奈良教育大学学術リポジトリNEAR
学習指導の二類型とその統合 ―基礎学習に於ける 学習能率より見たる―
著者 佐伯 正一
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 2
号 1
ページ 105‑109
発行年 1953‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5157
学習指導の二類型とその統合
基礎学習に於ける学習能率より見1こる
佐 伯 正 一
I
現代学習に於ける二つの指導渾型として経験主義的なものと、教材主義的なものとがあること は周知の事寒である。もちろんこの二つは天きくは教育そのものの顆型であって、いずれを探鳥 べきか性教育そのものに対する構想や、それの釈抵をなす人間観、祀会鶴や認識論、存在論、置 理論等に対する立場によって左右される。すなわち教育に於て個人の完成を主体にするか、客観
的文化の樽達を螺調するか、また眞埠はそれ自身で偶人を放れて客剋的に存在するか、個人の行 鳥によってはrめて成立するものであるか、という杖な経験主義そのものの性格が問題になるこ とはいうまでもない。しかし忍が今ここで考察しようとするのは、この放た経験主義そのものの 葛寮やそれにもとすいて、いかなる教育の在り方が愛当であるかという杖なことではなくて、む しろ両方のI赴き方が現在教育界で探られているという事実を新興として、両者を学習そのものの 碑制(mechanism)に照らして考察したいのである。しかもその焦点を基礎的知識や技能の画 からみた学習能率という点に於て考察をす1めたいとおもう。なぜならば駐独主義に於ても教材 すなわち文化財を否定するものではなく、それを媒介として紅粉の再構成や発展を意図するもの であり、辞無主義的方汝による方がかえって二基礎的知識や技術そのものの修得も能率的であると 毛筋するからである(もちろん経験主義教育はたんに客鶴的文化の修帯や啓達よりも主体の釦迫 的軍陽的繹鱗を琴線するものであるが)。たとえは:ミProgressive Education、の1951年10 月号には、いわゆる技術教科を孤立させて、学習者のneedや生活繹際と燕罵蘭にインドクトリ ネイトしてゆく侍祝的小学校と、無形式な柔敢なカリキュラムによって、学習者C)needや生活 縮勘こ とすいてユ礎的知識技能を暫得させる蓮.歩的′小学粒から、それぞれ年令、知能、社会的 脊意の等しい了供をもって瑚(ツイ)を作って、読み、綴り、言語、算術の学力について、アチーヴ メント・テス1、によって比較したところのWrightstone の研究が載せてあるが、その結鼎をみ ると、いすれの方面の学力に於ても進渉的小学柁の生徒の方が倍坑的小学柁の生徒よりも、かな りすぐれた戚符をあげているのである。この研究はいうまでもなくスリーアールズ式の従来のい わる基礎学力についての調賽であり、今日進歩炭の人達はこの杖なスリーアールズ式の基礎学力 なるものに餅い批列をあぴせている事も事実である。たとえば C.Reidなどほ現代生活の基礎 的技能Cbasic skill)は 3R,Sではなく、Communieation,Computation,Cooperation,
Cltizenshipであらわされるところの 4C,SでなければならないZ:いっている(】)がこの枚 な基礎学力そのものに対する批判はこ」でほ別間竃としても、ともかく在来のいわゆる霊捷学力 の暫得に於ても慮撥主義の方が能事があがる事を童張しているのである。しかしこれに対して樽 政的学習方港を貴顕する側から、い法ゆる露扮主義的学習は基礎学力を低下させるという批邦が 出ていることも周知の草葉である。したがって私が今ここで述二べようとするのは二、この二つの指 導顆型が学習のメカニズムに照らしてみた場合、どんな差異をもち、学習の能率化に如何なる影
響を及ぼすかということである。
‖
モもをも学習指導という事は如何なることであろうか。それはいうまでもなく、ある学習(すな
わちSeinとしての学習)を、あるべき焉一暫(すなわちSollenLとしての学習)に匿わせること であると恵もう。それはあたかも、骨ってKrieckなど教育科学を提唱した人達絹業題としての 教育を問題にする前に、研喝としての教育を探求し、そこに見出されるところの詰問堺や認許別
