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ロシアの農民 と中欧の農民

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ロシアの農民 と中欧の農民

――家族形態の比較――

高 木 正 道

I  Seelenbeschreibung》  Seelenrevlsion》

 結婚年齢

 家族構造

 むすび

I  Seelenbeschreibung》  Seelenrevlsion》

1965年J.ヘイナルはヨーロッパの範囲をこえる比較に基づいて 「ヨーロッパ

型の結婚パターン」(European marrlage pattem)を 発見 した。1900年頃の データを用いてかれが明 らかにしたところによれば、生涯独身者の高い比率と 晩婚 とを特徴 とするヨー ロッパ型の結婚パターンはサンク ト・ペテルブルクと

トリエステを結ぶ線の西側に広がっていた。このヘイナ

'レ

の発見はその後の歴 史人 口学 と家族史研究に大きな影響を及ぼし、ヨー ロッパ内外の地域を対象と した家族構造 と結婚パターンの比較研究を促す重要なインパク トとなった。本 稿では最近のいくつかの研究に拠 りながら中欧の農民家族 とロシアの農民家族 の対照的な構造的特徴を一―欧米における家族史研究の一つの動向を紹介する とい う意味も兼ねて一―描いてみたい。

1970年代初めか らウィーン大学経済社会史研究所で本格的なオース トリアの

家族史研究が開始 され、種々の世帯構成を規制するルール と家族の発展周期に 関する開拓的な成果が生みだされた。そのさぃ歴史家たちが主として利用 した のは 《Seelenbeschreibung)あるいは 《Seelenbuch》 (Liber status ani―

marum)と呼ばれる教会の史料であった。 トリエン トの宗教会議 (1545〜63)

以後カ トリック教会が各教区の住民の正統信仰をチェックするために作成 した この史料は一種のセンサスの性格を備えてお り、これには調査の時点で世帯を (226)   I

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法経研究42巻1号 (1993年)

構成 していた人 々が血縁関係の有無に関係な くすべて記載 されている。オース トリアにおける 《Sedenbeschreibungllの作成は17世紀まで、特にザルツブル クでは16世紀 にまで さかのば り、一般的には19世紀半ばまで、 ところによつて 20世紀にいたるまで続 けられた。家族史研究 に とつてのこの史料 の価値 を広 く知 らしめたのは、今や この研究分野における古典 となったL.バークナーの論 文 「直系家族 と農民世帯の発展周期一‑18世紀オース トリアの事例」(1972年) である。

他方、1970年代末頃にや つ と始まつたばか りの ロシアの家族史研究 において 用い られている主たる史料 は ドイツ語で 《Seelenrevision》 と呼ばれる納税者名 簿である。 ロシアでは1719年か ら1897年までに総計11回に及ぶ人 口調査が不定 期的に実施 された。 ピョー トル大帝の治世下で開始 された この人 口調査 は財政 強化のための歳入増加 を狙 つた税制改革 と結びついていた。すなわちツ ァー リ 政府はそれまでの世帯を賦課単位 とした租税 にかえて人頭税 を導入 したのであ る。その さい課税単位は全男子の 「魂」 とされたので、基本的な調査対象は初 めは農村の男子人 口であつたけれ ども、第3回以降は―一地域 によつて一概 に 言 うことはできないが―一 女子人 口や都市住民 にまで調査が拡大 され ることも あった。家族史研究に とつて大いに役立つのは とりわけ女性に関す る情報を含 んでいる 《Sedenrevision》 である。

ところで 《Seelenbeschrelbunジ と 《SedenreⅥsion》 は魂 (Sedoを リス トア ップ し、その名前、性別、年齢 、世帯内での地位等 を記録す る とい う点で は共通 しているが、両者の記載の仕方には原理的な相違がある。《Seelenre宙sioD においては最年長の男がまず筆頭 に挙げ られ、次にかれの兄弟たちが年齢の高 い順に続 き、そのあとに筆頭者の妻 と子供 (息子 と娘)たち、息子たちの妻 と かれ らの子供たち、そ して最後に兄弟たちの妻 と子供お よびその他の傍系親族 が並んでいる。 したがつて記載の仕方 を律す る原理 は家長 を中心 に考 え られた 親族関係 にほかな らない。若千の養子縁組 の場合 を含 めて、世帯 を構成 してい る人々相互の関係はすべてそ うした父系的親族関係か らみた用語で表示 されて いるのである.これにたい して 《Seelenbeschreibungllの記載方法を支配 して いるのはまった く別の原理である。つま りここでは一般 に世帯主にたいす る親 族関係ではな く労働組織 としての世帯内での各人の役割 が基準 となつている。

下男 (Knecht)と して農場 に住んでいる世帯主の兄弟は、兄弟ではな く下男 と 表示 され る。世帯主に仕える立場にあるかれの姉妹 も同様に下女 (Magd)と 2  (225)

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ロシアの農民と中欧の農民 され る。世帯主の両親は、契約 によって農場 を譲 り渡す取決めがすでになされ ていれば、父 と母ではな く、隠居人 (Altenteiler,Austrager,Nahningsleute, Viertelteiler usw。 )と呼ばれ る。間借人 (InwOhneDた ちも、た とえ世帯主 と 親族関係 にあった としても、親等ではな く世帯内の役割に したがって呼ばれる。

時には 「下男に して弟」(Knecht und Bmder)と か 「下女に して妹」(Magd und Schwester)と いった具合に親族関係の名称が補助的に付加 され ることも ある。 しか しなが ら大抵 の場合、親族関係の有無は名前の同一性 と年齢の開き あるいはその他の追加的な情報か らしか明 らかにな らない。

Seelenbeschreibunじ と 《Seelenrevision》 に見られるこのような記載原 理の違いはすでに中欧の農民家族 とロシアのそれ との構造的な相違を暗示 して いる。いずれの農民家族も同時に労働組織 として機能 していたとい う点では同 じであるが、中欧においてはそれは親族団体である以上に労働組織であったの にたい し、ロシァの場合はその逆であったと言 うことができるであろう。農民 の家共同体、すなわち――W.H.リ ールの用語を使えば―― 「全き家」は、中 欧では相互に血縁関係にある人々だけでなく非血縁者をも含み、なによりもま ず労働組織 としての原理によって構成されていた。たとえこの「共住家内集団」

