又弟皆乗は、殆ど、予の学資の高の半よりも多く費やして、学事に従事しつつあ り、しからば若し、必至というときは、弟帰りて、予の代理越なすべし。次には、他寺に入院すとはいえ斎入は 隣寺に住職となり居り、当山の必至の時兄加勢せざるの理あらんや。しかれば、予は、未だに家政の為に纏わる るの時にあらず況や。この大業の眼前に横り、予に好適の時業なるに於いておや。﹂など十四項目にわたって記 述している。 148

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 三週間後には﹃口代﹄の表紙の裏に﹁明治二十七年二月二十七日 前髪其毛ヲハ後ノ為メニ紙ニツツミ箱二入 レ置予無事帰国セバ吉祥若シ業ノ為二死セハ遺体ト思ヒ御葬送ヲ仕乞ウ ニ月二十七日書キシ置事 寛﹂︵原文︶ と書き添え、一つまみの自髪を半紙に包んで残している。﹁不惜身命﹂の精神であった。  故郷にあっては法務の傍ら地域の青年集団を集めて﹁波佐倶楽部﹂を創立させ、自らは庶務を掌り地域の学習 活動を根付かせた。中世・近世の郷土史年表の作成や倹約貯金を奨励したり、読みにくくなった寺の過去帳の書 き換え作業や系図の整備など。特に地域の組毎に割り振り世界各国の研究と発表をさせていたことは、正に国際 化を先駆けるものであった。友人にも海外に羽ばたこうと触発をしたのである。そして、友人の佐竹曼氏はアメ リカへ、弟の春谷登はハワイの本山別院へと渡航したのである。  明治二十三年﹃春秋日記﹄第廿四号二月一日で、﹁雪積ルコトハカルニ壱尺五寸余能海寛法名ヲ法流ト号 ス ホレトモ洞達又ハ神通航雲トモ称セントス字ハ石峰、石岳、清陽、等ト称シ寛ヲハ尭寛ト改メントス 寛、尭寛、法流、神通、洞達、航雲、航天、天頂山、石峰、石岳、清陽、心月堂主、自脩社ノ主タラントス 雷 音モ予ノ名⋮⋮﹂これに記述しているように雑誌﹃佛教﹄第百武拾八號︵明治三十年七月十五日︶では﹁西蔵國 所傳繹尊入滅考異説﹂、及び同誌第百三拾五號︵明治三十一年二月五日︶では﹁苦樂逆諌﹂と、それぞれ﹁天頂 山﹂のペンネームで寄稿している。  明治二十七年一月七日付け子安善義氏からの手紙で﹁留蔵二年⋮⋮西蔵行きのご都合如何深く計等を運び大成 を期したまへ急行は顛蹟︵てんち︶の恐れありと知りたまへ﹂と激励している。二月十日付け子安氏からはコ 月二十日南條宅から帰山した旨の報告と、寛の西蔵探検の大目的のためには充分なる勉学をして多少の延日は終 生の大事業のために必要﹂と述べている。また、四月八日付け三隅の岩本普満師からは﹁急がば回れの古諺を容 14g チベソト探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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して⋮⋮住職補任を望むならば速やかに住職に任じて後代理を命じご自由に遊歴を企て⋮⋮﹂とアドバイスをし ている。  明治二十八年五月二日には本山へ整理献金をして寛は浄蓮寺鯨間︵院家︶となり、父謙信を補佐して副住職を 務める。同年七月十三日から十八日間島根県益田沖の離島・高島に渡り﹁寺子屋﹂を開いた。﹁教えることに依っ て、教える側が磨かれる。﹂と論文でも述べている寛自身の理念の実践であった。﹃石見潟高嶋記﹄によると次の ように七首の和歌を詠んでいる。   石見潟千浦に出る漁火をみはたしつくす高島の人   石見潟名も高島の島人は地方ながめて日を送る   うらうらに夜な夜な出る漁火を見て夜をふかす島人や   石見潟あちらこちらを見わたせばどこへ行くやら帆かけ舟   石見潟名も高島の島かげに磯うつ浪に心くだきて   日の本のすへはなくとも君か民安く月日を送る島人   ありがたや月はいつくも照らすなり高島人も同じ詠めを 日中は子供たちに体操なども教え、夜は地区民に説教をしたり、島民と交流をした。島根県における僻地離島教 育の先駆けであった。次の記録は能海寛の高島での観察記録の一部である。     七名所 七寄  ωヘソノ下タ ②ほとけ岩 ③千畳シキ ω姫落し  ⑤ヌウチノセ ㈲明神 ⑦? 150

