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mrna Zc3h12a IL-6

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目 次

1. 巻頭言 ··· 川 上 純 ··· 1 2. 瑞宝中綬章を受賞して ··· 長 瀧 重 信 ··· 3 祝賀会祝辞 ··· 片 峰 茂 ··· 6 3. 旭日双光章を受賞して ··· 田 坂 省 吾 ··· 8 4. 就任挨拶 福島大学副学長 ··· 山 下 俊 一 ··· 9 5. 就任挨拶 福島県立医科大学 教授 放射線健康管理学講座 ··· 大津留 晶 ··· 11 6. 就任挨拶 長崎大学病院 医療教育開発センター 教授 ··· 濵 田 久 之 ··· 13 7. 就任挨拶 長崎大学病院脳卒中センター 准教授 ··· 辻 野 彰 ··· 18 8. 震災支援特集 ··· 市川辰樹,阿比留教生,中村英樹,中嶋秀樹,宇佐俊郎 ··· 20 9. 特別寄稿 政治家になって ··· 秋 野 公 造 ··· 30 10. 就任挨拶 長崎県医師会理事 ··· 木 下 郁 夫 ··· 33 11. 開業の御挨拶 美南の丘クリニック ··· 松 尾 彰 ··· 35 浦山クリニック ··· 浦 山 哲 ··· 37 12. 卒後20周年 夢の夢 ··· 山 川 賢 一 ··· 38 なぜか小学校医 ··· 大 島 勝 也 ··· 39 延岡だより ··· 丹 生 聖 治 ··· 41 13. 新しい同門会メンバー紹介 平成22年 磯本恵理子、鈴木貴久、長岡篤志、中島好一、野中文陽、前田泰宏 ··· 42 平成23年 池岡俊幸、住吉玲美、西野文子、寶來吉朗、諸熊治子、湯淺隆行 ··· 45 14. 研究班だより 内分泌代謝班 ··· 阿比留教生 安藤隆雄 ··· 48 15. 留学だより ··· 古 賀 智 裕 ··· 51 16. 受賞の喜び 【2010年】 山崎聡士:第27回「角尾学術賞」(平成22年5月27日) 「炎症,ストレスにおける mRNA 制御の新規メカニズムの解明」 古賀智裕:平成22年度 アジア太平洋リウマチ学会 若手研究者奨励賞(平成22年7月14日) 「関節リウマチ滑膜細胞における Zc3h12a を介した IL-6の転写後制御の可能性」 今泉美彩:平成22年度 日本甲状腺学会 七條賞 (平成22年11月12日) 「甲状腺に対する放射線被曝の影響」

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【2011年】 安藤隆雄:第28回 角尾学術賞 甲状腺刺激活性を持つモノクロナル抗体の作成をその抗体を用いたバセドウ病の病態の解析 2011.05.26 原口 愛:第107回日本内科学会講演会第24回内科学会奨励賞 下垂体腫大と血清 IgG4上昇を認めた4症例 2011.07.10 川尻真也:第55回日本リウマチ学会総会・学術集会 ワークショップ賞 関節リウマチ早期診断における関節超音波検査の有用性の検討

川尻真也:The 4th East Asian Group of Rheumatology (EAGOR2011) 若手奨励賞 折口智樹:第55回日本リウマチ学会総会・学術集会ポスター賞 S3PE 症候群の臨床的特徴 有馬和彦:第55回日本リウマチ学会総会・学術集会ワークショップ賞 全身性炎症を呈する遺伝性プロテアソーム機能不全症の発見 【2012年】 一瀬邦弘:第56回日本リウマチ学会総会・学術集会奨励賞 ループス腎炎における CaMK のメチル化解析 2012.02.16 17. 平成22年度 第一内科同門会総会 報告 ··· 辻 野 彰 ··· 60 第一内科賞を受賞して ··· 桑 原 宏 永 ··· 61 18. 平成23年度 第一内科同門会総会 報告 ··· 阿比留 教 生 ··· 61 第一内科賞を受賞して ··· 中 村 英 樹 ··· 62 若手奨励賞を受賞して ··· 中 嶋 秀 樹 ··· 63 堀 江 一 郎 ··· 65 川尻真也(受賞の喜びを参照) 原口 愛(受賞の喜びを参照) 19. 御逝去された先生 22・23年度 20. 第一内科同門会会計報告 22・23年度 21. 編集後記 ··· 瀬 戸 牧 子 ··· 68

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巻 頭 言

長崎大学大学院医歯薬学総合研究科 第一内科 教授

川 上 純(昭和60年入局)

私が長崎大学大学院医歯薬学総合研究科展開 医療科学講座 リウマチ免疫病態制御学分野(第 一内科)の教授を拝命して、約2年となります。 また、早いもので、リウマチ・膠原病内科、神 経内科、内分泌・代謝内科の3診療科から構成 される第一内科となってから約4年となり、私 の教授拝命後の医局長も辻野 彰先生から阿比 留教生先生に引き継がれ、この3診療科での教 室運営も軌道に乗ってきました。しかしながら 私たちを取りまく医療環境は絶えず変化してい ます。 “変化はコントロールできない。できるのは、 変化の先頭に立つことだけである“とのドラッ カーの言葉があります。数年前までは”この言 葉はかっこ良い。しかし実際は、このようなこ とはできないだろう“と思っていました。しか しながら教授を拝命し、教室運営の矢面に立つ と、この言葉の重要性が身に染みてきます。今 年の年頭教書では、この意味を考えてみました。 まず第一に、研修医や専門医などの医療制度の 変化はコントロールできません。しかしながら、 変わらない大切なもの-臨床医は探究心を持っ て、真摯に患者さんと向き合うこと-を私たちは 教えることが必要です。入局状況は厳しいです が、それでも第一内科は毎年5−6名の新入局 医師を迎えています。これはローテートする初 期研修医に対しての、教員、大学院生および関 連病院に勤務する指導医の先生方の努力の賜物 と思います。次に情報化時代に伴い、医療に関 する患者さんのニーズの多様化もコントロール はできません。これについては EBM と経験を もとに的確な診療を行い、それを患者さんと家 族の方に呈示することが必要です。時にはガイ ドラインに合わない症例に遭遇しますが、それ に対してはリサーチマインドで対処し、毎年、 いくつもの優れた症例報告が第一内科から出さ れています。研究は大学病院の大きな使命です が、近年の各医学分野の多様な研究の進歩もコ ントロールはできません。私たちはこれらのエ ッセンスとトレンドを自らの領域に取り入れ、 オリジナリティーを高める必要があります。こ の点に関しては3診療科から成る複合内科の利 点を生かし、いくつもの視点から結果を考察し てもらいたいと思います。今年度も論文 IF は高 く、競合的資金の獲得額も多いですが、より一 層の発展をみなさんに期待します。 一方、昨年の東日本大震災とそれに引き続い た東京電力福島第一原子力発電所の原発事故に 関しては第一内科からも多くの先生方が医療支 援に向かいました。これら先生方の体験談も掲 載しております。また、ご存知のように山下俊 一教授は平成23年7月から福島県立医科大学副 学長として赴任され、大津留 晶先生も平成23 年10月から、福島県立医科大学医学部放射線健 康管理学講座の教授として赴任されました。大 変とは思いますが、お二人の先生方の今後のさ らなるご活躍を祈念いたします。 さて、今回は同門からお二人の先生方が平成 24年度春の叙勲の栄誉を受けられました。第4 代第一内科教授 長崎大学名誉教授 長瀧重信先 生が瑞宝中綬章を、また、昭和32年御入局の田 坂章吾先生が旭日双光章を受章されました。心 よりお慶びを申しあげます。長瀧先生のお祝い の会は6月30日にホテルニュー長崎で、片峰学

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長も御臨席されて、盛大に執り行なわれました。 長瀧先生は80歳になられますが、相変わらずの 迅速なメール、PubMed、スライド作成などに は本当に脱帽です。長瀧先生のこの気概は私た ちを常に鼓舞してくれます。また、第5代第一 内科教授 江口勝美先生も佐世保で大活躍され ており、私たちもこれら“生涯現役”の先生方 の背中を手本にしながら、頑張って行きたいと 思います。