(P.ラスレット)が血縁者だけか ら成っているとしても、血縁関係がこの集 団の構造を規定する第一の要因ではなかった。だがロシアにおいてはまるで違っ ていた。ここでは親族関係のない家族成員は原則的に存在 しない。そのような 人たちがときたま見 られる場合には、かれ らは擬制的な血縁関係によって家共 同体に統合されていた。血縁関係のない下男、下女、職人、徒弟、隠居人等々 をも含む中欧の家族 とは異なって、ロシアのそれは原則的に親族団体であった。

父系的な親族関係が、家共同体つまり家族のメンバーシップの決定的な基準だっ たのである。

結婚年齢

多世代家族が成立する可能性を考えてみると、平均寿命 とならぶ重要な社会 的要因として結婚年齢がある。最近20年間の歴史人 口学 と家族史研究が明 らか にしたように、西欧と中欧の住民大衆のあいだでは晩婚が支配的であった。16 世紀末か ら18世紀末までのイギ リスの教区を対象 としたサンプル調査によると、

20〜 24歳の年齢集団に占める既婚者の割合は男で16パーセン ト、女では18パ (224)  θ

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法経研究42巻 1号 (1993年)

セ ン トにす ぎなかつた。25〜 29歳の年齢集団についてみると、対応す る数値は それぞれ46パーセ ン トと50パーセ ン トであった。また17・ 18世紀のオース トリ アでは、20〜 24歳の年齢集団に占める既婚者の比率は、男の場合10パーセ ン ト 以下の ところが大部分であ り、女の場合 は少数の例外 を除いてほ とん どみな20 パーセ ン トを下回つていた。17・ 18世紀のイギ リスにおける平均初婚年齢 につ いては、男26〜 28歳強、女24〜 27歳弱 とい う数値が示 されている。同様 に18世 紀の ドイツにおける男の平均初婚年齢は約28歳、女のそれは25ない し26歳であつ (表1)。 そ してこのよ うな高い結婚年齢 は二世エ ヴゲーニー・オネーギン代 家族の優勢 と結びついていた。

ところが これ にたい して東欧においては早婚が一般的であ り、 ロシアもこの 点では例外ではなかった。プー シキ ンの『エ ヴゲーニー・ オネーギ ン』 に出て くるタチヤーナの 「ばあや」は13歳で 自分 よ りも年下の夫 と結婚 した と語 つて いる。 こうした極端なケースは現実においても皆無であつたわけではない らし いが、希有な例 に属 していた。 とはいえ、 ロシアでは結婚年齢 は実際に西欧や 中欧に比べてかな り低かった。まず P.ツ ァップの研究 に依 りなが ら、モスクワ か ら南東約175キロメー トルの ところに位置する リャザ ン県 ミハイ ロフスキー地 区 ミシノ領の農民の場合 を見てみ よ う。同県は肥沃 な土壌の黒土地帯 に属 して

お り、1858年には ロシア帝国で7番目に人 口欄密な地方であった。めったに使

われたことのない領主館のあるミシノ村を含めて全部で四つの村 (Mishino,Lokna, Slobodka,Krasnoe Sobakino)か ら成 る ミシノ領 は、 この地方 としては平均

よ りも大き く、 よく管理 され繁栄 していた。所領 には水車、数台の風車、養魚 池、果樹園 と菜園、種馬牧場があ り、ライ麦、燕麦、蕎麦が この順序で重要な 作物であつた。 ミシノ領の領主ニコライ・セルゲーヴイチ・ガガー リン (Nikolai Sergeevlch Gagarin)は1825年77人か ら成 る13家族の農奴を購入 したが、そ のなかには 「死せ る魂」、すなわち人 口調査が行われた1816年か ら所有権が移転

した1825年までのあいだに死亡 した農奴が5名含 まれ ていた とい う。

この所領の農奴は農民 (ク レスチアーニ ン)と 「 ドヴァロー ヴイ」 と呼ばれ る領主の召使い とに分け られたが、以下で問題にす るのは19世紀前半に所領人 口の約93パーセ ン トを構成 していた農民の状態である。ついでに触れてお くと、

ドヴァロー ヴィ と農民 とのあいだでの婚姻 は極 めて稀であつた とい う。1800年 頃 ミシノ領の農民の大多数 は領主ガガー リンーー 大貴族のかれ は1842年に他界

した ときい くつかの所領 におよそ27000人の農奴をもつていた一一 にバールシチ    (223)

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ナを行 つていたが、1830年か ら1849年のあいだに農民の義務は徐 々にオブ ロー クに変えられていった。また農民の多 くは手工業や商業 にも従事 し、全世帯の 三分の一に農業以外の仕事に携わる者が含まれていた。大工 と桶屋は最 も多 く 見 られた職業であ り、そのほかには鍛冶屋、左官、フェル ト製造工、粉屋、 ピッ チボイ ラー、石工、暖炉製造工、仕立屋、車大工な どがいた。

ヨー ロッパ型の結婚パ ター ンが生涯独身者の高い比率 と晩婚によって特徴づ けられ るとすれば、表2に表 されているのはそれ とは正反対の現象、す なわち 早婚 と生涯独身者の低い比率である。 さらに 「結婚年齢指標」(singulate mean age at marnage)が 示 しているように、夫 と妻の年齢差が僅かであるとい う点 も注 目に値す る。 このよ うなことは女性の平均結婚年齢 が20歳以下であるよ う な社会では普通 あま り見 られない、 とツァップはコメン トしている。花嫁の年 齢がこのよ うに低い場合 には花婿の年齢 がかな り高 くなるのが普通である。に もかかわ らず ここでは夫 よ りも妻のほ うが年上であるカ ップル さえ決 して珍 し くない。表に示 されてい るよ うに妻のほ うが年上である夫婦の比率は33パーセ ン トと46パーセ ン トのあいだを変動 している (ここでは再婚や三度 目の結婚が 区別 されずに混 ざっているが、初婚だけを問題 にすれば年上の女 と結婚 した男 の比率は幾分上がるはずである)。 も う少 し細かな数字を挙げると、同領 におい 1834年にはすべての妻の32.6パーセ ン ト(133人)が夫 よ りも1〜3歳11.5 パーセ ン ト(47人)が4〜6歳1。9パーセ ン ト(8人)が7〜 9歳年上であっ た。