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七 六五 四 三 ニ ー (5) (4) (3) (2) (1) (6)  高嶋之七驚 全島周囲断崖絶壁港湾濱皆無漁舟碇泊所ナキコト 家屋廣且ツ良ニテ濱浦的息気ナキコト 漁業三分ニシテ農業七分ナルコト 元禄時代米山氏高嶋傳歌記存傳セシコト 人情風俗言語殆ント大差ナキコト 時々海馬上陸ノ日ブリリヲナスコト 貧富生活言語風俗ハ本土ト大差ナキニ地方︵ジカタ︶ ッセラルルコト ノ人々ヨリ﹁島ノ者 島ノ者﹂トノヒンセキ軽べ 雑驚七寄 水場へ︵二丁︶、舟置キ場へ︵八丁︶、神社へ︵五丁︶、海ヘモニ丁︶、へ遠キコト きゅうり、ナス、其他野サイ、イモ、キビ、アワ、ボーフラ、ムギ、別シテ多作リ ョク出来ルコト 桑、楮、アリテ養蚕ヲナシ多キハ原低一牧モ飼ウモノアルコト ハマヤバノ木ウスビター、タチコードー、ホノ木アリ大松風ニカレシヤカキノ葉変成木ノコト 寄島居リ又一度猪海ヲ渡リ島二来リ島人手モノヲモチオヒタルコトアリ又子ズミ多キコトモアリヘビナド ゴミノ大流レニ乗リ島二渡着スルコト 材木ナド家具ナド流レテ島人ヒロウコトアルコト 151 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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 ⑦ 陸地大水ノトキ水ノミロノ上ヲ流レテ島ノ方へ向テ流レ来タルコト一キワタチテ見ヘルコト  明治二十九年一月十一日付け南條博士からの手紙で寛に﹁南條宅へ住み込み方の依頼と西蔵行きの予備にも梵 学の勉強に大奮発を⋮⋮﹂と上京を促す内容であった。明治二十九年二月二十八日以降の﹁東上日記﹂による と、二十八日午後九時半出発麦生着。此夜麦生新年宴会三時臥床。翌朝出発之所麦生都合により延引。三月一 日、加計へ出発。寛は上京して、恩師の南條文雄博士宅へ寄留し、梵語とチベット語を学ぶ傍ら明治三十年四月 一日からは、麹町牛河町の宮嶋大八氏の﹁私立支那語学校﹂の豫科で中国語を学んだ。  明治二十九年五月七日付で、本山渥美契縁執事宛てに、西蔵国仏教探検の任命の﹁嘆願書﹂を提出し保護を訴 えている。添付書類の﹁入蔵予定﹂によると、  第一 方法 先ツ清国二渡リ凡ソ一ケ年滞在致シ西蔵二関スル参考書ヲ求メ又入蔵ノ手順ヲ正シ同伴者ヲ求メ        剛嚇僧ト成リ商隊二混シテ進蔵ス準備致ス目算二御座候。  第二 順路 先ツ清国北京二着シ凡ソ一ケ年ノ後四川省二入リ夫ヨリ打箭櫨察木密多等ヲ通過シテ前蔵後蔵ノ        首府二到着予定ノ段二御座候。  第三 年限 凡ソ往復及ビ滞蔵合計五年ノ予定二御座候。  第四 目的 地理、国体、仏教、言語、経典、仏具等ノ研究ヲ主眼二致居候。  第五 入費 渡清百円、在清百五十円、参考書百円、入蔵百円、帰途百五十円、合計六百円。 と綿密な計画を知ることができる。  ﹁明治二十九年三月廿九日﹃虎枕日記﹄︵自四月一日至十二月珊一日︶於東麹庵天頂山石峯誌﹂の書き出し文章に ﹁昨夢日予践渉亜細亜之中原忽値干千里之虎鳴呼汝以不敵之勇猛横行躁踊尤邊之原野予今去東海之孤島我身放干 152