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瑞宝中綬章を受賞して

受章祝賀会におけるお礼の言葉と同門会へのご挨拶 長崎大学名誉教授 国際被ばく医療協会名誉会長

長 瀧 重 信

今回の受章は、長崎大学からの推薦で、長崎 大学名誉教授としての受章であります。そして、 長崎大学第一内科同門会主催の、まさに「至れ り尽くせり」「何から何まで」という表現そのも のの祝賀会には、感謝の言葉もありません。川 上純教授並びに楠本征夫同門会幹事はじめ同門 会会員の方々には心からお礼申し上げます。 最近はナンバー内科が激減し、教室、医局、 同門会、同窓会などの言葉から受ける感覚が非 常に変わってきました。大学の独立法人化、研 修医制度の改正などにより医局講座制はまさに 崩壊のさなかにあるとき、長崎大学第一内科同 門会主催の祝賀会にご招待頂き、格別の喜びを 感じています。 福島原発事故以来、「絆」という言葉が改めて 使われはじめました。本日ご出席いただいた 方々はもとより、本日出席できないと医局長に 申し出のあった方々、私の自宅まで、またホテ ルまで出席できないけれどもとご挨拶のあった 方々も含め、強い、大きな、温かい、「絆」を改 めて感じています。医局講座制は消えてしまっ ても、人の「絆」は、「絆」に連なった人々を幸 福にするということを、ここに立ってご出席の 皆様のお顔を拝見しながら、絆を、幸福を実感 しています。私の人生にとってこの「絆」は本 当に最高の宝物であります。 私は80歳になりました。しかし、昨年の4月 から内閣官房に週3回自分で運転して通勤し、 福島原発事故の対応を現地の、これも絆で結ば れたご存じの第一内科の方々と協力しながら、 内閣官房という場所で働いています。身分は首 相官邸のホームぺージにあります“原子力災害 専門家グループ”の一員で、最長老と呼ばれて います。同門会の原稿ということで本音を言え ば、「上医は国を医し、中医は民を医し、下医は 病を医す」、「国を医する名手、国手」の上医、 国手として働ける晩年を幸運と思い、「病める 人のため」だけではなく、日本という「お国の ために」身をささげる気持ちで働いています。 この私の気持ちは同門会の方々には素直にお分 かり頂けると思っています。 放影研退任のころから企画していました放射 線の影響に関する日本語の一般向けの本は、福 島原発事故により急に出版社からの申し出が増 えました。最終的に自分の基本的な従来の考え 方から丸善出版を選びましたが、その理由は丸 善から福島原発は「補遺」にしましょう、福島 原発を考えるための「事故事例に学ぶ」という タイトルにして、今後何年も一般の方が参考に される本を書いてください、読者を考えて横書 きが良いと思います、という申し出に賛同した からです。そして今回の叙勲祝賀会でお持ち帰 り頂いた本のように「事故事例」を具体的に「原 子力災害に学ぶ」としました。出版記念会には 丸善出版の社長が前例にないといわれるほどの 内閣の方々のご出席を頂き、記念会でぜひ英文 で出版すべきであるとのお話しが実って丸善と して英文の出版の手続きも完了し、現在全編の 校正中です。科学と社会、サイエンスとポリシ ーなど現職中には書いたことのない分野の英文 には手を焼きましたが、非常に面白く勉強にな りました。この同門会の原稿と同じ日が校正の 締切りで、年内には英文の本が出版される予定 です。英文には「補遺」の部分に最新のデータ

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をいれました。 福島に関しては、昨年の三月には NHK と TBS の控室に缶詰になり、両方からの呼び出し は双方のデイレクターに任せるなどテレビの出 演が重なり、また取材のために携帯電話の電話 料が数万円になって驚いたりしましたが、その 後も依頼される講演、依頼される原稿も多種多 様で自分だけで処理する分量は大学時代よりは るかに多く、しかも大部分は一人でスライドを 作りタイプしていますので、ほとんど毎晩夜中 まで働いています。しかし、出勤時間は重役出 勤で七時間は睡眠をとっています。家族サービ スは大学時代と同じく0になってしまいました。 最近福島原発事故の民間、国会、政府の事故 調査員会の報告書が発表されました。将来の検 証も視野に、将来引用される論文も意識しなけ ればいけないと思って、再び英文の学術論文に も興味がでました。上記英文単行本もその方向 ですし、学術誌への投稿も努力しています。 Website を通じての投稿も自分で行うと大変で す が 、 現 在 は 欧 州 甲 状 腺 学 会 の 新 機 関 紙 、 European Thyroid Journal に招待寄稿として 9月号に出版がきまりました。Nature, Lancet なども試みています。この部門も大幅に時間を 使わざるを得ません。 今年の4月からは、低線量の放射線の影響の 研究を一義的な目的として新しく出発する公益 財団法人放射線影響協会の理事長に就任しまし た。内閣の仕事も継続しています。 受章にあたって、まず近況報告をさせて頂き ました。このような状況は、普通には有り得な いことであると自覚もしていますし、同門の方 も同じ感じをお持ちだと思います。「運」であり ます。「絆」に続いて「運」についてお話ししま す。東大の恩師の冲中教授から医局員として伺 ったお言葉の中に、「運は誰にでも平等に巡っ てくるものである。平等でなくみえるのは、運 が巡ってきたときに運を掴む準備ができている かどうかの問題である」というものがあります。 多数の医局員を教育してきた冲中教授のお言葉 を、今改めて噛みしめておりますし、今日お集 まりくださった同門会の方々に「運は平等に巡 ってくる」ということ、そして、運に恵まれた ときにその運を掴めるように普段の努力を怠ら ないようにということをお伝えしたいと思いま す。 ご存知の通り、私は15年前に広島で大動脈解 離で九死に一生、九十九死に一生を得ました。 また5年前には東大病院に感染症で六ヶ月入院 し、回復することはないという予想のもとに退 院しましたが、老人でも回復するという見本の ように回復しています。もちろん自分として常 に病気に負けまいと気丈に努力はしましたが、 このような回復は自分の準備ではなく、長崎、 広島、東京、家族など、関係した方々の並々な らぬご尽力と、そして幸運と言わざるを得ない 名医、広島では末田泰二郎教授(当時は助教授)、 東京では永井良三教授に主治医になって頂いた ことと思っています。大動脈解離の手術のあと で当時の高田勇長崎県知事にご挨拶に伺った時 に「先生おめでとうございます。幸運はその人 の生涯続くものです」と言われました。私は素 直に幸運を受け取り、私の人生に取り組んでい きたいと思っています。 私が定年退官してから第一内科を取り巻く環 境は激変しました。最初に書きましたように、 国立大学は独立法人となり、研修医制度の改正 により医局講座制は崩壊に近い状況になりまし た。同門会の名簿を見ても私の現職時代には、 毎年平均して100人の卒業生の中から少なくと も10人、他大学の卒業生も入れて15人、多い年 には20人以上の入局者があったのに、最近は少 ないときには1名と書かれている年もあり、今 まで第一内科が維持してきた地域の医療は破綻 すると深刻に受けとっています。東大の鉄門だ よりに寄稿を依頼されたときに「昨年長大第一 内科は開講85周年を迎えた。100年以上にわたっ て日本の医学医療を支えてきた医局講座制にお

