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南アジア研究 第29号 002嘉藤 慎作「17世紀における港市スーラトの形成」

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Academic year: 2021

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(1)17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 17世紀における 港市スーラトの形成 ―スーラト市とスワーリー港―. 嘉藤慎作 1 はじめに インド亜大陸西岸に位置するグジャラート地方の港市スーラトは、16 世紀後半以降に貿易港として成長を始め、17世紀にはムガル朝の主要貿 易港の一つとなった。16世紀中葉頃には、東南アジア地域と紅海地域と の間で行われた貿易の中継港として、商人を惹きつけるようになった。 加えて、1573年のムガル朝によるグジャラート地方併合を機に、スーラ トはアーグラ地方にまで広がる後背地を獲得するに至った。すなわち、 スーラトは、綿布や藍といった主要輸出商品の生産地域、あるいは輸入 される香辛料の消費市場と密接に結びついた。こうして、スーラトにお ける貿易は拡大し、17世紀、スーラトはムガル朝有数の貿易港へと成 長 を 遂 げ た の で あ る[Gokhale 1979: 73-92; Das Gupta 1979: 134-196; Mitra 1995: 83-100; Subrahmanyam 2000: 23-33] 。また、スーラトはメッカへと向 1. かう巡礼船の発着港としても重要な役割を果たしていた 。 港市とは言われるものの、スーラトは直接海に臨む都市ではなかった。 アラビア海に注ぐタプティ川河口から遡った河岸に位置していたのであ る。タプティ川河口付近は水深が浅く、インド洋を横断して航海する規 執筆者紹介 かとう. しんさく●東京大学大学院人文社会系研究科博士課程・日本学術振興会特別研 究員 DC ・嘉藤慎作、「17世紀スーラト史再考 ムガル朝下の港市空間の構造と商人 」 2015 年度東京大学大学院人文社会系研究科修士学位論文。 ・嘉藤慎作、 2016 、「2015年度の歴史学界 回顧と展望 南アジア 古代・中世 」、 『 史学雑誌 』、 125‒5 、 908‒912頁。. 33.

(2) 南アジア研究第29号(2017年). 模の船が遡航するのは困難であった。そのため、17世紀初頭までは、 スーラトへと到来する船は、タプティ川河口部に位置する砂州に停泊し た。そして、そこから荷揚げして陸路を利用するか、あるいは小舟に積 み替えて水路を利用するかして、商品がスーラト市内まで運ばれていた。 その後、17世紀初頭以降になると、タプティ川河口の外側に位置した スワーリー港が、停泊地として利用されるようになった。スワーリー港 の利用が始まると、そこに倉庫や居留地など港湾施設が整えられていき、 スーラト市の施設面での不足を補完するようになった。また、防御施設 も備えたスワーリー港は、スーラト市に危険が迫った際に、商人たちに とっての退避場所となった。つまり、17世紀以降、スワーリー港は港市 スーラトの港湾機能の一部を担うようになっていたのである。このよう な重要性にも関わらず、先行研究は、スワーリー港の存在を指摘しなが らも、同港とスーラト市との関係や同港に備えられた施設とその役割に 2. ついて、十分な分析をしていない 。 そこで、本稿は、17世紀初頭のスワーリー港の利用開始以降、スーラ ト市の施設的制限を緩和するために、スワーリー港が開発されて港湾機 能の一部を担うようになり、スーラト市と合わせて港市スーラトを形成 するようになった、ということを議論する。具体的には、以下に挙げる 4点について分析する。第一に、スーラト市とスワーリー港の位置関係、 および同港が利用されるに至る経緯とその主な利用者について検討する。 第二に、スワーリー港に築かれた様々な施設についての検討を手がか りとして、スワーリー港が果たした役割を考察する。具体的には、ス ワーリー港の利用開始以降に整備された居留地と倉庫の形成について検 討する。さらに、これらの施設の整備に伴って拡充された防御施設につ いても併せて分析する。 第三に検討すべき点は、スーラト市とスワーリー港との間を結んだ輸 送である。少なからず距離を有したスーラト市とスワーリー港との間の 輸送は、港市スーラトにおける貿易活動を円滑に遂行する上で、非常に 重要であった。ここでは、輸送経路として水路と陸路が存在したことを 指摘した上で、それぞれの利点と問題点を明らかにし、その問題に対し てどのように対処がなされたのかを検討する。 第四に、スワーリー港の利用と関係して、1610年代末から1620年代中 頃にかけて生じたムガル朝役人間の徴税をめぐる係争について検討する。 34.

(3) 17世紀における港市スーラトの形成. 図1. スーラト市とスワーリー港. スーラト市とスワーリー港の位置関係(1660年頃). (出典:VELH 619. 11, Kaart van de rievier van Suratta van omtrent Soeratte tot in zee より筆者作成). この徴税をめぐる係争は、スワーリー港とスーラト市が合わせて一つの 港市として利用されているにも関わらず、それぞれが異なる県に属する という、利用実態と統治体制の捻れによって引き起こされた。この係争 の分析を通じて、都市と港湾とがそれぞれ離れた場所に位置するという 港市スーラトの状況が生み出した問題点を示し、それがどのように解決 されたのかを明らかにする。 本稿で主に用いるのは、イギリス・オランダ両東インド会社関連史料 と、インド亜大陸へと到来したヨーロッパ人の旅行記史料である。これ は、後述するように、スワーリー港の主な利用者がヨーロッパ諸会社に 限定されたため、彼らの残した史料にスワーリー港に関する記述が豊富 に存在するからである。. 2 スワーリー港の「発見」 図1は、スワーリー港とスーラト市との位置関係および地形を表して いる。スーラト市は半月状の形をしており、その脇にはサートプラー山 脈の水源からアラビア海へと注ぐタプティ川が流れていた。スーラト市 35.

(4) 南アジア研究第29号(2017年). は、このタプティ川河口から20キロメートルほど遡上した所にあった。 一方、スワーリー港は、タプティ川河口からキャンベイ湾を海岸沿いに 4、5キロメートルほど北上した場所に位置した。図1が示す通り、沿 岸から海へと突き出すように土砂が堆積して入江を形成していた。船 を強風や高波から防御したこの場所は、英語史料上では、単にスワー リー Swally、あるいはスワーリー港 Port Swally やスワーリー湾 Hole 3. of Swally、スワーリー停泊地 Road of Swally とも呼ばれた 。以下、本 稿では、このスワーリーにおける停泊地をスワーリー港と呼ぶ。スワー リー港へと到来した船は、水深8メートルから12メートルほどの場所に 4. 投錨した 。 5. スーラト市内にも船着場が存在し、多数の船が遡航してきた 。しか しながら、川には数多くの砂州が存在したため、小型船でさえ航行には 困難が伴い、およそ大型船の遡航には適していなかった。雨季には大型 船も遡航可能な水位に達したが、仮に遡航したとしても、大型船の停泊 可能な場所は存在しなかった[EFI: 1618-21, 29; Della Valle: I, 18; Tavernier: II, 3, 280-281] 。イギリス東インド会社とオランダ東インド会社は、スー. ラト市内の河岸にそれぞれの船着場を保有していた。しかし、これは、 一度スワーリー港で荷揚げした商品を積み直した、川の遡航が可能な小 型船の船着場であった[Mundy: II, 30]。このように、雨季以外の時期に 大型船がスーラト市まで遡航することは不可能であり、別に停泊地が必 要とされた。こうした状況下で、当時、港市スーラトの「真の港」と呼 ばれたのがスワーリー港であった[Thévenot: 76-77]。スワーリー港付近 の海辺にはイギリス人やオランダ人の墓が存在し、その中にはスワー リー港へと到来する船の目印となるものもあった[EFI: 1630-33, 149; Fryer: 83; Das Gupta 1979: 22; 長島2016: 200-201] 。. スワーリー港の利用は、イギリス東インド会社の到来と共に始まった。 1611年、ムガル朝領内における商業活動の許可を求めて港市スーラトへ と来航していたイギリス東インド会社船団は、タプティ川河口付近に停 泊中、ポルトガル船団による攻撃を受けた。船からの荷下ろしや船団間 の連絡の安全を確保する必要が生じたイギリス東インド会社船団は、 スーラト県知事に対して助力を願い出た。これに対し、スーラト県知事 は、イギリス人が港市スーラトに商品を荷揚げすることを条件として、 彼らにスワーリー港を安全な船着場として紹介した。イギリス東インド 36.