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大陸之中枢予佛謄何分汝勇猛⋮⋮︵略︶﹂とあることから二十八日の晩に虎の夢を見て日記の題名を付けたもの と思える。また、水泳法が四種類記されている。その文中では=、亀泳き 亀のやうに手で水をかかせて足を 打たす事 二、手繰り泳き 胸郭を開ひて手で円形を画き足は水をふんで行く 三、早抜手泳き 左右の手を 交々水上に揚けて水を掻き足は前と同しく水をふむ 四、立泳来 姿勢を直立して左右の手を水上に揚け両足は 開いて交々に水をふむ。﹂とある。能海寛も水泳をマスターしていたことが伺われる。  同年五月九日﹁予ト西蔵﹂を草稿し、﹁西蔵国大蔵経目録﹂概要を訳出し、翌十日に反省会へ﹁西蔵国大蔵経 目録﹂を送稿する。  五月二十三日には、﹁ツヲンクハバ﹂伝を書く。  五月三十一日には、大蔵経﹁インデックス﹂を書く。  六月十三日には、﹁西蔵所伝釈尊入滅考異説﹂を書く。  六月十四日には、﹁説教改善心理学上より論す﹂を書く。七月十 三日には、﹁西蔵国問題﹂を稿了。  八月二十日には、﹁東洋の低気圧﹂及び﹁ツヲンクババの異伝﹂を書く。  八月二十五日には、﹁十鐵批判﹂を書き﹃佛教﹄へ投稿する。短期間に集中して論文を書き残している。 婚約・結婚時代  明治三十年九月二十三日、浅草の本山にて石川舜台氏に面会して、蔵行きのこと、梵書出版のこと、支那開教 のこと、社界問題などについて意見を交わす。南條博士から新門の話を聞かされ一旦郷里に帰ってくるよう諭さ れる。南條博士の命を受けて寛は二十五日、六時に新橋を発ち、汽車不通のため横浜港から朝顔丸に乗船、二十 153 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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六日神戸港に到着したけれども強雨のため船中にて一泊、二十七日になり漸く神戸に上陸する。三十日には水産 博覧会を見物。十月一日は水族館を見学。四日、神戸港から隅田川丸に乗船し周防灘を経て門司港、馬関、萩を 経由して七日、浜田港へ到着する。  浜田には弟の春谷登が出迎える。ここで許婚︵婚約者︶佐々木シヅ︵静子︶に引き合わされる。翌日有福に行 き入湯する。九日帰山する。十九日、南條博士から十一月中には上京来宅されたい旨の葉書が届く。浜田の佐々 木静子宛の手紙を書く。三十一日静子より手紙が届く。十一月六日、浜田へ出て佐々木静子と面会、共に散歩し 婚約後の上京などについて話す。十二月二日、南條博士と佐々木静子からの手紙を見て上京を決定する。三日、 春谷登と相談。四日、静子へ手紙を出し互いの上京を打ち合わす。六日に静子が浜田港から上京する。十四日、 大阪の静子からの手紙が届く。十八日、大阪の静子と南條博士あてに返信を出す。十八日、午後三時に寛は上京 のため出発する。広島までの途中、才河内で泊、松原を経由し加計の香川で泊る。二十日、午前七時半加計船着 き場から川舟で太田川を下り午後四時半広島に到着する。翌日広島横川駅から神戸駅へ到着。二十二日、梅田駅 へ着き、直ちに江戸堀南通四丁目の本田治七方へ行き、静子と面会し晩は縁日で散歩する。二十三日午前九時過 ぎ静子と共に梅田駅発十一時京都へ到着。東山方面へ二人で散歩し、下数珠の池田に投宿する。二十四日、石川 舜台氏を訪問婚約者の静子を紹介する。二十五日、梅田駅を午前七時五十八分出発、関ヶ原は大雪、名古屋で昼 食。午後五時静岡駅へ到着。大東館に投宿。静子と十二時まで話し込み、﹁ネズミ菓子を引く思いする﹂と日記 で述べている。翌二十六日、午後四時新橋駅に到着し、﹁共に車を雇い南北に別れる﹂と記述している。寛は南 條宅へ、静子は伊井宅へそれぞれ別れて住み込むこととなる。  この頃の寛は南條博士宅に住み込み﹁毎朝五時に起きて、仏前の掃除をして勤行、梵語や西蔵文典の書き出 154

