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Deweyの道徳論 : impulsionを焦点として

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Dewey

sA

藪購

impulsionを焦点として

  On l)eweゾs Moral ldea especially en his “ impulsion ” Sadanobu Matsubara     Dewey’s rnoral idea may be said to be “the science of human nature”, for its principal significance lies in that he tries to analyse and clarify human nature from the sta−s dpoint of “social psychology ” and thu”= to contribu’te to its growth and betterment.    The vital power that lies at the very foundation of human nature is c alled “impulsion”. Amid inter−actions between impulsion and custorni i. e. social environment, attitude and disposition, which are generalized under the name of habit, are acquired, and this habit, in its turn, is organized and iormes personality.    The original nature ef impulsion is plasticity. ln its actions it is curbed by already−acquired habits, but at the sarne time it is also the vital power that breaks routine habits frorn within.    The new problern which Dewey imposed on himself to solve is to foster this impulsion as richly as possible and to elevate plasticity to originality.    Dewey does not neglect the close relationship between life a’nd vjrture. This ;s the morals of humanity in sharp contrast with any anti−human morals or commonplace morals of selfpreservation. ln this sense we wish to call him “a bio−centric moral philosopher.”   一.人格形成の場の構造   Deweyの道徳論は「入聞匪の科学」the science of human natureと言えよう。即ち,human nature をsocal psychologyの観点から分析解明し,その成 長と改造を意図する所に彼の道徳論の課題がある。   彼の言うhuman natureとは,決して孤立した一 個の実体ではなくして,環境との相互作用inter・ac− tionの中に展開されるfunctionalな生命概念であ る。  一般に生物の生活に於ては,自己をとりまく環境の 諸勢力をたえず利用する事によって生存し成長する。 「生活.とは環境に働きかける事によって自己を更新す る過程である。」“Life is a self−renewing process through action upon the environment”(1)一般 にそれは「経験」experienceと呼ばれる。経験とは 入が外に働きかけact.逆に外から働きかえされる react事により,そこに両者の意味連関を習得する事 である。かくて「習慣」habitと名付けられる組織さ れたattitude, dispositionが形成されるQ  而して習慣にほ謂わば,個人的側面と社会的側面と があるQ   1)先ず個人的凹面からみれば,habitは先行の行 動によって影響されると言う意味で経験的に体得or− gan−izeされたものであるが,それはその個入の以後 の行動をたえず潜在的に規定する働.きである。「習慣 (1) Democracy and Education, 1916 p. 2

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18 滋 大 紀 要 第  3  号 1 9 5 4 はすべてある種の活動に対する要求であり,こうした 諸習慣が自我を構威する。意志と言う言葉によって理 解されるどんな意味ででも,習慣とは意志と同じもの である。習慣は我々の事実上の欲望となり,我々に活 動能力を与える。習慣は我々の思考を支配し,如何な る考えを表面に現われさせ叉強力にさせたらよいか, 如何なる考えを光から闇に葬ったらよいかを決定す る。」(2)その意味でhabitsが相互滲透interpenetra− tionし,統一されたものが自我であり,個性であり, 人格とも呼ばれるQ  2) 次に杜会的側面から考察すれば, 「個人的習慣 はかえって個入が自己に先行する社会的慣習custom によって整理された条件の下に形成される。」custom は決して単にhabitの総和でほなく,かえって後者 は前者の中に胚胎する。habitは真空の中で形成され るのではなくて,customは個人のhabitがその中で 冷間される一種の「躊型」patternである。  期くて habitは収入的な能力が社会的環境と現実 的に適応し合った結果後天的に形成されるものであ り,二つ〔habitの中には「主観的要素」と「客観 的要素」とが高義され統一されている。「個体として 生れた早馬は会社的形成を経て,一つのpersonality となる。」それ故人格性向が問題となる時,それは始め から「主体的」なものと,「付会的」なものとの『綜 合』である事が忘れられてはならない。道徳論の根抵 は,この様な習慣形成の動的過程を科学的に反省し批 判する事の中に求められねばならない。Kiepatrickは この様な方法論を,Dewey切身の言葉を用いて“dy・ namic understanding of life”と名付けている。(3)  要するに「習慣は行為の仕方に対する積極的にして 根源的要素」ではあるが,それはdoingとunder・ doingとの相互作用と言うr動的力学的場』の中に形 成される。その意味で習慣は,謂わば第二次的後天的 習得的acquiredな心的態度と言えよう。

