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東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

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清泉女子大学人文科学研究所紀要 第

41号 2020

年3月

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

山  本    勉・花   澤  明優美

要旨  目黒区教育委員会は祐天寺︵東京都目黒区中目黒︶仁王門安置の木造二天王立像について︑その文化財的価値を確定するために︑山本勉を代表者とする調査団に委託して︑二〇一八年十二月に美術史的調査を実施

した︒調査結果は山本と花澤明優美が共同執筆してまとめ︑目黒区に提出した︒本稿は報告書の内容を再構成し︑

若干のその後の知見をくわえたものである︒

  二天王像は二〇一三年まで祐天寺仁王門の裏側に安置されていた︒仁王門は享保二十年︵一七三五︶に完成

した門で︑その表側に安置の金剛力士像︵二王像︶は元文三年︵一七三八︶に供養が行われている︒二天王像

はやや遅れる安永四年︵一七七五︶に門に安置されたことが記録から知られる︒そこでは作者を鎌倉時代初頭の仏師運慶としており︑古像であることが認識されていたとみられるが︑安置以前の伝来については知られない︒

  二像はその作風から平安時代後期︑十二世紀前半頃に近畿周辺で造られたものとみられる︒いずれも片手を

挙げ︑もう一方の手を腰にあて︑また腰を捻って︑片脚に重心をかけ︑もう一方の足を踏み上げて立つ︑左右対称の姿である︒四天王像中の二軀であった可能性もあるが︑左右対称の形姿にくわえ︑一方が開口し︑他方

が閉口するという阿吽の組み合わせになることからしても︑一対の二天王像として造られたものである可能性

が高い︒小像であるので︑門に安置するための像であったとは考えにくく︑堂内の壇上で本尊格の像を守護する像であったものと考えられる︒表甲の内区に金鎖甲の文様を刻み出すのは十二世紀以後の着甲像にあらわれ

(2)

る表現である︒一方が脛当てを魚体とする形︑また一方が脛当てを付けず長靴を履く形はたいへんめずらしい︒

これらは十二世紀に中国宋から流入した図像を典拠としたものと考えられ︑そのごく早い時期の彫刻作例である︒やや別の問題として︑二像は江戸において江戸時代に新造された門に平安古像を安置した例であるが︑同

