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書評:数式から逃げない行動経済学の解説書『「意思決定」の科学―なぜ,それを選ぶのか』川越敏司(著)

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10 行動経済学 第 14 巻 (2021) 10‒12

書評:数式から逃げない行動経済学の解説書

『「意思決定」の科学―なぜ,それを選ぶのか』

川越敏司(著)

講談社ブルーバックス,2020 年

竹内 幹

a 意思決定に欠かせない要素をコンパクトに解説 本書は,実験経済学の分野で多くの著作をもつ川越敏司 教授が,個人の「意思決定」を経済学的に解説したものだ. 意思決定を分析する経済学モデルを概観するためには,数 式を使った解説が欠かせない.数式を使わずに概念だけを かいつまんで解説する一般書とは異なり,数式の読解もい とわない読者を想定した本書の丁寧な解説に読み応えを感 じることができる. 3 章構成の本書は,第 1 章「期待効用理論」で意思決定 理論の基本モデルをまず学ぶことができる.第 2 章「プロ スペクト理論」で,その基本モデルと現実の意思決定の矛 盾を突き付けるパラドックスがいくつか紹介され,基本モ デルを拡張発展させたプロスペクト理論の意義がわかる仕 立てになっている.前半はリスク選好の理論の解説にあて られるので,後半の第 3 章「時間選好・社会的選好・認知 能力」では,その他の意思決定がまとめて扱われている. リスク選好に関連しないもの全部を後半の第 3 章に詰めこ んだように感じられるものの,最後の節は「リスク選好・ 時間選好・社会的選好・認知能力の統一」となっており, 一定の統一感とまとまりをもって本書は完結している. 「意思決定」の科学は,選択の科学でもある.私たちは 人として,日々,多くの選択をしているし,その選択の連 続が生活を形作っているともいえる.朝,何時に起きるか, 何を着るか,何を食べるか,どんな晩御飯を用意するか, 平日ならどんな仕事から手を付けるか,メールにどんな文 章を書くか,休日なら外出するかしないか,部屋を片付け るかどうか,シーツを洗濯するかどうか,誰と会うか,何 を話すか.ひとつひとつの選択がその日一日を形作ってい る.こうした日々の選択だけでなく,人生を大きく左右す る選択も重要だ.たとえば,大学に進学するかどうか,ど こで働くか,どこに住むか,結婚するかしないか,誰と結 婚するのか,子どもは…, といった選択である. これらの個別具体的な選択をひとつひとつ詳細に観察し ただけでは科学にはならない.それらを包括的に分析する ために,個々の選択にひそむ本質を抽象化する必要があ る.個々の選択はそれぞれの表象こそ異なるものの,考慮 対象となった選択肢は,便益と費用の面で特徴づけること ができる.ここで,「朝何時に起きるか」を決める意思決 定について考えてみよう.朝早く起きれば,三文の徳とし て通勤時の混雑を避けられる便益を期待できるが,同時に そこには,睡眠時間が少なくなる費用をともなう.便益が 費用を大きく上回れば朝早く起きるという選択がなされる だろうし,費用のほうが大きければ早起きは見送られるは ずだ.私たちはこうした費用便益分析を厳密に行っている わけではないが,意識することなく,便益と費用とを勘案 して意思決定を行っているはずだ.快・不快でこのように 物事をみるのが経済学の基本である. しかし,快・不快の比較,費用と便益の計算は単純にモ デル化できるものではない.選択にまつわる重要な要素と して他に,①不確実性,②タイミング,③社会性の 3 要 素が挙げられるだろう.たとえば,「どこで働くか」の費 用と便益の計算には,この 3 要素が密接にかかわってい る.まず,就職先の労働環境や待遇は実際に働いてみない とよくわからないので,その選択には不確実性がともな う.また,アルバイトのような短期ではなく,就社のよう な長期の雇用関係を想定すれば下積み期間も想定されるの で,費用と便益のそれぞれの発生時期やタイミングには時 a 一橋大学大学院経済学研究科

