ジーク IIR 3 (2015) │ 50
International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』3 (2015):50–63 ISSN2187-7459
©2015by International Association for Inoue Enryo Research国際井上円了学会
【 特別講演 】
大いなる総合を求めて―1900 年頃の哲学
ウルリッヒ・ジーク(Ulrich S
IEG)
*
翻訳:辻麻衣子
1900 年頃の世界は、我々にとって馴染みのないものになってしまった。すでに 50 年以上前にアメリカの歴史家バーバラ・タックマンは、第一次世界大戦が「まるで 焦土地帯のように、我々とそれ以前の時代との間に横たわっている」1ことを見てと っていた。これは今日まで、さして変化していない。20 世紀初頭のさまざまな問題 を、また同時に希望を正当に評価することは、今もなお困難である。確かに、歴史 家はある一つの対象だけを目指すことを差し控えるべきだ。しかし同時に、当時何 が起こりつつあったかについて我々が知る限りを全て無視することも、有益ではな いだろう。というのも、その時代の人々ができなかったような仕方で我々が何かを 解釈、評価できるのは、この知識あってのことだからである。 1900 年前後の「文化的風潮」は、かなり見晴らしが悪い。人々をより近くに集め、 彼らの富を増やし、平均寿命を延ばした技術の急速な進歩を多くの同時代人たちは 称賛した。それに応じて、科学的および政治的「世界観(Weltanschauungen)」の自 信に満ちた支持者が現れてきた。これらの世界観はたいていの場合、はっきりとユ ートピア的な性質のものであった。他方でグローバル化の影の側面が姿を見せたこ とも見逃してはならない。市民階級は、ヨーロッパによる世界支配があとどの程度 続きうるのか、あるいは産業大国が経験する社会的諸問題によって、どのような歪 みがもたらされるだろうかと思っていた 2。そして至る所で、明確な、かつ意義の ある世界像が要請されていた。ジーク IIR 3 (2015) │ 51 現代の歴史家にとって特に重要なのは、バランスのとれた判断であるだろう― 躍動する生の喜びと迫りくる不安との間で揺れ動く時代を考察するにあたって、こ れは簡単な仕事ではない3。魅力的な理念とユートピア的構想は 20 世紀初頭に端を 発するが、今日の我々がそれらをすでに考えきったとはとても言えない。冷戦時代 にはとても古ぼけて見えた政治的世界秩序も、少なからずアクチュアリティを再び 増してきた。さらには、複雑な解釈学的課題もある。例えば 1900 年前後の明らかな 利害対立は、高度に様式化された言語を媒介として表現される傾向にあった。その 結果として、何が歴史的に決定的な力を持っていたかを突きとめることは、およそ 容易であるとは言いがたい。 同様のことが、世紀の変わり目の大哲学者たちにも当てはまる。彼らはたいてい の場合、隠喩に満ちた文体と包括的な一般化を好んだ。彼らはみな「世界観」の過 熱した市場で競合し、現状分析を将来にわたる予測と結びつけた。それに応じて彼 らは、正確な論証を行うよりむしろ広い支持を求め、論証可能な理念より大胆な理 念を提示した。だが、彼らの構想が合理性に乏しいと見極めることが重要であれば あるほど、彼らのかつての成功の理由を追求することもまた同様に重要である4。 本稿は、このように広大なテーマに四つの段階を踏んで接近するものである。ま ず私は、ハーバート・スペンサーと彼の進化概念を考察する。この概念は 1860 年代 から、ヘーゲル的精神における経験論的思想と近代自然科学の組み合わせの成功例 とみなされている(I)。その反対の立場としては、ドイツの認識論者たちを取り上 げる。彼らの立場は、マールブルクの新カント主義者であるパウル・ナトルプの例 を用いて紹介する(II)。第三に新理想主義者のルドルフ・オイケンを扱うが、彼は カントとヘーゲルの時流にかなった総合として現れ、1908 年にノーベル文学賞を授 与された後、世界的名声を得た(III)。これを背景に、四番目に描写、分析されるの が、なぜ井上円了が日本において西洋哲学の受容に尽力したのか、ということであ る(IV)。最後に、1900 年頃に支配的な役割を担った哲学的概念を描き出し、第一 次世界大戦後にそれらが急速に姿を消した理由を解明することに努めたい。
I
