脱深刻化(
Enternstung)という敗北の形
―ナチス政権下のムージルの観察から―
Die Enternstrung als eine Mimikry der Niederlage : aus Beobachtungen Musils unter dem
nationalsozialistischen Regime
早 坂 七 緒
要 旨
1933年のナチス政権確立以降,ドイツ,オーストリアでは次々に議会制民主 主義や言論の自由などが蹂躙されていった。大方の市民の対応は「脱深刻 化」,すなわち大したことではないとする敗北的な態度だった。その下地を形 成したのが第一次世界大戦以降,数度にわたり高揚と幻滅を体験した人びとの
「魂の真空」であるが,さらにムージルも含めた作家や詩人たちが既成の概念 や感性,ひいては旧来のモラルを疑問視する作品を発表して,ナチスの不条理 な主張を説き伏せる言葉と理念の力を殺いだことでもあると思われる。ムージ ルは反ユダヤ主義を全否定していたが,政治については「態度表明しない」姿 勢を貫いた。これは「精神」にのみ従い,党利党略などを離れて,単独者とし て判断するためであった。
キーワード
ローベルト・ムージル,ナチス,亡命文学,イロニー,アドルノ
ブレスラウ〔ポーランド南西部の都市。1945年までドイツ領〕の劇場監 督バルナイ1)は,(…)5 人の制服を着た男たちに住まいから車で拉致 され,郊外の小さな森で降りるよう強制され散々に殴られた。〔ナチ の〕当該地区指導部はこの事件を非難したが,犯人を探すことはしな かった。こうした例は何百とあった。以前であれば,このような事件
は血の報復の起因となっただろう。今日では一身上の(persönlich)尊 厳,一身上の自由うんぬんの問題すべては,もはや真剣な抵抗のきっ かけにはならない。一般的な受け取り方は,「耳に響くほど深刻では ない」,である―つまり〈脱深刻化(Enternstung)〉!。戦争におい ては果敢そのものであったかもしれない同じ個人(Individuum)が,
どうしようもなく臆病だというところに,一身上のもの(das Persönli- che)の本質がある」(T 725)。
なぜ1930年代のドイツがナチスに席巻されたのか,教育を受け教養もあ るはずのドイツの市民がなぜ阻止できなかったのか,繰り返し問われた謎 に対する答えはおそらく膨大であろう。筆者にその樹海にも似た資料と論 考に立ち入る能力はない2)。本稿は1938年 8 月までウィーンに留まった ムージルの状況を見つめ,彼の観察し認識したものを追うものである。
ムージルの人と作品の理解に資すれば目的は達せられる。
ムージルが日記に書きとめた1933年 3 月上旬の上記の事件,つまりユダ ヤ人の劇場監督へのナチスの暴行に対する大方の反応は,「耳に響くほど 深刻ではない」つまり「結局それほど大したことではないさ」という捉え 方であった。この〈脱深刻化(Enternstung3))〉の積み重ねが,水晶の夜か らポーランド侵攻,バルバロッサ作戦,ドイツ壊滅に至るナチスの蛮行を 許すことになる。
もっとも,この〈脱深刻化〉,「結局それほど大したことではないさ」と いう捉え方は,のんびり構えた傍観者の態度ではなかった。深刻な事態な のに,それを打開する可能性を封じられたために取らざるを得なかったも の,いわば敗者の合理化としてあった4)。
1933年 2 月27日の国会議事堂放火事件を受けて,デーブリーンは翌日 に,続いてクラカウアー〔Siegfried Kracauer 1889-1966〕,カール・オトゥン
〔Karl Otten 1889-1963. ムージルの支援者。シーレの素描が残っている〕,クラウ ス・ピンクス〔Klaus Pinkus 1895-1978. ムージルの支援者〕等がドイツを脱出 した。 3 月中旬にはヴィルマースドルフ(ベルリン西部の地区)の芸術家コ ロニーが襲われ,キシュ〔Egon Erwin Kisch 1885-1948〕,ミューザーム〔Er- ich Mühsam 1878-1934〕,オシエツキー〔Carl von Ossietzky 1889-1938〕が拘 束された5)(KC1123)。ユダヤ系の作家たちは,生命の危機が眼前に迫って いることを覚らざるを得なかった。
彼等に較べるとムージルは,それほど危機感をもたなかったようだ。
1938年 8 月までドイツ,オーストリアに留まっていたのだから6)。国会議 事堂放火事件の当日,ムージルはベルリンのペンション・シュテルンで執 筆活動を行っていた7)。日記にそれに関連する記述がある。
「 3 日前に国会議事堂が炎上した。昨日は,KPD〔ドイツ共産党〕と SPD〔ドイツ社会民主党〕を根絶するための緊急命令が出された。新た な男たちは乱暴に手を下す。わたしが接している人たちのあいだに は,まずは怒りの感情が広がった。真理や自由といったものの顔面に 拳骨を浴びせられて,本能的に怒りを覚えたのだ。これが自由主義的 な教育を受けてきた人たちの反応である。昨日,ラジオでゲーリング
〔Hermann Göring 1893-1946 ヒトラーに次ぐナチ党最高指導者〕がああした 措置を取った理由を,静かで穏やかな男らしい声で話すと,ヴィッテ 夫人[ペンション・シュテルンの持ち主]の気持ちがさっそく揺らい だことが傍目にもわかった。《KPDが計画していたことが本当なら,
何てひどいのでしょう!》。この言葉の仮定の部分は縮小してゆく。
新しくなることはそう悪いことではない,無意識に抑圧していたいく つかのものが解放されるのだという感情が,全体としては大きくなっ てゆく。口にこそしないが,断固として拒否するという印象を与える
のは女中4 48)たちだけである」(T 722f.)。
コリーノによれば,ムージルは書き留めていないが,当時ひとりの女中4 4 が自殺した。ムージルはそれをおそらく新聞で知ったのだが,スイスに亡 命してからもそれが忘れられなかった。事件から 6 年経っているのにムー ジルはイニャッツィオ・シローネ〔Ignazio Silone 1900-1978 イタリアの作家,
政治家〕に,「ドイツ人の女中4 4が国会議事堂炎上に心を痛めて自殺した」
という記事を覚えているかどうか尋ねている。「この事件についてあれこ れ考えたが,どうしても説明がつかなかった,とムージルは言った。国会 議事堂と何らかのつながりのあった何千もの人たちは,誰も自殺などしな かった―それなのに,どうしてこの女中4 4が? 国会議事堂はこのあわれ な女性にとって,いかなるシンボルであったというのか,いかなる神話で あったというのか?」(TⅡ524f.),(KC 1123)。
