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天皇制慈恵主義と私─或る研究会における報告と討 論から

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天皇制慈恵主義と私─或る研究会における報告と討 論から

著者 遠藤 興一

雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji

Gakuin sociology and social welfare review

巻 155

ページ 79‑127

発行年 2020‑02‑28

その他のタイトル Fundamentals of the Royal Charity System in Japan 

URL http://hdl.handle.net/10723/00003840

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【研究ノート】

天皇制慈恵主義と私

──或る研究会における報告と討論から

遠   藤   興   一

はじめに

  この研究ノートは、二〇〇九年三月二日、キリスト教公共福祉研究会において筆者が報告し、

その際同報告内容をめぐって討論が行われた。当時の様子を記録した録 音を起して文章化したも

のである。今日からみれば、一〇年以上も以前のことで、天皇制および社会福祉をめぐる内外の

情勢は天皇の代替わりもあり、状況は変化しており、これをそのまま文字化することには、少な

からずためらいがある。しかし、後進の研究にとって一助ぐらいにはなるかなと思ったことが

きっかけで、ここにそれを発表することにした。当時この席で対論の相手役を担ってくださった

のは稲垣久和(東京基督教大学教授)、河幹夫(神奈川県立保健福祉大学教授)のお二人であるが、

同席なさっていた篠崎恭久、高橋伸幸、井上貴詞氏にも加わっていただけた。

天皇制慈恵主義と私

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報告   本日の話はタイトルを「天皇制慈恵主義と社会福祉」とさせていただきました。対論に先だつ資料として、論

文の抜き刷 り

を皆さんにお配りしています。お話する内容の目次はここからとっていますが、最後のところは本

日初めてお話する内容です。これを最後に加えたことについては、多少の経緯があります。稲垣先生と雑談して

いて、憲法八九条に公私分離の原則が書かれたことについて、先生はこの条文のなかに出てくる「慈善」という

用語に非常にこだわっていました。私もこの点については以前から気がついており、少なからず問題を感じてい

ま し た の で、 そ れ に つ い て 調 べ て く る の が 宿 題 か な と 思 い、 「 憲 法 八 九 条 に お け る『 慈 善 』 の と ら え か た 」 と 題

して最後に付け加えました。というわけで、今日は新しい知見を申し上げるのではなく、大学の紀要に書いたも

のの報告会のような形になってしまうかと思います。分らないことも沢山あり、お答えできないこともあろうか

と存じますが、どうぞそのときはご勘弁ください。

  まずはじめに、 エピソード風にといいますか、 ジャーナリスティックな話題から入ってみたい。私の手元には、

今 日 は お 配 り し て い な い( 配 る に 値 し な い、 と い う 意 味 も あ る の で す が ) コ ピ ー が あ り ま す。 「 新 し い 歴 史 教 科

書をつくる会」

(会長は西尾幹二)

という民間団体がありますが、 この団体は最近二つのグループに分裂しました。

どちらも思想的立場、 人脈は同じなのですが、 その、 どちらかといえば少数派にあたる「教科書改善の会」が、 「き

ちんと選ぼう、子供の教科書」という題のブックレットを出し、かなりの数が配布、市販されております。その

天皇制慈恵主義と私

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な か で「 教 科 書 に の せ た い 話 」 と 題 し て、 扶 桑 社 か ら 出 た「 新 し い 歴 史 教 科 書 」 を 引 用 し な が ら、 「 日 本 の 原 点

の イ メ ー ジ を 伝 え る 神 話、 伝 承 」 と い う 記 事 と、 「 昭 和 天 皇 」 と い う 括 り を 一 緒 に し て 記 事 に し て い ま す。 そ れ

を 次 に 紹 介 し ま す。 「 大 東 亜 戦 争 終 結 後 の 過 酷 な 占 領 下 で、 苦 難 に 負 け ず、 力 強 く 国 民 に 生 き て ほ し い と い う 切

なる願いを詠まれた、 昭和天皇の御製(天皇陛下のお歌)です。……戦争に傷つき、 疲れた国民を慰め、 励まし、

勇気を与えようと思い立たれた天皇は、 昭和二一

(一九四六)

年二月から二九年まで、 約八年半をかけて日本各地、

一四一カ所を巡幸されました。各地で天皇は復興に励む人々と親しく言葉をかわし、国民を励まされました。国

民は天皇のそうしたお姿に感動し、固く復興を誓いました。その様子をドイツの大学教授オット ・ ガロンは、 『陛

下が各地を巡幸されると、いたるところで民衆が陛下をお慰めするつもりで大歓迎している。こんなゆかしい国

が 他 の ど こ に あ る か 』 と 感 嘆 し た 」 と、 こ の よ う に 記 述 し て い ま す。 昭 和 天 皇 の 生 涯 は、 「 大 き な 敗 戦 と 奇 跡 の

復 興 を 経 験 し た 昭 和 と い う 激 動 の 時 代 を、 一 貫 し て 国 民 と と も に 歩 ま れ た 生 涯 で し た 」

(同ブックレット、一八~

一九頁)

と締めくくっている。 戦前の神権天皇制が象徴天皇制に変わったことには、 一切触れていません。 そして、

このような話は教科書に載せて是非とも子供たちに伝えなければならないというのが、ここでの主張になってい

るわけです。いわゆる「戦後巡幸」は、昭和天皇が敗戦の翌年、つまり人間宣言をした一九四六年から占領期の

終った後まで続き、 広島から始めて北海道まで、 沖縄を除く全国各県を巡幸した、 そのことは当時の新聞やジャー

ナリズムによって逐一報道されているわけです。この事実を歴史の客観的解釈者として、ドイツの大学教授とい

われる外国人をもってきて、欧米人の眼で天皇や天皇制を評価し、感動する姿を提示し、我われ日本人も子供た

ちにこのことを是非伝えましょうといっている。

天皇制慈恵主義と私

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  さて、本題に即していえば、天皇制慈恵主義は、明治の欽定憲法下において早ばやと制度化し、多額の皇室資

金をもとに、活発に展開したので、政治的にも重要な役割を背負うことになりました。この事実を詳しく語るこ

とについては、時間の都合もあり本日は省略し、むしろ論争を呼ぶ問題点(ポレミック)にしぼってお話をして

みたいと思います。まず、 天皇制慈恵主義は大方の予想に反し、 今日でも形を変えてきちんと機能しております。

そ し て、 多 く の 国 民 に と っ て は こ れ が 精 神 的 な 拠 り 所、 慰 藉、 奨 励 と い う 機 能 を 伴 い、 国 民 の 精 神 文 化 に 触 れ、

ひとつの方向に世論誘導を演じつつある、ということですね。冒頭にブックレットの話をもってきたのは、この

天皇制慈恵主義の実態は 「新しい歴史教科書をつくる会」 の人たちが主張する政治的意図と重なり合う一面を持っ

て い る こ と、 そ の 意 味 に お い て こ れ は 大 い に ポ レ ミ ッ ク ス と し て 論 じ な け れ ば な ら な い と 思 っ た も の で す か ら、

報告の〝枕〟として申し上げます。

  天皇制慈恵主義の制度的特徴   社会福祉の通史的な教科書を開くと、明治維新の後に天皇制慈恵主義が成立、展開したという歴史記述は圧倒

的 に 多 い。 し か し、 こ れ は そ う で な く「 賑 給 」( し ん き ゅ う、 し ん ご う ) 制 度 と し て 奈 良 時 代、 つ ま り 古 代 律 令