イギリスの哲学者であり社会学者でもあるハーバート・スペンサーは、19 世紀後ジーク IIR 3 (2015) │ 52 半においてもっとも影響力の強い思想家の一人に数えられる。このダーウィンの熱 狂的な信奉者は、読者に以下のような信条を伝えた。すなわち、自然科学の成功は ただ一つの根から導き出されうる、という信条である。彼の普遍的「進化原理」は、 世界の自然史を説明するためのみならず、近代科学の成果を体系づけるためのもの と考えられた5。それに応じて、彼の進化概念は過度に拡張され、結果として不鮮 明なものになってしまった。彼は「進化の定義に最高度に一般的な意味を与え、有 機体だけでなく無機的なものや社会的なものまで、そこに組み入れた」6のである。 スペンサーは、自分の構想を『総合哲学体系』という記念碑的な著作に書きとど めた。1860 年から 1896 年まで、すなわち 36 年もの間、彼は絶え間なくこの大著に 取り組んだ。それはあわせて 15 巻にのぼり、自然界にとってのみならず人間社会 の発展にとっても進化の原理が重要であることを力説している。スペンサーは、進 化が環境によって影響を受けるというラマルクの見解を支持し、同時に人間の行動 説明に社会統計学が有用であると強調した。経験的な明証性と並んで強力な論証を 信頼する彼の著作は、きわめて楽観主義的なものだった。それ故、筋金入りの自由 主義者であったスペンサーは、国家は長い目で見ればほぼ全ての影響力を失うこと になるだろうと確信していた。というのも、人間は日々、自らの自由の理性的な行 使を学んでおり、国家による統制はますます不要になるだろうと考えたからであ る7。 その厄介な文体にもかかわらず、スペンサーの著作は、人間の知の進歩と技術の 恩恵を身をもって体験していた同時代人を熱狂させた。だが世紀の終わり近くにな ると、本当に人間の全ての知がただ一つの哲学体系によって包括的に捉えられうる のかを懐疑的に問う声が大きくなってきた。スペンサーの友人であり哲学史家のベ ルンハルト・ルイスは、皮肉をこめて次のように述べている。「スペンサーにあっ ては、全ては絶えず進化し続けている。彼自身の理論を除いて」8。ルイスは、常に 変化し多様化する様々な科学ディシプリンは、19 世紀中葉にさかのぼる範疇的な枠 組においては、もはや捉えられないとした。 スペンサー自身もまた、自分の世界像の楽観主義的路線に疑問を抱き始めていた。 彼は「宇宙の熱的死」という熱力学第二法則に起因する考えに頭を悩ませ、歴史プ ロセスが理性的な終末に至るのか否かを疑っていたのである9。それにもかかわら ず彼は、「最大多数の最大幸福」は追求するに値する目的とみなされるに違いない、
ジーク IIR 3 (2015) │ 53 という自らの功利主義的信条に固執した。そして彼は、市場という原理だけが進歩 を維持し、個人の自由を保証しうるのだから、国家がまもなく消滅するのは確実だ とみなしていた。世界がますます狭くなり、国家同士の利害衝突が至る所で生じて いた帝国主義の全盛期にあって、これは現実離れした怪しげな見方であった。それ は、ナショナリズムが人々の心や精神に及ぼしていた強大な力を一顧だにしなかっ たのである。実際 1900 年前後には、スペンサーは世間で取りざたされなくなって いた。ヘーゲルによって動機づけられ、ダーウィンの進化論に全幅の信頼を置き、 他方で個人の自由の重要性を手放そうとしなかった彼の進歩観は、このように最終 的には時代遅れなものとなった。
II
世紀が変わる頃、中央ヨーロッパの哲学においては認識論的発想が支配的だった。 例としては、スイスの学者、アウグスト・シュタードラーが挙げられるだろう。彼 はスペンサー哲学をカントの考えと比較して評価した。彼は、スペンサーが持つ 『純粋理性批判』についての知識が不充分であり、彼が形而上学に無関心であると してスペンサーを非難した。加えて彼は、スペンサーの幸福主義的倫理学を不充分 だとみなした。というのも、「もっとも洗練された幸福ですら人間の使命を汲み尽 くしはしない」し、義務という概念を基礎づけられないからである10。1870 年代、 シュタードラーはマールブルクのヘルマン・コーヘンのもとで学んでいたのだが、 このコーヘンの名声は世紀の変わり目のころには高まっていた。彼は哲学の独創的 天才と目され、その魅力によってロシアのボリス・パステルナークやスペインのホ セ・オルテガ・イ・ガセトら若き天才たちは、「大陸哲学のメッカ」と広くみなさ れていたマールブルクの街に呼び寄せられた11。 