自在に意識操作してenternsten(脱深刻化)できる,いわゆるインテリ層 とちがって,Dienstmädchen(小間使い)たちは事態を正面から受けとめ た,と考えることはたやすい。だからといって,いわゆる素朴な人びとが おしなべて「真理や自由といったものの顔面に拳骨を浴びせられて,本能 的に怒りを覚えた」のかどうかは不明である。 3 月 5 日の(最後の)国会総 選挙においてナチスは得票率43, 9 %であって,288議席を獲得して第一党 になった。つまり1,695万票あまりがNSDAPに投じられたことになる9)。 ここには何らかの風潮,趨勢が作用してもいたと推測せざるを得ない。
理性と道徳への揺さぶり
ヴァイマル共和国時代に人びとがどのように「自由主義的な教育を受け てきた」のか,それについての資料は手元にない。だがそれ以前に,ムー ジルによれば,ドイツ人やオーストリア人たちは 2 度の熱狂と 2 度の幻滅
を体験していた。 1 度目は第一次世界大戦開戦時の動員の際の熱狂であ る。「戦争は病気のように,いやそれに伴う熱のようにぼくを襲った」(T 956)。1921年のエッセイ「理想の国民と現実の国民」には次のような一節 がある。
何百万という人びと,それまでただ私利私欲のために,死への恐れ を糊塗しつつ生きていただけの人びとが,突然歓呼して国民のための 死に向かって突進したのは,あれは何でもなかったのだと思いたいの だろうか? (…)たとえ何百万もの人びとが自らを,彼らの生活 を,彼らの人生の目的を,彼らの身内を,彼らのヒロイズムのすべて を,ただの幻影(Phantom)に捧げただけのことだったとしても,
いったいそのあと,あっさり正気に戻り,立ち上がって,そそくさと 立ち去ることができるものだろうか? まるで酔いから覚めたよう に。すべては陶酔だった,精神病(Psychose),集団催眠,資本主義の ペテンだった,いや民族主義の,ないし何やらのペテンだったとこじ つけながら? そんなことができるわけがない ・・・(P 1060f.)
多くの人びと,少なくともムージルは,ちょうど100年前の大戦の勃発 時には「総体的な大変革,革新を期待した」10)(Amann 145)。当然ながらそ れらの期待は敗戦時には幻滅に終わる。ただし今度は敗戦時に米国大統領 ウィルソンが提示した14ケ条のプログラムが新たに期待を集める。「ヨー ロッパの公正で民主的な新秩序」(Amann 11)に寄せられた期待は,ヴェ ルサイユ条約およびサンジェルマン条約の各国の思惑の絡んだ惨憺たる結 果によって,またも幻滅に終わる。人びとは「魂の真空(das seelische
Vakuum)」(P 1062)を患うことになる。開戦時の美辞麗句,終戦時の美辞
麗句,ともに理想や革新を謳いながら,結果的にただ人心をもて遊んだだ
けに終わる。さらに天文学的なインフレーションが恒産を皆無にし,恒心 をも皆無にしようとする11)。第一次世界大戦以降のドイツ語圏では,理想 を語る言葉や理念が,なかなか現実と対応しないという経験を積み,独立 した個人の無力感を覚える人びとが少なくなかった。「自分の意志という 幻想に充ち満ちて,人は言いなりに従った。われわれがやった,彼らが やった,いや誰でもない,《それ(Es)》がやったんだ。」(P 1062)12)このよ うにして「真理や自由といったものの顔面に拳骨を浴びせられる」以前 に,すでに真理や自由といったものには小刻みに,あるいは大なり小なり 打撃が浴びせられていた。ナチスへの下塗りがじわじわと進行していた。
「真理や自由といったもの」への信頼ないし確信はしかし,ゲッベルス をはじめとするナチスのプロパガンダがくり返しそれらの価値を否定する につれて,さらに揺らいだように見える。ムージルも日記ほかに書きとめ ている。
ゲッベルスによれば,悟性,理性,知性は無である。悟性はすべて をふたつの側面から見,知性は決して創造的ではありえず,理性は新 たなものを何も生み出さない(アスファルト文学以外は)。芸術のた めの芸術(L’art pour l’art)という原理は「まったくのあやまりで,す でに克服されている」(T 824)13)。
「道徳上の自己責任をもつ個人の根本的権利,意見を表明し意見を 耳にする自由,譲ることのできない信念の体系……こうしたものすべ てが,常日頃それを衷心から信じていた何百万という人びとから,一 撃のもとに剥奪された―彼らはそれを防ごうと指一本動かすことは なかった!(P 1415)14)。
これらの動きと,ムージルは無縁ではなかった。そもそも『特性のない
男』とは何だったか。少なくとも大枠においては,人間は交換可能なさま ざまな属性(Eigenschaften)から成り立っており,ある巨大な構図から見 れば,夫(「グリージャ」におけるhomo)も妻(「愛の完成」 におけるクラウ ディーネ)も交換可能な,ないし特定の相手に限定されない存在でありう る,という内容が,作家ムージルの仕事の一面にはあった。もちろん「特 性のない男」ウルリヒは,交換可能な諸属性にもかかわらず「魂をもって いる」のであって,少なくとも本人と作者にとっては交換可能な人間では ないのであるが。理念についてはどうか。シュトゥム ・ フォン ・ ボルト ヴェール将軍が部下を動員して作成した「理念の指揮官の表」によれば,
「烏合の衆」(M 374)であった15)。すでに1918年にトーマス・マンは『非 政治的人間の考察』において,拠り所とすべき諸理念が流動化,相対化さ れる有様を結果として表示していた16)。『魔の山』(1924年)において理念 はセテムブリーニとナフタの「陣取り」の駒のようなものになっていた。
そして『特性のない男』(1930年)のウルリヒにとって,善悪は「関数値」
であって,その時々の状況という変数と主体の投入によってはじめて決す る一回限りのもの(エッセイスムス)となっている17)。信念(Überzeugtheit)
についてムージルは,自分の「帰納法的謙虚」18)になじまないと述べてい る。
「芸術は不道徳なもの,最も非難されるものを描いてよいばかりでな く,愛することすらしてよいのである」(P 979)とムージルは1911年の エッセイ「芸術における猥褻なものと病的なもの」において主張してい た19)。脳裏をかすめる想念,とっさに抑圧される断片的な欲望の萌芽,そ のような未生の情動もまた人間の真実の一部であり芸術の素材となりうる という,まっとうな意見であった。もともとは,ある雑誌の発禁処分にた いする抗弁として書かれたエッセイであったが20),著者が無名にちかい ムージルであっても(とはいえ1906年の『陸軍生徒テルレスの混乱』はロングセ
