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大道安次郎著「スミス經濟學の生成と發展」-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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− 大道安次郎教授の労作﹁ス、、主経済拳の生成と畿展﹂ と越する研究を寧にして、わたくしは自らなる気持の 和宣ぎと、同時に叉自分自身の立ってゐる所を静かに 願らうとする煩かを党ゆるので透る。これはでが、わ にくし濁りの感慨では克くで、この落っせある力作を 手にする人の、誰もが感ずるところではあるまいか。 われわれは歴々拳闘尋究の途上において、 還れの啓をきき、更にはプーフ1トン、アリス!アヽスを 顧みょともきき、さうして叉アダ㌣ス、、芸を瓜ひ、 フリ1・下りてリストを想起せよと雷はれる。何故で スミス鮮臍撃の生成と蟹展

大道安次郎著

﹁ス、ミズ経済学の盤成羊瀞展﹂

大 泉、行

あるか。日く、′人間生活の中枢誅恕は常に新らもくし て且っ岳いからであ′る。問題は、常に薪らた奉る情況 の下にその相貌をあらはすで㊦らう。けれども、問題 の中枢は、嘗って問題となった沌のであり、さうして 終発も亦問題となるべきものであらう。 問題は斬らしい事轡の軍展と共に、その張展の段階 において錯綜之﹂時には著しい混乱と々露呈するであ ブ。さうした時に、われわれは一膝その紛糾から退 いて問題の母胎へと立ちかへりゆくことは、われわれ に心のゆとりを輿へると共に、事態の尿管を公jEに把 摸せしゆる所以である。 ︵劇〇七︶仙〇七

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第十大金 策.叫 渋 今日の目まぐるしい経済敢愈の動きと、それに封應 しでの経臍理論の交錯に、往々にして自分白身の在り かすら忘れ勝ちな、∴私の如き落つきなきものに七つ1で は、こめ著者の研究の如きは羨望をすら党ゆ各仕事な のである。 〓 をれならば、−スミスを今にして願ることが如何.克る 現代的意味を.もつか。わたくしは常に思ふのである。 用意ぶかき偉大なる思想家の畢詮・思想には、その中 梅において常に生活の貫蟹なる牒のへ通ふも.のが存在 する。それ故に、彼の畢詮・思想は時間的制約を越え で、永く後世の人々七感銘を輿へ得る。然るに誤を主 として犯すものは、彼に結く所謂後場者の人々 る。スミスにおける自然的自由の思想が、マンチェス タ﹂畢瀕におけか白面貿易主義としての寵封化は、こ、 の最も典型的な場合であ牒。 スミス経済畢の偉大さは、それが人間生活の眞蜜な ︵仙○へ︶一〇八 るものを常に凝成して忘れず、従ってそれは﹁文字通 りPO−itica−Ec昌Omyであつた﹂︵本啓序四寅︶ところ に在る。本書一巻を通じて著者は﹁道徳哲単著スミス が経済単著で、、スヘメタモルフォーゼ﹂する経過を論 許せられ.る欄で参るが、本来スミスの経済畢の萌芽が 道徳腎拳の餞系の中風輿へられたものである ふ時、スざス経済螢は所謂人間研究を課題としたもの であり、こゝに苗ぐして而も常に新らしい意味の生き でゐることを認め得るのである。 大道氏は序において﹁スミスに於ける生け巧もⅥと 死せるものとを棒りわけるにめの材料を捉供す準﹂ ︵璧ハ頁︶ことを以て、現在のぜめてもの念願とすると 言はれる。之は怖らぺ著者の謙虚に過ぎたる首纂であ ら,︸。驚し氏の労作を通読することによつて、試着はス ミスへの注意と関心と身改町て促されかからである。 三 著者は本署の﹁前書き﹂として、スミス国富論の飴 ヽ

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生を概説し、本書金牌の構成と意躇を明かにする。そ の構想の下に、つゞぐ五つの審が輿へられるのであ る〆著者の究極的研究目榛は、スミス癒臍饗を現代的 光の下に産室せんとす諸所に凝る。︵壁ハ頁︶さうして 本書では先づ﹁ス、、㌻自身に即して軋いはゞ内在的 に∴ スミス経済拳の生成と畿展を跡づけようとするの である。ごのてとは著者の反復しで用意する注意書で あト︵ の研究の制約がある。壷二革は﹁遺徳哲畢髄系の研究﹂ と題する。この賓においで、我々が最鳶意味ふかき教 示をうけるものは↓スミスの﹁問富論﹂も﹁道徳情挽 儲﹂も、究極において道徳哲畢の鰹系中に地位を輿へ ちれることの認放である。スミスの遺徳哲堕鰹系ば掛 つの部門から成る。︵ニ六堅

