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Vol.22 , No.1(1973)035宇高 良哲「近世初期の長谷寺と智積院 -特に中性院流の法流相承を中心に-」

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Academic year: 2021

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-特

に-宇

中 性 院 流 の 法 流 は 新 義 真 言 宗 の 教 学 大 成 者 頼 喩 が 諸 法 流 を 総 合 し て 新 た に 立 て た 一 流 で あ る。 こ の 法 流 は 新 義 真 言 宗 の 歴 代 能 化 が 必 ら ず 相 承 す べ き 重 要 な も の で あ り、 頼 喩 が 根 来 の 中 性 院 に 住 し、 代 % 中 性 院 の 能 化 に 伝 え ら れ た と こ ろ か ら 中 性 院 流 と 呼 ば れ る。 と こ ろ が 天 正 十 三 年 ( 一 五 八 五) の 豊 臣 秀 吉 の 根 来 焼 打 に よ り、 根 来 中 性 院 に 伝 わ つ て い た こ の 法 流 は 当 時 の 中 性 院 住 持 聖 空 に よ つ て 他 所 に 搬 出 さ れ た。 こ の 時 聖 空 に よ つ て 搬 出 さ れ た 中 性 院 の 法 流、 特 に 覚 綾 ・ 頼 喩 以 来 相 承 の 伝 書 類 は、、 聖 空 か ら 長 谷 寺 中 興 の 祖 専 誉 に 伝 授 さ れ、 更 に 専 誉 か ら 長 谷 寺 二 代 能 化 の 性 盛 に 伝 え ら れ た。 そ れ が 性 盛 の 死 後、 弟 子 達 の 後 住 争 い に よ り、 こ の 中 性 院 流 の 法 流 や 伝 書 類 が 長 谷 寺 か ら 智 積 院 に 移 つ て し ま う。 こ れ が 根 来 滅 亡 後、 長 谷 寺 と 智 積 院 の 両 本 山 が 併 立 し た 当 時 の 新 義 真 言 宗 教 団 内 部 に お け る 主 導 権 争 い と か ら ん で、 複 雑 な 問 題 を 提 起 す る こ と に な る の で あ る。 尚、 中 性 院 流 の 法 流 相 承 に つ い て は 種 々 の 問 題 が あ る が、 本 論 で は 性 盛 が 慶 長 十 四 年 七 月 に 没 し て か ら、 ど の よ う な 経 過 を た ど つ て 長 谷 寺 小 池 坊 に 伝 わ つ て い た 中 性 院 の 法 流 や 伝 書 類 が 智 積 院 に 移 つ て し ま つ た の か、 と い う こ と に 視 点 を 定 め 考 え て み た い。 中 性 院 流 を め ぐ る 長 谷 寺 と 智 積 院 の 諄 論 に 関 す る 先 学 の 論 考 と し て は、 智 積 院 側 に 立 つ 研 究 と し て 村 山 正 栄 氏 の ﹃ 智 積 院 史 ﹄ ( 昭 和 九 年、 弘 法 大 師 遠 忌 事 務 局 刊) 所 収 の ﹁ 黒 皮 籠 の 相 承 由 来 ﹂ と、 長 谷 寺 側 に 立 つ 研 究 と し て は 守 山 聖 真 氏 の ﹃ 真 言 密 教 史 の 研 究 ﹄ ( 昭 和 四 十 一 年 鹿 野 苑 刊) 所 収 の ﹁ 中 性 院 の 法 流 に つ い て ﹂ ﹁黒 皮 籠 を め ぐ る 争 い ﹂ が 代 表 的 な も の で あ り、 早 く か ら 注 目 を あ び て い た よ う で あ る。 両 氏 共 に、 性 盛 没 後、 弟 子 達 の 間 で 後 継 者 争 い が 起 り、 そ の 時 空 鏡 に よ つ て 中 性 院 の 法 流、 特 に 秘 書 類 を 収 め た 黒 皮 籠 が 長 谷 寺 小 池 坊 か ら 智 積 院 祐 宜 の 手 に 渡 つ た こ と は 一 致 し て い る。 し か し 村 山 氏 は 前 揚 論 文 の 中 で ﹁ 日 誉 後 住 申 渡 ﹂ 抜 文 を 典 拠 と し て、 近 世 初 期 の 長 谷 寺 と 智 積 院 ( 宇 高)