ラーであった),美学論文の枠を越えて,ヨーロッパにじわじわと浸透して いった可能性がある。筆者は昨年プルーストの『失われた時を求めて』前 半部とムージルの作品を比較する研究を行ったが,まったく接点のない,
それぞれが他の作家の作品を読んでいない両作家であるのに,作品中には 無視できない頻度で,類似の発想,ないしほぼ同一の認識などを認めるこ とができた。当時はフランスなら主にサロン,ドイツ・オーストリアでは 主にカフェで連日談話が行なわれ,さらに新聞のフェユトーン(文芸欄)
が―他紙からの転載も含めて―新たな芸術思潮などを伝えていたた め,情報の共有,傾向の伝播が可能であったと推測している21)。
大方の批判はありうるが,きわめて大雑把に捉えると,18世紀は理性と 理想の時代,ないしその実現を求める世紀であった。19世紀は「病気」の 世紀であって,理性と理想に対応しないもの,しきれないものの反作用で あった。そして20世紀は狂気ないし境界例の世紀ではなかったか。つまり 先行する二つの世紀から漏れたもの,ないし「病気」よりもさらに異常に 類するものに関心が向けられ,それらが力を発揮したのではないだろうか。
脳裏をかすめる不届きな想念の例が『特性のない男』に書かれている。
「雄弁家がひしめく世界的な議事堂であろうと,少尉 1 名と兵士 8 名いれ ば全員拘束できる」(M 306)という考えで,あたかもナチスの突撃隊や親 衛隊がムージルの長編小説から学んだかのようではないか22)。小説には,
以上に続けて次のような文章がある。「この種の考え方自体は,一喝して 退けられてはいたものの,すでにとうの昔から,不気味な夢にも似た荒々 しいエネルギーをもっていた」(M 306)。小説の刊行後わずか 3 年にし て,このエネルギーは発現の場をもち,しかも「一喝して退けられる」こ ともなくなっていた23)。
上記の引用文を含む『特性のない男』第72章「科学のほくそ笑み,ある いは悪との第一次正式手合わせ」では,現代人の骨の髄まで浸透した「原
悪」とも言うべきものが論じられる。「もはや人生において信頼できるも のは鋲と釘で留められたものだけという段階に達したものが,科学の客観 性に包括されている一種の根本感情であり」(M 303),「(…)この正真正 銘の真理愛の周囲を,幻想打破,強制,無慈悲,冷酷な威嚇ならびに辛口 の叱正への偏愛がとりまいている。これらは陰険な偏愛と言って悪けれ ば,どうにも抑えようのない,この種の感情の発露には違いないのであ る」(M 305)。そして「この種の感情」をおびた科学的精神は,思想や美 徳についても陰険な作用を及ぼしてくる。
海千山千の時代特有の,この熱狂的卑小化4 4 4 4 4 4 の傾向(Verkleine
rungswut)はおそらく,もはや粗野と高貴という人生にはじめから備
わっている二分法などではなく,むしろ精神の自虐4 4 4 4 4 (ein selbst
quälerischer Zug),善もまた貶められ,いとも簡単に破壊されうる場合
にたいする言い表しがたい嗜好といったほうが,はるかに真相に近い
(M 306)。(傍点筆者)
この「熱狂的卑小化の傾向」,「精神の自虐」が,当時のドイツにすでに 蔓延していたのではないだろうか。『特性のない男』第72章「科学のほく そ笑み……」を読む者は,まるでナチスがこの章から 3Dとなって出現 したかのような思いがするのではないだろうか。1930年11月の『特性のな い男』刊行からわずか 2 年 2 ヶ月でヒトラーは政権をとったが,この本が 予言の書であったわけではない。すでにミュンヒェン一揆は1923年に起 こっており,ナチスはそれ以前から徐々に力を蓄えていた24)。むしろ,よ り大きな流れのようなものがあり,その発現が一方では小説となり,また 一方では政治集団となったのではないか。むろんそれぞれの本質は正反対 ではあるが,上記のように共通する基盤を認めることは可能と思われる。
反ユダヤ主義とムージル
ゲッベルスによれば,1933年 1 月30日(ヒトラーの首相就任)をもって
「極度にユダヤ化した知性主義の時代」は終わった。つまり知性「偏重」
がユダヤ化の忌まわしい症例であって,今後はそれと手を切るということ である。先述の未完に終わったエッセイ「スローな男の懸念」(1938年)の 草稿にムージルは以下のように記している。
2 )〔ナチスから〕距離をとる者を,ほかならぬア〔ンチゼミティスム ス(反ユダヤ主義)〕が,ドイツの未来に対する憂慮,いや絶望で満た す。反ユダヤ主義がナチスの単なる「宣伝活動の手段」だと考えるの は誤りだ。反ユダヤ主義は「第一教義」である。更新運動(Erneue-
rungsbewegung)のためにわれわれが恐れるのは……机……敵―し
かし,いかにそれを証明しようと試みても,われわれはユダヤ人の影 響下にあるという説明で片付けられてしまう。今日われわれができる ことは,おそらくきわめて地道な義務を果たすこと,ごく限られた領 域で証言することだろう(P 1426)。
このような一節を含むエッセイを,オーストリア併合後のドイツ語圏の
『新展望』(Die Neue Rundschau)に発表することは不可能だったろう。す でに見たように「悟性,理性,知性は無である」とする支配者側に対し て,「ユダヤ化した知性」の側から批判しても,効力はなかった。それま で最先鋭の知性として日常レベルの言語や概念の脆弱性を指摘し,理想や 理念の基盤を掘り崩してきた知識人達が,まさに自分たちの仕事の結果と して,自分たちの無力を招来してしまったかのようである。ナチズムは,
単にあらゆる災厄をユダヤ人に押しつけるだけでなく,ナチズムを批判す
る精神をも「ユダヤ化した知性」として無効とする,それなりに堅固なバ リアーを張った完結したシステムであって,その支配圏の内部にあって批 判ないし革新を図ることは,ほぼ不可能だった。わずかな可能性があると すれば反乱か暗殺しかなかったであろうが,それらも封殺された。
反ユダヤ主義については,周知のようにアドルノが『権威主義的パーソ ナリティー』で米国の多数の被験者から一定の見解を導出している。先入 見に捕われやすい人びと,ファシズムの扇動に乗りやすい性向ないしメン タリティーを強くもつ人びとは,