制のもとで既に存在しておりました。これは法令上の史実として、歴史資料に出てくるだけでなく、具体的な運

営実績を記載した文書も残っており、吉田久一先生の研究をみると、いつ、どこで、どのくらい、どういう経過

で実施されたかということが、 畿内地方を中心に記述されています。それは罹災救助であったり、 貧窮救済であっ

天皇制慈恵主義と私

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たり、施設収容であったり、そういう内容に関するものとしてです。

  しかし 、 こ の賑 給 ( あ る い は 賑 恤 ) は 同 じ 律 令 体 制 下 と は い え 、 公 的 な 救 済 と は 異 る 、 い わ ば 皇 室によ る 私 的

な 救 済 で あ っ た こ と 。 必 ず し も 厳 密 な 形 で 使 い 分 け が な さ れ た わ け で は な い に し ろ 、一 方 に 公 的 な 救 済 制 度 が あ っ

た わ け で す か ら 、 そ れ と は 明 ら か に 異 る も のだ っ た 。 つ ま り 、 中 央 政 府 が 主 体 と な っ て 、 公 的 救 済 が 行 な われ た

こ と と 並 行 し つ つ 、 天 皇 の 名 によ る 私 的 な 救 済 が 行 な われ 、 二 本 立 て で 救 済 制 度 が 機 能 し て い たわ け で す ね 。 こ

の こ と を 、 後 に な っ て 、 つ ま り 、 維 新 政 府 が 救 済 政 策 を 実 施 す る う え で土 台 、 前 提 にし て い る 。 明 治 政 府 が 掲 げ

た王 政 復 古 の 「 王 政 」と は 、 律 令 国 家に 戻 る こ と を 意 味 し 、 統 治 理 念 と し ても こ れ を 主 張 した 。 維 新 後 の太 政 官

制 と はそ う いう も の で す 。 こ こ に 倣 っ て 様 ざ ま な 行 政 省 庁 が 設 置 さ れ 、 一 方 で は 近 代 的 な 、 西 欧 の諸 制 度 を 導 入

し な が ら 、 同 時 に 旧 来 の 王 政 、 こ の場 合で い え ば 賑 給 ( 賑 恤 ) を と り 入 れ て い る 。富 国 強 兵 策 を 推 し 進 め る か た

わ ら 、 明 治 二 年 頃 か ら 天 皇 の 名 で 交 付 さ れ た 文 書 、 あ る い は 詔 書 、 宸 翰 な ど を 追 っ て い く と 、 こ う し た 様 子 が は っ

き り と 示 さ れ ま す 。 そし て 、 教 育 制 度 を通 じ て光 明 皇 后や 仁 徳 天 皇が 庶 民 の 生 活 を 賑 わ せ よ う と し て 、 様 ざ まな

試 み を 行 っ た 話 が 国民 の 間 に 衆 知 さ れ た 。 明 治国 家 が 形 成 さ れ る 過 程 で 、 国 家 の 有り 様

(レ─ゾン・デ・タ)

が 確

立 し て い く 時 、 天 皇 親 政 論 、 立 憲 君 主 論 、 議 会 主 義 が と り ざた され て い く 過 程 を み ると 、 最 初 は 天 皇 親 政 論 が 有

力 で した が 、 や が て 、 立 憲 君 主 論 が 勢 を 得 て い く なか 、 内 務 卿 、 大 久 保 利 通は ま ず 公 的 救 済 制 度 と し て 恤 救 規 則

(一八七四年  公布)

を 制 定 、 公 的 な 救 済 立 法 と し ま す 。 す る と 、 ど う し て も 賑 給 制 度 は 後 退 し て い く よ う に 見 え

て き ま す 。 そ し て 歴 史 記 述 と し て 通 史 の記 述 か ら や が て 消 え てし ま う 。 あ る い は 、 曖 昧 化 し て い く ん で す 。 そ れ

が 明 治 四 〇 年 頃にな っ て 感 化 救 済 期 と 呼 ば れ る 時 期に 、 再 び注 目 を 浴 び る よ う にな る 。 やが て 、 恤 救 規 則 を 中 心

天皇制慈恵主義と私

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に 救 貧 行 政 が 論 じ ら れ る よ う に な る と 、こ の 法 律 を 如 何 に 拡 大 、充 実 さ せ る べ き か と い う こ と が 関 心 の 的 に な っ た 。

例 え ば 、 救 貧 法 案 を 度 々 議 会に 提 出 す る 動 き な ど がそ う した 試 み の 一 例 です 。 結 局 、 恤 救 規 則 は 成 立 し て か ら 足

か け 半 世 紀 以 上 経 っ た 一 九 二 七

(昭和四)

年 に な っ て 、 よ う や く 救 護 法 ( 国 家 に よ る 保 護 義 務 ) に と っ て 代 ら れ る

こ と に な り ま す 。 そ の 間 の経 緯 に つ い て は 、 行 政 資 料 、 議 会 議 事 録 そ の 他 を 見 る と 詳 細 が 記 載 さ れ 、 今 日 で は 様

ざ ま な 史 実 が 分 か るよ う に な っ てお り ま す が 、 さ て 賑 給 制 度 の 帰 趨 に つ い て は ど う か 。 そ の間 、 ほ と ん ど 関 心 が

持 た れ な い ま ま 時 間 だ け が 経 っ て し ま い ま し た 。 な ぜ 、 そ う な っ て し ま っ た の か 、 こ の 点 に 触 れ て み ま し ょ う 。

  天皇親政論は政権内部の政策抗争で敗れ、太政官制もやがて廃止になりますが、この論争の中心にいたのは大

久保利通で、対抗する立憲議会主義的立場の中心にいたのは伊藤博文です。伊藤はご存知のように幕末欧米に留

学した際、イギリス型の議会主義を学んで帰国しております。大久保が倒れた後、この方面のイニシァティブを

握ったのは伊藤で、その際天皇の政治的位置づけが重要なテーマとなり、やがて帝国憲法が成立した際に明確化

するのです。天皇は統治権の総攬者ですから、議会主義者といえども、天皇をここから除外することなどは考え

ら れ ま せ ん。 結 局、 政 治 の 運 営 は 議 会、 政 府、 各 省 庁 が 分 担 し て 行 い、 同 時 に 天 皇 は そ の 実 権 を こ こ に 委 任 し、