をもとにして課題としての教育法岩察され、建設さるべきであると主張した杖に、学習指導はま す何処にでも、誰にでも存在するところの学習清動をもとにして、その上郡借主豊として課題とし ての指導がおこなわるべきものだとおもう。捉嚢の「教授学」(Didaktik)はこの存轟として の学習の構造が此班的等閑硯せられて、いきなり評議としての敦投が取扱われた観があるのて焦 なかろうか。たとえはfIerbart浜の教授投階などは可なり学智のメカニズムを究めたかにみえ るが、その場舟は主として黄体の意識内における認識過程だけが問題にされ環境との和瓦作用の 甥が省みられなかった(当時としては己むむ得ねことかもしれないがノ すなわち学部のメカニズ ムに関する考究が不十分であった所以であり、またこの事が音吉局期る段階が棄てられたけれけな らなくなった理由の一一づであるとおもう。斯くして学習指導叉にそれを嘗巌虻に考察すべ㌣学習 指導学は、何よりもます存在としての学習のメカニズムをきわめ、断る学習に加持こして指導が 加えられるかを考察する必要があろう。
以上の杖にみてくるとつぎの問題は学習のメカニズム如何といいうことになるが、この場′奇、
さきにも一寸のべたように、主体の菅遇円の問題として学習を取扱うよりも、ます環境との舶互 作用の場が考察されなければならない。すなわち主体焦この注な甥I二重て新しい石動を嘩給した
;フ、行動を固定化したりするのであって、これが賃菜の掌増す青わち存在としての学部である。
生活経験としての学習である。Deweyは周知のように環験の龍および横の方位(aspect)と して遭筏と相互作馬の二原理をあげている(ご1。 すなわちます丁子十弊車:遁鍔的な流れであると いうことができるが、しかしこれは主体の音譜の遠視を甘味するものてはない。たんなる主体の 甘謎の連投ならば甥沌::Eerbart の教授撃がそれにもとすいていると云うことができる。すな わち根が教授は常に生徒の既有の紅粉をもとにしておこなわれたけれノにならないという曙そして 学校に入学する前に子供:ますでに自然についての知識(Kenntniss)を得ておりまた親や兄弟や 友人との交際によって人間に対する心情(Gesinnung)を得ているから掌代における教授田町か る経験や交際による知識や心情にもとすいて患こなわれなけ頼づこならないと説く曙(3)また学 習とは結局以前の経験が新しい経験を同化することであり、教授と!二)ここの杖な同化がおこなわれ 易い標にするために既有の拝珊すなわち且想田(Gedankenkreis)を肋たかにすることである と述べるとき、そこに詮かれているのは学習主体の連投にもとすいたものであると考えられる。
このようにして革に達段を云々するならばHerbartのノ望、悪が既にそれによっているともいえ るであろうが、しかしこ1にいう通読はこの杖な宅体の音隷(時間的に芸化するところの)の各一点 を結び合せて級を作るところのいわば紋的達哉で焦なくして、毛体と環境との相互作用によって 形成されている学習の場の遠視で、それはさきの緑紆重蔵に督して降板と甘粕とが結存されて生 する杖ないわば円柱的達虜ごある。斯る達接した場に於て主体は環境との粕正作相によって、自
らの中に盃を生じ、この盃を除去して平衡を侠復するために何等かの行動酎雲をたて環童に働き かえし叉環境から作用されてゆく過程がすなわち存在としての学習であり、有枚体の放寵として の扱能的学習なのである。
丑
そこで−r二道の酷封舶紬帯署櫨借溝日柄_られるという事HJ接写味するであろうか。それり:
云うまでせなく以上のど甥のメカニズムに何等かの方法で外部から−告聖を加えることによって重 体の石動を票化させようとするものである。もちろんこの場在室体つ行動を票えろということは 敢育的にみて二つの晋味をもっているっ一つに行動の方周を竺浪完ことであり、他は行動の接受 を誓えることである。前骨ゴこ飾り拙筆でもり、笹骨ま葺の問題亡ある。前書性教育目的につらな る問題であり、後骨1学習のメカニズムに矧する聖書指導それ白身の問題である。
ところでを紅で持主株の行動を誓えること:ごl∴如何しこして可能で怒ろうか。直接主体の行動に人 工的作用を加えろことが不可能でごろことリ:、上辻グ〕学習のメカとズムに照らして明かである。
すなわち可能な遺骨、門才だこその聖子打撃の当に人工的賢撃を加えることである。すなわち自然 の生活雀鱗の場に牲部的人工的彗菜を入れることによって、主体に新しい歪を生ぜしめたり、ま た歪の杖相を誓え、そして以}二行動R控を生ゼしめたり「「化させたりして望ましい行動を起さし めるのである。したがって指導された聖書と指等されない学習(粍龍的学習)とは目的の有無に よって細別されろべ㌢で焦ない。如何な封舌戦もそれ・が富歳的行動である以上常に目的をもって いる。ただその日的右自然生品こおける口蛤亡あるか、人工的歪による目的であるかである。た とえば学習活動の成果そのものを口ぎす行動は比較的自然的目的をもつものであり、外部的動戦
(たとえは賞罰の如き)にもとすく行軌]二人工的要崇が場を描く支配していると考えられる。
