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[Life among the Limestone Caves : Environmental Change of the Eco-cultural Complex of the Minor Han Grop in Southeastern Yunnan]

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東南 ア ジア研 究 35巻 3号 1997年 12月

石灰 岩地帯 に暮 らす人 々

雲南東南 部 の生態文化複 合系 の変容 過程

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lsamuYAMADA* andYINShaoting* *

要 旨 中国雲南 省東 南部 の石灰 岩地帯 に住 む漢 族 の生 活 を調査 した。彼 らは約 100年 前 に石灰 岩 の 洞窟 に移 り住 み, コムギ, トウモ ロコシ を主 食 と し,周辺 の森 か ら採 集 に よって生 活 を行 って きた。 しか し, 人 口の増加 と,硝石採 集 な どに よ り,周辺 の森 林 をは じめ とす る環境 が悪化 し 始 め,土地 問題 , 水問題 , 人 口問題 な どが,生 活 を圧 迫 し始 め た。 この生態文化複 合糸 の変容 過程 を,石灰岩 地帯 の生活 の問題 に関連 させ て論 じた。

ThestudyisbasedonthelifeoftheminorHamtribeinthelimestonecaveil一thesoutheastern YunnanprovinceofChina. Itsmemberssettleddownnearlyhundredyearsagoandhadbeen earningtheirlifebycultivatingcornandwheattogetherwithsubstantialhuntingandgathering in the surrounding forests up until1950S. B上ltbecauseofthe collection ofsaltpeterand populationincrease,thesurroundingforestsdecreasedandenvironmentalproblemsrelatingto water.landuseand high populationdenslty Created pressureontheharmonyoftheecology. Theprocessofenvironmentaldegradation,thecharacteristicsoflimestoneenvironmentandthe peoples'attitudetowardsenvlrOnmentalpressurearedescribedinthepaper.

は じめに

昆 明か ら石林へ入 るあた りか ら,南-下 る遺す じは,大石灰岩 カルス ト地形であ る。 しか し 弥勘 あた りか ら一旦 とぎれ, 山は,乾燥 した草 原植生 とな り,下方 に南盈江 (珠江 の上流) を 見 なが ら下 ってい く。

そ して再 び,平遠街 あた りか ら石灰 岩の台地が広 が り,文 山 まで続 く。文 山 までの石伏 岩地

* 京 都 大学 東南 ア ジ ア研 究 セ ン ター ;CenterforSoutheastAsianStudies,KyotoUniversity

** 雲 南 民 族 博 物 館 ;YunnanMuseum oftheNationalities,HaiGeng,Kunming650228,Yunnan,People's RepublicofChina

(2)

東 南 ア ジア研 究 35巻3号 帯 は,標 高1,600mあた りを,緩 やか に起伏す る高原状 の台地であ り,砂糖黍が主 に植 え られ, 土 の 占め る割合 の方が石灰岩 の占め る面積 よ りもはるか に大 きい。 文 山 に入 る右手 に石灰 岩 の岩峰が見 え出 して くる。 手前 の平遠街 の西 に も少 し岩峰が 出てい るが,本格 的 な石灰岩地帯が 出て くるの は,文 山か ら東南部分で あ る。 観光で有名 な桂林 の石灰岩 と似 た風 景が文 山 を過 ぎる と次 々 と現 れて くる。 そ して, この石 灰岩の岩峰の 占め る面積 は,岩 の割合 に して75% とい う。 我 々は,1997年3月 にこの文 山地 区の石灰岩地帯 の調査 を行 った。 この地域 は雲南 の中で最 も石灰岩 の多 い地域 で もあ り,かつ,土地が狭 いため,貧 困地帯 の多 い所 で もあ る。 地理 的 に は,すで にベ トナムに近 く,かつ 中国で は広西省 に隣接 していて,主 た る住民 は壮族であ る。 この中で,我 々が訪 ねたの は,東寄 りの,簾南 と富寧 に近 い石灰 岩地帯 と,西 瞬周辺 の一帯 であ る。 ここで は, この うち,廉南地 区の調査結果 につ いて報告 したい。 Ⅰ

峰岩洞への道

文 山地 区 には,今 も洞窟 に暮 らす 人々が い る とい う話 を聞いて以来, この洞窟 を訪 れ る こ と は一つ の念願であ った。 しか し,洞窟で暮 らす とい って も,かつ ての何千年 か前 の ような話 で はな く, かつ,少数民族で もな く,漢族が住 んで い るのであ る。洞窟 に暮 らす こ とか ら生 じる 様 々な環境 的 な問題 の ひ とつ の特殊 なケース と して,森 と人の比較研 究 のポイ ン トと して訪 れ たわけであ る。 アプ ローチ は,考 えていた程悪 くはない。文 山か ら,富寧-約 1日,石灰岩 の中の アスフ ァ ル ト道路 を走 る。 どこで も道の工事 を していて, アス フ ァル トに穴があいて極 めて走 り辛 い。 富寧- 約50kmの地点 に馬街 とい う小 さな村 が あ る。我 々は,文 山,富寧, お よび馬街で, そ れぞれ民族委員会の人々か らの情報 を得 て,富寧 か ら再 び引 き返 して,馬街 の町 を朝, トラク ターで 出発す る。 トラクターには初 めて乗 ったが,悪 い農道 を実 に激 しく揺 れ なが ら,それで も人 の歩 くス ピー ドよ りは早 く,約 1時 間で,8km先 の八宝 とい うイ族 の村 に着 く。 こ こま での村 は,菜 の花,桃 ,ナ シな どの花 々に彩 られた,数軒 の美 しい仔 まいの落 ちつ いた家 々か らな ってい る。 安王 の村 で,持 って きたカ ップ ラーメ ンを作 って腹掠 えを し, これか らは徒歩 であ る。 雲両民族博 物館 が以前8人の メ ンバ ー とや って きた時 は10kmを2時 間半 かか った と い う。 我 々は一人のポー ターを雇 って荷物 を頼 み,歩 き出す。 村 の入 口か ら,道 はす ぐ,石灰岩 の岩嶺 を登 る。 中国の道 は どこで もそ うだが, うま く石が 階段状 に配置 してあ り,登 りやす い。 しか し, ここは,石灰岩 の岩がその まま凹凸激 しく見 え 隠れ し, その上が何 十年 も人の通 ったあ との証拠 として, ツル ツルにな ってい る。 一気 に鞍部 512

(3)