中欧の農村社会では晩婚が普通であつたが、妻が夫 よ り年上である夫婦の比 率は ミシノ領 におけるよ うな高い値 を示 してはいない。表3はザル ツブル クの

Bemdorf教(1649年)における農民夫婦の年齢差 を表 している。夫の年齢が 20〜 39歳の夫婦 において、妻のほ うが年上の夫婦 は23〜 36パーセ ン トにす ぎな いのである (この数字 は初婚時における夫婦間の年齢差 をほぼ正確 に反映 して いると思われ る)。 年齢が高 くなるにつれて特に40歳代 と50歳代において、一方 で夫が年下の夫婦な らびに同い年の夫婦が減 る と同時に、他方が夫が年上の夫 婦の年齢差が拡大 しているが、 これは夫が最初の妻の亡きあと再婚 さらには三 度 目の結婚生活 に入 つた ことによるもの と解釈 され る。

ロシアの問題に戻ると、正教会の定めでは女の結婚年齢の ミニマムは13歳 あ り、男は15歳以前に結婚す ることは許 されなかった。 しか しなが ら18世紀 に はこの年齢制限が破 られ ることも珍 しくなかった らしい。1700年代末 には年少 (222)  5

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法経研究42巻1号 (1993年)

者の結婚、特に思春期以前の少年 (「8歳10歳 012歳 の花婿」)と 20歳以上」

の女性の結婚を禁止す るために四つの勅令 が公布 された。 とい うのは、そのよ うな少年 と成熟 した女性の結婚 は一―勅令が述べ るところによれば一― 父親 と 嫁 との近親相姦や時には父親殺 しに さえ発展す ることがあつたか らである。だ が勅令か らはこ うした結婚が どの程度頻繁 に行われていたのかは判明 しない。

また禁上の対象になっていたのが 「スノハーチェス トヴォ」 と呼ばれ るロシア 独特の慣行なのか どうか も分か らない。レヽずれに しても、数量的なデー タか ら 明 らかになるかぎ りでは、正教会の定めた ミニマムで結婚 した人々は少数であっ た。 リャザ ン県のサポツコフスキー地区において1795年にそのよ うな花嫁は0.3 パーセ ン ト(1人)、 花婿 は5。9パーセ ン ト(22人)にす ぎなかつた。1年後 に はそれぞれ0.8パーセ ン ト(3人)と5。4パーセ ン ト(20人)であつた。 ミハイ

ロフスキー地区の状況については表4を参照 されたい。

次にモスクワの北東約250キロメー トルに位置するヤロスラヴリ郡 (同郡が独 立の県になったのは1796年)に関す るM.ミ ッテ ラウアー とA.カガ ンの研究 を 紹介 しよ う。第3回の人 口調査が実施 されたのは1761〜 67だが、この地方にお いて調査が行われたのは主 として1762〜 63年であった。かれ らが利用 した史料 には農村人 口だけでな く、都市人 口に関す る調査 も含まれてお り、それ ゆえ前 者 に限定 されがちであつた従来の研究の枠 をこえる重要なデー タが提供 されて いるが、ここでは主に農村住民 に焦点 を当てることに し、必要なかぎ りで農民 以外のグループにも言及 したい。

リャザ ン県 との対比でいえばヤ ロスラヴ リ郡は非黒土地帯に属 し、昔か らこ こでは家内工業化が進んでいた。1843年にツァー リの国を旅行 したアウグス ト・

フォン・ハ クス トハウゼ ンの観察によれば、ヤ ロスラヴ リ地方では実際に農業 と牧畜で生計 を立てているのは住民の34〜 40パーセ ン トにす ぎなかった。残 り の住民は営業に携わった り、工場や運輸業で働いた り、商業で生活 していた。

工場制工業のの開始は ピョー トル大帝の時代にまで さかのぼる。 また運輸業が この地域で重要性 を獲得 したのもかれの功績 による。新 しい首都サ ンク ト0ペ テルブル クに通 じ、バル ト海商業 とヴォルガ川流域 とを結ぶ運河網が、 ここで 合流 していた。内陸水運、積替 え作業、輸送業は一―季節変動 が激 しか ったけ れ ども一―農奴のきわめて重要な収入源であつた。80年前には純粋な農業人 口 の割合がもつと高かったにちがいないけれ ども、 この地域の経済構造 はその後 も根本的な変化 を受けることな く維持 されたので、ハ クス トハ ウゼ ンが描いた δ  (221)

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ロシアの農民と中欧の農民 状態 は1762〜63年頃のそれ と基本的に違 っていなかった と考え られ る。

ヤ ロスラヴ リの家内工業の起源 は中世 にまで さかのぼる。厳 しい気候条件の ために本来の農業労働 に使 えるのは夏の四カ月だけで、残 りの八カ月間は手工 業が主要な活動 になった。農奴 によつて営まれた農村手工業 としては次のもの が特 に重要であつた――木工品製造、車大工、指物職人、木靴・ フ土ル ト靴・

靱皮靴の製造、 ロープ製造、帆布製造、靱皮編み、タール・ボイ リング、船や バー ク船の製造、織物、亜麻布織工、皮鞣工、皮革製品製造、革紐製造、靴修 繕工、陶工。 これ らに加 えて地域 をこえる重要性 をもつた農村手工業 として仕 立屋、鍛冶屋、蝋燭製造業があ り、村あるいは地区全体が特定製品の生産に特 化 して しま うことも珍 しくなかった。 さきほど見たよ うに ミシノ領の農奴のか な りの部分が農業以外の仕事に携わっていたが、 ロシア特有のこ うした現象は 土壌 と気候 に恵まれない この地方ではさらにいっそ う顕著に現れていた。もつ ぱ ら手工業 とサー ビス業で生活す るこれ らの 「クレスチヤーニ ン」を中欧の意 味での農民 (Bauerlとみなす ことはできない、とミッテラウアー とカガンはコ

メン トしている。

ヤ ロスラヴ リ郡の農村住民は ミシノ領の農民 よ りもかな り遅 く結婚 した。 し か しそれでも、 とりわけ24歳以下で結婚す る男女の比率は西欧および中欧のそ れ をはるかに上回つている (表5参)。 や は りここでも「東欧型の結婚パ ター ン」を認めることができるであろ う。だが ミシノ領 とのこのよ うな年齢差が何 に由来す るかは判明 しない。またっいでに触れてお くと、表5に示 されている 実際の結婚年齢 は領主が要求 した年齢制限よ りも少 々高かったよ うである。 と い うのは、領主Mo M.シェルバー トフ(Scerbatov)の 1758年の指令によれば、