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11 竹内:書評:『「意思決定」の科学―なぜ,それを選ぶのか』 間的なズレが生ずるだろう.そして,人の職業や勤務先は その人の社会的地位を決定づけるだろうし,職業自体に公 益性を見出すこともできるので,どこで働くかという意思 決定は社会性と無縁ではない. 上記 3 要素に対する人の態度は,その人の性格にも依存 する.不確実性を嫌う人もいれば,不確実性をむしろチャ ンスとみなす人もいる.タイミングでいえば,せっかちな 人もいれば,長期的課題にじっくり取り組める人もいる. 他人の目を気にしたり,他人のことを気遣ったりする社会 性の高い人もいれば,そうしたことに無頓着な人もいる. 自分のおかれた状況を客観的に認識できる人もいれば,不 正確であっても直観に頼る人もいる.経済学は,こうした “性格”を「選好 (preference)」として表現する.不確実性, タイミング,社会性に対する選好が,第 3 章最後の節に列 挙された「リスク選好・時間選好・社会的選好」に当たる. そして,それらを数式で表すのも経済学の特徴である. Scratch や R を使った体験学習も用意 数式の使用を避けずに丁寧な解説がなされると冒頭に書 いた通り,専門書でないにもかかわらず,本書には多くの 数式が使われている.たとえば, r x u x r 1      1 - ( )= , のように独立した行として登場する数式は,私が数えたと ころ 253 本であり,平均すれば 1 ページ当たり 1 本以上 の頻度である.これだけの数式を使えれば,リスク選好に 関しても,単に期待効用の計算やリスク回避的・リスク愛 好的の図解にとどまらず, 絶対的リスク回避度 A( )x =-u x( )の傾きの変化率 ,u x( )の傾き相対的リスク回避度 R(x)=A(x)×x も良い意味で躊躇なく解説することができている. さらに,本書は learning by doing のサービス精神に満 ちていて,「実験」という名で 15 の選択問題が用意され ており,それぞれに答えていくことが各トピックの導入に なっている.出版社の特設ウェブサイトからは,詳細な補 論とともに,実験のためのアンケート用紙(質問票)をダ ウンロードすることもできる.さらに,紙とエンピツだけ でなく,PC 上で実験を行うことができるように Scratch というゲームプログラミング言語で書かれたソフトウェア も著者は用意している.また,ダウンロード可能な補論に は,無料の統計ソフト R を使って,実験データの分析や 数値計算ができるような解説も付されている. 15 の実験のタイトルをここに書くことによって,本誌 読者ならば,本書の内容を概ね把握できると思う.各章に は 5 つずつ実験が用意されている.第 1 章では次の 5 つ: サンクトペテルブルクのパラドックス 1, リスク回避性の 測定,リスクに対する態度の測定,相対的リスク回避度の 測定 1,相対的リスク回避度の測定 2.第 2 章は,サンク トペテルブルクのパラドックス 2, アレのパラドックス 1 (共通結果効果),アレのパラドックス 2(共通比率効果), 損失回避性の測定,価値関数の測定.第 3 章は,時間選 好の測定,社会的選好の測定,ベルリン・ニューメラ シー・テスト,認知熟考テスト,複合問題である.実験 データを分析する際には,数式を多用して効用関数の形状 に関する議論をしながらも,著者はノンパラメトリックな 方法でも――つまり関数形を具体的に指定しないやり方で も――選好の特徴づけができるような方法を随所で紹介し ている.この点も,既存の経済学の教科書とは異なる本書 の特徴であろう. 以上の実験の土台となった論文を参照したい場合は,特 設ウェブサイト内にある「参考文献」をみる必要がある.本 書には「タイガー・ウッズをはじめとするプロ・ゴルファー の行動も損失回避性で説明できる研究もあります」(p. 123) といった形で読者の興味をそそる研究が複数紹介されてお り,それらの原典についても参考文献に記されている. パラドックスは経済理論モデルの否定ではない 各種のパラドックス実験によって明らかになるのは,経 済学の意思決定モデルと実際の人間の行動の不一致(パラ ドックス)である.それらの実験結果によって,経済学の 理論が通用しない領域が明らかになるのだ.ただし,パラ ドックスが多いことは,良い意味で,その分だけ経済学の 意思決定理論が発展途上段階にあることを示している.そ の重要性について改めて強調するためにも,私は,物理学 者ファインマンの講演録から次の一節を引用したい. 一般にいって,私どもはつぎのような手順で新しい法 則を捜すのです.初めに推測によってある仮説をたて る.つぎに,それにもとづいて計算を行ない,その仮 説からの帰結を調べます.つまり正しいと仮定した法 則から何が出るかを見るのです.その計算の結果を自 然,すなわち実験,経験につき合わせる.観測と直接 に比較してうまく合うかどうかチェックいたします. もし実験と合わなければ,当の仮説はまちがいであ る.この単純きわまる宣言のなかに科学の鍵はあるの です.仮説がどんなに美しかろうと,それは問題では ありません.あなたが秀才かどうか,これはどうでも よい.だれが仮説をたてたか,名前はなんというのか, これも関係ない.もし実験に合わないならば,その仮 説はまちがいなのです.これがすべてであります. ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』 (江沢洋訳,岩波書店),p. 239.