第一部 自 然 御 輿

第二部 倫 理 歯

第三部 正.義 論

スミス経済攣の生成と教展 ㌧ / 問題は之尊各部門間の相互的紺係を渡ることに凝る が、この問題は決しで容易ではないのである。著者は ∼ この課題尤封し、舞踊部門より出番し、逐次にその閲 聯を逆に探らうーするのでぁるの 兜づ最後の第四部門は経済畢であり、そこセ、′中枢 的見解は﹁自然的自由の倒産﹂に存在する。け鹿毛、 自然的自由の主張はで、、スに恕いて決しで無傑件的な むのではなく、±皿義の淡﹂を俊昏せざかことが前提せ られるのである。︵三四頁︶・かく論究するときは、スミ スは立番の原則とは異なる別Ⅵ原理を経済に樹立して ゐるもので烏頂く、従って第三部門町正義論は賓に第 四部門の外枠朝潮約と親られるのである用言大東︶ 然るに、正義の問題として第三部門を成す牒のは、 正義の洪に閲する貰際の﹁公私訟制の漸次的恐達の跡 を辿る﹂⊆叫九頁︶ことに凝るものでみり、これは常戯 尤更に仙椴的な倫理攣の主題の﹂つを形成するものと 二〇九︶仙〇九 第 四

部 贋 臍、拳

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第十六番 第 叫 凱 晋はねばならぬ。如ち第二部門が之であり、㌧︼1で第 四部門と第二部門の閥聯が明らとなる。同時にこ高︰で 所謂﹁アダム・スミス問題﹂の定紋的解握れその論嬢 を見出すのである。=﹁アダム・.スミス間髄﹂とは、スミ 子の二大曹操たる﹁由畳叩]及び﹁遺徳情操論﹂につ き、前者は自利心の原則に立ち∵後者は同情の原則に 立ってゐるのであるが、このことは矛眉するも伊では ないかとの問題である。廃園部門と第二部門とめ問に 闊聯が蟹見せられることによつ・て、かゝる矛盾め存在 せぬことが富ひ得る・ことになる。 次に第二部門の極限ば結局紳へと過る。とれは即ち 第財部門の課題に外ならぬ。スミ・スは宇侍の創造者を 信じ、∴テ揺はか1る創迫者の設計に成る機械であると いふ。︵六七頁︶然乍ら、紳は卒個別遭の後においでも 慈悲を垂れ、人斯の牽帖を念執してるる。こ∼から第 叫仙部門においては﹁車幅﹂が中心問題針成す。さうし でこの鮎でスミスの預定調和説、私益即公益の基本観 ︵叫 血○ご﹂○ 念が腐られねばならない。幸福論は第側部門の中心に ると共に、廃っでそれはス、ミスの道徳背塾全髄系の′ケ ルンであるといはれる。さうしてこゝからスミスの鱒 徳哲挙が中世的道徳常畢憂それに於ては彼の完全化 はつぬに甥既に於ける如何なる程度の幸福とも粕谷れ ないものょする ー を退けて、ギサシヤ的道徳哲拳に 傾倒ルてゐることを知り得る。即ら.﹁人生の奉隔及び 完全坪山はとこまでも現せ的なものと観念軋られ、∵従 つで人間中心的な考へ方をそこには見出すのである。 ︵七九−八二見︶ 籍二審で著者はス、、、スの﹁経済畢への動機﹂を問題 と、する。即ちそれは、前述第⋮部門の精仰が経臍的部 門に如何に鯵透してゐるかの課題の出費鮎を威すので ある。スミス′に在って濾、生産は手段であり滑費が目 的であつで、而も消費は厚生と摘係することによつ て、既に述べたる車稿論につながりをもつ。︵九二頁︶ 閤