二,藍mpulsionの機能とその諸様態

 然らば習慣が形成される際に働く内よりの力とは何 であろ5。それこそがimpulsionと名付けられる生 への盲目的意欲なのであるQ「あらゆる経験は,その 意味の大小を問わず,凡てimpulsionから始まる。 否むしろimpu!sionとして始まる。」(4)human na− tureの根源に発するこの押し出し,駆てるvital force としてのimpalsionこそ,経験成立の第一一次的発端 であり発動力なのである。  lmpulsionと言う言葉は,1931年James追悼の記 念講演“Art as Experience’,の中に初めて現われるo Dewey自身の説明によれば,「私はimpulseと言わな いでimpulsion(衝動性)と言ったが,それは個々の衝 動が特殊なものであり,本能的な衝動でさえも環境と の一層完全な適応に携わる鼠講の一部だからであるo impulsionの方は有機体全体が外部に向う運動であり 前進であって,“Amovement outward and forward of the whole organism”個々の衝動はその補助的活 動であるDmpulsionは食物を嚥下する時の舌や唇の 反作用などとは異なる。そしてまた植物の向日性he− liotropismのように肉体全体が光に向う働きであって 特定の光を眼で追う事ではない」(5)と。即ち, im− pulsionは飢渇の場合のように生物の全体から促され る必然的な「衝動作用」.である。impulsionとして環 境に必然的に働きかけざるを得ない所に人問的生命が ある。それは盲目的,冒険的に発出し環境との決定的 関連に出会わない限り止む事を知らない活力源であ る。漸かる全面的に発動する「原衝動」の一部分とし て働くものが実は,個々のimpulseなのである。即 ち,impuユsionが具体旧習1質との関連の下に立つた時, それは丙辰と名付けられる。ラテン語の「つき動かす カーIto push, drive againstするpathos的energy にしてDrang, Leidenschaftとも言えようか。  以下我々は欺かるimpulsionを焦点としてDewey の道徳論を考察し特にそのBio・Centricなsocial humanismとしての性格を解明する事としょ弓。  三rnpulsionは生面的先天的な,習慣形成の内的発動 力であるとしても,それ自身として単独に発出する事 は意昧をもたない。それは衝動として行動に於て始め て自己の地位を見出す。即ち,行動に点て習慣と言う 既得の後天的社会的仲・豪物に媒介される事によって, 積極的構成的活動を営む事が出来るのである。  人間の画動は動物の 「本能」instinctの如く,生 れ乍らの合目的複合的な固定的組織をもつてはいな い。「如何なる衝動も周囲の環境と相互作用する仕方 の如何によって殆んど如何様な性向にもなるかも知れ ない。」“any impulse may become organized into almost any djsposition according to the way it in− teracts with surroundingsJ,(6)この様な衝動の本性 (2) (3) (4) (5) (6) Human Nature and Conduct, 1922 p. 25 W. H. Kilpatrick: Dewey’s PhilosoPhy of Education,一The Educational Forum, 1953. 1.p. 143 art as Experience, 1934 p. 58 0P. cit., P。58荷. impulsionの訳語はその本質性に即すれば「衝動性」,機能性に即すれば,「衝動 作用」叉その根源的性格よDすれば「原衝動」        とでも言うべ匙かo Human Nature and Conduct, p.95又Pr◎blems of Men,1946 p.184−Does Human Nature chage ?に興味ある事例が示されて)・る。