様の例は東京都内の他の寺にもある︒この点は江戸時代の江戸における尚古趣味のあらわれとして評価するこ

ともできる︒

  総じて二像は︑日本彫刻史研究において今後検討すべきさまざまな問題を内包し︑少なからぬ意義をもつ作

例であると考えられる︒

キーワード二天王像︑平安後期の中国影響︑江戸時代の尚古趣味

はじめに

  東京都目黒区中目黒五丁目の明顕山祐天寺は︑増上寺第三十六世で五代将軍綱吉︑六代将軍家宣の帰依を受けた

祐天上人が没した享保三年︵一七一八︶︑その庵居の跡に高弟祐海が祐天を開山として創建した浄土宗寺院である︒

綱吉の養女竹姫が寄進したという由緒をもつ仁王門の裏側に安置されていた︑持国天・増長天と称される二天王像

を山本がはじめて拝したのは︑二〇一三年度に祐天寺の要請で寺内の仏像彫刻を通覧した際であった︒祐天寺には

その寺史や寺格にふさわしい近世の仏像が多数伝来しており︑それらの現状をとらえるつもりであったが︑おそら

く平安時代後期にさかのぼると思われる二天王像に突然遭遇し︑おどろいたものである︒その後︑何度か調査を重

ねたが︑最終的には目黒区教育委員会の委託を受けて︑山本を代表者とする調査団を構成して︑二〇一八年十二月

に美術史的調査を実施した︵

︒その結果︑二像が平安後期︑十二世紀前半頃の製作であることを確認した︒東京1︶

都心部では類例の少ない古代彫刻であるが︑単に製作が古代にさかのぼるというだけでなく︑図像においても表現

(3)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

技法においても同時期の天王像のなかで突出した性格をもつ像であることも判明した︒また︑江戸時代の江戸で︑

新造した門に古像を安置することは他例もあって関心がもたれた︒

  二像の基礎データと所見は︑山本と調査団にくわわった本学大学院人文学専攻︵博士課程︶の花澤明優美が共同

執筆してまとめ︑﹁祐天寺仁王門二天王像調査報告書﹂として目黒区に提出した︒その後︑二像は東京国立博物館

X

C T

調査も受け︑構造技法や保存状態の詳細も判明した︒二〇一九年度に目黒区文化財保護審議会に区の有

形文化財に指定することが諮問され︑審議会は指定が妥当であるむね答申した︒年度内に指定されるはこびとなっ

ている︒  本稿は報告書の内容を再構成し︑若干のその後の知見をくわえたものである︒全体が山本・花澤の共同執筆で︑

文責は両名にある︒

一  伝来

  二〇一三年までこの二天王像を安置していた祐天寺仁王門︵目黒区指定有形文化財︶は︑﹃明顕山寺録撮要﹄に

よれば享保二十年︵一七三五︶四月十一日に造営上棟された門である︵

2︒両端の間の表側に安置の金剛力士像︵二︶

王像︶は五代将軍綱吉の息女竹姫の所願により同年四月中に仏師采女に発注︑同年八月に寺に渡され︑元文三年

︵一七三八︶三月に供養が行われている︵

︒二像にはそれぞれ像内首枘部に享保二十年夏に法橋石見︵采女と同一3︶

人物であろう︶によって造られたむねの墨書銘がある︵

︒4︶

  二天王像についても﹃明顕山寺録撮要﹄に左記の記載があり︵

︑門の上棟後四十年をへた安永四年︵一七七五︶5︶

四月八日に門に安置されたことが知られる

︒ここに

﹁運慶作﹂とあって作者が鎌倉時代初頭の仏師運慶

?〜

一二二三︶に仮託され︑古像であることがこの時点で認識されていたとみられるが︑これ以前の伝来について知ら

(4)

れるところはない︒

   一 増長天両体共  御丈   運慶作   一 持国天但御丈弐尺七寸五分

      当山六世

     右︑安永四乙未年四月八日  得誉祐全代

二王像は文化二年

︵一八〇五︶六月の修補記録があり

6︶

︑各像像内に文久元年

︵一八六一︶六月と昭和七年

︵一九三二︶六月の修理銘札を納入するが︑二天王像についての修理記録は確認できない︒

  祐天寺が昭和七年︑つまり二王像の修理が行われた記録のある年に発行した絵葉書に︑この二天王像の写真を載

せたものがあり︑﹁持国天  増長天︵運慶作︶﹂のキャプションを付す︒二像の保存状態は後述するが︑現状では剝

落も進んでいる表面の彩色はこの写真では真新しく見え︑この直前すなわち二王像と同時に二像の修理が行われた

ことを想像させる︒

二  像の概要

  以下︑二軀の基礎的な情報を提示するが︑各像の名称については確証がなく︑本稿では現在の寺での呼称を用い

る︒かつて門で左方︵向かって右側︶に安置されていた像が持国天︑右方に安置されていた像が増長天である︒像

高は持国天が九一・四

cm

︵三尺二分︶︑増長天が九四・七

cm

︵三尺一寸三分︶︒髪際高は持国天が八四・三

cm

︵天冠台

下より︒二尺七寸八分︶︑増長天が八五・三

cm

︵二尺八寸二分︶︵

︒おおむね三尺像として整えられたものであろ7︶

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東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

うが︑髪際高の尺寸は﹃明顕山寺録撮要﹄に記される安永四年︵一七七五︶安置二天王像の﹁御丈弐尺七寸五分﹂

にほぼ合致し︑現存二軀が安永安置像であることを証している︒

︵一︶形状

一︑持国天

  垂髻を結う︒上元結は判然としない︒下元結は紐一条︒現状では側面から後方に髪束の輪五個をあらわす︒髻

は疎ら彫り︒天冠台は現状平帯状で︑右耳上前方で下向きに尖りをあらわす︒正面で天冠台より上に髻まで達す

る月代をあらわす︒鬢髪は疎ら彫り︑その他は平彫りとするか︒瞋目︑閉口︒耳垂部不貫︒

  窄袖衣・大袖衣・鰭袖衣・袴を着ける︒衣の裾を裙状に垂らす︒大袖衣の先端は結ぶ︒背面に獣皮を着ける︒

肩甲・胸甲・表甲・腰甲を着ける︒肩甲の中央部は胸部正面下方に突出する︒胸甲・表甲の縁には杉綾文を刻出

する︒表甲の内区には金鎖甲の文様を刻出し︑周縁との境は紐二条であらわす︒周縁部は無文︒表甲の下縁に蓮

弁形の飾りをつける︒胸から二条の縦締め紐をあらわし︑腹部の輪に通して左右に分ける︒平帯状の腹帯を締め

る︒天衣を腹帯から下の正面に

U

字状にあらわす︒襟当て・肩喰い・前楯・帯喰い・籠手を付ける︒襟当ては布

帛状︒肩喰いは右肩のみにあらわす︒帯喰いは炎髪の獣で︑帯喰い上方の紐は炎髪と一体化する︒長靴を履く︒

長靴は上縁と足首部分に連珠文帯︵連珠を紐二条で挟む︶を︑下底に飾りをあらわす︒

  両手屈臂︒左手は側方で頭の高さに挙げ︑全指を曲げて持物を執り︑右手は腰脇に当てる︒腰を右に捻り︑重

心を右足にかけ︑左足を側方に出して踏み上げて立つ︒

二︑増長天

  大略は持国天に準ずるが︑相違点は以下のとおりである︒

(6)