山 田 ;チ :石 灰 岩 地 帯 に暮 らす 人 々 まで登 り切 る と, そ こは,下 か ら細 い谷 を登 って きた狭 い棚畑 の突 き当 た りで, もはや土 は少 ない。 それで も岩 の間々 にほんの少 しの面積 の 中の土 を求 めて, 人 々の手 が加 え られて い る。 この初 めの鞍 部 か らあ とは,次 々 と石灰岩 の岩嶺 を上 が って は下 りとい う恰 好 で い くつ もの 同 じよ うな風 景 を見 て歩 くこ とにな る。 初 めの石灰 岩 の谷 底 は,水路 が ひかれてい る くらい大 きな,長 さ200m, 幅50mくらい の坪 であ る。 この底 を見 下 ろす よ うに, 中腹 に道 が取 り付 け られ, ほぼ並行 に しば ら く歩 いて,次 の鞍部 を登 る。 す る と次 は, もう水路 な どな く, 更 に小 さな, まるで ギ リシ ャの円形劇場 の よ うな格 好 のす り鉢型 の坪 が見 える。 下 には コムギが主 に 植 わ ってお り, その西側 か らせ り上が って段 々畑 が あ り, やが て,道 の少 し上 くらいか ら,岩 だ らけの土地 とな る。 この宕 だ らけの土地 のか な り上 に木 の生 えた山頂部 分が あ る。 鞍部 を越 え る度 に,次 は どの よ うな風景が 出て くるのか楽 しみで あ る。 鞍 部 の登 りは, それ ほ どきつ くな く,適 当 に しん ど くなる ところで平地 にな る よ うに工夫 して あ る。 段 々畑 に黄色 の菜 の花 が美 しく咲 き,遠 くの崖 の上 に,数戸 の家, その周 りに咲 く桃 の花 , 遥 か下 に見 え る緑 の小 麦 畑 ,周 りに林 立 す る石灰 岩 の岩 峰 群, な ど, この道 ゆ きは, これ ま で,様 々な所 で見 て きた道 の中で も最 も優 れ た生態風土 的景観 で あ る。 やが て,竹 が植 え られ, そ の近 くにや や大 きめ の洞 窟 が見 えた りして くる。 家 の前 を通 る と, こち らの人 は必ず,茶 を飲 んで いけ とか, メシ を くって行 か んか, と誘 って くれ る。 又 ,道 で は,遠 くの村 か ら来 る農民達 と出会 う。 み な堆 肥 をかつ いで い る。 トウモ ロ コシを 植 える前 に,畑 に入れ る準備 を してい るので あ る。 我 々の行 く村 か ら1時 間以上 もか けて来 て い る人 々 もい る。午,馬 もや って くる。 3月の初 めの この地方 は, はや春 うららか な暖 かい陽気 に満 ちみ ちてい る。 ここの生 活 の し ん どささえ知 らな けれ ば, この よ うにす ぼ ら しい環境 は また とないで あ ろ う。 最 後の坪 は, まわ りをい くつ もの 岩峰で 囲 まれ底部 の畑 面積 も大 き く, かつ崖 の上 に6軒 の 家が建 っていた。 そ して, その奥 に大 きな洞窟 の ドームが見 えた。 これが,我 々の 目指 して き た峰岩 洞 であ る。 正式 には文 Llけトト広南 県南犀鎮安 王社 に属す るひ とつ の村 であ る。殆 ど休 まず 歩 いて 2時 間半 くらい, とい うペ ースであ った。

Ⅰ 峰岩洞

ち ょうど昼休 みで,小学校 の子供 達 がバ スケ ッ ト場 で遊 んで い る。 その声 が,洞窟 に反響 し て か しま しい。 入 口の手 前 に, 大 きなため池 が作 って あ って, 汚 い水 が底 の方 に た ま って い る。 昨年電気 もつ いて, テ レビの ア ンテナ もあ る。 これ らは全 て,1992年 に雲南民族博物館 が 調査 した後, 聞 きつ けて きた新 聞記者 やテ レビ局が宣伝 して くれ たお陰 ら しい 。 洞 窟 の前 に立 った第一 印象 は, におい と空気 の悪 さで あ る。 そ れ は洞 窟 の 中 に入 ってみて, 513

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東南 アジア研 究 35巻3早 更 に強烈 にな る。洞 窟 は幅が約 125m, 高 さ50m くらいの半球型 が半分 に割 れ た ような恰好 で, 天蓋 を覆 ってい る。 洞窟 の中はか な り深 いけれ ども,人 々の住 んでい るの は,入 口の広 い部分 で,洞窟 は奥 か ら上洞, 中洞 ,下洞 に分 かれて い る。 洞窟 内 の面積 は約7,500m2(11ムー),入 口の海抜 高 は1,250m で,洞 内の底 部 は1,130m,つ ま り,高度差 120m の間 に人 々が住 んで い るのであ る。 上洞 は,西方 向- 向 いた洞窟 の入 口の北 の端 にあ って,光条件 は悪 いが,最 も古 い家 々が残 ってい る。 人 口の増加 につ れて,人 々は, 中洞 か ら下洞へ移 ってい る。 中洞 は最 も 入 口に近 く,光が よ く入 って条件 は最 もよいので,家の数 は最 も多 く,密集 していて,