コーヘンは自らの『哲学体系』をカントの批判を手本にして展開し、同時に、と りわけ科学の多様化を顧慮するための開かれたカテゴリー体系としてそれを構想し た12。これは並外れて複雑な哲学プログラムであり、個別の課題に変換するのは困 難であった。内容面でも、コーヘンの著作は非常に錯綜しており、あいまいだとす ら言われた。彼の同僚であり友人であったパウル・ナトルプには、より多くの読者 がいた―彼の思想はコーヘンのそれと同様に深遠であったが、彼は人々がアクセジーク IIR 3 (2015) │ 54 スしやすく理解できる仕方での著述を心がけていたのである―。ナトルプはコー ヘンに絶対の忠誠を誓っており、「マールブルク学派」内部の結束を確実にしたの は他ならぬ彼であった。また、この学派がマールブルクの街を超えて外に与えた影 響の大部分は、彼による功績であった13。 ナトルプは、精神史に対して著しく規範的な態度を持っていた。確かに彼は、哲 学のテキスト解釈において文献学的な厳密さがいかに重要であるかを強調したが、 それでも彼にとってまず第一に重要だったのは、マールブルクの新カント派の世界 像の正しさを証明することだった。彼はガリレイ、デカルト、ライプニッツの解釈 を示したが、その解釈は彼らの思想の認識批判的路線を強調し、カントによる批判 主義の先駆けとして彼らを目的論的な歴史思想の中に押し込めるものであった。彼 の見解によれば、ニュートンの時代以来、物理学に革命をもたらした微積分学こそ が、数学を基礎とした近代自然科学の発展のまさに中心にある14。ナトルプが自ら の規範的‐目的論的歴史思想をどれだけ推し進めたかは、1903 年に刊行された彼の 著作『プラトンのイデア論』を見れば明らかである。 ナトルプは、この時代に持てはやされた統計言語学には興味を示さなかった。む しろ大胆にも彼は、プラトン対話篇の全著作中での順番を、その内容を考慮して決 定した。歴史主義や文献学的に細部にこだわる時代の全盛期にあって、ナトルプは 哲学のテキスト解釈における体系的厳密さを追い求めていた。彼はプラトンのイデ アを自然法則と同等のものと理解し、近代の関数概念の持つ性質を付与した。同時 に彼は、イデアを仮説として解釈し、それによってプラトンを近代自然科学の重要 な先駆者だと褒め称えた15。ナトルプによるプラトンのこのような「更新」を古典 学者たちは持て余し、それ故たいていの論評は懐疑的であった。ナトルプの時代錯 誤の術語は非難の的になり、彼のプラトン解釈はいささか横暴であると考えられた。 だが結局、ナトルプの研究論文をプラトン注釈の古典へと高めたのは、まさに彼の あからさまな新カント主義的立場であった16。 ナトルプの教育思想もまた、一定の影響力を持っていた。急速に変化するヴィル ヘルム二世治下の社会において、内的統一の維持という問題が当時盛んに議論され ていた。ナトルプは、学校で古典的な市民道徳を教えること、そして人間共同体の 持つ、統一をもたらす力に信頼を置いていた。1899 年に公刊された彼の『社会的教 育学』は、教育制度にとっての平等の理念の重要性を証明するという野心的な試み であった。ナトルプはドイツの三段式学制に賛同し、英才選抜に対し肯定的な態度
ジーク IIR 3 (2015) │ 55 をとったにもかかわらず、社会分化の拡大が抑制できない状況に警鐘を鳴らした。 小学校(Volksschule)の改善が際立って重要なのであり、これによって全ての社会 階層が教育にアクセスすることができ、社会に参与する機会を持つようになる、と いうのが彼の見解であった17。 ナトルプの哲学は、個人の自由と安定した人間共同体の総合を約束するものだっ た。これが時代の要求に応えたのである。従って、ナトルプの『社会的教育学』が マールブルクの新カント派によるプログラム的著作の中でもっとも成功したのも偶 然ではない。この著作は、いくつかの主要なヨーロッパ言語に翻訳され、何度も版 を重ねた18。それにもかかわらず、ナトルプによる集団的観点と個人的観点との調 和のとれた結合は、ユートピア的特徴を持ち、現実の社会についての詳しい叙述の 余地をほとんど残さなかった。20 世紀初頭において幅広い総合の需要がいかに高か ったかは、ルドルフ・オイケンの成功が物語っている。
III