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-169-近 世 初 期 め 長 谷 寺 と 智 積 院 ( 宇 高) 性 盛 能 化 老 期 の 吻 り、 性 盛 の 二 大 高 足 な る 長 俊 房 叩 雅 と 空 鏡 房 性 範 ( 又 は 栄 範) と の 後 住 論 争 の 時、 空 鏡 和 尚 は 黒 皮 籠 を 所 持 し て 彼 の 寺 を 出 で、 之 を 智 積 院 祐 宜 能 化 に 相 伝 せ ら る る に 至 つ た も の で あ る。 慶 長 十 四 年 七 月 十 六 日 性 盛 能 化 示 寂 後 の 間 も な き 同 年 九 月 二 十 一 日 の こ と で あ る。 叩 雅 法 印 は 一 度 小 池 坊 を 襲 ひ 第 三 世 に 任 ぜ ら れ た る も、 其 後 程 な く 上 意 に 背 く こ と あ り て 小 池 坊 住 持 を 召 し 上 げ ら れ、 後 小 池 坊 は 水 戸 佐 竹 の 玄 立 旦 房 宥 義 に 与 へ ら る る に 至 つ た。 と 説 明 さ れ て い る。 こ れ を ﹃ 本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の 慶 長 十 七 年 ( 一 六 = 一) 十 月 廿 日 付 の 金 地 院 崇 伝 書 状 と 比 較 す る と、 一 書 令 啓 候。 長 谷 小 池 坊 能 化 職、 従 空 鏡 玄 音 へ 被 相 渡 候。 然 者 申 (耶 雅) 性 院 之 法 流、 近 来 小 池 坊 相 続 之 所 一一、 先 年 空 鏡 与 西 蔵 院 申 分 之 時、 従 空 鏡 貴 院 へ 被 渡 置 候 由、 其 通 候 哉。 如 前 々 小 池 坊 へ 被 相 渡 尤 二 存 候。 玄 音 坊 此 度 得 上 意 度 由、 被 申 候 へ 共、 先 内 証 申 入 候。 若 又、 御 存 分 之 義 於 在 之 者、 可 被 仰 越 候。 其 時 可 得 上 意 候。 恐 惇 謹 言。 (慶 長 十 七 年) 十 月 廿 目 金 地 院 3 (祐 宜) 智 積 院 僧 正 教 座 下 ﹁ (霧 義) 右 之 折 紙 玄 音 望 二 候 間 遣 候。 と あ り、 こ れ を み る と 中 性 院 の 法 流 は 近 来 長 谷 寺 小 池 坊 が 相 続 し て い た が、 第 二 代 性 盛 没 後 空 鏡 と 西 蔵 院 邦 雅 の 後 住 争 い が あ り、 こ の 紛 争 の 際、 中 性 院 の 法 流 が 小 池 坊 か ら 智 積 院 に 移 つ て い る こ と が わ か る。 こ の 時 の 空 鏡 の 立 場 で あ る が、 村 山 氏 は 邦 雅 に 敗 れ た た め に 法 流 を 持 出 し た と さ れ て い る が、 こ の 書 状 を み る と、 小 池 坊 の 能 化 職 は 空 鏡 か ら 玄 音 に 渡 つ て お り、 空 鏡 は 性 盛 の 次 の 第 三 代 能 化 に な つ て い た こ と が わ か る。 更 に 空 鏡 が 小 池 坊 第 三 代 能 化 で あ つ た こ と を 示 す も の に、 長 谷 寺 に 現 存 す る ﹁ 申 性 院 面 授 帳 ﹂ と 題 す る 冊 子 本 が あ る。 こ れ は 長 谷 寺 の 歴 代 能 化 が 弟 子 に 中 性 院 の 法 流 を 授 与 し た こ と を 自 署 入 り で 証 明 し て い る も の で あ り、 こ の 中 で 性 盛 の 次 に 空 鏡、 更 に 玄 音 ・ 秀 算 と 署 名 し て お り、 空 鏡 が 第 三 代 能 化 で あ つ た こ と は 間 違 い な い。 