4

列 に 並 んでい る。 中洞 か ら南 にい くにつ れて, 日あた りが悪 くな り,家 は

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,

3

列 にな って,下洞 -至 り,海抜 1,186m以下 に家 は無 い。下 洞 の上部 に天洞が あ り, この上 の絶 壁 を登 る と上 に バ スケ ッ トコー トの2倍 くらいの広場 があ る とい う。 どの家 も屋根 が必要 ないので,天井裏が む き出 しにな ってい る。 天上裏 には トウモ ロコシ, タバ コ,豚 の干 肉,洗濯物 な ど様 々な ものがおいてあ って,実 に乱雑 この上 ない風景 とな って い る。 漏斗状 の竹 の受 け口が天井 にあ って,そ こか ら竹 で,家 の中へ水が ひけるようにな って い る。 雨季 にな る と上 か ら石灰岩 を伝 って落 ちて くる水 を受 ける仕組 みで あ る。 家 の一階 には,豚,局,午,鶏が い る。それ らの鳴 き声 と糞 の臭 いが この洞 内 を極 めて ひ ど い環境 に追 いや っている。 最近 は,牛泥棒 よけに犬 を飼い だ した。我 々が行 くと,犬が けたた ま しく吠 える。階段 の上 には,豚 や鶏 の糞尿が散在 し,動物小屋 の周辺 は,今 ,運 び出す堆肥 の山であ る。 長 くい る と,何 か息苦 しくな って くる洞窟 の頭 か ら押 さえつ け られ る ような雰 囲気 もた まら ない。 この洞窟 内 に人々が住 み始 めたの は,約百年 くらい前 といわれ る。 言 い伝 えに よる と狩 を し ていて鹿 を迫 って きた先祖 の人 々が, この洞窟 を発見 した。 当時 は,高木 と垂 れ下が る蔓植物 とで入 口は外 か ら見 えなか った とい う。 周 りは深 い森 に覆 われていた。 ここをすみか と定 めた 人 々は, まず,入 口を覆 う高木 と蔓植物 を切 って,光が入 る ように した。 当初 は15軒程 の家が あ るだ けで,周 りの環 境 も極 め て快 適 で あ ったが,徐 々 に人 口が増 え始 め, 1992年 に56戸, 1997年 には58戸,280人の 人々が住 む ようにな って しまった。 その結果 とい うか, その過程 に おいて,実 に様 々な問題が この峰岩洞 を中心 に起 こるこ とにな ったので あ る。 これ らの問題が 峰岩洞 ひ とつ の例 に とどまるこ とな く,型 や場所が変 わ って, どこで も起 こるような問題 のモ デルケースの ような ところが あ る。 ここで は,特 に生態環境 の問題 に焦点 を絞 って考 えてみ よ う 。 100年前 にこの地 に住 み着 いて以来 ,洞 の人 々はず っ と, ここを根城 に して,生活 を行 って きた。 当初 は人 口 も少 な く,周 りの環境 も森 に囲 まれて好 か った。人 々は, この洞 を中心 に, 畑 を作 り,水 田 も作 り,周 りの森 で は狩猟 も行 って,あ る意味で は,理想 的 な生活 を続 けて き 514

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山田 ;デー:石灰岩 地帯 に暮 らす 人々 た。後 に述べ る よ うに,様 々な困難 はあ るが,基本 的 には最低線 の生 活 を守 り,維持 してい く だけのモ ノ と人のバ ラ ンスが保 たれて きた。 しか し, この状 況 は, 余 り長 く続 か ない。 い くつ か の出来事 が,周 りの環境 を含 めて, この 洞 での生 活 を少 しずつ圧迫 して きたので あ る。順 を追 って,整理 して み る と,次 の よ うな こ と にな る。

土地 問題

もと もとこの洞 の土地 は,今 よ りもは るか に広 い面積 を持 ち,南犀 や托 童 に水 田 も持 ってい た。 とこ ろが

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年代 に入 って,政府 が土地 の調 整 を行 った。 そ のため,洞 の所 有す る1

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の 土地面積部分 が安 王 ,水掩塘 ,石洞 ,那幕 , 白梶井 ,馬鞍 山の村 々に分割 されて しまった。 そ の ため に, この村 の土 地 は, 水 田 わず か に5ムー と, 洞 の前 の大 きな坪 で あ る 「黄早 坪」 の

7,

0

0

0m

2 (約

1

0

ム ー) が 主 な もの と して 残 った だ けで, 後 は殆 どが, 石 灰 岩 の 荒 れ地 とな っ た。 この周辺 の土 地 の区分 をここで少 し説 明 してお こ う。 一般 に,石灰 岩 の凹地 は 「塘 子 地」 ま た は 「鍋底 塘 」 と呼 ばれ る。 この最 も低 い部 分 は,土地が平地 で,土 は よ く肥 えていて厚 い。 ・'.I..'.,:'_i E 駁 ' I- (石 の世 界)林千道(i十十十了i寡 山 )L兄ト路ン山一一一一- n r\ 一一 台地 .+ L'-la 」ノ 鍋底塘 (塘子地) 図 1 石灰岩地帯 の土地 の呼称 515

(6)

東南 アジア研 究

3

5

3

号 最 もい い土地 で はあ るが,大雨 の時 に は洪水 とな る。 その ため,昔 は,周 りに洪 水 防止 の為 に,水路が作 ってあ ったが,今 は,土地 が少 な くな ったため, この水路 に まで作物 が植 え られ て しまった。 しか し,幸 いなこ とに,南側 の下部

1

0

m

あ ま りの所 に,やや深 い洞窟 があ り,そ こ-水路 を通 じさせ て,排水で きる ようになってい るため,洪水 の心 配 はない。 この土地 は最 もいいので,村民 に平等 に小 さ く区分 され,

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世帯 あた り

0.

1-0.

2

(

l

o

介- 1

ムー) に分 け られ,

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歩 ご とに石が

,1

0

歩毎 に杭 が立 て られ,境界 は極 めて は っ き りしてい る。 増 子地 の上 の斜面部 分の うちで も, それほ ど石 の多 くない下部 か ら中部斜面 は 「台地」 とよ ばれ る段 々畑 にな ってい る。 標高 は

1,

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か ら

1,

1

5

0

m

の間にあ り, ここは石 と土 の混 じった 二等級 の土地で あ る。 一人当た り

2- 3

分 の土地 を有 してい る。 その台地 の上 は,更 に石灰岩 の カルス ト状 とな り,岩 の間 に辛 う じて土が た まった部分が あ スカラ る とい う感 じであ る。 この ような ところは石白 見 (石 の世界) または鼻 山 (カオサ ン) と呼 ば れ る三等 地であ る。 ここは,普通 な ら到底畑 に出来 るような土地 で はないが, この地 区の人 々 の勤勉 さが,岩場 を畑地化 してい るのであ る。 ここで は一世帯 あた り平均1ムー以上 の土地 を 持 ってい るのであ るが,石が多 いため,面積 でい って も実質上意味が ない。従 って村 の人 々は 背 とい う単位 を用 いて,生産量 を量 る。 1背 は

,3

0

k

g

で, た とえば, トウモ ロ コシでい うと, 二等 地 の段 々畑 か らは

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ムーか ら

1

7-1

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背 の トウモ ロ コシが とれ るが,三等 地 の岩場畑 か ら は,3- 4背 しか とれないのであ る。

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年代初 め に

,1

4

歳以上 の男女 に平等 に- 人当た り

1

ムーの土地が分配 されたが,石 が多 い ため, それ だ けで は とて も生 活 で きず 人 々 は, 山の上- 上- と開墾 を続 けて い る。 そ の結 莱,