一般的に見て、長い 19 世紀における哲学の歴史は単純なパターンに従っている。 「ヘーゲル体系の崩壊」はドイツ観念論の黄金時代に終焉をもたらし、哲学は比較 的長い衰退期へ突入した。この衰退期は、第一次世界大戦まで主導的であった新カ ント派の登場によって終わった。新カント派の出現は実のところ、かなり複雑な問 題であり、非常に様々な要因が認められうる。左派リベラル的なプロイセンの文部 省、そしてその戦略的な教授任命政策が、おそらくはその中でももっとも重要な要 因であった。新カント派がアカデミアにおいて強い影響力を持ち続けた一方で、 「ファン・ド・シエクル(Fin de Siècle)」と呼ばれる 19 世紀末において、多くの思 想家が時代の矛盾を克服し、より多くの公衆の要求を満たすような包括的世界観 (Weltanschauung)を得ようと努めていた19。彼らのうちの多くは「新理想主義者」 を自認していた。というのも、彼らは唯物論をあらゆる悪の根源とみなし、ゲーテ のワイマール古典主義の遺産を受け継ごうとしたからである。今日ではほとんど忘 れ去られたこの思想傾向のもっとも重要な代表者が、イエナでフィヒテ哲学の講座 を務めたルドルフ・オイケンであった。ジーク IIR 3 (2015) │ 56 1890 年代から、オイケンは新しい出版手段を利用し、多くの新聞の文芸欄に間断 なく寄稿していた。今日に至るまで、彼が書いた記事の厳密な数は不明だが、専門 家はその数をおよそ 2000 と見積もっている20。もっとも、このことによってオイ ケンの経歴が完全に語り尽くされる訳ではない。というのもこのイエナの教授は、 すでに若いうちからアリストテレス研究で学術的功績をあげていた、堅実で尊敬す べき学者だからである。だが、近代の新聞は名声と高額の謝礼の提供を約束し、こ れに抵抗できるのは、ほんのわずかな人のみであった。加えて、オイケンが記事の 中で重大な問題を議論し、それらに耳目を集めたことは見過ごされるべきではない。 だが彼が声高に求めた哲学的「普遍的総合」が依然としてかなり漠然としたもので しかなかったことは認めざるをえない。オイケンは、手元にある知の統合という自 らの目的を達成するための方法すら提案することができなかったのである。しかし ながら、当時の文化生活の扇動的な性質や、産業社会の中で多くの人が強いられて いた疎外的な生への彼の批判は、何の根拠も無く作り出されたという訳ではない。 もっとも、彼自身の名声を急速に高めた立役者であった近代のメディアビジネスと いう現象を彼がとりわけ非難したということも、同時に考慮されるべきではあるの だが21。 オイケンの名声は、1908 年のノーベル文学賞受賞に際して顕著になった。スウェ ーデン・アカデミーの会員たちが一人の作家に絞ることができなかったため、この 哲学者はある種の「妥協案」として提案された。オイケンは、古典的な教育の価値 の提唱者、敬虔なルター派信者として、並びに現代文化の浅薄さに対する批判者と して評価された。1908年 12 月 10 日、彼はストックホルムで「真理への真剣な探求、 鋭い思考力、まなざしの広さ、数多くの著作において理想的な世界観を主張し展開 した際の表現に込められた熱意と力強さという功績をたたえて」22ノーベル文学賞 を授与された。続く数年にわたって、オイケンの活動は世界的な広がりを見せた。 アメリカの 7 大学から名誉博士号を授けられ、彼の著作はきりがなく翻訳された。 オイケンは日本でとりわけ評価された。ノーベル文学賞受賞よりずっと前から、 日本の学生たちは、オイケンのヨーロッパ哲学講義を聴講するためにイエナへ行っ ていた23。時代の根本問題に対するオイケンの理想主義的な態度は広い共感を呼び、 国際間の協調に対する彼の支持は模範的だとされた。1909 年、日本の帰一協会は、 自分たちの平和運動を支援してもらおうとこの学者に連絡をとった。オイケンは即 座に賛同を示し、彼らへの返信の中で、「東西の人々の相互理解」24を達成するた
ジーク IIR 3 (2015) │ 57 めに、偏見を克服することは大国にとって必須であると強調した。当時の日本では 概して、西洋の教育や哲学への関心が高まっており、とりわけ一人の著名人、他で もない井上円了こそが、この現象を招いた人物であった。
IV