議会や政府はこの天皇の意思に応え、かつ補弼する関係ができあがります。しかし、これによって天皇親政(親

裁)が無くなったのかといえば、そうではない。具体的なことをいえば、この方面の政治的運営を主幹したのは

宮内省で、時に政治の裏や表にあって、その政治権力を天皇の権威のもとで発揮した。大正期の例でいえば宮内

大臣であった牧野伸顕を中心とした〝牧野グループ〟が側近政治を試みたことがあげられる。彼等はなかば内閣

から独立し、天皇を補佐する役割を演じました。そして、賑給(賑恤)はもっぱらここが担い、天皇制慈恵を具

天皇制慈恵主義と私

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体的な政策レベルに下ろしていったのです。

  その際、政策を実施するための必要な財源をことさら国家予算に求めることはせず、天皇家の自己資産が深く

関わることになります。その財産はいったいどのくらいあったのか。正確な統計数値は全く不明です。わずかに

有価証券や銀行預金、あるいは土地、建物といった動産、不動産までは換算できますが、それ以上のことは明治

から今日に至るまで、一切公表されず、表に出てきません。いずれにせよ、天皇家は平たくいえば日本一の大地

主、大金持ちで、欧米諸国の王室などと比べても、飛び抜けて豊かな資産家であったことは明らかです。皇室経

済法という法律があります。それを施行するうえにおいて費目、金額の細目を定めたのは皇室経済法施行法です

が、これにもとづいて皇室関係の財政は全てまかなわれました。ここに予算化されることで、各宮家を含む皇族

の公私にわたる支出金は充分に出し入れが可能になるわけで、その運用内容は、限られた側面だけが今日分かっ

ております。例えば、 宮中行事や公務に関しては国会への報告義務を伴うため、 予算、 決算の数値は出てきます。

天皇とその家族の日常的生活費に相当する内廷費も、 項目に出てくる限り数値ははっきりしています。あるいは、

天皇の名において支出される、いわゆる下賜金の類いも、戦前だったら臣下や軍人を中心としたケースなら或る

程度まで分かります。ところがそれ以外のことになると、皇室経済費として公表する必要はないとみなされ、全

く自由に使うことができ、これがいわゆる御手元金と呼ばれるものになるのですね。こちらは、繰り返すようで

すいませんが、実態は今日も一向に分かっていない。その一方、天皇家には毎年国家予算から支出される皇室費

があります。発表される金額は運用実態からみれば明らかに過少で、戦前の例でいえば三〇〇~四五〇万円ほど

でした。それで内廷費の全てが賄えるかどうか、御手元金の動向ひとつをとってみても、不可能なことはすぐに

天皇制慈恵主義と私

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分かります。そこで、不足分を外から持ってくる。つまり、宮中行事などのための公務費用とは別に財源があっ

たということですね。それらは私的な生活費に関わる事柄とみなされます。ここに慈恵に関する下賜金はほぼ全

額含まれる。

  社 会 福 祉 の 世 界 に 下 り て く る 金 品 の 大 半 は 恩 賜 金 と か 下 賜 金 と 呼 ば れ ま す が 、 そ れ ら は こ こ か ら 支 出 さ れ た 。

つ ま り 、 こ の 金 品 は 天 皇 、 皇 后 、 各 宮 家 と い っ た 皇 族 の 思 し 召 しに よ っ て 下 さ れ た も の 。思 し 召 し だか ら 義 務 で

な く 、 定 型 化 し た ル ー ティ ン で も な い 。 そ の 都 度 「 気の 毒 だ な 」、 「 大 変 だ ろ う な 」 と い う 思 い が あ っ て 、 そ の 思

い を 物 や 金 で 表 わ そ う と す る と き に 使 わ れ る 言 葉 な の で す 。 国 か ら 支 出 さ れ る 補 助 金 、 助 成 金 と は 異 る わ け で す 。

戦 前の 例 で い え ば 、 オ カ ミか ら 社 会 福 祉 の 現 場 に 下 り て く る 金 銭 に は 三 つ ほ ど の ル ー ト が あ り ま し た 。 一 つ は 下

賜 金 で 、 宮 内 省 か ら下 りて き ま す 。 二 つ は 内 務 省 の 助 成 金 ・ 補 助 金 、 三 つ は 恩 賜 財 団 慶 福 会 によ る も の 。社 会 福

祉 の 現 場 だ け で な く 、罹 災 者 、難 民 を 含 む 生 活 困 窮 者 の 救 済 を 行 う 場

合 は 少 な く な い 。 一 般 に 内 務 省 か ら の 補 助 金 ・

助 成 金が 組 まれ 、 通 常 の 国 家 予 算 は こ こ に 振 り 当 てま す 。 あ と の 二 つ は 天 皇 制 慈 恵に よ る も の 、 恩 賜 財 団 慶 福 会

は 基 金 を 設 け 、 そ の 運 用 か ら 得 た も の を 振 り 当 てました 。 明 治 天 皇 の 母 、 英 照 皇 太 后 が 亡 く な っ たとき に 寄 贈 さ

れ た 基 金 ( 当 初 は 四 〇 万 円 )、 そ の 後 照 憲 皇 太 后 ( 美

はる

) が 亡 く な っ た と き 、貞 明 皇 太 后 ( 節

さだ

) が 亡 く な っ た と き 、 あ る い は 香 淳 皇 后 ( 良

なが

) に よ る 基 金 が 加 わ り 、 漸 次 基 金 を 増 額 、 そ れ を 財 団 化 し て 資 金 運 用 に あ て た わ け で す 。

手 際 よく 考 え ら れ て い る な と思 わ れ る の は 、 金 銭 を 配 分 す るとき に それぞれ 住 み 分 け が なされ 、 慶 福 会 か ら 下 り

て く る 助 成 は 施 設 の建 築 費 な ど 、 大口 の 金が 必 要 な とき に 申 請 す る と 下 賜 さ れ 、 一 方 宮 内 省 か ら の そ れは 、 金 銭

的 に 慶 福 会 よ り も 少 額 で す が 、 こ ち ら は ま ず 道 府 県 に 、 そ し て 下 部 の 自 治 体

(市区郡町村)

に 回 さ れ 、 こ こ に 民 間

天皇制慈恵主義と私

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から の 篤 志 寄 付 、 自 治 体 から の 協 賛 金 ( 引 き 当 て 金 ) が 加 わ り 、 道 府 県 独 自 の救 済 制 度 化 を 奨 励 、 そし て 金 銭 は

個 別 施 設や 地 域 に 下 り てき ま す 。 そ の 場 合 、 道 府 県 毎に それぞれ 別 個 の救 済 制 度 を 設 け る わ け で 、 自 治 体に よ っ

て 財 政 事 情 は 異 な り ま す か ら 、 寄 付 金 、 協 賛 引 き 当 て金も 異 な り ま す 。 こ の よ う な 形 で 戦 前 の 社 会 事 業 現 場 に 向

け て 必 要 に 応 じ 、あ る い は 緊 急 避 難 的 に 支 給 さ れ ま し た 。 以 上 が 、天 皇 制 慈 恵 を 支 え る 財 政 基 盤 に あ た る も の で す 。

  天皇制慈恵主義の担い手   最近、注目されるジェンダー論のなかに皇后を登場させたものがあります。この視点から皇后の存在と役割が

見直されているわけです。例えば、片野真佐子は近代皇后論を本にして出版していますが、他にもいくつか出は

じ め て い ま す。 そ の 研 究 姿 勢 は、 「 新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会 」 の そ れ と は 異 な っ た も の で、 ジ ェ ン ダ ー 研 究

の潮流から出てきたもの。男性中心の男系社会において、 彼女らはこれだけのことをしてきたというプラス ・ ジェ

ンダーの視点から女性としての皇后に注目している。 日

本 女

なでしこ

性 の鑑、典型、模範としてみるのでなく、あくまで

もひとりの女性の生き方として注目しております。戦前の帝国日本を代表するのは大元帥である天皇で国権上の

統治者ですが、いうまでもなく軍事上のそれである。困窮に苦しみ、疫病に悩む人びとに手を差し延べる、そう

いう意味で内治の象徴となったのは皇后です。つまり、慈恵の担い手となったのは、天皇とともに活躍する皇后

であったわけです。慈恵を特徴づけるものは、 第一に金銭の授受ですが、 同時にもうひとつの機能がありました。

例えば、石井十次が経営する明治期の岡山孤児院の場合、毎年一〇〇円ずつ下賜されましたが、これは大規模収

天皇制慈恵主義と私

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容 施 設 の 維 持 費 全 体 か ら み れ ば 、 極 め て 過 少 で し た 。 と こ ろ が 、 こ の 下 賜 金 が 下 り て く る こ と に よ り 、 別 の フ ァ ン

ク シ ョ ン が 動 き 始 め ま す 。 戦 前 の 狭 い 福 祉 文 化 と い う か 、 精 神 風 土 を 眺 め る と 、 石 井 の よ う な 慈 善 事 業 家 は 、 往 々