「恐怖」,「弱さ」,「消極性」,「性的衝動」および権威ある人びと
(とりわけ両親)への「攻撃欲」,自分の内部にあるこれらの要素を,
抑圧しつづけようとする。彼らはこれらの要素を自我のなかに組み込 むことができず,自我の外部に押しつける。かくして彼らはこれらの 要素を自分自身とは見なさず,他人たちを敵意のある脅威的な存在と 見なすのである25)。
アドルノによれば「投射(projection)はエス衝動を自我とは無縁とし続 ける手段である。投射は,自我がその機能を充分に発揮できていない兆候 と見なされうる」(前掲書 S. 60)。「自我の内部の《ネガティヴなもの》を 否定しようとするメカニズム」(前掲書 S. 458)は,普通の人の内部でも作 動しがちな心理的トリックであって,その意識されざる欺瞞のお蔭で自分 が清く正しく強いと思い,他者が邪悪で愚かで弱いと思いこんでいる一般 人は珍しくないであろう。ナチスの反ユダヤ主義をそれだけで説明するこ とは恐らくできないにしても,心理的防衛機制の一種が国家的規模に膨張 しようとする手前で,心理学が正体を看破して無効化することはできな かっただろうか。あるいは,まさに「ユダヤ的知性」として斥けられただ
ろうか。
むろん生前のムージルが上記のアドルノの戦後の仕事を知る機会はな かった26)。ムージルの「建設的イロニー(die konstruktive Ironie)」は反ユ ダヤ主義の防衛機制とは正反対である。
イロニーとは,聖職者を,ボルシェヴィキにも同じことが言える,
という風に描くこと。馬鹿者を,突然作者が「部分的にはおれ自身も 同じだ」と思うように描くこと。このようなイロニー,つまり建設的 イロニーは今日のドイツではほとんど知られていない。ものごとの連 関から建設的イロニーは裸形で現れる。人びとはイロニーを嘲笑とか 馬鹿にする行為だと思っている(M 1939)27)。
嘲笑したくなるネガティヴな要素をも自分自身の内部に認める建設的イ ロニーは,長編小説の執筆には有効な手段であって,「敵意と共感(Feind-
schaft und Mitgefühl)」をもってそれぞれの登場人物を描き分けることを可
能にした28)。それではムージルはこの建設的イロニーを発揮して反ユダヤ 主義にも一定の理解を示しただろうか。皆無である。「ドイツ人と黒人
(Neger)に違いはないとぼくは思っている」(P 1364)29)とムージルは記し ている。
われわれの民族的理想主義のかなりの部分がこの思考の病気(Denk-
krankheit)に基づいていることは否定できないだろう。
その結果どういうことになるかは想像に難くない。あらゆるものの 善悪について個人が責任を問われなくなり,人種の所せ為いだということ になれば,いつも他人の所せ為いにして言い逃れをするのとまさに同じこ とになる。行き着くところは,誠実さ(Wahrhaftigkeit)や知的な繊細
さが鈍磨するだけでなく,モラルの胚細胞(Keimzelle)の硬直である
(P 1064f.)。
ムージルが1921年のエッセイ「理想としての国民と現実としての国民」
(『新展望』32/10)で警告したにもかかわらず,事態は彼の予見したとおり に行き着くところまで行ってしまったのである。
ぼくは態度表明はしない(ich nehme nicht Stellung)
ムージルの「建設的イロニー(die konstruktive Ironie)」は,ネガティヴ な要素をも自分自身の内部に認め,「敵意と共感(Feindschaft und Mitge-
fühl)」をもって対象を全面的に把握する有効な手段であった。しかしそれ
は同時に,敵味方の峻別を困難にし,往々にして割りきれない無理数を小 数点以下に引きずるような優柔不断にもつながる。1935年 6 月パリの共ミュチュ済
会ア リ テ館で行なわれた「文化擁護のための国際作家会議」の初日に 3 人目の論
者として登壇したムージルは,文化は常に国家を超越していた,「その最 も高度な段階においては(…)超国家的諸関係に依存してきた」(P 1264)
云々と語り,3,000人の聴衆の大方の顰蹙を買った。もともと人民戦線路 線(それまでの社会民主党敵視をやめ,ナチスに対抗するために協調を図るもの)
へと転換したスターリンが 2 年前にバルテュスと談合して計画された,コ ミンテルン主導の「パリ会議」であることを,ムージルは後から知った。
集団主義(Kollektivismus)という言葉でボリシェヴィスムもファシズムも 一括りにしてブーイングを誘ったのも,当時は不器用であったかも知れな いが,今日の目から見て,いや会期中に「パリ会議」を総括しても,誤っ た姿勢ではなかったと思われる30)。『特性のない男』の著者は,以前から
「集合主義(Kollektivismus)」の将来,「蟻のような人間」(T725)の未来形 態を注視していた31)。第三帝国が消滅し,ソ連も消滅した今日の眼からみ
れば,ファシズムにもスターリニズムにも組みしなかったムージルの姿勢 は適切だったと思うのは容易だけれども,1935年当時,作家仲間の多くが 共産党員となり,あるいは知人や出版関係者がナチ党員となり,公官庁の あれこれのポストがナチ党員で置き換えられていた只中で,つまりそれぞ れ逆向きに回転しようとする多数の歯車のあいだにあって,旗幟鮮明にせ ぬまま耐えるには,かなりの胆力と知力が要請されたであろう。1939年 3 月にムージルと会見したイニャッツィオ・シローネは「政治に対する彼の 見解を厳密に規定することは,まったくもって難しかった」と記してい る32)(KC1339)。
ぼくは態度表明はしない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4(ich nehme nicht Stellung)。ぼくがどこに立 つことになるのか,精神はぼくをどこに導くのか,ぼくは知らない。
それはダイモーンだろうか,それとも客観性だろうか?(T 852)
1933年末にムージルは日記にこう書きこんでいる。アーマンによれば ムージルがどこに立つことになろうと,「彼は《精神》に付きしたがう決 心だった。すなわちムージルのいう精神とは,(党派に)左右されないこ と,自律性,均衡のとれた知性と感情,清廉潔白(Integrität)および単独 者であることで,その意味するところは,何らかのグループ,党派ないし 徒党に顧慮することなく彼が単独で決定するということである。こうする ことでムージルはケースバイケースで,先入見に囚われることなく,策略 的な配慮なしに,イデオロギーの拘束なしに,賞賛と批判,好意と反感を 表明できたのである」(Amann 26)。