1868 年以降、明治時代の日本は、目もくらむような変化を経験した。たった数十 年の間に、この国は近代的な、そして軍事的にも大成功した産業国となった。この ようなことが可能だったのは、ひとえに日本社会の大部分が教育制度の近代化に肯 定的だったからである。だが、「教育」―より包括的なドイツ語を用いるなら「陶 冶(Bildung)」―が真に意味するところのものに関しては、非常に不確かなままだ った。このことは、東京大学がその創立当時、少なくとも 10 ものさまざまな名称 を持っていたことから推察されうる25。これに対し、宗学にとってかわった自然科 学の重要性、また西洋哲学への高い評価には、議論の余地が無かった。 1881 年、井上円了は学位を持った日本初の哲学者として大学を離れた。彼は仏教 徒の家に生まれ本来僧職につく予定であったが、東京大学で西洋哲学に夢中になっ た。アーネスト・フェノロサの影響のもと、彼は進歩概念の研究に没頭し、カント やヘーゲル、さらには近代実証主義の代表的人物であるコント、ミル、スペンサー を学んだ26。円了の仏教的背景を鑑みると、彼のこのような興味関心は一見意外に 見えるだろう。しかし「自分自身に、そして他人に有益であれ」という大乗仏教の 信条が、「最大多数の最大幸福」という功利主義の原理への橋渡しをしたのかもし れない27。それに加えて、円了がプラグマティズム的思考に好意を示し、抽象的思 弁よりも哲学的思考を具体的に適用するのを好んだことも看過されるべきでないだ ろう。 円了は、日本の近代化にとって自分の専門分野が持つ意義を強く確信しており、 それ故彼は、哲学を中心に据えた自分の私立大学を創立した。哲学的思考の普及の ため、彼は出版社を作り、日本全国を飛び回って講演活動を行った。1890 年から 1893年の間だけでも、彼は 220 ヵ所で 816 もの講演を行っている28。生涯を通じて 見れば、一講演あたり約 250 人の聴衆がいたことになる。同様に彼の出版活動もま た盛んで、その量においても文体においてもオイケンを彷彿とさせる。円了の全作ジーク IIR 3 (2015) │ 58 品は、少なくとも 857 の新聞記事、182 の単著からなる29。円了は、自らの啓蒙的 信念に突き動かされていた。とりわけ彼の最優先事項は、当時の日本によく見られ た迷信を打ち破ることだった。というのも、彼はこのような迷信が近代的な世界像 とは相容れないと考えていたからである。 政治に関して言えば、円了は国家的な価値と普遍的な価値の調和のとれた結合を 望んでいた。彼は絶えず、西洋の単なる模倣だけでは、独立を維持するために充分 ではないと強調していた。むしろ日本は、自らの文化と伝統を持ち続けねばならず、 現代へ向かう独自の道を見い出さねばならなかった。ちょうどオイケンが、人々に 観念論が欠けていると不満を述べ、当時優勢だった唯物論を攻撃したように。彼は 1988年 12 月 8 日、ジャパン・ウィークリー・メール紙に記事を寄せた。そこで彼 ははっきりと述べている。「今から述べることを主張する人もいくらかいるのだが、 我々はまっとうにも次のように考えている。日本人の精神における観念論の欠如が、 きわめて教養のある者の人生をすら、西洋のそれと比べて人間らしさに欠け、退屈 なものにしてしまっている、ということである」30。明らかに円了は、自分の仲間 に向かって欠点を指摘しようとするばかりでなく、自らの人生を積極的なものにす るよう、彼らを励まそうともしていた。 オイケンと同様、円了も時代の矛盾と遠心的な傾向を克服するために、包括的総 合に信頼を寄せていた。例えば彼は、日本の価値と普遍的な価値の調和のとれた結 合が教育体系の中で実現されることを望んでいた。多くの教授たちと同じように、 彼はある種の中道的立場を求めていたのである。「日本主義と普遍主義は別個の存 在ではなかった。一本の糸のごとく絡み合うとき、これらは完全になったのである。 どちらも単独では充分でなく、互いを補うために必要とされていたのである」31。 このような態度には確かに良い面もあるが、それと共に国家的な価値と普遍的な価 値のバランスをいかに維持するかという問いが生じてくる。帝国主義の全盛期にあ って、知識人たちは総じて、自国の究極的な優位を保証する傾向にあった。円了も この例外ではなく、日本の比類なさというイメージを強力に堅持した。その一例と して、彼の 1889 年の発言に注目したい。この発言は、なぜ新設大学が何よりもま ず日本の伝統的教育を考慮せねばならないかを説明したものである。「その目標は、 日本の人々の独立と日本の学びの独立でなければならない」32。原則として、文化 的アイデンティティをこのように強調することを拒む理由はない。だが、同時に政 治課題に関する新しい問題も生じてくる。すなわち、長い目で見て、異なってはい