(5) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 会社船団は、直ちに会社職員ミドルトン Henrie Middleton を派遣して、 その場所を確認させた。その後、船団もスワーリー港へと到達し、そこ で商品を荷揚げしたのである[Jourdain: 176-179]。当時、キャンベイに 滞在していたイギリス国王特使ホーキンス William Hawkins が「奇跡 的」と表現したほど[Early Travels: 96]、ポルトガル船団からの攻撃に 悩まされていたイギリス東インド会社船団にとって、スワーリー港の発 見は重大な出来事であった。スワーリー港利用当初の目的は、ポルトガ ル人からの攻撃を避けて、安全に商品を積み下ろしすることにあった。 1612年、イギリス東インド会社は、グジャラート州総督、スーラト県 知事、4名の主要な商人から、ムガル朝領内での商業活動に関する13ヶ 条の規約に対する保証を得た。さらに、40日以内に規約の内容を保証す る旨の勅許をムガル皇帝ジャハーンギール(r. 1605-1627)から得るこ とが確認された[Best: 31-33]。ここにイギリス東インド会社のムガル朝 における商業活動の端緒が開かれたのである。その直後、スワーリー港 に襲来したガレオン船4隻のポルトガル船団をベスト Thomas Best の 船団が追い払い、1615年にはスワーリー沖の海戦でガレオン船6隻、フ リゲート船60隻などで構成されたポルトガル船団を打ち破り、イギリ ス東インド会社のスワーリー港の利用および港市スーラトにおける貿易 活動は定着した[Best: 35-36; Downton: 17-20; Letters: II, 239, 303-304: III, 7, 48, 51, 64] 。. イギリス東インド会社がスワーリー港の利用を開始すると、その後、 オランダ東インド会社も、スーラト市に商館を開設した1616年には同港 の利用を始めている[Broecke: II, 109]。また、スワーリー港を利用する 6. 現地船もあらわれた 。ただし、スワーリー港への入船は「少々」難し く、主にヨーロッパ船が使用し、現地船による利用は限定的であった [Della Valle: I, 18] 。フランス人旅行家のテヴノー Jean de Thévenot によ. れば、1660年以降、イギリス船とオランダ船を除いて、スワーリー港を 利用することが禁止され、現地船はタプティ川河口内に停泊するように 7. なった。この背景には、スワーリー港における密輸行為の横行があった 。 その後、1666年にフランス東インド会社がスーラトに商館を開設した際 には、スワーリー港に用地が与えられている[Kaeppelin 1908: 54]。1689 年にスワーリー港を来訪したイギリス人オーヴィングトン John Ovington も、ヨーロッパ船のみがスワーリー港への入船を許され、現地船に 37.

(6) 南アジア研究第29号(2017年). よるスワーリー港の利用は禁止されていたことを伝える[Ovington: 163]。 このように、17世紀前半からスワーリー港は主にヨーロッパ船に利用さ れ、さらに1660年以降には、ヨーロッパ諸会社の船のみがスワーリー港 8. を停泊地として利用するようになった 。 上述のように、イギリス東インド会社側の要請をきっかけに、スワー リー港の利用は始まった。一方、スワーリー港を主にヨーロッパ人が利 用することになった背景には、ムガル朝側の意図も存在した。詳しくは 後述するが、1610年代の時点で、ムガル朝側は、ヨーロッパ人がスワー リー港に城砦を建設して拠点を築くことを警戒していた。また、一度に 多数の武装したヨーロッパ人がスーラト市に入市することを禁止してい 9. た 。さらには、ムガル朝側は、大型船を持つヨーロッパ諸会社が、自 社船団を雨季に水位が上昇したタプティ川を遡航させて、スーラト市に 攻撃を仕掛けることを恐れたという[Tavernier: II, 280-281]。そのため、 ヨーロッパ船を遡航させずにスワーリー港に停泊させることは、スーラ ト市の保全を望むムガル朝側にとって好都合であった。こうした背景も あり、現地船によるスワーリー港への出入が禁止される以前の1636年に は、イギリス東インド会社とオランダ東インド会社の船がタプティ川を 10. 出入りすることを禁止する勅令が発布されている 。スワーリー港が特 にヨーロッパ諸会社の船の停泊地となったことの背景には、タプティ川 河口内に武装した大型のヨーロッパ船が進入することを回避し、スーラ ト市を保全するというムガル朝側の意図も存在したのである。. 3 スワーリー港の役割 本節では、スワーリー港に備えられた施設を検討することで、スワー リー港が港市スーラトの貿易において果たした役割を分析する。はじめ に、スワーリー港の停泊地としての役割である。上述のように、ポルト ガル船団からの攻撃を避けて安全に船を停泊させ、商品の積み下ろしを するために、スワーリー港の利用は始まった。そして、いざその利用が 始まると、スワーリー港が優れた停泊地であることが明らかになった。 1616年、イギリス国王ジェームズ1世(r. 1603-1625)の特使として ムガル宮廷へと派遣されたロー Thomas Roe は、イギリス東インド会 社がムガル朝領内で貿易活動をするための拠点としてスワーリー港と スーラト市が最も適している、と本国に宛てた書簡の中で述べている。 38.

(7) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 同書簡におけるローの所見は以下のようにまとめられる。ローは、イギ リス東インド会社の貿易活動にとって、商業活動の円滑な履行が可能な 場所と船の安全な停泊地こそが必要であると考え、スーラト市とスワー リー港の位置関係はこの必要を同時に満たしていると捉えた。なぜなら、 スーラト市自体が貿易活動の盛んな都市である上に、アフマダーバード など他の商業都市とも近接したため、商品の販売と購入に適していた。 そして、スワーリー港が貿易の季節の間、 「溜池のごとく安全」な停泊 地を提供したからである[Roe: II, 345]。 当時のインド洋においては、季節風によって航行可能な時期が限定さ れた。港市スーラトの場合、南西からの季節風が4月末から9月中頃な いし末まで吹き荒れ、沿岸部は特に雨と嵐が多く、河川の氾濫による洪 水も多かった[Broecke: II, 378-379; Das Gupta 1979: 20]。このため、貿易 活動が行われる時期は、基本的には9月から4月の間であった。ローの 記述にもある通り、スワーリー港は、第一に、この貿易活動が行われる 期間に船を停泊させ、商品を安全に積み下ろしするための場所としての 11. 役割を果たしたのである 。 ムガル朝領内で貿易を行う上で、スワーリー港のような停泊地の存在 は重視された[SC: 69]。イギリス東インド会社は、スーラト商館開設以 降も、キャンベイ湾内に港市スーラトの他に貿易拠点にふさわしい場所 が存在するかどうかの調査を行った。その結果、スワーリー港を有する 港市スーラトが、最も拠点にふさわしいという結論に至っている[Roe: II, 467] 。このように、商業都市との位置関係も含めて、少なくとも17世紀. 前半においては、スワーリー港は優れた停泊地であったと言える。 次に居留地と倉庫としての役割である。ヨーロッパ諸会社の場合は、 販売前の輸入商品とスーラト市内や内陸部で購入した輸出商品の保管場 所が必要であった。また、商業活動に関与しない船員が滞在する場所も 必要となった。ヨーロッパ諸会社は、スーラト市内に新たな建物を建造 することが認められず、ムガル朝役人や商人から賃借した建物を商館と して利用した[Nagashima 2009: 220-225]。このため、ヨーロッパ諸会社 は、スーラト市内に十分な倉庫や居住空間を確保することができなかっ た。そこで、商品を保管する倉庫と次の航海を待つ船員たちが過ごす居 12. 住空間が、スーラト市の外部へと求められることとなった 。そして、 スワーリー港に居留地や倉庫が築かれたのである。居留地や倉庫は、17 39.

