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シンポジウム A 1889 B C

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(1)

慶 應 義 塾

Newsletter of Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University

第21号

 2014年 9 月30日 発行

「近代名家書状集」

2巻 【服部悦子氏寄贈】 収集家により、明治期の思想家や財界で活躍した人物の書状 が集められ、2 巻にまとめられたもの。阪谷素、中村正直、西 村茂樹、柴原和、藤田伝三郎、浜尾新、渋沢栄一、益田孝らの 書簡が収録されており、全17点のうち11通の書簡は田辺貞吉 宛。田辺は静岡県沼津の出身で、東京師範学校長を務め、明治14 (1881)年に実業界に転じ、住友銀行の初代支配人となった。 各資料の前には付箋が貼られていて、資料の執筆者を示して いる。福沢とされるものは3点あり、掲載の写真は、安政 5 (1858)年以来の慶應義塾の校舎の移動や生徒数などについて述 べたもの(上)および心覚え(下)。

ISSN 1349-6468

*シンポジウム「地方資産家伊東家をめぐる人々と  経済活動」∼ 2014 年 6 月 28 日開催∼ ………… 2 4 *福沢研究センター公開講座(佐藤能丸氏)………… 5 *平成 26 年度中津市アーカイブズ講座 ……… 6 *古文書講座参加記……… 7・8 *戦争プロジェクト活動報告……… 9 *新収資料紹介………10 *梨花史学研究所と部局間協定締結/主な動き………11 *センター諸記録(2014 年 4 月∼ 2014 年 9 月)……12

目 次

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 シンポジウム ■伊東家概説

石 井 寿美世

(大東文化大学 専任講師) 伊東家は、遠江国引佐郡中川村(現・静岡県浜松市北 区細江町中川)に所在し、19世紀中頃には旗本・近藤遠 江守是用の元締役を務めた由緒も持つ、近世から続く大 地主の家として知られる。 1920年代初頭∼30年代初頭の資産は60万円∼100万 円(当時)、所有耕地は60町歩、納税額は1500円∼6000 円程(当時)で あ る。ま た、1921∼30年に は小作人を 250∼300人程度擁しており、その約半数は中川村の者 であった。さらに、静岡県において、1904年時点の「多 額納税者」15名中 8 位、1920年時点の「資産家」118名中 6位、1924年時点の「大地主」39名中12位にあり、20世 紀に入っても県内屈指の資産家であったことが分かる。 ■明治期地方企業家における社会的責任意識 ―静岡県引佐郡 伊東磯平治・伊東要蔵を事例として―

石 井 寿美世

(大東文化大学 専任講師) 本 報 告の目 的は、 伊 東 磯 平 治(1832 1901)・ 要 蔵 (1864 1934)養父子を事例に、地域事業を展開する動因 としての社会的責任意識を考察し、近代日本における地 方工業化の一過程を解明することにある。ここで注視し たのは、世代による意識の相違である。 自身も養子であった磯平治はいわゆる天保世代で、養 父の生前は家業(農業)に努めたが、1883年に要蔵を養 子とした翌年から銀行重役に就き、1887年以降は紡績・ 委托販売・信用組合などの事業を始める。要蔵は明治世 代で、1889年に家業を継ぎ、磯平治没後に地域事業を継 承して自らも農学校・鉄道などを興した。 1880年代後半の地方の企業勃興を主に担ったのは、 この天保世代と明治世代である。しかしその意識には相 違があった。伊東家では、磯平治は家産から切り離され た流動資産を管理し、要蔵はそれ以外を家産として管理 していた。磯平治は家産の維持を重視し、自己の役割 を「家」の保持と捉えており、社会的責任意識も「家」に 重点があった。したがって「家」を第一義とした上での 地域事業であり、家産とは切り離された自己資産を利用 した。近世の地主は、その経済力に比して共同体への経 済的負担に応じていた。磯平治はそれに通じる対応を移 植産業の起業で実現しつつ、「家」が負う未知のリスク を軽減する措置を講じたといえる。一方、要蔵は家産の 拡充を重視しながら、それを用いた地域事業の進展にも 力点を置いた。彼は、家・地域・国を発展させることこ そ人のあるべき姿と考えており、「家」だけでなく地域・ 国をも自己が負うべき責任の対象として強く意識した。 本報告への貴重な意見・質疑に僅かばかり答えたい。 〈A〉明治期の戸主権強化との関連性:必ずしも権利の 強化=専制ではないと思われる。「家産支配方法契約書」 (1889年)には、戸主たる要蔵は「自己ノ独断ヲ以テ一 切専行不致事」、「家族ノ調和ヲ為ス能ハザル場合ニハ支 配権ヲ家父ヘ返戻」とあり、戸主は「家」内部の調整役 を求められたといえる。〈B〉「地域」の具体相:現時点 ではその範囲を明示できず、今後の課題となる。ただ経 済思想史上の命題は、地域とは何か・どうあるべきか という「概念」の、時間・空間を超えた普遍性と変化を 解明することにある点を申し添えたい。〈C〉要蔵と福 沢諭吉との関係性:要蔵宛福沢書簡は10通確認できる。 1886に福沢が浜松を訪問した際、要蔵が懇親会を催 したこと、1898年には要蔵の衆議院議員選挙立候補に福 沢が助言したことなどが分かり、福沢の晩年まで交流が あったといえる。 ■伊東要蔵の有価証券投資と企業者活動

三 科 仁 伸

(慶應義塾大学 大学院 文学研究科 後期博士課程) 本報告では、伊東要蔵の経済活動を、伊東家の有価証 券投資活動と彼の経営首脳部への参画を伴う企業者活動 という二つの側面から分析した。

地方資産家伊東家

をめぐる

人々

経済活動

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シンポジウム  有価証券投資の検討は、『総勘定元帳』や『有価証券元 帳』の分析を通して行った。伊東家の収益基盤は、明治 期は一時期を除いて小作収入であったが、大正 8 年以降 (大正 7 年以前は欠損)は有価証券投資収益に転換して いる。具体的な投資業種は、鉄道、銀行、保険、電気事 業に傾注している。鉄道株は、明治20年代は幹線鉄道 を中心としていたが、鉄道国有化後は局地鉄道に集中し、 大正期以降は自らの経営する浜松鉄道や富士瓦斯紡績が 関与していた玉川電気鉄道などに限定されている。この 鉄道国有化を契機に電力株の取得に進出している点は、 同時代的な特徴を反映したものであろう。 企業者活動の検討は、伊東家文書中の書簡類や各社の 営業報告書を基礎的な史料として行った。伊東要蔵が関 与した企業は、養父から継承したもの、傍系企業として 設立されたもの、自ら設立に関与したものの三類型に分 類できる。これらの企業への関与には、浜松地域を基盤 とするコネクションと、「学閥」に基づくコネクション との二つが機能していた。前者は浜松委託会社や浜松瓦 斯、浜松鉄道などに確認でき、後者は富士瓦斯紡績や豊 国銀行、第一火災海上保険などに確認できる。この「学 閥」に基づくものに関しては、伊東要蔵が慶應義塾出身 であるという点を重視し、和田豊治とのコネクションが 基礎にあることを指摘した。また、彼が長期に亘り取締 役社長として主導した浜松鉄道に代表される鉄道事業に 関しては、明治30年代より展開された当該地域の鉄道 建設運動の延長線上に位置付けられ、筆頭株主として、 経営及び資本の両側面から支えていたことを指摘した。 以上の報告に対し、石井里枝先生より、伊東要蔵を取 巻くネットワークの実質的な解明の重要性が指摘され た。併せて、会場より、彼の活躍した「地域社会」の実 相を問う意見が出された。これらの指摘は近代日本にお ける「地方」の持つ意味を再検討する必要を提起するも のであるが、報告者は今現在において、これに対する明 確な答えを持ちえていない。この点を踏まえた上で、更 なる史料の分析により、伊東要蔵の経済活動の基盤と なった「地域社会」やネットワークの解明を通して、近 代日本における「地方資産家/企業家」の活動を研究し ていきたいと考えている。 ■「伊東要蔵とその妻なか ―要蔵・なか間の書簡を事例として―」概要