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ける医師の育成を、長大第一内科を例として巻 頭言に堂々と書かせていただいた。書き残すべ き遺産であると信じたからである」と平成22年 に書かせていただきました。 しかし、見方を変えれば、長崎大学にとって も、第一内科にとっても絶好のチャンスと考え ることも出来ます。いままでの旧帝大の下の旧 6(若い読者に紹介すると、最後の名古屋帝国 大学の後、大正11年から14年にかけて設立され た、新潟、岡山、千葉、金沢、長崎、熊本の6 官立医科大学のこと。大正末期の私立大学は、 慶応、慈恵、日医大の3校です)の立場から脱 皮して大きく羽ばたく機会に恵まれているとも いえます。大学にとっても、第一内科にとって も運は平等にまわってくる。運をつかめるよう に、場合によっては運を引き寄せる覚悟で頑張 って頂きたいと思いますし、現実に新体制の片 峰学長のもと長崎大学が大きく発展しているの を大きな喜びをもって拝見しています。第一内 科出身の9名の長崎大学の現職教授も同じ釜の 飯を食った仲間として協力し、協同して将来を 見据えた環境、とくに立派な医師を育成できる 長崎大学の環境を目標に努力していただきたい とお願いします。私もお役に立つことがあれば 何時でも馳せ参じます。 大学退官後、放射線影響研究所理事長、日本 アイソトープ協会常務理事に次いで、現在は放 射線影響協会理事長を拝命していますし、内閣 官房には現在も通勤しています。その間国際学 会会長などの学会活動、国の委嘱委員をはじめ、 国内外でさまざまな役職を経験しました。そし て昨年の福島原発事故以来の最多忙の中での叙 勲でした。 叙勲とは、その人の生涯の貢献、功績に対し て天皇陛下が勲章をくださるということで、今 後は悠々自適という感じもありますが、素直に 有難く拝受し、同門会での祝賀会、同門の方々 との絆を宝物として楽しみました。しかし、叙 勲のお礼状には、「今後はこの栄誉に恥じるこ とのないよう、一層精進し些かなりとも御芳情 に報いたいと存じます」と書きました。そして、 今後も運命に逆らわず、原子力災害の専門家と して、内科学の専門家として、今までの経験を 生かして、世のため人のため、お国のために尽 くすことができれば有難いと思っております。 まだまだ皆様との絆は切れないと思います。 この次の同門会便りにも前教授、名誉教授とし て書きたいと思っています。よろしくお願いし ます。 近況の写真をと要請されましたので、家内と 二人の写真ではなく、当日集まれた家族の写真 にしました。長女、眞理(右)は私が長崎に赴 任した年齢になりました。長女も次女(百合、 左)も大学教授(玉川大、明治学院大)になり ました。

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祝賀会祝辞

長瀧重信先生瑞宝中綬章受章によせて 長崎大学 学長

片 峰 茂

長瀧重信先生、この度の瑞宝中綬章ご受章ま ことにおめでとうございます。 もう5∼6年も前から、そろそろ先生への授 章の報が届くはずと待っていたのですが、同年 代の先生方への授章が続く中、なかなか先生の 番が回って来ず、推薦母体である大学の長とし てずっと気をもんでおりました。そこで2年ほ ど前、少し調べを入れてみました。判ったこと は、叙勲者の決定は典型的な日本型年功序列シ ステムに基づいており、勲章の階位が退任時の 職階で規定されるのに加え、授章時期が在職期 間の長さで厳密に規定されていることでした。 先生の場合は、本学教授就任前の東大における 在職期間が極端に短かったため、叙勲はかなり 先になるであろうことが、その時点で判明した のです。 ところが、想定外の朗報が今春届きました。 先生は、昨年3月の福島原発事故以降、福島県 民の放射線健康リスクに関する様々な異なる見 解や風評が飛び交い混乱を極める中、総理大臣 顧問として週に何日も内閣府に詰め、長年の研 究成果に根ざした的確な学術情報を発信し続け られてきました。今回の授章は、このことが高 く評価されてのものであったことを後日知りま した。まさに、年功序列の一般の授章とは明ら かに差別化される、先生ご自身の力で勝ち取ら れた特別の授賞であったのです。弟子の一人と して大きな誇りを感じますとともに、心底より の敬意を表するものであります。 私事になりますが、30年前、放浪の身であっ た自分に長崎に帰還するきっかけを与えていた だいて以来、直下でご指導いただいた期間は短 かったにもかかわらず、ずっと先生の背中を追 いかけ続けて今日に至ったような気がします。 本当に多くのことを教えていただきました。 先ず、医学研究者としてのあるべき姿を身を もって教えていただきました。研究に勤しみ結 果を出したならば、国内の関連学会で発表する ところまでで満足するのではなく、一流の国際 学術雑誌に論文を掲載し国際学会で世界のトッ プレベルと相まみえることで、自らの研究成果 を世界に問うことを厳しく医局員に要求されま した。そうしてこそ初めて医学の進歩に貢献す る研究ができることを教えられたのです。先生 の教授ご就任から時を経ずして、第一内科から 生産される英文論文の数と質は急カーブで上昇 しました。そして、第一内科の後を追うように、 他の臨床各科及び基礎各研究室の英文論文も増 加したのです。まさに、先生によって、世界に 伍して研究し医学の進歩を担うことが当たり前 という新しい文化が、長崎大学医学部に導入さ れたのだと思います。その文化は後進たちによ って、今に至るも継承され続けています。 先生は、被爆地長崎で、甲状腺疾患を中心に 放射線の健康リスクに関する研究にライフワー クとして取り組まれました。核政策やヒバク補 償問題など社会的影響の大きい研究分野に在っ て、先生はことあるごとに、研究者としての役 割は“科学的に証明された真実のみを正確に発 信することにある”と説かれました。政治や社 会運動に左右されることなく研究者としての矜 持を貫く先生の一貫した姿勢は、1986年のチェ ルノブイリ原発事故を契機に大きな国際貢献に つながることになりました。そして、思いもか

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けなかった福島原発事故です。その直後から、 ご自身は内閣府にあって、そして福島現地では、 先生の下で育った山下、大津留、高村先生らの 後進が危機管理と県民健康管理のリーダーとし て文字通り獅子奮迅の活躍をしています。福島 をめぐる混乱の中で上梓された著書「原子力災 害に学ぶ放射線の健康影響とその対策」(丸善 出版)の中で、先生は放射線リスクに関するポ リシーとサイエンスの区別について記されてい ます。これまでのあらゆる研究結果から疫学統 計学的に有意に健康リスクを来す最低線量は 100mSv です。これがサイエンス(科学的事実) であるのに対して、証明されていないリスクま で想定して被ばく限度基準を設定するのがポリ シーです。たとえば、ICRP 勧告は、自然被ば く量を参考に、平時における被ばく線量限度を 1mSv に設定しています。まさに福島をめぐっ ては、この1mSv と100mSv の間で議論が混乱し ているわけです。科学者は、科学的事実を積み 重ねるとともに、ポリシーの意味するところを 平易かつ正確に社会に説明することで、両者の 隙間を埋める架け橋としての役割を果たすべき であると述べられています。長崎に始まり、チ ェルノブイリ、そして福島を経てたどり着かれ た先生の境地がそこにあります。科学技術が社 会への絶対的影響力を持つに至った現代、科学 者は社会との接点にあっていかに振舞うべきか、 ひとつの重要な方向性が示されています。 最後に、先生の尽きることのない向上心につ いて述べます。現役の教授時代は、甲状腺研究 の頂点を目指して世界中を飛び回られ、第一内 科をトップレベルの内科学教室に育てるべく医 局員を鼓舞し続けられました。ご退官後も、先 生の向上心、言い換えれば前向きのチャレンジ 精神、が衰えることはありませんでした。2度 も生命にかかわる病に襲われながらも、その都 度驚異的な回復力で復帰され、さまざまの要職 を務められながら、講演や執筆活動にと現役時 代と変わらぬエネルギーで取り組んでこられま した。そして、福島原発事故以降の特筆すべき ご貢献に関しては何度も言及したとおりです。 1年ほど前、東京で開催された福島の放射線健 康リスクに関するセミナーでお会いした際、先 生は私に「人生の中で、いまほど充実している ときはない」と言われたのです。齢80歳になら れた先生の口からこの言葉が発せられた時には、 感動のあまり絶句してしまいました。超人的と いってもよい絶えることのない持続する向上心、 これこそが先生の生き方を貫く背骨であること を実感したのです。 いま、この国は大きな転換点にあり、新しい 価値観、新しい時代の創生に向けた産みの苦し みの最中にあります。このような時、学術研究 と次世代人材育成を担うアカデミック・セクタ ーの役割は、とてつもなく重いものがあります。 全ての大学人が、先生が示され続けている前向 きのチャレンジ精神に学ぶ必要があると思いま す。 長瀧重信先生。今後もますますお元気で活躍 され、私たち後進を先生の背中で指導し続けて いただきますよう、心より祈念してお祝いのご あいさつといたします。 (本文は、平成24年6月30日長瀧重信名誉教 授瑞宝中綬章受章記念祝賀会における祝辞内容 をもとに執筆したものである。)