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し、書写、南條博士の講座を聞く。午後は、梵本般若心経の研究、夕方は一時間ばかり散歩、夜は、梵文名集経 を読習し、午後十時に就寝する⋮⋮﹂といったスケジュールをこなしていた。  図書館通いも日課となり、西洋医学書、東洋漢方の両方を研究して単身探検に対する意気込みを感じさせる。  婚約中の寛と静子は東京においては、心温まる交流があった。井の頭公園、忍ばずケ池などにおいてデートを して互いの夢や希望を高めていった。百人一首の恋歌を抜き書きした和歌と尺八を吹く寛と日傘をさしている静 子のデートの様子を描いた自筆の絵が残されている。自らも﹃阿里野まん満雲枕﹄に記述されている和歌集など には、この頃の心情が詠み込まれている。   池上にとまる さいた櫻江向嶋 新橋たつて大森に 明保の楼のなが免るハ こころ一つに身はふたつ とふく見ゆる遠げしき 遠き旅路にたつわが身 志ざし巳られのなごりをし 鐘にゆめをぞさますらん あさひさし込む明保のの 西と東にユくる身の 三一・四・一二 花の主とハ手をとつて さらに池上さしてゆく 羽田の海の鴛鴛が まことつくしの水あそび あの雲こゑて外國の 今宵ふしどこひとつねハ 羽田の鴛鴬ハ池上の 森の鳥はとくおきて あまどひきあけをき出でて その行末ぞいちらしや 155 チペソト探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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浮雲の たよりなき身の 行末に いつくの山二 かかりいてなり 156  住職となる契約で学資金を拠出してくれた郷里の檀家の思いと英訳経典を世に送り出すためチベット語大蔵経 を求めて﹁義父の健在な内にチベット行き﹂を模索する寛とでは大きな隔たりがあった。結婚させてチベット行 きを諦めさそうとする檀家衆の強い希望を受け入れ、義父の姪の佐々木静子と婚約中であった寛を早く結婚式を 挙げさせてほしいという母ユクノが一大決心して二月六日に上京し南條博士に強い要請をした。南條博士も寛に 帰郷を勧めた。  明治三十一年四月南條博士宅を暇して故郷の浄蓮寺に帰山した。同年五月二十八日付けで入籍し、六月二十九 日佐々木静子︵二十才︶と華燭の典を挙げた。浄蓮寺の縁側では寛が静子に習字の手習いをさせていたというエ ピソード︵姪のモモエさん談︶もあり、仲むつまじい様子を伺い知ることができる。  しかし、結婚後四カ月目に本山からチベット行きの許可が下りた。チベット行きを理解して婚約以来満一年目 を迎える愛妻への贈り物として、寛の誕生時期に咲く﹁ハクモクレン﹂と旅立つ十月に実る﹁柿﹂の木を浄蓮寺 境内などへ記念植樹した。 探検への旅立ち  結婚後いくばくもない十月四日早朝、浄蓮寺山門前で親族、檀家衆に見送られ寺を後にした。新妻静子と弟の 春谷登は県境の大佐山の麓の﹁馬ノ原﹂まで見送り挟を分かち寛は付き人一名︵隣家の大河原清五郎氏︶と麦生