宮 脇 麻 里

(慶應義塾大学 大学院 文学研究科 史学専攻 修士二年) 報告者は上層農民の女性の役割を探るため、伊東要蔵 の妻なかの生涯に迫ろうとしている。伊東なかは、明治 4年、静岡県引佐郡中川村で伊東磯平治の娘として生ま れ、明治16年に磯平治の養子となった山田要蔵と結婚 し、大正 9 年に50病死している。本報告では要蔵 となかの間で交わされた書簡をもとに、伊東家の家業に おいてなかが占めた位置を考察した。 要蔵が自身の女性観を明確に語った史料はないが、要 蔵の師である福沢諭吉はいくつかの女性論を展開してい る。『民間経済録』では、妻も家業・家産への心得を持 ち、夫が留守のときには代理を務められてこそ「一家の 細君」であるとされる。伊東要蔵は大地主として多数の 小作人を抱える一方で、政治・経済活動のため中川村の 自宅を離れることが多い。そのため、自宅に留まってい る妻なかが、要蔵に代わって家業の小作経営における代 理人的役割を担っていたと思われる。そこで、小作関係 の動きが大きい明治25年に注目して、両者の書簡を見 ることで実証を行った。 明治25年、要蔵は地価修正委員会に加わってたびた び上京していたが、伊東家の小作地では災害により米が 不作になっていた。なかは要蔵宛の書簡の中で、検分を 申し出る小作人がいることを随時報告し、要蔵の帰宅を 促している。これに対して要蔵は、小作人への伝達事項 や、留守中の対応を返信している。また、要蔵が蔵入米 の状況の報告をなかに頼んだり、支配人と見られる人物 への指示をなかを通して行ったりしている。さらに、小 作人が多数集合して騒いでいる際には、なかは事態の詳 細に加えて、その年の小作経営の厳しさを憂う言葉を書 き送っている。 以上のように、なかが小作の状況把握や支配人への情 報の伝達を行っているからこそ、要蔵が土地を離れての 活動を積極的に行うことができたのではないだろうか。 妻が家業に携わって留守を預かる夫婦のあり方の一つで あり、なかは福沢諭吉の言う「一家の細君」像に近い女 性ではないかと報告者は考えている。

(4)

 シンポジウム 報告後、福沢研究センター教授の西沢直子氏より、女 性と家業との関わりはその後の女性の社会的な地位を考 える上でも有意義な視点であること、福沢の女性論の展 開、福沢の地方資産家への家族のあり方の変革を担う者 としての期待についてコメントいただいた。これらの点 を踏まえ、今後は他時代との連続性や家族の変容を意識 しながら、さらに伊東家の女性たちの史料を読み解いて 参りたい。 ■地方資産家研究の問題点と課題

井 奥 成 彦

(文学部教授 センター所員) 今回のシンポジウムは、近年学界で盛んに議論されて いる地方資産家研究に一つの新たな素材を提供するもの であった。そして3報告はいずれも「発展途上」段階の ものであるとはいえ、この方面の研究の問題点と課題を 浮き彫りにしたという意味で意義があったと考える。 そもそも地方資産家についての議論が盛んになされ るようになったのは、1995年に刊行された講座本『日本 経営史 2』(岩波書店)の中で、谷本雅之・阿部武司両氏 が1880年代後半の企業勃興期における地方での活発な 経済活動とその原動力となった経済主体に注目したこと からである。両氏は企業勃興の担い手としての地方資産 家を、リスクテイクの大小と経営への関与度の大小を指 標として、①地方企業家的資産家、②地方名望家的資産 家、③レントナー的地方資産家に大別した。そして、こ のうち企業勃興期に大きな意味を持ったのは①と②で あったとする(この指標に即して考えると、とりあえず 伊東家は②に属すると思われる)。以後両氏の議論をた たき台として、さまざまな議論が展開されているが、な お残された問題があることが、今回のシンポジウムを通 じて確認されたのである。 まず第一に、地方資産家が経済活動を行う場合、「地域」 をどのように考えていたかという問題がある。これまで 地方資産家の投資行動を論ずる場合、多くの研究者たち は例えば「地元株を買う」とか「地元への投資」などとい うことばを使ってきたが、「地元」の範囲を明確に意識 した上での議論はなされてこなかったように思われる。 今回のシンポジウムではコメンテーターの谷本氏やフロ アから、三科報告に絡めてその点に関する発言があった。 地方資産家にとって、「地域」に対する認識は、例えば 小作地など自己の所有地の範囲、商業を営んでいる場合 は商圏、政治活動に関わっている場合はその活動範囲、 それらの重なりの上に形成されるものであろう。平たく 言えば、地方資産家がどこからどこまでを自分のテリト リーと考えていたか。地方資産家の地元への貢献度を測 るならば、その資産家の意識する「地域」というものに 即して議論しなければ、その性格を見誤ってしまうこと になりかねない。 第二に、上記とも関わるが、地方資産家が「地域」に 貢献するといった場合、地域に対するどのような意識や 理念をもって貢献しようとしたかということである。こ の点は石井報告で取り上げられたが、一般的にはこう いったことに関わる史料が乏しいこともあり、十分に研 究がなされてはこなかった。今後は地方資産家の経済活 動を結果から評価するだけでなく、演繹的な考察も進め られなければならない。 第三に、伊東家の経済活動の指針を定める存在として、 また家の中での女性の相対的位置の問題に絡めて、この 時代の戸主の権限の強さを問うコメントも出された。明 治民法によって戸主の権限が明確化されたというのが通 説かと思われるが、伊東家の場合は戸主と妻は連携しつ つ家業を営んでいく存在であったことが宮脇報告によっ て指摘された。一般的に実体面で明治民法以前と以後と で家の中での戸主の位置や権限の強さに変化はあったの かどうか、また家の中での女性の立場は変わったのか どうかといったことは、今後解明されるべき課題と思わ れる。 さらに、「ネットワーク」概念の曖昧さの問題がある。 この語は地方資産家や企業家一般を取り巻く人間関係を 論ずる場合のみならず、最近の歴史研究で広く使われて いるいわば流行語の感があるが、「ネットワーク」の内 実は何なのか、単なる「コネクション」とどのように違 うのか、そういったことが曖昧なまま使われているよう に思われる。今後この語を用いるならば、定義を明確に しておく必要があろう。 これらの浮き彫りになった問題点をふまえ、我々は伊 東家の研究をさらに前へ進めていく所存である。