に し て 世 間 か ら 変 人 、 奇 人 の よ う に 見 ら れ た も の で す 。 で す か ら 世 間 の 多 く は 傍 観 者 的 な 、 時 と し て 冷 た い 眼 で

そ の 活 動 を 眺 め た 。 普 通 人 には 近 づ き 難 い 篤 志 家 だ っ た わ け で す ね 。 そこ へ 下 賜 金 が 下 り て く る 。 あ る い は 施 設

経 営 者 が 宮 中 に よ ば れ て 拝 謁 、 陪 餐 に あ ず か っ た り す る 。 留 岡 幸 助 や 山 室 軍 平 も そ う し た 「 名 誉 」 に 与 り ま し た 。

か く の ご と く 、 民 間 の 施 設 長 が 宮 中 に 招 かれ た り す れ ば 、 一 気 に 地 元 の 名 士 に 変 貌 す るわ けで す 。 こ う し た 顕 彰

が も と に な っ て 、 地 域 社 会 、 そ れ も 底 辺 庶 民 の 側 か ら 皇 室 制 度 を 支 え る 働 き を 高 め 、 天 皇 制 は 人 々 の そ う し た エ ー

ト ス を 背 景 に し て 益 々 強 化 さ れ て い く 。皇 室 賛 美 は こ の よ う な 庶 民 の 心 裡 に 喰 い 込 む こ と で 、益 々 強 固 な も の に な っ

て い き ま す 。 一 方 、 日 夜 処 遇 や 経 営 に 苦 労 し て い る 施 設 関 係 者 に と っ て も 、 日 頃 の 苦 労 が 報 われる 稀 有 な 経 験 と

な っ て 、意 欲 が 引 き 継 が れ る 。 こ の 時 、注 目 す べ き は 慈 恵 に と も な っ て 、 救 済 す る 側 、 さ れ る 側 の 両 者 に よ っ て

共 有 さ れ た エ ート ス が 上 流 、 中 流 階 級 の人 び と で な く 、 社 会 の 底 辺 層 によ っ て 培 われ た と いう こ と 。中 産 階 級 の

人 び と に と っ ては 、 日 常 的 な 救 済 は 縁 が な い 。と こ ろが 下 層 社 会 に 住 む 人 び と に と っ ては 、 極 端 な こ と を いえ ば

生 き る か 、 死 ぬ か の 瀬 戸 際 に あ っ て の 出 来 事 で す か ら 、 そ の 有 難 味 は 普 通 の 人 の 場 合 と は ち ょ っ と 違 う わ け で す 。

  その財政基盤と運用

  今 日、 皆 さ ん に お 配 り し た 図 表 の う ち、 「 官 金 救 済 と 慈 恵 救 済 の 比 較 」 は、 公 的 扶 助 で あ る 官 金 と 慈 恵 に よ る

天皇制慈恵主義と私

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資金を折れ線グラフにして比べたもので す

。金額はパラレルに連動している時期もあれば、一方が増えると他方

が減少するという具合に逆比例する時期もあって、 相互の関係をひとつの傾向線で括ることはできない。しかし、

この慈恵救済金が官金と並んで、これほど大きな割合で推移したという事実は、これまで全く見落とされてきた

ことなんです。次の表は恩賜・下賜金の支出状況をまとめたもので す

。支出の正確な状況は、行政資料にも宮内

省報にも記載されていませんから全く分かりません。ただし受け取った側にとっては名誉なことですから、しっ

か り 記 録 と し て と っ て お き ま す。 金 額 は 勿 論 の こ と、 他 に 賞 状、 花 瓶、 硯 箱 と い っ た 類 い の 記 念 品 に 至 る ま で、

菊の紋をおしいただくようにして大切に扱います。それらのなかから、可能な限りまとめてみたものがこの表で

す。一九四六年まで出てくるのは、戦後もしばらくこの仕組みは存続したたためで、それは宮内省が宮内府、宮

内庁となった今日まで規模を小さくしながら続きます。しかし、この数値はことのなりゆき上、正確さを反映し

たものとは言い難く、私の見たところでは傾向性を示しているものとみて、おおよその総額は八〇〇〇万円から

九 〇 〇 〇 万 円 支 出 し た こ と が 分 か っ て い る、 と い っ た と こ ろ で し ょ う か。 項 目 別 に 見 る と、 「 地 震・ 噴 火 」 に は

じまり、 「社会事業」や、 「労働災害・事故」などが登場します。次に出てくる表も、項目別に下賜金がいつ、ど

れくらい支出したものかが分かるようになっていま す

  戦後に続く問題として   以上、概略を説明してまいりましたが、次にこれらは現在、どのような形で続いているのか、その経緯につい

天皇制慈恵主義と私

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てお話します。最初に、人格的支配ということに触れてみましょう。私は日頃、これから社会福祉を学ぼうとす る 学 生 さ ん に む か っ て、 社 会 福 祉 の 世 界 に 関 わ る と い う こ と は、 い わ ゆ る 没 価 値(

weltfreiheit

) の 仕 事 に 就 く

ということではないと言います。例えば、経済学を漢字でみると「経世済民」ですから、文字にどおりにとれば

貧乏な者を救済し、 生活を少しでも豊かにすること。 ここには明らかに価値が関わっています、 救済という意味で。

ところが、 これがモダン ・ エコノミックスという社会科学の一分野になりますと、 没価値、 価値中立が原則となり、

価値をストレートな形では持ち込まない、それが科学の論理だと考える。客観的な基準や科学的合理性を担保す

る た め に は、 な る べ く な ら「 没 」 に す る か、 「 自 由 」(

freiheit

) に し た う え で、 価 値 の 問 題 は 各 自 が そ れ ぞ れ 多

元主義的に扱えば良いとします。社会科学の先生には失礼なことを言うようですが、経済哲学、社会哲学を別に

すれば、要はそういうことだと思います。ところが、社会福祉学はそれでは成り立たない。つまり、価値を前提

とし、しかも日々価値を形成することによって成り立っている。それではたして良いのかどうかという議論は別

途可能ですし、理念として価値を標榜するだけなら様ざまにできますが、実際の社会福祉現場が抱えている問題

に即していえば、価値の問題を抜きにして仕事を考えることなどはできない。学生にはこのように説きます。こ

のことと深いところでつながっているのが、 人格的支配と社会福祉の関係なのです。話を天皇制に戻しましょう。

戦前の天皇は政治的権力者であり、精神的権威者でした。つまり、権力と権威で国民を支配した。相手は「臣民

(赤子) 」という位置づけですから、権威者として国民の前に現われ、国民はここに自発的な形で服従する。そう

いう精神的な機能が形づくられていきます。このような機能は自然発生的に生まれたものではなく、人為的に作

ら れ た も の で あ る こ と は、 今 日 歴 史 学 の 常 識 で あ り ま す が、 慈 恵 政 策 は こ こ に 深 く コ ミ ッ ト し て い る。 つ ま り、

天皇制慈恵主義と私

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こちらも社会福祉は価値の問題と深くかかわることによって、この問題につながってこざるを得ない、そういう