ヤ ロス ラヴ リ地方のかれの所領の農奴の娘たちは18歳までに、息子たちは20歳 までに結婚す ることを義務づ け られていたか らである。

ロシアでは少年が成人 した女性 と夫婦になる独特の結婚形態が知 られていた。

この不釣 り合いな結婚の意図は、一方では家族の重要な働 き手を増やす こと、

他方では一組の夫婦の増加 によって土地割替の さいによ り大きな分け前 を手に 入れ ることにあつた。「スノハーチェス トヴォ」 と呼ばれるこの慣行はロシアの 多 くの地域で普及 していた と言われ るが、 ミッテ ラウアー とカガンによればヤ ロスラヴリにはそのような関係 を示唆す るいかなる証拠 も見出されなかったと レヽう。

ところでヘイナルがその古典的研究で示 したよ うに、グローバルな視点で眺 (220)  7

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法経研究42巻1号 (1993年)

めれば晩婚によって特徴づ け られ る西 ヨー ロッパ型の結婚パ ター ンのほ うがは るかに特異な現象である。その意味では説明を要す るのは東欧の低い結婚年齢 ではな く、中欧 と西欧の高い結婚年齢だ とい うことになる。以下ではまず西欧 と中欧ではなぜ晩婚が普通であつたのかを説明 し、次に東欧における早婚の問 題 を考えてみたい。

P.ラ ス レットは西欧家族 (Westem family)の 諸特徴 を考察 した論文 (1977 )のなかでそのメル クマール を次の四点に要約 している。すなわち西欧にお いては、ほ)両親 とその子供たちだけか ら構成 され る核家族十一 かれ はこれを複 合家族世帯 (multiple fanlily household)お よび拡大家族世帯 (extended family household)に たい して 「単純家族世帯」(simple family household)

と呼ぶ―― が支配的であつた。(2)男性のみな らず女性 もまた平均 して相対的に 遅 く結婚 したので、世代間に大 きな年齢の開きが生 じた。13)夫と妻の年齢差は 概 して僅かであ り、そのため相互に対等なパー トナー としての夫婦関係がつ く りだ された。14)家族 には世帯主夫婦 と血縁関係のない奉公人が含 まれていた。

かれ らはほとん ど例外な く若者たちか ら成 り、かれ らに とつて他人の家での奉 公は決 して生涯にわたるものではなく、ライ フサイクルの通過段階にすぎなかつ (「ライ フサイ クル奉公人」)。

これ らの うち(2)の晩婚 と直接関連す るのは14)のライ フサイ クル奉公人である。

旧ヨー ロッパの農村社会では多 くの男女が一一結婚にいたるまで―一 かれ らの 青年期 (特10歳代後半 と20歳代前半)を奉公人 として過 ごす慣わ しであった (表6)。 間借人や小屋住農の子供たちばか りでな く、多 くの小農の子供たちに とつても、下男あるいは下女 として他人の世帯 を転 々とす ることはいわば運命 の定めであった。相続人 に予定 された農民の子供は両親の家に居続 けたけれ ど も、相続か ら外 された子供たちもまたや は り下男 あるいは下女 として他 の農家 に奉公に出るか、 自分たちの生家で奉公人 として働 くか しなければな らなかつ た。オース トリアの農村社会において奉公人が各地域の人 口全体のなかで どの 程度の割合 を占めたかについては表7を参照 されたい。

ミッテ ラウアーが発見 した例 のよ うな極 めて特殊なケース (18世紀オース ト リアのケル ンテ ン地方の農村 には、結婚 してそれぞれ の農民世帯 に別居 してい る奉公人が大勢いた)を除けば、奉公人 は一般に独身であった。かれ らは雇主 の家族の一員 とみなされ、特 に年少の者 は家長の子供たち と同等に扱われた。

とい うよ りも、現実に即 していえば、労働組織 として機能 しなければな らない

  (219)

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家族 においては、家長の子供たちも役割の うえでは年少の奉公人 と同列に置か れたのである。最初の奉公先 は親類 あるいはすでになん らかの縁故関係ができ ている農家であることが多かったので、奉公人の一部には しば しば農民夫婦の 親族が見 られた。名づ け親や堅信の代父が雇主に選ばれ ることも少な くなかっ た。奉/A■人 としての身分に終止符 を打つのは結婚である。大抵の下男や下女は 将来所帯 をもつために必要な資金や家財道具や身の回 り品を奉公勤務のあいだ に蓄えなければな らなかった。

8に示 されているよ うに奉公人の大半 (半分か ら四分の三)は15か29歳 の年齢集団に属 していた。時代的な比較が可能な地域についてみると、19世 よ りも17世紀のほ うがこの年齢層に属す る奉公人の比率が高 く、 しかも30歳 上のグループの割合が小 さい とい う傾向が認 め られ る。だか ら特定年齢集団 と しての奉公人の性格は時代が下るにつれて弱まってきた といえる。 とはいえ全 体的には、他人の家での奉公は一時的な通過段階であつて、終身的な奉公勤務 はまだ例外的現象であった。

以上のよ うに、下層農民や農民以下の階層の子供たちのみな らず、相続人か ら外 された農民の子供たちもかれ らの10歳代 と20歳代の大部分を奉公人 として 過 さねばな らず、その結果 どうしても結婚年齢 は高 くな らぎるをえなかった。

だが相続人に予定 された農民の子供 (通常は息子)の場合 も同様 に晩婚が一般 的であった。旧ヨー ロッパ社会においては結婚は一般 に家長ない し世帯主 とし ての地位の獲得を意味 し、それは農民 にあつては父親か らの農場の譲渡 と結び ついていた。相続人に予定 された息子はその時まで結婚を待たなければな らな かったので、かれ も結局かな り遅 く結婚す ることを余儀な くされたのである。

中欧の農民社会では農家の相続人は一定の年齢 に達 しさえすれば結婚できた わけではなかった。いつ どのよ うなかたちで父親が息子または娘婿に農場 と世 帯主の地位 を譲 り渡すかは、個人的な事情――例 えば、病気、伴侶の死亡、相 続人の良い縁談な ど―― を含む多 くの要因に依存 してお り、そのなかでは各地 方の伝統 と相続慣習が特 に重要な役割 を果 したが、いずれ に しても農家の相続 人の結婚は農場 と世帯主の地位の譲渡 と同時ない しその直後に行われ るのが原 則 であった。