ジーク IIR 3 (2015) │ 59 るものの相互に関連している諸国民概念を調停することはいかにして可能であろう か、という問いである。 もちろん円了の考えは、オイケンの哲学だけでなく、ナトルプのそれとも類似性 を示していた。ここで私は、カントや彼の理性批判との具体的関連をほのめかして いる訳ではない。円了はケーニヒスベルクのこの哲学者を詳しくは学んでいなかっ たようであり、むしろ彼は「カント」という名前を、自主的に考えることへの暗号 として使っていた。解釈学的観点からすればこのことは定かではないかもしれない。 西洋の議論の文化を称賛しつつも、円了が自らの実践哲学において自由の理念に対 して明確には同意していなかったがために、なおさらそうであると言えるだろう33。 だが同時にそれが示してくれるのは、1900 年前後の世界において影響力を持つため には、思想が個人へ具体化され、印象的な比喩表現の中に組み込まれねばならなか ったという事実への彼の鋭い感覚である。 円了の「西洋」に関する知識は、哲学史に対する彼の英雄的イメージを後押しし たと言ってよいだろう。1889 年の初めての世界旅行のとき、すでに彼は、英国国教 会もカトリック教会も自ら変化することにほとんど関心がないのだと突き止めてい た。宗教機関ですら、人々の社会的現実や希望とのつながりを失わないために変化、 順応しなければならないというのは、彼にとって疑う余地がないことだった34。円 了によって造られた「哲学堂公園」は、彼の尽力がいかに真剣であり、いかに張り つめたものであったかを描き出している。「四聖堂」は釈迦、孔子、ソクラテス、 カントにちなんでおり、東洋と西洋の総合を求めている。カントこそが、人間の認 識に関するその先入観にとらわれない理解をもって、近代への架橋を初めて可能に した哲学史のキーパーソンになったのである35。
*
今日の観点からすれば、円了の哲学は印象的であるが厄介でもある。自由な議論 を奉じることは、この哲学者によれば、西洋の卓越の中心的理由であった。同時に 彼は、哲学的意味付けを得ようと努めていた。彼の思想を現代へと移し入れること は容易ではないだろうが、その歴史的意義には何の疑いもない。彼の思想は、哲学 の持つ問題解決力、教育力への信頼に満たされている。そしてこの信頼は、明治時ジーク IIR 3 (2015) │ 60 代に推し進められた啓蒙と見事に調和する。特に古典的な哲学者たちを目立たせる ことによって、変化し続ける社会における安定という要求に円了は応えたのであ る。 スペンサー、オイケン、そしてナトルプの思想と同じように、円了の哲学もまた、 ユートピア的な特徴を持っていた。彼は自信をもって、過去の権威ある思想家たち を称賛した。というのも、彼は歴史プロセスの行く末を信じていたからである。第 一次世界大戦はこの信頼を打ち砕いただけでなく、同時に大いなる哲学的総合の信 用に傷をつけた。しかしながらこれは、我々がこれらの野心的な構想の研究を断念 すべきであるということではない。なぜならこれらの構想は、1900 年前後の世界を 適切に理解するために不可欠な思想と願いとを我々に与えてくれるからだ。また 我々は、「陶冶(Bildung)」の価値と共同体の重要性への彼らの信頼を軽々しく退け るべきでもない。結局のところ、我々が今日これらを充分に手にしていると主張す ることなど、ほとんどできないのだろうから。 注 * マールブルクの歴史家たちと東洋大学との関係を築いてくださった小倉欣一教授にこ
の小論を捧げたい。貴重な助力を与えてくれた Anne C. Nagel、Uwe Dathe、Rainer
Schulzerに感謝したい。また、ドイツ語原稿から正確な翻訳をしてくださった Wolfram
Kändlerにも感謝の念を表する。
1
Barbara TUCHMANN. The Proud Tower. A Portrait of the World before the War, 1890-1914, New York, 1966, p. xiii.
2 第一次大戦前夜の急速な変化に関しては、Eric H
OBSBAWM. Das imperiale Zeitalter
1875-1914, Frankfurt am Main, 2004参照。そのグローバルな視点を論じたものとしては、
Jürgen OSTERHAMMEL. Die Verwandlung der Welt. Eine Geschichte des 19. Jahrhunderts, München, 2009参照。
3 この点に関する研究としては、Philipp B
LOM. Der taumelnde Kontinent. Europa
1900-1914, München, 2008.