性格を背負っているわけです。このことを示す例が「日本社会事業年鑑」という、中央社会事業協会が毎年発行

してきたジャーナルに出てきます。それを開くと、毎号きまって巻頭に皇室と社会事業の関係が事細かに記され

ています。社会事業という分野そのものが如何に深く天皇制と関わっているかが分かる一例です。年鑑の第一章

は下賜金のこと、行幸啓のことが日誌風に逐時報告されている。その後、第二章以下において救貧、施療、貧孤

児収容、障害者、その他と続きます。つまり、社会事業それ自体が皇室の慈恵対象であることを年次報告は示し

ているわけです。政治的な権力関係とは別に、皇室は権威の象徴としてここに深く関わっており、福祉をとり込

んでいることが、よく分かります。これは稲垣先生が関わっている公共哲学における公・私関係や、日本的な公

の特殊性を考えるときも、我われが現実問題としてぶつかる点です。それは重い歴史的な課題を背負っていると

いうことですね。こういう課題を眼の前にすれば、ヨーロッパ的な政治モデルをここにポンと持ってくることは

できない。ここに介在してくる問題が、特殊天皇制的な慈恵だからです。この問題はあとで議論してもらいたい

し、私も皆さんから教えていただきたいところです。

  エピソード風なことを申しますと、戦前の雑誌を手に取ってその英文表記を見ると、だいたいが

privatesocial work

と な っ て い ま す。 あ る い は 戦 前、 民 間 団 体 に よ る 活 動 は「 私 設 社 会 事 業 」 と 呼 ば れ ま し た。 つ ま り、 ガ バ

メンタルに対するプライベートな事業なのですが、ここに稲垣先生がおっしゃるような意味でのボランタリーと

いう表現を見い出すことはできません。おそらく実態としてそういうものはなかったのでしょう。その代りに登

場するのが「公」ならぬ天皇制(オカミ)なのです。そして、これが戦前の社会福祉を通史から見た場合の実態

天皇制慈恵主義と私

(15)

です。時間の関係で詳しい話はできませんが、お配りした「罹災・噴火・風水害・難破・火災・災害救助費用の 支出額比較」表は、罹災救助費のうちで下賜金が占める割合を記したものです が

、慈恵政策のなかで最も支出の

多 い の は「 罹 災 救 助 」 で し た。 今 日 と 異 る 点 は、 戦 前 の 社 会 事 業 は も っ ぱ ら 内 務 省( 昭 和 一 三 年 以 降 は 厚 生 省 )

の管轄だったこと。罹災、施療、施設社会事業は教育や労働政策等と同じように扱われ、例えば特殊教育から社

会教育まで、学校教育以外は全てここに含まれ、はるかに広範な領域を扱っていた。ですから、孤児院や養老院

といった狭義の施設社会事業だけに注目するなら、その割合、金額はそれほど多くありません。で、ここから分

かることは、天皇制慈恵が扱う範囲は我われが想像するよりもずっと広範囲だったということ。加えて、罹災救

助 費 な ど は、 「 罹 災 救 助 基 金 」 と い う、 別 の 制 度 と 連 動 し な が ら 運 営 さ れ ま し た か ら、 基 金 的 な 財 源 と 言 う 性 格

も持っております。さらに内務省は度重なる災害を前にして、ここに備荒儲蓄的な役割を持たせるための制度化

の動きを見せました。それは後の防貧、予防衛生、さらには保険といった制度に近いもので、必ずしも罹災の直

接対応に終始したものだったわけはない。社会事業は徐々に社会政策のなかにとり込まれていった、ということ

ですね。ところが、こうした動きのなかでも、下賜金の存在はあくまで必要即応の原則を守っているのです。つ

まり、内務省から下りてくる政策動向と宮内省のそれと、部分的には重なりながら、やはり別個の政策対応を示

したということです。しかし、制度がルーティン化して行くに従い、天皇制慈恵のなかに、天皇、皇后の直接的

意思とは別に働くシステムもつくられ、運用されるようになっていく。はじめは天皇、皇后の名において設立さ

れた基金制度がいつしか道府県レベルにおける行政財源と結びつき、結局ほとんどすべての道府県が基金制度を

作 っ て、 運 営 す る こ と に な り ま す。 「 慈 恵 救 済 資 金

(明治四二年)

に お け る 下 賜 金 対 行 政 負 担 金 の 比 較

」 表 は、 そ

天皇制慈恵主義と私

(16)

の橋渡し的な役割を金銭面から見たもので、ここには明治四二年度分だけを掲げてあります。

  私が日頃親しくしている施設に、東京育成園と言うキリスト教の児童養護施設があります。小規模ですが、そ

の歴史をたどるとわが国における最も古い歴史をもった施設のひとつだということが分かるのです。戦後、措置

費 制 度 を 中 心 と し た、 公 私 分 離 の 原 則 に も と づ く 福 祉 国 家 構 想 が 主 流 を 占 め て い た 時 に、 「 私 」 を 尊 重 し、 戦 前

からの民間的精神も、多くを処遇の上に残しながら、特徴のある運営を展開しています。例えば、ここには会員

数が数千人に及ぶ後援組織があり、公的な助成、委託に関わる費用のほかに、後援会からの大きな財政的支えが

あって、日常生活や処遇を豊かな、実りあるものにしています。完全な担当制による二四時間保育、養護が行わ

れているわけではありませんが、それに近い子供との人格的な関係、密なる処遇を大切にしています。保育士や

指導員といった職員間の関係も良く、 戦後は最初に園舎のなかに小舎制を導入するなど、 興味深い福祉現場です。

それにもうひとつ、この施設の歴史を振り返って気がつくことは、皇室との関係が深いということ。皆さんにお

配りした資料のなかに、この施設の機関誌をコピーしたものがありま す

。二〇〇四年五月七日、天皇、皇后の行

幸 啓 を 受 け て、 大 変 な 名 誉 に 与 っ た と い う 記 事 が 出 て い ま す ね。 こ こ は 一 九 四 八

(昭和二三)

年 に 昭 和 天 皇、 皇

后が訪れており、戦前も各宮家が幾度か訪れています。その意味で、戦前から続く民間の代表的、典型的な施設

といえるでしょう。都内にあって、しかも戦災に遭わなかったため、古い記録も残っているので、私も時折訪ね

ては資料を拝見しています。二代目の園長、松島正儀さんは東京都の名誉都民になっています。福祉関係者で名

誉 都 民 に な っ た の は 四 名、 す な わ ち 徳 永 恕 さ ん、 ウ イ リ ア ム・ ア キ ス リ ン グ さ ん と い う バ プ テ ス ト 派 の 宣 教 師、

賀川ハルさん、そしてこの松島さんです。偶然なことに、皆さんキリスト教関係者ですね。松島さんやその周辺

天皇制慈恵主義と私

(17)

の 人 び と に 聞 き ま す と、 天 皇 家 や 皇 室 は い ま で も 敬 仰 の 対 象 で す。 で す か ら、 天 皇 や 美 智 子 皇 后 が 訪 問 す る と、

園の内外では和やかな時間が過ぎ、地域社会にとっても大きな慶事として受け容れられている。これなど施設と

それをとりまく社会が示す反応の典型的な例かも知れません。私がここで言いたいのは、慈恵に関する限り、戦

後と戦前はつながっている、ということです。いまは戦前よりもはるかにこうした行事のシステム化が進んでい

て、春は子供の日前後に児童福祉施設、秋は敬老の日前後に高齢者福祉施設、冬は障害者福祉週間に合わせて障

害者施設を訪れ、関係者を励まして回っている。他の行事で地方に出かけることがあれば、たいてい福祉施設の

訪問がスケジュールに組み込まれるといった具合です。これが果して必要なことか、そうでないかは議論の分れ

るところかも知れません。しかし、今日の社会福祉が示す実態のひとつがここにあり、戦前から戦後へみごとに

つ な が っ て い る。 こ の 連 続 性 の な か か ら、 冒 頭 に 紹 介 し た「 新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会 」 の よ う な 動 き と は、