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年代末 には標高

1,

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以下 にのみあ った農地が

,1

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年代 末 には

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にな り,更 に

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年 以降 は

1,

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以上 に まで上が って きて,今 は, 山の頂 上付 近 に しか森林 は見 られ な くな って しまった。 その こ とが, よ り深刻 な環境 問題 を引 きお こす こ とになる。

水 の利 用 石灰岩地帯で は水の問題が最 も厳 しい こ とになる。 この石灰岩地帯 には川 も湖 も泉 もない。 頼 れ るの は雨水 だけであ る。 洞 の人 々は,雨水以外 は井戸 に頼 る しか ない。井戸 は しか し,石 だ らけの所 には掘 れない。 粘土 のあ る ところ を探 して掘 ってい く。粘土 を掘 り,壁 を石 で固め,更 に石 の間 を粘土 で埋 め てい く。 この洞 の最 も古 い井戸 は, 「徐」 とい う人が住 んでいた土地 に最初 に作 られ,「自書泥」 と呼 ばれ,洞 窟 か ら

2

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分 か か る

1,

2

9

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m

の地 点 にあ る。 実際 に行 ってみ る と, けっこう山の上 にあ るこ とが判 る。 昔 は3穴 あ った ら しいが, い まは2穴 しか残 ってい ない。大 きな直径7mほ ど

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山田 ;チ :石灰岩地帯に暮らす人々 の四角形 で,深 さは

5m

くらい。横 の壁 に幅

3

0

c

m

くらいの階段 が作 られ,女 子供 で も降 りて, 下 の井戸 の底 の さらに一部 を深 く掘 り下 げた ところにた まった水 を汲 め る ようにな って い る。 この階段 が 出来 たの は

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年前 の こ とで あ り,何 人 もの女性 が井戸 に落 ちて死亡 す る とい う事 件 が起 きて作 られた もので あ る。 小 さい方 の井戸 も

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年前 に作 られて い る。 この井戸 は

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年代 ま で, この洞の人 々 と家畜 の ための水源 で あ った。 しか し,今で は人 口が増 えす ぎて, ここの水 は,9月 と10月の2カ月 しか もたない。 つ いで, この井 戸 の東 側 の

1,

3

0

0

m

の地点 に新 しい井 戸が作 られ た。 直径

3m

,深 さ も

3-4m

で あ るが, この水 は10日間 しか もた ない 。 しか もこ こ- の道 は傾 斜 が きつ く,

2

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分 か か る。 さらに

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9

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年 に 「水井 湾

とい う大 きな水池が作 られ た。 これ は洞 か ら

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分 かか る東北部 に あ り,大 きな平坦 な岩場 が あ って,それが傾 いてい る。 ここに低 い方 に石 とセ メ ン トで壁 を作 り,高 い方 は爆 薬 で壊 して,大 きな池 を作 ったのであ る。 周 囲 は

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2

8

m

,深 い ところは

2.

8

m

あ り, ここが現在 の最 も大 きな水源 で,5カ月間人々の水 を供給 して い る。 すで に述べ た二 カ所 の井戸 水が無 くな る と, ここの水 を汲み に来 るので あ る。 この井戸 を作 る時 には,周 りの村 々 か ら も手伝 いに来 たため,周辺村 の人 々 も権利 を持 っていて水 を汲 み に来 る。 以上 の井戸 で は雨 の終 わ る 9月か ら翌年 の 3月 まで しか持 たない。 その後 は どうす るのか, 洞窟 内の岩石 か ら滴 る水 を利 用す るので あ る。 洞窟 の中の家 々の汚 ら しい屋根 の近 くに,大型の漏斗 の ような ものが あ り, それが竹 を伝 っ て家 の中へ 入 ってい くよ うに してあ る。 これ は,石灰石 の岩石か ら滴 り落 ちる水 を受 けて, 竹 の樋 を適 して家 々の水瓶 に水 を送 る装 置 であ る。 これ は確 か に よ くで きた工夫 であ り,かつ, 屋根 の ない家の雨漏 りよけに もな るため,広 く家 々が利用 して いる。 しか し,昨今 は,石灰 岩 の上 の木 々 を取 り続 けてい るため,滴下す る水の量 が減 って きて い る とい う話で あ る。 これ らの水源 以外 に,洞 内 に数十 カ所 の井 戸 が あ る。 これ らの井戸 は, 下 洞 の二つ を除 い て,全 て,上洞 に分布 してい るO その 中で も,最 も多 く密集す るの は東北 の角であ り, この辺 りは暗 く湿度が高 い。 これ らの井戸 は全 て個 人 の所 有 で あ り, 時 に は鍵 もか け られ て いて, 人 々 は,松 明 を持 っ て, 水 を汲 み に行 く。 大 きさや形 は地形 の条件 にあわせ て様 々であ り,小 さいので

3-4ml

,

大 きいの で10-20rn・iの大 きさで あ る。 これ らの井 戸 は, 雨季 の前 に丁寧 に修理 して保 って い る。 これ らの様 々な水源 の 中で,最 もいい水 は,滴下 して くる水であ る。樋 を伝 って降 りて くる 水 は時 には

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0-5

0

m

も流 れて くるが,冷 た く,清 潔で,水瓶 に入れておいて も何十 日も腐 るこ とはない。 しか し,洞外 か ら取 って くる水 は,す ぐに腐 って しまう。 水 は無論全 て独 力 で運 ばなけれ ばな らな