4 広範な分析としては、以下を参照。J[ohn] W. B
URROW. The Crisis of Reason. European
Thought, 1848-1894, New Haven / London, 2000; Ulrich SIEG. Geist und Gewalt. Deutsche
Philosophen zwischen Kaiserreich und Nationalsozialismus, München, 2013, Ch. 4.
5
Ferdinand FELLMANN (ed.). Positivismus, in: Id., Geschichte der Philosophie im 19.
Jahrhundert. Positivismus, Linkshegelianismus, Existenzphilosophie, Neukantianismus, Lebensphilosophie, Hamburg, 1996, pp. 15-98. ここでは p. 68f。
6
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7
Herbert SPENCER. System der synthetischen Philosophie, translated by B. Vetter, Stuttgart,
1875 vol. 11, ch. 29参照。哲学体系に関するスペンサーの数十年に及ぶ仕事に関しては 以下を参照。David WHILTSHIRE. The Social and Political Thought of Herbert Spencer, Oxford, 1978, pp. 73-99.
8 前掲書 p. 94 からの引用。 9
FELLMANN. Positivismus, p. 70参照。
10
August STADLER. Spencers Ethik. in: Id., Herbert Spencer. Spencers Ethik. Schopenhauer, ed.
by J. Platter, Leipzig / Zurich, 1913, pp. 99-157. ここでは p. 156。
11
Thomas NIPPERDEY. Deutsche Geschichte 1866-1918, vol. 1: Arbeitswelt und Bürgergeist, Munich, 1990, p. 190. マールブルクの新カント派に関する基本文献としては Helmut HOLZHEY. Cohen und Natorp, 2 vols., vol. 1: Ursprung und Einheit. Die Geschichte der ,Marburger Schule‘ als Auseinandersetzung um die Logik des Denkens, vol. 2: Der Marburger Neukantianismus in Quellen. Zeugnisse kritischer Lektüre. Briefe der Marburger, Dokumente zur Philosophiepolitik der Schule, Basel / Stuttgart, 1986がある。大学史的、学問 史的背景に関しては以下を参照。Ulrich SIEG. Aufstieg und Niedergang des Marburger
Neukantianimus. Die Geschichte einer philosophischen Schulgemeinschaft, Würzburg, 1994.
12 カントの『純粋理性批判』の重要箇所―コーヘンは常にその判断表に縛られてい
た―を明らかにしている研究としては Hermann COHEN. System der Philosophie. Erster
Teil: Logik der reinen Erkenntnis, 2nd rev. ed. Berlin 1914 (1st ed. Berlin 1902), new ed. with an
introduction by Helmut Holzhey, Hildesheim / New York, 1977.
13 故に彼は、伝記のテーマとなるに値する人物である。彼の伝記は、マールブルク大
学図書館に所蔵されている大量の遺稿に基づいている。彼の更なる聖人伝は以下参照。 Norbert JEGELKA. Paul Natorp. Philosophie, Pädagogik, Politik, Würzburg, 1992.
14 彼はここで次の著作に従っている。Hermann C
OHEN. Das Prinzip der
Infinitesimal-Methode und seine Geschichte. Ein Kapitel zur Grundlegung der Erkenntniskritik,
Berlin, 1883. 以下の新版のほうが容易に手に入る。A new edition with an introduction by Peter SCHULTHESS, Hildesheim / Zurich / New York, 1984.
15
Karl-Heinz LEMBECK. Platon in Marburg. Platonrezeption und
Philosophiegeschichtsphilosophie bei Cohen und Natorp, Würzburg, 1994. 特に pp. 89-100 参
照。
16 ナトルプの著作の影響力に関しては、以下を参照。S
IEG. Aufstieg und Niedergang des
Marburger Neukantianimus, op. cit., pp. 267-269.
17
Paul NATORP. Sozialpädagogik. Theorie der Willensbildung auf der Grundlage der
Gemeinschaft, 7th ed. curated by Richard Pippert, Paderborn, 1974 (originally Stuttgart, 1899).
解釈については以下を参照。Christian NIEMEYER. Zur Systematik und Aktualität der Sozialpädagogik Natorps vor dem Hintergrund ihrer ideengeschichtlichen Einlagerung, in: Jürgen OELKERS, Wolfgang K. SCHULZ, Heinz-Elmar TENORTH (eds.), Neukantianismus.
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18
SIEG. Aufstieg und Niedergang des Marburger Neukantianimus, op. cit., p. 284.