  月代はつくらず︑天冠台下に髪際をあらわす︒開口し︑上下歯と舌をあらわす︒

  表甲は下縁では左右の区別がなく︑下に各三頭形の蓮弁飾りを巡らせる︒腰甲は着けない︒胸部正面に縦締め

のベルトをあらわし︑その下方に布を巻く︒腹帯は上下縁に覆輪をとる︒襟当ては皮状で︑上縁を帯状にあらわ

し︑背面に四角い突出部がある︒肩喰いは左腕にのみあらわす︒帯喰いの獣の頭部は覆輪状にあらわす︒長靴を

履かず︑脛当てを着け︑靴を履く︒脛当ては上を向いて開口する魚体で︵魚の口の中に本体の脚を通す︶︑魚の

鱗と背鰭を彫出する︒足首に輪をあらわす︒靴には縦締め紐と下底の飾りをあらわす︒

  左手は腰脇に当て︑右手は側方で頭の高さに挙げ︑全指を曲げて持物︵戟︶を執る︒腰を左に捻り︑重心を左

足にかけ︑右足を側方に出して踏み上げて立つ︒

︵二︶品質構造

  二軀とも針葉樹の割矧ぎ造りである︒表面は現状︑彩色をほどこしている︒各像の詳細は次のとおりである︵

8︒︶

一︑持国天

  髻をふくむ頭体幹部一材製︒頭体幹部を通して左右に割矧ぎ︑内刳りのうえ割首する︒右半身は脚部を割矧ぐ︒

割首・割脚ののち体幹部を左右各々前後に割矧ぐ︒左腕は肩・肘で︑右腕は肩・手首で矧ぐ︒右足先︑左足䈂︑

右足䈂前縁は別材製︒

二︑増長天

  髻をふくむ頭体幹部一材製︒頭体幹部を通して左右に割矧ぎ︑内刳りのうえ割首する︒割矧いだ左右材の脚部

は︑左右それぞれ上縁に鋸を入れ後半部を割矧ぐ︒左腕は肩・手首で︑右腕は肩・肘で矧ぐ︒左足先︵䈂前縁も

ふくむ︶︑右足先︑右足䈂は別材製︒

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東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

︵三︶保存状態

  保存状態についても一軀ずつ記しておく︒

一︑持国天

  髻頂後半︑両腕︑左足䈂︑右足䈂前縁︑表面仕上げのすべて︵彩色と一部の漆箔︶︑以上すべて後補である︒

  光背︵柄付き輪宝光︹輪宝の中心に蓮華をあらわす︺︒高一一〇・五

cm

︒木製︑柄漆塗り︑その他漆箔︶︑邪鬼・

岩座︵総高二二・二

cm

︒各木製︑彩色︶︑礼盤座︵高一三・七

cm

︒木製︑黒漆塗り・漆箔︒隅金具付き︶も後補で

ある︒

二︑増長天

  髻頂後半︑後頭部左方︑両腕︑左右足先︵左は䈂前縁をふくむ︶︑右足䈂︑表面仕上げのすべて︵彩色と一部

の漆箔︶︑以上すべて後補である︒腹部に巻く布の結び目に別材を矧いでいたか︒

  光背︵高一一一・九

cm

︶︑邪鬼・岩座︵総高二一・一

cm

︶︑礼盤座︵高一三・九

cm

︶も後補である︵形状・構造等

は持国天分に準ずる︒ただし光背は破損分離して現状では本体に装着できない︶︒

三  二天王像について

  いずれも片手を挙げ︑もう一方の手を腰にあて︑また腰を捻って︑片脚に重心をかけ︑もう一方の足を踏み上げ

て立つ︑左右対称の姿の一対二軀の天王像である︒四天王像中の二軀であった可能性もあるが︑左右対称の形姿に

くわえ︑一方が開口し︑他方が閉口するという阿吽の組み合わせになることからしても︑当初から一対の二天王像

として造られたものである可能性が高い︒各像の尊名について確証がないことは冒頭に述べたとおりである︒

  日本では着甲の天王像は四軀一組の四天王像が一般的であるが︑中国では必ずしもそうではなく︑二軀一対の像

(8)