どこかでつながる余地を持っていると想像することは充分に可能でしょう。だから、天皇制慈恵主義の存在意義

を今日問うことは、古くて新しいポレミックスなのです。

  憲法八九条と「慈善」のつながり   最後に、 稲垣先生からの宿題である憲法八九条の問題に移りたいと思います。八九条の枠組みを改めてみると、

「 公 金 そ の 他 の 公 の 財 産 は、 宗 教 上 の 組 織 若 し く は 団 体 の 使 用、 便 益 若 し く は 維 持 の た め、 又 は 公 の 支 配 に 属 し

ない慈善、 教育若しくは博愛の事業に対し、 これを支出し、 又はその利用に供してはならな い

」となっています。

天皇制慈恵主義と私

(18)

言ってみれば、公私分離の原則にもとづいて公金支出の制限、禁止について定めたもので、これをGHQが強く

求めた結果登場してきた。稲垣先生の疑問は、ここに「慈善」という言葉が出てくるのは何故なのだろう、とい

うことでした。戦後まもなくして現行憲法が作られた経緯について今日、様ざまな研究がありますから詳細につ

い て は、 そ ち ら に 譲 る と し て、 社 会 福 祉 の 諸 制 度 の そ れ も 例 外 で は な く、 様 ざ ま な 法 整 備 も 急 速 に 進 み ま し た。

特に生存権と基本的人権の確立をもとに、福祉はその装いを新たにしたのです。そのための施策論議はGHQの

民生局(GS)と公衆衛生福祉局(PHW)という衛生、保険、福祉を扱うセクションが中心になり、強力に進

められました。GHQの最高司令官はマッカーサーで、 次が副参謀長官、 その下に幕僚部があって、 そこは民生局、

公衆衛生福祉局、物資調達局、民間運輸局、天然資源局、経済科学局など一〇あまりの局に分かれ、日本政府を

直接、間接に支配、監督していたのです。GHQのなかで日本政府を相手に最も強い支配力、イニシァティブを

握ったのはGS、PHWで、そのなかでもGSの権力が最も大きかった。この民生局で最初の局長になったのは

C・ホイットニー、後にC・ケージスが代わります。憲法草案もここから出てきた。占領史研究者の竹前栄 治 さ

ん に よ る と 、「 次 長 の ケ ー ジ ス と ホ イ ッ ト ニ ー は と も に マ ッ カ ー サ ー の 腹 心 の 一 人 で 、 弁 護 士 出 身 。 次 長 の ケ ー ジ

ス と 組 ん で 初 期 の 民 主 化 政 策 を 担 っ た 。 そ の た め に 吉 田 茂 を は じ め 日 本 政 府 か ら は 恐 れ ら れ て い た 」 と い い ま す 。

  マ ッ カ ー サ ー 草 案 の 八 三 条

が 日 本 国 憲 法 八 九 条 に な り ま す が、 両 者 は ほ と ん ど 同 じ 内 容 で、 原 文 で も 慈 善、 教 育 も し く は 博 愛 と な っ て い ま す。 英 文 で は

charitable,education

と あ っ て、 博 愛 は

philanthropy

で は な く

benevolence

と 出 て き ま す。 ケ ー ジ ス を 中 心 と す る G H Q の 民 生 局 が つ く っ た 草 案 の 元 に な る 条 文 は い っ た い ど

こ に あ る の だ ろ う と 調 べ ま し た ら、 昭 和 二 五 年 一 一 月 刊「 注 解 日 本 国 憲 法( 下 巻 )」

(法学協会編・有斐閣)

と い

天皇制慈恵主義と私

(19)

うかなり古い文献のなかに、それを丹念に調べた跡のあるものがみつかりました。これによると、アメリカの連

邦 憲 法 に は こ こ に 相 当 す る も の は な い の で す。 し か し、 州 憲 法 に は あ る。 「 本 条( 八 九 条 ) は 若 干 の ア メ リ カ 州

憲 法 の 流 れ を 汲 む も の と 認 め ら れ る。 財 政 に 関 す る 連 邦 憲 法 に は 何 ら 規 定 は な い が、 ニ ュ ー ヨ ー ク、 ア ラ バ マ、

コ ロ ラ ド、 モ ン タ ナ な ど の 各 州 憲 法 に は 略 同 趣 旨 の 規 定 が 見 受 け ら れ る。 例 え ば モ ン タ ナ 州 憲 法 三 五 条 は 慈 善、

教 育、 博 愛 の み な ら ず、 産 業 上 の 目 的 の た め に ……」 と あ っ て、 「 州 の 絶 対 的 支 配 に と も な っ て 」 い る、 つ ま り

公的なものではないから、これ以外の「個人や団体が公金を支出することは禁止する」となっています。ところ

が、 一 九 三 八 年 以 前 は 公 金 を 私 人 ま た は 私 的 団 体 の た め に 支 出 す る こ と を 州 憲 法 は 禁 じ て い る の に、 こ の 年

(一

九三八年)

の 法 改 正 に よ っ て、 社 会 事 業 に 限 っ て 支 出 が 認 め ら れ る よ う に 変 わ っ た と 記 さ れ て い ま す。 ケ ー ジ ス

は文字通りこの条文をここに持ってきたのかどうか、それは分かりませんが、アメリカの州憲法のうち少なから

ぬところで、かつて公私分離の原則にのっとり、公金の支出は明確に禁止されていた。ところが、一九三八年以

後になると、場合によっては公金支出は許されると変わった。つまり運用上の原則を緩めたわけですね。ここか

らは私の推測が加わりますが、ところが宗教、教育も含めて社会事業に対する公金支出を日本に対しては厳しく

禁じ、これを認めなかった。つまり、厳しい原則適用を課した。日本に憲法八九条を設けるとき、州憲法の条文

そのものだけを持ってきて、運用規定のほうは除外したのではないか。それが八九条の原則適用につながったの

ではないかと思うのです。

  も う ひ と つ、 別 の 角 度 か ら み る と、 こ う い う こ と も 言 え る。 す な わ ち、 「 逐 条 日 本 国 憲 法 審 議 録

)(1

」 に 八 九 条 に

関する日本側の審議記録が載っていますが、これは日本政府が草案に対してどのような反応を示したか、その経

天皇制慈恵主義と私

(20)

緯が記されたものになっています。加藤シズエ、高柳賢三、金森徳次郎など政府委員、野党議員、学識経験者が

登場、憲法学者の高柳賢三は慈善と博愛について突っ込んだ議論を展開しています。そのなかで国務大臣の金森

に、高柳が質問している箇所を少し読んでみたいと思います。 「その点(慈善などについて私が)質問したのは、

慈善という言葉が果たして、 これは我々が通常理解している言葉の意味で使われているのか、 あるいはイギリス、

アメリカの法律解釈的な意味、すなわち公益という意味で使われたのかと伺ったもので、このイギリス、アメリ

カではチャリタブルという言葉は元来、慈善ということからきたのであります。法律的にももっと広い、いわば

公益、 チャリタブル ・ トラストと言えば公益信託であって、 慈善のみに限らない、 そういう意味として(わが国の)

法 律 家 は 常 に こ の 言 葉 を 理 解 し て お り ま す 」、 と。 こ の 慈 善 と い う 言 葉 は 公 益 と い う 広 い 意 味 な の だ と 主 張 し た

うえで、自説を述べています。ところが、金森はそういうことには一切触れようとしません。同じ問題をもっと

ストレートに語っている事実が、厚生次官だった葛西嘉資さんと、その下にいた厚生省の役人とのやりとりとし

て、後年、当時を回顧している資料のなかに出てきま す

)((

。そのなかから葛西さんと中央共同募金会に移った小野

顕さんとのやりとりを紹介しましょう。まず、小野さんが「憲法八九条は宗教団体の公(おおやけ)の支配に属

さない慈善、教育、博愛の事業に対する公金支出を禁止していますね。この条文のことはマッカーサー憲法草案

の八三条ですから、立案したのはGSのケージス大佐などのはずです」と言います。それに対して、葛西さんは

当 時、 日 本 政 府 に あ っ て 中 心 的 な 立 場 の 当 事 者 で し た か ら、 「 あ の 頃、 そ れ が 新 聞 に 出 た の を 見 て、 こ れ は 困 る