い。

朝早 くか ら,天秤棒 や,馬 の背 にポ リタンクを

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1

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東南 アジア研究 35巻3号 積 んで,村 人 たちは往復1時 間以上 もかけて,毎 日水 を運ぶ。一家族 を養 うのに 1日 5荷,つ ま り5回往復 しなければな らない とい う。 まだ井戸 に水のあ る時期 はいいが, 2, 3月か ら雨 のや って くる まで の2- 3カ月間 は全 く水が ない時が あ る。 そ うい う時 には,村か ら15km離 れ た 「龍樹」 や, 「董壁郷」 に まで水 を と りに行 かねば な らない。 こ うなる と,半 日以上の大 仕事 となって しまう。 この ような時 には,馬等 の家畜 は,村 か ら水 のあ る ところへつ れてい っ て水 を与 え る。 この よ うな悪条件 を克服 す るため,洞窟 の入 口の前 に,政府 の援 助 で大 きな貯 水池 を作 っ た。村 民が8,000元 出資 し,政府 か らは40トンのセ メ ン トと150kgの爆 薬 と8本 の鉄 の鎖 とコ ンクリー トミキサ ー を借 りた。 池 の設計 は村長 を中心 に行 い,長 さ28m,幅14.8m,深 さ3mの貯 水池 を作 るこ とにな った。 容量1,060m3の貯 水池の周 りに は,高 さ1mの保護壁 ,外 か ら入 って くる水 をうま く貯水 池へ 流 し込 む為 の コ ンク リー トの斜面 ,232m の溝等 の工事 が,1990年 の9月 に始 ま り,91年6月 に主要部分が完成,92年5月 には全部が完成 した。 これに要 した労働 力 は18,000個 (個 は一人 の大 人が一 日働 いた時の労働 力) に達す る。 この貯水池で は,石 を投 げ入 れた り,放牧 した り,洗濯 した りす ることは禁止 され,3人の 専 門の係員が雨 の降 る前 に,水 を受 ける斜面 と溝の掃 除 をす る。 また貯水池の底の砂 や石 も掃 除す る。 彼 らのため に,村 人が食料 を供給す る事 になってい る。 我 々が訪 れた時, この貯水池の底 には,汚 いアオ ミ ドロ色 を した水が少 した まってい るだけ で,村 人 は誰 も利用 していなか った。 こ うい った大工事 はえて して,失敗 に終 わ りが ちになる の は何故 だろ うか。 いずれ にせ よ, この洞窟の人々 に とって,最 も深刻 な問題 は,水 問題で ある。 何 とか現状 を 打 開せ ん と,村民 は,パイプライ ンを引 いて もらえるよう政府 に陳情 に行 った。パ イプライ ン と言 って も, それ程大袈裟 な もので な く,細 い水道管 の ような もの を村 まで引 くだけの こ と で, ほんの数十万 円の資金があれば出来 るこ となのであ る。 しか し,現状 では, この資金 を得 ることは,極 めて難 しい よ うであ り, まだ まだ,住 民 の水運 びは続 くこ とになるだろ う。

森 の減少 初 め に述べ た ように, この洞窟 に人々が住 み始 めた当時 は,洞 の入 口 さえ も判 らない くらい 木 々に覆われていた。畑 は,洞の前 にあ る 「黄早坪」 だ けで,それ以外 の土地 は全 て森 に覆わ れ,動物 もた くさんいたのである。 しか し, この環境 は,外 か らの影響 に よって,著 しく変化す ることを余儀 な くされ る。 それ は硝石 の採取 による もので あ る。1950年代 に入 って,政府 は調査 を行 い, 中国で は硝石 は雲南 518

(9)

山田 ;ヂ :石灰 岩地帯 に暮 らす 人 々 の, しか も文 山広南 の馬街 の峰岩洞 に しか ない こ とを知 った。 それ まで,地元 の人 々は硝石 の 混 じった土 で井戸 や家の壁 を塗 った り,肥料 として利用 してい るだけであ った。

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年 に硝 石 が爆薬 の原料 とな る と知 った 人々 は,主 と して周辺 部 分

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0-2

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km

の範 囲 か ら,や って きて,争 って硝石 を と り始めた。人 々は, まず,土 の地面か ら始 ま り,穴 を掘 り, 地下- 入 り,更 に天洞 に まで登 って硝石 を含 む土 を採取 してい ったのであ る。 天洞 は絶壁 の上 にあ り,そ こ- は木 や竹 を使 って登 ったのであ る。 硝石 を採 る方法 は,井戸 の近 くに直径

1.

3-1.

4m

ほ どの穴 を掘 り,セ メ ン トで穴の内側 を固 め,穴 の底 にパ イプ をつ ける。 そ こ-草木灰 と締 った土 を入 れ, 水 を加 えて, か き混ぜ る。パ イプか ら出て きた混 ざ り物 を大 きな鉄 の鍋 で煮 るのであ る。 一つ の穴 の土 を処理 す るのには膨 大 な量 の草 木灰 と燃料が必 要 にな る。 硝 石 の倍 は当時 7回煮 て 9-56元 の間で, その ため に

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0k

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の水 と

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の土 と

5、

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,

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0k

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の葉, 草,樹 木 を消 費す る とい う。 わず か数十元 のため に, これだけの資源 を投 入す る作業が

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年 か ら

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7

5

年 まで続 いたのであ る。 硝石 を含 む土が少 な くな り, まわ りに草 と木 もな くな って,硝石生産 は終 わ った。 しか し, その後 には,荒れ果 てた野 山が残 ったのであ る。

1

9

8

0

年 には,村民 に 「自留

」 が分 け られ, それぞれ , 自分の山か ら薪や必要 な材 を取 る よ うにな った。 しか し, もうその頃 には山に木 は少 な く,近 くの人 々に頼 んでその周辺 の山の薪 を取 らせ て もらって いたが, それ も度 々とい うわ けにいかない。 そ こで,村 人が考 え出 したの は,子供 を他 の村民 の義理 の親子 関係 にす る とい う苦 肉の策で あ る。 この洞 の中には,

4

人の義理 の親 を持つ子供 もいる という 。 しか し, こ う して も事態 は よ くな らない。何故 な ら,木の生長 はそ う簡単 に回復せず,時 間が かか るか らで あ る。 この洞 の周 りの山 を見去度す と,来 た道筋 の村 々周辺 に比べ て,極端 に木 々の少 ない こ とが よ く判 る。 潅木が 頂上付近の極 めて傾斜 の きつ い 自留 山にのみ残 っているだけなのであ る。

ⅤⅠ

勤勉 な人 々 石灰岩 の岩峰 を三つ に分 けた場合,下 の坪 の底 と,底 か ら続 く台地 は,それ程 問題 はない。 労力 はかか るが,棚状 に畑 を作 ってい くの は, どこで もや ってい るこ とであ る。 しか し,問題 はその上 であ る。 この辺 りで は,石 だ らけの荒地 を石 倉見 (石 の世 界) と呼ぶが, この土地の 畑作 りは実 に大変であ る。 この辺 りの山道 は, ほぼ この棚畑 と石 の世界の間 を通 じている。 従 って,歩 いてい る と, 冒 線 の先 に見 えるの は,石灰 岩の岩場 ばか りの ように見 える。 しか し, よ くよ く見 る と,その間 に人が動い た りしていて, ご く僅 かの土 を排 した りしてい る。 洞 窟 の 中の強烈 な臭 い と空気 の悪 さか ら逃 れて,我 々 は外- 出て,上 に述べ た井 戸 の近 く 519

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東南 アジア研 究 35巻3号 で,休 んで いた。昼 か ら夕方 まで は,皆忙 しく働 いて, イ ンタビュー をす るに も人が い ないの で あ る。 正面 の