(5)

公 開 講 座  2014年度福沢研究センター設置科目「近代日本 沢諭吉Ⅰ」で、去る6月23日に私は上記の題で講演する 機会を西沢直子教授から恵まれた。 内容は、「はじめに 1 大隈重信と福沢諭吉 2 明治・ 大正・昭和・平成の早慶比較論 3 早慶野球戦論 4「最 後の早慶戦」 5 学生街の早稲田と三田 おわりに」で ある。 1の中で、二人のプロフィールを概観して、その初対 面を明治 4 年の暮か5年の初めであった経緯を述べ、大 隈の回想の「一度知り合つてからは、非常に懇意になつ て先生が吾輩の処へ来ると、……先生は酒が強く食事が 長いから、且つ喰ひ且つ話して、夜も更ける処で、膳を 片付けようとすると、未だ未だと云ふ風で……、殊に政 治上の秘密談は此家の奥にある一室で、他人を入れない で、家内が酌をしながら話をするやうな事が多かつた。 ……此早稲田の学校の出来たのも、吾輩が先生と交際し て居たからと言つても宜からう」(「福沢先生を語る」)と の終生緊密な間柄であったエピソードを紹介した。ま た、二人の生涯を最も熟知している福沢の高弟矢野文雄 が「同気相求むると云ふが、此二人は誠に相似相通ずる 点が多い、唯一方は学者であり、一方は政治家であると 云ふ丈けで、其性格はよく似て居る、恐らく福沢先生を 政治家にすれば大隈重信であり、大隈さんを学者にすれ ば、福沢諭吉が出来たらうと思はれる。」(「補 大隈侯 昔日談」)と証言していることを補足した。 そして、「明治14年の政変」と「大隈・福沢提携陰謀説」 を大隈等 7 人の参議(閣僚)の「憲法意見書」の一覧表を 提示して、政府部内での大隈の進歩性を論じた。 2では、明治末期の『中央公論』の1907年 7 月号に「福 沢諭吉翁」が、1911年 1 月号に「大隈伯論」が、それぞ れ数名の著名人によって興味深く縦横に論評されている ことを伝えた。そして、大正期から現今に至る雑誌や単 行本などで「早慶比較論」が展開され続いていることを、 実に面白い鷺城学人(鵜崎熊吉)「慶應と早稲田」(『中央 公論』1913年11月号)、青地晨『好敵手物語』(1953年)、 「早稲田vs慶應」(『日経お と な のOFF』2012年 4 月号) など7げてじた 3では、7 点のいずれも大変興味深いスポーツ文化史 としての早慶野球戦論を掲げ、「スポーツと人間形成」 について、安部磯雄がスポーツによる修養として、「ス ポーツは一種の平和的闘争である。敵味方と別れて両々 相争ふ時其処に野蛮性の露出が免れ難い。斯る場合に於 て尚ほ節制を守り人間としての品位を保つべしといふの がスポーツの私共に命ずる所である。如何に平静なる人 でも競技の時に興奮すれば忽ち其理性を失ふことにな る。然し、スポーツは……尚ほ紳士的態度を維持するこ とを教へて呉れる。故に運動場に於てよく野獣性を抑止 し得る者は如何なる社会的位地に在りても容易に同一の 態度を維持することが出来る。換言すれば道徳性の発揮 は運動場に於て最も困難であるが故にスポーツによりて 修養を行ふことが適当の順序でもあるし、且つ最も有効 なる方法である」(『青年と理想』、1936年)との含蓄ある 論を残したことを紹介した。 4では、1943年のアジア太平洋戦時下で遂に学徒出 陣となった時の「早慶壮行野球試合」(所謂「最後の早慶 戦」)に言及して、戦争と学生の対応をスポーツに絡め て論じた。 5では、在学中の人間形成や青春の思い出の場として、 大学の教室や構内よりも、むしろ、大学を取り囲んでい た「大学街」そのものが自分を育んでくれた最も大きな エリアであった、と言う卒業生が決して少なくないとの 観点から戦後の各時期における心象風景としての学生街 を論じた。 おわりに、では、全体を総括しつつ、大学の「伝統」 というものに言及した。とりわけ、私立大学にとっての 「伝統」とは、創立者の志を引き継いだ後進たちの、実 にクリエイティブで主体的な、私学ゆえに恒常的に母校 に寄せる熱い物心両面の協力の所産にほかならず、決し て先人によって蓄積されてきたもののみによって固定さ れているものではないということ、また、「校風」とい うものは形に現れるものではなく、明瞭に説明すること は困難であるが、「校風」はその大学の中心人物の志と いう個性と理念が中核となって造られることが多く、広 く求心的な個性と明確な理念を有する創立者によって設 立された私立大学は、自からその者の「気風」という「校 風」を生み出して発展しているようで、特に慶應は「一 身独立」「独立自尊」という「校風」の著しい特色のある 大学であると論じた。そして、最後に、「ヒトナミでイ チリュウ」の慶大生たれ!と、幅広く奥深い教養と見識 を備え、多様な価値観を認めることの出来る「人並で一 流」の人物になる素養は、実は大学時代に培われるもの であると強調した。しかし、「一浪で一留」くらいはマ ア仕方がないかも? とオチをつけて降壇した。