と思った。それで潮恵之助さんが枢密院顧問、副議長で、憲法の審査委員長をしておられたので、 『困るのです』

と言ったら、 『そうなのだよ。しかし、いまこれを言ってはいかん』と釘をさされたり、 『どうこうできる事態で

天皇制慈恵主義と私

(21)

は な い の だ 』 と 言 わ れ た。 そ れ で、 英 語 の 案 文 を 持 っ て き て『 こ れ は 君、

notunderthecontrolofthestate

と 書いてあるのだから、

underthecontrol

にすれば良いのではないか』 、 と」 。今日まで、 こういう文案の改竄発言

がよくぞ残っていたと思いますが、葛西さんも晩年でしたから、話題にしたのでしょう。引用はしませんが、葛

西さんや社会局長の木村忠二郎さんが言わんとしたことは、わが国は官民一体でやろうということなんです。こ

れは当時、多くの人が考えたやり方でもあったんですね。

  戦前日本の福祉は官民一体でやってきましたので、 公私分離ではなく、 公私共同でやろうじゃないかと考えた。

そこへこのような分離案が持ち込まれるのは、制度の運用上、はなはだ困ると考えたのでしょう。葛西さんは吉

田久一さんとのインタビューでもほぼ同じことを話しているので、まあ当時の要路にとっては、これが共通認識

だったと思います。戦後、憲法がつくられていく状況下において、公私関係の在り方について最も多かった意見

は官民共同、官民一体なのです。アメリカ側の議論の背景にあるものをそのままここに持ってきたケージスの路

線はモンタナかニューヨークか分かりませんが、州憲法を土台にするならこうした条文になることは当然だった

でしょう。この日米間の思惑の違い、やりとりのおかしさ、矛盾点については、その後誰も議論しないまま、戦

後 福 祉 は 議 論 の 中 心 を 生 存 権 や 基 本 的 人 権 か ら た ど っ て、 民 主 化、 近 代 化 の 政 治 路 線 へ と 歩 み ま す。 福 祉 三 法、

福祉六法を経て、福祉国家実現の道へと向かうことになりました。後に、この慈善という言葉の意味を説明する

際、佐藤功、宮沢俊義などの憲法学者は、 広い意味

0000

での社会福祉事業ではないかと言っています。しかし、社会

福 祉 事 業 法 が 成 立 す る の は 一 九 五 六

(昭和三一)

年 三 月 で、 そ れ ま で は 社 会 福 祉 事 業 と い う 言 葉 は 法 律 上 存 在 し

ないので、これは後付けでそういっているのに過ぎない。彼等は「慈善事業」と「社会福祉事業」の原理的、思

天皇制慈恵主義と私

(22)

想的な違いが全く分かっていない。また、社会福祉事業法には社会福祉とは何か、という理念に関する言及はた

だの一行も出てこない、そういう法律です。憲法二五条にはそれがありますが、ここにはありません。

  かくして、敗戦の翌年一九四六年二月にGHQの憲法草案は日本政府に突如手渡されます。よく、晴天の霹靂

だったと言われる有名な出来事です。このようなものが出てくるとは世間の誰もが予想しなかった、その内容に

憲 法 調 査 会 を は じ め と す る 有 識 者 や 世 間 一 般 が 一 様 に 驚 い た わ け で す ね。 日 本 政 府 に は 既 に 松 本 試 案 を は じ め、

案文作成の動きがあり、それらは全てGHQによって突っ返されます。そして、この年の四月、日本政府は「救

済福祉に関する政府決定事項に関する報告」を発表、並行してララ物資を積んだアメリカ船舶が到着したのが同

じ年の一一月です。その直前の九月に生活保護法(旧法)が公布され、一〇月に施行、四七年に児童福祉法、四

八 年 七 月 に「 社 会 保 障 制 度 に 関 す る 勧 告 」( ワ ン デ ル 勧 告 書 ) が G H Q か ら 日 本 政 府 に 手 渡 さ れ ま す。 一 九 四 九

年一一月、有名な六項目条項(とか、六項目提案)と呼ばれる勧告が出ますが、ここに公私分離の原則が再び登

場します。同じ年の一二月に身体障害者福祉法が公布され、いわゆる福祉三法ができたことで、戦後の福祉政策

は一応の区切りを見せました。こうした一連の動きのなかで、憲法八九条の「慈善」は宙に浮いたままとり残さ

れ、戦後六〇年間、ほとんど論議されることのないまま、我われは現行憲法のなかに「慈善」という、歴史的に

みて不思議な言葉を読むことになるわけです。

天皇制慈恵主義と私

(23)

(1)  遠藤興一「戦後天皇制と社会福祉──天皇制慈恵主義の継承をめぐって(上)」、明治学院大学社会学・社会福祉学研究、第一二九号、二〇〇八年九月。(2)  遠藤興一「天皇制慈恵主義の史的構造について」、明治学院大学社会学・社会福祉学研究、第一二一号、二〇〇五年九月、三三頁。(3)  遠藤興一「増補改訂恩賜・下賜金の支出状況からみた天皇制慈恵主義(下)」、明治学院大学社会学・社会福祉学研究、第一二七号、二〇〇七年一二月、一一六頁。(4)  前掲書、一一八~一一九頁。(5)  遠藤興一「天皇制慈恵主義とはなにか」、明治学院大学社会学社会福祉学研究、第一二四号、二〇〇七年一月、二一頁。(6) 前掲書、二八頁。(7)

  「ともがき」

、第二二号、社会福祉法人東京育成園、二〇〇五年、一月一日。(8)  英文では「Nopublicmoneyorotherpropertyshallbeexpendedorappropriatedfortheuse,benefitormaintenanceofanyreligiousinstitutionorassociation,orforanycharitable,educationalorbenevolententerprisesnotunderthecontrolofpublicauthority」。(9)  日本国憲法総司令部草案(マッカーサー草案)、第八三条。

    和文では「公共ノ金銭又ハ財産ハ如何ナル宗教制度、宗教団体若ハ社団ノ使用、利益若ハ支持ノ為又ハ国家ノ管理ニ服ササル如何ナル慈善、教育、若ハ博愛ノ為ニモ充当セラレルコト無カルヘシ」。

    英文では、「Nopublicmoneyorotherpropertyshallbeappropriatedfortheuse,benefitorsupportofanysystemofreligion,orreligiousinstitutionorassociation,orforanycharitable,educationalorbenevolentpurposesnotunderthecontrolofthestate」。(

( 10)  清水伸編「逐条日本国憲法審議録」(全四巻)、日本世論調査研究所、一九六二~一九六三年(増訂版、一九七六年)。

11)  小野顕編「占領期における社会福祉資料に関する研究報告書」、社会福祉研究所、一九七八年。 天皇制慈恵主義と私

(24)

討論

稲垣 

今 日 は 新 し い 知 見 が 披 露 さ れ、 大 変 興 味 深 い 内 容 で し た。 ま ず、 最 後 の 部 分 を 確 認 さ せ て い た だ き ま す。