これにたい しロシアの農村においてはこのよ うな結婚 と世帯主の地位 との結 びつ きは社会的ルール としてはまった く見 られない。 ロシアの農民の息子たち は一定の年齢 に達す ると結婚 し、家長 としてのかれ らの父親の支配 と権威に服 (218) 9

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法経研 究42巻1号 (1993年)

した。 さきに見たよ うに男女 とも早婚が一般的で、 しかも父親は原則 として死 ぬまで家長の地位 を手放 さなかったので、息子 とその嫁の従属的な地位 は非常 に長 く続いた。オース トリアではチ ロール とザルツブル クの一部を除いて、農 民のライ フサイ クル にこ うした局面が現れ ることはそ もそもなかった。そのか わ りにここでは多 くの男女はず つと長いあいだ奉公人 として独身のままでいた。

さて次にロシアにおける低い結婚年齢 の問題 に移 ろ う。すでに述べた ように ロシアの正教会 によつて定められていた結婚年齢の ミニマムは非常に低 く、18 世紀には女13歳、男15歳であつた。古い時代には男女 ともさらに1歳低かつた とい う。おそ らくこれによつて抵抗 を感ぜずに低い年齢で結婚できる環境がつ くりだ されたにちがいないが、 しか しそれが早婚の積極的な促進要因だつた と は考えられない。この問題の完全な解決を期す ものではない と断 りながら、 ミッ テ ラウアー とカガンは次の二点 を指摘 している。

ヤ ロスラヴ リの第3回人 口調査 と17年前 に行われた第2回のそれ とを比較 し てみると、 この間に非常に多 くの家族が死に絶 えたことが分かる。死亡率、特 に幼児の死亡率は極度に高かつた。家系を維持す ることに関心があつた とすれ ば、できるだけた くさんの子供 を産まなければな らず、そのためには早 く結婚 しなければな らなかった。そ してな りよ りも肝心なのは息子の誕生であつた。

なぜな ら、家系を継 ぐことができたのは男子だけだつたか ら。

確かにこれは重要な論点であると思われ る。ツァップによれば、18世紀末 に ミシ ノ領 に存在 した全世帯の うち、直系の子孫が1858年まで続いた家系は一―

この所領か ら移転 させ られた り、ある村か ら他の村に移 つた者 を除 くと一‑59

パーセ ン トであつた。家系断絶の主要な原因は死亡、徴兵あるいは両親の世代 に続 く世代における男女間の不均衡であった。 ときどき採用 された養子縁組は こ うした災難の衝撃 を和 らげるのに役立 ったが、それで もミシノ領の多 くの世 帯は絶滅 を免れ えなかつた。 このよ うな状況において多産を歓迎 し、早婚を促 す メンタ リティーが形成 された として も、それは決 して不思議 なことではない であろ う。

ところで多産すなわち出生力 が直接関係す るのはなによ りも女性の結婚年齢 であるが、女性の性にはも うひ とつ別の面がある。 ロシアの農民のあいだには

「娘がいつまでも結婚せずにいると、傷物にされて家族の面 目をつぶす危険が それだけ大きくなる」(The longer a young women remained unma宙ed, the greater the chance she would be dishonoured and bring shame on

 (217)

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her family)とい う意味の諺があった。 このよ うに処女であることが高い評価 を受ける、 とい うよ りもむ しろ処女の喪失が拭い去 ることのできない汚点 とみ な され る社会では、そ うした危険 を未然に防 ぐために阜婚への傾向が強まるの は避 けがたい。 しかもロシアの農民社会のよ うに親が子供にたい して専制的な 力 をもつているところでは、娘たちに とって結婚 を急がせ る親の命令 に逆 らう ことはほ とん ど不可能であったにちがいない。また、 ミシノ領 とは違つてヤ ロ スラヴリ地方の女性の結婚年齢は性的成熟年齢をとっくに越えているけれ ども、

ミッテラウアー とカガンは未婚女性の私生子をひ とりも見出すことができなかっ た とい う。 このよ うな未婚女性の私生子の欠如は中欧、特にオース トリアの農 村における状況 と際立 った コン トラス トをな している。

以上二点のほかに、早婚 を強制 した重要な要因 として領主の側か らのプ レッ シャーを挙げることができる。周知のよ うに農奴制時代の ロシアの領主はかれ らの所有す る領地のデシャチナつま り面積ではなく、「魂」つま り農奴の数でか れ らの富 と社会的勢力 を表 した といわれ る。農奴の数が多ければ、それだけ多 額の収入 を期待す ることができたか らである。 したがって領主は早婚を強制す るな どして農奴の増加 をはかるのが通例 であつた。既述のようにヤ ロスラヴリ に所領 をもつ M.M.シェルバー トフは年齢制限を設 けて早婚 を強制 していた。

だがこのよ うな年齢制限による一般的な強制以外に、労働力の徴発がきつかけ となって結果的に結婚 を急がせ る事件 もあつた。

リャザ ン地方のペ トロフスカヤ領に織物工場を開設するにあた り、領主ガガー リンは1817年12月 に指令 を発 し、機械 を操作す るのに必要な若い女性を ミシノ 領 その他の所領 に住む15歳以上の未婚の娘 と若い寡婦か ら徴募す るよ う命 じた。

所領管理人は条件に見合 ったすべての女性 について名簿を作成 し、事情を説明 す るために該当者の両親 を召集 した。そ こで両親たちは、領主の代理人が ミシ ノにや って くるまえに娘の結婚を準備す るか、それ とも不本意なが ら娘 をペ ト ロフスカヤの織物工場に遣るか とい う二者択一を迫 られ ることになった。名簿 の注釈つ きコピー (1818年2月 付)によると、件の指令 が発せ られて以後16歳 の娘2人17歳の娘2人18歳の娘1人が結婚 した。残 りの娘たちの大抵の両 親 は復活祭後1週間以内にかれ らの娘 を結婚 させ ることを堅 く約束 した。そ し て名簿に登録 された数名の女性 には肉体的欠陥のゆえに結婚に不適格、15歳 6人16歳の娘1人には 「みるい」、 とい う注釈が付 け られているとい う。

早婚 とい う問題 と直接の関係はないが、領主か らの圧力 を受 けて時には共同 (216)  コ」

(12)

法経研究42巻1号 (1993年)

