長崎県生 月町館浦の 巾着網漁業 について
梶 原 武
On the Process of Development of Coastal Fishing Village—II An Example of the Purse Seine Fishery in Tachiura
Takesi KAZIHARA
第1表 館浦の主な漁業(1 953・一一一1 955)
漁業亭 主 な 魚 高
議網縄離網艘巾か刺建型建鮒㊥緬懇小磯鯨
曳 払 いか一本釣
;裸潜:水i業
海いわし,あじ,さば いわし
いわし ぶり,めじか
︷
いか,かつを,とび,
めじか,ぶり,其他 いせえび,雑魚 とび,しいら
ぶり,めじか,かつお けんさき
操業期間
1ケ月平均 1 igSS・eの厚謝
稼簸数1夏鳶騰人則千劃千円
_轟轟属ひじき■
周年h5−23統
7〜12月 8〜14〃
1〜 4〃 9r》12隻
、2〜3隻12・一 5n
ll=翻=鍵
9〜10〃 9〜13統
i
11〜4ttI 8〜14隻 5一一6it l 10SiI ini
rli vi:;;1i
11〜17日
10−v13 f1 11 v12 ,t
12一一22 rt 24・一一28 rr
7 v12 tt 4一一11 n 4一一10 tt
10隻口6〜18〃
3 一・一24 n
人750一一1,311
280・一 462
52−v 97 12 v 18 28 v 54 22 v 45 120t一 216 5 一 27 22 v 23 3 v 5 10t一 350 4一一 105,591
414
46
1 25 2 30 2
3
0.2一1
832,264
20,131 4,200i
・4823,686・
676i
2,851
656i 420i112.
135−
18,
し㊥巾着は現在では沖合操業であり,地先漁場の利用は㊥巾着とイワシ刺網を除く漁業種によっている.表 からみられる如く,地先漁業の地位は低い.地先漁業の中では無動力巾着とトビ・シイラ船曳,小型定置の 漁獲高が比較的に大きい.
館浦巾着網漁業の性格については,志村は次の如く分析をしている.即ち長崎県下の巾着網漁村を類別し て,生月町の属する北秘浦郡の巾着漁村のタイプは広範な漁村にわたる縫切網,無動力巾着の存在が特徴で あり,しかもこの地帯の縫切懸が長崎県内縫醤蝦の主力を占めるに致つた地位は,専ら動力巾着の確立以後 に形成された歴史的な特徴をもつておるとし,まナこその生産構造において極めて遅れた地盤の上に立ってい るとする.さらにまた北松浦郡のもう一つの特徴として,生月島を申心とする動力巾着(㊥巾着)の集中的 展開がある.これは戦前の長崎県の動力巾養の先駆的展開をとげたもので,発展の初期には船主層ee自営の 加工業と密接な関連をもつての機船片手巾着として,また其の後(昭和恐慌後)には下関市場に足場をおく
アジ,サバ漁業の双手巾着として確立したのであって,長崎県巾着の特異な例ともなっているとする.
館浦漁業の変遷について多少の説明を加えると,まず現状では上述した如く㊥巾着がここでの総漁獲高
(金額)の95%を占めており,周年の操業をおこなっているのも㊥巾着のみである.また㊥巾藩ρ地位は館 浦漁民の高高形態からしてもあきらかで,部落の青壮年漁民の殆んどがこれに往事しており,このため㊥巾:
着以外の漁業は㊥巾着を下船しだ老入漁夫が主体となっている.かかる状態であるから無動力三一,トビ,
シイラ船曳,定置網で必要とする労働の主力となる漁夫は,平戸島,上五島の諸村から季節的に雇傭された 漁夫である.