亡 命 と 死
1938年 8 月に「旅行」と称してイタリアへ脱出した時点で,ムージルは
すでにナチスの支配するドイツにこれ以上滞在することは危険であると判 断していたはずだ。同年12月31日,「有害にして好ましからざる著作一覧」
に『特性のない男』と『生前の遺稿』が載った。 2 つの理由が考えられ る。「旅行」から帰国しないムージルが事実上亡命したとナチスが看破し たか,あるいはムージル夫人のマルタがユダヤ人であることを突きとめた か,ないし両方である。コリーノが提示する記録を見るかぎり,ムージル はなぜ上記の 2 書が禁書に指定されたのか理由が分からず,また禁書が解 かれる可能性があることを信じているという態度をとっていた33)。推測す るに,篤志家の寄金だけが頼りのムージルは,スイスあるいはオランダの 出版社となんとしても出版契約を結び,前払い金などを得る必要があっ た。ドイツ語圏の読者が自分の本を購入する可能性が残っている,という 状況把握を,ごく身近な人びとにも印象づけなければならなかったのであ る。実際のところムージルは,トーマス・マンのように公にナチス批判を 表明することはなかった。いわば平行運動(Parallelaktion)的にマンと ムージルは―マンが数歩先を歩んで―亡命のプロセスをたどってい た。すでにマンは1933年 2 月11日のミュンヒェン大学における講演「リ ヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」に対して反論をうけ34),同年 5 月 11日にベルリンで 2 万冊の書籍とともにトーマス・マンの本が焚書に付さ れた35)。それでもマンの国籍および市民権剥奪,財産没収は1936年までの 猶予があった。つまり作家と国家との断絶には段階があり,双方の躊躇と 逡巡が一定期間続くのであって,ナチスとしてもノーベル賞作家(1929年)
マンを斬り捨てるにはいくつかの抵抗を乗りこえる必要があった。ムージ ルに対して具体的にナチスがとった手段は,1939年 1 月30日に執筆停止処 分(Sperrkarte)を出した(KC 1314)のが最後であって,まだ最終的決裂 に至ってはいなかった36)。
コリーノによれば1939年 4 月 4 日,奇しくもヒトラーが, 9 月 1 日の
ポーランド侵攻を用意せよとの特命を国防軍に与えた翌日に,懇意なオッ トー・ヴィルツ〔Otto Wirz 1877-1946 スイスの作家〕を通じて政治部,すな わちベルンの外務省にムージルはデリケートな質問をした(KC 1338)。 ヴィルツは次のように記している。「著名なドイツの作家,アーリア人,
亡命者,〔第一次〕大戦ではオイゲーン大公軍の政治方面の参謀部メン バーだった者が,わたしに問い合わせてきている。彼の言い方によれば,
悪魔が襲いかかってくる場合,彼が第一次世界大戦のときと同様に,スイ スの主務官庁に任用を許可される可能性があるかどうかについてである。
(…)彼とはローベルト・ムージルである」(B 970)。すなわち58歳のムー ジルはナチスがスイスを攻撃してきた場合,スイス軍の後方支援に就きた いと申し出たのだ。しかもナチスを悪魔(Teufel)と呼んでいる。
これには経済的理由も作用しているだろう。すなわち軍務に就けば収入 を得られるし,かつてボーツェンで『兵隊新聞』編集長として培ったノウ ハウを生かすこともできる。それにしてもナチスと緊密に連絡をとってい た「黒いスイス」37)の政治部に,このような打診をするとは,よほど経済 的逼迫のために判断力が鈍ったか,非公式ながらナチスに敵対する態度を 表明する決断をしたかのどちらかであろう。
すでにトーマス・マンの身に及んでいたナチスの弾圧が,ムージルにも エスカレートしてくるであろうことは予測できた。カーチャ・マン(Katia Mann, geborene Katharina Hedwig Pringsheim 1883-1980)がユダヤ系であるの はほぼ周知のことだった38)。マルタ・ムージル,旧姓マルコヴァルディ,
旧姓アレキサンダー,旧姓ハイマンがユダヤ系であることは,容易に明ら かにならなかったであろうが,ナチスが調査に乗り出せば早晩結果がでた ことであろう39)。1935年 9 月ニュルンベルク党大会で公表された「ドイツ 国公民法」および「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベル ク血統保護法)(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen
Ehre)は,ドイツ国公民(Reichsbürger)とそれ以外の国籍保有者(Staats
angehörige)との婚姻および性交を禁じた40)。このニュルンベルク諸法が
有効である限り,ムージルのドイツ国復帰も,彼の作品の出版,販売もも はやありえなかった。1942年 3 月20日,それまで留守にしていたウィーン のラズモフスキー街20番の住居をウィーン市の指示により明け渡し,ムー ジルの書籍,草稿ほか家財一切が倉庫に保管される。 3 月12日に大型爆弾 が倉庫に命中し,大きな損害をもたらした41)。その翌月の 4 月15日,マル タとの結婚記念日にムージルは世を去った。筆者は自然死ではないのでは ないかと思い,可能な限り調査したが,医師による死亡診断書はどうして も入手できなかった42)。
冒頭の「脱深刻化」(Enternstung)に話を戻そう。ムージルの描くカ カーニエンの「国家哲学」はFortwursteln(どうにかこうにか誤魔化して やってゆく)だった(M 216)。オーストリアとハンガリーを二重帝国にし て,オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねるなどという腑に落ちない やり方もその一つだろう。プロイセンの,おそらく「国家」ではなく,民 間哲学はEnternstenだったのではないだろうか。緻密かつ几帳面な仕事 ぶりと表裏一体を成して,いざとなるとこの「脱深刻化」に逃げこむ,あ るいは開き直る癖があるのではないだろうか。
筆者は2013年 9 月にオペレッタ『月の女王』(Frau Luna)を観劇し た43)。終幕近くで月が軌道を外れてあわや地球と衝突しそうになる。舞台 は赤く明滅しアラームのブザーが鳴り響く。そこで月の女王は
Na, und ?(それがどうした?)
