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31 現代的意義のある伝奇葉広芩の 青木川伝奇 は 実にユニークな視点から 陝西の僻地を拠点とした匪賊の話を描き 共産党の偉いさんよりも その匪賊に土地の人びとが懐旧の念を持つという 血沸き肉躍る面白い小説である この小説は 葉広芩が二〇〇六年一〇月二五日に日本の名古屋で書き上げた長編である そして

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Academic year: 2021

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  葉広 芩 の『青木川伝奇』は、実にユニークな視点から、陝 西の僻地を拠点とした匪賊の話を描き、共産党の偉いさんよ りも、その匪賊に土地の人びとが懐旧の念を持つという、血 沸き肉躍る面白い小説である。   こ の 小 説 は、 葉 広 芩 が 二 〇 〇 六 年 一 〇 月 二 五 日 に 日 本 の 名 古 屋 で 書 き 上 げ た 長 編 で あ る。 そ し て、 私 が 読 ん だ の は、 二 〇 〇 七 年 一 二 月 太 白 文 芸 出 版 社 か ら 発 行 さ れ た『 青 木 川 』 の翻訳である。   葉 広 芩 と 日 本 と の 関 係 は 長 く 深 い 。 そ れ 故 、 こ の 小 説 に も 、 日 本 に 留 学 し た 鍾 一 山 と い う 男 が 出て く る 。 こ の 男 は 、楊 貴 妃 に 関 心 を 持 っ て い て 、 楊 貴 妃 が 日 本 の 山 口 県 長 門 市 油 谷 町 に 流 れ 着 い た と い う 伝 承 に 興 味 を 持 ち 、 そ の地 に ま で 出 か け て い る 。 物 語 は 、 鍾 一 山 と 同 級 生 の 馮 小 羽 、 小 羽 の 父 親 で あ る

現代的意義のある伝奇

萩野

 

脩二

Book Review A5判 412頁 馮明 の 三 人 で 青 木 川 に や っ て 来 る と こ ろ か ら 始 ま る 。 目 的 楊 貴 妃 の 何 ら か の 遺 跡 を こ こ 青 木 川 で 見 つ け る こ と で あ る   青 木 川 と は 、陝 西 省 寧 強 県 に 属 す る 鎮 の 名 前 で あ る 。 こ こ 小 さ い 僻 地 で は あ る が 、 北 は 甘 粛 、南 は四 川 、 そ し て 東 安 に 通 じる 交 通 の 要 所 で あ っ た 。 鍾 一 山 は 異 常 な 執 着 を 森 林 に分 け 入 り 、 古 の 古 道 ・ 儻 駱 古 道 で 大 唐 故 唐 安 皇 女 う 落 款 の あ る 寺 の 遺 跡 を 見 つ け る の だ が 、 そ れ は 地 元 政 ら 、 観 光 資 源 と な る と 喜 ば れ 、 鎮 の 発 展 に 寄 与 す る と さ れ 馮小羽は、張保国が鍾一山の青木川に来る動機を勘違い し て い る よ う だ と 感 じ た の で、 す ぐ に 言 っ た。 「 こ 国者は投資家ではなく歴史研究家です」/すると張保国 は さ ら に 熱 心 に 言 っ た 。「 歴 史 研 究 家 も 歓 迎 し ま す よ 葉広 福地桂子・奥脇みち子・田蔵訳

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化 は す べ て の 経 済 発 展 の 礎です 。 社 会 主 義 の 新 し い 農 村 を 建 設 す る の に 一 番 大 事 な の が 文 化 で す か ら 」 ( 二 一 頁 )   まさに日本の村おこしと同じ発想がここにあるし、 ここに、 葉広 芩 が描く小説の現代的意義がある。   そもそも、 この青木川訪問は、 馮明の希望によるものであっ た。馮明はここで土地革命を戦い、ここ一帯を勢力範囲とす る 匪 賊・ 魏 富 堂 ( 実 在 の 人 物 は 人 民 自 衛 団 司 令 の 魏 輔 唐 ) と 戦 っ た解放軍第三大隊政治教導員であった。彼は五〇年ぶりに青 木川を再訪し、人生の終末を迎えようとしていたのである。   ところが、馮明が心の故郷と思っている青木川に来てみる と、 当 時 一 緒 に 戦 っ た 古 老 た ち は ほ と ん ど こ の 世 に お ら ず、 その息子の世代となっており、彼らももう六〇歳ほどの老人 で、土地革命のこともあまり覚えていない。 馮明が男に名前を聞くと、 「許です」 と答えた。馮明が 「誰 の息子さんかね」と聞くと、男は警戒して「俺が誰の息 子 だ ろ う が、 お 前 さ ん に は 関 係 な い だ ろ う 」 と 言 っ た。 ( 略 ) 男 も 少 し 言 い 過 ぎ た と 思 っ た の だ ろ う、 し ば ら く し て お だ や か な 口 調 で 馮 明 に「 あ な た は ど な た で す か 」 と 聞 い た。 /「 馮 明 で す 」 /「 馮 明 っ て 誰 で す か 」 / 「馮明とは私のことです」 (略) 馮明は名前を言ったあと、 感嘆の声が上がるのをいささか期待して待った。青木川 に名声轟く馮明政治教導員を知らない人がいるはずがな い!/男はしばらく思い出そうとしていたが、結局「知 りません」と頭を横に振った。 (一八頁)   若い世代の者は馮明など知らない。 それどころか、 生き残っ ている古老たちも当時極悪非道の匪賊として大衆裁判にかけ て銃殺刑にした魏富堂を懐かしむのであった。   魏富堂は、わがままで独裁者であったが、この地に教育を 充実させ、経済的発展を図り、徳政を敷いていたのだ。その 証拠が学校であった。こんな辺鄙なところにバロック風のレ リーフのある洋館の建物を建て、英語のできるキリスト教徒 の女校長を迎え、子弟にみな流暢な英語をしゃべらせた。優 秀な子弟がいれば西安などの大都市への留学資金も出し、家 族への援助もしていた。   土地の人たちの心に残っているのは、魏富堂の実践行動で あり、一九五二年の土地革命以後五〇年余りもこの土地を離 れていた馮明の印象ではなかった。 せいぜい彼らにあるのは、 共産党の偉いさんが今なおどれだけの益を図ってくれるかど うかだけなのであった。