和船巾着が導入される以前の館浦の漁業は,第2,3表に示す,専用,特別漁業権種の他に定置網3〜4 件,ブリ建網5件の定置漁業権があり,また殆んどの漁民はイカ釣り漁期にはこれに従乱した.なお裸潜水一 業は北松浦郡北部泊村に11件の入漁権をもつていた.此等漁業種中で重要であったのは,トビ,シイラ船・
曳,イヵ一本釣,裸潜水業等であったといわれている.当時の漁獲高を示す資料はみられなかっアこが,明治 30年代には年間の総水揚は約10万円であると記録されている6).
皿 巾着網の導入及び発展の経過
和船巾着網の導入は明治38年に峯寛次氏が千葉県よりもつてきた押台の巾着網が最初であったが,操業に 失敗している.しかし明治40年代に入ると,すでに和船巾着がかなり発達していた千々石湾沿岸の江ノ浦や 有喜村の和巾着船の入漁があり,この入漁船団が直接の契機となって,明治末には館浦で十数差の和巾着が
ee@こyでの和巾着にしろ,機船片手巾着(戦前の)にしろ,個人経営のものより協同経営の網が支配 的である.従って船主叉は網元といった概念より,丁丁層という概念が戦前までの館浦巾着網では適切 である,網元層叉は船主層はかかる回持層の総体という三昧で使っている.
経営されるようになった.この和巾着の網元はそれまでのトビ,シイラ,鯉船魔の網元層の40名で,彼等は ほぼ一貫して巾着の網元層として現在に至っている(其の性格を変えながらも).
和算蒼は大正初年代には,魚肥の下落により統数を5統以下に減じたが,大正3〜6年にかけて鯛食用煮 第2表 館浦の専用漁業(明治41年)
漁 業 種
船 網 え物藻
曳〃〃〃 〃惑 敷 し動ら 砿
い嘆ら謙産
しと鯉雑ぼ笹あ水海
魚 卜
し い ら と び う お いわし,あじ,さば 雑 魚 ぼ ら
笹 柔 魚
あわび,とこぶし,さY闘え,
かき,介類,うに,なまこ
海 藻 8 種 類
許可漁期 9〜11月
8・一10n
1一一12 rr 1 一一一12 rt
11 v 4tt 2N 5 ri
1 一h一・12 rr
漁具数
05∩UQJ−民﹂
り4り∠1 1
漁船数
20隻
50
30
6
10 303 v 5
10
10一一30
従事老数 220人 450 200
45 50 90
25 v 34 30 一一 60 15一一950
第3表 館浦の特別漁業(明治40年)
漁 業 種
曳網網 敷曳
ら地 船
盤ぼ妙
件 数 3件
zl. rr
2n
漁 場
生月島,中野村地先
ft rr
生月島地先
をカバーするための大羽鰐刺網との併用となってあらわれた.
:玄海灘に亘り出漁していた上記の江ノ浦,有喜村の鰐刺網がここでも導入の直接のi契機となった.
和巾着は第一次大戦後の不況期に入ると,地先の中羽鰐の不漁も手伝って,統数を1/2に減じた.丁度こ の時期に和巾着から機船片手廻し巾着えの転換が始まる.そうして巾着の動力化は,ここでは地先漁場の巾 着網による独占的所有と漁場威の拡大及び周年画業の確立をなしとげた技術的基盤となった.即ち生月湾は 大正末期から大羽鮨の顕著な来游という幸運な漁況期を迎え,巾藩網船の動力化はこの大羽鰐の漁獲には不 可欠の三豊基盤であり,かかる基盤の上に立つことにより,湾内大羽鯉漁場を生月村(一部,館浦部落)の 専用漁場という形で(昭和2年),この豊山の高い地元漁場は巾着網漁業の独占的所有の下におかれた.そ
うしてこの漁場からの漁獲高は初期機船片手巾着による漁獲の最も主なものとなった.館浦の巾着漁船の動 力化は,かかる漁場独占により急速におしすすめられアこ.また動力化による漁場の拡大,操業の周年化は,
夏〜秋の地元漁場での小,中羽鯛,11〜12月の五島灘(奈良尾根拠)の申羽鯉出漁,1〜2月の生月湾内の 大羽鱈,3〜5月の生月西方での大羽鰐という形で行われた.