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旭日双光章を受賞して

田坂医院

田 坂 省 吾(昭和32年入局)

例年にない猛暑が続いていますが先生方には いかがお過ごしでしょうか。 私は平成24年の春の叙勲に際しましてはから ずも旭日双光章を受賞いたしました。 この世に生を受けて81年まで元気に働くこと が出来、このような素晴らしいことに出会え、 うれしい限りです。 第1内科の先生方からは、たくさんのお祝い をいただき誠に有難うございました。 無医村に開業して50年、厳しかった開業当時 の事が思い出されます。 舗装もされていない砂利道をオートバイで往 診に廻った日々、夜の真っ暗な山道を徒歩で登 って患家にやっとの思いで辿り着いた日々。 今では、そのすべての道がきれいに舗装され、 山の上まで街灯がつき立派な道路ができ、患家 の玄関横に車を付けられるようになりました。 私は開業当時の厳しい時代をこの地で一生懸命 頑張って来た事へのご褒美をいただけたような 気がします。 今後はこの栄誉に恥じることのないよう、残 された人生を一層精進して社会に貢献していき たいと思っています。 どうぞこれからも変わらぬご交誼とご鞭撻の ほどよろしくお願い申し上げます。 先生方のご健康とご多幸を祈念し、お礼のご 挨拶と致します。

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就 任 挨 拶

『福島県立医科大学副学長就任1年目のご挨拶』 福島大学副学長

山 下 俊 一(昭和53年入局)

東日本大震災に引き続き発生した東京電力福 島第一発電所事故に遭遇し、2011年7月に長崎 大学大学院医歯薬学総合研究科長の任を解かれ、 正式に福島県立医科大学へ休職派遣され1年目 を迎えようとしています。この間、同門の先生 方には、福島に対して多大のご支援とご協力を 頂き心より感謝とお礼を申し上げます。 第一内科を離れて22年目になります。1978年 3月長崎大学医学部卒業後、高岡善人教授の門 を叩いて、初期2年間の研修時代を第一内科で 過ごしました。昭和53年卒業のため、同窓会で は「ごみの会」と呼ばれていますが、良き仲間 に恵まれて感謝しています。神経班、内分泌代 謝膠原病班、消化器班をローテートし、そして 第三内科では橋場邦武教授に循環器のイロハを 教えられました。「鉄は熱いうちに叩け」の言葉 通り、診療三昧の毎日が懐かしく思い出されま す。その後、臨床系大学院の復活を果たし、和 泉元衛先生の全人的指導を仰ぎました。そのお 蔭で「打たれ強い人間」に成長したようです。 長瀧重信教授の研究業績主義、実力主義の下で は、小さな出島の窓から大きな世界を羨望して いました。その後約3年間の米国留学を経て、 己の未熟さと才能の無さを再認識して帰国しま した。 臨床医を目指した私自身が、1990年10月に医 学部附属原爆後障害医療研究施設(原研)に移 籍するとは夢想だにしていませんでした。しか し、運命とは奇なもの異なものです。当時は全 く予期せずに国際放射線保健医療の世界に足を 踏み出したことにより、まさに「運命の扉は他 人が開く」の言葉通り、チェルノブイリをはじ め、旧ソ連関連プロジェクト、そして国連機関 などの仕事に関わる事になりました。この間、 すでに亡くなられた恩人や先輩も多く、一人一 人のお名前は挙げられませんが、心から感謝の 念で一杯です。 原爆被災の塗炭の苦しみから復興を遂げた第 一内科及び同門の諸先輩方が、放射線影響研究 所や長崎県、市などと協力され、永々と築かれ た原爆医療の絆を土台に、長瀧重信名誉教授が 30年前に撒かれた原爆被爆者の甲状腺疫学調査 研究、そしてチェルノブイリ原発事故後の医療 協力へと、その人物伝は引き継がれています。 今回の国難とも言える東日本大震災、ならびに 原発事故の非常事態に遭遇し、第一内科同門か らも多くの逸材が福島県内で活動しています。 中でも特筆すべきは、同門会の期待の星である 秋野公造参議院議員の活躍です。環境中に放出 された放射性降下物による現存被ばく状況が続 く現地では、緊急事態を乗り越えたとはいえ、 強制避難や自主避難に伴い、困難な生活を余儀 なくされている住民が今なお多数おられます。 阿武隈山系の環境汚染、さらに偏見や先入観、 風評被害の渦中にあり、私自身の不徳の致すと ころで、大学には多大のご迷惑をかけてきまし た。自戒と反省を生かし日々精進していますが、 片峰茂学長以下関係各位のご高配により、組織 としての統率が取れた福島原発事故後の医療支 援活動が継続されています。 私自身、事故直後から高村昇教授とともに福 島県放射線健康リスク管理アドバイザーとして 現地で活動していますが、外からの応援団とし ての立場には限界もありました。そこで、長引

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く被災状況が予想される中、福島県立医科大学 で被災県民と共に活動する為に、新たな決意を しました。原研における教室員に取りましても、 2005年から2年間の WHO ジュネーブ本部への 休職派遣に続き、2度目の主任教授不在という 非常事態となりました。またしても内憂外患の 渦中において教室員には大変な苦労をかけてい ます。 この1年間を思い起こせば、まさに事故後3 週間目の4月2日、いち早く長崎大学と福島県 立医科大学が学術交流協定を締結し、その3ヶ 月目には私の移籍が正式に決まりました。福島 県立医科大学理事長兼学長の菊地臣一先生以下 執行部はじめ関係各位には過分な処遇とご支援 を受け、新たな良い師と仲間に恵まれています。 であればこそ、放射線災害医療の国際的そして 学際的研究を重ねてきた長崎大学の実績を生か し、さらに原研を中心としたグローバル COE プログラム「放射線健康リスク制御国際戦略拠 点」の総まとめとして、組織を挙げて努力して います。その流れの中で、大津留晶先生は10月 1日付けで新設された福島県立医科大学放射線 健康管理学講座の初代教授に就任されました。 この陰には、大学病院国際ヒバクシャ医療セン ターの活動を一言の不平や不満もなく、快く引 き継いでくれた宇佐俊郎先生の偉大な臨床力が あります。改めまして、川上純教授以下第一内 科教室員、ならびに同門の諸先生方に心より感 謝とお礼を申し上げます。 まさに激動の一年間であり、流言飛語や誹謗 中傷も多いようですが、こころは落ち着いてい ます。むしろ、松尾芭蕉や若山牧水ではありま せんが、人生そのものが旅であることが、耳順 の年齢に達して素直に理解できます。人の生涯 は、誰も生病老死のリスクから逃げることはで きません。今回長崎から福島への奇縁を頂き、 いにしえの防人とは逆になりますが白河の関を 越え、暑い夏と底冷えがする福島も経験しまし た。周りは常に矛盾と混乱に満ちていますが、 修行とはまさにこの混沌に耐え、挑戦し続ける ことにあるようです。私自身も今は一福島市民 として自己変革を体現中です。そして、福島全 県民202万人を対象とした健康管理調査事業を 主導すると同時に、福島復興・再生に向けて最 大限努力し、世界の叡智を結集し、新たな被ば く医療の確立に励んでいます。すでに事故後6 ヶ月目と1年目には、日本財団の支援で国際専 門家会議と対話集会を福島の地でそれぞれ開催 する事ができました。長崎の知財と人材、そし てチェルノブイリの教訓を正しく生かし、福島 の復興と再生を目指し、さらにこれらの教訓を 世界に向けて発信活用できるように同門会各位 のご支援、ご指導のほど何とぞ宜しくお願い申 し上げます。 最後に、福島県は自然豊かで水もお米も、そ して特に、果物もおいしいところです。松尾芭 蕉が詠った「笈も太刀もさつきにかざれ紙のぼ り」の句は、あまりにも有名ですが、佐藤基治 の居城であった大鳥城跡の巨大な桜並木、その 菩提寺である医王寺では、芭蕉が偲んだ義経、 弁慶、そして基治の子忠信、継信など歴史の一 端に触れることができます。乙和御前の椿もさ ることながら、妻恋しの吾妻山連峰には、浄土 平や一切経山、そして吾妻小富士が先生方を歓 迎してくれるでしょう。福島への応援の旅こそ が、地域の復興と活性化の鍵となりそうです。 今後とも、福島へのご支援ご協力のほど宜しく お願い申し上げます。