(8) 南アジア研究第29号(2017年). 世紀を通じて港市スーラトの貿易が発展するにつれて次第に拡充されて いった。 居留地について先に検討しよう。1623年には、すでに、スワーリー港 に来航したヨーロッパ人がテントを張り、同地に滞在するようになって いた様子が窺える[Della Valle: I, 20-21]。イギリス東インド会社職員マ ンディ Peter Mundy によれば、1634年時点で、イギリス東インド会社 のスワーリー居留地には、商館長用の立派なテントがあったものの、木 製の住居 は 存 在 し な か っ た[Mundy: II, 312]。ま た、1638年 に ス ワ ー リー港を訪れたドイツ人マンデルスロ Johan Albrechts von Mandelslo によれば、オランダ東インド会社も、テントからなる居留地をスワー リー港に形成していた[Mandelslo: 48]。 その後、マンディが再び1656年にスワーリー港を訪れた際には、イギ リス東インド会社のスワーリー居留地は、少し高台の方へと移動してい た。その敷地は柵で囲われ、敷地内には庭園、倉庫や木製建造物の他、 煉瓦製住居、余暇を楽しむための空間も存在し、大砲も配備されていた [Mundy: V, 70] 。イギリスのスーラト商館は、1660年にスワーリー居留. 地でさらなる木製住居の造営も試みている[Consultation at Surat, 22 June 1660, IOR/G/36/2: 21] 。フランス東インド会社も、1666年にスーラト商館. を開設した後、すでに1670年代にはスワーリー港に居留地を築いていた。 この時点で、それぞれの会社の居留地はすでに木製建造物からなってい た[Fryer: 82]。つまり、スワーリー港利用開始後、かなり早い段階から テント作りの簡易な居留地が形成され、さらには、少なくとも1650年頃 からは、木製あるいは煉瓦製の建物が築かれ、庭園なども備えた本格的 な居留地が築かれたのである。イギリス、オランダ、フランスそれぞれ の東インド会社のスワーリー港における居留地は、互いに「弓矢が届く ほど」の距離の間に存在した[Ovington: 164]。 スワーリー居留地滞在期間中、船員たちは船の整備・補修を行った。 こうした整備・補修は、タプティ川の遡航が禁止されたにも関わらず、 タプティ川にある船渠で行われることがしばしばあったが、スワーリー 港でも補修は行われていたのである。また、タプティ川の船渠において 13. は造船も行われたが、スワーリー港における造船は禁止された 。ス ワーリー港には、船に利用する帆の修繕や樽の製造をするためのテント も 存 在 し た[Mundy: II, 312; Diary of William Methwold, 22 February 1636, 40.

(9) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. IOR/G/36/1: 493; EFI: 1637-41, 128; Ovington: 163-164] 。. スワーリー港周辺に居留地が形成され、特に貿易の時期には船員が滞 14. 在して賑わう中で、現地商人の市場もあらわれた 。この市場ではあら ゆる必需品や商品を獲得することができ、主にスワーリー居留地に滞在 する東インド会社船舶の乗組員がこの市場を利用した[Fryer: 82-83]。 このように、スワーリー居留地では、スーラト市に逗留することのでき ない船員が滞在し、出航に備えていたのである。 次に倉庫としての役割である。先述のローの書簡にも、スワーリー港 を利用する上で解決すべき問題の一つとしてポルトガル船団からの攻撃 が挙げられ、これを避けて時節を得て船を出航させるために、商品を前 もって集荷しておくことが必要である旨が記されている[Roe: II, 345]。 この集荷した商品を保管する倉庫が、スワーリー港に築かれたのである。 倉庫も居留地と同様に当初は簡素なものであった。しかしながら、保管 されていた商品の盗難事件をきっかけに、17世紀中頃に本格的に整備さ れた。イギリス東インド会社の事例を挙げると、1622年には、179マウ ンド(約2.7トン)の鉛、価値にして1,364マフムーディー(約546ルピー 15. 相当)が、スワーリー港の倉庫から盗まれている 。1639年には、ス ワーリー港において荷積み等に従事した現地人労働者やそうした労働者 を斡旋した近隣村落の村長が商品を窃盗した、という報告がなされてい る[EFI: 1637-41, 197]。 1646年には、度々商品の包装が無断で開封され、盗難に遭っていたこ とが報告された。イギリスのスーラト商館は、この度重なる盗難の原因 はスワーリー港における商品管理の不行き届きにある、と考えた。そこ で、同年、倉庫を設置する区画を棘のある植物の垣根で囲み、錠を設置 して、全ての商品をそこに保管するということが決められた。倉庫への 立ち入りは許可を得た人物のみに限定され、外側に監視も配備された。 これにより、商品が盗難に遭う可能性は極めて低くなった[EFI: 1646-50, 82] 。このように、倉庫の場合も、1646年を境に本格な設備が整えられ. た。居留地と併せて、1650年頃までにスワーリー港は本格的な港湾施設 を備えるようになったと言えよう。 オランダ、フランスの両東インド会社も、倉庫をスワーリー港に有し たことは確かである。オランダ東インド会社の場合は、1679年には新た にスワーリー港に必要な倉庫を建設する許可を、スーラト県知事ムハン 41.

(10) 南アジア研究第29号(2017年). マド・ベグから得ている[GM: IV, 298, 357; Carré: III, 781]。 スワーリー港の倉庫における保管期間に関して、1682年のイギリス東 インド会社の事例を挙げよう。この年は、出航の2週間前になってよう やくアーグラから商品が届いたために、船への荷積みが遅れた。そのう え、注文した藍500梱のうち、212梱が出航までに届けられなかった。こ のように、出航直前に商品が入荷されるということがあった一方、同 1682年には100万ルピー相当の商品が船に積まれ、積載できなかった商 品はスワーリー港の倉庫で保管されることになった[EFI: 1678-84, 285]。 船に積載できなかった商品が雨季を越え次年度の出航まで保管されると いう事例は他にも見られた[EFI: 1637-41, 224-225]。スワーリー港で保管 された商品量について、イギリス東インド会社の事例を挙げると、1676 年、スワーリー港の同社倉庫には約60万ルピー相当の商品が置かれてい た。これは同年輸出額の3分の2程度であった[EFI: 1670-77, 264-265]。 このように、輸出される商品の大部分をスワーリー港の倉庫で保管する ことが可能であった。 さて、倉庫や居住施設が拡充されると共に、これらを安全に保つため に、スワーリー港は防御施設を備えるようになった。元々、ポルトガル 船団の攻撃に対する防御態勢は整っていたと考えられるが、倉庫や居住 施設の拡充に伴い、防御施設もまた拡充されていったのである。この防 御施設は、予期せぬところで港市スーラトにおける商業活動に寄与する こととなった。以下、防御施設が拡充される背景と、それが港市スーラ トにおける商業活動にどのように寄与したのかを考察しよう。 1610年代の時点では、ポルトガル人がゴアやディーウに要塞を築き、 周辺海域に影響力を持ったこともあり、ムガル朝側はイギリス人やオラ ンダ人がスワーリー港やその近隣に城塞を建設することを恐れた。1617 年には、皇子フッラム(後のシャー・ジャハーン、r. 1628-1658、以下 本稿では即位以前についてはフッラムとする)の命令で、イギリス人が 一度に10名以上スーラト市に入ることが禁止され、入市の際には税関で 武装解除することが定められた。同時に、スワーリー港における城塞建 設も禁止された。この命令が発せられたのは、イギリス東インド会社が スワーリー港に城塞を建設することを目論んでいるという噂が流れ、現 16. 地の人々がフッラムに対して訴え出たためであった 。その後、1618年 にローとフッラムの間で交渉がもたれ、スワーリー港・スーラト市間の 42.