体がみずからの手で結婚問題を処理することもあつた。特に保夫や寡婦の縁組 の相手を見つけるときには鍛が用いられたとい う。

 家族構造

1897年にチェーホフは『百姓たち』を発表 し、そのなかで農奴解放後のロシ

アの農村 と農民の姿を描いた。この短編小説に登場する貧 しく哀れな農民の一 家は、年老いた両親、結婚 した2人の息子 とそれぞれの妻、およびや`れ らの8 人の子供たちの総勢14人から成っている (2人の息子の うち弟のほうは兵役に 服 していて不在であったので実際には13人)。 そしてこの小説は、モスクワのホ テルでボーイ として働いていたもうひとりの息子が病気にな り、妻 とひ とり娘 を連れて田舎の家に帰つてくるところか ら始まる。この男が結局この家で息を ひきとり、かれの妻 と娘が再びモスクフに戻つていくまでの数力月間、全部で 16人の 「家族」が狭い今にも倒れそ うな百姓屋で生活 した (嫁のひとりなどは

「死を恐れるどころか、なかなかお迎えの来ないのを残念がっているほどで、

自分の子が死んでもかえつて嬉 しがるくらいだつた」 とい う叙述か ら憶測する と、その間に人数が減ったのかもしれない)。

家族構造からみて特徴的なのは、この家族が三世代家族であると同時に複数 組の息子夫婦を含む複合家族でもあるとい う点である。いま一つの特徴 として 年長者原理 (Senioratsp五nzip)を指摘することができる。いかにちゃらんぽら んで頼 りない百姓であろうとも、公的に一家を代表するのは『おじい」である。

解放以前の暮 らしを懐か しがるこの 「おじい」が何歳なのかは明示されていな い。だがかれの伴侶である、なんでも自分でしなくては気のすまない 「おばば」

70歳とい うのだから、おそらくほぼ同じくらいと考えてよいであろう。多世 代世帯、男系的複合家族、年長者原理一―『百姓たち』に描かれたはて しなく 貧 しい農民家族にす ら見 られるこれ ら二つの要素は決 して架空のものではなく、

現実のロシアの農民家族を特徴づける本質的なメルクマールであつた。以下で はまず世帯規模の問題か ら始めたい。

「ロシアの農民のように大家族が祝福されるところはどこにもない。息子が 増えるごとに家長は新たな土地の分け前を得る。娘は引く手あまたの商品であ る。持参金を要求することなどはほとんど論外で、それ どころか人々は対価を 支払 うことさえ厭わない。子沢山は西欧では下層身分にとつてとてつもない重 12 (215)

(13)

荷であ り災いであるのに、 ロシアの農民に とつてそれ は最大の富である。」 これ 1840年代の ヨー ロッパ 0ロシァ中部の農民についてのハ クス トハ ウゼ ンの観 察である。 また最近の研究で も次のよ うに述べ られている。 ロシアの 「近世農 村において家族構成員の多い ことは富裕 なことを意味 した。けだ し、労働力の 多寡は個々の農民経営の規模 を規定す る第一の要因であつたか らである」(土 恒之)。 だが家族の規模が大きいことは農民の豊かさの原因であつたのだろ うか、

それ とも結果であつたのだろ うか。おそ らく原因であると同時に結果でもある とい う循環的因果関係が形成 されていたにちがいない。以下に見 るよ うな一―

特 に黒土地帯における一― ロシア農民のあいだでの大家族の圧倒的優勢 を 目の 当た りにす るとき、われわれはさしあた りそ う考 える以外にない。

9に示 され ているよ うに1814〜 1858年の期間に ミシノ領の人 口数 と世帯数 はほぼ同 じ増加率で増えた。人 口数の増加率が約29パーセ ン ト、世帯数のそれ が約32パーセ ン トであるか ら、厳密にいえば後者が前者 を若干上回つているが、

それほ ど大きな差ではない。世帯規模のマクシマムは18人25人のあいだを変 動 した。20人以上の世帯は稀であつたの と同様 に、 1人あるいは2人の世帯 も 一貫 して泡沫的現象であった。世帯規模 の平均の変動幅は8。0〜 9.7人 と比較的 狭 く、メジア ンもかな リー定 した値 を維持 した ことか ら、世帯規模 はこの期間 全体にわたつて比較的安定していたと推測される。また 「夫婦家族単位」(coniugal family unit)の 平均規模や世帯 あた り平均夫婦家族単位数にも大きな変化は見

られなかった (表10)。

しか しなが ら世帯規模別 に調べてみると、注 目すべ き変化が認め られ る。す なわち、1814〜 1858年のあいだに15人以上の世帯の占める割合 は10。1パーセ ン

トか ら6.4パーセ ン トヘ と減少 を示 し、 これにともなってそのよ うな世帯に含ま れ る人 口の比率 も18.1パーセ ン トか ら13.3パーセ ン トに低下 した。そ してこ う した最大級世帯の比率の減少は5人世帯お よび6人世帯のそれの増大 (世帯数 11.6%か17.1%へ、人 口数で7.1%か10.8%へ )と表裏一体の関係にあつ (表11)。

1は当時 ミシノ領でかな リー般的に見 られた9人世帯の一例である。53歳 の夫が家長であ り、その世帯は弟夫婦 とかれ らの子供たち、未婚の娘、夫 となっ た息子、孫娘か ら成 っている。他方、図2は最大級 に属す る23人世帯の一例で ある。 この58歳の家長の世帯 を構成す るのは、妻 と2組の息子夫婦プラス5人 の孫、未婚の息子、5人の子供 をもつ弟夫婦、それに加 えて寡婦 となった家長 (214) Iθ

(14)

法経研究42巻1号 (1993年)

の義妹、彼女の未婚の娘 と息子夫婦である。

これにたい してヤ ロスラヴ リ郡の平均世帯規模は1762〜 63年5.2人であつた。

この点 に関 しては農民 と ドヴァロー ヴィとのあいだにほ とん ど差がな く、前者 の平均値は5。1人、後者のそれは5。3人であつた。また工場農奴の場合それは3.8 人であつた。黒土地帯 と非黒土地帯 とにおける農民世帯の相違 は、 これ までに もしば しば―一 必ず しも数量的デー タによる裏付 けを ともなってはいなかった けれ ども一―指摘 されてきた。 リャザ ン県 ミシノ領 とヤ ロスラヴ リ県の世帯規 模の違いはこの黒土地帯 と非黒土地帯 とにおける相違 を意味 しているよ うに思 われ る。 この問題に関 してツァップが挙げているデータをま とめてみる と表12 のようになる。かれはV.J.セメフスキーの古典的研究に言及 しなが ら、「異なつ た地域に住む同一カテゴリーの農民の平均世帯規模 よ りも同一地域内での異なっ たカテ ゴ リーの農民のそれのほ うに高い均一性が認め られ る」事実に注意を喚 起 し、表 に示 された数値の妥 当性 がそれぞれの地域 を対象 とした ミクロ分析 に よつて確証 され るとすれば、それは 「法的身分、経済的条件、社会的統制手段 ばか りでな く、文化的お よび生態学的要因 もまた様 々な地域での家族システム のヴァ リエーシ ョンを決定す る うえである役割 を演 じていたことを示唆す る」