すなわち二天王像の例が多い︒このような伝統を受けて寺門に着甲の二天王像を安置する風は︑日本でも奈良時代

にさかのぼるとみられ︑平安時代後期の﹃七大寺日記﹄﹃七大寺巡礼私記﹄には東大寺中門︑元興寺中門に二天の

古像があったことを記している︒塔が回廊の外にある大寺では︑外郭に開いた大門に裸形の金剛力士すなわち二王

像を安置し︑中門に着甲した四天王像のうちの二像を安置するのが本来だったようである︒祐天寺仁王門のように

門に二王二天を併置するのは後世にうまれた一種の省略形といえる︒祐天寺仁王門が当初から二王二天を安置する

ように計画された門であったかどうかは断定できないが︑構造からみて何らかの像を裏側にも置く意図は当初から

あったであろう︒

  もっとも︑本二天王像の場合︑像高三尺ほどの法量からすれば︑製作の当初から寺門に安置するための像であっ

たとは考えにくく︑堂内の壇上で本尊格の像を守護する像であった可能性のほうがつよい︒この種の二天王像は平

安時代前期以後の例があるが︑作例が増えるのは平安後期︑十二世紀のことで︑天治元年︵一一二四︶創建の岩手

県平泉町・中尊寺金色堂の三須弥壇各壇に安置される持国天・増長天の一対像︵

9︑永治二・康治元年︵一一四二︶︶

の滋賀県栗東市・金胎寺持国天・増長天像︵

10などの例がある︒金胎寺像には二像各像内に﹁往生極楽﹂の墨書が︶

認められ︑この時期の二天王像に拝者の極楽往生を守護ないし先導する機能が与えられていたことが知られる︒

  なお門安置の場合であれ︑堂内壇上安置の場合であれ︑四天王中のいずれの二天を抽出し組み合わせるかについ

ては︑さまざまの例がある︒

四  彫刻史上の意義

︵一︶製作年代

  二像ともに腰回りに厚みがある堂々とした体軀で︑さほど大きな動きを見せずに立つ姿は︑永長二年︵一〇九七︶

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東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

の兵庫県香美町・大乗寺四天王像多聞天︵

11や保安元年︵一一二〇︶の福岡県久留米市・大本山善導寺釈迦堂四天︶

王像多聞天︵

12︑前掲の永治二・康治元年︵一一四二︶の金胎寺二天像など︑十一世紀末から十二世紀前半頃製作︶

の天王像に通じる︒とくに金胎寺像とは二天王像として︑裙状の衣の衣文のつくり方や︑二天それぞれが外側の手

を挙げ外側の脚を踏み上げる左右対称の体勢などが共通する︒さらに二天のうち一方のみが胸部下方に布を巻く点︑

表甲下縁の飾りが一方は単純な蓮弁形でもう一方は三頭形である点︑襟当てが一方は衣文のある布状でもう一方は

それのない皮状の表現である点など︑二天間の形状に差をつける箇所もほとんど共通している︒本二像は金胎寺像

に比べると各部の形態がやや曖昧で体軀の抑揚も弱くみえるものの︑金胎寺像の造られた永治二・康治元年を前後

する頃︑十二世紀前半に︑近畿周辺で造られたものとみられる︒忿怒の表情ながらそれが迫真感にとぼしいところ

も︑体軀の動きがやや緩慢な趣を示すところも︑院政期の都の感覚を示すものといえよう︒

︵二︶形式上の問題

  表甲の内区に金鎖甲の文様を刻出するのは大本山善導寺多聞天像︵前掲︶︑保安五年︵一一二四︶の米国・個人蔵

︵ロサンゼルス・カウンティー美術館保管︶毘沙門天像︵島根県松江市・岩屋寺伝来︶︵

13︑金胎寺二天王像︵前掲︶︑︶

文化庁保管四天王像︵尼崎家旧蔵︶︵

14︑︶

分県

後高

市・

真木

堂四

天王

像︵

15︑︶

滋 賀

県大

市・

延暦

四天

王像

16︑︶

応保二年︵一一六二︶の東京国立博物館蔵毘沙門天像︵大和中川寺旧像︶︵

17︑文治三年︵一一八七︶の大分・永興寺︶

毘沙門天像︵

18など十二世紀以後の着甲像にあらわれる表現である︒九州に作例が多いとしたうえで︑その表現と中︶

国宋時代の木彫神将形像ないし武人像のなかに金鎖甲文を刻出するものがまま見受けられることとの関係を指摘す

る説もある︵

19︒地域性の問題はなお検討を要するが︑この表現は十二世紀半ば近くには中央の作例にも見られるこ︶

とは確かである︒金胎寺像のように二天像の一方にのみ刻出文様をあらわして一対の像に変化をもたせる効果をね

(10)