ところでこの程にしノて甥に外部的人工的㌣望菅輿える場合、その輿え方は−u一株ではない。それ 胱学習の現が現t甘葛で成り立っているもので蛇なくて、その場の脊後にはより漂い基体的な場 があるからである。云h較たれで、雪 吾の場はすべて等賢で焦なくて、キ休を中心にした幾つか の同心円を描き、そのうちで中心に矩いもの程、主体への作用カが大であると考えられる(この 同心円の洋続がさきに撞べた円柱で志る)。中心㌣貰い学習の場は斯くて、より貰い周辺的な(ま た扶翼体的な)場ノトら切 とられたところの−一部であるにすぎない。そして前著が主体の動きと 共にその時その時に票化してゆくに対して、後空はより恒常的であり、より包括的である。
そこで外部から人工的一影響が加えられる晴二つの方法が考えられる。すなわち第一一はその時そ の時の場(瞳曙的学習事態とも云うべきもの)に貰霊を加えることであり、第二性脊後の遺体的
な場に業容を加える場合である。拙著は云わけ陪銃的方法で狭義のインドクトリネーションとい えるであろうし、接骨]:新しい方法で庄愴主義的(或は生活主義的)方法ということができるであ ろう。もちろん闊方の場合と 牲郡的影響の横さが考えられる。すなわちそれぞれの場に非常に 強い千三響が加えられることも親しけ弱い影響を及ぼすこともある。愕銃的なインドク1、リネイト する方法は瞳時的聖潤事態に非常に坤ハ外割的告響を加えることごあった。たとえば命令や強制
による聖曹である。もちろん裡ろ現有にも命令からただちに学習という行動が生するのではなく、
命令によって学.智者に活榊的孟三が生じ、その歪を除去せんがために、ある結果を酎旨して学習行 動が生するのである。 Billett が月的は割当てられないが割当は目的になるといったのはこの 甘味である(4)。 すなわち主体の行動日的そのものを命令したり強制したりすることはでき ない。何故ならば外部から拷制され・た呂的法主倖こ(学習者)に対する環境(強力で!まあろうが)
を構成するだけて、それが掌智者にとって果して行男の目的となるか香か聡、主体との作用関係 によるからである。この作訂関係の如何によっては、如何に外部から削勺が強制されてもそれは 童徐の行動日的闘まならない場奇がある。
Ⅴ
そこで上述の既に二柾の指導方法(すなわち外的人工的影響の加え方)がもろとすれげその各 々に於て学習能率が如何に興るであろうか、とい 問顆が攻に宕寮封 なければならない。その ためにはます何が常習能率を左右するかを桧討してみることが必要亡あろう。Woodruff は学 習の速度を規定する要田として問題の性質、動駅の程壁、学習者の能力、の三つをあげている(5)。
もちろん Wooruffのいう学習羅変(それは一つのまとまった行動が習得されるまでの時間をい う)と私のここに取扱っている学習能率とは、その甘味が重く一致しているものでない。しかし 彼のあげている要田は我の場合にも考察の手涯lりを堪えると且あれる(能率を左右するものは以 上の外に疲労とか記憶の諸陳件とかの心理学的諸要素はあるがこ1では省略する)。すなわち学 習能事を規定する要因としては、(1)学習事態(Woodruff の「問題の性質」に対慮する)、
(1)動機の程度、(3)学習者の能力、を一腰あげることができる。しかも教育上の問題として は、このうち(1)と(3)とは相互間係においてみなければならない。すなわちその時の学習
∃丁態が学習者の能力や既有の経験より造かに高いものを要求するものであってはならないし、ま た博一レベルのものであってもならない。すなわち学習者の能力や既有の経験とその学習事態と の間の「隙」(gap)または「喰い遭い」(discrepancy)が勒馬になる。したがって学習能率を 挽壱する要因は第一にこの「喰い違い」であり、筍二に動機の強さすなわち日的憲蔵の強度であ ると思われる。そこでますはじめに第一の「喰い遣い」の方について考察をすすめてみよう。一 般的にいうとこのdiscrepancyが大になればなる程、学習量がr七になるがしかし、この大きさ が或る一定量に達すると限界点を生じ、それ・以上になれば目的が放棄されてしまう。したがって 学習量を天ならしめんとすればこの限界点を引き上げる事が必要になる。しからばこの限軋点の 付置を規定するものは何かというと、これがさきに第二の要因としてあげた剛勺晋講の猫度亡あ るとおもわれる。すなわちF摘勺音誠が張けれげ眼孔点は高くなり、逆に日的音識が弱け和は弔い 程限乱射は低くなるのである。
程布の教材主菜の学習構造に於ては、一般に目的意識が強くなく、したがってこの限界点が低 いにもかかわらず寒際のdiscrepancyは大きかった。それ故ややもすれば目的は及賀され膠ちに なり学習能率は上らなかった。しかしこの場舟も少数の音旨カや経験のレベルの高い学習者にあっ ては、このdiscrepancyが小さくなっている筈であり、したがって学習効果はあがったわけで ある。また連に連体的な学習の場に人工的影響を加えようとする経験キ義の学習は、削勺普通は 強くしたがって眼孔点は高いにもかかわらず、実際のdiscrepancyは小さくて効果の上らない 場合が屡々ある。いわー少る経験学習があまいとか′同一レベルの地華をはいまわるとか云われる 所以はこ1にあると思われる。