(11) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 輸送時における武装は認められたが、一度に10名以上が入市すること、 市内へ武器を持ち込むことは禁止された[EFI: 1618-21, 39]。 その一方、オランダとイギリスの両東インド会社側は、スワーリー港 の利用に際して、ポルトガル船団による攻撃への危惧から、守備面の強 化を模索していた。例えば、1627年、オランダ東インド会社のバタヴィ ア政庁がスーラト商館に送った指令からは、スワーリー港の守備を強化 するために、スーラト県知事や皇帝ジャハーンギールから協力を得よう としたことが窺える[DFI: 1624-27, 329]。1630年には、イギリス東イン ド会社とスーラト県知事や主な商人との間で会合が行われた。そこでは、 ペルシア湾岸方面に向けたイギリス人および現地商人の商品が、スワー リー港で危険に晒されているとして問題視された。そして、それに対す る策やポルトガル人からの攻撃に対する防御策について議論がなされた。 その結果、スーラト県知事側は、守備に関して最善を尽くすように命令 を発した。また、必要に応じてラーンデルにおかれていた大砲をスワー リー港に送り、会社を援護することを約束した[EFI: 1630-33, 67, 69, 7576] 。その後、ムガル朝とポルトガル人との間では和平交渉がなされた。. その間、ムガル朝側は、ポルトガル人を刺激して和平交渉が決裂するこ とを恐れ、城塞の建設については認可を与えなかった。しかし、1630年 11月にスワーリー港がフリゲート船12隻からなるポルトガル船団の攻撃 を受けると、スーラト県知事は、スワーリー港防衛のために要塞化を図 る計画を承認した[EFI: 1630-33, 83, 103-104]。 マンディによれば、1634年時点で、ポルトガル人からの攻撃に対する 防御のため、スワーリー港に50名ないし60名ほどの守備隊がおかれて いた[Mundy: II, 312]。また、テヴノーによれば、1666年には、倉庫の 商品を防衛するのに十 分 な 船 が、ス ワ ー リ ー 港 に 配 備 さ れ て い た [Thévenot: 77-78] 。1677年のイギリスのスーラト商館評議録には、ス. ワーリー港にいた兵力への支払いを命ずる記録も残されている[Consultation at Surat, 18 December 1677, IOR/G/36/4: 65v] 。スワーリー港防衛の. ための戦闘員として、現地人も少なからず雇用されていた[EFI: 1678-84, 255, 271, 288-289] 。. このようなスワーリー港における防御施設の拡充は、港市スーラトに おける商業活動に利した。スーラト市は川沿いに城塞を有したものの、 防御のための十分な市壁は存在せず、都市部の周囲にはわずかに盛り土 43.

(12) 南アジア研究第29号(2017年). が存在したのみであった。そのため、1664年に初めてマラーター軍によ る本格的な侵攻を受けると甚大な被害を生じた。これをもってようやく 17. 市壁の建設が開始され、1679年頃にその完成をみた 。この市壁が完成 する以前、1670年にマラーター軍による2度目の侵攻を受けた際には、 イギリス東インド会社はスワーリー港に簡単な砲台を建設し、襲撃に備 えた。また、フランス東インド会社もスワーリー居留地の入り口に武器 を配備した。そして、スーラト市内に置かれていた商品を全てスワー リー港へと運び込むことで、被害を抑えることに成功した。現地商人の 中には、マラーター軍の攻撃を恐れてスワーリー居留地への避難を希望 する者も存在した。また、自身が取引する商品を安全のためにスワー リー港に留め置くように求める声もあがった[EFI: 1670-77, 193-194, 197, 212] 。このように、スワーリー居留地を退避場所としたことで、港市. スーラトの商業が受けた損害は以前よりも軽微で済んだのである。 市壁完成後の1680年3月、再びマラーター軍が襲来するという情報が 流れた際にも、イギリス東インド会社は、スーラト商館の守備が不十分 であるとして、スーラト市内の在庫商品を全てスワーリー港に移動させ ている[EFI: 1678-84, 254]。スワーリー港は、スーラト市内と異なり十 分な防御施設を有し、緊急時の避難場所として機能した。そして、スー ラト市に何らかの危険が迫った時に被害を最小に止めることに貢献した のである。 スワーリー港の防御施設は、外敵の侵入のみならず、スーラト市内で 争いが生じた際にも有用であった。例えば、1672年、イギリス、オラン ダ、フランスのヨーロッパ諸会社は、スーラト県知事から様々な妨害を 受けていた。さらには、県知事がヨーロッパ人虐殺を企図しているとい う噂も流れた。この際、ヨーロッパ諸会社は、各々スワーリー居留地の 武装を強化し、そこを拠点とすることで対応したのである[Carré: I, 148149] 。このように、必要に応じて、スーラト市からスワーリー居留地、. さらにはスワーリー港に停泊中の船の中へと避難するという事例は他に も存在した[Martin: II-1, 918-919, 934-935, 1124-1125]。当初、ポルトガル 人の攻撃から停泊地などの安全を守ることを目的として防御施設は整備 された。一方、現地において生じた危険に対しても、スワーリー港の防 御施設は現地商人も含めて避難場所を与え、港市スーラトにおける商業 活動に利したのである。 44.

(13) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. ここまで、スワーリー港における居留地と倉庫、防御施設の形成につ いて検討してきた。上述のように、居留地と倉庫の形成はスーラト市内 の空間的制限を緩和した。また、防御施設は港湾を保全し、スワーリー 港を商人にとっての緊急時の退避場所とした。こうして、スワーリー港 は、港市スーラトの港湾機能の一部を担うようになったのである。. 4 スーラト市・スワーリー港間における輸送 スーラト市とスワーリー港は直線距離にして約20キロメートル離れて いたため、この両者を結びつける輸送は非常に重要であった。そこで、 本節では、イギリス東インド会社を主な事例として、スーラト市・ス ワーリー港間の輸送について考察する。スーラト市・スワーリー港間の 輸送に関しては、荷車などを使う陸路と小舟を利用する水路の両方が用 いられており、このことは港市スーラトを訪れる商人の中で広く認識さ れていた[Pelsaert: 286; Tavernier: II, 3]。以下では、水路と陸路それぞれ の利用実態を検討する。 はじめに水路についてである。先述のローは、水路の利用を推奨した 上で、その利点と注意点を端的に記している。その利点とは、陸路に比 して水路の利用は輸送費が安く済むということである。一方、注意すべ き点として、フリゲート船からの攻撃の危険を挙げており、これに対処 するために、スワーリー港・スーラト市間を航行可能な喫水7ないし8 フィートほどの大砲10門を備え付けた60トン級のピンネス船1隻を護衛 として派遣することを提言している[Roe: II, 345]。すなわち、タプティ 川河口付近に潜んでいたポルトガル船団とマラバール海賊と呼ばれる海 18. 賊集団からの攻撃を危惧したのである 。 先述のように、1615年にスワーリー沖でポルトガル船団を打ち破って 以来、同海域におけるイギリス東インド会社船団の優位が確立していた。 とはいえ、その後もしばしば両者の交戦は続いた。ポルトガル人は、フ リゲート船数隻から数十隻で構成される船団を用いて、スワーリー港に 停泊中の船舶やスワーリー港からスーラト市へと商品を運ぶイギリス東 インド会社の小舟を度々攻撃した。例えば、1619年3月付でスーラト商 館からロンドンへと送られた書簡は、次の貿易の季節にポルトガル船団 がスワーリー港を封鎖し、イギリス東インド会社の貿易を妨害するこ 19. とを企んでいる旨を伝えている 。ポルトガル船団はオランダ東インド 45.