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が「可塑性」plasticityと名付けられる。  然しそれは一方的に既成の習慣によって拘束される のではなく,他面かえって習慣に働きかけそれを改変 し,新しき習慣の再調整へと促進しせしめる「推進力」 propulsive powerでもある。「要するに興醒の生れ 乍らの活動力の申には,適応,同化,再生産の方向に 働くものもあれば,探求,発見,創造の:方向に働くも のもある。」(7)  此の衝動の「可塑幽を豊かに育くみ,慎重に人間 昧を以って取扱う事により,それを単なる「従順性」 docilityに止らせないで「独創性」originalityに導 く所にDeweyの道徳的教育論の新しい課題がある。        ×      ×  個人的行動に地位を占める衝動は,同じ性格をもつ て杜会的行動の中にもその地位を占めるQ社会は健全 な伝統の下には円滑に進展するが,歴史的停滞期に於 ては社会はいたずらに旧習に束縛されて発展する事が 出来ないQこの時それに新展開の発動力をもたらすも のは, 「杜会的衝動」でなければならない。衝動が新 しい行動として発出する事を社会的慣習が抑圧し又は 放置するならば,それは時として盲目的行動として狂 暴化し,:又は無気力な沈滞に陥入る事となるQr衝動 の全設的解放によって,祉会的沈滞が救われはするが 然し解放された衝動が思うままに自己の途を進むな らば,それは自己の途も目的地も知らないQこの種の 衝動はそれ自らに於て相互に矛盾し従って破壊的であ る。それが目ざす慣習の破壊をなし遂げると同時に自 らをも破壊する。」(8)その際「自然への復帰を夢想し てそこに個人的自由を求める事は結局一切を混沌に委 す事となるであろう。」  即ち,「硬化しだ慣習」と「放置された衝動」が対 立抗争のままでは社会の清新な連続的進展改造は阻.止 されるのであるQ「国民が老朽するのではなく,硬化 した慣習が更新を阻むのである。」(9)Lubockの指 摘せる如く,未開人の社会とは正にその様な社会なの である。然しそれは門別の意昧で高度に文明化された 現在の経済体制の下でも言い得るのである。脚こもま た「過度に専門化され型にはまった機械的職業形態」 と「最大限に爆発的な放逸性」との並存がみられるの ではなかろうか。  人間性のそしてまた祉会の改造には,その根源的 energyたる衝動の科学的究明から始められねばなら  (7) Hurnan Nature and Conduct, p. 97  (8) gp. cit., p. 167  (9) op. cit., p. 102  (10) op. cit., p. 156−7  (11) op.:cit. p. 160  (12) op. cit., p. 162 ない。  Human Nature and Conductに於て衝動の様態は 次の三種に類別されている。(10)  1)潮の如く直接に爆発し,盲目的に発散する様態ρ discharge.  2)硬化した慣習routine habitに抑圧されたま まに孤立状態にあるもの。suppressed.  3)昇華され,sublimated例えば性衝動の芸術に 於けるが如く,他の諸要因と知的に協力して建設的に, 習慣の再編成の作用へと高揚される場合。  discharge, suppressed, sublimate,これ等覧れの 場合に属しようとも impulsionを絶滅廃棄する事は 出来ないQ物理的energyと同様この精神的energy も亦不滅である。単なるdischargeは盲目的破壊に 終り,supPressedされれば萎微沈滞遂に病的com− plexに到る。革命と保守「statistjcな習慣」と「dy− namicな衝動」とのこ律背反を綜合的建設的に解決 する力向こそ,実はかのsub!imationの:方向でなけ       し ればならないQ

 三.芸術と道徳の相関性

 日常生活に於て衝動は適宜持続的に誘発される必要 がある。想像空想は阻止された衝動力晒しい出口out− letを求めている証拠である。「たとえ最上の条件下 にあっても,環境の必要物と人聞にとっての自然な活 動力との間には常に不調和maladjustmentがある。」 (11)芸術や遊戯は阻止されたimpulsionを解放し, それを日常生活に用いられているのとは異った方法に より活動させ,又新しいimpulsionを触発する事が 出来るものなのだ。「硬化したものを和らげ,緊張を とき,苦しみを鎮め,気むずかしさをなくさせ,専門化 した仕事から来る偏狭さを打開し,」「性向に多様性と 柔軟性と感受性を与える。1(12)そこにRe−creation の倫理駒意義があるe 芸術は,それが教訓の手段を供するが故に道徳的で あるのではなく,又単に衝動にはけ口を与えると言5 「消極的」意昧からでもない。更にそれは空しく幻想 となって浪費され,或は5つぼったる内心のimpul・ sionに点火し焦点を与える事によって, irnpulsion を再建的energyへと喚起する所にその「積極的」意 義が見出されるQ「芸術は単なる自然ではない,芸術 に於ては{mpulsionは新しい組織に組みかえられ変

