【活動報告】
東京都立中央図書館・東京都公文書館共催 東京文化財ウィーク 2015 参加企画展江戸城から明治宮殿へ
―首都東京の幕開け―
東京都公文書館 史料編さん係篠﨑 佑太
1 展示開催の経緯 東京都は毎年「東京文化財ウィーク」として、都 民に文化財を身近に感じてもらうため、都内にある 文化財を一斉に公開する特別公開事業と、文化財め ぐりや講座などを行う企画事業を実施している。平 成 27 年度、東京都公文書館は企画事業として東京 都立中央図書館との共催展示「江戸城から明治宮殿 へ―首都東京の幕開け―」(以下、当展示)を平成 27 年 10 月 31 日 ( 土 ) ~ 11 月 15 日 ( 日 ) の 期 間 で開催した。 江戸城や皇居は、現在まで江戸・東京を代表する 馴染みの深い建築物であるが、その江戸から明治に いたる変遷や、現在の皇居に続く過程については知 られていないことも多い。当展示では、東京都立中 央図書館の所蔵する重要文化財「江戸城造営関係資 料(甲良家伝来)」と明治宮殿の造営にかかわった 木 き こ 子家に由来する「木子文庫」、東京都公文書館の所蔵する重要文化財「東京府・東京市行 政文書」を中心に、江戸城から明治宮殿への変遷を通じて江戸から東京への歩みを紹介した。 そのねらいは、これまで詳しく知られていない「皇城」と「明治宮殿(宮城)」の実態や、 明治初年の東京の様子を都民に知ってもらう点などにある。 本稿では、当展示で使用した史料を示し、展示構成などその概要を紹介する。また来館者 へ実施したアンケートの結果をまとめ、成果と課題を総括していきたい。 2 展示構成と出展史料 ここでは展示構成の順に出展した史料を紹介しながら、当展示全体の概要を示していく。 なお出展史料の一覧は、関連年表と共に本稿末に掲載してあるので、あわせて参照していた だきたい。また本文中の展示番号は、文末の展示史料一覧に対応するものであり、各史料の 詳しい情報については、図録 ( 都立中央図書館HPにてPDFデータを公開 ) を参照されたい。Ⅰ 江戸から東京へ 本章では、明治政府の基盤ともなる「東京」の成り立ちや、明治天皇の行幸にともない東 京で実施された祝祭や儀礼に注目して、移行期の変化の概要を紹介している。 幕末の江戸城は、安政6(1859) 年 10 月の火事で本丸が焼失し、文久3(1863) 年6月の火 事で西丸が焼失した。いずれの火事の際もすぐに再建のための普請が実施された。ところが 文久3年の西丸再建普請中に本丸が焼失したことによって、元治元 (1864) 年、一部に本丸 の機能も包含した西丸が再建された。これ以降、本丸が再建されることはなく、慶応4( = 明治元、1868) 年正月の段階では、西丸御殿が残るのみであった。展示では幕末の江戸城の 様子を示すため、太政官の役人であった蜷 にながわのりたね 川式胤らが中心となって撮影された写真(展示番 号3)などから 10 枚ほどを選び、明治初年に荒廃しつつあった江戸城の様子を紹介した。 慶応4年正月に戊辰戦争が始まると、江戸では2月に上野寛永寺に徳川慶喜が謹慎し、3 月に三田薩摩藩邸における政府軍参謀の西郷隆盛と勝海舟の会談を経て、4月 11 日に江戸 城が開城された。同 21 日には東征大総督である有栖川宮熾仁親王が江戸城へ入城し、実質 的に政府へ引き渡されていった。史料では有栖川宮が江戸城へ入城する際の町触を紹介し、 その具体的な様子を示した(展示番号4)。 江戸城が新政府へ引き渡されたことに象徴されるように、新政府の方針のもと江戸もさま ざまに変化していく。慶応4年7月に江戸は東京と改称され、江戸城は行宮の呼称を経て、 10 月 13 日の明治天皇の行幸にあわせて東京城と改められた。明治天皇の東幸にあたっては、 東京府民へ酒 3,000 樽余を下賜し、町の大きさにあわせて分配された。これにあわせて家業 の差し止めが命じられていたため、大いに賑わったという(展示番号5、8)。また明治天 皇の大嘗祭(天皇の即位礼後、はじめて開催される新嘗祭)は、維新後の混乱もあり明治4 年 11 月になって東京にて実施された。当日は各地の神社でも相応の神事を開催するよう命 じられたほか、東京では山車なども出され祝典が催された(展示番号6、7)。 明治天皇の東幸に際しては、江戸・東京内でも多くの反発があったことが想定される。し かし一面では、紹介したような祭事・儀式に東京の人びとも多く参加しており、徐々にでは あるが明治天皇、新政府という存在が浸透していった様子をみてとることができるだろう。 御酒頂戴(展示番号8)