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宅、妙蓮寺に立ち寄り、橋山を経て陸行程八里で加計町へ着き一泊した。翌五日、午前六時に加計から川舟で太 田川を下り広島へと向かった。広島までの川里程は十八里︵新道十二里の所︶で午後二時半に慈仙寺の鼻の船着 き場へ到着した。﹃渡清日記﹄によると横川停車場を六時五十七分汽車に乗り、翌六日、午前四時五十九分に神 戸駅到着。車にて登の新宅へ向かい六時半着。午後一時二分三の宮発、午後三時二十分京都到着。京都では池田 屋へ投宿し、渡航許可証を取得する為に滞在を余儀なくされた。いよいよ中国へ向けて旅立ちが決定すると、寛 は上京して恩師・南條文雄博士や親友に﹁機が塾せり﹂と伝え、十一月九日には神田宝亭で送別の宴を受け別れ を告げた。  十日に東京を発ち、翌十]日、京都に着くと本山に向かい東京往復十円七十八銭、並びに西蔵探検費千余円の 内三分の一の三百七十円︵重慶五カ月滞在費と出京経費在京滞在費を含む︶とダライ・ラマ十三世宛の親書を授かり 神戸港へ向かい、同年十一月十二日、神戸港から西京丸にて上海へと向かった。  寛は上海の日本領事館において﹁護照﹂という上海から四川省までの旅行許可証を取得し、打箭櫨︵ダルツェ ンド︶へと向かった。長江を遡上するには寛も相当な苦難の連続であった。  明治三十二年の﹃官話記一号﹄によると一月十九日宜昌から重慶までの三峡︵聖塘峡・巫峡・西陵峡︶のスケッ チ五十二点を描いている。港に寄港している僅かな時間を割いて描いたものと思われる。また﹃春秋日記﹄十二. 月三日によると、父が国を出る時に戒めの言葉を﹁自病ノ短気、カンシャクヲ起シハセザルカ﹂と自戒し、﹁父 ノ出立ノトキノ誠言ヲ忘レハセザルカ﹂と述べている。この父の戒めの言葉が寛の中国大陸大旅行中常に精神的 な支えとなっていたのである。三峡では難︵たん︶の難所では百五十間︵三〇〇メートル︶の引き綱を百人ばかり の人で曳きあげる大変な作業である。ある時は曳き綱が切れ下流へと流されることもあり、命懸けの三峡上りで 157 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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あった。また、外国人との乗船を嫌う国民性のために、寛は西欧人と一緒に船を雇い遡上した。 、寛の﹃春秋日記﹄の﹁春秋﹂というタイトルは、寛が二十歳の時に﹁孔子﹂に関する大西祝氏の 明治32年3月26日撮影の能海寛(右) 中国・重慶にて游氏(ガイド役)と記念撮影       ﹁孔子の教﹂ (『 坙{之教學﹄第武號︶の論文中﹁孔子ハ春秋の 末に生れ先王の法度の魔れたるを嘆じ當時の齪世 をば尭舜萬湯の治世に⋮⋮﹂というところに着目 し、﹁春秋﹂を採用したものと思える。  明治三十二年の﹃飛越關碑記﹄では表紙に﹁濾 定橋﹂をスケッチ︵五月十日︶し、義眉県からダ ルツェンドまでを記述している。この間、本山へ の上申書を十回︵上海∼ダルツェンド︶送付して いる。五月十二日にダルツェンドに到着した寛は 一∼ニカ月滞在して、成田安輝、寺本娩雅両氏の 到着を待った。寛は﹁出発までは、蔵語研究の心 算に御座候。﹂と、いたって平常心である。寺本 氏は六月二十七日に到着合流し、成田氏は準備整 わず七月八日、二人で出発した。 158