(14) 南アジア研究第29号(2017年). 会社船や現地商人の船舶も攻撃対象としていた [Consultation aboard the Jonas, 9 October 1625, IOR/G/36/1: 104; EFI: 1624-29, 31, 102, 137-139: 163033, 1] 。. このように、タプティ川河口の周辺では、ポルトガル人がフリゲート 船を操舵して船を拿捕したため、スーラト市・スワーリー港間の水路の 利用には護衛船が必要であった[SC: 43; Roe: I, 94]。そこで、1617年には 護衛のピンネス船を派遣して水路の利用を試みたが、河口部に存在した 20. 砂州のせいで航行は難しく、この試みは失敗した 。それでもなお、護 衛船を派遣し水路を利用する試みは続いた[EFI: 1630-33, 148]。 その後、1635年、イギリス東インド会社はゴアのポルトガル人との間 で 和 平 協 定 を 結 ん だ[EFI: 1634-36, 89-94]。そ の 結 果、1636年 以 降、 スーラト市・スワーリー港間の輸送に関して、利便性と費用削減の観点 から水路を積極的に利用することが決定された。以後、水路の利用にお ける敵は、タプティ川河口付近に潜んでそこを通過する船を襲うマラ バール海賊のみとなった。イギリスのスーラト商館は、輸送の安全を守 るべく、ポルトガル人支配下のダマン近隣において2隻のフリゲート船 を建造させた。そして、これをスーラト市・スワーリー港間で商品輸送 に従事する船の護衛として就航させたのである[Pelsaert: 286; EFI: 163436, 136, 180; Diary of William Methwold, 8 March 1636, IOR/G/36/1: 494] 。. この他、水路の利用について、船舶が座礁して商品が河川に落下する、 あるいは海水の混じった河口部の塩水に濡れて商品に損害を被るという 危険が存在した。こうした事例は後を絶たなかった[Consultation at Surat, 16 September 1677, IOR/G/36/4: 46r-v; EFI: 1624-29, 31, 249-250: 1678-84, 230] 。. 次に陸路である。陸路は、水路に比して費用や労力を多く要するもの の、安全性が高かった[Pelsaert: 286]。もっとも、完全に安全とは言え ず、道中盗賊に襲われる危険もあり、また、時には委託した輸送人が荷 を開封し商品を窃盗するということもあった[EFI: 1630-33, 22-23]。陸 路での輸送に際しては、スワーリー港から2キロメートルほど離れた場 所に位置したスワーリー村を中心とする近隣村落の村長を通じて荷車を 手配するか、あるいは輸送そのものを彼らに委託することになっていた [Best: 32; SC: 90; EFI: 1622-23, 125] 。輸送時には、商品の盗難防止のため. に監視や護衛が同行した[EFI: 1630-33, 63]。また、報酬は輸送量に応じ 21. て決定された 。陸路を用いた現地住民による輸送は少なくとも17世紀 46.

(15) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 22. を通じて行われた 。 スワーリー村をはじめとする近隣村落は、村の有力者の下、イギリス 23. 東インド会社のスワーリー港到来当初より、会社と関わりを持った 。 先に述べた陸路での輸送への協力の他、スワーリー居留地への食料や水 24. などの必需品の供給も担った 。さらには、スワーリー港におけるイギ リス東インド会社商品の梱包、荷積みに必要な人員も提供した[EFI: 1646-50, 303] 。スワーリー港とスーラト市との間の輸送やスワーリー港. での荷積みなどの作業において、近隣村落からの労働力の供給は非常に 重要だったのである。このように、17世紀を通じて、それぞれ長短を併 せ持った水路と陸路との双方がスワーリー港・スーラト市間を結びつけ ていた。. 5 港市スーラトにおける関税徴収の問題 上述のように、スワーリー港は居留地、倉庫、防御施設を備え、スー ラト市の空間的制限を緩和し、港市スーラトにおける貿易の拡大に寄与 した。しかし、この利用をめぐって、当初大きな問題が生じた。それは、 オルパード郡徴税官とスーラト県知事との間で見られた徴税をめぐる問 題である。先述のとおり、スワーリー港で荷揚げされた商品は、基本的 にはスーラト市へと運ばれて、そこで取引された。このため、スーラト 県知事がスワーリー港に到来したヨーロッパ人に応対していた。しかし ながら、スワーリー港は行政区分上ブローチ県オルパード郡に属してお り、ブローチ県知事の監督下にあった[Ā īn: I, 494; Letters: IV, 329-330: V, 112; EFI: 1630-33, 72-73, 154; Khātimah: 205, 239; Gazetteer of Surat: 298]。こ. のような統治に関する捻れが問題を引き起こしたのである。 はじめに、港市スーラトにおける貿易活動に関して、オルパード郡徴 税官がどのように関与したのかを検討してみよう。1616年、オルパード 郡徴税官のパフラワーン・サフィードは、イギリス人がスワーリー村の 家屋を襲い略奪行為を働いているとして、これについて抗議した。イギ リス人側は、そのような事実は存在せず、彼の証言は賄賂を引き出すた めの行為にすぎないと反論した。パフラワーン・サフィードは、イギリ ス人がスワーリー港へ水や食料などを輸送する際に、その認可権を握っ 25. ていた 。このため、輸送の許可を得るために、あらゆる場面で賄賂が 求められ、イギリス東インド会社にとって出費が増大することが問題と 47.

(16) 南アジア研究第29号(2017年). なった[SC: 103, 105]。以降、パフラワーン・サフィードによる賄賂の要 求は続き、これを拒否したために輸送が認可されないという事態が度々 26. 発生した 。 そこで、1621年、スーラト市・スワーリー港間における商品と食料の 自由な輸送を求めるスーラト商館側は、皇子フッラムの保有船の荷積み を妨害するといった実力行使に出て、状況の是正を訴えた。また、パフ ラワーン・サフィードの主人であり、ブローチ県のジャーギールダール であったハージャ・アブドゥル・ハサンに対しては、スワーリー港にお いてイギリス人に適切な対応をして必需品の供給を認めることを、パフ ラワーン・サフィードに命じるように請願した。[Consultation at Surat, 9 March 1621, IOR/G/36/1: 27; EFI: 1618-21, 240, 281] 。. 最終的には、ハージャ・アブドゥル・ハサンから次のような命令が下 された。イギリス東インド会社が必要とする荷馬車、水、その他必需品 を提供すること、以前から課されていたもの以外に税を要求しないこと、 いかなる不正もイギリス人に対して働かないこと、問題発生時には、ま ずハージャ・アブドゥル・ハサンに報告し、勝手な対応を慎むようにす ることである。一方で、ハージャ・アブドゥル・ハサンは、イギリス人 に対しても、スワーリー港滞在中には友好的に振る舞うように要請し、 もし、これを違えるなら、イギリス人を追放せざるをえなくなる、と通 達した[EFI: 1618-21, 282-283]。この結果、スーラト商館は、輸送用の馬 の自由な利用が認められた。また、オルパード郡徴税官が商品輸送ある いは水など必需品の補給を不当に妨害することは禁止された[EFI: 161821, 331-332] 。. また、この件に関しては、当時、グジャラート地方をジャーギール地 として保有していた皇子フッラムも以下の裁定を下した。すなわち、問 題発生時には、イギリス東インド会社は、グジャラート地方を実際に統 治するルスタム・ハーンと新たにスーラト県知事に任命したイスハー ク・ベグの二人に対して裁定を求め、そして彼らが認めたものを皇子が 追認する、というものである[Jahāngīr Nāmah: 242-243, 259, 274; EFI: 161821, 318-321] 。. その後、1623年、イギリスのスーラト商館は、現地でイギリス人が受 けた被害に対する賠償を求めた。その中には、パフラワーン・サフィー ドの部下がイギリス人1名を殺害したことに対する560マフムーディー 48.