Ⅱ 明治政府と皇城 第1章では江戸から東京への移行について、新政府軍の進軍や明治天皇の東幸などを紹介 した。本章では江戸城から東京城・皇城への変遷や東京の変化について紹介していきたい。 明治天皇の東幸に際して改称された東京城は、明治2年3月の再幸にともなって皇城と改 められた。これに前後して皇城内に政府組織の整備がすすめられる。明治元年閏4月の政体 書によって「天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス」とされ、太政官が政府の意思決定機関と定 められ、明治2年の再幸を前に太政官は二条城から皇城へ移された。その後、皇城内には宮 内省などが設置され、各省が太政官へ上申する際の控室や府藩県官員の控室も設けられてい る。これまで格式や役職などによって割り振られていた江戸城西丸の各部屋は、明治政府の 役職や省庁・府藩県の控室に当てられていたのである。展示では、明治2年8月の様子を示 すと考えられる「皇城絵図面」(展示番号13)と幕末期の江戸城西丸の様子を表した「江戸 城西丸仮御殿御表向御中奥大奥向総地絵図」(展示番号12)を並べて展示し、江戸城内の 黒書院が太政官に、御三家の詰間が外務省の控室などその変遷を理解しやすいように示した。 明治2年の再幸前に、皇城には宮中三殿が増設され、同年 10 月には皇后(昭憲皇太后) も東京へ行啓され皇城に入るなど、明治天皇の居所として整備が進められる。その様子は、 「皇居御造営誌下調図」から明治元年 10 月、同2年3月の皇城 ( 東京城 ) の図面を示し増築 の様子を紹介した(展示番号14)。 これらの行幸行啓に あわせて、多くの公家 も東京へ移住した。展 示ではまず公家が見た 江戸の様子を示すため に、明治天皇の外祖父 である中なかやまただやす山忠能が明治 元年 10 月に江戸から京 都に宛てた手紙を紹介 した(展示番号21)。 幕末の江戸城は本丸機 能も併せて作られた手 狭な西丸が政庁であったが、中山にすれば広く大そう成るものとして映った点は、武家側と の認識の違いが判明し興味深い。また公家の住居について、明治政府は東京府を経由して旗 本の屋敷などを上地しており、それを貸し与えていたようである。明治5年には、公家華族 が東京府の貫属になるにあたって東京か京都の屋敷地のどちらかを選ばせるなどの対応をし ている(展示番号18~20)。 これら皇城や町々の変化からは、江戸時代と異なる都市空間が東京に醸成されていったこ とを指摘できるだろう。 Ⅲ 移り変わる東京の政治空間 明治2年以降、徐々に整備されていった東京の都市空間であったが、明治6年5月に起き た火災で皇城とその一帯が焼失したことにより一変する。天皇の居所は、赤坂にあった紀州 展示風景(第2章)
徳川家の屋敷を利用して赤坂仮皇居として整備された。本章では、この仮皇居の様子につい て紹介している。 皇城内にあった宮内省は仮皇居内に設置され、明治 10 年には一時離れていた太政官も仮 皇居内に移転される。武家屋敷を転じて増改築された仮皇居は和洋入り交じり、移行期の様 子をよく示している(展示番号22)。仮皇居内を描いた錦絵からは、畳上に絨毯を敷き椅 子に腰かける洋装の明治天皇と和装の皇后(昭憲皇太后)や女官が描かれ、服装など文化の 違いも象徴的である(展示番号23)。また、明治 14 年には敷地内には御会食所(現在の明 治記念館)が建設され、外賓の接待や大日本帝国憲法審議に利用されたことはよく知られて いる(展示番号26)。 Ⅳ.近代国家の象徴「明治宮殿」 赤坂仮皇居の拡充と並行して、明治6年5月の皇城炎上直後から、皇居再建に向けた動き は始まっていた。本章では、明治 22 年2月に明治宮殿(宮城)で開催された憲法発布式を 終着点とし、そこに至るまでの明治宮殿建設の過程を紹介している。 本章の中心となる史料は、明治宮殿の造営にあたって中心的な役割を果たした木き子清こきよよし敬の 関係史料である。木子家は代々内裏の作事に関わる大工の家であり、清敬は宮内省に出仕後 青山御所、皇居、御用邸など皇室関係の建築設計にたずさわった。そのため明治宮殿の完成 図はもとより建築物の草案などその過程を知ることが出来る史料が多い。 例 え ば 江 戸 城 で も 採 用 さ れ て い た 書 院 造 に 似 た 構 造 が 明 治 宮 殿 内 で も 取 り 入 れ ら れ て お り、天皇家や皇族の 格式や役職によって 床の高さが異なるよ う格式を視覚的に把 握できる工夫が施さ れていた(展示番号 3 8、 4 2)。ま た 明治宮殿を立体的に把握できる起し絵図は宮殿が焼失してしまった現在において、当時の様 子を知ることが出来る貴重な史料であるといえる(展示番号39、40)。 当展示の最後は明治 22 年2月に明治宮殿で開催された憲法発布式である。発布式の様子 を示す錦絵(展示番号46)では、洋風の宮殿のなかで洋装をした明治天皇以下が描かれて おり、洋和装の交った仮皇居の様子(展示番号23)とは対照的である。このように段階的 な変化を経て、明治宮殿をはじめとした建築様式、江戸・東京の町々、人々の服装に至るま で近代への歩みがすすめられていったのである。 3 成果と課題 当展示は 15 日間の開催期間のなかで、のべ 6,010 名の方にご観覧いただいた。アンケー 展示風景 (第4章 起し絵図)