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就 任 挨 拶

教授就任のご挨拶 福島県立医科大学 放射線健康管理学講座

大津留 晶(昭和57年入局)

平成23年10月1日付で、福島県立医科大学医 学部・放射線健康管理学講座の初代主任教授を 拝命いたしました。本講座は、平成23年3月11 日の東日本大震災に引き続いた東京電力福島第 一原子力発電所の原発事故による原子力災害か らの復興に向け、放射線健康リスク問題へ対応 すべく新設された臨床系講座です。第一内科の 皆様には、長崎大学そして関連病院において、 これまでたいへんお世話になりました。現在、 福島では原子力災害という日本史において全く 経験のない事態に対し、医学・医療分野からい かに貢献できるか、様々な事業を走らせている 真っただ中にあります。そのため何も準備する 時間のないまま慌ただしく出立し、これまでの 御礼やご挨拶もできないまま大変失礼いたしま した。本紙面をもちましてこれまでのご厚情に 御礼申し上げたいと思います。 私は、昭和57年に長崎大学医学部を卒業し、 長瀧重信教授率いる長崎大学第一内科に入局し 大学病院で厳しくも楽しい研修医生活を送らせ ていただき、2年目は国立療養所川棚病院、国 立大分病院、3年目より大学院生として消化器 内科を専攻しました。大学院卒業後、日赤長崎 原爆病院、日浦病院に勤めました。当時、医療 機器の進歩とともに様々な技術の開発が相次い でおり、それらを学ぶとともに、我々が長崎大 学では初めてそれらを臨床の中で確立していか なければならないという立場で取り組ませてい ただきました。研究面では、1980年代になり発 見されたばかりのがん遺伝子や分子生物学的研 究を、消化器がん研究にも取り入れたいと考え ました。そこで、大学院の期間にカナダ・カル ガリー大学生化学へ留学させていただきました。 平成3年6月より山下俊一教授の主宰する現 在の原研分子医療部門(原研医療、その頃は原 研細胞という呼称で親しまれていました)へ助 手として移りました。放射線発がん機序の解明 とその治療に向けて、がん遺伝子の発見、がん 特異的な細胞間及び細胞内シグナルの発見、そ れらを基にした分子標的・遺伝子治療法の開発、 疾患の発症・進展を規定する体質にかかわる一 塩基多型の研究、siRNA やエピゲノム研究など のリサーチを展開することができました。 平成15年4月に、新たな被ばく医療の臨床分 野を強化するため長崎大学病院に永井隆記念国 際ヒバクシャ医療センターが創設されました。 副センター長として大学病院の被ばく医療臨床 部門の立ち上げを担うこととなりました。主と して海外のヒバクシャの検診や渡日治療を受け 持っていました。海外から入院されてくる被爆 者の方々の治療にあたりましたが、第一内科の 先生方には同門ということもあり、病棟が同じ だったということもあり、たいへんお世話にな りました。昨年2011年3月11日の M9の東日本 大震災の直後に、原子力災害が発生し、その後 長崎からの被ばく医療支援に向かいました。特 に3月∼6月にかけて長崎から多くの先生方に 福島県をはじめとする東北地方への支援をいた だき感謝申し上げます。直接こちらに来ていた だいた先生方、また派遣メンバーが不在中の病 院を守っていただいた先生方、本当に有難うご ざいます。 福島では今日でも時々長崎の感覚からすると 大きな地震が続いています。東北地方では M7

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以上の余震がこの1年間に6回、M5以上に至 っては約650回あっています。加えて環境中の放 射性物質による低線量被ばくが長期に続く状態 で、チェルノブイリ原発事故後の小児甲状腺が んの急増のような健康リスクの生じる可能性を 懸念するむきもあります。もちろんチェルノブ イリと比べると、放射性物質の放出量が少なか っただけでなく、避難や屋内退避指示が早期に なされ、また水・食物の放射性物質の測定、そ の結果による出荷制限・摂取制限が、早期より 実行されています。よって、現状では放射線健 康リスクは極めて小さいレベルであると予想さ れています。しかし放射線健康リスクを少しで も低減するためには、いろいろな生活上の制約 が必要ですし、農業県ですので風評被害や差別 などにも苦しめられている状況もあります。 様々な専門家から多様な見解が披露され、福島 で子供さんを育てておられる住民の方々の不安 はまだまだ強いのが実情です。そのため長期間 の福島県民、特に妊産婦、乳幼児∼学童の健康 フォローアップはやはり必要であると考え、県 民健康調査という形で、長期にわたり見守って ゆく各種プロジェクトを立ち上げています。原 子力災害という日本の危機に対して、医学・医 療より貢献すべきシステムを新たに構築するた めに、長崎から原爆被災後67年間地道に続けら れてきた被ばく医療の経験を生かした活動を、 今後も継続してゆきたいと考えます。 福島の地は、会津の銘酒があり、高村光太郎 が「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」 とうたった陸奥の山河があり、また西行法師や 芭蕉も旅した美しい自然もあります。どうぞ福 島にお越しの際は、お立ち寄りいただければ幸 いです。第一内科の皆様の、益々のご健勝、ご 活躍をお祈りいたしますとともに、今後もかわ らぬご支援、ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

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就 任 挨 拶

長崎大学病院 医療教育開発センター 教授

濵 田 久 之(平成7年入局)