マッカーサー草案の

notunderthecontrolofthestate

というのは、日本国憲法の英訳では

notunderthecontrol ofpublicauthority

に 変 わ っ て し ま っ て い て、 「 公 の 支 配 」 と 翻 訳 さ れ て い ま す。 公・ 私・ 公 共 の 問 題 を 考 え て い る 私 の 立 場 か ら み て、

thestate

の 意 味 は 明 瞭 で す。 ま た、 先 ほ ど の お 話 に あ っ た ア メ リ カ の 四 つ の 州 憲 法 の

state

も か な り 明 瞭 な 意 味 が あ っ て、 「 国 家 」 な ど と 訳 し て も よ い と 思 い ま す が、 日 本 国 憲 法 の 原 文 に は

public authority

とある。現在、公共哲学のグループでは、いままでの憲法学者の解釈に自分たちの議論を加え、

public

と は な に か と い う 問 題 を 考 え て お り ま す が、 そ れ は 国 家 や 官 を 意 味 す る「 公 」 で は な く、 「 公 」 と「 私 」 を 媒 介

する、新たな市民の領域として「公共」と呼ぶ必要があると考えています。官民一体ならぬ官民協働です。その

な か で、

thestate

で は な く、

publicauthority

に な る と、 こ こ で ま た、 新 し い 大 き な 問 題 が 出 て き た よ う に 思 い ま す。 ま た、 チ ャ リ テ ィ の 意 味 に 関 し て、 憲 法 学 者 た ち は

charitabletrust

を 公 益 信 託 の よ う な 意 味 が あ る と 捉 えていますが、一九世紀の英米の福祉の世界では

charitableorganizationsociety

COS

)というキリスト教から

出てきたムーブメントにあるように、チャリティにはやはり宗教的背景があると思います。

遠藤 

私 の 専 門 で は あ り ま せ ん が、 一 番 ヶ 瀬 康 子 さ ん の「 ア メ リ カ 社 会 福 祉 発 達 史 」

(光生館、一九六三年)

が そ

のことに触れています。COSのCが、宗教的なものをファンダメンタルにして意味しているかどうか、実際は

天皇制慈恵主義と私

(25)

どうなのでしょう。ケースワークをつくったメアリー・H・リッチモンドは特に宗教には関係のない人です。こ

の人は元もとCOSのセクレタリーですが、彼女のケースワークは、イギリスでは一八六九年にロンドンで、そ

れから一〇年ほどするとボストンあたりからアメリカ全土に拡まって、やがて今日いうところのカウンセリング

のもとになっていきます。これがソーシャルワークに入っていくときの専門化の母体はCOSとハル・ハウスに

なります。ケースワークのもとになったのはフレンドリー・ビジター(友愛訪問員)だといわれますが、一八世

紀に近代市民社会が成立する過程でキリスト教から出て行った人たちによってフィランソロピーやチャリティが

論じられ、それが民間の運動体になっていく流れもあるかなと思います。その一方、教会が地域に根ざして活動

する流れもあり、アメリカではミーティングをするとき、まずはチャーチで開いていましたが、それがCOSの

ベースになったのかというと、やはり市民社会論が入ってくる時期以後は、もはやキリスト教会は中心にならな

かったのではないか。

河 

憲法八九条に話を戻しますと、翻訳の話は別として、教育と福祉は教会の二大事業です。憲法八九条の条文

の背景には、教育と福祉は教会が行なう二大事業であることが当然の前提とされている、という背景があったと

思います。そして、日本社会事業大学の北場勉さんが調べた限りでは、八九条のもとになったのはニューヨーク

州 憲 法 だ と い う こ と で す

(北場勉「戦後『措置制度』の成立と変容」、法律文化社、二〇〇五年)

。 教 育 と 福 祉 は 教 会

の仕事であるということ、ニューヨーク州憲法というふたつの仮説は完全に重なっています。憲法八九条はふた

つの原則を言わんとしています。まずこの条文は、明らかに政教分離についての条文ではなく、財政論の論文で

あって、お金を出したくないというのが第一の原則、第二の原則は、特に教会の事業にお金を出すのはよくない

天皇制慈恵主義と私

(26)

ということだと思います。ニューヨーク州憲法にはこのふたつが入っていて、それが日本語に翻訳された時、信

仰、あるいは宗教に関わる部分を理解する人がいなかったので、議論されないまま残ったのでしょう。GHQや

日本側の翻訳者はもちろんですが、宮沢俊義などの憲法学者たちが「憲法八九条はさっぱり分からない」と言っ

ていることから考えても、八九条は最初から日本人には分からなかったのだと思います。そして、GHQも本当

のところは分かっていなかった。むしろ、この研究会に来る方がたこそが原典のニューヨーク州憲法の条文の意

味を理解できるのではないかと思います。そこで言われているのは、教会の事業に国が金を出すのは、財政的に

もよくないし、信仰への介入になるという意味でも良くないという意味だと思います。

稲垣 

GHQ,つまりアメリカにおけるリベラルな政教分離の歴史的コンテクスト(文脈)で入ってきて、それ

が憲法八九条に定着したということですね。

河 

ただ、証拠がなにもない。ニューヨーク州憲法をそのまま借用しているだけですから、反論も説明もされな

かった。日本側の理解の仕方は、記録としては沢山残っていますが。

遠藤 

そうです。

河 

でもGHQからの説明はなにもない。この原案を書いたのは財政学者ですから、お金を節約したいとしか説

明していません。では、 どうしてニューヨーク州憲法を借用したのかということを調べなければダメなのですが、

その記録はどこにもない。ですから私は、この問題はもっと一般的な、直観で考えるほうがよいのではないかと

思います。専門家が逐条毎に六〇年以上調べても、なぜあんな条文があるのか、だれも分からかなったのは当然

です。

天皇制慈恵主義と私

(27)

遠藤 

思いつきで、 偶然出会ったようにしてもってきて、 ポッと入れてしまった可能性が高いとおっしゃるのは、

多分そのとおりだと思います。例えば、 一九四八年五月のサムズ大佐に宛てた公的扶助の容認に関する覚書では、

こ の よ う な こ と を 言 っ て い ま す。 「 旧 法 に 関 す る 古 い 封 建 的 な 日 本 の 見 解 は、 例 え ば 曽 祖 父 母 に 対 し て で も 家 族

のケアに関しては近隣者の責任、奉公人については主人の責任、被支配者には支配者の、近隣者については近隣

者の(隣組的)責任を強調することが全般的理解であったが、地域社会において、面識のある者のケアについて

の責任は慎重に避けられている。これは極めて、戦前の報国、愛国運動を思い起させる、町内会、部落会に関わ

る戦時体制に対するアンチテーゼを出すものである」 、と。

河 

八九条とは別に公私分離論があって、その典型は、戦前、軍人の福祉をバックアップする団体だった軍人援

護会が、その名を改称した同胞援護会への対応に見られます。戦後の同胞援護会を中心に、公私協調路線の一環

として福祉事業を展開しようとした時、日本側はこれを純粋の福祉団体だと思っていたのですが、アメリカ側は

軍が後顧の憂い無く戦えるようにと作った、軍隊の応援団体であると思い、明らかに嫌悪感を示しました。そし

て、公私分離の名のもとに排除しようとした。そのため政府は同胞援護会という福祉団体を戦後復興に役立てよ

うとしたのですが、それができず、別の対応方法を考えざるを得なくなった。これは葛西さんの話です。こうし

た意味での公私分離論も憲法二五条のなかには含まれています。しかし、それは八九条にあてはまる公私分離論

とは違うものだろうと思います。

遠藤 

そうです。そうした公私分離論の成り立ち経過については、 当時の記録のなかにはっきり残っております。

河 

それは八九条とは関係なく、別個に存在したGHQの同胞援護会嫌い、隣組嫌いなのです。GHQが福祉四

天皇制慈恵主義と私

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