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20 滋 大 紀 要 第  3  号 1 9 5 4 容される事によって,更に又新しい情緒的反応を呼び 起すものとなる」(13)のである。  「元来心を誘って他処へ逸らすものたる興奮や抵抗 や緊張を包括的に完成的終局に向う運動に変容する 事,これが美的経験の特色なのであるQ」(14)即ち,凡 ゆる「感情が直接噴出expendするのではなく,素 材を求めてこれに秩序:を与える事によって間接に費さ れる時,かえって感情は伝達され深められる。」(15)そ の際「元の素朴な感1濤を抑制inhibitionする事は之 を鎮圧suppressionする事ではないQ芸術に於て行 われる圧迫restraintは圧殺constrainではないQ impulsionはそれと並んだ諸傾向により修正され,こ の修正はimpulsionにより以上の意味を与える。か くてimpulsionは全一体を構成する部分」(16)に高 められるのである○  滋にimpulsionは単なるemotional discharge,又 はsuppressionではなく,外的環境との交渉から芸 術約表現expressへとsublimateされるのである。  「生命は凝る環境の中で営まれる。のみならず環境       ノ あるが故にそれとの相互作用の中に営まれる。」(17)そ れ故「生きんが為には,和解し防衛し且つ征服する事 によって外界に適応しなければならない。」Adjust・ ment.(18)そこにunicな善….う:あり美が生れるのだQ 人とその環境との間に作り出される均衡価値とはそ の様な内的調和inner harmonyへの命名に外ならな い。「生物は自己と環境との均衡をたえず得たり失っ たりしている。達成の瞬聞は楽しい一時の律動 rhy− thmをもつて経験に区切りをつける。」(19)Jamesに よれば「生は躍動と静止の交代」“alternation of flights and perchings”である。自己と環境との闘 争と融和の律動を,その多様性に於て統一unity in varaietyする事が芸術の仕事なのであるQそこに表 現される「生命の充実と歓喜」それが人をして「生き る喜び」を情感させるのであるQギリシャ以来の『善 美一致』K:alon・Agatonはこの様に解されなければな らない。

 斯くて藏にimpulsionは芸術的創造のpathos的

enegyへと高揚される事となる。そしてそれと同様 の事が道徳的行為の場にも転位transpositionされる のである。(20)        ×      ×  さて現実具体の道徳的行為の領域に眼を転じよう。 一般に習慣がなければそこにただ焦躁と混乱した躊躇 があるばかりだ。然し習慣のみでは機械的反復がある だけであり,古い活動の複写的再現があるだけだ。「習 慣相互の衝突と衝動の解放があってこそ,そこに意識 的探求が始まるのだ。」“with confiict of habits alld release of impulse there is conscious search.”(21)  習慣が固定し沈滞し,或は相互に矛盾衝突が起り, :叉は習慣が事情境遇の変化により阻止された時,感覚 ・意識・垣下等と名付けられる一連の知的活動がその 都度衝動の「鍵生児」twinとして生れるのである。  衝動が直接行動にうつせなくなつ.た時,衝動は「欲 求」desireに転化する。その欲求が次の「行動の究 極の発動力」“ultimate moving spring of action” となるのである。  Art as Experienceによれば「impulisonが進行の 途上で出会う障碍物を意図的に改変する過程に於て impulsionの中に潜在する志向に気付くのである。そ こに謂わぽ本能約頓向ほ意図的目論見contrived un− dertakingと変り,自我の態度に意味が宿るのであ る。」(22)互に競い合う諸欲求を有効なる結果に導かん として,結果を先見予料して現在の習慣を再組織し直 すのが「知性」intelligenceの機能であるQ知性は欲 望を転じてplanに仕上げimpulsionに明確な焦点を 与える事によって,それを建設的に解放するのである。 善とは「彬々の矛盾する衝動と習慣との衡突と紛糾が 行動の上で綜合され,秩序正しい解放に終った時,そ こに経験される意珠の内にあるQ」(23)  Reconstruction in Philosophyに於てDeweyは (13) Art as Experince, p. 79 (14) op. cit. p. 56 (15) op. cit., p. 70 (16) op. cit., p. 97 (17) op. cit., p. 13 (18)ACommon Faith,1934 P.16 Adjustmentはaccomodationとadaptationの綜合として,独自    の意義が与えられている。 (19) Art as Experience, p. 17