早稲田大学

エクステンションセンター

講師 

佐 藤 能 丸

福沢諭吉

大隈重信

−慶應義塾大学

早稲田大学−

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 アーカイブズ講座 本年度の中津市との提携によるアーカイブズ講座は、 高校生と大学 1 、2 年生を主な対象とした「初級者の部」 が8月 7 日(木)か ら8日(金)ま で の1泊 2 日、 別 府 大学や久留米大学の学生等と合流した「中級者の部」が、 8月 8 日(金)か ら12日(火)ま で の4泊 5 日間の日程 で行われた。アーカイブズ講座の開催は、今年で6年目 (初級者の部は3年目)になる。 初級者の部では、本年より大阪での福沢諭吉関係史跡 見学を夕方まで行い、宿泊地を昨年までの中津から小倉 に変更した。小倉では、夕食後に学習会を行い、3つの グループに分かれて、まず結城大佑教諭による古文書解 読の講義と実習を行った。その後各グループで、あらか じめ読んできた『福翁自伝』の大阪や中津に関する記述 を中心に読後感想を話し合った。 当初は本年も2泊 3 日予定であったが、台風11号 の影響で、中津市も避難所が設置される事態となったた め、8 日午後以降のプログラムを取り止め、8 日午前中 に福沢諭吉旧邸および記念館見学、11時頃には小幡記念 図書館に移動し、簡単な襖下張文書の解説と、解読実習 を行った。天災 と は い え、8 日 午後より中津の 東九州龍谷高校 2年生 5 名 流予定であった ので、非常に残 念であった。 中級者の部は、台風による多少の変更はあったが、例 年通りのプログラムを実施することができた。なお宿泊 は、初級者の部が小倉リーガロイヤルホテル、中級者の 部が中津市営の研修施設八面山荘であった。 参加者は、初級者の部が高校生 8 名(慶應義塾高 2 、 志木高 5 、女子高 1)、学部生 6 名(文学部 1 、経済学 部 3 、法学部 1 、看護医療学部 1)、大学院生 4 名、中級 者の部は別府大学より8名、久留米大学より1名、九州 大学大学院より1名が参加し、福沢研究センターからは 調査員 4 名がTAとして、他に大学院生 1 名が参加した。 引率人員は大塚彰(志木高)、末木孝典(慶應義塾高)、 都倉武之(福沢研究セ ン タ ー)、西沢直子(同)、渋沢 彩佳(同)、馬場国博(SFC)、馬場秀行(女子高)、結城 大佑(同)。 <初級者の部> 8月 7 日  7:30 東京駅集合 のぞみ207号      10:33 新大阪駅着 【福沢諭吉関係史跡の見学①】 適塾・除痘館記念資料室・大阪慶應倶楽部・大阪慶應 義塾跡・福沢諭吉生誕地記念碑・慶應大阪シティキャ ンパス      15:45 新大阪駅発 のぞみ35      17:58 小倉駅着      20:00∼22:00 学習会        1)古文書解読入門        2)『福翁自伝』読書会 8月 8 日  9:00 福沢記念館 【福沢諭吉関係史跡の見学②】 福沢諭吉旧邸および福沢記念館      18:05 北九州空港発 <中級者の部> 8月 8 日 13:30 開講式 於中津小幡記念図書館 中津市長・別府大学アーカイブズ センター長挨拶・参加教員紹介      14:00 講義①「福沢諭吉と中津」西沢直子      15:15 講義②「襖の下貼り文書」 尾立和則先生(元京都造形芸術大 学教授)      19:00 講義③「史料の写真撮影」 針谷武志先生(別府大学) 8月 9 日  9:00∼16:45 整理・目録作成実習      *台風の影響により終日八面山荘での目録 作成。午前中TAによる講義あり 8月10日  9:00∼16:45 整理・目録作成実習      13:30講義④「福沢諭吉を巡る 資料 ―歴史研究と資料について考える―」 都倉武之 8月11日  9:00∼16:45 整理・目録作成実習      19:00 実習中間発表 8月12日  9:00∼12:15 整理・目録作成実習      12:15∼12:20 閉講式中津市教育長挨拶 今年度の目録作成は、すでに襖から剥がされて保存さ れていた合馬家の文書を扱った。合馬家は江戸時代には 庄屋を務め、長屋門や茶室、築庭などがある立派な屋敷 が残っていたが、20数年前に取り壊されたそうである。

平成26年度

 中津市

アーカイブズ

講座

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アーカイブズ講座  また下張文書を 剥がす作業は、中 津市三光成恒(旧 三 光 村)に あ る 佐 々 木 家の襖を 扱った。正確には 蝶番があり、片開 きの扉として使用 されていたようである。佐々木家も旧庄屋で、昭和時代 まで医院を開業していた。 ■2014年度「大阪・中津福沢史跡見学および 古文書講座」に参加して

馬 場 国 博

(湘南藤沢中・高等部教諭) この講座が始まって今年で3年目となる。過去の経験 が蓄積され、年を追うごとに運営やプログラムが着実に 向上している。 その1つの表れが、参加者数の増大である。塾内の高 校生と大学生を併せた参加者数は18となり、平成24 年の9名、25年の12に比べて大幅に増加した。募集・ 案内の期間を十分にとることができるようになったこと などが増加の要因と考えられる。 それにも拘わらず、今年は台風11号の直撃を受け、 3日間日程2日間短縮せざるをなくなってし まった。2 日目午後から3日目にかけて予定されてい た、襖の下張りを剥がして古文書を解読するという古文 書体験の部分がほぼ実行できなくなったことになる。ま た、福沢諭吉旧邸および福沢記念館こそ見学できたもの の、中津の町並みや耶馬溪をゆっくり眺める時間もなく、 中津の高校生と塾生が交流する時間も取れなかった。こ れは天を恨むしかないことではあるが、参加生徒・学生 はもちろんのこと、スタッフ側にとっても極めて残念な ことであった。 2日間という日程の中でも、昨年度までと比べて改善 したと感じた点を幾つか挙げてみたい。 まず第 1に、事前説明会において以下の3つの事前課 題を課したことである。 ① 『福翁自伝』の中から「幼少の時」「大阪修業」「緒 方の塾風」「一身一家経済の由来」を読んでくること ② 大阪の地図を与え、インターネット等を利用して 「難波橋」「道修町」「御霊神社」といった自伝に出て くるエピソードの場所を地図で確認しておくこと ③ 古文書のくずし字について予習し、『世界国尽』 の一節に含まれるひらがなを探してみること 大阪の地理に明るくない筆者は、これまで『自伝』の 「大阪修業」の箇所は、地理的な位置関係は念頭におか ずにただエピソードを読んでいた。改めて地図を横に置 いて位置を確認しながら読み返してみると、これから実 際に訪れる場所であるという期待感も相まって、全く異 なった印象で読むことができた。3つの事前課題に真面 目に取り組んだ参加者は、興味関心を新たにしてこの講 座に参加できたことに違いない。 第 2に、大阪を貸切バスで見学できたことである。昨 年までは徒歩と電車を乗り継いで史跡巡りを行った。自 らの足で距離感を確認しながら廻ることができた点は良 かったが、猛暑の中なので体力的にも時間的にも厳し かった。それに比べて今年は快適で効率的な見学が可能 となった。 適塾や福沢諭吉誕生地記念碑、大阪慶應義塾跡、大阪 シティキャンパスなど毎年必ず訪れる必須の見学ポイン トに加えて、『自伝』の中で適塾生がアンモニアの実験 を行った件で登場する天神橋、橋のそばのお堂の願掛け を適塾生が持ち帰って冷やかした葭屋橋、また現在でも 薬品メーカーが軒を並べる道修町の様子等々を車窓から 眺めることができたことは、貸切バスを利用したからこ そ可能になったことといえよう。 第 3には、昨年までは初日に中津まで移動して宿泊し たが、今年は小倉泊まりとすることによって時間に余裕 をもって大阪を見学することができた。第 4には、旅行 会社に一部手配を委託することによって、今回の台風の ような緊急事態への対応を速やかにとることができた。 さて、今年は大学院生が初めて、しかも4参加 てくれた。初日の夜に3つのグループに分かれての勉強 会を行ったときには、大学院生が各グループで、議論の 進行や整理など、牽引役を担ってくれた。また、その勉 強会では福沢研究センター教授の西沢さんに加えて、女 子高教諭の結城さんも講義を担当して下さり、高校生か ら大学院生までという幅広い年齢層の塾生と、高校・大 学の教員が一体となって学びあう貴重な機会となった。 短い日程ながらも充実した2日間となったことは、西 沢さん、都倉さんをはじめとする福沢研究センターのス タッフのきめ細かい配慮のおかげと改めて心から御礼申 し上げたい。 ■参加記 Aグループ(佐 藤 詠 一、 仙 田 聡 昭、 森 勇 樹、 柳 詩 織、 木村つぐみ、折田真一、櫻間慎乃) 後世、福沢には様々な肩書がつく。教育者、啓蒙家、 時事新報や交詢社、慶應義塾の創設者、そして夫、父親、 祖父。彼はプロテウスのようにとらえどころがない。し かし、今回の旅で彼の軌跡を追うことで、故郷中津と大 坂時代の姿を垣間見ることができた。