(17) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. (224ルピー相当) 、パフラワーン・サフィードが度々行った荷車の利用 や水・食料の供給への妨害行為に対する40,000マフムーディー(16,000 ルピー相当)の賠償を求める条項が含まれていた[Copia of the demands agreed on twixt the English and the Guzeratts, 1623, IOR/G/36/1: 62-63]。こ. れに対し、ムガル朝側は前者に関しては100ルピーの賠償を命じた。一 方、後者については、こうした訴えを宮廷側は認識しており、今後一切 妨害行為を慎むように命令を与えるが、彼に対して罰金は課さない、と の見解を示した。最終的に、翌1624年、ムガル朝側は、イギリス東イン ド会社による輸送用の小型船や荷車の手配はいかなる時も禁止されない こと、また、現在および将来のオルパード郡徴税官による水や食料の 供給の妨害および関税の徴収を禁止することを決定した[Consultation aboard the Blessing, 18 October 1623, IOR/G/36/1: 66; EFI: 1622-23, 300-301, 303-304, 310; 1624-29, 28] 。. 上記の事例からわかることは、まず、スーラト市からスワーリー港へ と商品や食料等の必需品を輸送する場合、あるいは輸送のための荷車・ 船舶などを手配する場合には、オルパード郡徴税官の許可を得る必要が あったということである。つまり、輸出入する商品は、スーラト市の税 関を通過した上で、オルパード郡徴税官からも認可を得て、はじめて輸 送することができたのである。この認可を得るためには、税ないし賄賂 の支払いが求められた。この支出を重くみたイギリス東インド会社側は、 支払いを拒否して状況の是正を宮廷に求めたが、税の支払い要求は繰り 返された。宮廷側もイギリス東インド会社側の言い分を汲み、状況の改 善を求める命令を与えた。一方、パフラワーン・サフィードを厳しく罰 することもなかった。この段階では、彼があくまでブローチ県知事の下、 オルパード郡管理下にあるスワーリー港の利用者に対応しただけである とみなされたからであろう。このように、オルパード郡徴税官は、当初 スワーリー港・スーラト市間の輸送に関する認可権を握り税あるいは賄 賂の徴収を行ったが、1624年以降、その徴収は禁止されていた。 しかしながら、その後、1627年には、スーラト県知事ミールザー・ ジャーン・クリー・ベグとパフラワーン・サフィードとの間で徴税権を めぐる論争が勃発した。スワーリー港を直接管轄下に置くパフラワー ン・サフィードは、同港を通過する商品に対して関税が支払われるべき であると主張した。これに対し、スーラト県知事は、スーラト市の税関 49.

(18) 南アジア研究第29号(2017年). において徴税が行われていたこともあり、パフラワーン・サフィードの 主張に異議を唱えたのである。この論争期間中、イギリス東インド会社、 オランダ東インド会社双方の輸出に向けて準備されていた商品は、スー 27. ラト市の税関に留め置きとなった 。 ミールザー・ジャーン・クリー・ベグとパフラワーン・サフィードは 互いに主張を譲らなかったが、1627年末、宮廷からの勅令が下り、港市 スーラトにおける関税徴収はスーラト市の税関で行い、オルパード郡徴 28. 税官による関税徴収を禁止するという決着をみた [Hasan 1993: 715-716; EFI: 1624-29, 175-176, 192, 201-202] 。これにより、スワーリー港での徴税. は禁止された。この後、ムガル朝期を通じて、多くの場合、スーラト県 知事がオルパード郡をジャーギール地として保有したこともあり、この ような問題は生じることはなかった[Khātimah: 206]。徴税場所をスーラ ト市に限定しただけでなく、スーラト県知事がオルパード郡の統治を兼 任することで、港市スーラトの支配はスーラト県知事の下に一元化され ることになったのである。 上述のとおり、スワーリー港の利用をめぐって、当初はスワーリー港 の利用実態と行政区分の不一致により、税の二重徴収という問題が生じ た。この問題は、ムガル朝側にとっても、海上貿易を円滑に履行させる ために解決すべきものであった。最終的には、スワーリー港の統治を、 事実上スーラト県知事に委ねることで、問題は解消したのである。. 6 おわりに 本稿は、17世紀初頭から港市スーラトの港湾機能を担ったスワーリー 港について、スーラト市との位置関係、その利用に至る経緯を明らかに した。その上で、スワーリー港の果たした役割とその利用において生じ た問題を検討した。 本稿で検討してきたように、スワーリー港の存在は、港市スーラトに おいて貿易拠点を形成することを目指したイギリス人やオランダ人など のヨーロッパ人と、彼らとの貿易に関心を持ちながらもその影響力を海 岸部あるいは海上にとどめておきたいムガル朝側、双方の利害をうまく 調整した。結果として、港市スーラトは、既存の現地商人ばかりではな く、新規に参入してきたヨーロッパ商人を他のインド亜大陸の港市に先 駆けて17世紀初頭の段階で惹きつけることができた。ムガル朝側は、ス 50.

(19) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. ワーリー港を利用させることで、スーラト市内におけるヨーロッパ人の 活動やその拠点を限定することができた。一方、ヨーロッパ人は、ス ワーリー港に居留地や倉庫を建設することで、スーラト市内における制 限を克服していった。この間、スワーリー港とスーラト市の統治上の捻 れという問題が明らかになったが、スワーリー港がスーラト県知事に よって事実上統治されるようになり、この問題は解決した。まさに、利 用者にとっても統治者にとっても、スワーリー港はスーラト市と共に港 市スーラトの一部を形成していたのである。 ヨーロッパ人の到来は、彼ら自身の貿易により港市スーラトにおける 総貿易額が増加したということ以上の意味を持った。彼らが商品の委託 を受けて海上輸送にも従事したことは、船舶を保有しない商人が商品を 輸送するための選択肢・機会を増やした。また、綿布に対する需要が高 まり、グジャラート地方における綿布生産が大幅に拡大したことも相 まって、17世紀グジャラート地方の貿易および手工業は、かつてないほ どの成長を見せたのである[Nadri 2009: 129-149]。こうした歴史的展開 を踏まえると、港市スーラトが17世紀に目覚ましく発展し、ムガル朝最 大の港市となることができた背景の一つとして、スワーリー港の存在が あったと言えるだろう。 さて、上記の通り、17世紀における港市スーラトの発展に寄与したス ワーリー港だが、ボンベイが台頭しつつあった1777年には、すでにその 港湾としての役割を終え、船舶はタプティ川河口の南に停泊するように なっていた[Gazetteer of Surat: 333]。本稿では、18世紀以降 の ス ワ ー リー港の利用実態や、いつ頃からスワーリー港が利用されなくなるのか といったことに関しては検討することができなかったので、これに関し ては今後の研究課題としたい。. 1. Pearson 1996: 107-121; 真下2009: 43-74. この他、スーラトは、貿易を通じて銀が流入して くる地点としても、現銀納という租税体系を持ったムガル朝にとって重要な貿易港であっ た[Brennig 1983: 477-496; Prakash 2004: 326-336]。なお、16世紀から18世紀中頃にかけ てのグジャラート地方における海上貿易の動向とスーラトの興隆については、 [Nadri 2012: 215-254]が全体的な見取り図を示している。. 2. Das Gupta 1979: 22; Gokhale 1979: 9; Barendse 2002: 54-55; Maloni 2003: 163; Moosvi 2008: 291. 港市スーラトの空間的分析について言えば、城塞や税関、県知事官邸といった. 51.