村 山 氏 は 邦 雅 が 長 谷 寺 小 池 坊 第 三 代 能 化 に な つ た と さ れ て い る が、 こ れ は ﹁ 日 誉 後 住 申 渡 ﹂ の 記 録 に よ つ た た め で あ り、 事 実 は 空 鏡 が 勝 利 を 収 め て い た は ず で あ る。 ﹁ 日 誉 後 住 申 渡 ﹂ は 寛 永 八 年 ( = ハ コ ニ) に 日 誉 が 智 積 院 を 引 退 す る 時 に 後 住 の た め に 新 義 真 言 宗 の 由 来、 特 に 智 積 院 の 正 統 性 を 主 張 す る た め に 書 い た と 伝 え ら れ る 記 録 で あ り、 全 面 的 に は 信 用 で き な い。 そ の た め 敗 れ た 空 鏡 が 智 積 院 祐 宜 を 頼 つ て 法 流 を 持 出 し た と す る 村 山 説 に は 賛 成 で き な い。 一 方、 守 山 氏 は 前 掲 論 文 の 中 で 性 盛 法 印 は 慶 長 十 四 年 七 月 十 四 日 に 入 寂 し て お る が、 此 の 時 空 鏡 房 性 範 な る 人 が あ つ て、 性 盛 法 印 の 付 嘱 を 受 け た と 称 し て 一 年 報 恩 講 の 論 義 を 勤 め た。 即 ち 能 化 職 を 執 行 し た の で あ る。 勿 論、 中 性 院 相 承 の 権 輿 た る 黒 皮 籠 も 手 申 に 収 め て 居 た こ と と 思 わ れ る。

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-170-然 る に 此 の 時 多 数 の 所 化 の 中 に は、 空 鏡 房 に 帰 服 し な い 一 派 が あ っ た。 此 の 一 派 は 英 岳 大 僧 正 の ﹁ 長 谷 寺 雑 録 ﹂ に 依 る と、 丹 波 か ら 再 住 し た た め に 丹 波 再 住 と 云 わ れ て い た 西 蔵 院 秀 盛 を 能 化 に 推 そ う と し た。 ( 中 略) 小 池 坊 大 衆 よ り 訴 え ら れ た 空 鏡 房 性 範 は 崇 伝 の 召 状 に 依 つ て 駿 府 に 出 向 し た。 此 の 時 空 鏡 は 黒 皮 籠 を 密 か に 初 瀬 か ら 持 ち 出 し て 京 都 に 立 ち 寄 つ て 智 積 院 第 二 世 能 化 祐 宜 法 印 に 預 け た。 と 述 べ ら れ て い る。 前 述 の 十 月 廿 日 付 の 崇 伝 書 状 を み て も わ か る よ う に、 性 盛 没 後、 空 鏡 と 西 蔵 院 が 後 住 争 い を し た こ と は 事 実 で あ る。 し か し 慶 長 十 四 年 頃 の 西 蔵 院 の 住 持 は 秀 盛 で は な い。 守 山 氏 も 指 摘 さ れ て い る よ う に、 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五) 八 月 廿 七 日 付 の 起 請 文 の 中 に 西 蔵 院 秀 盛 の 連 署 名 が み え る こ と は 事 実 で あ る が、 ﹁ 中 性 院 面 授 帳 ﹂ を み る と 慶 長 十 年 四 月 廿 八 日 の 条 に、 西 蔵 院 邦 雅 と あ り、 当 時 は す で に 秀 盛 か ら 邦 雅 に 代 つ て い た は ず で あ る。 更 に 空 鏡 は ﹃ 本 光 国 師 日 記 ﹄ 所 収 の 慶 長 十 五 年 九 月 四 日 の 栄 任 書 状 等 を み る と、 長 谷 寺 北 坊 か ら 訴 え ら れ て い る が、 小 池 坊 大 衆 か ら 訴 え ら れ て い る 事 実 は な く、 後 世 の 編 纂 物 で あ る ﹁ 長 谷 寺 雑 録 ﹂ に よ り、 小 池 坊 大 衆 に 訴 え ら れ た た め に 法 流 を 空 鏡 が 祐 宜 に 預 け た と す る 守 山 説 に も 賛 成 で き な い。 空 鏡 と 邦 雅 の 後 住 争 い に つ い て い さ さ か 私 見 を 述 べ て み た い。 