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 アーカイブズ講座 中津は、彼にとって旧いしきたりの場だった。母に しっかりと育てられながらも、彼は孤独を抱えていた。 福沢の大事な視点、世間を斜めに見るきっかけを与えた 場所である。 大坂は、彼にとって青春の地だ。適塾で門下生と共に 酒を呑み、ワイワイ騒いだ。自伝の門下生と牛鍋屋に行 く話は、高校生が連れだち牛丼チェーンに行くようだ。 また、福沢の寝泊りした部屋の柱の刀傷は、青年達が狭 い場所で時に喧嘩をした証だ。彼の心軽いユーモアのセ ンスは、仲間と暮らす中で磨かれたのだろう。勿論、福 沢は門下生の一人として、西洋の書籍を気の狂うように 学び、何かを掴もうともがいていた。 福沢は実利を重視すると言う。一方で、教育の場であ る塾を開き、耶馬溪保護を行うなど、一見実利主義と矛 盾する生き方をした。だが、そこに師である緒方洪庵の 影響があった。緒方に父の面影を重ね、彼から大きな志 を持ち学問を働かせることの大切さを知った。だから、 福沢は合理主義精神を持ちつつ、目先のことではない学 問を重視した。 江戸から明治へ。彼は若者らしい大きな反骨心を持っ た。彼は決して完全無欠ではなく、道徳的人物でもない。 だが福沢は適塾で信頼できる恩師、切磋琢磨できる仲間 に出会い、才能に磨きをかけ、人として基礎を形成した。 福翁自伝は、老年に回顧し描かれたものだ。福沢が自伝 を書いた理由は、自由への賛歌や、青年が困難を抱えて も前進することを真摯に願ったからだろう。そして、彼 にとってもプロテウスのような自身を統合する物語だっ たと言えるのではないか。(文責:櫻間慎乃) Bグループ(中島勇太朗、端山敬久、坂本実桜、田口雄飛、 加藤学陽) 今年の大阪・中津福沢史跡見学および古文書講座は台 風の影響で、本来なら2泊 3 日のところ、急遽 1 泊 2 日 で行うこととなった。初日は大阪にて、龍海寺、適塾等 福沢諭吉ゆかりの史跡を見学した後、小倉へと移動し、 大阪見学までのまとめとなる勉強会が開かれた。勉強会 では、全体を3つのグループに分け、『福翁自伝』の感 想をそれぞれ発表した。そこでまず、我々のグループの 参加者が口を揃えたのは「福沢のイメージが変わった」 ということである。学問を突き詰めた人という認識が あったせいか、自伝の中に語られる酒の悪癖、喫煙のエ ピソードは新鮮だったとのことである。また、「神罰冥 罰を恐れずに、気になることは実際に試してみる」、ア メリカ行きに際して「やりたいことに対しては相手が誰 であろうと曲げない」、といった意志の強さに感銘した という意見が出された。次にもし福沢諭吉が身近にいた らというテーマで話し合った。ここでは、「様々な考え を持っているので友達になり色々な話を聞いてみたい」 という意見が多かった一方で、「父親など身内にはいて ほしくない」と考えている人もいた。福沢のライフスタ イルは、現代の若者から見ても決して色褪せるものでは なかったのである。最後に『福翁自伝』の特徴について、 わかりやすい言葉で、さらにエピソードを取捨選択して 書かれたとの指摘がなされ、ここからも独立自尊の精神 を広める志の強さを確認することができた。 今回の講座に参加して、何よりも私自身慶應義塾・福 沢先生について見直す大変有意義な機会となった。厳し いスケジュールの中、充実した2日間を過ごせたことに 感謝したいと思う。(文責:加藤学陽) Cグループ(細野杏介、丸山智生、丹下紗矢香、仁科慎也、 増田貴子、小山太輝) 「福沢も普通の人間だったんですね!」福翁自伝を読 んだ学生たちの感想は正にこの驚嘆の一言に集約されて いた。慶應義塾に在籍する彼らにとって、福沢諭吉とい う存在は、母校を創設した人物であり、一万円札の人物 であり、教科書によれば啓蒙思想家、何をしたかはよく わからないがとにかく偉い、どこか神格化された存在で あったようだ。中には所謂「ガリ勉」のような勉強大好 き人間、または、とにかく真面目で立派な人物像を思い 描いていた学生も多数いた。(ただの勉強家ではなく、 目的なしの学問に没頭したというその姿に魅了されたと いう学生もいた。)彼らのイメージは福翁自伝に描かれ る福沢の破天荒な姿によって見事に崩され、また、実際 に目にした適塾の柱の刀傷や福沢の旧家を通し、「福沢 先生」ではなく「福沢諭吉」という一人の人間が正にそ こで生きていたことを感じることができたようだ。私自 身も百年以上経ても、なお自らの存在を等身大「かのよ うに」伝えることができるこの本に改めて驚かされた。 また、とても新鮮であった意見には「人は変れるのだ」 「人生に一度は中心地(大阪や江戸)に赴くことが大切で ある」というメッセージを感じたというようなものもあった。 慶應義塾では福翁自伝を配ってはいるが、慶應義塾ら しく強制する形はとっていないため、必ず全員が読んで いるわけではないかと思う。そのような塾生にとって福 沢はあまりに縁遠い、雲の上の様な存在になってしまっ ているのかもしれない。今回の旅を通し、また、福翁自 伝を通し、福沢諭吉が150年前に実際に生きた、血の通っ た人間であったということを知ってくれた塾生が一人で も増えたことは嬉しく思う。そして、僅かでも彼ら彼女 らの塾生生活にも何か良い刺激となってくれていたらこ れ以上の幸せはない。(文責 :小山太輝)

