◎研究ノート
朝 鮮 族 研 究 か ら 漢 語 を 考 え る
最莉莉
一九九八年から着手してきた朝鮮族研究において︑漢語と関
連するさまざまなできごとや社会的現象と出くわした︒それを
契機に︑漢語および言語的現象に興味をもちはじめ︑﹁主体民
族﹂と言われる漢族の言語である漢語の他の民族にとっての意
味や︑漢族を中心とする政権のイデオロギーを担っている漢語
の役割︑言葉のスキーマと表象など︑今まであまり注意したこ
とのなかった問題を考えはじめた︒
漢語と関連する事例
つ o,.
冑 冑
で は
まず︑実地調査で出くわした事例を若干紹介しよ
漢語の外来語と﹁地方民族主義﹂
延辺朝鮮族自治州の首府延吉市で︑﹃延辺日報﹄の元編集主
幹呉泰鏑に︑朝鮮語メディアの歴史についてインタビューをし
た際︑一九五七年に﹃延辺日報﹄が主催した﹁民族言語の純粋
さを守る﹂という公開討論の話題が出た︒その後︑氏の書いた ﹃延辺日報五十年史﹄を詳しく調べ︑その事情をおおむね把握
ハ した︒
公開討論は︑主として朝鮮語と漢語との関係︑具体的には漢
語の翻訳方針について展開された︒社会主義中国において︑朝
鮮族は︑漢語で語られている大量の概念や事物を余儀なく朝鮮
語に翻訳しなければならなかったが︑その際︑その翻訳を︑朝
鮮語本来の規則や独自性を最大限に尊重したうえで行うか︑そ
れとも︑漢語の語彙をそのまま導入するかに関して︑定めがな
かった︒
公開討論を行った背景には︑当時︑朝鮮族の間で自民族の言
語が軽視される傾向が現れたということがある︒一九五〇年代
半ば当時︑自治州人口の大多数を占めていた朝鮮族では︑むや
みに漢語を利用したがる現象が見られ︑特に朝鮮族の幹部や学
者の間で︑朝鮮語にある語彙をわざと使わずに漢語を使った
り︑朝鮮語で発音できる語彙を漢語音で読んだり︑また︑一切
朝鮮語を使わずにたどたどしい漢語で話をする者も少なくな
かったという︒
呉 泰鏑氏 と筆 者(延 吉市 にて)
およそ三か月にわたった討論には︑朝鮮族出身の副州長李浩
源を筆頭として︑朝鮮語学を中心とする学者の意見が多数寄せ
られ︑就中︑自民族の言語を軽視する傾向に警鐘を鳴らし︑朝
鮮語本来の規則を重視し︑むやみに漢語の語彙を外来語として
導入することに反対する意見が主流であった︒
しかし︑翌年︑﹁反右派闘争﹂が全国規模で行われた後︑状
況は一変した︒﹃延辺日報﹄は︑﹁言語工作の社会主義方向を堅
持する﹂というタイトルの社説を掲載し︑前年度の公開討論が﹁社会主義方向からはずれた﹂と決めつけ︑厳しく自己批判を
した︒また︑﹁民族言語の浄化﹂は︑すなわち漢語を排斥する
ことであり︑朝鮮語の発展は漢語に全面的に依拠しなければな らない︑と主張した︒
さらに︑一九五九年に﹁民族整風運動﹂(少数民族地域で行
われた共産党内の自己点検キャンペーン)が行われる中︑公開
討論に携わった編集者や学者らは相次いで﹁地方民族分子﹂の
レッテルを貼られて︑批判や左遷︑下放された︒﹁地方民族分
子﹂とは︑﹁民族団結﹂を掲げる社会主義国家のイデオロギー
と対立する﹁地方民族主義﹂や﹁民族分裂主義﹂の活動家であ
り︑鎮圧の対象であった︒これにより︑多くの朝鮮族知識人
が︑その後苦難に満ちた人生を送らざるを得なかった︒
朝鮮語で語られた漢語の概念
延吉市郊外の太陽鎮L村で実地調査をしたとき︑朝鮮族の
方々は︑語った言葉そのものは朝鮮語であるけれども︑内容は
漢語で教育を受けた私にとってなじみ深いものが多く︑特に
キータームが漢語の概念そのものを忠実に襲っていると気づ
ハワこいた︒
例えば︑人民公社時代に生産大隊長(村全体が一つの生産大
隊)であったある老人は︑村の幹部として︑村内の少数派であ
る漢族の農民に対し自らいろいろと暖かい配慮をしたことを紹
介し︑そして︑そうした行動のモティベーションを︑自分が﹁共産党員﹂であり︑﹁模範作用﹂(率先的な役割)を果たさな
ければならないということに帰した︒
自分や子女の恋愛や配偶者選びのエピソードなどを熱心に紹
介してくれたもう一人の男性の話には︑﹁階級出身﹂という言
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葉がたびたび使われた︒相手の﹁出身が良い﹂(革命的)か﹁悪い﹂(反革命的)かを重視する階級意識を︑少なくとも文化
大革命が終わるという時期まで︑彼らはもったようである︒
延辺には︑﹁山々有記念碑︑村々有烈士﹂(どの村にも戦死者
がおり︑どの山にも記念碑を建ててある)という諺があり︑そ
れは︑抗日戦争や解放戦争(共産党と国民党の闘い)︑朝鮮戦