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12 行動経済学 第 14 巻 これは,ノーベル物理学賞を受賞した天才物理学者のファ インマンが新しい法則を見つける過程について述べた部分 だ.仮説を実験によって検証し,その仮説と実験結果が整 合することをもって初めて,法則と呼べるものを発見した とみなすのが科学の基本的姿勢である.ところが経済学 は,近年は実験経済学の手法が研究者の間でようやく定着 してきたとはいえ,実験結果との整合性よりも理論の内的 整合性を優先してきたともいえる. そのように美しく完成されたはずの期待効用理論に対し てでさえ,経済実験は多くのパラドックスを発見してき た.すなわち,ファインマンのいう意味では,期待効用理 論は「法則」ではないのだ.だが,それは必ずしも否定的 に解釈されるべきものではない.むしろ,良い意味で,新 しい法則を求める探索のフロンティアに私たちが立ってい ることを意味するからだ.理論と実験の相互作用は,これ からの経済学の進展にとって不可欠なものであろう. さて,本書を読むにあたって事前に気を付ける点が 1 つ だけあるように感じられた.本書が数式を使う理論を重視 したのは良いことである反面,そのせいか,意思決定の分 野の一般書に期待されるワクワク感にやや欠ける印象も あった.『「意思決定」の科学』というタイトルをみて,そ の面白さや奇抜さで有名な心理学実験の要素を期待して本 書を手にした読者もいるだろう.そうした読者には本書は テクニカルすぎるかもしれない.もちろん,逆に,奇抜な 心理学実験の結果ばかりを羅列したような本に物足りなさ を感じている読者には,本書のテクニカルな解説はぴった りだ. ところで,リスク選好の測定では,意思決定者にとって 選択の結果は不確定であるものの,どのような結果がどの ような確率で生ずるかについては意思決定者が知っている ことを前提としている.しかし,現実の意思決定の難しさ を想うと,「どのような結果がどのような確率で生ずるか」 がわかっていないことが問題の本質であるようにも思え る.こうした状況は,経済学では「曖昧さ (ambiguity)」 が介在する状況として明示的に分析されている.第 1 章 と第 2 章でリスク選好について実験を繰り返したあと,第 3 章ではトピックが変わり時間選好と社会的選好に短く触 れられているが,むしろ第 3 章では曖昧さ回避を紹介し, それを扱ったショケ期待効用関数等を解説してもよかった ようにも思う.あるいは,第 2 章でプロスペクト理論を 扱ったのであれば,第 3 章では参照点依存型選好や誘惑 (temptation) のモデルを解説するのも面白いように思え る.いずれにせよ,読後に考えを膨らませることも楽しめ る構成である. 参考文献リストを特設ウェブサイトに置いた代わりに本 書の巻末にあるのが,5 ページにわたる読書案内である. 「入門書」に 8 冊,「教科書・専門書」に 13 冊,「意思決 定理論の現実への応用」に 9 冊,そして,「古典的著作・ 伝記」として 8 冊が紹介されている.実験経済学にとど まらず,科学哲学,宗教にも詳しい著者による読書案内は, 初学者にとっても研究者にとっても非常にありがたいガイ ドマップとなっている. 本書は,読者自身が手を動かしながら学べる教材も用意 して,数式をしっかりと使いながら,意思決定のキーコン セプトとなるリスク選好などを丁寧に解説している.行動 経済学や意思決定理論を勉強するには,心理学,数学,経 済実験などを複合させたアプローチが欠かせない.本書は そのひとつのアプローチとして有効な良書といえる.

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