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  確かに土地革命のときには、 家や田畑を分け与えてくれた。 でも、今はまた、例えばその家も観光資源として明け渡せと 地元政府は言う。匪賊・魏富堂の遺跡は新たな観光資源とな るのであった。辺鄙な土地は、過去の遺跡を観光資源とする ほか、 これと言って産業がないわけだから。他のところには、 『芙蓉鎮』や『収租院』の成功があるではないか。   しかし、土地の人びともそれなりに辛い時代を過ごしても いた。 魏元林のこの説明で、 馮明は思い出した。この家の外で、 馮 明 た ち は 匪 賊 の「 田 ウ ナ ギ 」 と 戦 っ た。 「 で は、 あ の 英雄の老万は?」と馮明が魏元林に聞いた。/魏元林が 「 一 九 六 七 年 に 死 に ま し た 」 と 答 え た の で、 「 何 の 病 気 で?」 と 聞 く と、 「 自 殺 で す 」 と 言 う。 「 な ぜ 自 殺 を?」 と 尋 ね る と、 「 内 部 審 査 と 外 部 調 査 で、 彼 が 国 民 党 の 残 党だということになり、さらに青木川に潜んでいた匪賊 の ス パ イ だ と い う こ と に な っ て 」 と 言 っ た。 / 馮 明 が 「 ま っ た く の で た ら め だ!」 と 言 っ た。 / 魏 元 林 が 言 っ た。 「その通り、 ひどい話です。 当時は誰もがでたらめで、 まともな人間はほとんどいなかった。老万は『残党』と 言 わ れ、 わ し も『 虫 け ら 』 と 言 わ れ た。 『 残 党 』 は 一 日 牢屋に入れられただけで自殺し、自ら人民と絶縁したん です。 (略) (二二六頁)   彼らの多くは文化大革命の時には、 国民党のスパイだとか、 匪賊の残党としてつるし上げの対象となっていたのだった。 馮 明 は 言 っ た。 「 人 民 の た め に 働 い た 人 を、 人 民 は ない。青木川の功績帳には、趙大慶さんの功績が特筆さ れています」/言い終わって、馮明は今の言葉の虚しさ に気付いた。近年、時々建前だけの立派な言葉を吐くの が癖になっていた。趙大慶の現実を目の前にして、どん な言葉を贈っても、実際に問題が解決しなければ意味が ないと感じた。/青い顔をした趙大慶は、着ている服が ブランド品なので、足を伸ばして座り、日向ぼっこをし ている様子は滑稽に見えた。Tシャツは正真正銘のフラ ンスのクロコダイルだが、胸の辺りに紅茶の染みがつい ている。それがブランドのTシャツが山奥へ「下放」さ せられた本当の理由だろう。靴も普通のではない、アメ リカ製のナイキのハイカット・スニーカーだ。八〇歳の 趙大慶が履いていると、片方だけでも趙大慶の品位がぐ んと上がり、ファッションリーダーか、上流の紳士、帰