邦 雅 の 経 歴 に つ い て は 明 白 で な い が、 ﹁ 中 性 院 面 受 帳 ﹂ の 慶 長 十 年 四 月 廿 八 日 の 条 に よ れ ば、 邦 雅 は 性 盛 か ら 正 受 者 と し て 中 性 院 の 法 流 を 印 可 さ れ て い る。 正 受 者 と は 法 流 相 続 者 の 代 表 と い う ご と で あ り、 当 時 は 邦 雅 が 性 盛 の 後 継 者 た る べ き 地 位 に い た も の と 思 わ れ る。 更 に 彼 が 西 蔵 院 に 住 し て い た と い う こ と は、 西 蔵 院 は 長 谷 寺 の 運 営 に あ た る 六 坊 衆 の 一 つ で あ り、 こ こ の 住 持 は 長 谷 寺 育 ち の 常 住 方 の 学 侶 が な る 慣 例 か ら み て、 邦 雅 は お そ ら く 常 住 方 の 学 侶 で あ つ た も の と 思 わ れ る。 こ れ に 対 し て 空 鏡 は 性 盛 か ら い つ 法 流 の 伝 授 を う け た か 明 白 で な い。 少 く と も 面 授 帳 に は 法 流 相 続 の 事 実 は な い。 し か し 面 授 帳 を み る と 慶 長 十 五 年 に は 空 鏡 が 能 化 と し て 中 性 院 の 法 流 を 伝 授 し て い る。 お そ ら く 確 証 は な い が、 空 鏡 は 専 誉 か ら 法 流 を 相 承 し て い た も の と 思 わ れ る。 空 鏡 は ﹃ 報 恩 院 問 条 々 私 ﹄ ( 東 寺 宝 菩 提 院 聖 教 百 三 十 五 ノ ニ 十 八) の 奥 書 を み る と、 天 正 十 七 年 頃 高 野 山 で 同 書 を 書 写 し て お り、 邦 雅 よ り 早 く か ら 活 躍 し て い る。 ま た そ こ に 土 佐 空 鏡 房 と 署 名 し て い る こ と、 更 に 日 誉 が 空 鏡 を 土 佐 常 通 寺 と 呼 ん で い る と こ ろ を み る と、 彼 は 土 佐 出 身 の 僧 で あ り、 長 谷 寺 に お い て は 客 僧 方 に 所 属 し、 客 僧 方 の 長 老 で あ つ た も の と 思 わ れ る。 長 谷 寺 内 部 に お い て は 常 に 常 住 方 と 客 僧 方 が 対 立 し て お り、 し か も 性 盛 の 長 谷 寺 入 山 を 快 よ く 思 つ て い な か つ た 専 誉 の 弟 子 達 が、 性 盛 没 後、 性 盛 の 押 す 邦 雅 に 反 対 し て 空 鏡 を た て た の で は な か ろ 近 世 初 期 の 長 谷 寺 と 智 積 院 ( 宇 高)

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-171-近 世 初 期 の 長 谷 寺 と 智 積 院 ( 宇 高) う か。 こ れ は 推 測 で あ り、 事 実 は 明 確 で は な い が、 両 者 に よ る 後 住 争 い が あ つ た こ と、 更 に 空 鏡 が 勝 ち 長 谷 寺 小 池 坊 第 三 代 能 化 に な つ た こ と は 事 実 で あ る。 空 鏡 は 観 智 国 師 存 応 ・ 金 地 院 崇 伝 ・ 栄 任 と い つ た 中 央 の 有 力 者 と 交 流 を も つ て お り、 こ れ ら の 助 力 を 背 景 に 邦 雅 を お さ え た の で あ ろ う。 尚、 現 在 伝 え ら れ て い る 長 谷 寺 歴 代 は 空 鏡 の 能 化 成 を 認 め ず、 専 誉 ー 性 盛 ー 宥 義 と 相 承 し て い る が、 黒 皮 籠 相 承 の 事 実 云 々 に 関 係 な く 空 鏡 を 性 盛 の 次 に 補 足 す べ き で あ る。 そ れ は と も か く、 長 谷 寺 小 池 坊 能 化 と し て 法 流 を 守 る べ き 立 場 に あ る 空 鏡 が な ぜ 中 性 院 の 法 流 を 智 積 院 に 移 し た の か、 私 は す こ ぶ る 疑 問 に 思 つ て い た。 