らったとみられる例もある︒

  なお︑本二像はともに金鎖甲文にくわえ胸甲・表甲の縁にも杉綾文を刻出しているが︑通例の彩色仕上げの着甲

像のようにここに漆箔をほどこせば︑刻出文様はみえなくなることを考慮すると︑本二像は当初は素地仕上げの像︑

すなわち代用檀像として造られた可能性がある︒

  増長天像のように脛当てを魚体とする形︑また持国天のように脛当てを付けず長靴を履く形は︑いずれも四天王

像や二天王像ではきわめてめずらしいもので︑この一対像の特色として︑ことに注目される︒

  着甲の神将像の肩部に下向きに開口する獣頭︑いわゆる肩喰いをあらわし︑そこから腕を出す例は奈良時代以来

しばしばみられるが︑魚体の形をした脛当てを付ける例としては︑他に平安時代後期の神奈川県伊勢原市・宝城坊

十二神将像︵

20四号︑鎌倉時代の滋賀県竜王町・竜王寺十二神将像卯神︶︵

21︑京都府宇治市・浄土院︵平等院塔頭︶︶

伝帝釈天像台座に配される四天王像中の広目天︵

22が挙げられる︒またやはり鎌倉時代の京都市・妙法院蓮華王院︶

本堂二十八部衆像沙羯羅竜王は膝下に下向きに開口する魚かとみられる頭部を配して︑そこから脛以下を出してお

り︑この形は全体の姿形とともに後世に多く踏襲される︒

  図像をみると︑長寛二年︵一一六四︶に絵仏師長覚房定智が唐本から写し︑高野山月上院の玄証が所持していた

ものといい︑定智本と通称される十二神将図像︵

23中の巳神︑正平十四年︵一三五九︶写しの高野山金剛三昧院本︶

﹁二十八部衆幷十二神将図﹂中の金毘羅陀︵

24がそれぞれ祐天寺増長天像と同様の魚体の脛当てをあらわしている︒︶

前掲の宝城坊十二神将像一具は定智本十二神将図像を立体化したもので︑四号は図像の巳神に対応する︒ただし宝

城坊像四号の脛当ては明確に魚体として表現されておられず︑図像の形態を簡略化したものとみられる︒定智本

十二神将図像の卯神は両腕を魚体の口から挿し込み︑尾の部分から手首先を出す形で︑宝城坊十二神将像八号はこ

れを立体化している︒定智本が唐本の写しであるとされることに鑑みれば︑この種の表現は平安時代後期︑十二世

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東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

紀に中国宋から流入した図像を典拠としたものであろう︒本二天王像増長天は︑宝城坊十二神将像四号・八号とと

もに︑そのごく早い時期の彫刻作例ということになる︒

  持国天に見られる長靴は一方の魚体脛当てと対照的にあらわすための道具立てとみてよいが︑これにも魚体脛当

てと同様の典拠があった可能性がある︒なお魚体形の脛当てではないが︑平安時代後期︑十二世紀頃の京都府和束町・

観音寺毘沙門天像︵

25は履き口を上向きに開口する獣頭形にかたどった長靴を履く例︑鎌倉時代︑安貞二年︵一二二八︶︶

頃の東京都・静嘉堂文庫美術館十二神将像︵京都府木津川市・浄瑠璃寺伝来︶︵

26丑神は同様に履き口を開口する獣︶

面にかたどった浅い靴を履く例で︑これらも本二天王像と同様の図像との影響関係があるものとみられる︒

︵三︶江戸の寺院の尚古趣味

  最後に︑いわゆる仏像史とはやや異なる問題にも触れておく︒二天王像は伝来の項に記述したとおり︑享保二十

年︵一七三五︶に建立され︑金剛力士像二軀を安置した仁王門両端の間の裏側に︑門の建立︑金剛力士像安置から

四十年遅れた安永四年︵一七七五︶に安置された古像である︒安置の記録には﹁運慶作﹂とされたが︵

27︑平安時︶

代後期の作であることもここまでにのべたとおりである︒これに類する例として︑東京都荒川区・養福寺仁王門の

例をあげておこう︒養福寺仁王門には両脇の間正面に金剛力士像を安置し︑その裏面には二天王像を安置する︵仁

王門︑金剛力士像︑二天王像︑いずれも荒川区指定有形文化財︶︒金剛力士像には宝永五年︵一七〇八︶正月から

五月にかけて造立したむねの銘札が納入されていて造像年代が知られ︑仁王門も同時期の建立と推定されているが︑

二天王像は構造技法・作風から︑いずれも平安時代後期︑十一世紀ないし十二世紀の製作と考えられる︒二像間に

は︑左方像は比較的穏やかな洗練された観があり︑右方像は力強くやや素朴な観がある︑というように︑作風に多

少の相違がある︒山本は想像をたくましくして︑京畿周辺で製作された左方像と︑東国で製作された右方像が︑た

(12)