と言うのである。筆者はハッとし,それから重苦しい思いに捕われた。オ ペレッタを見て胸が悪くなったのはそれが初めてで,今のところ最後であ る。
引用文献略語一覧
(M) Musil, Robert :Gesammelte Werke 1 . Der Mann ohne Eigenschaften. Neu durchgesehene und verbesserte Ausgabe. Reinbek bei Hamburg (Rowohlt) 1978
(P) Musil, Robert :Gesammelte Werke 2 . Prosa und Stücke. Kleine Prosa, Apho- rismen, Autobiographisches. Essays und Reden. Kritik. Reinbek bei Ham- burg (Rowohlt)1978
(T I) (T II) Musil, Robert :Tagebücher. Hrsg. v. Adolf Frisé. Reinbek bei Ham- burg (Rowohlt) 1983 (Band I und II)
(B I) Musil, Robert :Briefe 1901-1942. Mit Briefen von Martha Musil, Alfred Dö- blin, Efraim Frisch, Hugo von Hofmannsthal, Robert Lejeune, Thomas Mann, Dorothy Norman, Viktor Zuckerkandl und anderen. Hrsg. v. Adolf Frisé. Un- ter Mithilfe von Murray G. Hall. Reinbek bei Hamburg (Rowohlt) 1981 (B II) Musil, Robert :Briefe 1901-1942. Kommentar, Hrsg. v. Adolf Frisé. Unter
Mithilfe von Murray G. Hall. Reinbek bei Hamburg (Rowohlt) 1981
(Amann) Amann, Klaus :Robert Musil – Literatur und Politik. Reinbek bei Ham- burg (Rowohlt) 2007
(Bb) Corino, Karl :Robert Musil. Leben und Werk in Bildern und Texten. Rein- bek bei Hamburg (Rowohlt) 1988
(GL) Hayasaka, Nanao :Robert Musil und der genius loci. München (Wilhelm Fink) 2011
(KA) Robert Musil Klagenfurter Ausgabe. Kommentierte digitale Edition sämtli- cher Werke, Briefe und nachgelassener Schriften. Hrsg. v. Walter Fanta, Klaus Amann und Karl Corino. Klagenfurt :Robert Musil-Institut der Univer- sität Klagenfurt. DVD-Version 2009
(KC) Corino, Karl :Robert Musil eine Biographie. Reinbek bei Hamburg (Ro- wohlt) 2003
(LWW) Robert Musil. Leben, Werk, Wirkung. Im Auftrag des Landes Kärnten und der Stadt Klagenfurt Hrsg. von Karl Dinklage. Zürich, Leipzig, Wien 1960
(RMSZW) Robert Musil Studien zu seinem Werk. Hrsg. v. Karl Dinklage zusam- men mit Elisabeth Albertsen und Karl Corino. Reinbek bei Hamburg (Rowohlt) 1970
(阿部)阿部良男『ヒトラー全記録』柏書房,2001年
注
1) Barnay, Paul. 1884年~1960年。1921年から1933年までブレスラウの合同 劇場(ローベ劇場とタリーア劇場―のちゲーアハルト・ハウプトマン劇 場)の支配人。マルレーネ・ディートリヒほかの名優,名演出家を育成。ユ ダヤ系のため公職から追放され,1938年のオーストリア併合以降,逃亡先の ハンガリーで強制労働に従事。1948年から1952年までウィーンのVolksthe- aterの総監督。本件については1933年 3 月12日の『フランクフルト新聞』
(Frankfurter Zeitung)を始めとして,いくつかの新聞に記事が出た(KC 1123)。
2) 筆者には以前から,屍臭と血の匂いのするこの時代を避ける傾向があっ た。少なからぬ文献に一抹の猟奇趣味や頽廃が感じられたことも一因であ る。それでもムージルがこの時代を生きていたのは事実であり,その時々の ムージルの反応を把握し分析することにより作家ムージルの姿をより多面的 に,正確に理解することは可能であろうと判断した。ちなみに筆者の目にふ れた 2 , 3 の解釈を示しておく。「ヒトラーに権力を獲得させた主な罪を担 うべきは,とくに,〔ヴァイマル〕共和国の労働者大政党間の不和だったか らであります」ブレヒト,ベルトルト:1943年12月 1 日付のトーマス・マン 宛の手紙。(阿部221頁)「有澤広巳教授の分析。 1 .ヴァイマル共和国はい わば即興的に打ち出されたもので,熟慮設計されたものでな(かった)。
2 .ドイツの一般国民は,(…)民主主義議会政治に対しては一定の距離を おいていた。 3 .重大なのは,ヴェルサイユ条約の苛酷な内容の重荷であ る。強制的に条約を呑まされた当事者に対しては,(…)その懸命な政治努 力は評価されず,常に国民的に非難された。 4 .民主的なヴァイマル憲法下 で,国内の民主化は進まず,民衆の間には新風が吹き通らなかった。 5 . 1930年代はじめには議会が機能しなくなり,憲法48条による大統領緊急令の 発動による政治に変質してしまった。誠実な人物であるブリューニング首相 の罷免ののち議会は形骸化し,ヒトラーへの道を開いてしまったのである」