(20) 南アジア研究第29号(2017年). ムガル朝統治関連施設、市場、隊商宿、ヨーロッパ人商館などの商業施設の立地といった 都市内部の構造に関する論考が中心である[Gokhale 1979: 7-26; Das Gupta 1979: 20-35; Singh 1985: 192-224; 長島2006: 89-132; Nagashima 2009: 192-218; 長島2016: 185-214]。 3. Jourdain: 177; Best: 32; Mundy: II, 29; EFI: 1630-33, 121. こ の 他 に も、the Sualy Marine など[Ovington: 164] 、様々な呼称・異形が存在する。なお、オランダ語史料上では、主 にスアーリー Su [h]aly、あるいはスアーリー池 Com[Kom]van Su [h] aly, Su [h]alys Com として言及される[GM: I, 411, 621; Beschryvinge: II-3, 6]。ペルシア語史料上では、 管見の限り、スーハーリー港 bandar-i Sūhālī という表記が見られるのみである[Khātimah: 239] 。. 4. 1638年に港市スーラトを訪れたマンデルスロによれば、スワーリー港における投錨地の 水深は干潮時5ファゾム、満潮時約7ファゾムであった[Mandelslo: 48]。オランダ東イ ンド会社のファン・ダムも同じく、スワーリー港の投錨地の水深は干潮時5ファゾム、満 潮時7ファゾムとしている[Beschrijvinge: II-3, 6]。当時、オランダ東インド会社が用い た1フ ァゾムは、約1.7メートルに相当 した[Instituut voor Nederlandse Geschiedenis (ed.)2000: 120]。この換算値に基づけば、スワーリー港の投錨地の水深は、干潮時約8.5 メートル、満潮時約11.9メートルであり、潮の干満による水位の変化は約3.4メートルとな る。この他にスワーリー港の投錨地の水深について、1615年9月18日にスワーリー港へと 到来したトーマス・ローの船の投錨地は水深8ファゾム、同時に到来したペッパーコーン 号とエクスペディション号の投錨地は水深6ファゾムであった。なお、ペッパーコーン号 の投錨地は、干潮時でも船体に支障をきたさない水深があった。また、ローによると、ス ワーリー港では、満潮時には3ファゾムほど水位が上昇した[Roe: I, 41]。. 5. Fryer: 106. あるいは、河口部から5キロメートルほどタプティ川を遡った場所に位置す る砂州に停泊し、荷の積み下ろしを行った[Early Travels: 133]。. 6. 現地船のスワーリー港の利用に関して、1650年には、ムガル皇帝シャー・ジャハーンの保 有する船舶2隻がモカからスワーリー港へと帰着している[GM: II, 415]。タヴェルニエ によれば、17世紀中葉頃には、ムガル皇帝が毎年派遣したメッカへの巡礼船は、スワー リー港において乗客の乗降、商品の積み下ろしを行ったようである[Tavernier: II, 482483] 。. 7. Thévenot: 78. なお、スワーリー港には、ムガル朝の役人が置かれ、イギリス東インド会 社、オランダ東インド会社の保有する船舶への積み下ろし、スーラト市・スワーリー港間 の輸送を監視した[Letters: V, 112; EFI: 1630-1633, 72-73; Dagh-register: 1661, 413]。. 8. ただし、現地商人の中には、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社の船舶に商品 輸送を委託する者もおり、彼らはスワーリー港において商品の積み下ろしを行った [Mundy: II, 312; Diary of William Methwold at Surat, 22 anuary 1636, IOR/G/36/1: 491] 。. 9. 本稿の42頁および43頁を参照のこと。. 10 この後、スーラト県知事がオランダのスーラト商館員に対し、この勅令はイギリス東イン. ド会社のみに適応されると説明している[Diary of William Methwold, 22 February 1636, IOR/G/36/1: 493; Dagh-register: 1636, 113]。また、タヴェルニエによれば、イギリス東 インド会社には、その後、タプティ川河口内に停泊地が与えられたという[Tavernier: II,. 52.

(21) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. 3] 。とはいえ、ヨーロッパ諸会社の大型船舶のタプティ川遡航を禁止してスワーリー港に 停泊せさることが、ムガル朝側にとって望ましいことであったと考えられる。 11 なお、4月から9月の季節風による嵐の時期の越冬に関して、イギリス東インド会社の事. 例を示すと、17世紀前半には4月までに紅海地域に向けて出航し、そのまま紅海地域の港 市で越冬する船舶が見られた[EFI: 1624-29, 154; 1637-41, 95]。その後、ボンベイ商館が 設立されると、船舶は4月から9月の季節風に伴う嵐の時期をボンベイにおいて過ごすこ とが多かったと考えられる[Commission to Captain William Smith, 26 April 1677, IOR/ G/36/4: 28v-29r; Commission to Captain Edward Cooke, 2 May 1677, IOR/G/36/4: 30 r30v] 。 12 イギリス東インド会社の場合、スワーリー港の他に、スーラト市の対岸にあるラーンデル. などにも倉庫を保有していた。ラーンデルには1622年時点で少なくとも5つの倉庫を持っ ており、さらにもう一軒の倉庫を一月あたり22マフムーディーで借りるように提案がなさ れた[Letters: II, 311; EFI: 1622-23, 67; 1670-77, 198]。オランダ東インド会社も、ラーン デルには倉庫を置いていた[Broecke: II, 334-335]。 13 タプティ川の船渠においてヨーロッパ人が船舶を補修する際には、スーラト県知事などム. ガル朝の役人から許可を得て船舶を遡航させたと考えられる。1642年には、スーラト市か らおよそ5キロメートル河口にむけて川を降った所に位置するオムラという場所で、イギ リス東インド会社が船舶の補修を行っている[EFI: 1642-45, 92]。1644年には、スワー リー港において船舶の補修を試みた際、船体が浜辺に打ちつけれれて損傷したために、そ の船舶は河口内の船渠に運ばれて補修が施された[EFI: 1642-45, 248] 。この他にも、 ヨーロッパ人の船舶がタプティ川河口内の船渠で点検・補修を受けた事例は数多く存在す る[EFI: 1642-45, 214, 311, 313 など]。なお、これらの事例に関しては、補修が行われた 船渠の設置者については明記されていないものの、オムラ付近にはムガル朝の波止場が存 在しており[Das Gupta 1979: 22]、これらのイギリス東インド会社船舶も現地人の運営 する船渠で補修を受けたものと考えられる。造船に関しては、スーラトや近郊のナウサリ、 ガンデヴィといった場所では造船業が盛んであり、スーラトの造船所ではムガル朝の皇族 や高官が船舶を建造させていた[EFI: 1642-45, 148; Qaisar 1968: 160]。 14 イギリス東インド会社がスワーリー港を利用開始した当初より、スワーリー港には商人が. 集まり取引が行われた[Letters: I, 235; V, 186]。1623年には、スーラト県知事バハードゥ ル・ハーンから税関長に対して、スワーリー港において商人が市場を営むことを認可する ように命令が与えられた[EFI: 1622-23, 263]。以後、スワーリー港の市場は、スーラト 県知事の許可を得て維持された[Fryer: 82-83]。1634年時点で、スワーリー港の市場は 竹や葦などで作られており、この竹製の市場は船舶が出港するとともに火が放たれて解体 されていた[Mundy: II, 312-313]。その後、1656年までには、煉瓦造りの店が立ち並ぶ市 場が築かれていた[Mundy: V, 70]。 15 Copia. of the demands agreed on twixt the English and the Guzeratts, 1623, IOR/G/36/1:. 62, 67; EFI: 1622-23, 300, 303.なお、マフムーディー銀貨は17世紀グジャラート地方ではル ピー銀貨と併せて広く用いられていた銀貨であり、17世紀前半時点では2.5マフムー ディーが1ルピーに相当した。1マウンドは、1635年以前のスーラトではおよそ15キログ ラムに相当した[Moreland 1923: 330-331, 335-336]。. 53.