従 来 の 村 山 ・ 守 山 両 氏 の 説 明 に は 納 得 で き な い が、 前 述 の 十 月 廿 日 付 の 崇 伝 書 状 を み る と、 空 鏡 が 智 積 院 祐 宜 に 渡 し た と 考 え る の が 妥 当 の よ う で あ り、 経 過 は 異 な る が、 両 氏 の 説 と 大 同 小 異 で あ つ た。 と こ ろ が 最 近 私 は 東 寺 宝 菩 提 院 聖 教 の 整 理 中 に 慶 長 十 八 ・ 九 年 頃 と 推 定 さ れ る ﹁ 智 積 院 人 衆 之 事 ﹂ の 連 名 中 に 智 積 院 日 誉 の 次 に 西 蔵 院 邦 雅 の 署 名 が あ る こ と を 見 つ け た。 こ れ を み る と 後 住 争 い に 敗 れ た 邦 雅 は そ の 後 長 谷 寺 を 離 れ て 智 積 院 に 移 つ て い た こ と が わ か る。 そ の 頃 長 谷 寺 西 蔵 院 に は す で に 性 繁 が 住 持 を し て い た こ と が 面 授 帳 か ら う か が え る が、 邦 雅 は い ぜ ん 西 蔵 院 と 名 乗 つ て い た よ う で あ る。 邦 雅 と 智 積 院 の 関 係 に 注 意 し て、 そ の 後 空 鏡 の 関 係 資 料 を 調 べ て み る と、 長 谷 寺 所 蔵 の 慶 長 十 七 年 卯 月 十 三 日 付 の 板 倉 勝 重 ・ 円 光 寺 元 信 連 署 書 状 を み る と、 空 鏡 は 幕 府 を 通 し て 法 流 返 却 を 智 積 院 祐 宜 に 頼 ん で お り、 彼 が 祐 宜 に 預 け た の な ら ば こ の よ う に 複 雑 な 手 続 き を と ら な く て も よ い よ う に 思 わ れ る。 更 に 従 来 の 極 め 手 と な つ て い た 同 年 十 月 廿 日 付 の 崇 伝 書 状 の 記 載 も、 そ の 頃 空 鏡 の 能 化 失 脚 を 画 策 し て い た 玄 立旦 房 宥 義 の 言 い 分 を 伝 え て い る も の で あ り、 空 鏡 の 時 に 法 流 を 智 積 院 に 渡 し た こ と は 事 実 で あ る が、 空 鏡 が 渡 し た か ど う か は 疑 問 で あ る。 多 分 に 宥 義 が 空 鏡 の 法 流 紛 失 の 責 任 を 難 詰 し て い る よ う に も 思 え る。 邦 雅 は 後 に 智 積 院 に 移 住 し て お り、 空 鏡 以 上 に 密 接 な 関 係 に あ つ た。 し か も 性 盛 か ら 正 受 者 に 指 名 さ れ た 邦 雅 は 中 性 院 流 の 伝 書 類 を 収 め た 黒 皮 籠 も 相 承 し た も の と 思 わ れ る。 と こ ろ が 邦 雅 は 後 住 争 い に 敗 れ た た め、 空 鏡 の 能 化 就 任 に 反 対 し て 黒 皮 籠 を 持 出 し て 長 谷 寺 に 対 立 す る 智 積 院 に 身 を 寄 せ た の で は な か ろ う か。 そ の た め 黒 皮 籠 は 空 鏡 の 手 を 経 な か つ た の で は な い か、 空 鏡 は こ れ を 宥 義 か ら 幕 府 に 訴 え ら れ た た め に 長 谷 寺 追 放 と な り、 し か も 歴 代 か ぢ 除 名 さ れ た の で あ ろ う。 こ の よ う な 空 鏡 と 邦 雅 の 行 動 を み る と、 確 証 は な い が、 中 性 院 の 法 流 を 長 谷 寺 小 池 坊 か ら 智 積 院 に 持 出 し た の は 空 鏡 よ り 邦 雅 の 方 が 可 能 性 が 強 い よ う に 思 え て な ら な い。 勿 論 こ れ は 私 の 推 測 の 域 を 出 な い が、 従 来 の 空 鏡 一 辺 倒 説 も 再 検 討 す る 必 要 が あ る と 思 わ れ る。

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