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スミスの拳稲が現せ的なものであることは既述の如く であるが、か1る車幅は精神的要素︵平安︶と物質的 経済的要素︵享楽︶とから成立つ。而して精神的な平 安は物質的・経麿的享楽七商魂首する 済的牽摘が精神的車幅の前墟となると考へる朗に、経 済轟研究の動機が蟄見される。 スミスの経済拳への動機にりいては、諾単著によつ て梯々なる観察の下されてゐること捻著者の詳細に綺 介するところであるが、点描根本的な動機として範局 彼の世外観に立ち到らねばならぬこと、それは取りも 潰さす第二部門の自然神輿へと締着せねぼならぬこと ぉ著者は主張せられる。︵劇〇七兵︶ 第三茸は﹁道徳曹拳と経済拳﹂と題せられる。﹂第仙 及び第二肇の各薄では、道徳哲学の精神が、如何に﹁導 きの盈﹂として経済畢研究に働きかけてゐるかゞ関越 であつ仁。第三蕃では﹁図富論﹂において如何にそれ が盤透してゐるかをさぐらうとするのである。 チ、、ス華済撃の生成と教展 より成ることを知る。仙つは理論経済蓼の部門でこの 中には生産及び流通の問題が取上げられ.る。他は憐象 の経済啓ともいふべき部門で、中心は政戦論である、。 生床論を構成する〟聯の素材は、彼の分業論、自利 心、交換欲望、資本克どであるが、何れにしても自制 心を巡っての﹁アダム・スミスの問題﹂が再び反射せ られ、それに射する解明が輿へられるのである。︰ ︵叫二四異︶ 分配論では自然慣格の問題が庫心となるが、之は生 産費的勧と常螢供給的耐とをもつでゐる。この二つの 面にづいて著者隼自然慣格論は二偲生産費詮によつ て構成せらる1の/であるが、生産費の構成要素 − そ れ等の合計が自然憤格である・・・トの自然率が如何に決 定するかの鮎で、スミスは需要供給設を探つでゐると 考察する′。︵〓ニ二−〓ニ六奥︶ 廣義の経済拳を形成するものは鮭兜的部分、政策的 ︵劇二︶ニー さで﹁囲宵諭﹂の構成を鬼a時﹂二︼っの犬ぎ

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第十山へ巻 第 劃 紋 なるもの及び財政螢であるが、中心は政策論であつ で、こ\ゝにスミスのポリティカル・エコノミイの名に 、 値す′るものを見冴。 スミスの政策論は大うく観て、商業主義と農薬主義 との考察であ旬、前者については有名なる重商主義批 判がぁり、後者についでは寄襲撃沢への批′評はあ㌃ が、一般的に甚だ好意的である。資し蚤盛挙茨におけ ろレツセ・フエールや資金魔詮への封立はスミスの思 想と共通するものだからである。 要するに、スミス経済拳の理論及び政策の爾部門を 通じて、㌣の中枢的なるかのは﹁自然的なるもの﹂め 魯盈甘あり、これが理論においては硯はれて﹁自然的 なる は硯はれて﹁眉然的なるもの﹂の確芙眉然の擁謎︶と。 なったところに注目せられねぼならぬ。さうしてか1 ふ﹂自然的なるもの﹂の尊重は、紛局ス.ざ、スあ道徳習 畢の根本観念を成すものであることは、同時に十分銘 ︵叫 叫二︶劇 仙二 記せられねばならぬ。︵一濫六、血六⊥只︶ 五 最後の二つの賓たる第四、第五の各章が、本書の表 題督成す﹁経済螢の生成と勢展﹂に充てられる。 この仕事はてドキュメントを通しての研究と、二、 むの結果得たる材料を以てする概括とに分けら、れて果 され 然らばその場合ドキュメントとは何を指すか。精細 に富ヘノぼ、若干の習簡、講演記録なども数へられるの であらうが、L著者が主としで掲げるものは次の川着で あるか 国富論はスミス経済拳の到達鮎である故に、生成準 び静展の練雷としで問題となるのは二つの﹁講義﹂及 1、エヂンバラ講義 2、グラスゴー講義 3、観富論の草稿 4.、図∴ 富 論 ー七四九年 仙七六二−三年 右六三年 叫七七六年

(7)