またま法量が適合することから一具として組み合わされた可能性をみている︒

  二天王像の門安置は︑祐天寺では門の建立や二王像の新造・安置から四十年遅れてのことであるし︑養福寺では

門や二王像と同時か否か明らかでないが︑いずれの場合も門の構造からみて何らかの像を二王像の裏側に安置する

意図が当初からあったことは確かである︒そこに平安古像を安置することが共通しているのは︑単なる偶然とは考

えにくい︒

  近世に幕府が開かれて大都市となった江戸には他地域から由緒ある古像が移されることも少なくないが︑その例

としてもこれらは興味深い︒なお類例を収集する必要があるが︑江戸時代の江戸における一種の尚古趣味のあらわ

れとして評価する視点をもってもよいのではないかと思う︒

大学非常勤講師︶︑増田政史︵東京文化財研究所文化財情報資料部研究補佐員︶︑西川真理子︵埼玉県立歴史と民俗の博物館

1

︶調査団の構成は下記のとおりである︵所属はいずれも調査時︶︒山本勉︵清泉女子大学文学部教授︶︑萩原哉︵武蔵野美術

学芸員︶︑中尾綾子︵東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了︶︑花澤明優美︵清泉女子大学大学院博士課程人文学専攻︶︒

  三月大東出版社︶︒  

2

︶﹃明顕山寺録撮要﹄巻二﹁仁王門矢来門造立幷表門口附替等之事﹂︵祐天寺研究室編﹃祐天寺史資料集﹄一上二〇〇二年

︵享保二十年︶

  四月十一日晴天︑表門今の仁王門なり   上棟規式畢而︑惣衆出勤︑四奉請︑護念経︑念仏廻向︑普請奉行永井三右衛門其外︵後略︶︵

3

︶﹃明顕山寺録撮要﹄巻二﹁二王安置願之事﹂︵注

2

前掲﹃祐天寺史資料集﹄︶︒

︵享保二十年︶一 八月廿三日︑仏師采女方四月中申付候二王成就付︑手前より人足六人遣し︑永井三右衛門手代三人︑已上九人ニ而夜五時過︑先ツ一体取寄セ申候︑又︑同廿六日之晩︑右之人数ニ而采女︑三右衛門同道︑夜五時一体参着︑右二王御

(13)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

腹内江板札御納︑書付如左︑

︵中略︶今

︑至

門閣セント二王尊

︑在

大檀那  竹姫君忝所願営為︵後略︶

︵元文三年︶一 三月八日朝小雨︑四時より快晴︑二王安置供養之法事巳中刻︵後略︶

4

︶各像像内首䈂部に左記の墨書がある︒

︵阿形︶

  明顕山招蓮社香誉上人

南無阿弥陀仏祐天寺二世祐海︵花押︶

  執金剛神江府住人法橋石見造為

      時享保廿乙卯天

︵吽形︶

    享保廿乙卯年夏

南無阿弥陀仏祐天寺起寺祐海︵花押︶

    執金剛神

御 影

       両体之内    東都大仏師法橋

5

︶注

3

前掲﹁二王安置願之事﹂加筆部分︒

6

︶注

3

前掲﹁二王安置願之事﹂加筆部分︒

7

︶その他の法量は左記のとおりである︵単位

cm

︶ ︒

持国天増長天

  髻頂︱顎

七・

一九

・九

  頭頂︱顎

三・

一四

・五

面 長︵天冠台下より

一〇

・八

〇・

  面 幅

九・

九・

(14)