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第﹂次探検︵川蔵公路コース︶  ダルツェンドで寛は﹁傳牌︵チョアン パイ︶﹂という西蔵入国の旅行許可証を取得した。この旅行許可証に は、能海寛、寺本腕雅に対して﹁馬二騎、軍糧府差人一騎、都督府兵士十二騎、ほかに二頭の駝牛および二人の 馬夫、合計四騎二夫二駝﹂を許可している様子が記載されている。  寛の旅行コースは大きく三回に分けられる。第一回は、明治三十二年七月八日、四川省成都の西方ダルツェン ドを出発し川蔵公路コースを辿った。折多峠付近で寛は、チベット犬に襲われ九カ所も咬まれた。求道僧として 護身銃などとうてい持たずに自分を護るのは腕っ節に頼る外は何もなかったのである。巴塘まで漸くたどり着い たが、二人を待ち受けていたものはあまりにも残酷であった。二人は﹁西洋人﹂だ。という遊牧民の垂れ込みに より、チャンカの官吏に足止めを受けた。寛がチャンカの糧台に掛け合うも直談判が聞き入れられず止むなくリ タイヤすることとなる。それでも寛は諦めずに一人こっそりとモチを腰にぶら下げ﹁牛古渡﹂まで出掛けて眼下 に金沙江を望んだ。 のぞめども 深山の奥の 金沙江    つばさなければ わたりえもせず と、無念の句を詠んだ。  巴塘は当時ダライ・ラマ十三世の直轄地であったことから日本人として最初にチベット領へ入国したことにな る。寛が弟斉入に宛てた手紙で﹁巴塘は西蔵内地に御座候⋮⋮﹂と記述していることから寛は、西蔵頭蔵︵康︶ 15g チペット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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古代所属地であると理解していたのである。  しかし、中央チベットまでは遙かに遠く危険が潜んでいた。一旦、ダルツェンドに引き返し、同行していた寺 本椀雅氏は一旦日本へ帰国したが、寛はそのままダルツェンドに止まり入手した﹁チベット語大蔵経﹂の翻訳作 業をしながら次回の入国手段を検討していた。 160 仏典の翻訳に業績  約半年間、仏典翻訳に没頭して﹃般若心経﹄、﹃無量寿智経﹄、﹃弥勒菩薩誓願経﹄、﹃金剛経﹄などを梵語、西蔵 語、中国語、英語に対訳照訳を短期間で実行した。このことは、寛が日本において周到に語学研究をなしていた 賜と考えられる。また寛は西蔵草隷の書及び干殊爾、丹殊爾の翻訳経西蔵を目のあたりにして西蔵の文化を高く 評価している。  明治三十三年五月十六日付、第十九回本山宛の﹁上申書﹂によるとダルツェンドにおいて探検に対する前後策 を講じていたが次の様な決定をした旨﹁上申書﹂に書き記している。  ︵前・中略︶  諸疑題ハ遂二小生ヲシテ左ノ決定ヲ致サシメ候  第一 青海ヲ往テ進蔵ヲハカルベシ 荷物並二旅費ノ半額ハ当地二遺シ置キ出発シ  第二 青海策若シ成ラズレバ再ビ当地二引可ヘシ萬題中ノ第一業ヲ試ムベシ第一業タル小路進蔵到底望ミナリ     ト  第三 冬期好時機ヲ以テ雲南二出テ第二業ヲ試ムベシト

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   依テ以上実行ノ為明日當地出発新決定ノ論二上リ候 就再ヒ成都ヲ経甘粛蘭州二至リ青海二至ル豫定二    御座候或ハ序ヲ以テ松藩内地二於ケル嘲麻寺二西蔵黄教新教ノ開山誕生地ヲモ訪問致度存候 二白、過日寺務所内南條先生宛金剛経西蔵文葉並二詳本計四冊発送致置候 以上早々   五月十六日 歎在打箭炉 能海  本山寺務所 布教局御中 第二次探検︵青蔵公路コース︶  第二回探検は、明治三十三年五月十七日ダルツェンドを出発、西南シルクロードを北上して成都、長安を経 て、甘粛省の西寧に達し、青海路をタンカルに着いた。途中寧夏回族自治区の六盤山を経由して蘭州に至る間の 寛の現地の探訪論文﹁甘粛論﹂では﹁⋮⋮地理、沿革、風俗ヲ知ラント欲スルノ人多カラント信シ、実地二見聞 セル所ヲ報シ愚見ヲ附記シテ、此論ヲ草スルナリ。⋮⋮﹂と述べ地理、歴史、政治、宗教、風俗、人情、言語、 商業、農業、物産など六十二項目にわたって記述している。