(20) Art Moral

   discharge 一 Capricious activity

   suppression 一 routive action. 一

   sublimation 一 purpaseful activity (21) Human Nature and Conduct, p. 180 (22) Art as Experience, p. 59 (23) Human Nture and Conduct, p. 210

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・道徳的三位とは, 「明白な行為を行5に先立って判断 と選択が要求される如き境遇であるQ」(24)と言う。即 ち「互に衝突する意欲と善が並立している状況」こそ 道徳の場なのである。Experience and Educationに よれば「欲求の即時的実行を止め,延期させ,観察と 判断の生起を待たしめ」「それの実行によって生ずる であろ5帰結と価値を考慮し,然る後に意図を決定す る事」(25)それが道徳的熟慮deliberationと名付け’ られる。  然るに結果を先見するとは単に功利主義的に考えら れてはならないOEthicsによれば,知的熟慮とは, 「記憶と想像によって行動の結果を社会的に考慮する 事」(26)であり,「細隙にして独占的な」視野に於て ではなく,その行為が及ぼす未来の社会的関係の全局 面を可能な限り広く予料する事により,現在の欲求又 は衝動の意昧を評価する働きである。  Acommoll Faithに於て展開される如く「思惟と 想像の働きを通して結果を全宇宙的視野に拡大」(27) してみる所に理想乃至宗教の入生論的意義がある。斯 く「事態を広く正しく同病を以って見渡す習慣と行動 の育成」(28)が道徳の目標とされている。  それ故「道徳の問題」は単なる結果の中にではなく, 結果を考慮する知性を介しての「現在の習慣の改造」 が問題なのである。即ち「未来の成果に影響を及ぼし ている現在の要素を変化する事」(29)が道徳の仕事な のである。  Kantの無上命法になぞらえて道徳的行為の格率 は「現在経験の意昧を増進する様に行為ぜよ」(30)と 言われる所以である。而かも,「静的な結果ではなく,一 進歩の過程の方が重要である。状況を変化して行く積 極的過程,完成への持続的過程,生長それ自身こそ唯 一の道徳的目的」(31)なのである。  人聞の一生は経験の絶えざる改造に外ならないQr今 後の経験を多角的創造的に成長させるもの。」(32)「経 験の連続的改造」“continuous reconstruction of experience”そこに彼の意味する「道徳的成長」があ る。  斯く習慣変化は個人の知性を通して行われ個人的習 慣の変化が広範囲に及ぶ事により,社会的慣習も遂に 改造されるに到る途が開かれるのである。

四。道徳の改造と生命の展開

 然し習慣は直接には改変出来ない。それには先ず 『習慣成立の場の改造』が必要であるQ即ち,外なる 環境を変えるか,内に新しいimpulsionを触発する かによって,doingとsufferingの. inter−actする dynamic fieldそのものの条件を改変する事を通して のみそれは可能である。  歴史的考察によれば,かつて社会に侵入し来った移 動性mobility,戦争,商業,旅行,通信,異民族と の接触,新発見等は謂わば「偶然的」に,慣習の固定 した配置を麗乱し,そこに新たなimpulsionを解放 した。そこに生ずる習慣のクライシスを通して「知性」 が意識的探索を開始しroutine habitはflexibleな intelligence habitへと再調整されて行ったのである。  然し社会の激変そのものに意味があるのではなく, それが面目と衝動のクライシスを通して創造的知性の 発動する機縁を提供した所に意昧がある事を忘れては ならない。  その様な歴史的偶然の機会にゆだねられた改造を 「意図的」に志向する所に,「道徳改造の問題」を合 理的に解決する方途が暗示されるのである。即ち,環 境を孤立化するのではなく,絶えず而かも連続的に, 他の諸慣習と交流せしめる事である。近代社会㊧急速 なる進展は実はこの接触と交流のたまものである。