館浦の機船片手巾着漁業は網元層の鮨魚油〆粕加工業の資本制的展開と密接に関連していた.そのために 昭和3年から6年にかけての魚油〆粕価格の暴落は片手巾着の不況をまねき,昭和6〜7年より双手巾着え
の転換をはじめた.
生月における双手えの転換は昭和6年よりはじまる.館浦では昭和10年に双手えの転換を終り,この時双 手は8統であった.
双手巾着は片手巾着よりも1統につき約1.5倍の漁夫を必要としたが,漁具を大型にし投網時の機動性を向 上させた事により湾内大羽鯉操業では片手よりも進歩した技術であった.しかし双手巾着転換の直接の目的
は対馬東岸漁場の11〜12月の浮サバ操業にあった.片手巾着期においてもすでに昭和4〜5年頃より秋の中 羽撃に刻子東岸の夜間サバ操業に出漁していたが,浮サバ操業は当時の片手巾着では漁獲が困難であった.
館浦における片手巾着が双手巾着に転換したことは,独占的な地元漁場より自由競争の漁場え移り,魚油 加工を足場とした鰐生産ヵ)ら下関魚市を足場としたサバ,アジえと生産構造の変革をなしとげる技術的基礎 干し製造が確立されたことにより再び統数を増加さ せ浦での主要漁業としての地位を確立していった.
.明治末から大正末までの和巾着は,ほぼ地先漁場 で操業した.漁期は梅雨あけから12月までの沿岸に 来直する小羽,中羽目を対象ζして,沖合の大羽盤 の漁獲は不可能であった。和巾着経営層の鰐を対象
とした周年操業化えの方向は,和巾着の技術的制約 明治末期すでに五島灘から五島列島西部及び
でもあった.
双手巾着に変った後は昭和20年に湾内大羽鰐の来游がとだえるまで,周年の操業は1〜 2月の湾内大羽鮨・
3〜5月の生月西方の大羽鰐,7〜12月の対馬東:岸から山口県沖の漁場でのサバ,アジ操業であった.
戦前では巾養網船く動力化後)の屯数は15〜20屯級であったが,昭和24年頃より大型化の傾向が年々著る し くなり,操業も周年対馬より山口県沖合のサバ,アジを対象とするようになった.更に昭和25年頃より魚 探の普及,漁況の変化による漁場の拡大等により,漁船の大型化の一層の要請は,双手より大型片手巾着漁
.船(80屯倉)えと再び転換をさせるに至った(昭和28年以降).
和巾着導入後の巾着漁業と其の他の地元漁業との関係は,和巾着導入の当初はrD着漁業も季節的操業種の
.城を脱せず,地元漁夫はイカ釣や磯建網等の漁業に従事することが出来た.また和巾着網主層の所有である トビ,シイラ網漁期にはこれにも乗組んでおった.しかし動力化後は,巾着操業の周年化,網主層の加工独 占,さらにはサバえと対象魚が移った巾着の発展は巾着漁夫の専業漁夫化を決定づけた.このことは地元漁 業から漁民をひきはなし,地元漁業を縮少させ,老人漁民のみが地元に残る結果となつナこ.また裸潜水業の
如く数年の訓練を要するものでは新らたにこの技を習得する者はなくなってきだ.