滝経済的自由の詮が存渡し、将来の﹁圃富論﹂の具鰻 ゐ藩が、之夢二.園富諭﹂に此較する時は若干の不〝﹂致 を見灘すけれども、浸れは大森るものではない。へ完五 卜大屋︶全牒としで﹁閣富給﹂への草稿的形磁区不すので あるが、然し俺大いなる距離の存在を認めねばなヰぬ。 即ちこの﹁講義﹂は法拳の一部之せられたものである が、﹁園官給﹂は経済拳を猫立うせたものだからである。 ﹁問富論の革桐﹂の出甥は、山りの問題を提供するも ー やである。即ち従来﹁講義﹂む﹁国富論﹂との問に存 墟する差異は、スミスの彿敵西行に原因するといふの 、、 が適詭とされる。然る′に、、﹁革絡﹂の起草は一七六主年 の夏或は秋で、スミスの磯備前であ㌔潤も﹁講野 上りは後である。さうしで﹁草稿﹂は韮しく﹁囲笛諭﹂ ぴ﹁草稿﹂の三者といはねばならぬ。 グラスゴー講義に於ても前者の思想が相承せられて 兜づェヂンバラ講義を取上げるとき、そこたは早く がこヽに鼠出されるのごある。︵こ還衰︶ ス﹂、ス藤野畢の生成と教展 立し嫌いと、﹁草稿﹂の後見者スコットは抗議するので ㊦る。 けれども著者によれば、スコットの挑戦には不備が あり、且つその論議は我田引水の療もあつて俄かに左 裡し得ない.ものといはねばならぬ。︵土〇九1二石頁︶ 然乍ら、﹁草稿﹂のもつ意味は他の一鮎において不滅の 盈要性をもつ紆である。それは、之によつで粁臍挙が 狽立の′部門として取上げられるに至つ、たこせが澄明せ られ、道徳哲単著スミスが経済畢者ス、、ミ令移トノゆく べき恕を見るからである。︵ニ〓讐5 春着はかくの如くにじて探求した材斜によつT、没 後に概括を執る。即ち﹂方では道徳哲拳から経済挙が 分立す旦過経を取上げ、その雷初にお たりし経臍畢の﹁園富論﹂として猫点するに至る経過 ㌢眺めるのであるぺ他方では、経臍拳の中で断片的な 滝のが発威せられでゆく道程を辿り、消費諭的なも切 二 〓ニ︶〓三 ′ と趣旨を同じくするが故に、′通詮

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溝て私のこので文は、せに所謂嘗評といはれるもの 芝は趣を異にするであらう。私は殊東計番的に、火道 教授の労作の、地紋的忠蟹なる紹述を試み、それによ って試着に本革の内容の仝猥を知らしめ、その構隠及 び性魔の如何なるものかを知らしめようと欲したから であ㌃℃かうする七とによつて私は、心ある読者をし て・仙人でも多く、本書を直接手にせんとする誘惑を感 じ′㍉せようと企てたのである。蓋し本書の如き、周到 鮒密克る文献的確究と、それ等の比較考謹に基く研究 に封じては、絆者に十分法相悪意くして正儲なか評言 は下されない。豪は登ろ二損者が自ら射寄の雰囲気に 接せられる㌃とを願ふ。 洛中心の構想.への後屈が跡つけられる′のである。 から生確論なものへの推移と、政策中心の構想から理 天道教授の労作はこのやうにしで嘲應その目的を了 へるのである。 六 大戦 第 山 教 ︵叫 仙四︶∵一四 著者の研究態度は飽ぺまで凍虚であり、而む濫りに 手軽なる猟断をせサ、間髄に封しては熊ふ限り多面的 な角度から之を探究して、結果としで敢も安富な牒べ き判断へと導いてゆく。右の手洗′の緊密なることは、 讃潜に嘩い感銘を鳳ハヘザにはおかない。 いまや敢倉及び経済の諸問題について∵首よぐるし い韓換に遭遇んで、われわれは時に自分白身の丑場を すら見失ふの危険を感する。新らしき思想、丁斬らし1き 理論、薪らしき提案に、常に心して世の敵勢に翠べれ ぬ用意は闘よち必螢であらう。けれども、われわれの 直面すか問題の根底には、常に古きものへの生人耶的づ ながりの存在すべきこと針知る時は・、われかれ劇時に 巷の喧騒から己自身にかへケて、その足許をかへり見 るべ漕ではなからうか。うぅした意味でス、い、スも亦改 めて願られねばならぬ之児ふ。 天道教授のスミス研傑を大方の読者に推す所以であ る。︵日本詳論放資行、昭利十五年十叫月、定償二矧五拾縄︶

参照

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