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学術調査

のためのデータベース

構築計画

について

平 山   勉

(経済学部訪問准教授 福沢研究センター研究嘱託) 「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトでは、「学 徒出陣」世代を中心に、「塾生データベース」(仮称)を 構築している。 これまでに白井厚名誉教授による共同研究「太平洋戦 争と慶應義塾」が当時の塾生にアンケート調査を実施し ていたが、「塾生データベース」は、これを福沢研究セ ンターと学生部が管理する塾内史料から補完するもの となっている。具体的には、塾生が入学時に提出した 「① 在学証書」、大学当局が作成・保管した「② 学籍簿」 「③ 成績原簿」、塾生が卒業時に提出した「④ 卒業学生 要録」の4つから構成されており、大学文書個票とも 言うべきものである。 データベースのコンセプトはシンプルで、これら4つ の史料をデジタル画像にした上で、一人ひとりまとめて いくというものである。これによって、汎用性の高さを 確保したいと考えている。作業の流れとしては、① 在 学証書から、「氏名」(含:フリガナ)「生年月日」「原籍地」 の3項目を入力して、まずは基礎となる<名簿>を作成 して、これらの項目を通じた名寄せによって、4つの史 料の画像を一人ひとりまとめる。これによって、「氏名」 などで検索をすることで、これまでは別々の冊子体で保 管されていた4つの史料を、デジタル画像で同時に閲覧 することが可能となる。そして、これを基盤として、項 目を追加的に入力することで、データベースを拡張して いく。以下、今後の方向性について、簡単に展望してみ たい。 ②学籍簿には、入学年月日、卒業年月日(退学年月日) があり、これを入力することで、在学者数を1日刻みで 把握することが可能となる。これにより、たとえば、徴 兵猶予の特例が撤廃された1943年10月 1 日在学者数 が判明し、在籍学部を追加して、入力済みの生年月日と あわせることで、特例撤廃の対象となった在学者数を絞 り込むことができる。また、実際に入隊した者について は、① 在学証書、③ 成績原簿に、「入営」などのスタン プ印があり、これを入力することで、その数を把握する ことが可能となる。入隊後の軍歴に関しては、④卒業学 生要録に記載されているものがあるので、これを追加入 力することが基本線となるが、塾内文書では判明しない ことも多いため、都倉武之准教授が中心となって入力を 進めている戦友会誌の塾員関係者の軍歴情報や、白井厚 名誉教授によるアンケートの軍歴欄との接続で、データ ベースを拡張しつつ補うことになるだろう。 その他にも、①在学証書などからは塾生の住所が判明 するため、これを入力することで「学生街」を把握する ことができるかもしれない。これと不動産情報を接続す ることで、「学生街」が地価に与えた影響を分析するなど、 経済史・都市史などの歴史研究への展開も見込まれる。 なお、このデータベースはプライバシー等との関係か ら公開の予定はなく、学術調査目的で限定的に分析結果 を公表していくことになる。

調査及

資料収集

報告

横 山   寛

(福沢研究センター調査員) 2014年 1 月から現在まで、のべ31の聞き取りを行っ た。陸海軍に入営入団した方々、在学中に終戦を迎えた 方、幼稚舎疎開学園を体験された方など、さまざまな体 験を持つ塾員にお話しいただいた。また、海軍兵学校を 経て戦後に慶應に入学した方、当時塾生と交流のあった 女性など、より多様な体験を記録するという点に配慮 している。そのため塾員の卒業年の幅も昭和14年∼昭 和30年代と広くなった。また東京近郊だけでなく札幌、 広島、高知など各地を訪れての聞き取りも行っている。 5月24日には、日吉で行われた卒業後51年以上塾員 招待会に塾員センターの協力を得て参加、来場した方々 へのビラ配りや後日の聞き取りへの協力をお願いした。 今後はこのとき協力をお願いした方を中心に聞き取りを 進めていく予定である。

なオリジナル

資料寄贈

□八木田淳一郎関係資料(姪・高島紀代子氏寄贈) 八木田は昭和13年経済学部予科入学、18年 9 月繰上 卒業。陸軍航空隊で任務に従事、復員後の23年小倉 で死去。資料は日章旗、遺書、家族への手紙など。 □森田洸一関係資料(甥・森田和裕氏寄贈) 森田は昭和22年幼稚舎卒、昭和33年文学部卒。資料 は幼稚舎在学中に伊豆・修善寺へ集団疎開したときに 家族と交わした往復葉書約100点。 □河合次郎関係資料(御令妹一同寄贈) 河合は昭和16年法学部政治学科予科入学、18年学部 1年時に学徒出陣で陸軍入営。19年 7 月サイパンに て戦死。資料は遺書、アルバム、妹自筆の遺影など。 □白井厚研究会調査資料(白井厚氏寄贈) 経済学部白井厚研究会が収集した資料や私家版の個人 史、塾員へのアンケート調査の回答など。定年退職した頃 の戦争体験当事者から直接入手した資料が多数を占め ており、いまでは収集困難で貴重な資料群になっている。 他にも、シベリア抑留時に自作したスプーン、最後の 早慶戦メンバー署名の日の丸、勤労動員時の腕章、私家 版自伝など様々な資料が集まってきている。これまでの ところ300ほどの整理が済んでおり、未整理の資料に ついては作業を継続中である。

「慶應義塾

戦争」

アーカイブ

プロジェクト

活動報告

「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト 

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 新収資料紹介 平成26年 3 月から平成26年 8 月までの間に、福沢研究センターに収蔵された主な資料を紹介します。多くの方々か ら貴重な資料をいただきながら、すべての資料をご紹介することができず申し訳ありません。(物故者敬称略) 福沢諭吉関係資料 ■漢詩「黒雲吐明月 霖雨報晴天 天変与人事 由来不偶然 為酒井君 偶成」 1 幅 【故本多平四郎氏寄贈】 黒雲明月を吐き 霖雨晴天を報ず 天変と人事と 由来偶然ならず 黒雲に蔽われていると思うと、その雲の中から明るい月が出てくる。長雨で滅入っていると、必ず晴天になる。天 空の変化と人間世界の出来事の来歴は似たようなもので、由来は偶然ではなく、悪いことの後には必ずよいことがめ ぐって来るものである。(『福沢諭吉の漢詩35講』p.114参照) 「為酒井君」の酒井は、酒井良明。嘉永 5(1852)年、福井藩士の家に生まれた。明治 7(1874)年11月に慶應義塾に 入学する。入学当初、部屋の押し入れに長い刀をしまっていたのを福沢が見つけ、翌日「学んで富み、富みて学びとい う途を知っているか。武士でも金を儲けることを知らなくては駄目だ」と諭されたという。卒業後、10年に松平春嶽の 孫が慶應義塾幼年局に就学すると、その教育係を任された。13年に三重県津中学校の創設に伴い教員として赴任する が、15年末に帰京し、翌年より慶應義塾および慶應義塾幼稚舎で教員を務めた。幼稚舎の卒業生が進学する際、すぐに 本塾の年長者たちと生活することは不安が大きかったので、酒井が私邸に20ほどを引き受け、「酒井寄宿舎」と呼ば れた。その為人は福沢が信頼するところで、明治12年 9 月25日付草間時福宛書簡には、「人物は無申分、実着の士なり」 と書かれている。 本多平四郎は、酒井良明の孫にあたる。昭和17(1942)年経済学部卒。 ■鈴木島吉宛福沢諭吉書簡  明治25(1892)年10月12日 1 幅 【購入】 ロンドンへ差し出す手紙についての仲介の労に感謝するもの。鈴木島吉は静岡県浜松の出身で、慶應 2 年の生まれ。 明治21年 4 月に慶應義塾に入学した。卒業後は、横浜正金銀行に勤めた。この書簡の当時、横浜正金銀行の支配人は 同じく慶應義塾に学んだ小泉信吉で、福沢は当初書簡を小泉に託そうとしたが、「小泉氏不在」につき、代わりに鈴木 が請け負うことになった。福沢は感謝を述べ、さし たる急用でもないので、郵船の都合に合わせて17 日の便で差し出してくれるよう頼んでいる。 この書簡では、ロンドンに差し出す手紙について 具体的には書かれていないが、おそらくは三女俊 の婚約者であった清岡邦之助宛ではないかと思われ る。清岡は23よりイギリスに留学していた。同 人に宛てた25年10月 8 日付の手紙がある。 この書簡は『福沢諭吉書簡集』(全 9 巻、岩波書店、 2001∼2003年)未収録のものである。 ■山口広江宛福沢諭吉書簡  明治19(1886)年 5 月14日 【購入】 姪にあたる徳田しほの引き取り方について、小田部武が訪ねるので助言してくれるよう依頼したもの。しほは、福 沢の末姉服部鐘の実娘で、なにか訳があって(この書簡では「幼少の時より不仕合にて今日に至り」とある)徳田家の 養女となっていた。福沢はこの姪を気にかけていて、明治16年 4 月24日には本人に宛て、忙しくて無沙汰をしてしま うが常に心にかかっている存在であることを告げ、品物を贈りたいが何が良いかわからないからと小遣いを送ってい る。この書簡では成長しても未だ良縁にも恵まれないのを不憫に思い、いったん服部のもとに引き取り今後のことを 考えるため、山口に養父母の事情などを考慮したうえでの周旋を願っている。この後しほは結婚するが、明治26年初 めての出産で難産がもとで死去。福沢は「近年こそ少々気楽」になったところで不幸に見舞われ、誠にかわいそうだと 述べている(3 月 4 日付服部鐘宛書簡)。 慶應義塾関係資料 ■故織田恭輔収集資料 計17点 【故織田恭輔氏寄贈】 小泉久作宛慶應義塾書簡(明治36年 4 月22日付 子息成績表の送付に添えられたもの)、慶應義塾学生端艇競漕会招待 状(大正 4 年 9 月付)、薗部一郎宛小泉信三書簡(昭和18年 1 月14日付 慶應義塾における農業教育への協力願い) ほか 織田恭輔氏は、昭和27(1952)年法学部卒。