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ほ ど離 れた崖 の斜面 に女が二人, さかんに草 を刈 っていた。初 め は, 山の雑草木 を刈 って,薪 にで もしてい るのか な と思 っていた。彼女 らは実 にせ わ しげ に,勤勉 に働 く。 一 人 は まだ若 く, もう一人 は年寄 りであ る。 年寄 りの方 は,膝 をかがめて,地 に接 す る ように し て クワを使 う。 若 い方 は,膝 を曲げず, アフ リカ式 に鎌 を使 う。 途 中か ら,男が一人,牛 をつ れてや って きて, や は り同 じ所 をや り始 めた。彼 は腰 にナ タを差 していて, ナ タで雑草木 の根 を切 って は集 めてい る。牛 は, その間,周 りに残 った緑 の葉 をせ わ し く食 ってい る。 初 め雑木地 と思 っていたのが,1時 間 くらいす る と畑 であ る と判 って きた。女二人男一 人が 2時 間近 く働 いて, ようや く,土 の表面が ほんの少 しずつ見 えて きて,それが石灰岩 の岩 の間 に少 しずつつ なが って,狭 い段 々畑 の一部 にな っていたので あ る。 よ く見 る と, この一家の畑 は,普通 の段 々畑 の上か ら,鞍部 の上 まで,石 だ らけの所 に作 ってあ り,上 と下 だけ,石 を積 んだ段 々畑 ら しくしてあ る。 隣 は他 の人の 自留 山であ り,縁 が見 えるが,牛 も賢い ものでそ こ へ は入 らない 。 トウモ ロコシを植 える為 に,今 ,段 々畑 の地掠 え を してい るのであ る。 こう して雑草木 を と り,残 った トウモ ロ コシの茎 や根 も全 て取 り, これ らは,家-持 って帰 って薪 にす る。 そ し て, このあ とに堆 肥 を入 れて, 5月 になる と, トウモ ロ コシを植 え,雨 を待 つ とい う。 どこを見渡 して も人が働 いて い る。子供達 は,学校が終 わる と,午 をつ れて山-放牧 に出か ける。 女 の子 は,小 さなポ リタンクを もって,底 に僅 か に残 る水 を汲み に来 る。 そ して帰 りに 我 々の見てい る畑-寄 って何 やかや と遊 んで い る。 女 の子 は一人で しゃべ って,それ に ときど き,母親か,お ばあ さんが答 える。 女 の子一 人が入 る と場 が明 る くな る。 ピンク と赤 の トレー ナー姿 のかわいい子 であ る。 目を遥 か先

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以上離 れ た山の中腹 に転ず る と,何 や ら,牛 の よ うな もの と人影が見 える。 牛 が一頭,岩棚 の上 にいる。 そ して,そ こか ら

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ほ ど離 れて,岩 の急斜面 に女が赤子 を背負 って一人,そのそばに子供 が一 人,更 にそ こか ら

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離 れた所 に,夫 ら しき人が更 に急 な岩場 に と りつ いてい る。 こち らか ら見 る と,殆 ど岩 しか見 えないが, これ もや は り,岩場 の間の畑 を準備 してい るのであろ う。 こうい う風景 を見 る と, や は り感動 して しまう。 ここの人 は どこ の人 よ りも勤勉 だ, と誰 もが い う。 そ うで ない と,生 き続 け られないのであ る。 夕方,少 し早 い 目に帰 って も, まだ戸 は閉 ざされてだれ も帰 ってい ない。 7時前 くらいにな って少 しずつ戻 って くる。 我 々 を迎 える為 に,鶏 を-羽つぶ し,歓迎 の宴 を催 して くれた。料理 を してい るの は,全 て 男であ る。 我 々は暗 い電灯 の下で,電器 コ ンロの鳥 なべ をつつ き, トウモ ロコシの酒 を飲 み, トウモ ロコシの米 を食 っていいかげん調子 に乗 って きた8時過 ぎ,表 の戸があいて,妻が帰 っ

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山田 ;早 :石灰岩地帯 に暮 らす 人 々 て きた。背 中の竹 カ ゴに溢 れ ん ばか りの豚 の餌 の野菜 を背 負 い,疲 れ た顔 を して, 入 って く る。 これ も迫 力 のあ る,心揺 さぶ られ る風景 で あ る。 とにか く, ここの 人 は,男 も女 もよ く働 くが,女 の方 が はるか に労働量 は多 い。 これ は東南 アジ アか ら東 アジ ア一帯 にか けての一つ の特徴 で あ る。 女 は早朝5時半 頃 には起 きて,豚 の餌 を作 り,水汲 み を し, そ して,近 くの畑- 出か けて い く。10時 ころに戻 って朝 食 を と り,今度 は遠 くの畑へ 出か けて, 夕方遅 く戻 って来 る。 ここの妻 の畑 は うん と遠 い, と夫 が酒 に酔 って い う。 日曜 も休 日 もない。休 むの は春節 の時 2日だけ とい う。 そ れで疲 れないのか と開 くと, 慣 れて い るか ら, と笑 う。 この よ うな, まるで石 に囲 まれた よ うな環境 の 中で も, 人 々 は,結構 多 くの作物 を植 えてい る。 トウモ ロコシ, ソバ, ソラマ メ, エ ン ドウ, 白菜 , レタス, トマ ト, トウガ ラシ, ナ ス, イ ンゲ ン,小豆 , シ ョウガ, タバ コ,蘇 ,サ トウキ ビ, バ シ ョウイモ等 であ る。 これ らの作物 を育 て,馬,午 ,豚 ,鶏 の世話 をす るため に も, 人 々は,懸命 に働 か なけれ ばな らない。 冬の 間,土 を耕 し,雑草 を腐 らす。堆 肥 を運ぶ。2- 3月には, タバ コ,蘇 , 山芋 を植 える。 3月 には, コムギ, ソラマ メ,エ ン ドウの収穫 。 その後 ,鍬 で耕 して, 除草 したあ と トウモ ロコシ を植 え, 同時 に,.イ ンゲ ン,小豆 , カボチ ャ, トウガ ラシ, ナ ス, 自業 , レタスな どを間作 す る。 除草 は年2- 3回行 う。 サ ツマ イモ は4- 5月 に植 える。 6- 8月 に麻 を収穫 し, 7- 9月 に タバ コの収穫 。 8月 に トウモ ロコシ とカボチ ャの収穫 が あ り,忙 しい。 そ して秋 には コムギ を播 く。10-11月 に,サ ツマ イモ を収穫 し,サ トウキ ビを 植 える。 その間の暇 な時 に畦 の修理 な どを行 う。 動物 は,寝 室 の下 に飼 ってお り,平均 して赤午 1- 2頭 ,豚