  耳 張

〇・

一〇

・二

  面 奥

二・

一三

・一

  胸 奥︵左︶

四・

一四

・三

  胸 奥︵右︶

五・

一四

・七

  腹 奥

九・

一八

・九

  肘 張

七・

四九

・四

  大袖裾張

六・

五一

・〇

  足先開︵内︶

二・

一七

・四

  足先開︵外︶

八・

二四

・九

8

︶構造の判定については調査時の目視による観察のほか︑報告書提出後︑二〇一九年四月十七日・十八日の両日︑東京国立

博物館で実施した

X

C T

撮影でえられた画像を参照した︒後述する保存状態についても同様である︒

9

︶浅井和春﹁二天王像︵金色堂中央壇安置︶﹂﹁二天王像︵金色堂西北壇安置︶﹂﹁天王像︵金色堂西南壇安置

︶ ﹂︵ ﹃

中尊寺を中

心とする奥州藤原文化圏の宗教彫像に関する調査研究﹄︹平成十二・十三・十四年度科学研究費補助金基盤研究︵

A

︶ ︵

1

︶研

究成果報告書︺所収︶二〇〇三年三月  研究代表者有賀祥隆︒︵

10

︶井上正﹁持国天・増長天像︵金体寺︶﹂︵丸尾彰三郎他編﹃日本彫刻史基礎資料集成﹄平安時代造像銘記篇三所収︶一九六七

年十一月  中央公論美術出版︒

11

︶根立研介﹁調査報告兵庫・大乗寺木造薬師如来像一軀木造四天王立像四軀﹂︵﹃京都美学美術史学﹄一︶二〇〇二年三月︒

12

︶八尋和泉﹁筑後大本山善導寺の仏像﹂︵﹃仏教芸術﹄一四四︶一九八二年九月︒

13

︶岩田茂樹﹁毘沙門天立像︵個人︹ロサンゼルス・カウンティ美術館保管

︺ ︶﹂ ︵

﹃特

別展

毘沙門天︱北方鎮護のカミ︱﹄所収︶

二〇二〇年二月  奈良国立博物館︒︵

14

  ︶田邉三郎助﹁旧尼崎家蔵四天王像﹂︵﹃国華﹄一一六六︶一九九三年一月︒

末吉武史

﹁木造四天王立像

︵文化庁保管

︶﹂︵﹃黎明館企画特別展

かごしまの仏たち︱守り伝える祈りの造形︱

﹄所収︶

二〇一七年九月﹁かごしまの仏たち﹂実行委員会︒︵

15

︶注

14

前掲田邉論文︒

(15)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

16

︶猪川和子﹁四天王彫像︱十世紀の基準作例を中心とする形制の考察︱﹂上︵﹃美術研究﹄二六三︶一九七〇年二月︵﹃日本

古彫刻史論﹄所収  一九七五年  講談社︶︒︵

17

︶ 水野敬三郎

﹁毘沙門天像

︵川端紀美子︶

﹂︵

丸尾彰三郎他編

﹃日本彫刻史基礎資料集成﹄平安時代造像銘記篇四所収︶

一九六八年四月  中央公論美術出版︒

岩佐光晴﹁川端家寄贈の毘沙門天立像

﹂ ︵︵ ﹃

﹄五九二︶二〇〇四年十月︒︵

18

︶八尋和泉・副島弘道﹁毘沙門天像︵永興寺︶﹂︵水野敬三郎他編﹃日本彫刻史基礎資料集成﹄鎌倉時代造像銘記篇一所収︶

二〇〇三年四月  中央公論美術出版︒

19

  ︶井形進﹃九州仏像史入門︱大宰府を中心に︱﹄二〇一九年二月海鳥社︑一六三〜一六五頁︒

20

︶山本勉﹁宝城坊本堂十二神将像考﹂︵﹃﹄五九四︶二〇〇五年二月︒

山本は宝城坊梵鐘の暦応三年︵一三四〇︶記陽鋳銘に︑院宣による鐘改鋳の年紀としてみえる仁平三年︵一一五三︶頃を︑

この十二神将像の造像時期に想定している︒︵

21

  ︶中野照男﹃十二神将像﹄︵﹃日本の美術﹄三八一︶一九九八年二月至文堂︒

22

︶神居文彰﹁伝帝釈天立像台座四天王﹂︵口絵解説︶︵﹃鳳翔学叢﹄一二︶二〇一六年三月︒

23

  ︶島田修二郎編﹃欧米収蔵日本絵画集成在外秘宝仏教絵画大和絵水墨画﹄一九六九年九月学習研究社︒

錦織亮介﹁玄証本薬師十二神将図小考﹂︵九州大学文学部﹃哲学年報﹄三二︶一九七三年三月︒

24

︶﹃大正新脩大蔵経﹄図像七︒

25

  ︶岩田茂樹﹁毘沙門天立像︵京都観音寺︶﹂︵前掲﹃特別展毘沙門天︱北方鎮護のカミ︱﹄所収︶︒

26

︶奥健夫・皿井舞・山本勉﹁十二神将像︵静嘉堂文庫美術館/東京国立博物館︶﹂︵水野敬三郎他編﹃日本彫刻史基礎資料集成﹄

鎌倉時代造像銘記篇一六所収︶二〇二〇年二月  中央公論美術出版︒

らはさまざまの像種におよぶものの︑金剛力士像や二天王像などがめだつことを指摘している︒祐天寺像についても︑もと

27

︶根立研介は︑仏像作者名の伝承を論ずるなかで︑近世の京都の地誌類から伝承作者を運慶とする多数の仏像を挙げ︑それ

の場所ですでに運慶作と称されていたものが移された可能性もあるであろう︒

根立研介﹁仏像制作者名の伝承・忘却・変容﹂︵﹃仏像制作者の伝承と﹁名付け﹂をめぐる研究﹄︹平成十六〜十八年度科学研究費補助金基盤研究︵

C

︶研究成果報告書︺所収︶二〇〇七年三月研究代表者根立︒

(16)