第一内科の先生方には、日頃より大変お世話 になっております。平成23年6月1日付で、長 崎大学病院医療教育開発センター教授を拝命い たしました。 ご挨拶が大変遅れ申し訳ありません。大変恐 縮ではございますが、この紙面をお借りしてご 挨拶申し上げます。 第一内科にて初期研修を始めてから長瀧重信 教授、江口勝美教授のご指導を賜り、現在、川 上純教授や同門の皆様のご支援のお蔭でなんと か医学教育という分野で仕事をさせて頂いてお ります。本当にありがとうございました。 せっかくの機会ですので、自分の研修医の頃 を振り返りながら、今の研修医教育について少 し考えさせて頂きたいと思います。 この話の結論としては、「今の研修医も指導 医の先生方も、我々の頃と同様に、頑張ってい る」というものであります。そして、私の使命 は、医療教育開発センター長として『若人の集 う長崎大学病院づくり』、県内17の研修病院をま とめる新・鳴滝塾の事務局長として『研修する なら長崎』を全国へ売り出し、ポンぺの言葉を 胸に刻む若い医師を育てることであります。今 後ともご支援のほど何卒よろしくお願いします。 『選択するって幸せ?』 略歴にありますように、私は、平成7年に第 一内科に入局させて頂きました。当時は、進路 も決まっておらず、年明けにふらりと大分から 故郷である長崎の内科を順番に見学する予定で した。最初に第一内科の医局に見学に行ったと きに、幼稚園の同窓生の阿比留教生先生とばっ たり会い、江口先生の回診につき、その日の夕 方に医局長であった中村先生や調先生と飲みに 行き、翌日の午前に、長瀧教授と握手をさせら れ、「はい、これで入局決定」というような感じ で、何も考えずに、何も選択せずに入局した次 第であります。第一内科にどのような専門科が あることさえ把握していませんでした。4月1 日に来たときは「あんた誰やったけ・・・」と 医局長から言われたものの、医局とはそんなも んだろうと思っておりました。 今の研修医は、2年間の研修の後に、進路を 決めればいいので、悩みに悩やまなければなり ません。まずは、大学6年生で研修先を決める マッチングで悩み、さらに、研修に入ると何科 をローテイトするか非常∼に悩み、地域研修先 をどうするかまた悩み、最後に後期研修先を悩 み(初期研修が終わり入局する人は全体の6割 −7割といわれています)、人によって(残り3 −4割)、さらに次をどうするか悩まなければな りません。ひとつひとつの選択の際に、過多な 情報に振り回され、条件を考え、有利不利を吟 味し・・・大変です。選択の自由はあるから幸 せでありましょうが、永遠の悩める人(青い鳥 症候群やピーターパン症候群)になる可能性も なくはない。一所懸命、一生懸命に打ち込むこ とがプロフェショナルと思いますが、なかなか どうして、今の研修医は「選択する」ことで大 変です。 ひとつを選択することは、ひとつを捨て去る ことですので、もしかすると今の研修医は常に 選択を迫られ、その度に多くのものを捨て去っ た喪失感を常に抱いているのかもしれません。

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医局制度についての良し悪しは議論されるとこ ろですが、気づいてみたらある程度一人前にな っている、何も考えない人間が、ふと振り返る と そ れ な り の こ と が で き る 医 者 に な っ て い た・・・という徒弟的な、職人的な制度・シス テムは、そんなに悪い訳ではなかったと思いま す。そこに、日本的なプロフェショナリズムが 潜んでいたのかもしれません。ただ、それを明 文化し、プログラム化できなかったことが反省 点です。その結果、肝心な守るべき日本的なも の(?)が徐々に失われていく喪失感を全国の 指導医達は感じているのかもしれません。 『雑用って、何?』 私は研修医の頃「お前の仕事は、朝来て、冷 蔵庫の中を確認し、ビールがなかったら入れ る。」と先輩からいわれましたので、新聞配達少 年であった早起きの得意な私は、朝6時半には 着いて、9階の医局のテーブルのビール瓶を片付 けて、冷蔵庫にビールを入れて、コーヒーメー カーでコーヒーを沸かし、誰も来てない医局で、 ひとりコーヒーを飲むのが何よりの楽しみでし た。「さあ、今日も頑張ろう」と自身に気合をい れていたのでしょう。しかし、今、こんな雑用 を研修医にやらせたら、大事件になり、研修医 が来なくなるかもしれません。でも修行という のは、雑用の中にいろんな意味を見いだせるも のだと皆さんは思っているでしょうし、それで 人が育つと思っている方も少なくないと思いま す。冷蔵庫にビールを入れるのは、何事も準備 が大事とか、人の為に何かをやる大切さを教え てくれたかも(?)しれません。新しい制度と なり、研修医には雑用をやらせたらいけない、 やらせると入局してくれない・・・のような雰 囲気が出来がりました。確かに、私達も大学病 院へ移ってきた4年前に、若手医師の雑務軽減運 動を全病院的に行い、市中病院並に(それ以上 に)雑務は軽減され、全医師の80%が大学病院 は働きやすいというアンケート結果が出ました。 しかし、研修医は別だと思っています。今は、 メッセンジャーが24時間何でも運んでくれます が、私達の頃は、薬局に走って行って薬剤師の 先生と知り合いになりいろいろ教えてもらう機 会をつかみました。検体を運べば、検査室って こうなっているのかと気づいたり、放射線科に 行って緊急 CT を、頭を下げて入れてもらったり する交渉術を覚えたり・・・。過度の雑務は確 かに教育にはなりませんが、どんどん雑用をこ なすことから仕事を学ぶこともあると思います。 雑用は買ってでもやれ、それが君を育てるとま ではいいませんが、私のように15年前に研修医 の世話をするという雑用が業績になり本業にな るとも限りません。今の研修医と話していると、 そんなに、雑用を嫌がる人はいないような気が しますし、頼めば進んでやってくれる人が多い です。もしかすると、指導医の先生が躊躇しす ぎているのかもしれません。 『同期とは』 私は31歳の研修医でしたので、現役の先生方 とはかなり年が離れており、年齢の差、学力の 差を感じながら、挫折感を味わう日々でした。 回診やカンファランス前は、15名の同期の研修 医が夜遅くまで勉強していることには非常に刺 激されましたし、年を取った私に対して優しく いろいろ教えてくれたことには大変感謝してお ります。また、大学を出た後はそれぞれに、様々 な病院に勤め、様々なキャリアを積んで行き、 時々は情報交換して刺激を受けたりする・・・ のが一般的な同期です。しかし、今は、違いま す。研修医時代の同期は、密接に接するのは2 年間限定です。研修が終わればそれぞれの希望 の診療科や病院へ散らばります。また、全国か ら同期が集まりますので、今の研修医の方が、 多種多彩な同期の仲間を広く持っていると思い ます。一生付き合うこともあるかもしれません し、たった2年の付き合いかもしれません。そ れは人次第で、今も昔も、変わらないような気

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がします。今の研修医は、違う科や違う病院に 同期がいて、それもソーシャルネットワークな どでつながっているので、ある意味、多くの仲 間や情報を持っているかもしれません。同じ釜 の飯を食うみたいな濃い付き合いではないかも しれませんが、スマートに付き合っているのか もしれませんね。 『指導医』 当時の第一内科の指導医の先生方はユニーク な方が多かったと思います。とにかく優しい指 導医、昼間は静かで夜はエキサイトする指導医、 すぐに語りだし自分の興味のある研究の話など なさる指導医、急に怒る指導医、ほとんど医局 に来ない指導医、かなり細かくチェックする指 導医、頭は切れるが説明が苦手な指導医・・・。 いろんな指導医がいらっしゃいましたが、振り 返ると「基本的な原則原理を教えてあげるが、 あとは自分で乗り切れ」「魚は与えないが、釣り 方は教える」というような、独立独歩で生きて 行ける人間を育てる雰囲気がありました。同期 も独立独歩的な人が多く、何でも自分で考えて やりたい!という人が多かったような気がしま す。我々は指導医の「放ったらかし」を歓迎し ていましたが、それを今の研修医は、「放置プレ イ」といって嫌う傾向のようです。手取り足取 りかまってあげて仕事をさせるのが、最近の流 行です。それは、医療安全や医学教育が発達す るにつれて、安全管理や研修目標とかがしっか りしてきたので、当然といえば当然ですし、私 のような研修管理者は、「ほったらかしはダメ ですよ、しっかり細かく教育してください」と いいます。また、「なにかあったら誰が責任を取 るのか」とういことがいつも問題になります。 最近は、指導医というのは、卒後7年以上で指 導医講習会を受講した人が、国が認める「指導 医」ということになり、この講習会を全国で4 万人の人が受けています。ここで、研修の目標 や評価の仕方とか、指導方法とか、メンタルヘ ルスなどについていろいろ学びます。指導の仕 方の標準化が行われています。良い悪いは別と して、指導医は大変になったということは間違 いないでしょう。将来的には、諸外国のように 教育が専門でそれで飯が食べられるシステムと なればいいのですが、今は負担が増すばかりと いう現状です。それをできるだけ軽減し、イン センティブを与えるシステムを日々努力して構 築しようと思っておりますが、今後とも皆様の ご協力のもと邁進したいと思っております。 『近い将来』 私が研修医になり、はじめて採血した患者さ んの腕には、花の模様がある方でした。私が失 敗して血が噴き出ると「よか、よか、若い頃は 失敗ばいっぱいせんば。」などと言われて励まさ れたのも覚えております。当時は、在院日数が おそらく30日くらいだったので、ひとりをじっ くりとことん診させて頂く(疾患だけでなく家 族、社会背景まで)ということがその後の私の 診療に大きく影響を与えたような気がします。 さらに、厳しく長く続くカンファランスや回診 で、じっくりと鍛えてもらったとは、「考える」 ことの大切さを教えて頂いたような気がします。 目の前の臨床だけでなく、最先端の治療や研究 がどこまで進んでいるかなどを、カンファラン スや抄読会で学び、厳しい環境の中で世界を相 手に戦う先生方の背中も見させて頂きました。 しかし、現在の研修医にとっては、我々の頃の 研修はできません。まず、今の在院日数は2週 間程度で、めまぐるしく患者さんが変わります。 さらに、約1∼3か月おきにローテイトしなけ ればならず、なれたらサヨウナラ∼という感じ です。このような研修で、はたしてプロフェシ ョナルが育つかという議論は全国的になされて いて、初期研修制度の見直しが5年おきに行われ、 2年後には2回目の見直しが行われます。これ は、医師の確保の問題(地方 VS 都会)や研修 の制度の問題(市中病院 VS 大学)や省庁間の