(阿部214頁f.)。
3) Enternstungという単語は,KAでは19回ヒットする。enternstetで検索す ると21回ヒットする。主に遺稿ファイル(Nachlass Mappe)に出現してお り,1920年代から散発的に書きとめられている。出現のかたちは 3 つあり,
索引(Register)として(「可能性感覚」と並置されているケースもある),
関連項目として(他の遺稿ファイルの関連項目の指示),文章そのものとし て(ただし断片的で真意を量りがたいものが多い),である。政治的,文化 的,心理的など様々な場面で使用されており,ムージルのEnternstungを正
確に把握しようとするならば一書を要するであろう。本稿では〈脱深刻化〉
が,「成り行きに任せる」(Gewährenlassen),「無力」(Ohnmacht)と併記 されたテキスト(Mappe VII/1 „II-Aktion, GfL, Tzi, Gn“ VII/1/ 146 Af 13 15/38/1)(1926年~27年頃)を基盤として論を進める。真意を量りがたい文 の例として以下のT Iの文を挙げる。
「肝腎なのは平均的人間を,この世のあらゆる残虐行為の保菌者として描 くことだ。フランス帝国主義の男,ハンガリーの白色テロの男。脱深刻化さ れた人間」(T I 443)。
4) 1933年 2 月27日の国会議事堂放火事件の翌日,大統領緊急令が発布され,
「ヴァイマル憲法で認められた言論の自由,報道の自由,郵便および電話の 秘密,集会および結社の自由,私有財産の不可侵性などが停止されることに なる(…)」。(阿部220頁f.) 3 月14日共産党禁止。同日および 5 月に共産 党は統一戦線結成を社会民主党に提案するが成功せず。 3 月23日首相ヒト ラーへの「全権委任法」成立。 6 月22日社会民主党(SPD)禁止令。以上の 措置等によりナチス批判を代弁する組織は壊滅した。
5) その後ミューザームとオシエツキーは拷問により殺された。
6) これはぎりぎりのタイミングだった。同年 9 月29日にドイツ・スイス間で 条約が調印され,「ドイツはユダヤ人のすべての旅券にユダヤ人を識別する J印を付ける」ことが規定された。マルタの旅券にJ(イェー)がスタンプ されることはなかった。
7) ペンション・シュテルンはクーアフュルステンダム217番の上階にあり,
直交するFasanenstraßeの街路樹を見おろす快適で静かな環境だった。同じ
クーアフュルステンダム233番,カイザー・ヴィルヘルム教会付近にはマル タの姉,ヨハナ・カスパーが住んでおり,マルタにとっても便利な宿泊地で あったと推測できる。(GL 207ff. 参照)なお姉ヨハナは1941年ないし1942年 にテレージエンシュタットに移送され,1944年に火葬された。(KC 1861)
8) 差別用語の恐れのある語には傍点(・)を付した。もとより筆者にはこの 種の差別を助長する意図はない。
9) 社会民主党は120議席,共産党は81議席,中央党73議席,ドイツ国家人民 党52議席,バイエルン人民党19議席であった。(阿部222頁)ナチスはクルッ プからの100万ライヒスマルクなど財界から巨額の支援を受けて強力な選挙 キャンペーンを張り,テールマン逮捕など,あらゆるアンフェアな手段で左 翼勢力を圧殺しようとした。それでも共産党および社会民主党に1100万を超 えるドイツ国民が投票した。彼らがその後どのように抵抗したのか,ないし 抵抗しようとしたのかについては,手元に資料がない。ヒトラーはこの時
「 4 年間の任期を与えよ」と巧妙に訴えた。また反ユダヤ主義を老獪に隠し たため,ユダヤ人全国連盟のようなヒトラー支持団体が生れさえしたという。
10) 「1914年の夏の体験,いわゆる偉大な時代への高揚」(P 1060)のもつ重み から,ムージルの作家としての仕事が広い意味でこの体験の前史とその克服 に捧げられていることが分かる。(s. Amann 8 )『特性のない男』が終結部 において戦争になだれ込む予定であったのは周知のことだが,「戦争」とは 大戦勃発時の病的ないし異常な高揚を意味しており,そこに『特性のない 男』の登場人物達のさまざまな試行が呑みこまれて行く,という枠組みを見 誤ってはならない。さらに,ムージル文学の解釈という次元をはなれて一言 すれば,一般に開戦時には,いわば民族のアドレナリンが大量に分泌される のであって,敗戦時に翼賛的な作家や詩人を弾劾してもほとんど意味はな い。ムージルも記しているように国家間の争いとなると忽ちケダモノ・レベ ルに墜ちる国際関係が問題なのであり,いわば国家心理学ないし動物行動学 等による分析と各種防御対策の構築が急務であろう。
11) ムージルの父アルフレートは,ブリュン工科大学の学長を二度にわたって 務めたので,通常であれば退職金,年金等により安定した老後が見込まれた が,1918年のチェコスロバキア独立により,それまでのハプスブルク帝国内 の貢献はゼロと見なされ,アルフレートは非常勤講師として働き,さらに下 宿人を置いて糊口をしのぐことになる。マルタはユダヤ系の銀行家の娘とし て,おそらく莫大な資産をもっていたが,インフレーションでそのほとんど が灰燼に帰する。マルタが幼少時を過したアレキサンダー家のあったマタイ 教会通り 1 番は,現在ベルリン・フィルハーモニカーの敷地となっている。
一等地である。
12) 「理想の国民と現実の国民」より。本稿では詳述しないが,ムージルはこ の「それ(Es)」の解明にとり組んでいる。議会制民主主義は,結局利益代 表組織間の民主主義でしかありえず,個人と国家,私的生活と公的生活をカ バーして繋ぐものが欠けている等々。つまりは戦後の体制,人間の生活全体 が,絶対的な倒錯(T 661)であるとみる。それに対置されるのが「別の状 態」(AZ)である(Amann 21)。
13) コリーノによれば,ゲッベルスは同じ主旨の発言をあちこちで行ってい る。「ここ数年われわれは,自由主義のほとんどグロテスクに思える狂宴を 見てきました。民衆とはそもそもまったく無関係な芸術が,ごく少数の上流 層によって購われ,受け入れられていたにすぎないことを目にしてきまし た。(…)芸術が民衆を見捨てたように,民衆は芸術を見捨てたのです。こ うした状態を簡潔に表現する言葉があります。それは芸術のための芸術で
す」。Helmut Heiber (Hrsg.) :Goebbels-Reden. Bd. 1 (1932-1939). Düsseldorf 1971, S. 83. (KC 1784).