5

,6-lo数頑 , 鶏が10-20羽, ラバ等 もい る。 この中で一番環境 に影響 を及ぼす の は豚 で あ る。 普 通,一一家族 で一年 間 に 1-3頭 くらいの豚 を殺 し, ラー ドを と り,塩 漬 け肉 を とってお く。 新 築,結婚 ,葬式 の時 に も豚 を殺 し, また数頭 を売却 す る。 この豚 6頭 を飼 うため に, トウモ ロ コシの茎,莱 ,サ ツマ イモの葉,蔓,糠以外 に,新鮮 な 飼料 が毎 日40-50kg必 要 とな る。 また飼 料 を煮 るため の薪 が2日ご とに40-45kg必 要 で あ る。 また この新鮮 な飼料 を と りに行 くの に往復4- 5時 間 はかか り,飼 料 を煮 るの に 2- 3時 間か か る。 夕方 にな る と, 豚 の飼 料 を担 いで 山 の よ うな薪 を背 負 って帰 って い く女性 が 多

い。

彼女 ら は,畑仕事 を終 えた後 ,豚 の ため に数 時 間 を割 いて か ら戻 って くるので あ る。 これ ら以外 に も,女達 は,子供 の世話 か ら家事 一切 ,午 ,馬 の世話,鶏 の餌 や りな ど,実 に 多忙 で あ り,殆 ど休 む

が ない。 そ して,せ っか く育 て た豚 の値 もそ れ程高 い もので な く, 1992年 の値 は 5頭 で1,600元 であ る。 村全体 に換 算す る と,豚 を飼 うため だけで,数百 トンもの薪が必要 であ る。 しか し,豚 は, 521

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東 南 ア ジ ア研 究 35巻3号 どう して も必要 で あ り, と りわ け漢族 の人 々 に とってな くて はな らぬ必需 品 なのであ る。 ここの生活 を見 てい る と,楽 しみ とい う ものが殆 どない。男 は時折,酒 を飲 んで,集 まって しゃべ りあ うが,女 は,殆 ど年 中,働 きっぱな しであ る。春節 の 2日だけの休 みで も,家 の片 づ けを した り,編物 を した りしてい る とい う。 基本 的 に彼 らは貧 しく,現金収 入の道 は, 出稼 ぎであ る。 トウモ ロコシの収穫 が一段 落 した 時点で,彼 らは,

1-2

カ月の単位 で,贋南,文 山,富寧,硯 山,丘北 な どへ 出稼 ぎに行 く。 これ らの仕事 は,硝石探 りが終 わ った時点で始 ま り,今 で は村 には30人の石工がいて, うち20 人 は, なかなかの腕前 で,碑文 を刻 むこ とも出来 る。 近頃で は,更 に遠 く馬 関,墨江, 曲靖 な ど- も行 く人 も多 い。 また,年 に2- 3回出か ける人々 もい る。 こうい う人 々が主 に,洞外 に 家 を建 ててい る。

ⅤⅠ

脱出は可能 か

この ような環境 に住 む人 々 は, どう して洞 か ら出て,外 の世界-行 か ないのか, とい う疑 問 が当然 出て くる。 まず,洞窟 内 に住 み続 け るいい理 由は,次 の通 りであ る。 まず,夏涼 しく,冬暖かい 。 そ し て,屋根が い らないか ら家 を造 るの に安 くつ く,仲 間が常 に近 くにいて安心 であ る, とい う く らいであ る。 これ らの理 由 は, どれ もこれ も納得が い って,説 明の必要 もない。 一方,悪 い方 の要素 もいろいろあ る。 人が増 えす ぎて,空気 も悪 くな り,息詰 まる。牛 や馬 は外- 出るか らいいが,豚 や鶏 は, 日光 に当た らないため,歩 けない ような ものや病気 が 出て くる。 人が多す ぎて,やや こ しいい ざこざ も増 えた。家族 内で も下の兄弟が大 き くな って,世 帯 を持 ちたいが,兄が い るため,家 も増 やせ ない, な ど様 々な要 因が あ る。 そ こで思 い切 って 洞外 に家 を造 った人が 7人い る。 その うちの二,三 の例 を見てみ よう。 洞 を出て外 で暮 らす こ とが如何 に大変 かが実感 と して伝 わ って くる。 李氏30歳 は, 7人兄弟の長男で, 2人の弟 と 4人の妹 が あ る。1982年 に結婚 し, しば ら く同 居 していたが,弟 のため を思 って外- 出 るこ とを決心 し,洞 か ら歩 いて10分 の ところ- 家 を建 て るこ とを決心 した。 土地 は,半分石,半分土 とい う, このあた りで は普通 の, しか し我 々の 目か ら見 れ ば, まる で岩 山 とい う感 じの所 で あ る。 まず, 岩 を爆破 し,水平 な土地 にす るため に,300個 の労働 力 が い った。20km離 れた董壁 で木材 を買 うの に1,046元,それ を馬 と人で運 ぶ の に250個 (1匹 の ラバが 1日に運 ぶ と 2個 の労働 力相 当 に換算す る)。木材加 工 に40個 ,柱 ,梁 な どの建 築 に 100個 以 上,土 の壁 つ く りに440元 と230個 の労働 力,垂木 に30個, 那幕 で レ ンガ を買 うの に 1,360元,それ を運ぶの に184個 , レンガ をひ くの に20個 と,合計す る と, 1万元以上 の現金 と 522

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山田 ;早 :石灰岩地帯 に暮 らす 人 々 1,000個以 上 の労働 力が要 った こ とになる。 1990年 に家 は完 成 したが, 内装 な どは殆 どな く, 枠 だ けで きた とい う感 じで あ る。 ち ょっ と した内装 をす る とそれ だけで,4- 5百元 と,100 個 以上 の労働 力 が要 る。 もう一 人,36歳 の別 の李 さんの例 で は,結婚 して しば ら くは余裕 が な く,外- 出 られ なか っ たが, あ る時決心 して,風水 師 に頼 んで土地 を見 て もらい, 1992年 2月か ら始 めた。 まず,煤 薬 で岩 を爆破 す るため,45個 の爆薬 と,400個以 上 の雷管 を買 う。 固 い岩 に1mの穴 をあけ る 作業が二 人が か りで 1日 1個 が や っと,基礎 を完成す る まで に鋼棒 を 6本折 って しまった。家 を建 て る時 に数千個 の労働力 を投 入 した。 彼 は有名 な石工 で, 1974年 に学校 をLLHてか ら,石工 の技術 を習得 し, 1979年 か ら出稼 ぎに出 る。 毎年