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問題(文科省 VS 厚労省)・・・などが複雑にか らみなかなか皆が納得する結論はでそうにあり ません。しかし、ほとんど中央で、研修教育に 実際に関わっているのかどうかわからない人た ちが決めているというのが実態です。私は、自 分の役割を大学人として地方人として、様々な 全国的な会議や学会で積極的に発言しておりま す。少々煙たがられてもひるまず頑張っており ます。全国の集まりでは都会の病院や大学の声 が重視されることは致し方ないのですが、声を 出さないと、長崎の研修は消滅させられるので はないかという危機感は常に持っております。 さらに、重要なことですが、平成26年度から 新しい後期研修制度が始まります。今の大学4 年生からは初期研修の義務化に続く新たな後期 研修で教育を受けるようになることが決まって おります。これは、非常に大変なことです。も し、ここで医局が、負け組となると大きなダメ ージを受けて組織の存続はできなくなるでしょ うし、長崎大学が後期研修を獲得できなくなる と地域の医療そのものも維持できなくなるでし ょう。この問題は、皆さんが大いに関心を持ち、 意見を発するべきだと思っております。そして、 同門の先生方と共に十分な準備を備える必要が あると思います。今後も、この様な大きな変化 が求められると予想されます。変化が求められ る前に、自ら変わる勇気と実行が求められてい るような気がします。<教育は価値ある変化と 実践>という言葉を胸に頑張って行きたいと思 っております。今後とも皆様のご支援よろしく お願いします! 略歴 長崎県生まれ 長崎東高校卒 平成元年 大分医科大学入学。 大学生時代、大分市にて学習塾を経営する。 平成7年 卒業後、長崎大学病院第一内科(当時、長瀧重信教授)大分県立病院にて 初期研修。その後、長崎県内の中小の病院にて、救急医療やへき地医療 に従事(当時、江口勝美教授) 平成11年 長崎医療センターの前進 国立長崎中央病院(当時、矢野右人院長)にて 勤務研修医教育に携わり、江崎宏典(現、病院長)先生と共に 総合診療科病棟を立ち上げスーパーローテイト研修を推進 平成16年 社会人大学院生としてC型肝炎研究、博士(医学)を取得。 厚生労働省技官としてトロント大学医学部家庭地域医学科にて (Helen P Batty教授)2年間留学アカデミックフェローシップ 取得。プライマリケア、医学教育を学ぶ 帰国後、長崎医療センターの教育センターを立ち上げ、 教育改革(当時、米倉正大院長)の先頭に立つ マッチング中間発表で全国20位台の人気病院となる 平成19年 長崎大学へ異動。 江口勝美病院長(当時)が、文科省による大学病院間の相互連携による優れた専門医な どの養成事業(GP)を採択させ、長崎大学病院医師育成キャリア支援室を設立、准教授 として専門医養成システムの立ち上げ、3年後の中間評価で文科省よりAランクの評価

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平成20年 医学部歯学部付属病院から大学本部直轄の病院となり、河野茂病院長就 任、病院改革がおこなわれる。“Change 長崎大学病院”のスローガンの下、 病院長直属として若人が集う大学病院づくりのために奔走 医師の雑務軽減キャンペーン、ボトムアップのための医局長会議の新設、 若手医師の待遇改善等、女性医師の復帰支援等に力を注ぐ 平成22年 長崎県17の全臨床研修病院で構成する新・鳴滝塾を組織(河野茂会長) 事務局長として県内の研修医教育を推進 薬剤師のためのフィジカルアセスメント研究会設立、南光堂より教科書出版。 看護師の教育者の養成等を行う 平成23年 日本の教育を学ぶために平成19年に大谷尚教授に師事し、 名古屋大学大学院にて博士(教育)を取得 長崎大学病院が全職種の臨床教育を担う部署として、 医療教育開発センターを新設し、センター教授として就任。 病院運営会議メンバーとなる(教育連携組織責任者) 4年連続マッチング数上昇(42国立大学病院では8位) 平成24年 第2次医療再生基金の長崎県医療教育開発機構構築事業を開始 長崎大学病院 医療教育開発センターの紹介 組 織 長崎大学病院 中央診療部門 人 員 教授1名 有期助教12名(H25年まで) (3名(文科省平成19年度GP)、4名(平成23年度第2次医療再生基金)、助教 5名(平成24年度文科省による地域・へき地医療支援人材の確保事業) 看護師1名(シミュレーションセンター専任)、事務8名(常勤3名、有期3名 (GP)、フルタイマー1名、新鳴滝塾事務1名) 設立目的 1 全職員のキャリア開発を促進するため 若人の集う病院づくりを行うために、大学病院が、全職種の若手職員の教育及 びキャリア開発に積極的に関与する。資格修得後のプロフェッショナルを目指 す若人が集うためには、長崎大学病院が生涯にわたる全職種の専門職教育プロ グラムを病院の理念のもとに示し、医療教育開発センターが推進する必要があ る。 2 職種間の教育を促進し、チーム医療を推進するため 縦割り的に動く巨大組織の教育部門を、横の軸でつなぐことにより、職種間の 連携が促進され、チーム医療の推進ともなる。いわゆる全世界的に推進されて いる<職種間教育>を実践し、職種の壁を低くし、はたらきやすい風通しのよ い職場をつくる。 3 地域の医療人教育を行うため 地域の医療人教育の質を向上させるために、シミュレーションセンター等を活 用し、行政と協力しながら、地域医療人の育成を行う。 主な事業 1:全職員のキャリア開発を促進するため 医科/歯科 初期研修・後期研修、看護師新人教育、薬剤師中堅教育 2:職種間の教育を促進し、チーム医療を推進するため 研修医看護師合同研修、医局長会議(診療実務者会議)の組織運営 メディカル・ワークライフバランスセンター設立

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3:地域の医療人教育を行うため 長崎県全基幹型研修病院を組織化した新・鳴滝塾の運営 第1次医療再生基金を利用したシミュレーションセンターの設立 第2次医療再生基金を利用した3拠点病院による医療教育開発機構構築 平成24年度文科省による地域・へき地医療支援人材の確保事業 URL http://www.mh.nagasaki-u.ac.jp/kaihatu/ http://careerngs.exblog.jp/

就 任 挨 拶

長崎大学病院脳卒中センター長として 長崎大学病院脳卒中センター 准教授

辻 野 彰(平成元年入局)