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梨花史学研究所と部局間協定締結/主な動き  梨花史学研究所と部局間協定締結 ■韓国梨花史学研究所との協定 2005年11月26日、李培鎔梨花女子大学史学科教授を お招きしての講演会「韓国近代開化思想に見られる女性 観」を開催以来、ソウルにある梨花女子大学との交流を 続け、今年 1 月には当センターから岩谷所長および西 沢教授が梨花女子大学を訪問、それぞれ「北東アジアに おける法文化と法のシンボリズム」、「福沢諭吉の近代 化構想と女性」をテーマに発表を行った。また2月には 3の短期研修生を受け入れた。これらを機に両機関で は、さらなる発展をめざし、歴史に関する諸研究分野に おける学術研究の 推進、大学院生を 含む研究者交流を はかることを目的 とする部局間の協 定を結ぶ こ と に なった。   7 月22日に梨花史学研究所所長白玉敬(ペクオッキョ ン)および崔碧茹(チェヘビョル)両先生が来日され、 24日に「開港期訳官キム・キョンスの対外認識―『公報 抄略』を中心」(白先生)「宋元時期 検験知識 の集積と整 理―『洗冤集録』と 『無冤録』を中心に」 (崔先生)を テ ー マ にワークショップを 行ったあと、長谷山 常任理事も臨席のう えで協定が結ばれた。

らせ

◆大阪での福沢研究センター講座◆ 2008年度から行われている大阪シティキャンパ スのセンター講座を本年度も開講する。今回は「新 解釈・福沢諭吉の実学」をテーマに、5 回の講座を 行う。講座名と担当は以下のとおり。 第 1 回11月 1 日(土)サイヤンス の方法と文明の 作法(下村裕)、第 2 回12月20日(土)福沢諭吉と 会 計の近 代 化(友 岡 賛)、 第 3 回2015年 1 月31日 (土)家族も 学問 である―福沢の生きた家族(西 沢直子)、第 4 回 2 月21日(土)自治と実学―福沢 の地方自治思想(石川一三夫)、第 5 回 3 月21日(土) 幕末・維新期の 実学 思想―『学問のすゝめ』の視 座(小 室 正 紀)。 詳 細はhttp://www.korc.keio.ac.jp/ 主な動き ■服部 次郎記念基金の設置 服部悦子様より指定寄付金を頂戴した。これを原資と して基金を設置、今年度より運用を開始した。 ■福沢諭吉の家族論をめぐるワークショップ 9月12日、「福沢諭吉の家族論」を テ ー マ に ワ ー ク ショップを開催した。発表者はマリオン・ソシエ氏(フ ランス国立東洋言語文化大学教授)、ボールハチェット 経済学部教授、西沢教授。 ■センター公開講座 日吉キャンパスで開講している設置講座「近代日本と 福沢諭吉Ⅰ」では、今年度もゲストスピーカーをお招き して公開講座を開催、塾員の神代忠男氏( 6 月16日)、 早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸氏(6 月23日)、岩井 忠正氏(6 月30日)、清家塾長(7 月 7 日)に特別講義を お願いした。 ■乳母車の貸出し 7月30日∼8 月 5 日まで、日本橋三越本店で開催さ れたストローラー・エキシビションに福沢が子供たちの ためにアメリカから持ち帰った乳母車が展示された。 ■南書庫作業室の床材張り替え 福沢研究センター南書庫の作業室部分は床の絨毯が 所々激しく磨耗していたため、8 月 9 日∼17日にかけて 工事を実施、ビニール製の床シートに張り替えた。 ■資料の燻蒸 8月 8∼17日、資料の燻蒸を行った。昨年、服部家か ら寄贈された資料約5,500を含む大量の資料が対象と なり、例年 1つで納まっていたテントを4棟設営し、東 館にて実施した。 ■展示協力 福沢研究センターとして展示に関する企画協力・資料 提供を行った。協力先は下記のとおりである。 ・「上山ゆかりの起業家 奥山春枝の生涯」上山城郷土 資料館(山形)  平成26年10月11日(土)∼11月24日(月 ・ 祝) ・「早矢仕有的特別展」山県市文化の里古田紹欽記念館 (岐阜)  平成26年10月 7 日(火)∼12月14日(日) ・「お札の肖像∼時代の開拓者たち∼」福沢記念館(大分)  平成26年11月 1 日(土)∼12月14日(日)