ことになるであろ うと述べている。

では中欧における状況 は どうか。表7にはオース トリアの農村地域 における 世帯の平均規模が示 され ている。 これ らの数値 を見るかぎ リヤ ロスラヴ リ県の 平均世帯規模は ミシノ領や他の東欧諸地域 よ りも中欧のそれ に近い。 しか し平 均的な世帯規模の比較 は家族形態の比較分析 にとつて第一次的な接近に とどま る。 これ よ りもはるかに重要なのは家族ない し世帯の内的構造の比較である。

そ こで次には家族の構造、 とりわけその複合性 と世代的広が りの考察へ と進み たい。

13の世帯分類はラス レッ ト/ウォール編『過去における世帯 と家族』(1972 )におけるラスレッ トの分類法に従 つている。 ミシノ領 について見る と、な によ りもまず驚かされ るのは複数の夫婦 を含む多核世帯ない し複合家族が全般 的に―一 西欧および中欧の基準か らすれば一― 異常に高い比率 を占めていると い う事実である。時代の経過のなかでみ ると、複合家族世帯の割合 は1810年 か ら上昇 して1825年に ピー クに達 し、それ以後再び下降 していつた。

今度は家族における世代の広が りを見てみ よう(表14)。 ここでもまた驚 くベ きは三世代 または四世代か ら成 る家族の割合が異常に高い ことである。 当時の IZ  (213)

(15)

ロシアの農民と中欧の農民 ロシアでは男の平均寿命が31歳以下、女のそれが33歳以下であつたにもかかわ らず、三世代家族 と四世代家族の比率の合計が常に五割を上回 り、時には七割 を越えているのは、言 うまでもなく早婚による親子世代間年齢差の短縮 とパ ト

リロカールな居住様式 との結果にほかならなかった。

次にヤロスラヴリ地方における家族の世代構成 と世帯の諸類型を見てみよう

(表15)。 多核的な複合家族の比重は農民 と ドヴァローヴィにおいてほとんど差 がなく30パーセン ト前後であり、注 目すべきは工場農奴のもとでもこの類型が 全体の五分の一以上に達 している点である。 しかしながらミシノ領 とはかな り 違った様相を呈 している。 ミシノ領 とヤロスラヴリ郡 とのあいだには結婚年齢

と世帯規模に関して違いがあることはすでに見たが、家族の世代構成 と世帯の 諸類型にも無視することのできない相違が存在する。 ミシノ領 と比較すると、

二世代家族 と特に一世代家族の比率が高 く、三世代家族のそれがはるかに低い。

またこれに対応 して単純家族世帯の割合が ミシノ領の二倍を上回つているのに たいし、複合家族世帯のそれはミシノ領の半分を下回つている。それゆえ同じ ョー ロッパ・ ロシァであっても、黒土地帯の リャザン県 と非黒土地帯のヤロス ラヴリ郡 とではかな り明確な地域的差異があることをここでも再確認すること ができる。 しか し中欧の状態 と比べてみるとき、ヤロスラヴリもまた紛れもな く東欧の一部であることが判明する。なぜなら、中欧ではそもそも複合家族世 帯は例外に属 し、三世代家族が成立する場合にも、それは東欧とはまったく異 なった原理に従つているからである。

すでに何度か触れたように西欧および中欧の多 くの農村地域においては結婚 は一般に家長ないし世帯主 としての地位の獲得 と結びついていた。こうした世 帯形成の原理が支配的である地域では、本来の直系家族 とは区別 される独特の 形態の隠居制家族 (Ausgedingefamilie)力`三世代家族 として成立した。すなわ ち、本来の直系家族にあっては息子または娘の結婚後も父親は農場を譲渡せず に世帯主 としての地位を保持 し続ける。これにたい して隠居制家族の場合には、

初老に達 した農民 (夫)が原則的には息子または娘の結婚 と同時に農場 と世 帯主の地位を息子または娘婿に譲 り渡 し、契約を取 り交わしてかれ らに老後の 生活を保証 してもらうのである。 したがって前者の形態においては息子 (娘)

夫婦はかれ (彼)の父である家長の権力のもとに置かれるのにたいして、後 者の形態にあつてはそのような従属関係は生 じない。前者を父中心的な二世代 家族 と呼ぶ とすれば、後者は息子中心的な三世代家族 と特徴づけられる。中欧 (212) 15

(16)

法経研究42巻1号 (1993年)

の農村社会に存在 していた三世代家族は実はこのような隠居制家族であり、し かも全体に占めるその比率は平均的に決 して高いものではなかった (表7参)。

とい うのは、三世代の家族を養 うに足るだけの経済力に恵まれない貧農層や農 民以下の階層の場合には隠居制はほとんど問題にな りえず、その普及は富裕な 農民層 (大抵は単独相続の地域における)に限られていたからである。 ミッテ ラウアーが明らかにした ところによれば、17018世紀オース トリアのザルツブ ル ク地方の農村地域では、両親 とその子供から成る核家族 と、両親 とその子供 および奉公人 (Gesindυ から成る一種の拡大家族とが、最も高い頻度で見られ る代表的な家族構成であった。

このようなわけで、中欧の農民のあいだではそもそも二世代家族の割合は相 対的に低 く、しかもそこで成立する三世代家族 (隠居制家族)は息子中心的な 性格を帯びていた。これ とはまったく対照的に、ロシアの農民家族は年長者原 理をその本質的な特徴 としていた。表16はミシノ領の複合家族世帯 (表13を )をさらに細かくいくつかの形態に分けて示 したものである (ここでの下位 区分も基本的にラスレットの分類法を踏襲 している)。 全般的に「上向的副次核 を含む」形態の比率が極めて低 く、「下向的副次核を含む」形態が最も高い比率 を占めているのは、年長者原理の貫徹を意味する。すなわちこのような現象は、