平成23年10月より、長崎大学病院脳卒中セン ターの准教授に就任しました。脳卒中センター では、脳卒中内科医と脳神経外科医が有機的に 結合し脳血管疾患に対して日本国内でも屈指の 脳卒中専門医療を実践しています。実際に多く の脳梗塞患者さんの診療にあたっている脳卒中 専門医として、常日頃念頭に置いている3つの 大原則をご紹介します。 ① 脳梗塞は軽症だから大丈夫とは限らない; 脳梗塞とは脳の血管が血栓(血の塊)で詰まっ てしまう病気です。そのような血栓ができる原 因として動脈硬化によるものと心臓の病気によ るものがあります。脳梗塞の特徴は、手足のま ひやしびれ、顔面麻痺、呂律が回らない、ふら ふらして歩けない、ものが二つに見える、視野 の片側が見えないなどの症状が突然発症するこ とですが、忘れてならないもう一つの特徴は、 再発が多いことです。一般的に軽い脳梗塞と呼 ばれるものには、一過性脳虚血発作(脳梗塞の 前触れ発作とも呼ばれます)と言って、15分く らいで症状が改善してしまうものから、数時間 から数日で症状がほとんどなくなるか日常生活 には支障がなくなるものまであります。最近の 報告では、この軽症脳梗塞の約2割の人が3か 月以内に再発することがわかりました。特に、 そのうち約半分の1割の人が2日以内に再発し ます。しかも、脳梗塞が再発すると重症化する ことが多いようです。一見、言語障害だけで、 自分で歩くこともできる軽症の患者さんでも、 それは物語の始まりに過ぎず、数時間後に大梗 塞を起こすこともありうるのです。 ② 適切な初期治療と原因診断を徹底する;発 症4.5時間以内であれば点滴によって詰まった 血栓を溶かすことが可能です。さらに、発症8 時間以内であればカテーテル治療によって血栓 を取り除くことができる場合があります。近年、 再発予防のための新しい抗血栓薬が次々に販売 されていますが、原因診断を徹底して各薬剤の さまざまな特徴を十分に把握した上で症例ごと に最適な抗血栓療法を行えば、効果的に再発を 抑制することができる時代となって来ました。 ③ 脳梗塞の治療は年齢で差別できない;脳梗 塞患者さんの一番多い年代は70−80歳代の方々 です。ゆえに脳梗塞を重症化させないことは、 寝たきり患者さんを少なくし、将来の認知症の 発症を抑えることに直結します。これから高齢

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化社会を迎える地域社会にとって一人でも後遺 症の重い患者さんを少なくすることは非常に重 要なことです。 脳卒中は救急疾患です。診療の時間軸は分か ら時間です。脳梗塞を出来るだけ小さな障害に 抑えるためには、先手必勝の診療が基本です。 しかし、まだまだ長崎では、発症したらどうし ようもない、脳梗塞診療はリハビリがまず第一 と考えておられる先生方が多いのではないでし ょうか?実際、われわれのところで研修してい る神経内科の先生が「悪くならない脳梗塞って 結構あるんですね!」と言ってびっくりしてい たのは認識の違いを表しているのかもしれませ ん。 救急隊だけでなく県内の診療所や病院など医 療機関はすべて、24時間365日、脳卒中センター と直接ホットライン(電話)でつながっていま す。救急車で脳卒中センターを受診するのがベ ストではありますが、救急車を利用しなくても 良いと判断された場合は、お近くの病院やかか りつけ医に連絡して大学病院脳卒中センターを 紹介してもらってください。我々が、すべての 脳卒中患者さんに対して全力で診療いたします。

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震災支援特集

東日本大震災 長崎大学被災地医療支援第一陣 岩手県大槌町 長崎大消化器内科

市 川 辰 樹(平成3年入局)

3月11日に東日本で大きな地震が起来た時、 皆さんはどこで何をされていましたか? 私は、高原中央病院で外来中でした。看護師 さんから東北で大地震が起こったみたいですよ、 と教えられ待合室のテレビをみると津波の映像 が流れていました。そして17日、長崎大からの 岩手県の被災者医療支援チームに召集されまし た。 18日午後4時、羽田から東北自動車道を雪の 中夜通し車で移動して、私が担当になった避難 所に到着したのは午前9時でした。避難所では、 皆さん土の上に布をしいてその上で毛布をかぶ って寝ていました。停電、断水、下水もなく、 携帯電話もつながらない。食事は毎食配給。基 本的なメニューはおにぎり、パン、缶詰、冷た いものだけです。 屋内で一つの灯りは、ガソリンを使った自家 発電のため、消灯は午後8時。避難所は地面が 土であるため、埃が多く、消灯後も咳が聞こえ なくなることはありません。我々も皆さんと一 緒に避難所で宿泊したのですが、毎日余震のた め、2回は夜間覚醒していました。 医療支援の内容は患者さんの診察と処方です。 半数は内科疾患の処方継続の相談です。処方薬 には限りがある上に、津波のため薬、処方内容 説明書、お薬手帳、医院のカルテもすべて流さ れているため、まったく病名とお薬が分からな い方が多い点が大問題でした。 1週間現地に滞在し帰る日の朝は氷点下4度 で積雪あり、最高気温も5度、長崎の真冬でし た。今後始まる避難所から仮設住宅への移動、 仕事はどうなる、失った家族や家のこと、将来 に対する大きな不安を被災者全員が抱えていま す。被災地の様子は報道でしか分かりませんが、 被災された方々が確実に復興されるのを自分の 目で確認しない限り今回の医療支援は終わらな い気がしています。

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震災支援特集

福島県南相馬市への医療支援 第一内科

阿比留 教 生(平成2年入局)

私は、長崎大学病院が、東日本大震災直後か らスタートしている、福島県南相馬市への医療 支援に、参加した。医療支援に入ったのは、6 月下旬、震災発生から3ヶ月以上が経過してい た。そこでの、大きな問題の一つが、急ピッチ で建設の進む仮設住宅への移転問題であった。 特に高齢者では、交通の便や、孤独死の問題な ど、多くの問題が山積みであった。一日に50名 ほどの避難所検診の業務の中で、避難所生活が 長期化し、一旦寛解していた、うつやアルコー ル依存が、新たに顕在化してきている事例に遭 遇した。熱中症、食中毒対策がそろそろ問題に なってくる時期でもあった。医療体制は、南相 馬市立総合病院の4名の医師が、避難所など地 域の医療の復興支援の中心として、獅子奮迅の 働きを続けられていたが、総合病院の病床稼働 が開始され、医療活動は、病院中心へと移行し ていくであろうと推測された。 津波被災地は、3ヶ月以上経過していたため、 既に瓦礫はおおむね撤去されており、壊滅した 小学校や、取り残された漁船に、津波のすごさ を実感した。しかし、最も、印象に残った出来 事は、朝の街の風景である。早朝より、飯舘村 や、南相馬市街地を見学した。津波被害のほと んどない場所であったが、7時から9時の通学 時間帯に、本来ならば通学しているであろう、 小中高校生の姿は皆無であった。原発、火力発 電関連の家族で、人口も就学児童も多く、それ までにぎわっていた街が、震災を境に子供のい ない町に変貌していた。いくつかの飲食店は、 再開していたが、家族団らんの場であるはずの、 ファミレスやバーガーショップは店を閉ざした ままであった。人の姿はあるが、道端に子供の いない町が、これほどに姿を変えてしまうとは、 原子力発電問題の根深さを痛感した。 私は、今回の経験をもとに、大災害が起きた ら、医療者はどうするのか?起きる前に、何を 備えるのか?もう一度よく考える必要があると 考えさせられた。私の専門分野の糖尿病診療で も、生命維持に不可欠なインスリンの確保は、 極めて重要である。昨年の夏の、1型糖尿病の 子供たちを集めたキャンプでは、子供たちに、 震災の状況での危機管理の重要性を知ってもら おうと、早速、勉強会を開催した。震災発症の 隔絶した環境で、生き残るために、どのような 準備が必要なのか?もし、大災害が現実になっ たら、何をすべきか?子供たちとの勉強会を通 して、自分でも改めて問い直す機会となった。 喉元を過ぎても、過去の教訓を忘れないために も、これからも、継続的な活動が必要だと考え ている。

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