争の際︑朝鮮族の人びとが大量に八路軍や東北抗日聯軍などの
抗日ゲリラ・解放軍・﹁志願軍﹂(義勇兵部隊)に入り︑戦死者
がたいへん多かったことを如実に伝えている︒L村にも十数名
の﹁烈士﹂を記念する﹁記念碑﹂がある︒村の朝鮮族は︑﹁志
願軍﹂参加や﹁烈士﹂のことに触れる際︑いつも国家への﹁貢
献﹂という言葉を使った︒
女性については︑﹁婦女能頂半辺天﹂(女性は半分天を支え
る)や﹁男女平等﹂などのフレーズがよく使われていた︒
﹁歌頒﹂﹁忠誠﹂とその表象
漢語の概念が朝鮮族の思惟に影響を与えるばかりではなく︑
ものごとの表現や表象にも影響を与えている︒
二〇〇二年九月三日︑延辺朝鮮族自治州成立五〇周年の際︑
延吉市では六万人が参加する盛大な祝典が行われ︑出演者が一
万三〇〇〇人にものぼる大型マスゲーム﹁繁栄たる延辺﹂が上
ハヨ 演された︒
祝典見学したその後︑大型マスゲームの創作者の一人︑自治
州文化局の幹部である崔氏(仮名)に話を聞いた︒崔氏による と︑マスゲームの主題は︑﹁歌頒﹂(賛美)であった︒崔氏の
ノートには︑﹁歌頒﹂についての理解がハングルでびっしりと
書かれていた︒﹁まず︑長白山を謳う︒長白山は︑中国の名山の一つで︑そ
の麓に広がる大地が朝鮮族や他の民族を育んだ︒次は︑延辺の
現在を謳う︒延辺の発展は︑共産党や中国政府の政策の賜物で
あり︑各民族人民の奮闘の結果であり︑解放軍が祖国を守った
おかげでもあるので︑現在を謳うことは︑すなわち︑党や人
2002年 自治州 成立50周 年の祝 典で 上演 された
「繁栄 た る延辺」 の一 場面
民︑解放軍を謳うことである︒そして︑未来を謳う︒つまり︑
延辺は全国人民と共に︑新しい時代︑壮麗な未来に入ることを
謳う﹂︒このような構想に基づき︑大型マスゲームは︑実際︑﹁長白頒﹂﹁繁栄頒﹂﹁未来頒﹂などの三幕から構成された︒
崔氏の説明を聞きながら︑私は︑ハングルで書かれた﹁歌
頒﹂は︑その語の現代漢語における思惟様式とほとんど変わり
がないと感じた︒それは︑すなわち︑いわゆる﹁正面理解﹂と
いう名目のもとで現実に対して光の面ばかり捉え︑それ以外の
部分に目を背けること︑また︑実際の成績を大げさに拡大して
盛んに褒め称えること︑そして︑社会のあらゆる発展を究極的
には為政者の恩恵に帰すること︑などの思惟の方向性や慣性で
ある︒﹁歌頒﹂は︑プロパガンダにおける重要な手法であり︑常に﹁歌舞昇平﹂︑すなわち︑歌ったり踊ったりして天下太平を謳歌
するというかたちで表現する︒祝典を演出した大型マスゲーム
は︑その具体的な一例と言える︒
舞踊家出身の崔氏は︑振付師としてもなかなかの実力者であ
る︒彼の創作した舞踊劇﹁忠誠﹂は全国コンクールで一等賞を
とった︒国境線を防衛する解放軍兵士が国や人民︑共産党に忠
誠心をもち︑銃を握りしめて自分の守備位置にしっかりとつい
ているという内容の舞踊劇であった︒入賞したことについて︑
崔氏は︑舞踊動作の芸術性よりむしろ主題が認められた︑と述
べた︒
延辺は︑辺境地域であり︑朝鮮族は︑境外に北朝鮮や韓国な どの同じ民族の国家がある少数民族である︒そのような民族が
国への﹁忠誠﹂というテーマの作品を創り出したら︑政府のイ
デオロギー部門が高く評価しないはずがない︒しかし︑﹁忠
誠﹂は︑果たして朝鮮族兵士や人びとの実際の心象風景を反映
しているかを問うと︑おそらく別の問題となる︒創作者の本人
崔氏でさえも︑早くに妻や息子を大都会に移住させ︑将来家族
そろってヨーロッパに移住したいのが本心のようである︒
どうも﹁忠誠﹂という言葉がそのスキーマとともに独り歩き
をしているように見える︒
漢語学校が好まれる現在
延辺では︑朝鮮語で授業を行う朝鮮族小中学校が︑かつて村
や郷鎮ごとにあり︑一九九〇年代までは朝鮮族の子どもが自民
族の学校に通うことは一般的であった︒しかし︑改革以後︑状
況は変わり︑漢語学校が好まれるようになり︑朝鮮族の学校が
閉鎖される現象も現れた︒
また︑中国社会における対外開放や市場経済が進むにつれ
て︑社会全体の流動性が高くなり︑朝鮮族にも移住や分散が目
立つようになった︒移住先の都会では︑朝鮮族学校が創立され
たものの︑子女を漢族学校に入れたがる親が大多数である状況
のもとで︑入学者の確保は難しいようである︒
例えば︑北京市の場合︑二〇〇〇年現在︑朝鮮族の人口は三
〜五万人もあると言われるが︑朝鮮族の教育施設はわずかであ
り︑幼稚園二園︑小学校三校︑中学校二校ほどである︒いずれ
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