14) 草稿「スローな男の懸念」(Bedenken eines Langsamen)の一節。『新展 望』(Die Neue Rundschau)に載る予定だったが未完に終わった。コリーノ によれば,『新展望』のユダヤ人の原稿審査員ルードルフ・カイザー〔Ru- dolf Kayser 1889-1964〕は1932年12月に解任され,「アーリア人」ペー ター・ズーアカンプ〔Peter Suhrkamp 1891-1959 ドイツのズーアカンプ出 版社の設立者〕に代わった。草稿はズーアカンプの慫慂によると考えること ができる。ズーアカンプの方は「33年 3 月」に関するエッセイで,国家社会 主義へのある種の共感を表明し,1933年の〈決起〉と1914年 8 月の周知の陶 酔のあいだには類縁性があると指摘した(KC 1125)。 ムージルの結論によ れば,昨日の聖なるものが彼らにはもはやそれほど聖なるものではなくなっ たか――それとも今日の人間が,自ら思いこんでいたほどには自立しておら ず,「集団をなして初めて強固なものとなる」かのどちらかだった。この後 者の,「国家社会主義が織りこみ済みの」(P1415)結論は,人間は無定形で あり,あらかじめ与えられた形式に順応する(P1371ff.)というムージル自 身のテーゼとも相通じるところがあった(KC 1127)。
15) Sauhaufen. 『特性のない男』第一巻第85章でシュトゥム ・ フォン ・ ボルト ヴェール将軍は陸軍の手法にしたがって理念の指揮官,思想の集団の配置図 を作成する。「これらの思想の集団は,戦闘員とその武器になる理念の補充 とを,味方の留守部隊からばかりでなく,敵方の留守部隊からも引き出して いる(…)。彼らは絶えずその戦線を変更して,なんの理由もなく突然寝返 りを打って味方の陣地に挑む始末だ。(…)いろいろな理念が絶えず敵方に 流れ込んでは,また戻ってきて,そのためあるときはこの戦線に,またある ときはあの戦線に,という具合(…)」(加藤二郎訳『特性のない男Ⅱ』松籟 社,1992年,154頁)。
16) 若槻敬佐「『非政治的人間の考察』における相対化のパトス」(『山形大學 紀要.人文科學』10( 2 ),1983年)45-61頁参照。
17) 「エッセイとは,ある一人の人間の内的な生命がある一つの決定的な考え において取る,一回的で不変の形姿である。これは普通主観性と言われてい るようなさまざまな思いつきにありがちな無責任や中途半端とは全く関係が ない,だが,エッセイに結実した考えには,真だとか偽だとか,賢いとか愚 かだという概念もあてはめることはできない。こうした考えもまた,繊細で 言葉にはならないのと同じくらい厳密な規則に従ってはいるのだけれども。」
(M 253)恒川隆男訳。オーストリア文学会研究発表会(2013年 5 月)配付
資料。
18) 「ぼくは自分の真摯さ,初期の一群の著作の姿勢を貫徹していない。そう するためにはパトス,信念(Überzeugtheit)が必要だ。しかし信念は,ぼ くの《帰納法的謙虚さ》とは相容れない。相反する方向に向かって動くぼく の知性とも相容れない。この知性の昂たかぶりと激しい情熱を,イロニーによっ て補完することが不可欠だ」。(T I 973)「ぼくの《帰納法的謙虚さ》(meine
„induktive Bescheidenheit“)」とは,未来のレベルから見て,現在の自分の 判断は誤謬とならざるをえない,というムージルの見方であろう。
19) 「この《 我独りとともにあること》のなかには断想の線や想念の軌道の白 痴状態があり,魂は最も堅牢なもの最も信頼すべきものの周囲にざわめきつ つ空虚に乱雑に丸められている。―これは抑制である(…)。そして飛 散。もつれあい紛糾していたものがほどけて,ひらひらとひらめく。自我
(Ich)は緩慢に揺れながらひらひらと舞う。遠くの方に色あせて随伴してい た想念,いつもは抑圧され時おり駆動される半端なプロセス,これら興奮の 断片の数々はけっして完成されることがなく,それでもやはり性的で,それ でもなおこの場では禁断のもので,それでもなおプロメテウス的なものだ が,これらの興奮の諸部分がはじめて感知されるものになる。」(『ムージル
・ エッセンス 魂と厳密性』中央大学出版部 2003年, 5 頁f.)ムージルは このように人間の深層の想念の流れを追ってみせる。「現実のなかで一滴の 熱い雫のように凝縮されているものが,芸術のなかでは,溶解され,分解さ れ,別な風に組み合わされて,――聖別され,人間化される」(同 9 頁)。
20) 1911年 1 月,アルフレート・ケルの編集する雑誌『牧神』(Pan)第 6 号 に「若きフロベールの日記」(初の独訳)が掲載され,この号は発禁となり 残部 6 部が押収された。(『ムージル ・ エッセンス』巻末注参照のこと。)
21) 早坂七緒:Luftinfektion?(空気感染?)――ムージル研究者がプルースト を読んでみる――。日本オーストリア文学会秋季研究発表会(札幌)2013年 9 月(口頭発表)。なおフェユトーンによる伝播については,ヨーゼフ・
シュトルッツ博士(クラーゲンフルト)による助言を得た。
22) 1933年 2 月28日(国会議事堂放火事件の翌日),大統領緊急令を受けて,
ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命令,社会民主党の機関紙も発行停 止。 3 月 3 日共産党党首エルンスト・テールマン逮捕(1944年ブーヘンヴァ ルト強制収容所で殺害)。 3 月 9 日共産党が非合法となり,85名の国会議員
(475万票獲得)は議席を剥奪された。(阿部221頁~) 2 月 1 日国会解散から 3 月 5 日の選挙日までの期間,突撃隊,親衛隊,鉄兜団などナチ党員が補助 費警察官とされ, 3 月 8 日には(バイエルンを除き)すべての連邦に警察代