蘭州からは、故郷の友人へ農作物の種子︵洋麦・平 娩豆・甘粛胡麻・寂米︶を送り蘭州の気候と似通っているので故郷で栽培してみてはどうかと述べている。尤も寛 は農業にも関心をもっていた。  ﹃在楡日記﹄では、支那︵中国︶の農業、西蔵の農業、陳西の農業、甘粛の農業など寛が観察したままを記述 している。﹃西蔵地誌略﹄では漢口、打箭櫨、河口、裏塘、巴塘、中旬、維西庁、チャンカ、乍了、察木多など 通過を予定した地域を詳しく記述している。﹃丙第五号﹄では、ダルツェンドにおいて﹁チベット仏像四十三躰﹂ のスケッチと解説を記述している。また﹃雨夜物語﹄では、中国の民話﹁獅子と鯨の話﹂、﹁狼と蜻蛉﹂、﹁猿と酪 161 チベット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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駝の話﹂、﹁猿と人間の話﹂などを採録している。これらの記述を見ると、寛は並な探検家ではないことが判るの である。  タンカルで寛はチベットへ如何にして入国するかを模索していた。当時のチベットへは二つのルートがあり、 一つは青海の南方を行く官路と称する路。もう一つは、青海の北側を行く商隊、または西蔵巡礼の通路があっ た。この商隊の通路は三カ月の食料の携帯を要した。寛は八月に、この北側から行く商隊に紛れ込むつもりで馬 に乗りトンカルまで行き進蔵計画を模索中にタンカルの宿に預けていた旅費、旅装品が留守中に盗難に遭遇し金 品を奪われた。止むなく断念して蘭州から回教徒地域を見聞するために階州を経由して重慶まで帰った。  寛の旅は、ただ一直線の急ぐ旅ではなかった。仏教寺院がルート上にあれば何十キロ隔てていても、立ち寄 り、大蔵経典の有無の確認などをする作業を一貫してこなしていた。この為に、よほどの事がない限り、同じル ートを通過することを避けていたのである。一世紀まえの中国の各省府の姿が六十二項目にわたる記述﹁探検旅 行記︵見聞録︶﹂が見直されている。例えば、西安府では、奥教寺︵玄笑三蔵塔院︶へ往復八十清里︵約四十キ ロ︶、大興善寺へ八清里︵四キロ︶、大慈恩寺へ十二清里、薦福寺へ三清里、臥龍寺などを訪問している。 162 第三次探検書酋南コース︶  明治三十四年一月廿一日付、寛が中国・四川省重慶府から弟の水野斎入に宛てた手紙によると﹁予ハニ月十日 頃ニハ当地出発貴州雲南ヲ経テ大理府麗江府ヲ過キ中旬、阿敦子、ノ境二入リ更二進蔵大ロニ出テx察木多、拉 里ヲ経テ此秋ニハ蔵都布達拉二到リ度願二候﹂と、記述している。この手紙で予告しているように日本に帰還す る事なく第三回の探検に貴陽を経て雲南省路をとった。﹁今ヤ極メテ僅少ナル金力ヲ以テ深ク内地二入ラントス、

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歩一歩難ヲ加へ前途気遣ハシキ次第ナレド、千難万障ハ勿論、無ニノ生命ヲモ既二仏陀二托シ、此二雲南ヲ西北 二去ル覚悟ナリ。﹂一命を投じ求道した青年僧の行方は三十四年四月十八日付の南條博士に宛てた信書と妻静子 に宛てた四月二十一日付のと郵川州︵大理∼麗江間︶からの音信で全てを絶ってしまった。  南條博士から教えを受けた梵文による﹃無量寿経﹄、﹃阿弥陀経﹄、﹃金剛経﹄、﹃般若心経﹄など主なる経典はダ ルツェンドで入手して、四力国語に翻訳も終え目的の殆どを達成しながら、なお身命を尽くし西蔵探検を継続実 行した寛は、大谷光螢法主から預かったダライ・ラマ十三世あての親書︵縦 尺二寸・横五寸︶に対する返書を戴 くことが人間能海寛の﹁信後の行﹂の身の処し方であったのだろうか。  