トにご回答をいただいた方の年代をみると、〈10 代:2%、20 代:4%、30 代:9%、40 代: 18%、50 代:22%、60 代:24%、70 代:15%、80 代以上:5%、無回答:1%〉であった。 当展示は、おおよそ 40 代以上の方を中心にご観覧いただいたことがわかる。開催期間のほ とんどが平日であったこともあってか、30 代以下の方は少ない。文化財を身近に感じても らうという趣旨や、文化財保護を次世代へも引き継ぐという点を考えれば、今後 30 代以下 の世代にどのように広報していくのか、という点が喫緊の課題といえるだろう。 次に展示内容についてアンケートの集計結果を分析していくと、「今回の企画展はいかが でしたか?」については、〈大変よかった:32%、良かった:63%、あまり良くなかった:3%、 良くなかった:0%、無回答:2%〉との結果が示され、展示の総体として概ね好評をいた だいたといえる。また展示の内容について「どの展示物に興味をお持ちになりましたか(複 数回答可)」には〈①江戸から東京へ:30%、②明治政府と「皇城」:23%、③移り変わる東 京の政治空間:9%、④近代国家の象徴「明治宮殿」:19%、⑤第2会場:14%。その他:2%、 無回答:3%〉との結果が示された。会場には写真や錦絵、絵図面など多くの図面類を展示 したが、第1章部分には明治4年に撮影された江戸城の写真を紹介しており、より具体的に 明治初年の様子を知ることができたことが、好評につながったものと考えられる。 また、東京都公文書館の認知度については〈以前から知っていた:43%、以前に利用した ことがある:9%、今回の展示で初めて知った:48%〉となり、およそ 50%の認知度であっ た。今年度は、5月の大型連休中に開催した「延遼館の時代」展などもあり、多くのメディ アに取り上げていただき、都民の方々にも公文書館の名前は大分周知されていることがうか がえる。今後は、名前のみならず仕事や機能にいたる点まで理解していただくことが必要と なるだろう。こうした活動が利用の促進にもつながっていくと考える。 展示内容について具体的にいただいた回答をみると、「中々江戸城が新政府にどのように 使われていくかの経緯がわからなかったが一目にして分った」や「江戸城から明治宮殿への 流れが良く理解できた」など、江戸から東京、江戸城から明治宮殿にいたる過程といった、 当展示のねらいを理解いただけたようである。また「ギャラリートークで要点を解説して頂 き嬉しかったです」や「ギャラリートークが面白かったです」など、週に2~3回ほど開催 したギャラリートークがこうした理解につながったものと考えられる。 一方で、「展示物が少ない」というご指摘をいただいた。展示スペースは限られており、 そこでいかに満足いただける展示を実施するか、今後も取り組んでいきたい。また「全体的 に説明不足」やパネル解説を「分かりやすくしてほしい」というご意見もいただいた。今回 は特に建築関係の史料も多く、専門用語なども多かったように思われる。パネル解説を充実 させることはもちろんであるが、用語解説シートなど展示を補足する資料を用意する工夫が 必要だったと思われる。この点については次回以降の展示に活かしていきたい。また、展示 担当者の力量不足から事実関係にかかわるご指摘もいくつかいただいた。以後は誤解のない より丁寧な叙述が求められよう。この点も次回以降の課題としていきたい。 最後に、展示の成果を総括したい。当展示では、①明治維新後の江戸城の使われ方、②江 戸城→東京城→皇城→仮皇居→明治宮殿(宮城)そして現在の皇居につながる変遷、③明治 初年にあって明治天皇をはじめ皇室、宮殿などの和洋をめぐる見せ方、この3点については、 アンケート結果から大よそ理解していただけたように思う。これらは見落とされがちではあ るが、現代につながる近代日本の様相を描くうえでは不可欠な要素である。今後とも江戸・
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