︹付記︺  本稿掲載の図版は︑調査時に萩原哉氏が撮影したものである︒

  祐天寺二天王像調査および本稿作成にあたっては︑調査団にくわわっていただいた諸氏のほかに︑祐天寺研究室

の皆様︑目黒区教育委員会生涯学習課文化財係の坂和雄係長︑宮田奈津紀氏︑東京国立博物館保存修復課調査分析

室の荒木臣紀室長︑宮田将寛研究員から格段のご高配をたまわった︒しるして深甚の謝意を表する︒

(17)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

図1 二天王像 二軀全像

(18)

図2 持国天 全身正面

(19)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

3 持国天 全身右斜側面

(20)

7 持国天 全身背面

図6 持国天 全身左斜側面

5 持国天 全身右側面

4 持国天 全身左側面

(21)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

11 持国天 顔右側面

10 持国天 顔左側面

図9 持国天 顔正面 図

8 持国天 顔左斜側面

(22)

図12 増長天 全身正面

(23)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

13 増長天 全身左斜側面

(24)

17 増長天 全身右斜側面

16 増長天 全身背面

15 増長天 全身右側面

14 増長天 全身左側面

(25)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

21 増長天 顔右側面

20 増長天 顔左側面

19 増長天 顔右斜側面

18 増長天 顔正面

(26)

22 持国天 像底

23 増長天 像底

(27)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

図27 増長天 表甲の刻出文様(右側) 図

26 増長天 表甲の刻出文様(左側)

25 持国天 胸甲・表甲の刻出文様(右側)図 24 持国天 胸甲・表甲の刻出文様(左側)

(28)

31 増長天 脛当て(右足分)

30 増長天 脛当て(左足分)

29 持国天 長靴(右足分)

図28 持国天 長靴(左足分)

(29)

東京都目黒区・祐天寺仁王門二天王像考

Consideration of the Statues of NITENNO at NIO-MON Gate of YUTEN-JI Temple in Meguro-ku, Tokyo

YAMAMOTO Tsutomu/HANAZAWA Ayumi

Abstract

  The Meguro-ku Board of Education entrusted the research group repre-

sented by YAMAMOTO Tsutomu with research in the art history of wooden standing statues, NITENNO (Two Devas) housed in NIO-MON Gate of YUTEN-JI Temple (Na- kameguro, Meguro-ku, Tokyo) in order to confirm their values as cultural assets, and the research was conducted in December of 2018. The research results were orga- nized and written jointly by YAMAMOTO and HANAZAWA Ayumi and submitted to Meguro-ku. This paper reorganizes the contents of the report with, some subsequent findings added.

  The NITENNO statues had been installed on the back side of NIO-MON Gate,

YUTEN-JI Temple until 2013. The construction of NIO-MON Gate was completed in 1735, and a religious service for the KONGORIKISHI-ZO statues (NIO-ZO statues) enshrined on the front side was held in 1738. The NITENNO statues are known to have been enshrined at the gate in 1775 according to a record. Since the record men- tions “created by Unkei” as a pretext that the creator was the Buddhist image sculp- tor Unkei, the statues are recognized to be old, but its history before the enshrine- ment is not known.

  The two statues are considered to have been created in or around the Kinki dis-

trict in the late Heian Period, that is, about the first half of the 12

th

century. They stand symmetrically at the current positions, with the outside hands raised and the inside hands at their hips, respectively, twisting the bodies at the waists with weights on the outside legs and raising the inside legs that they are stepping on. They could have been two Shitenno-zo statues, but in view of the symmetric posing and the com- bination of one with the mouth opened and the other with it closed, which is “A-UN”, there is a good possibility that they were created as a pair of Nitenno-zo statues.

Since they are small statues, they can hardly be such statues as to be enshrined at the

gate, but are presumed to be statues for guarding a principal-rank image on the dais

in the main hall. The carving-out of a pattern of KINSAGO (armor made by braiding

chains) on the surface of the armor is an expression appearing on statues wearing ar-

mor in the 12

th

century and after. One of the statues has fish-shaped greaves, while

(30)

the other wears boots without greaves, which is very rare. This style is considered to be based on paper images from Song, China in the 12

th

century and is a very early sculpture example. Another point is that the two statues are examples showing that old statues of the Heian Period were enshrined in Edo at the gates newly constructed in the Edo Period, but similar examples are also found in other temples in Tokyo Met- ropolitan. This can be recognized as a respect for old days in Edo in the Edo Period.

  The two statues exhibit various issues to be examined in the future in the study of

the Japanese sculpture history and are examples that have great significance.

Key words: Statues of Nitenno, Influence of China in late Heian period, Respect for

old days in Edo period

図 3 持国天 全身右斜側面
図 7 持国天 全身背面 図6 持国天 全身左斜側面
図 11 持国天 顔右側面 図 10 持国天 顔左側面
図 13 増長天 全身左斜側面
+6

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