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慶 應 義 塾 福 沢 研 究

センター

通 信   第 21号

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Fukuzawa Memorial Center for Modern Japanese Studies, Keio University 発行日 2014年 9 月30日 (年 2 回刊) 編 集 発 行 慶應義塾福沢研究センター     〒108-8345 東京都港区三田 2−15−45     電 話 03−5427−1604     http://www.fmc.keio.ac.jp/ 印 刷 (有)梅沢印刷所 ■諸会議 * 平成26年度執行委員会(4月22日、5月27日、7月30日、9月30日) * 『慶應義塾150年史資料集』編纂委員会( 5 月21日) * 平成26年度第 1 回福沢研究センター会議( 6 月 4 日) * 平成26年度第 1 回運営委員会( 7 月 2 日) * 小泉基金運営委員会( 7 月17日) * 『近代日本研究』第31巻編集委員会(8月29日、9月29日) ■人事 〈所 員〉  新任 馬場国博(湘南藤沢中・高等部) 4 月 1 日∼      新任 上野大輔(文学部)       4 月 1 日∼      新任 梅津光弘(商学部)       7 月 1 日∼      退任 小野修三(商学部)     ∼ 3 月31日 〈事務局〉 異動 清野早苗(主務)横浜初等部  6 月 1 日付         竹屋早月(主務)福沢研究センター 〃      退任 柄越祥子(非常勤嘱託)   ∼ 3 月31日      新任 渋沢彩佳(非常勤嘱託)     4 月 1 日∼ ■主な来往 以下、戦争プロジェクトに関連する聞き取り調査には(聞) を付す。 * 塾員高瀬誠一氏来訪(聞)( 4 月 1 日) * 大谷正次氏、資料寄贈のため来訪( 4 月 1 日) * 高梨一郎氏来訪( 4 月15日) * 塾員山田健三氏来訪(聞)( 4 月18日) * 塾員岡本進氏、資料寄贈のため来訪( 4 月21日) * 塾員郷倉正明氏、資料寄贈のため来訪( 5 月12日) * 塾員河西宏和氏、資料寄贈のため来訪( 5 月14日) * 塾員増山治一郎氏、資料寄贈のため来訪( 5 月16日) * 中津市議会議員中村詔治氏ほか3名来訪( 5 月21日) * 坂の上の雲ミュージアム川島佳弘氏来訪( 5 月29日) * 逸翁美術館・池田文庫館長伊井春樹氏来訪、資料を閲覧( 6 月 9日) * Juan L Fuentes 氏(ガテマラ・ダヴィンチ大学)来訪( 6 月10日) * 憲政記念館若林智伸氏ほか2名来訪( 6 月12日) * 関西大学教授大谷渡氏来訪( 6 月19日) * 塾員常磐昌資氏来訪( 5 月12日、6 月19日) * 塾員白石禎彦氏来訪( 6 月25日) * 塾員佐々木明氏、資料寄贈のため来訪( 7 月 2 日) * 神奈川県立歴史博物館千葉毅氏来訪( 7 月17日) * 塾員田村利一氏(聞)( 7 月24日) * 桑野名誉教授ほか、資料寄贈のため来訪( 8 月 4 日) * 塾員畠山茂氏(秋田三田会)来訪( 8 月25日) * 客員所員マリオン・ソシエ氏来訪( 9 月 2 ∼19日) * 岐阜県山県市古田紹欽記念館毛利佐知子氏、鷲見佐知子氏来訪 ( 9 月 4 日) * 福沢旧邸保存会浅原由紀子氏、中津市教育委員会吉川和彦氏 来訪( 9 月16日) * 田端倭馬氏ご夫妻来訪( 9 月17日) * 塾員安井裕二郎氏来訪( 9 月19日) * 東海大学非常勤講師久野幸子氏、資料閲覧のため来訪(9月22日) * 米山奈加子氏来訪( 9 月27日) ■出張・見学 * 都倉、葉山でメディアコム合宿( 4 月 4 ∼ 6 日) * 都倉、茗荷谷の故井上進氏宅訪問( 4 月 9 日) * 西沢、田口調査員、島田裕子氏を訪問、故本多平四郎氏旧蔵 資料の寄贈を受ける( 4 月15日) * 都倉ほか、上原登志江氏を訪問(聞)( 5 月11日) * 都倉ほか、京都大学、立命館大学を訪問( 5 月14日) * 都倉、京都慶應倶楽部寺村正三氏を訪問( 5 月15日) * 西沢、福沢旧邸保存会評議員会出席のため中津( 5 月15日) * 都倉ほか、銀座 BRBサロンを訪問(聞)( 5 月19日) * 結城所員、塾員芳賀日出男氏を訪問(聞)( 5 月20日) * 都倉、石田、岩井忠正氏を訪問(聞)( 5 月22日) * 都倉、石田、塾員石井公一郎氏を訪問( 6 月 5 日) * 西沢、韓国梨花女子大学を訪問( 6 月11日) * 西沢、韓国延世大学原州キャンパスを訪問( 6 月12日) * 西沢、韓国漢陽大学開催の学会に出席、その後建国大学を訪 問( 6 月13日) * 都倉ほか、資料閲覧のため、世田谷美術館( 6 月17日) * 都倉、塾員鈴木和男氏を訪問(聞)( 7 月 1 日) * 都倉ほか、長野上原家にて調査・撮影( 7 月26∼28日) * 都倉、石田、大岡昭男氏を訪問(聞)( 7 月31日) * 西沢、資料返却のため銀座和光( 8 月20日) * 都倉、広島・呉でメディアコムのゼミ合宿( 8 月27∼29日) * 都倉ほか、高橋よし子氏を訪問( 9 月 4 日) * 都倉ほか、木名瀬信也氏を訪問( 9 月 5 日) * 都倉ほか、長野の上原家にて調査( 9 月 6 ∼ 8 日) * 都倉ほか、わだつみのこえ記念館で資料調査( 9 月12日) * 石崎、田口調査員、浜松の伊東家にて調査( 9 月17∼19日) ■講師派遣 * 西沢、信濃町新任職員オリエンで講演:「慶應義塾と福沢諭吉・ 北里柴三郎」( 4 月 1 日) * 都倉、信濃町研修医・専修医オリエンで講演:「慶應義塾と 福沢諭吉・北里柴三郎」( 4 月 1 日) * 都倉、中等部新入生向け特別授業で講義:「慶應義塾の塾生 になるということ」( 4 月10日) * 西沢、SDMの合宿で講義:「福沢諭吉と慶應義塾」( 4 月12日) * 西沢、経済学部の授業で講義:「小幡篤次郎と洋学の導入」 ( 4 月18日) * 都倉、船橋三田会で講演:「『脱亜論』をどう読むか?」(4月26日) * 西沢、すみだ女性センターすばるの会で講義:「福沢諭吉と 女性」( 5 月 1 日) * 都倉、山本敏夫記念文学部基金講座で講義:「学徒出陣と慶 應義塾」( 5 月20日) * 都倉、日本医史学会に参加、九州国立博物館で日本医大志村 敏郎氏と共同発表:「福沢諭吉の脳卒中発作における病床日 誌と手習い反古」( 6 月 1 日) * 都倉、SFC「慶應義塾入門」で講義:「戦時の塾生と慶應義塾」 ( 6 月 6 日) * 都倉、文明塾で講義:「戦時下の学生について考える―慶應義 塾を例として」( 6 月 7 日) * 都倉、SFC 中等部 1 年道徳特別授業で講義:「慶應義塾の塾 生になるということ」( 6 月19日) * 都倉、教養研究センター「日吉学」で講義:「探訪、日吉の戦 争遺跡」( 6 月21日) * 西沢、福沢諭吉記念文明塾で講義:「家族の風景―福沢にお ける 共同体 の原像」( 6 月21日) * 西沢、成田市男女共同参画週間講演会にて講演:「近代家族 について―福沢諭吉の女性論・家族論を中心に」( 6 月24日) * 都倉、海外の高校教員に福沢諭吉・慶應義塾の説明(6月27日) * 都倉、自分史フェスティバル2014で講演:「大学と戦争」( 8 月 12日) * 米山所員、港区立生涯学習センターで講義:「近代教育のは じまりと東京の小学校」( 9 月10日) * 西沢、千葉市民文化大学で講義:「福沢諭吉の近代化構想」(9月 10日、9 月17日) * 西沢、すずかけひろばで講演:「福沢諭吉の女性論」(9月27日) ■その他 * 平成26年度福沢研究センター設置講座ガイダンス 三田( 4 月 2 日)、日吉( 4 月 4 日) * 資料の燻蒸( 8 月 8 ∼17日)  福沢研究センター諸記録(2014年 4月~2014年9月)

参照

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