そこで学習能率を黄も高めようとすれば、目的晋蔵を強くしてこの限界点を高め、しかもdi−
SCrepanCy を大きくすることが必要である。このためは二つの方法が考えられる。すなわち教 材主義の級に澹いながら、しかも日的音誠を強くする方法と、経験主義的な方法を探りながらし かもdiscrepancyを高めることとである。前者l′]こたとえば刺戟的質の枚な強い外部的動機を輿え てR的甘誠を高め、しかも教材主義的な指導をする方法である。そしてこの方法が学習効果をあ げていることは事実として或程度認められるがしかし斯る方法には二つの問楓だがある。すなわ ち第−一一は斯る外部的舶載を常に典えることは方法的に不可能であるということである。同一判戟 物は常に興えられると幸作への影響力を射められる。そこで剰戟物の影響力を蝶く保持するため 和ま:Kilpatricli の云う杖に教師は常により寮い刺戟物を捜し辿らなければならなくなD、斯
くてはいわゆる軟教育(soft pedagogy)が賂零される(6)−叱賛、批雑、碍制という樗 な利報に訴える教育も SOft pedagogy と方向は反軍であるけれども、学習に対しては重く同 一のメカニズムをもつものごある−つぎに間温点の第二はこの性な瞬時的学部事態に撞く外部 的人工的影響を加えると、それは甘体的学習の場から切り離されてしまい、このことが絶えずお
こなわれれば路に間者が不連続となり、被教育者の生清がまったく二元化することになる。
そこで間巌は後者の方すなわち経験主義的な方法をとりながら、しかもdiscrepancyを天なら しめることになるが、これがための敢良の方法は草体的な場そのもののレベルを高めることであ る。すなわち生活環境の文化レベルが高いことが液も望まれるのである−この事は逆に云えば 文化レベルの低い生清環境(たとえば都市に比較した場合の田合の如き)にあっては経験主義学 習に於て能率を高めることは、文化レベルの高い環境に於けるよりも田津であることが指摘され 得る−しかし斯く生活環境の文化レベルを高めることは一腰教育の直接任務ではない。したが って可能な方法はさきに述べた同心円の、より周辺的なものに人工的影響を加えることである。
例えば外国語の学習に於てはそのための規定の学習時間(瞬時的学習の場)だけでなく、それの 基体をなす生活の場にそれの使用や必要を酔り込むことである。しかしこの様な指導法にもデ見巽 に於て制約がある事も認めざるを得ないであろう。したがって経験主義的な指導昼型を採りなが らも、しかも瞬時的学習の場にも或る株安人工的影響を加えることが必要になってくる。換言す れば可能な限り薬体的学習の場に人工的影響をえ輿、必要な限り随時的学習の場に人工を加える
ことである。これは経験一教材的ともいうべき指導樽型である。そしてこの様な指導好型が可能 な斌班は上乗述べきたった如く、それぞれの珂型は作用の場を異にしているということである。
(あとがき−最近我因に経験主義教育が移入されるや、この杖な教育原理と廣乗の知識主義的 教育原理とを止揚する試みが必然的に行われている。そして散開今後の教育会の道命はこの止揚 が如何なる形で行われるかにかかっているといっても過言ではないと′誓、う。しかし斯る止揚は主 として教育哲学的な面かち試みられてきた。私のこの小論も斯る止揚への一つの試みであるが、
しかし主として等証的な画(教育心理学的ともいうべき)から考案してみたのである。したがつ 斯る考察はそれ白身で酎杜して十分なものにはなり得ず、云わばより包括的な止揚への手掛りを なすに過ぎない。)
註(1)Progressive Education′′,Oct.,1951.
(2)J・DeNey,〝Experience and EducatlOn〝,193R,p.42.
(3)J.F.Herbart,′′Umriss PZidagogischer Vorlesungen′′(S五mmtliche Werke
VOn G・Hartenstein,1851,Zehnter Band),S.198.
(4)R.0.Billett,′′Fundamentals of Secondary−SchooITeaching〝,1940,p.105.
(5)A・D・Woodruff, ′ThePsychologyofTeaching′′,1948(SeCOnd edition),p.72.
(G)W・H.Kilpatrick.′′Foundations of Method′′,1925,Chap.X..