 Communityとはcommunicationを通して,山々

が相互に思考と行動を分ち合う事に由来する。Dewey はDemocacy and Educationの中で,望ましき社会生 活の様式を測る二つのcriterionを提示している。(33)  1)一祉会に属する成員の共有する宿下の多様性。 2)他の集団との自由にして多角的なる交流。  即ち,社会集団内部の成員相互間並に他の集団との 間の自由なる多様多角な交流こそ,理想社会の特質な のであるQ (24) (25) (26) (27) C28) (29) (30) (31) (32) (33) Reconstruction in philosopy, 1920 p. 163 Experience and Education,1938.原田訳,春秋社P.67 Tufts and Dewey: Ethics, 1908 p. 298 A Common Faith, p. 19 Human Nature and Conduct, p. LO7 0p. cit., p. 19 0p. cit., p. 283 “So act as to increase the meaning of present experiece:’ Reconstruction in Philosophy, p. 177 Expeperience and Education, P.96原田訳,春i秋節 Democracy and Education, p. 96

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22 滋 大 紀 要 第  3  号 1 9 5 4  彼ほこの様な社会を Democracyの社会にみる。 彼は言5,Democracyとは単なる政治的概念ではなく 「人々が協働し合う経験の一様式」であり,「それは 不断に入間相互の接触を容易に且つ豊富にする。」(34) そして更にそれは,「現在祉会の改造の方法」ともな るのである。そこではすべての異質的な慣習,習慣が 交流し合う事によって,絶えず若々しいimpulsionが 触発され解放されるのである。  期くて習慣と衝動の謂わぼ『弁証法』のうちに個人 の更には社会そのものの進展が開かれる。impulsion はその際再編成の出発点にして「針路変更の主体1な のである。        ×      ×

 以上の如きimpulsionに関するDeweyの論述は

我々に何を教えるであろうか。  impuisionがそれ自身として一一・as的に社会を作る事 は最初から否定されてはいる。或個所で彼ば「行為に 於ては獲得されたものが,かえって根源的であるQ衝 動は時間約には最:初のものであるが,事実上は決して 第一次的ではない。それは第二次的で且つ非独立的で あるQ」(35)とさえ言い切っている。成程先天的な本 能ではなく,後天的な習慣を重視する所に実はDewey の「社会心理学的見地」の特質が存するのであった。  然しこれとは一言矛盾する如くに見えるにも不拘, 彼はimpulsionをどこまでも尊重しようとする。社 会的に後天的に形成されたものの背後に潜むかの自然 的なもの,常に静止と固定を破って人闘生を永遠の進 歩に導くもの,それをDeweyはかえってimpulsion の中に見出しているQ  impulsionが絶えずめざまされ,温かく且つ豊かに 育くまれ,創造的知性crearive intelligenceを介し て新しく習慣の:再調整readjustmentへと進展する。 この様な入間性の無限の成長の中に,我々はDewey

のantropocentricなhumanismを感得する事が出

来る。  「入聞ばもし必要な勇気と知性と努力を働かすなら ば,偶然から解放され自分自身をも運命をも作りかえ て行く事が出来るのだ。」(36)と言う確信の中に,我々 は若々しいAmerican energy, Flontier Spiritの自 己表現としての 「impulsiOllのmoral」 を見出ず のである。

 Sidney Hookの言う如く,「若しDeweyの哲学

の革命的帰結が現実生活に対して最も強く刺戟を与え た如き領域を求めるならば,それは当然彼の倫理学で なければならない。」(37)我々ほ更にDeweyの倫理学 の申で最も核心的なものは何かを求めるならば,それ は彼のimpulsion の創造的発動力に対する信頼感で あると思う。  そこでは「道徳」と「生命」の緊がりが忘れられて いない。それは生否定の倫理,又は凡庸なる自己保存 の倫理に対して,あくまで「人間性の倫理」であるr, 我々はPerryと共に彼の哲学を“Bio−centric phi− losophy”と呼び度い○(38)  慣習に規定されつつもimpulsionとhabitの自己 矛盾的な動的統一を通して,常に新しい社会的価値の 創造を志向する所に,r生命の展開』としての彼の道 徳論の核心がある。我々はその意昧に側て彼を“Le・ bensphilosopher”と呼び得るのではなかろうかQ (3il) op. cit. p. 101 (35) Human Nature and Conduct, p. 89 (36) Reconstruction in Philosophy, p. 144    Liberalism and Social Action,1935に於ては更にradicalに展開される○ (37) Sidney Hook: John Dewey, 1939 p. 127 (38) ’・Perry: Present philosophy, p. 197 / /

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