19
1900年前後の「世界観」の成功については以下を参照。H[orst] THOMÉ. Der Blick auf das Ganze. Zum Ursprung des Konzepts „Weltanschauung“ und der Weltanschauungsliteratur, in: Werner FRICK et al. (eds.), Aufklärungen: Zur Literaturgeschichte der Moderne. Festschrift
für Klaus-Detlev Müller zum 65. Geburtstag, Tübingen, 2003, pp. 387-401. 新カント派の出現
に関して今もなお該当するものとしては、以下が挙げられる。Klaus Christian KÖHNKE.
Entstehung und Aufstieg des Neukantianismus. Die deutsche Universitätsphilosophie zwischen Idealismus und Positivismus, Frankfurt am Main, 1986.
20
Uwe DATHE, Rudolf Eucken – Philosophie als strenge Wissenschaft und weltanschauliche Erbauungsliteratur, in: Krysztof RUCHNIEWICZ and Marek ZYBURA (eds.), Die höchste Ehrung,
die einem Schriftsteller zuteil werden kann. Deutschsprachige Nobelpreisträger für Literatur,
Dresden, 2007, pp. 37-60. ここでは p. 51。
21 以下を参照。Ulrich S
IEG. Kulturkritik als Zeitgeistverstärkung. Der Jenaer Neoidealist Rudolf Eucken, in: Michael DREYER and Klaus RIES (eds.), Romantik und Freiheit.
Wechselspiele zwischen Ästhetik und Politik, Heidelberg, 2014, pp. 241-259. 対立の和解とい
うオイケンの調和的イメージに関しては以下を参照。Friedrich Wilhelm GRAF. Die Positivität des Geistigen. Rudolf Euckens Programm neoidealistischer Universalintegration, in: Id., Gangolf HÜBINGER and Rüdiger vom BRUCH (eds.). Kultur und Kulturwissenschaften um
1900, vol. II: Idealismus und Positivismus, Stuttgart, 1997, pp. 53-85.
22
Ulrich SIEG. Geist und Gewalt, op. cit, p. 90. ノーベル賞受賞の経緯に関する綿密な研 究は、以下参照。Uwe DATHE. „Philosophen können den Statuten zufolge mit in Betracht kommen.“ Neue Dokumente zur Verleihung des Literaturnobelpreises 1908 an Rudolf Eucken. in: Das kulturhistorische Archiv von Weimar – Jena 2/4 (2009), pp. 269-283.
23 これはイエナ大学のアーカイブに収められている同大学の会計帳簿によって裏付け
られている。例えば 1890 年の夏学期には、草鹿丁卯次郎がオイケンの「哲学入門」講座 を聴講している(Universitätsarchiv Jena, G Abt. I, Nr. 326)。
24
Uwe DATHE. Rudolf Eucken – ein Gegner des Monismus und Freund der Monisten, in: Paul ZICHE (ed.), Monismus um 1900. Wissenschaftskultur und Weltanschauung, Berlin, 2000, pp. 41-59. ここでは p. 57。
25
Rainer SCHULZER. Inoue Enryo. A Philosophical Portrait, phil. Diss. Humboldt-Universität zu Berlin, 2012, p. 40. 以下の論述は、彼の研究に多くを負っている。
26
The Educational Principles of Enryo Inoue, Tokyo, 2012, p. 24.
27
SCHULZER. Inoue Enryo. A Philosophical Portrait, op. cit., p. 175
28
The Educational Principles of Enryo Inoue, op. cit., p. 81 and 177.
29
Ibid., p. 89.
30
INOUE Enryo. The Japanese Philosophical Society, in: The Japan Weekly Mail, 8th December 1888, quoted in: Rainer SCHULZER, “Philosopher’s Ashes Return to Tokyo”. Inoue Enryo as Seen in Historical Roman Alphabet Sources, in: Enryo 20 (2011), pp. 186-236. ここでは p. 232。
ジーク IIR 3 (2015) │ 63
31
The Educational Principles of Enryo Inoue, op. cit., p. 73.
32
William M. BODIFORD. Inoue Enryo in Retirement. Philosophy as Spiritual Cultivation, in:
International Inoue Enryo Research 2 (2012), pp. 19-54, here p. 22. 国家概念に関しては以下
参照。Isaiah BERLIN. Der Nationalismus, with an introduction by Henning Ritter, Frankfurt am Main, 1990.
33
SCHULZER. Inoue Enryo. A Philosophical Portrait, op. cit., p. 130を参照。
34
Ibid, p. 179.
35 この詳細に関しては、B
ODIFORD. Inoue Enryo in Retirement, op. cit., pp. 29-32