(22) 南アジア研究第29号(2017年). 16 実際には、船舶用の鐘が壊れたために、新たな鐘を製造する必要が生じ、イギリス東イ. ンド会社がその資材として煉瓦や石灰などを岸に運んだだけであったという[Letters: VI, 217, 276-277; Roe: II, 449-450, 467]。 17 Commissariat. 1957: 361; Gokhale 1979: 12; Das Gupta 1979: 23. な お、1720年 頃 に は、こ. の市壁の外側にさらに壁が建設された。このため、18世紀中葉時点でスーラト市は内外に 二つの市壁を有した[Das Gupta 1979: 23]。 18 17世紀当時、インド亜大陸西岸のマラバール地方を拠点として、フリゲート船(船首に1. 門の砲をもつ喫水の浅い甲板のない小型船)やガリオト船(インド亜大陸西岸沿海で用い られた櫂船)を操舵して、インド亜大陸西岸沿海を航行する船舶を襲う集団が存在した。 彼らは、 「マラバール海賊」として恐れられていた。キャンベイ湾内や、さらにはタプ ティ川河口にも潜んでおり、タプティ川を出入りする船舶を襲撃する機会を伺っていたと いう[Early Travels: 129; Pelsaert: 286; Thévenot: 37; Fryer: 55]。 19 実際には、この時、資金と人員との不足によりポルトガル船団はスワーリー港の封鎖を実. 行しなかった[EFI: 1618-21, 82-83, 122, 179]。 20 Roe:. II, 470.ピンネス船は、ヨーロッパ人が河川航行に用いたもので、二本マストの帆船. である[Yule, et al.(eds.)1903: 691]。 21 1612年にスワーリー港からスーラト市へと商品が輸送された際には、商品10マウンドあた. り1マフムーディーが支払われている[Best: 32]。また、1622年には商品1包あたり0.5 マフムーディーが支払われた[EFI: 1622-23, 144]。このように輸送量は、商品の種類に よって、重量もしくは包数に基いて決定されたと考えられる。 22 1677年11月27日付のイギリス東インド会社のスーラト商館評議録には、スワーリー村の村. 長ナーセルワンに輸送費と貨物税として1,000ルピーが支払われたことが記されている。 また、1679年2月28日付の評議録にも、同様にナーセルワンに対して輸送費、貨物税や水 の供給の費用として1,000ルピーの支払いが見られる[Consultation at Surat, 27 November 1677, IOR/G/36/4: 63r; Consultation at Surat, 28 February 1679, IOR/G/36/4: 87r]。 23 スーラト商館設立以前、ベストの船団がスワーリーに到着した際には、スーラトの役人や. 商人と同じくスワーリー村の村長もイギリス東インド会社に接触しており、イギリス東イ ンド会社側からも村長に対して贈り物がなされた[Best: 28, 30; Letters: I, 234]。 24 1630年には、輸送用の荷車、水、必要な資金の調達、その他商品への対価として、18,040. マフムーディーがスワーリー村の村長に対して支払われた[EFI: 1630-33, 132]。 25 パフラワーン・サフィードは小型船を保有しており、また、イギリス人に商品販売を委託. するなど商業活動にも従事していた[EFI: 1622-23, 264; 1624-29, 167]。 26 例えば、1619年には、イギリスのスーラト商館長がパフラワーン・サフィードの要求に. 応じることで、スワーリー港に滞在する船員たちは水を獲得できるようになった[EFI: 1618-21, 132]。1621年にも、パフラワーン・サフィードの命令で、イギリス東インド会社 による商品と食料の輸送が1週間ほど停止させられた[EFI: 1618-21, 281]。このような 経験から、会社は可能なかぎり輸送や必需品の供給に対する妨害を受けないように常に注 意を払っていた[EFI: 1646-50, 303, 321]。 27 EFI:. 1624-29, 175-176, 192, 201.なお、オランダ東インド会社は、ひとまず出港の時期に間. にあわせるために、パフラワーン・サフィードに対して現金400レアルと130ギルダー相当. 54.

(23) 17世紀における港市スーラトの形成. スーラト市とスワーリー港. の反物を贈答し、商品輸送に必要な許可証を獲得している[DFI: 1624-27, 345]。 28 EFI:. 1624-29, 202; Broecke: II, 335; Akhtar 1988: 255-57; Hasan 1993: 715-716. ハ サ ン は、. イギリス東インド会社、オランダ東インド会社に勅令が発布されたのは1626年末としてい るが、上記に挙げたアクタルの研究および、イギリス東インド会社文書、オランダ東イン ド会社文書等を参照する限り、徴収権をめぐる争いが発生し、これを裁定する勅令が発布 されたのは1627年末である。. 参照文献 未刊行史料 British Library, London India Office Records(IOR) East India Company Factory Records, 1595-1858(G) Surat, 1622-1804(G/36),G/36/1-4. Nationaal Archief, Den Haag Kaarten Leupe Suppliment(VELH),1617-1867 VELH 619. 11, Kaart van de rievier van Suratta van omtrent Soeratte tot in zee" 刊行史料 Ā īn: Abū al-Fazl, A¯’ı¯ n-i Akbarı¯ , 2 vols., ed. by H. Blochmann, Calcutta: Asiatic Society of. ̈. Bengal, 1872-1877. Beschryvinge: Van Dam, P., Beschryvinge van de Oostindische Compagnie, 4 vols., ed. by F. W. Stapel, s-Gravenhage: Martinus Nijhoff, 1927-1954. Best: Foster, W.(ed.),Voyage of Thomas Best to the East Indies 1612-1614, London: Hakluyt Society, 1934. Broecke: W. P. Coolhaas(ed.), Pieter van den Broecke in Azië, 2 vols., s-Gravenhage: Martinus Nijhoff, 1962. Carré: Fawcett, C.(ed.),and L. Fawcett(tr.),The Travels of the Abbé Carré in India and the Near East 1672 to 1674, 3 vols., London: Hakluyt Society, 1947-1948. Dagh-register: Van der Chijs, J. A., et al(eds.),Dagh-register gehouden int Casteel Batavia vant passerende daer ter plaetse als over geheel Nederlandts-India, 1624-1682, 31 vols., s-Gravenhage: Martinus Nijhoff, 1887-1931. Della Valle: Grey, E.(ed.), The Travels of Pietro della Valle in India, 2 vols., London: Hakluyt Society, 1892. DFI: Prakash, O.(ed.),The Dutch Factories in India, 1617-1627, 2 vols., New Delhi: Munshiram Manoharlal Publishers, 1984-2007. Downton: Foster, W.(ed.),The Voyage of Nicholas Downton to the East Indies 1614-15: As Recorded in Contemporary Narratives and Letters, London: Hakluyt Society, 1939. Early Travels: Foster, W.(ed.), Early Travels in India 1583-1619, London: Oxford Uni-. 55.

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