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国華僑でなければ億万長者か大物と見られるだろう。だ が、苦しみを嘗め尽くした顔には風雪が刻み込まれてい る。つまり、生産委員趙大慶の一生は、順調で裕福な暮 ら し で は な く、 祝 福 す べ き 輝 か し い 人 生 で は な か っ た。 (三四四頁)   何度も政治キャンペーンを繰り返してきた人々の暮らしは 向上したのか、少しでも良くなったのか。相変わらずの貧困 の 中 で 暮 ら す 人 々 を 見 て、 馮 明 な ら ず と も 思 う で は な い か。 自分たちが命を賭して戦った革命、すなわち中国の土地革命 とは何であったのか。その後の文化大革命は何を人民にもた らしたのか。ここに描かれている土地改革の時、主力として 働いた魏元林や趙大慶などの描写は、期せずして中国人民が 数々の革命を経て来た実感を吐露したものとなっている。人 民とはどういうものであるのか。今や単純に共産党の指導に 唯 々 諾 々 と 従 う ば か り で は な い こ と を 葉 広 芩 の 筆 は 見 事 に 語っているではないか。   小説は、馮小羽が消えてしまった学校の校長の、正体を暴 き出す話を織り交ぜている。そこには幻想的で奇妙な姉妹の 話も語られている。確かに青木川を舞台とする伝奇が描かれ てはいる。但し、原作は「青木川」唯一つなのである。私は ここに作者・葉広 芩 と日本の私を含めた読者との隔たりを感 じた。作者・葉広 芩 は中国人としてやはり現在の中国への問 題意識が離れないのであろう。観光資源によって村おこしを するしかない地方の辺鄙な土地も、都市と地方の格差の実態 も、どっぷりとつかった中国の現在なのである。だから、葉 広 芩 の筆はそこかしこに辛辣な地方政府という伝統に胡坐を かく上層部の実態を逃さない。中国の問題意識を鋭くえぐっ たこの小説は、葉広 芩 の現在の中国認識・実態であり、伝奇 物語ではない。   私たち日本人には、青木川を舞台とする新奇な幻想的な物 語であるが、この距離は多分動かしがたいであろう。   小説には、言うまでもなく、いくらでも新奇な話がちりば められている。例えば、魏富堂が襲った教会の話には、彼が 得ようとしてついに得られなかったものが描かれている。い わゆる田舎の匪賊が西欧の文化に接した時の得も言われぬ驚 きが描かれている。 見たのは、 テーブルクロス、 ナイフとフォーク、 オルガン、 電話などだった。つまりこのときの襲撃で、彼は現代文 明に出合い、文明の具体的な姿が醸し出す魅力を知った の で は な い か。 そ れ が 匪 賊 魏 富 堂 に 自 己 を 問 い 直 さ せ、

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もっといえば自分の生き方に疑問を生じさせたのではな いか。馮小羽はのちにそう総括した。 (八二頁)   但 し 、 文 化 と は そ う 単 純 な も の で は な く 、 定 着 す る に は 相 当 の 時 間 が 必 要 な こ と も 、 葉 広 芩 は 忘 れ て い な い か ら 、 匪 賊 ・ 魏 富 堂 の 付 け 焼 刃 の 文 明 の 模 倣 は 次 々 と 失 敗 す る 。 そ れ も 面 白 い 。   訳文は三人の推敲によって良くこなれていて、訳注も簡に し て 要 を 得 て い る。 「 主 要 登 場 人 物 表 」 な ど を 作 っ て、 こ の 長編をより読みやすくしている。特に文革時に使われた慣用 句の説明などは有益である。     最後に気づいた誤植及び衍字をほんの少し挙げておこう。 二三五頁下九行目、 『趙姓三源遷 徒 碑』 →『趙姓三源遷 徙 二三七頁下八行目、 取らない ない だろう→取らないだろう。 二九六頁下一行目、 「黄 鱔 尾」→「田ウナギ」 。 三〇八頁上九行目、安らかな な 顔→安らかな顔。 三二四頁下四行目、劉小猪 猪 は→劉小猪は。 四 〇 三 頁 上 四 行 目、 解 放 軍 一 七 一 連 帯 第 三 大 隊 → 解 一七一連隊第三大隊。                       (はぎの・しゅうじ   関西大学名誉教授)

中国年鑑2017

5月26日刊行 ◎ 中国研究所 編・発行 明石書店 発売 1955 年創刊。現代中国に関 する最新・基本情報満載の、 一国を扱う珍しい年鑑。 B5 判 522 頁 価格:18,000 円+税 ◆特集=党大会と巨竜の行 方 習近平政権は、国内外にさま ざまな問題をかかえながら、 ますます存在感を増してい る。今秋5年ぶりに開かれる 共産党第19回大会を経て、中 国はどこへ向かうのか? 今 日の中国に関する多方面に わたる情報を提供します。 ◆動向 政治、台湾・香港・マカオ・華僑、 対外関係、経済、文化、社会 ◆要覧・統計 国土と自然、人口、国のしく み、軍事、少数民族、国民経 済・国民生活、農業、工業、 資源・エネルギー、交通運 輸、対外経済、知的財産権、 労働、暮らし、社会保障・医 療制度、環境問題、NGO・ NPO、教育、宗教ほか ◆資料 統計公報、重要文献、主要人 事、2016 年日誌ほか ※お問い合わせ・ご予約は 中国研究所事務局まで ================= 一 般 社団法人

中国研究所

112-0012 東京都文京区大塚6-22-18 TEL:03-3947-8029 FAX:03-3947-8039

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