機船片手巾着が双手巾着に変った後に,地先漁場の小羽,中羽鮨を漁獲する目的で縫切網(戦後無動力巾 着となる)が出てきたが,これは巾着網を下船しアこ地元の老人漁民を中心に平戸,宇久島影より青壮ff漁夫
を雇傭することにより操業を行い,トビ,シイラ網もこの季節雇傭漁夫の兼漁で行われてきているメ 皿 巾着漁業と地元漁業の技術と技能との関連
館浦の和船巾着網の導入は盤生産を主体とした生産力の増大を目的として行われナこ.このことは千々石湾 沿岸諸村の江ノ浦,有喜村等における導入目的と同じである.しかし導入前の主要漁業の経験は地方により
必ずしも同じではない.,館浦ではトビ,シイラ船曳網の経験のもとに,江ノ浦,有喜では盛切網による地先 操業と1刺網,磯建網(済州島出漁)による出漁操業の経験のもとに導入された.7)この差は和巾着期の操 業形態の差として表われた.即ち館浦では和船巾着がトビ,シイラ船曳網と結合された形で,地元漁場の高 次利用の季節性操業種としてまず位置づけられたが,江ノ浦,有喜では地元漁場での和巾着操業と沖合の鰻 刺網操業とが結合されて鱗を翻心とした周年操業の方向を導入直後より打出した.しかも前者の館浦が動力 化までほぼ一貫して地元漁場操業であったのに反して,後者の諸村は明治末期から和巾着による,北九州,
五島灘,さらに朝鮮沿岸のサメ和巾着の出漁の形となる.両者の差の主な原因は,地元漁場の=豊度や生産構 造の差にあるが,和巾着の利用の仕方にも一因があったと考える.
和巾着と併用されるようになった底刺網は館浦巾着網元層の加工支配の芽をつくったのであるが,これの 導入を可能にした技術的基盤は和巾着網船を所有するようになったことにある.千k石湾沿岸諸村(特に江
ノ浦,為石村)ではすでに明治此期にデッキ張(水密甲板)漁船を建造していアこが,館浦では和巾着の導入
・によりはじめて,この網船にデッキ官船を使用した.館浦ではこの網船によって,鮨刺網による山口県沖合 までの沖合操業を可能にした.
館浦において,従来の地元漁業,特にトビ,シイラ船曳の経験によった抜能が地元漁場の巾着操業に継承 されたのは,巾着網漁船が動力化したことによって行われた.
生月湾内のトビ,シイラ漁期は9〜11月で,北風の強い日が好漁であった.これ等魚群は表層を群泳し,
潮時によって游泳のコースがほぼ定まっているとされる.またトビ,シイラ以外の湾内に来嘱する洞游魚 (ブリ,マグロ等)も湾内では前者とほぼ同一のコースをたどるとされている.大正末期より昭和19年忌で
二回忌をみた湾内の冬期大羽盤群も,湾内での游泳コースはトビウオ,シイラと同一であった.この大羽鯛群 は集魚灯に集らず,機船片手巾着は湾内での移動群を獲つアこのである.この操法は夜間操業で,集魚灯船に 灯を点じてこれを網を張る目標灯とし,灯船に船頭が乗り糸を垂らして群がこれに当るのをみて,灯船の下 を群が通過するのを探り,この時の潮流の方向から判断して群の頭をおさえるように網を張らせた.この操
法はトビ,シイラ船曳網と似たもので,湾内の語群が潮時によりどの方向に動いているかを知らなくては出
ee@トビ,シイラ船曳網は9〜10月の北風の強い日が好漁であるが,縫子網,無動力巾着はかかる日に は出漁出来ない.このために両者の漁期は重なっているにも拘らず,同一の経営者及び漁夫での兼業
が出来る.
来ないものであった.トビ,シイラが昼間の表層群をみて操業するのに,巾着では夜間の中層群という複雑i さが加わっている.しかし湾内大羽盤の漁獲は,巾着漁船の動力化により漁獲可能の技術的基礎をもち得た のであるが,漁獲の可能を実現するためには上述の如く,従来からの地元漁業の経験による技能を機船片手 巾着に適応さすような形で継承する必要があった.