第一世代に属する家長がその地位を生前に次世代の者に譲 らず)死ぬまで保持

し続けることから生 じた。この 「下向的副次核を含む」形態の割合も一一複合 家族世帯全体のそれ と同様に―‑1825年にピークに達 した。「水平的副次核を含 む」形態の大多数は兄弟家族 (f艶chυ を中核 とする世帯で、通常は兄弟の う ちの最年長者が家長の地位を占めた。「その他」の複合家族世帯は一般に最も複 合的で規模も大きく、水平的副次核 と下向的副次核を同時に含む世帯一―例え ば二組ないしそれ以上の兄弟夫婦がかれ らの子供や孫たちと同居 している世帯 一―か ら成つていた。

下向的に拡大された家族への全般的傾向は世帯の親族構成の考察によつても 証明される。同一世帯に住んでいる家長の未婚親族の内訳を調べてみると、1831 年のミシノ領では、690名の未婚親族の うち家長の息子は218人 (31.5%)、 孫は 280人 (40.5%)であつた。1814年のミシノ領について、既婚未婚を区別せずに 同一世帯に住んでいる家長の親族の内訳を男女別に調べてみると表17のように なる。家長を除く男女1045名の うち、息子が最も多く167人 (15。9%)、 次が孫 息子でlM人 (10.9%)であつた。女性のなかでは嫁 (Schwiegertochterlが110

δ (211)

(17)

(10.5%)で 最 も多 か つた の に た い し (娘は101人 、妻 は80人)、 娘 婿 (Sch宙egersohn)は数名にす ぎなかった。 ここには男系的な家族構成の優位 が如実に反映 されている。また世帯主の 「父」や 「母」が見 られないのは、家 長 は死ぬまでその地位 を手放 さず、かれの死後 はその寡婦が後釜 に座 るとい う 年長者原理 によるものである。128人の世帯主の内訳は、既婚の男性80人、燃夫 28人、未婚の男性1人、寡婦または兵士の妻19人であつた。

ところで、マ リアンネ・ ウェーバーは 動 グ″%%%α″物′″″勿 滋″R λ′ ι%勧″カル鶴「(1907)のなかで ロシアにおける農民家族 と共同体 (ミール)と 関係 について次のように述べている。「二つの力すなわち家族の力 と共同体のカ とが個人 を拘束 していたが、 この二つは時 として対立 した。た とえば ミールは 土地割替 をつ うじて家族の権威 を弱めた。なぜな ら、それによって各個人 はそ の生存の基礎 を家族か ら相続す るのではな く、共同体か ら生涯にわたって割当 て られ ることになったか らである。た とえば事情次第では、 ミールが息子 に土 地 を割当て、か くして彼 を『解放』す ることによって、息子が父親か ら物質的 に独立 し、父親の恣意か ら事実上のがれることができたのである」 朝巴前栄一訳)。

一見 した ところもつともらしく聞こえるが、 ロシアの農民家族 と共同体 との 関係 をこのよ うに捉 えるのは誤 りである。 とい うのは、土地割替は確かに労働 単位であると同時に課税単位でもあるチャグローーー組の成人男女 (通常は夫 )二― を基準 として行われたが、 しか しその土地は新 しい夫婦にたい して分 配 されたのではな く、その夫婦 を含む (一般 には複合)家族にたい して割 当て られたのだか らである。 ウェーバーのよ うな見方は息子夫婦が分家 して独立の 世帯 を形成す る場合にのみ妥当す るが、普通はそのよ うなことはあ りえなかっ た。前述のよ うに ロシアにおいては、結婚 した息子夫婦が父親の世帯に加わ り、

その支配 と権威に服するとい うのが一般的慣行であつた。ツァップによれば、「結 婚は ミシノでは分離独立 した世帯の創設にはつなが らず、既存の世帯の拡大を もた らした。新たに結婚 した農民に とつては概 して15年か ら20年のあいだ 自分 の世帯の長 になれ る見込みはなかったけれ ども、花婿の父親は一一世帯主でな い場合には一―息子が結婚 した時点で分離独立 した農場 を創設す る資格を得た。

そ してその農場は通常かれの既婚および未婚の息子たちを含んでいた。」 したがっ て こうした世帯の分離独立によって新たに形成 され る家族は複合家族であって 核家族ではなかった。また実際には息子の結婚を機会に必ず世帯の分割が行わ れたわけではな く、既存の世帯の拡大にむすびつ くケースが多かったようであ (210) 17

表 1  イギ リス と ドイツにおける平均初婚年齢 時   期 イギ リス男性    女性 ドイ ツ男性   女性 時 期 1600‑‑1649 1650‑‑1674 1675‑‑1699 1700‑‑1724 1725‑‑1749 1750‑‑1774 1775‑‑1799 28。 1    25.628。1    26.227.7    26.6 27.6    26。 927.4    25。726.5    25。 326.1    24.7 27.8 25.3 1700‑17491750‑‑17
表 5  年齢層別既婚者の割合 (%) (ヤ ロスラヴ リの農村人口、1762/63年 ) 年齢 層   15‑19歳  20‑24歳  25‑29歳 男性    13.0   52.4   77.3 ゴ そ 促 =       25,8        65.2      95。 9 出メ t:Mitterauer/Kagan(1982):118;Dies。 (1991):169
表 6  各年齢層に占め る奉公人の比率 (オ ース トリア ) 0 ・ 2 ︹ %い0 ︵NO ︻ ︶ 農村教 区 (州 ) 年 代 年 齢% 年 齢% 2響 9    あ X百 象 Abtenau  (Salzburg) Altenmarkt  (Salzburg) Andrichsfurt  (Od) Dorfbeuern  (Salzburg) Diirnberg  (Salzburg) Ebensee  (OO) Freistritz  (Kiirnten) Gleink  (Od) Gmi.in
表 7  オース トリア農村における平均世帯規模 と隠居制家族 公人・ 間借人の比率 場所 (州 ) 年 代 人 口 世 帯 世 帯平 均 規 模 隠 居 制家 族% 人 口全体に占める奉 公 人  間 借 人″つルヒ串■    υつルヒ事峯%    % Abtenau  (Salzburg) Altenmarkt  (Salzburg) Andrichsfurt  (Od) Dorfbeuern  (Salzburg) Diirnberg  (Salzburg) Gleink  (OO) Gmiind
+2

参照

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