現代の我々に最も必要な、﹁夢とロマン﹂を具現化する術を彼の生涯に亙る生きざまが私たちへ今なお語りか けてくれる。 冨海A子︸して後世へ伝える  能海寛の生きざまは、現代の不透明な時代に生き抜く指針として、ものの考え方、発想力に大いに触発され る。もしも﹁能海学﹂として位置付けることが出来るならば、能海の探検行は後世へ語り継がれるだろう。  平成七年一月からスタートした﹁能海寛研究会﹂は全国から多数参加いただき、能海寛の中央アジアの探検コ ースを辿って中国十一省府、シルクロード、西南シルクロード、チベットなど中国西域の研究をテーマに、機関 紙﹃石峰﹄を発行して会員の研究発表の場としている。また、ニカ月に一回奇数月に開催している定例学習会 ︵三十二回開催︶、年次大会︵今年が六回目︶、フォーラム、研修旅行など各種事業を実施している。  能海寛の生涯に亙り書き残した論文、国内旅行の紀行文、中央アジア探検旅行記録等をもとに地理、歴史、政 163 チベント探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

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治、宗教、風俗、人情、言語、商業、農業、物産など六十二項目にもわたる情報が、会員研究テーマに幅広い研 究ジャンルを提供している。  その外にも能海寛自身が明治三十三年十二月廿二日に記述した﹁思想の変遷︵学問二付キテ︶﹂という研究課題 を残している。  一、学問ハ何ノ為二学ブベキモノ敏  二、普通学ノ必要  三、欧米布教策  四、英文研究時代  五、翻訳ニハ梵学ノ必要ヲシタルコト  六、梵文経典ノ不足ヲ感セシ時代  七、自動的東洋学研究必要  八、西蔵行の感念  九、西蔵学ノ必要  九項目による寛の学問思想変遷で到達した結論は英文よりも梵学よりも却て西蔵文研究が必要なるを実感した としている。  平成十年には、能海寛生誕百三十年とチベット行百年を記念して数々のイベントやフォーラムを開催、平成十 一年五月には能海寛の全身立像︵彫塑︶も完成した。平成十二年八月には中国・寧夏回族自治区銀川市を訪問し て﹁能海寛研究会二〇〇〇年日中合同国際大会﹂を開催の予定である。今後は、知的国際交流を目指した﹁能海 164

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寛記念館﹂の建設運動も推進して行き、インターネットを利用した国際交流に発展させたい。 ︻参考文献︼

④③②①

﹁金城町歴史民俗資料館﹂に寄託展示されている﹁能海寛資料﹂によった。 ﹃能海寛遺稿﹄︵大正六年四月︶ 隅田正三著﹁チベット探検の先駆者﹃求道の師 能海寛﹄﹂波佐文化協会刊︵一九八九年︶ 能海寛研究会定例学習会において著者が発表したものを総合的にまとめたものである。 第一回﹃能海寛の足跡をたどって①﹄11幼年期∼成年期11 第二回﹃能海寛の足跡をたどって②﹄11探検家としての歩み11 第十一回﹃能海寛の成年期について﹄ 第十三回﹁﹃甘粛論﹄に見る能海寛の中央アジア大旅行の意義 第十四回﹁﹃渡清日記﹄に見る旅立ちの記録﹂11故郷から上海まで11 第十六回﹁﹃官話記﹄などに見る能海寛の行動記録﹂11上海∼三峡∼重慶11 第二十回﹃能海寛の婚約時代について﹄ 第二十二回﹁﹃口代︵くちがわり︶﹄に見る探検決意について﹄﹂ 165 チペット探検の先駆者 哲学館で学んだ「能海寛」の生涯

参照

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