この湾内の大羽盤操法は五島灘で操業する片手巾着操法一集魚灯に群をあつめ,群を固定して投網する 一とは異なり,むしろ当時の南鮮沿岸の浮サバ巾着操法に似かよったものであった.南鮮のサノミ和巾着が 大正末期に動力化した当初は機船片手巾着であっtcが,大正13年の春には早くも双手巾蓋(機船)12組が出t 現し機船片手巾着よりも良好の成績をあげている.更にこの年の秋漁期には双手の従漁組数が増し其の後南曽 鮮の巾着サバはほとんど双手になった.8)南鮮の状態は生月湾内の大羽鯉を対象としていた館浦の巾着の当.
時における技術改良の方向を示すものといえる(移動魚群に対して投網時の機動性を大とする等),そうして 館浦巾着が双手巾着に変ったことは生月湾内の大羽鰹操業の技能が三三・漁具の改良という労働手段の具体 的な改良に体現したという点で,抜坐上の進歩であり技能の技術化の方向でもあった.しかし双手に変つナこ 直接の原因は,技能の技術化というここでの機船片手片着呼術のもつ矛盾の直接的な解決のためではなかつ だ.それは機船片手巾着網元層の地元漁場独占,それにつらなる加:工独占に裏付けられた片手巾着の技能で ある限り,技能の技術化を直接的な動機とする訳にはゆかない.むしろ片手巾着のよってたった基盤は技能.
の技術化を阻止するものであった.また片手より双手えの転換は鯉より下関市場に足場をおくサバに転換せ ざるを得なくした生産構造の変化が直接の原因といえる.この故に爾後においては生月湾内の鮨生産は漁船 漁具の能率化にも拘らず第二義的なものとなるのである.
館浦に於ける地先漁業一和船巾着一機船片手巾着一機船双手巾着と変遷の過程をたどってみたのである.
が,技術の変遷にはそのよってきfc条件をぬき『にして論ずる訳にはゆかない.また上述した諸点も館浦の巾1 着技術史の一端でしかない.
附記:戦後昭和20〜25年の間,対馬東岸で盛であった春の浮鯖巾着操業に双手巾着がかなり従事していた。
この双手には二つの異った系統の漁船があった.その一つは戦前の朝鮮鯖巾着の内地引揚げによるものと.
他方は生月を白刃とした戦前から内地漁場(主に対馬東岸)の浮鯖を対象としてきた引網着漁船である.
両者の操法にはほとんど差はなかつアこが,多少の差をあげれば)・対馬東岸の春鯖期に前者は分銅を使用し 後者は殆んど使用していなかった.
文 献 1)岡 邦雄i:新しい技術論春秋社(1955)
2)庄司 東助:漁業経済研究 5,2(1 956)
3)志村賢男・梶原 武:漁業経済急潮資料 1,長崎大学水産部(1957)
4)志村 賢男:長大水産学:部研究報告 5(1957)
5) 〃 :漁業経済研究 5, 3〜4 (1957)
6)長崎水産新聞社編集部=長崎県鯉網漁業大観(1949)
7)梶原 武:長大水産学部研究報告3(1955)
8)水産社=水産 12,、1〜12(1924)
1頁
1
618
19
50 56 58 98
115118
裏表紙
行11 25 7 11 12 2 18 3
Tab.3註
23 27 37
ill,
14 33
44
3 12 13 14 15 27 33 40
誤
便用 除さ
:乾爆
(20×3液量:にょっ14cm)
て調整する :水量気
)
1000〜1500Luxにな
alge N/loo NaHo 二二
Fig. 2一一一C
(MULLER et HENLE)
GUNTHER GUNTDER GUNTHER Met−hert jurisdiction troble
Davelopment
Pures Squilla oratria
Enviromental
not
正
使用 除き
:乾燥
(20×14cm)
る液量によって調整する 水蒸気 1)
1000〜500Luxにな
algae 9 N. NaOH 決定
Fig 2一一一D
(Mむ肌ER et HENLE)
GONTHER GUNTHER
GむNTHER
Met−heat Jurisdiction TroubleDevelopment
Purse Squilla oratoria
Environmental net