2

回ずつ

2

カ月tLl'.て,十数年 で貯め た金 を家作 りのため に全部吐 き出 し,

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7

,

8

千元使 い,借金 が2.000元残 る。 家 は建 ったが,周 りは白い石 で囲 まれ, 家の 中に も何 もない 。 借 金 を返 す ため に最低 限 の生 活 を続 け, 食事 も茄 で た カボチ ャ と白菜 だ けの生 活 を送 って い る。 また借 りた労働力 を返す の も忙 しく,体力 的,精神 的 に大変疲 れてい る。 我 々が泊 まった,現村長 の家 も,建築 まで に7年 を要 してい るが, 中-入 る と全 く何 の飾 り もない殺風景 な家であ る。 彼 の場 合 も,石工 で稼 いだ金で,家 を建 て たが, や は り, その しん どさは並 大抵 の もので はない よ うであ L),かつ,借金 と労働 力 の返済 とで,大変 しん どそ うで あ る。空気 のお い しさと高密 度地帯 か らの脱 出 に よって,住環境 と して はいいが,それ以外 の 負担が大 きす ぎるのが,他 の人 々に洞 か ら出る こ とをため らわせ る大 きな要 因で あ る。 洞 とその周 りには,現 在,現 金収 入の道 を求 めて, タバ コの栽培 を始 め, その乾燥 庫 を作 る 動 きが あ る。 その土 台 の石 は, 周 りにい くら もあ るが, 全 て, 家族 労働 で大 きな石 を切 り出 し,礎 石 を作 り, その上 に版築 で土壁 を作 って い る。 我 々か ら見 る と, それだ けで もしん どそ うだが, ここの人 は, これ くらい は楽 な ものだ という 。 とにか く,桁違 い に しん どい仕事 を積 み重 ねて きたのが ここの生活で あ り, この積 み重 ねの上 に, よ うや く毎 日の生 活 を成 り立 たせ て い るのが現状 で あ る。 したが って,生活 の余裕 が ないため, ち ょっとで も他 の要素 が 入 って くる と,更 に生 活 は苦 しくな って い くとい う。 極 めて微妙 なバ ラ ンスの上 に成 り立 ってい るの が ここの生活 といえ るだ ろ う。 しか し, そ れで も, かつ て の2軒 か ら,今 は7軒 に まで,外 の家 は増 えて い る。 これ か ら も, 中か らはみ 出す ような形で,少 しずつ状況 は変 わ って い くのであ ろ う。 しか し,少 し目を広 げて,外へ 出た人が更 に別の よ りよい土地 を求 め る可能性 は どうだろ う か。 町か ら洞 まで の往復 の間 に見 た限 りで は,洞 の周辺 の環境が最 も悪 くな ってい る。 したが っ て,彼 らの薪採取 や畑作 りは,洞 か ら 1時 間 もかか る遠 隔地-延 びて きてい る。 しか し,無 論 これ に も限度が あ り,かつ, 中国 は どこに も既 に人が い る。義理 の関係 や, 人 を頼 って行 くに 523

(14)

東南 アジア研 究 35巻3号 は限界が あ るの は 目に見 えてい るので あ る。 これか ら先, どの ような生 き方 を求 めればいいのか。政府 は, この ような極貧地帯 を五万 と 抱 えてい るため,簡単 に援助 を して は くれない。村民 自身が,工夫 して生 きて行 くしか道 は残 されてい ない。 今考 え られ る唯一の道 は,や は り出稼 ぎしかない。最低 の生活源 はここにおいて, あ とは出 来 るだ け, この場 を離 れ る人数 を多 くして,環境- の負担 を減 ら し, 出てい る間 に,現 金収入 を得 る とい うのが最 良の策であ る。 観光 をい う人 もあ るが,洞穴 は決 して きれいな もので もない し,殆 どの人 は,泊 ま りもせず に帰 って い く現状 で は,一般 の ツー リス トを期待す ることは まず無理であろ う. 水が乏 しくな り,薪 や材 を とる森 が な くな り,人 口が増 えて食料 が不足 し, それ を作 る土地 も極 めて狭 い とい う最悪 の状況 は, しか し, 中国の各地で見 られ る状況で もあ る。 む しろ,全 ての条件 が揃 った土地 とい う方が珍 しい。 そ うい う中で こち らの人 々は, まさ しく血 のに じむ ような努力 を重 ねて来 たのであ る。 私 はこの勤勉 さこそが, この洞 の将来 を救 う ものだ とい う気がす る。 外 か ら来 た人間の浮つ いた進言 は無用 であ る。 彼 らは外 か ら来 た人 を歓待 して くれ るが, しか し,外 か らの助力 とい う もの は,短期 的な ものであ り,長 い 目で見 る と,決 していい もの とはいえない。 む しろ,現 場 に住 んでいる ものが考 えに考 えた末 に出て くる方 向が一番正 しいのであ る。 その歩 み は遅 々 と しているか もしれ ない。 しか し,地元 にい る人間が, これ しかない と思 っ た こ とが,最 も確 かであ る。 外 の人 間が参考意見 をい うの は構 わないが, それで拘 束 して はい けないのであ る。 洞窟 を離 れて,再 び,気持 ちの良い石灰岩 の岩 の間 を帰路 につ いた時, ホ ッと した。 こ うい う所 に暮 らしていないで よか った, とい うのが正直 な気持 ちで あ る。 そ して,改 めて,見 て き た人 々の生 き方 に感動 した。 別 に, この地域 に限 った こ とで はないが, 中国 を訪 れて,最 も心 うたれ るの は,地 に足 のつ いた人 々の生活 で あ る。 山の上 か ら低 地 の水 田 に至 る まで, 人々 は, しっか りと地 に足 をつ け,台地か らの恵 み を受 け取 って い る。 寸地寸金,一木一草 に至 る まで,殆 ど捨 てた りす るこ とな く,全生活 に生 か してい る。 その最 も極端 な例 が, ここにあげた峰岩洞 の例 で あろ う。 ここでの生活 は厳 しい もの はあ るが, どこかで,生活 とい うの は, これが本当だ とい う気 が して, ここを後 に したのであ る。 524

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